「本当にあの選択で良かったんですかー?」
どこからともなく甘ったるく蕩けそうな声が耳元で聞こえてきた。
こんな声で喋りかけてくるのは、平塚美咲しかいない。
僕の初めてを奪い、僕の彼女・沢城愛梨を傷付けた同級生だ。
「後悔はないよ……僕が好きなのは愛梨だけだ」
沢城愛梨を選ぶのか、それとも平塚美咲を選ぶのか。
答えは簡単に出た。
僕が心の底から好きなのは
「あれから一週間が過ぎましたが……沢城さんの態度は変わりました?」
僕の肩に
「平塚のことが大嫌いだと。以前までの愛梨には考えられなかったことだな」
僕が肩を振り払うと、平塚美咲は「もうぉー。けちんぼ、けちんぼぉー」などとごねてきた。腕をぽこすかぽこすか殴ってくるのが面倒臭い。
「今更なんだけど……平塚ってメンタルすごいよな?」
「んー? 健一くんー、あ、あたしのこと褒めてくれたのー? う、嬉しいー」
無邪気な笑みを頂いてしまった。褒めたわけじゃないんだけどな。
「普通さ……振った男の元に喋りかけに来るか? あと……彼女持ちなのに。普通に愛梨も教室にいるし……、やっぱり、平塚、お前すごいよ」
鋼のメンタルって奴かな? 一週間前に思い切り振ったんだけどな。
クイズ大会出場者が最初の一文字が出てきた瞬間に勝ちを確信して早押ししたものの、物の見事に間違っていたぐらい恥ずかしいはずなのに。
「あの瞬間は、あたしを選んでくれなかった。ただそれだけの話です」
何よりも、と平塚美咲は微笑して先を続けた。
「健一くんはすぐに……あたしが恋しくなるはずですよ? だって、あたしと健一くんは相性がとってもいいんですからね。もうこれは確定事項です」
そういって、平塚美咲は僕を後ろから抱きしめてきた。前屈みという体勢ということもあり、柔らかな二つの感触がむぎゅっと僕の背中にのめりこんでくる。
「と、ととりあえず……平塚……僕に抱きつくな。愛梨が怒るぞ?」
「健一くんに対してなら、ありがたい話ですね。いっぱいお仕置きされてください。あたしを選ばなかった健一くんが悪いんですから」
「僕も怒られると思うけど……お前もだよ」
「大丈夫ですよ。沢城さんのこと、あたしも大嫌いなので。お互い様です」
ふふふふっと不気味に笑う姿を見て、女子って怖いなと思ってしまった。
もしかしたら僕のことも裏で色々と言われているのかもな。こ、怖い。
「それにしても……平塚の髪の毛っていいにおいがするな」
「健一くん、あたしに興味津々ですね。髪のにおいを嗅いでたなんて」
「お前が抱きついてきたからだぁ! とっとと離れろよ」
「好きな殿方に尽くすのは、淑女として当たり前です」
「愛梨がこちらを見てるので……と、とりあえず離れてください。お願いします。後から……僕が殺される可能性があるので。正座の説教は辛いので」
そ、そうですねー、と口元を僅かに歪めて、平塚美咲はクスッと笑いながら、
「分かりました。健一くんがあの人にこれ以上傷付けられる姿は見たくありませんし。もしも、健一くんの心が変わったら、あたしの元に来てください。いっぱいっぱいにあたしが癒してあげますからね。健一くんが大好きなマスカットの香りで。至極の限りを尽くして、あたしが気持ちイイことをしてあげますよ」
放課後が来た。
机から教科書やノートを取り出す僕の元に愛梨がやってきた。
ドン!? っと床を蹴るように音を立ててきた。「さっさとしろよ、話はこれからいっぱいあるんだからね?」と脅迫してくるようだ。うん、怖い。
いつもニコニコ笑顔な可愛い女の子はどこへやら、現在の表情は鬼や悪魔でも恐れて逃げ出してしまうほどだ。
「西田くん、お話があるから早くしてくれないかなぁー?」
「愛梨さん……お話ではなく、それって……説教ではないですか?」
「西田くんー大正解ぃー♡ よくできましたぁー」
幼稚園児を褒めるように、愛梨はパチパチと手を叩いて。
「分かっているなら早くしてねー。わたしのイライラが有頂天になる前に」
口の端が僅かに上がり、苦笑いになってやがる。
ヒビが入った仮面を被っているみたいに不自然だった。
これ以上、愛梨を怒らせてはまずい。
そう思った僕は急いで帰る支度をするのだが——。
平塚美咲と目が合った。教室の端からこちらを見つめてくる同級生の姿は実に楽しそうで、口元に手を当てていた。クスクスと笑っているのだろうか。
あの野郎……ぼ、僕がこうなることを予想して……。
ドンっ!? 大きな足踏みだった。地震が起きたのかと錯覚を起こすほどだ。
顔を上げると、沢城愛梨の姿があった。明らかに不機嫌極まりない表情だ。
「手が止まっているように見えるんだけど……彼女との時間は大切じゃないのかなー? どういうことなのかなぁー? 早くしてくれないかなぁー?」
ピキピキと額に怒りマークが見えた気がするけど……僕の気のせいかな?
本日のデートは、お家デートになった。
学校から自宅に帰るまでに散々と説教を受け、僕の体力はゼロに等しい。
「あれー愛梨……どうかしたのか?」
「い、いやぁーな、なんでもないよ。きょ、今日って、西田くんのお母さんっていないんだよねー?」
パタパタとわざとらしく手を振って、愛梨は否定する。
うん、絶対に何か訳有りなのだろうな。
「夕飯ぐらいには帰ってくると思うけど……今日は
「へぇーそ、そうなんだぁー。なるほどねぇー」
ガッツポーズをしてるけど……何かあるのか。僕の家に遊びに来るのは何度もあるのに、今日の愛梨はそわそわしているように見えるし。借りてきた猫が環境の違いに困っているみたいに見える。
異変が起きたのは、僕の部屋に入った瞬間だった。
「まぁー散らかっているけど……べ、別にぃぃ——」
後ろから思い切りシャツを掴まれて、そのままベッドへと突き飛ばされた。
言わずもがな、大胆な行動を取ったのは、沢城愛梨。僕の彼女だ。
「西田くん……今までごめんね。彼女っぽいこと何もできなくて……」
僕のお腹の上に馬乗りになった愛梨は、途切れ途切れに言った。
反省の様子が物凄く伝わってくるが……何を一体言っているのだ。
「だからね、いっぱいいっぱいわたし考えたの。自分にできることってなんだろって。西田くんの彼女として足りないのはなんだろうって……悔しいけど、これも全部は……平塚さんが原因だよ……で、でも今まで西田くんに寂しい思いをさせてきたのかって、わたし反省したよ……だ、だからね……」
うっとりとした瞳で、彼女はほおを真っ赤にさせて恥ずかしげに言った。
「わたしの
ベッドの上に押し倒されてしまい、僕は身動きが取れなくなってしまった。少しでも動こうとすれば、愛梨は目元をピクッと反応させ「逃げるの? 逃げちゃうの?」などと訊ねてくるのだ。もうどうすればいいのか、全く分からずに僕は口を紡いだ。そんな僕を恍惚な表情で見つめる愛梨は顔色を少しだけ曇らせる。
「どうして返事してくれないの……? わたしの初めては要らないの?」
スゥーと目の光が消えて、真っ暗闇に変わっていく。それと同時に、愛梨の周りからドス黒い影が見えた。僕よりも小さいはずなのに、影の大きさは僕の二倍以上はある。煙のようにモクモクと出てきて
「あ、あっ……あ、あの女の初めては喜んでもらったのに、わたしのは要らないのー? あ、れれー、あれれあれれー、おかしいよ、おかしいよぉ、それ」
自分の身に起きている現実を受け止められないのか、愛梨は僕の首を思い切り絞めてきた。自分の言うことを聞かない、
「ほらぁー西田くん。早く言って。ねぇーわたしとセックスしたいよね? いっぱいいっぱい、わたしと楽しいことしたいよねっ? あの女よりもいっぱいいっぱい楽しませてあげるよぉ。わたし頑張るから、ねぇー西田くん……」
愛梨の口は『へ』の字に歪んでいた。ドン底の窮地に落とされた人間が見せる笑みに似ている。常軌を逸脱した闇一色の瞳は濁り、掠れた声は救いを求めるように聞こえて仕方がない。もしくは泥沼へと足を引きずり落とそうと企む甘い誘惑なのか。
「ねぇー西田くん……どうして返事してくれないの? 嬉しくないの……? クラスで一番の人気者を犯せるんだよ、嬉しいよね、彼氏として……一人の
救いを何度も求めてきたが、僕は返事を返さなかった。
否——返せなかったのだ。首を絞められているので声を出そうにも出せない。
けれど、僕の上に跨った愛梨は気付く様子がない。自分のことで精一杯なのだろう。バサッバサッと頭を乱暴に掻き毟った愛梨は声を荒げて言った。
「ねぇー早くっっ!! 早くっっ……こ、答えてよっ!! さっさと、答えなさいよっ! いいからさっさとっ!! あの女とはヤッたのに、わたしとはヤれないっていうの? わたし彼女だよ? 西田くんの彼女なのに……」
元気で明るい愛梨の姿はもうどこにもなかった。廃人だった。
ネジが一本外れた人間。この表現が現在の僕の彼女・沢城愛梨には相応しいかもしれない。付き合い始めてから半年以上が経過したけど、こんな彼女を僕は知らなかった。
「どうして……ど、どうして……こ、答えてくれないの……わたしのこと嫌いなんだね……わたしのこと……嫌いなんだね……わたしのことなんて、別にちっとも好きじゃなかったんだ……西田くんはもうあの女が好きになったの……?」
ぐすんぐすんと涙を流し始める愛梨。
ポタリ、ポタリとほおを伝って垂れる水は僕のシャツを湿らせる。
「やっぱりあの汚らわしい女が悪いんだよ……わたしの西田くんをアイツが奪ったんだ。アイツは要らない…‥‥アイツは要らないんだ。西田くんはわたしだけのもの。西田くんはわたしの世界一カッコいい彼氏だもん。ぜ、絶対に渡さない。あの女は邪魔……あの女は早めに処分しないとダメだ……悪い分子は早めに取り除いてあげないと……ダメだ。また……一人ぼっちになってしまう……そ、それだけは絶対に嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……やっと幸せになれたのに……幸せだったのに」
このままではいけない。このまま愛梨を泣かせてはいけない。
そう思った僕は、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
シャツ越しに感じる柔らかい温もりは、僕の身体にのめり込んできた。泥沼へと足を踏み入れたように、次から次へと不快感が募った。それでも僕は愛梨を引き寄せて、後ろに回した手で彼女の頭を優しく撫でてあげる。
「ごめんな……ごめんな……あ、あ、愛梨……愛梨……」
首を絞められているので、僕はたどたどしい言葉で謝罪した。
沢城愛梨は一人で悩んでいたのだ。僕の彼女としてしっかりと。
それにも関わらず、僕は彼氏なのに彼女の異変に気付いてあげることができなかった。重い愛情だなとは思うが、それ以上に彼女が僕をこんなにも思っていてくれているのが素直に嬉しかった。
「愛してるよ……ぼ、僕は沢城愛梨……をあ、愛しているよ。心の底から」
その瞬間、僕の酸素を奪っていた白い手は離れていった。ストンと電池が切れたおもちゃのようだ。そのまま愛梨の瞳に気力が戻っていく。闇一色の瞳に琥珀色の輝きを宿したのだ。正気を取り戻した愛梨は自分が何をやっていたのか思い出したのだろう。顔色に一瞬だけ亀裂を走らせ、彼女は涙を流すのだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
永遠に続くと思うような、謝罪。目線を察するに、僕の首元を見ている。
「大丈夫だよ……僕は気にしてないから……愛梨がいつもの愛梨に戻ってくれればそれだけで安心したよ」
「……西田くんって優しいね。あ、ありがとう。わたしのダメなところも許してくれる。こんなダメな女の子なのに……迷惑ばっかりかけてしまうわたしを思ってくれる。わたしの全てを受け入れてくれる。西田くんはやっぱりわたしのもの。西田くんはわたしの大切な人だ。これが運命なんだ。西田くんとわたしは結ばれる運命なんだよ。神様が決めたんだ。そうだ、そうに決まっている。今も神様は囁いている。西田くんの子供を孕みなさいって、幸せな家庭を築けますって言ってる。分かりました……神様、わたし……頑張りますからァ」
「ほらぁー愛梨……とりあえず僕の上から一旦退いてくれないか? この体勢はちょっとキツくてさ……」
「えっ? 何を言ってるの? 今から子供を作るんだよ、今から一緒に」
言葉を失ってしまった。子作り……だと?
愛梨の瞳を見れば、すぐに分かる。本気で言っているのだ。
正気を取り戻してるのは確かだ。それにも関わらず……。
「既成事実を作って、あの女が踏み入れられない関係になるんだ。安心していいよ、西田くんは何も考えなくていいから。疲れているなら、そのままジッとしてていいよ。わたしが動いていっぱい気持ちよくしてあげるから。初めてだから、不安だけど……西田くんのためならどんなことでもできると思うの、えへへ」
そうか……最初から沢城愛梨は壊れていたのか。僕が気付く前から。
元々異常があることを知っていた。誰にでも対等に接して、誰にでも優しく振舞う、どこまでもお人好しな八方美人。
「わたしが勝手に西田くんの赤ちゃんを孕んで、勝手に出産して、勝手に育てるだけだから。面倒な女だと思うなら捨ててもいいよ。その代わりに……西田くんの周りに寄ってくる雌豚さんたちには不幸を運んであげるけどね、ふふっ……ふふっ……でも、安心していいよ。西田くんはこんなことをしないと思うから。ただの脅しだから。安心して。安心して、わたしに身も心も捧げていいんだよ。もう何も考えなくていい。もうわたしだけを受け入れてくれればそれだけでいい。わたしは西田くんよりももっとずっと大きな大きな愛を与えてあげるからね」