酷い目に合った。
結局折れたのは僕の方。行く行かないと、そんな問答を続けているうちに、朝の尿意は耐え難いものになっていく。
ならせめて、トイレの前で待っていて欲しいと。
でも、ワガママを発動した北斗がそれを素直に聞くわけもなく、睨みを聞かせてくれる母さんも今はいない。先んじて個室に入ろうとする彼女を引っ張り出すだけでも苦労させられた。
「ねぇ、まーだー? はるかー、ね、はるかってばぁ。何かあったの? 大丈夫なの?」
がりがりがりがり…。
籠もったトイレの個室の扉を、何かがひっかく音がする。
心配してくれてるのは分かるんだけど、半ばホラー映画じみた絵面に内心は焦りで一杯だ。
頼むから、誰も来ないでくれ。
僕より年上にも見える女の子が、男子トイレの個室の扉を引っ掻いている。
これが逆の立場だったら即通報ものだし、そうじゃなくても、厳重注意はされかねない。
お腹に感じる尿意とは裏腹に、焦れば焦るほど出は悪くなるし、待たせれば待たせるほど、扉を引っかく音は大きくなる。
やがては よじよじ と、扉が揺れ始めた。何かと思って上を見れば、個室の扉を越えようとした北斗が、その淵に指を掛けた所だった。
また罪悪感だ。
普通の女の子に見える北斗に「待て」と、しつけの成果を使うのはどことなく気が引ける。その一言で、ぱっと動きは止まってしまうし、扉の上から覗いていた細い指も、向こう側へと引っ込んでいった。
「ぅぅぅぅぅっ…」唸られたってしょうが無い。
用を済ませてトイレから出た僕を待っていたのは、恨みがましい北斗の視線。
それはそうだろう。我慢弱い北斗に「待て」を覚えさせるのは僕だって苦労した。お手や、お座りなら、褒めて伸ばせたけれど、美味しそうな ご飯を前に、ただ待たされる。その時の視線そのままに、僕に不満を訴えかけてくるんだ。
「はるかっ♪ はるかっ♪ ね? ね? 今から何処行くの? お散歩? 北斗はねっ、北斗はねっ、公園行きたいっ、一緒にかけっこしよ?」
ただ、北斗の不満も朝ご飯を前にするまでだった。
キャンプ飯なんて上等なものじゃない。一人でキャンプを許されはしても、火を使うことまでは許されず、用意していた菓子パンを半分にして分け合っただけ。
少しイヤなことが合ったって、次の瞬間にはコロっと忘れられてしまえる。
羨ましいよ、正直さ。僕はこれからの事に不安が一杯なのに、彼女にはなんの憂いも見られないんだから、その能天…いや、ポジティブさを分けて欲しい。
帰りの車に揺られている間も、頭の中はグルグルしっぱなしだ。
いっそ、迎えに来てくれた母さんも、僕みたいに慌ててくれればよかったのに。
まるで初めからそうだったみたいに、変わらず北斗と接しているのも分からない。
「ねぇ、北斗。ホントに、なんでそんな格好して…女の子みたいにさ?」
この質問をしたのだって、1回や2回じゃなかった。
もしかしたら違う答えが聞けるんじゃないかと、反応の悪いゲーム画面を連打するような気構えだっただけ。けれど、返ってくる答えは変わらず、それこそゲームのNPCみたいな切り返しだ。
「知らない」「分かんない」からの「どうして?」だ。
「だめだった?」「イヤだった?」の後「ほくと はね、ほくと はね…」って、じわりじわりと、浮かぶ涙の前には何も言えなくなってしまう。
イヤな訳が無い。
こうして北斗とおしゃべりができる。それだけでも嬉しいのに、見た目 可愛い女の子に懐かれて、嫌がる男子なんて中々いないだろうって下心は当然にあった。
だからこその戸惑いは大きい。
今まで通りに接してやりたいのに、外見一つでここまで対応が分からなくなるなんて思ってなかった。いつものように頭を撫でてやって、はっと気づくと顔が熱くなる。嬉しそうに抱きついてくる北斗を上手く抱き返してもやれてない。
「分かったから。ちゃんと座りなって、危ないから…。もう北斗、お座り…」
座席の上で膝立ちになり、ぴょんぴょん跳ねる様は幼稚園児と変わりがない。
本当に、見た目が幼稚園児だったらまだ楽だったのにな。
クラスの女子達と比べたって大人に見える体型が、僕には眩しすぎた。
まだもう少し小さい頃なら、性別の差なんて気にしなかったのに。
もう少し大人になれてたら、女の子の扱いも少しは分かったかもしれないのに。
今の僕はどっちつかずのまま、座席の上ではしゃぐ北斗の服を、ちょいと引っ張ってやるのがせいぜいだ。
「ふふーん♪」
得意げだった。座席に座り直した北斗は、ピンっと背筋を伸ばす。
お行儀よく両膝の上に手をおくと、瞳をキラキラさせて僕を見つめてきた。
「よしよし、偉いぞ北斗」
「わふっ♪ はるかーっ♪」
込み上げてくる羞恥心をぐっと飲み込んで、いつものように頭を撫でてやる。
そうなると当然、北斗も僕の方へと飛び込んできて、なんとか抱きとめた北斗の体温に頭がクラリとした。
「あ、れ…」
いや、違う。
なんか、急にぼぅっとしてきた…。
顔が熱いのはそうなんだけど、恥ずかしいからってだけじゃなくて。
あ、これ、ダメな奴だ。
風邪の時にも似た症状。異変を感じた時にはもう遅く、北斗に押し倒されるまま、傾いた体に引っ張られるように意識が遠のいていった。
ー
「はるかっ、はるかっ、はるかっ…」
早く起きないと。
心配そうに僕の名前呼び続ける北斗の声が耳に響く。
「大丈夫だよ」って言って上げたいのに、体は言うことを聞かず、やきもきとした気持ちが僕をさらに焦らせていた。
「ねぇ、ママ(ボス)はるかがっ、はるかが死んじゃうよっ」
「死なない死なない。ちょっと体調崩しただけでしょ? 寝てたら治るって」
「でもっ、でもっ! 苦しそうだよっ、体だって熱いしっ、なんか、なんか、嫌な匂いもねっ! ねっ!」
「ああ、もうっ。静かになさい、北斗。あなたが騒いでたら治るものも…」
ぐぅっと、胸が押さえつけられる。
ああ、抱きつかれてるんだなと意識はしても、腕の一つも動かせない。
その内に、僕から離れない北斗と、引っ剥がそうとする母さんとの綱引きが始まったかと思えば「ぎゃんっ!」と、大きな声がして、騒がしかった部屋が急に静かになってしまった。
ずる…ずる…ずる…。
「あぁぁ…あぁぁぁ…はるかぁ、はるかぁ…」
ああ、その涙が瞼の裏に浮かぶみたいだ。
母さんの鉄拳制裁を食らった北斗が、部屋から引きずり出されていく。
それでもまだ諦めず、僕の方へと手を伸ばしているんだろう事は用意に想像が付いた。
早く、治さないとな。
愛されている実感に嬉しくなりながらも、倦怠感には抗えず、浮ついた心はそのまま眠りに落ちていく。
ー
「ん…あれ? そっか…ああ、うん…ん?」
それからどれだけ寝てたんだろう。目が覚めた頃には、ようやく自分の体が動かせることに気づく。だけど、おもったより僕の体は不自由だった。
起こそうとした体の上で、すぅ…すぅ…と、柔らかい寝息を立てられては動くに動けない。
まるで掛け布団みたいだ。
ベッドの脇から半身を乗り出したまま、僕の上で北斗が寝息を立てている。
心配かけちゃったな。
いつもみたいに、頭を撫でたくなって手を伸ばす。指先が触れるその前にハタとミミを動かした北斗は、そのままゆっくりと目を開いた。
「あ、はるか…。起きた? もう平気? 痛いとこない?」
ふにゃり。
寝起きの顔を綻ばせた北斗の笑顔に、ドキッと、不意を打たれたように胸の鼓動が高鳴った。
「えへへ…はるかぁ」
触れる直前で固まってしまった僕の手に、グリグリと頭が押し付けられる。
「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫だから、下に戻ってなよ? 母さんに見つかったらまた…」
「…」
聞く耳持たずか。
ふいと、顔をそむけた北斗は、布団に顔を埋めたまま動く気がなさそうだ。
まぁ、僕としては嬉しいんだけど。一晩 北斗といられなかったせいか。それとも、病み上がりの心細さがそう思わせたのか。僕にくっついて離れようとしない北斗の姿を、ただただ可愛く思ってしまう。
こん、こん…。
扉を叩く音。それと同時に北斗の肩がビクっと跳ねた。
「遥、起きてる?」
「あ、うん。ごめん母さん、心配かけて。まだ熱っぽいけど、もう大丈夫だと思う」
「そう…」
小さく頷いた母さんは僕から視線を外し、どうしたものかと言った具合に、布団の上で丸くなる北斗を見つめているみたいだ。
「北斗」
「いやっ…。はるか といるの」
がるがると、唸り声を上げながら徹底抗戦の構えを見せる北斗。
けれど、うちのボスへ反抗するのは怖いのか、僕の体にしがみついた指は震えっぱなしだ。
「はぁ…北斗」
「イヤだってばっ!」
「ねぇ、母さん。僕はもう平気だからさ…」
「そうじゃなくって。ご飯の準備してあるから、手伝ってって話」
「ご飯っ♪」
「あんたの分は後。遥の分、用意してあるから運んでやって」
「うんっ♪ 手伝うっ。ほくと がするっ♪ 待っててね、はるかっ!」
「あははっ。ありがとう、北斗」
たたっと、部屋を抜け出していった北斗の足音が遠のいていくのを聞きながら、先に微笑んだのはどっちだったんだろう。
母さんと二人、笑いを零した後「少し待ってて」と、北斗の後を追っていく母さんを見送った。