「おいっ! い、いきなりなな、何やってくるんだよっ!」
平塚美咲の肩を掴んで、僕は思い切り突き飛ばした。何歩分か後ろに下がった平塚美咲はペロリとベロを出して口周りを舐めた。口に付いたケーキのクリームを舐めるような仕草だ。名残惜しいとでも思っているのだろうか。
「何をって? 冷たいですね。昨日はもっと激しいことをやったじゃありませんか、健一くん。もしかして一度抱いた女のことは忘れてしまう習性でも持っているんですか?」
この状況を楽しんでいるように平塚美咲は呟いた。
あたかも西田健一と平塚美咲は何か訳有りだと伝えるように。
置き手紙に書かれた内容は全部嘘かよ。愛梨には内緒にすると言ったのに。
「ねぇー西田くん……そ、そのどういうことなのかな? 昨日の激しいことって? あのーわたし、さっきから平塚さんが何を言ってるのか分からないよ」
友達全員で同じ進路を目指したものの自分だけが受験に落ちてしまったかのような震えた声。現実を受け止められないというのがありありと伝わってくる。
「そうですね。愛梨さんは知る権利があると思います。一応あなたは健一くんの
言葉を見失う僕に代わって、平塚美咲が堂々と言った。
「あたしと健一くんは、昨日二人で
「……せ、せっくす……?」
その言葉を初めて聞いたかのように愛梨は辿々しく呟いた。その五秒後、自分は何て破廉恥な言葉を口にしたかのと後悔するように顔を真っ赤にしたけど。
と、ここまでは良かった。
生粋のお嬢様だとしても最低限のエロ知識を所有していたようだ。
不機嫌を通り越して明らかに殺意をぷんぷんと充満させた愛梨は、
「ねぇー西田くん。ちょっといいかな? それって浮気だよね?」
と言い放ち、ニコニコ笑顔で勢いよく詰め寄ってきたのだ。そのまま「ほらぁ、答えてよ」と愛梨は僕の両腕を掴んで訴えかけてくる。僕の腕が揺らされる度に、彼女の茶髪も上下に揺れ動いた。
そして、柑橘系の香りが漂ってきた。
愛梨特有の匂いであり、僕と彼女の思い出の匂いだった。
初めて沢城愛梨に「好きだ」と伝えたあの日も、初めて彼女とデートに行ったあの日も、傘を忘れた僕のために一緒に彼女が相合い傘をしてくれたあの日も。
いつも、いつでも、この香りだけは僕のそばにあった。
もしかしたら僕に気に入られようとして、今日も朝からお洒落してきたのかもしれない。
そ、それなのに……ぼ、僕は、僕って奴は。
正直に話そう。自分が全部悪いのだ。
そう思っているのに僕は口にするのが怖かった。
愛梨に嫌われるのが怖いのか。それとも愛梨が悲しむ姿が見たくないのか。
どちらにせよ、僕が平塚美咲と一線を超えた事実は覆るはずがないのに。
「愛梨さん……健一くんは悪くないです。悪いのは全てあたしですから」
そういって、平塚美咲は深々と頭を下げた。垂れる長い黒髪。昨日はあれほどまで淫らに舞っていたのに、今ではその美しさを見失ったかのように見える。
「ごめんなさい。あたしが健一くんを騙したんです。愛梨さんはもうあなたには愛想を尽かしてしまったと。悪いのは全部あたしです。健一くんを責めないでください」
責めるなら自分を責めろ。悪いのは全て自分だ。
そんなことを平塚美咲に言わせていいのか。ダメに決まっている。
このまま黙ってていいのか。悪いのは平塚美咲ではない、僕だ。
「愛梨……違うんだ。僕だ。僕が悪いんだ。平塚は悪くない。悪いのは全部僕だ。責めるなら僕を責めてくれ。愛梨……裏切ってごめん。本当にごめん」
素直に僕は土下座した。土下座するしかなかった。
これで許されるとは思ってはいないけれど、それでもしないよりはマシだった。
僕はこれ以外の最大の謝罪を知らなかったのだ。プライドとかそんなものはない。ただ本心から謝りたいと思ったのだ。
「あ、頭をあげて……ふ、二人とも……そ、その……一旦落ち着こ。ねぇ?」
その言葉を聞き、僕は沢城愛梨の優しさを痛感した。沢城愛梨はどこまでもお人好しところがある。どんな人にも優しく接して、どんな人も平等に扱う。まるで神様のような存在だ。もちろん彼氏である僕には甘える部分もあるけれど。
ただ、沢城愛梨という人間は、一言で言えば、甘い。とことん甘い。
実際に僕は彼女が本気で怒った姿を見たことがない。怒ったとしてもその場凌ぎのもので、数時間後にはコロッと普段の明るい表情になっているのだ。
良く出来た人間と言えば聞こえはいいかもしれない。
だが、悪い言い方をすれば、沢城愛梨は異常性を孕んでいた。
まぁーその人柄の良さで彼女はクラスの中心にいつもいるのだけど。
僕が顔を上げる頃には、すでに平塚美咲が顔を上げていた。平塚美咲は僕の顔を見るなり、目元を僅かに緩ませた。全部あたしに任せて、とでも言うように。
◇◆◇◆◇◆
「二人共……食べないの?」
テーブルの上に乗ったトレイには、ハンバーガーが山のように盛られていた。
大食い大会でもするのかと思ってしまう量である。実際注文の際には「えっ? あの……少々お待ちください」と言われたまである。
「食べないならわたし一人で食べちゃおうかなぁー。んぅーお、おいしいぃ〜」
こんな美味しいものが目の前にあるのにどうして食べないのか、とでも言うように、愛梨はバーガーを食べ始めた。
「このハンバーグに絡んだオリジナルソースが……絶妙!!」
下手なグルメリポーターの芝居を交えて、僕と平塚美咲の食欲を誘ってきているのだろう。けれど、僕たちは食べるような気分ではないのだ。
現在僕たち三人は近場のハンバーガーチェーン店にお邪魔していた。
「まだこれから色々と聞きたいことがあるから……二人とも来てくれるよね?」
という、愛梨の言葉に耳を傾け、僕と平塚美咲はこの場にいるってわけだ。
それにしても痴話喧嘩を解決するために朝っぱらから大量のハンバーガーを焼くことになった店員さんたちには申し訳ない気持ちでいっぱいである。
座席の位置は、愛梨が一人。僕と平塚美咲は隣同士という配列だ。
店に入った時、愛梨が一人で座ってしまい、僕は必然的に反対側の座席を取る。となると、残った座席は僕の隣か、愛梨の隣か。彼氏を寝取った本人が愛梨の隣に座るとは考えにくく、最終的には僕の隣に座ってきたわけだ。
というわけで、現在の愛梨はご機嫌斜めなのである。パクパクと次から次へとバーガーを食べているところも彼女らしかった。本人曰く「やけ食いやってみたかったんだよねぇー」とのこと。
「同じクラスの生徒三人が無断遅刻。先生たちが心配してるかもしれませんね」
手をギュッと握りしめて膝に置いたまま、平塚美咲は静かに言った。
「言われてみれば……一応学校に連絡入れてたほうがいいかもな」
平塚美咲の問いかけに対して、僕が答えた瞬間である。
バーガーが大量に入っていたトレイが浮かんだ。愛梨がテーブルを叩いたのだ。
「ねぇーそれ何かな? 自分たちは仲良しですとでも言いたいのかな? ねぇーそうなのかなー? そうなのかなー? ねぇー答えてよ、西田くん」
鋭い眼差しを向けて、愛梨が僕の方へと迫ってくる。
ヤンキーがメンチを切ってくる姿に近しいかもしれない。
いや、もしかしたらB級ホラー映画の幽霊の方がいいかも。
「その前に沢城さん。一度汚いお口を拭いた方がいいですよ? 一人の女性として忠告させていただきますが」
平塚美咲の助言を聞き、愛梨は「き、汚いって……い、言わなくても」と愚痴りながら、ナプキンで口を拭いた。
ベッタリ付いたソースを見て、愛梨は顔を真っ赤にさせて、
「……は、恥ずかしい……わ、わたし……に、西田くんにこ、こんな顔を……」
こほん!! 大きく一回咳き込んだ後、平塚美咲は整然な態度で言った。
「沢城さん、さっきから健一くんには見えないようにこちらを睨んできてますが……もしかしてあたしが健一くんの初めてを奪ったからぷりぷりしているんですか?」
挑発するような物言いに、僕は思わず「ひ、平塚……」と小さな声で注意するのだが……平塚美咲の猛攻は止まらなかった。
「でもそれもあなたが悪いんですよ、健一くんに
「……わたしが悪いってどういうこと? 西田くんを盗んだのはあなたでしょ? わたしの彼氏なんだよ、そ、それなのに……何開き直ってるの?」
話が通じないとでも言うように、愛梨は平塚美咲を睨んだ。斜めに釣り上がった眉は裏返した直角三角形みたいで、細められた目は氷の刃のように冷淡だ。
「開き直ってはいませんよ。ただ事実を伝えただけです」
平塚美咲は動じる様子を見せずに、淡々と答えた。悪いのは一方的に僕たちなのに、どうしてここまで平塚は余裕な表情を浮かべているのだろうか。謎だ。
「愛梨さんは自分が悪くないと思っている。でも、果たして本当にそうなのでしょうか? 盗られた側にも何か問題があるのではないのかと思いまして。悲劇のヒロイン振って自分は可哀想だと思い込みたいだけなんじゃないですか?」
「あのね、平塚さん。わたしは西田くんの彼女だよ? わたしから西田くんの初めてを奪ったくせに、何を偉そうに説教垂れてるのかな? おかしいよね?」
沢城愛梨と平塚美咲はお互いに顔を見合わせて睨み合っている。猫の戯れあい程度ならいいけれど、その様子には一切見えない。今ここで殺人事件が起きてもおかしくない緊張感だ。実際に店内は静まり返っていた。平塚美咲の口から出た『セックス』発言。この言葉を皮切りとして、僕たち以外の客も「痴話喧嘩かな……」「うわぁーしゅ、修羅場だなぁー」と注目の的なのである。
ふううぅー、と一服したかのように、平塚美咲は大きく溜め息を吐いた。
それから悪びれた様子を一切見せず、テーブルに肘を付けて。
「彼女、彼女って言ってますけど……彼女ってそれほど重要ですか? そもそも沢城さんは本当に西田くんのことが好きなんですか? 答えてください」
不機嫌を通り越して、愛梨は呆れ顔になっていた。口をぽかんと開けている。小学生に大学の数学を解けと言ったら、あんな表情になるだろうな。
「大事に決まってるでしょ。彼氏彼女はお互いのことを愛し合ってるのっ!」
何度叱っても言うことを聞かない子供に怒る母親のように、愛梨は声を荒げて言った。視線は平塚美咲に向けたままだったが、数秒後、僕の方を一瞥して。
「わたしが西田くんのことが好き。この気持ちは本物だよ」
両手を胸の前に添えて、愛梨は戸惑う様子もなくはっきりと言った。
平塚美咲に言ったというよりは、僕に言ってるようだ。
自分がどれほど
「ふーん。そのくせに一度もセックスをやらせてあげなかったんですよね? それっておかしくないですか? そもそも、あなたは健一くんとの結婚を本気で考えているんですか? 夫婦になったら子作りは当たり前になるんですよ? 何人あなたは子供を孕めますか? 健一くんが喜ぶような元気な子供を産むことができますか? その覚悟がないなら、もう消えてください。健一くんの邪魔になりますから」
僕は固唾を飲んで黙るしかなかった。
数秒間に渡る沈黙。長いような短いような不思議な時間だ。
愛梨の表情は曇っていた。戸惑いに近いかもしれない。当たり前の話だ。学生の恋愛に、結婚や子供などという言葉はあまりにも重すぎる。
それでも何か言わなければならないと思ったのだろう。愛梨は結んだ口をゆっくりと開いたけれど、それを拒むように、平塚美咲はもう一度口を開いた。
「ただ、健一くんを弄んでいるだけなんじゃないですか? あなたの日頃の態度を見ると、誰に対しても平等に接する。それがどれほど健一くんの心を傷つけていると思っているんですか?
「はあぁー」とため息を吐き捨てた平塚美咲は、僕の手を握ってニコッと微笑みながらこう言うのであった。
「健一くん、もう自己中な
「ぼ、僕は……ぼ、僕は……」
「……に、西田くん……西田くん……わ、わたしは……大好きだよ、西田くんのこと。信じてくれなくてもいい。ただ……覚えていて欲しい。沢城愛梨という女の子があなたの初めての恋人だったということだけは……」
負けを認めたかのように、沢城愛梨は俯いていた。
ただジィーと冷めてしまったバーガーを見つめているのだ。
「さぁー健一くん、選んでください。どちらが彼女にふさわしいのか?」
どこまでも淡々と。自分の勝利が確信されたかのような物言いで。