ちゅんちゅん、ちゅんちゅん…♪
薄暮の空に小鳥たちが目を覚ます。
ひんやりとした空気、忍び寄ってくる朝の気配。
それを肌で感じながらも、隣で眠る北斗に ぎゅっと抱きついた。
目覚まし時計に急かされることのない朝のひと時。
ただゆっくりと微睡んでいるこの時間が、キャンプの中でも格別の一時に思う。
柔らかいな。それに、あったかい。
北斗の温もりが心地良い。朝の肌寒さも相まって、思わず頬ずりをしてしまう。
すべすべしてて、なのにしっとりしてる。
思い返した感触は、母親の温もりにも近かった。頭を撫でられた時、もっと遡れば抱きしめられた心地が記憶に新しい。
「ん?」
しかしだ。
それは、なにか違うだろう?
だって、北斗は犬じゃん。
柔らかくて、温かくて。そこまでは一緒に思っても、その先が同じになる訳が無い。ふさふさで、もふもふしてる。あの心地の良い体毛の感触が、まったく感じられなかった。
指先に返ってくる感触はまるで人肌のよう。すべすべしてて、しっとりしてて。
ふにゅりと、柔らかく沈み込む感触は女性の、まるで母さんの肌に触れた時の感触にも近くって。
「うわぁぁぁっ!?」
飛び跳ねて、飛び起きる。
狭いテントがひっくり返る勢いで距離を取り、けれども、その子はまだ僕の手の届く所で寝息を立てたままだ。
目を開いて、真っ先に飛び込んできたのは、知らないはずの女の子。
安らかな寝息を細々と零しながら、さっきまで僕に抱きついていたと言わんばかりの体勢で眠っている女の子だ。
だとすれば、僕が触れていた柔らかさはなんだったのか。
それに思い至った途端に顔が熱くなってきて、思わず赤面してしまう。
なんで、なんで、なんで?
昨日はだって、北斗と一緒に眠った筈だ。
それが、どうして、知らない女の子が隣りにいる?
北斗がいないだけならまだいい。いや、良くはないけど、勝手に出ていっただとかさ。少なくても今の状況よりは、まだ理解が出来る範疇だ。
それになにより、一番の違和感が拭いきれない。
「ほく…と? いやいやいや…」
今、僕は、なんて言おうとした?
初めて見る女の子を前にして、一番口にした事のあるだろう北斗の名前を呼ぼうとしたのか?
寝ぼけていただけ。
あまりのことに気が動転していただけなんてことは考えられる。
でも、寝息を立てる女の子の姿に、並々ならぬ既視感が湧いてくるのもまた事実。
ほけっと、物音に気づいた女の子が目を開き、周囲を見渡し始める。
ころり、ころり、体を動かし、また固まった女の子。
そのまま、どこでもないどこかを、じぃっと見つめた後、ガバっと唐突に起き上がるのも良く似ていた。
嫌な予感がする。
だって、彼女が僕の思う通りなら、この後の行動は予想が付いたから。
僕と目が合った瞬間、ぱっと朝日のような笑顔を浮かべてさ。
予想通り、後先考えずに飛びついてくるじゃないか。
「はるかーっ♪」
「ちょっ、まっ…!?」
冗談じゃない。
それはだって、犬だからと思って出来ていた事で。
見た瞬間にドキッと、胸を辱めるほどの魅力を持った女の子が、急に飛びついてきたのでは堪らない。
「おはよ、おはよ、おはよっ、おはよっ♪ ちゅー」
「まって、まっ、はなれ…ん、ちゅっ…ん、ほんとに…まっ、ぁっ…」
勢いのままに押し倒されて、ロクな抵抗もできなかった。押し返そうとしたって、体の何処を触って良いかもわからないし、破れかぶれで伸ばした手は、何処に触れたって柔らかさを返してくる。
頬ずりをされた。頬にキスをされた。ペロペロと舐められもした。
気づいた時には女の子の顔は目の前に。一瞬の後、塞がれた唇からは彼女の体温を強く感じて、あんまりの恥ずかしさに僕はとうとうと、彼女を突き放すように手を上げてしまった。
無理矢理に唇を引っ剥がし、勢いに任せて彼女の体を弾き飛ばす。
たわむテントのフレーム。
尻もちをつき、何が何だか分からないと、不思議そうな顔を浮かべる彼女の姿にチクリと胸が痛んだ。
「頼むから、まってくれ。君は、一体? 北斗は…どこ?」
感覚的には分かっていても、問わずにはいられなかった。
誰の、何かの悪戯って言われたほうが、よっぽど納得できる状況だ。
ちょっと質が悪くても、母さんならコレくらいはやるんじゃないか?
なんか、親戚の子を預かってきただとか。
ちょっと脅かそうと思っただとか。
今、テントの外に飛び出したら、腹を抱えて爆笑している母さんがいる方が、よっぽど理性には優しい。けれど、願いを叶えてくれる流れ星は、遠い夜空を駆け抜けた後だった。
僕の言葉に首を傾げた女の子は、後ろを振り返り、また僕の顔を見た後、こてんと反対側に首を傾ける。
その仕草の既視感といったらなかった。
きょとんと、不思議そうな顔をする彼女を前に、バラバラになっていたパズルが組み上がっていくみたいだ。鮮明に色づき、形を変えた違和感の正体に、やっぱりと、納得するしか無い。
「君って…ほくと の事? ほくと どこにも行ってないよ? ずっと はるかと一緒だったもん」
「そう…だけど、でも。君は…だって、北斗なわけ…」
首を傾げたまま自分を指差し、その名前を口にする彼女。
犬から人の女の子へ。見た目こそ似つかないくらい変わっていても、やっぱりその仕草、雰囲気は、僕の知ってる北斗のまま。時間が立つにつれ、さっきまで散らばっていた違和感すらも薄れていってしまう。
「え、でも…。ほくと は…ほくと だよ? だって、はるか が ほくと の事 ほくとって、だから、ほくと は ほくと で…」
しゅぅっと、頭から湯気でも吹き出しそうな様子だった。
右に左にと首を傾げ、悩みに悩んだ挙げ句、たどりついた結論は、彼女を満足させるものではなかったんだろう。
はっと、何かに気づき、みるみる内に顔が曇っていく。
この世の終わりのような顔。たまに聞く言葉に実感はなく、それほど酷い顔なんだろうとだけ思っていた僕の理解は、この瞬間から彼女の顔を思い浮かべることになる。
「ほくと は…ほくと じゃ、なくなっちゃった? ねぇ…どうしよう、はるか? ほくと が ほくと じゃなかったら。ほくと、はるか に ほくと って呼んでもらえなくって…あれ? あ、あ、あ、ぁぁぁ、そんなの…」
いや…。
その呟きの痛さといったらない。
胸にグサリと突き刺さるとは、まさにこの事だ。
などと、新しい知見に納得している暇すらなかった。
ジワジワと目尻に浮かぶ涙。それが嗚咽に変わる頃にはもう、彼女はボロボロと泣き始めていた。
「ひっくっ…えぅっ…。いや、いやぁ…いやだよ、はるかぁっ。ほくと は ほくと がいいよぉ。ほくと が ほくと じゃなかったら、はるか に ほくとって呼んでもらえないぃぃっ。ね? なんで? なんで? きのうまで ほくと は ほくだったよ。はるか だって、呼んでくれてたじゃんっ。ほくと は ほくと で、ほくと だもんっ。はるか に ほくとって呼んでほしいよぉ。ね? なんで? なんで? ほくと なにかダメだった? 悪いことしちゃったの? ね? なんで? なんでいじわるいうの? はるか、はるかぁぁっ…」
止まらない。
それはもう、遠吠えのような勢いだった。
わんわんと泣き出す姿はまるで子どものようで、その起伏の激しさには、いくらも覚えがある。
まるで、自分の事を犬だと思っていない。
体が人に変わっていたって お構いなし。
目が覚めて、好きな人から向けられる「誰?」の声は、僕が思う以上に北斗を傷つけてしまっていた。寝起きから彼女が他人行儀になってたら、僕だって相当に凹む自信はある。
北斗は北斗だと言い張る彼女の言葉が一番正しい。そんな彼女のアイデンティティを、気づかないうちに一蹴してしまっていたんだ。
「まってっ、落ち着いてよ北斗。大丈夫だから、北斗はちゃんと北斗だから、な?」
「ひぐっ…ぇぅっ、でもぉ…だって、はるか「誰?」って、ほくとの事、さっき…」
「勘違いだからっ、僕が寝ぼけてただけっていうかさっ!」
「んっ、うんっ。へぅ、ぐすっ…ん、いい、の? ほくと は、ほくと で良いの?」
「当たり前だろ? 僕が北斗に嘘ついたことあるか?」
「…ない」
「北斗は?」
「ほくと だもん」
「よしっ、良い子だっ」
「はるかぁっ♪」
「ぶぇぇーん」と、声を上げて飛びついてきた北斗に押し倒されるが、もはやそこに構っている余裕はない。むにむにと、胸の上に何か柔らかいものが押し付けられていたって気にするもんか。
恥ずかしさに押し負けて、ここで彼女を遠ざけようものなら、僕は嘘つきになってしまう。
だって北斗は、北斗だから。
大丈夫、いくら見た目が人の女の子になってたって、それが、初めて見るくらいに可愛い女の子だったとしても、その事実は揺るがない。
耐えろ、耐えろよ、僕の理性。
体が反応してしまうのは、起き抜けのせいだと言い訳し続けるんだ。
目が覚めて、女の子になっていた北斗の体は豊満だった。
そりゃそうだよな。僕より若いっても、犬からしたらもう大人だ。体は出来上がっていてもしょうがない。これがまだ、小さな女の子だったら良かったのか? それはそれで、なにかイケない気がして、浮かびかけた妄想を慌てて振り払う。
胸は大きくて柔らかい。腰は細くて柔らかい。太ももは肉づいていて柔らかい。
少年誌の表紙を飾るような女体が、惜しげもなく押し付けられる状況を ぐっと耐えた。
幸いだったのは、僕にソレ以上の知識がなかったことか。
なんかエッチだなと、年頃の興味は覚えても、そこから先には手が伸びない。
やり方が分からないってのもそうだし、感じた気まずさを押しのけるほどの度胸もなかった。
ただ、彼女と同じように、僕の体だって大人には近づいていたんだろう。
ゆっさ、ゆっさと、押し付けられる おっぱいと、肉付きの良い太もも。
抱きつかれて感じたのは、そうとしか言いようのない女の子の匂い。
そこに反応してしまった僕のモノは、確かに大きくなっていて、刺激を加えられる度、甘く痺れるような感覚に腰が引けてしまう。
その意味が分からないほど子供じゃない。
ここで出してしまったら最低だ。慣れない快楽に抗おうと、歯を食いしばって耐え続ける。
なのに北斗ときたら、そんな僕にはお構いなしだ。
いつものように変わらず甘えてくる。すりすりと体を寄せてきて、ぺろぺろと頬を舐められた。そりゃ、いつもなら僕だって、彼女の方に頬をよせていただろう。
いたずらにキスを返して見たことだってある。
抱きつかれてるだけでも限界なのに、そんな風に体を擦り付けられたら耐え切れる訳無いじゃないか。
「ほくと、ほくとっ。ちょっとまって、このっ、こらっ、お座りっ!」
なんとなく、今の北斗にそれを言うのは抵抗があったが、僕の尊厳のためには止むを得なかった。
条件反射的に僕から離れた北斗は、その場でペタリと座り込むと、ねだるような顔で僕を見つめてくる。
ちゃんと言う事聞けたでしょ?
えらい? えらい?
もっと言えば、褒めて、褒めて、だろうか。
瞳をキラキラと輝かせ、僕を見つめてくる彼女の期待を裏切る事なんて出来なかった。
「よしっ、良い子だ。偉いぞぉ。よしよしよしよしっ」
「わふぅぅ…」
頬に触れ、頭を撫でて、顎の下をくすぐってやる。
とろん と、心地よさそうに目を細め、嬉しそうに尻尾を揺らす北斗の姿に、なんとも言えない申し訳無さと、よくわからないモヤモヤが湧いてきた。
「じゃあ、僕…ちょっとトイレに行ってくるから、少しまってて」
「ちょっとって、どれくらい? はるか は一人で大丈夫? ほくと ついて行ってあげようか? それが良いよ、何かあったら大変だもん」
一人納得した北斗は、慣れた様子でテントのファスナーに手を掛けていた。
両手を付いて、尻尾を揺らす。無防備に向けられたお尻が揺れて、思わずと視線が吸い込まれそうになる。
「っ…。い、良いって。その…すぐ戻るから。北斗はお留守番」
「…」
不満だ。顔に書いてある。
すぐっていつだよって言いたげだ。
「一つ、あったよ」
「何が?」
「はるか が ほくと にウソついたの」
「あったっけ?」
「いつも すぐ帰るからって、毎日毎日どっかいくじゃんっ。がっこ? だっけ? すぐ、すぐ、すぐってっ。パパはお仕事でっ、ママ(ボス)だってそうっ。お買い物って、お留守番よろしくねってさっ。はるか だって一緒じゃん。すぐっていつ! 何時何分何秒で、地球が何回回った時っ!」
その言い分は正しいが、しかし、僕にだって学校というものがある。
まさか一緒に連れて行く訳にもいかないし。愛犬が可愛いからサボりますなんて言おうものなら、先生からのお咎めの前に、母さんのゲンコツと一緒に家から叩き出される事請け合いだ。
「はるか はっ! ほくと と がっこっ、どっちが大事なのっ!」
もう、疑いようなんかなかった。
言葉にはしなくても、それは毎朝、北斗が僕に向かって吠えていた不満だったろうから。