「それじゃあ、マロン。その…行ってくるね?」
「うん…。行って、らっしゃい…」
そう、なんとか言葉を返すだけで精一杯だった。
気遣わしげに見やる ゆりかの視線を避ける様に、マロンは部屋の隅で顔を伏せる。
ボクは悪くない。
ゆりかは何度もそう言ってくれたし、マタタビなんて持ち出した彼女が悪いと言われれば、ボクだってそう思う。
それでも、思い出してしまうんだ。
くしゃくしゃになった ゆりかの顔。
ボクの精液と、ゆりかの愛液とが混ざりあった、イヤにドロドロとしたあの感触。押し倒した彼女を見下ろしながら、真っ先に感じたのは心配ではなく興奮だった。
所詮ボクはネコなのか。
人の体を貰った所で、人になれたなんて思うのが烏滸がましいのか。
いっそ、ゆりかに責められた方が楽だったのに。
マロンは悪くないって言われてしまったら、ボクは謝る事すら出来なくなる。
遠のいていく足音と、玄関の扉が開く音。
「行ってきます」と言いながら、途中で足を止めた ゆりかが、何処を見ているのかは なんとなく想像がついた。
多分、いま窓から顔を出せば彼女と目が合うんだろう。
5秒、10秒と、時間が経つ。
その内に諦めたのか。再び歩き出した ゆりかの足音が、何処にも聞こえなくなるまで、ボクは部屋の片隅で膝を抱えたまま、動くことすら出来なかった。
ー
そんな事を何日か繰り返したある日。
ゆりかの気配がなくなった後。リビングに降りると、いつもの調子で迎えてくれる母親の姿に少しだけ安心してしまった。
「おはよう、マロン」
「うん…おはよう」
だけど、それがあんまりにもいつも通り過ぎて少し怖い。
気づいてない訳がないんだ。いつものケンカと流すにしたって、いい加減に何か口を挟まれても良い頃だと思う。
その時、ボクは母親になんて言えば良いんだろう?
ゆりかを傷つけちゃったって、正直に言える自信はない。
でも、このまま何も言わないでいるのも胸が苦しい。
「あの…なにも、言わないの?」
罪悪感に負けて口が開く。
怒られたって仕方がない。いっそ、引っ叩かれれば少しは気分も楽になるんじゃないかって。次の母親の言葉を待つ間、ボクは自分の尻尾を抱えながら小さく震えていることしか出来なかった。
「何かって…。ちゃんと仲直りできそう? とか?」
けれど、恐る恐るに待ち望んだ母親からの言葉は、あんまりにもケロっとしたものだった。
「え、あの? ゆりか…なにも、言ってない?」
「大丈夫だからって、さ? 今度は派手にケンカしたわね、あなた達?」
ゆりかが言いそうな事だと、母親も思ったんだろう。
流石にそれを信じる訳もないが、一応は娘の言葉として胸に留め置いてはいた様だ。
「別に…ケンカしてる訳じゃ。ただ、ボクが…どんな顔していいかわからないってだけで」
ボクからちゃんと話すべきなんだろうか?
だけど、ゆりかが隠したがった事をボクから言うのも気が引けて、言葉に詰まる。
言いたい。
誰かに言って楽になってしまいたい。
きっと、母親ならちゃんとボクを叱ってくれるんだろう。
そんな期待はある。「あのさ…」その時ボクは、何を言おうとしたんだろう。
言いかけた言葉を慌てて飲み込んで、ぎゅっと抱えた尻尾を握りしめる。
「なに?」と、不思議そうにボクを見る母親から視線を逸らして、また俯いて。
そんなボクの事をどう思ったのか。母親は怒るでも、責める事もしなかった。
ただクスッと微笑んだ後、その指先でパチンッとおでこを弾かれる。
「った。へ…? 急になにさ…」
「どうせ あの子は、マロンは悪くないだとか、怒ってないから~とか、そんな事いったんでしょ? それで余計どうにもならなくなってるんだ、マロンは? いっそ、無茶なお願いとかされた方が楽なのにね?」
「それは…」
ほとんど図星だった。
むしろ、自分ですら曖昧だった願望を指摘されて、少し気が楽になったくらいだ。
ただ、ゆりかに叱って欲しいだけだった。
ただ、ゆりかに許して欲しいだけだった。
それなのに ゆりかは、ボクが謝ることすら許してくれない。
そんなんじゃ、仲直りなんて出来るわけがない。ボクはボクを許せないし、いつまでたっても塞ぎ込んだまま、顔を上げられる訳もない。
「それじゃあ、マロン。今日はお母さんとデートをしましょう」
両手で頬を挟まれて、無理矢理に顔を上げさせられると、目の前には にっこりとした母親の笑顔があった。
「いや、デートってそんな気分じゃ…。また今度なら付き合うからさ…」
「そんな気分じゃなくてもです。どんな顔して良いか分からなくたって、そんな顔して ゆりかに会うのは許しませーん♪」
一見笑っているようには見えるが、こういうときの母親は、ボクらの言い訳なんて聞く気がないのをよく知っている。
口を尖らせ、不承不承と頷いてみせるのが、ボクに出来た精一杯の抵抗だ。
「…分かったよ。行くよ、行けば良いんだろ」
「よしよし。良い子、良い子♪」
「ちょっ、やめてよ…撫でないでって…」
頭を撫でられるのが くすぐったい。単純に恥ずかしいのもあったし、その優しさに素直になれない部分もある。
逃げようとして、逃げられなくって。全身で抱きしめられている内に、だんだんと、その温もりに絆されていく。
「ごめんなさい…」
気づけばボクは、一人でそんな事を呟いてしまっていた。
やっぱり、母親だからなんだろうか?
その温もりは、何処か ゆりかの温かさに とても良く似ていたんだ。
ー
「はぁ…母親ってさ、そういうとこあるよね」
そういえば、前に ゆりかが着せ替え人形にされて困ったと、愚痴っていたことがあったっけ。まぁ、ネコのボクには関係ないことかと聞き流していたけれど。今度はボクが、その毒牙に掛かったというわけだ。
「その母親って呼び方どうにかならない?」
「なんでさ? ゆりかの母親でしょ?」
「いや、そうなんだけど、マロンのお母さんでも いたいなぁって?」
「ふーん」
「あ、そっけない…。お母さん泣いちゃいそう」
「で、何処に行くのさ、お母さん?」
「あ、うれしい…。お母さん泣いちゃいそう」
「どっちにしろ泣くんじゃん…」
着せ替え人形にされて数時間。母親が満足する頃には、随分と時間が経ってしまった。一体どこにそれだけの服を隠し持っていたのか。フリフリの付いた女児服から、如何にもと言った女の子らしい服まで よりどりみどりだった。
結局、母親が満足した時のボクの格好は、黒いシャツに、黒いショートパンツ。さらには黒い帽子まで被せられて、ボーイッシュとか言う感じの格好に落ち着いていた。
鏡に映る自分を見る。
全身が黒尽くめかと思えば、自分の白い肌も手伝って、その黒色は良く映えた。
なんだか、三毛猫になった気分になりつつも。
変にヒラヒラとした、女の子らしい格好にされなくって本当に良かった。
そうして始まった母親とのデート。
ショッピングモールとかいう場所に連れられてきて最初に思ったのは、人が多いだ。
正直に帰りたい。今すぐに帰りたい。
多分、ゆりかと二人で来てたって同じ事を思っていたはずだ。
ゆりかとデート。そういえば、そういう事してなかったな。
ボクは ゆりかの帰りを待つばっかりで。それがずっと当たり前だった。
だってネコだもん。イヌみたいに首輪つけて散歩とかさ。
思い出してまた塞ぎ込む。
ちゃんと仲直り出来るのかな?
このままずっと、なんか気まずいまま。ゆりかが家に帰ってくるのが遅くなっていったりしたら。
考えるだけで凄く怖い。
一度悪い方へと考えだすと、気分はどんどんと沈んでいく。
何が怖いって、ゆりか が居ない状況に ほっとしている自分が怖い。
だんだんと、そんな状況に慣れていって、お互い距離置いている事が当たり前になっていく。
今みたいに、ボクは母親とデートしたりして。
ゆりか は ゆりかで、ボクの知らない誰かとデートしたりなんかしてて。
「これ、マロンに似合うんじゃない?」
「え、あ、そう? ていうか、服なら家に一杯あったじゃん」
「それはそれ、これはこれ」
グルグルと、悪い方にばかり考えていくボクを引き止めたのは、無駄に明るい母親の声だった。
いつの間に服屋に入っていたのか。あっちらこっちらから、服を集めてきては、ボクの体に当てて、うんうんと、いらない納得を繰り返している。
「ボクのは良いよ。どうせ、ほとんど家にしか居ないんだし。それより、ゆりかにでも買ってあげたら?」
「え、今日は買わないけど?」
「…」
意味がわからない。
服は買わないのに、なんで服屋に来たんだよ。
「今日はデートだって言ったでしょ? これからまだまだ歩くのに、無駄に荷物なんか増やしてられないって」
その宣言通り、端から端まで歩かされた。
その途中に並んでいたお店の大体に顔を出しながら「ふーん、こういうのもあるのね」なんて、興味があるんだか ないんだか分からない様な塩梅で関心してみせる。
楽器屋、スポーツショップ。謎の雑貨屋に、あまり見ないラベルの食料品店。果ては、男の子向けのプラモデルだとか、美少女フィギアやカードゲームに至るまで。目についたものはとりあえず手にとってみる母親の、興味の範囲がボクには分からなかった。
「そういう好きなの?」
家では見ないような物を手に取る度に、ボクは母親に聞いてみた。
だけど、返ってくる答えは決まって同じ「好きっていうか。なんか新しいの出てるなーって」いうんだ。
「ほら、あっちのやつとか。朝に戦ってるカラフルな人達のじゃない? そっちのは、キラキラした女の子たちが頑張ってたりしてるのだよね?」
「ああ、なんか毎年違うのやってるよね」
一時期は、ゆりかもそういうのを熱心に見ていたっけ。
「そういえば、まだ ゆりかに妖精役させられてるの?」
「まさか。流石に卒業したみたいだよ?」
「そっかぁ。この間さ? もう変身しないのって言ったら? めちゃくちゃ顔赤くしててさ、もう可愛いったら」
「あんまりイジメないであげなよ? そういう年頃だったんでしょ?」
「いや、母親の特権でしょ、これは」
「かも知れないけどさ…」
一つ分かったことがある。
母親がたまに ふらっと何処かへ出かけていく理由。
この人は、やたらに好奇心が強いんだ。それこそ、ゆりかの事以外に対した関心を示さないボクには、刺激が強すぎるくらいだ。
右に、左に、ふらふらと。母親の興味の向くままに連れ回される。
さっきまで隣にいたはずが、目を離した後には向こうにいたりして、退屈する暇どころか付いていくのにも苦労させられた。
そういえば、あっちこっちに連れ回されて大変だと、ゆりかは言ってたっけ。
普段の運動不足は直接足に響き、休憩をかねて入った喫茶店の席で、ボクはくったりと、ソファに体を預けていた。
「疲れちゃった?」
「まぁ、少し…」
端から端まで歩かされて、ようやく終わりが見えたと思ったら、今度は2階の端から端までだ。おまけに、まだ3階があり、その隣と、隣にも、同様のモールがならんでるっていうんだから、ちょっと気が滅入ってくる。
イエネコの初体験には流石に重すぎだ。
「で、コレは何?」
「ゆりかには内緒ね?」
「いや、そうじゃなくってさ…」
目の前に運ばれてきたのは、とんでもない大きさのパフェだった。
見ているだけでもお腹にくるものがあり、思わず頬が引きつってしまう。
「一人じゃ食べられない大きさのパフェね」
「見れば分かるよ。なんで頼んだのかって話でさ?」
「二人いるから」
しれっと答えた母親は、謎のワクワクと、未知の決意に溢れた表情をしていた。
「二人でも多いよコレ。せめてあと一人…」
気分転換にはなっていたんだろうな。
その一人に ゆりかの顔を思い浮かべると、これ以上は下がりようが無いだろうと思っていた感情が、沈んだことに少し驚く。
「二人で同じの つつきあうって、ちょっと恋人同士っぽくない?」
「どうだか。ボク、デートなんてしたこと無いし」
「じゃあ、今度ゆりかとやってみなさいな」
「…。その前にコレ、食べ切れるの? アイスとか持ち帰れないじゃん」
「頑張ろう。お母さんとマロンなら出来るよっ」
「はぁ…ホント、ホントさぁ…」
嘆息ついでに開いた口の中へ、パフェを運んでいく。
甘酸っぱくて、サクサクとしていて、続くチョコレートの苦みが、甘くなった口の中に糸を引く。
美味しいことは美味しい。
でも多い。
作ってる側も分かってるんだろう。こんなのただのジョークグッズだ。
食べ進めていると、手を変え品を変えて、飽きさせない様な工夫は見られるけれど、やっぱり多いし、どんなに頑張っても甘さの呪縛からは逃げられない。
「はぁ…」
溜息を一つ。
ようやくと、半分食べ進めた所で息を吐き、ぼんやりと窓の外を眺めると。今、一番会いたくない顔と目が会ってしまった。
向こうもボクに気づいたんだろう。
はっと、顔色を変えると、慌てて視線を逸らされる。
知らない女の子と一緒だったな。
それはいい。ゆりかにだって友達付き合いもあるんだろうさ。
けれど、顔を逸らされた事がチクリと胸に刺さる。
ボクに、何を言う資格もないのに。
自分からは避けといて、ゆりかには避けられるのは辛いって、都合のいい話があるもんか。
だけど、それは、ボクのわがままだって分かるけど。
視線を逸らした時、後ろめたそうな ゆりかの顔が、どうにも頭から離れなかった。
ー
本当は、すぐに帰って上げたかった。
落ち込んでいるマロンをどうにか慰めて上げたい。でも、私と顔を合わせようともしてくれない彼女といるのは、ちょっとだけ息が詰まる。
そもそもの原因は私なのに。
避けられるのはイヤだって、なんてズルいんだろう。
この間までは一杯仲良くしてたのに、ケンカの一つも出来ないのが辛い。
ちょっとした やんちゃのつもりだった。マロンならそれでも許してくれるって甘えてた。それで彼女がどれだけ傷つくかだなんて、全然考えてなかった自分を引っ叩きたくなる。
「どしたの、ゆりか?」
「うん…。え、あ、なに?」
「なにって、聞いてるのはこっちだよ?」
「あはは…。ごめんごめん」
友達の話も上の空だった。
喫茶店に居たのは、マロンと…お母さん?
本当なら声を掛けて私も一緒に、なんなら友達と一緒でもお母さんは平気だっただろう。でも、マロンと視線があって、お互いに顔を逸らしてそれっきり、私には声を掛ける勇気が無くなってしまっていた。
今は、私と顔合わせたくないんだよねって。
マロンを気遣う振りをして、自分に対して言い訳をする。
「でも良かったの? 最近は忙しそうだったじゃん?」
「あ、うん。ちょっとね?」
「何だぁ~? 彼氏でもできたんかー、このこのー」
「違うったらっ、もう。変なこと言わないでよ」
少しだけ、ドキッとしてしまった。
半分の正解、いや全部か。ココ最近、早く帰るようになったのだって、マロンが女の子になってからだったし。まさか、自分家のネコに懸想してますなんて言える訳が無い。
「えっと、猫カフェ…行くんだっけ?」
「そうそう。ほら、この子とか超可愛くない、早く逢いたいなーって」
「ああ、うん。そう…だね」
「あれ? ゆりかもネコ好きだよね? マロンちゃんだっけ? 飼ってるって」
曖昧な私の反応が顔に出てたんだろう。
足を止めた彼女は、気遣うように私の顔を覗き込んでくる。
ここで、やっぱり止めとくって言えれば良かったのかな。
今から戻って、マロン達と合流してさ。
3人でならきっと、マロンも少しは私とお話してくれるんじゃないかって、お母さんが上手い事間を取り持ってくれないかって期待もあった。
「あ、うん…。そう、なんだけど…あの子、嫌がらないかなって」
「ヤキモチやくタイプなんだ?」
「まぁ、うん。最近は特に甘えん坊でさ…」
「あ、それで早く帰ってたり?」
「あはは…」
「じゃあ、どうする? 今日はやめとく?」
「いいよ、行こ?」
「大丈夫なの?」
「うん。ちょっと構いすぎてただけだと思うし…うん」
その問いかけに、私は頷いてしまっていた。
お母さんに間を取り持って貰おうにも、こうなった理由を説明しないといけない。それは、ちょっとだけ…気が引ける。
なんて説明したら良いかわからない。マロンにマタタビを嗅がせて、興奮したマロンにそのままって…。
私が悪いって怒られるなら仕方ないけど。それで、マロンが叱られるような事になっちゃうのダメだ。
引き返せない。
今は、もう少しだけ時間が欲しい。
マロンだって、きっとそれは同じはず。
でも、猫カフェの扉をくぐるその前に、私は振り返ってしまっていた。
喫茶店の窓の向こう。お母さんと一緒のマロンの姿。
少し困ったような顔をしながらも、なんのかんのと楽しそうで、それは私と一緒の時には、あんまり見せてくれない顔でもあった。
タイミングが悪いってのはあったんだろう。
信じらんないって、どの口が言えたもんか。
そもそも、お母さんとデートしてもいいよって許したのは私なのに。
だけど、嫉妬をする権利くらいはあっても良いと思う。
初デート、お母さんに取られちゃった…。
こんな、ケンカの一つも出来ない状況で、私じゃない誰かとデートしてるだなんてさ。
「マロンのバカ…」
言わずにはいられなかった。
一人つぶやいた言葉は、人混みに紛れて溶けていく。
いいもんいいもん、マロンがその気なら私だってさ。
半ばやけっぱち。いっそ、ケンカにでもなれば良いって思った。
他のネコの匂いをつけて帰った私に、マロンが怒ってくれるならって。
その時のことを考えると、少しだけ胸がドキッとした…。