天雨アコ「こんなイヤらしい社長が支配する会社に、私はぜったい屈しません!」→なお 作:a-su
第1条 『目的』
セキュリティ・プロトコルは、社内の安全性と生体認証セキュリティ、個人データとプライバシーの管理、退職時の記憶消去プロセスに関する事項を定めるものである。これにより、社内情報や個人データの厳密な管理と、退職時には社員の記憶を消去することで企業の秘密を守ることを目的とする。
このプロトコルに定めのない事項については、別に社長の決定するところによる。
第6条 『特別矯正プログラム』
業務遂行において著しく不適切な行動をとった社員は、人工知能ヒュプノスによる「特別矯正プログラム」に参加しなければならない。
【前回のあらすじ】
メーデーの日、アスナは通路で社長の前にしゃがみ込み、衆人環視のなかフェラチオを始めた。ズボン越しのキスから包皮を舌で剥き、恥垢まで飲み込む献身ぶり。
ヒュプノスペックで快感が伝播し、周囲の女性社員たちも次々と自慰に溺れていく。社長の射精と同時に通路中の女たちが絶頂を迎えるなか、アスナは精液を一滴残らず嚥下し、萎えたペニスに皮を被せて「おやすみなさい」と子守唄のように囁いた。
──遠くでは、アコが率いる労働組合のシュプレヒコールがまだ響いている。
「一緒にアコちゃんを『分からせ』に行こうね」
アスナの甘い宣戦布告が、次なる嵐を予感させる。
前編
託児室の窓を、夕陽が赤く染めている。
「……はー…………」
天雨アコは、疲労の色が濃い息を吐いた。
息を吸い込むと、ミルクの匂い、赤ん坊特有の甘い香り、おむつ替え用品の微かな臭いが鼻腔に入り込んでくる。
へたり込むように、クッションフロアに座る。
(高そうですね、この床材。性犯罪者のくせに、こんなところだけ気が利くなんて)
床材は、子どもたちが転んでも怪我をしないように柔らかいものが使われている。アコの体重と疲労とを吸い込むかのようだ。
「やったねやったねアコちゃん!」
聖園ミカが、両手を振りながら床材の上で跳ねる。白いブラウス、白いフレアスカートというお嬢様風の清楚な装いだが、動きは子どものように無邪気だった。桃色の長い髪が、動きに合わせてさらさらと揺れる。
「だいせいこう〜☆」
透き通るようなソプラノは、シュプレヒ・コールで酷使したせいか、少しだけかすれている。
「ミカ?」
「ひゃいヒナさんっ」
「大声を出さないで。もう寝かしつけの時間だから」
少し離れた場所には、空崎ヒナがいた。動きやすいトレーナーにジーンズを身につけ、長い白髪を後ろでまとめている。
腕の中に赤ん坊が抱かれていた。社長の子どもだ。生後数ヶ月の乳飲み子は哺乳ビンを咥え、小さな音を立てながらミルクを飲んでいる。
「ねえアコちゃん、聞いてる?」
ミカがアコの前にしゃがみ込んだ。膝を揃え、顔を覗き込んでくる。大きな目をきらきらと輝かせ、息を弾ませていた。
「ふ…………」
アコはタブレットを胸の前に構えた。ミカの勢いに少し押されている。
しかし口元は緩んでいた。嬉しさを隠せない。
今日のシュプレヒコールは大成功だった。四十人のイエロー社員を集めて声を上げ、社長の度肝を抜けたはずだ。
アコは表情を引き締め、タブレットに文字を打ち込んだ。ミカに見せると、彼女は頬を膨らませる。
『浮かれすぎですよ、副委員長』
「もー、副委員長とか堅い。ミカでいいってば」
『浮かれすぎですよ、ミカさん』
「だって成功したじゃん? アコちゃんの作戦通り」
『私たちは最初の入口に立っただけですから』
「かたいなー、アコちゃんは」
ミカが立ち上がり、くるりと回った。白いフレアスカートが、ふわりと広がる。
「でもでも、今日は嬉しい! 久しぶりに大声出せて気持ちよかったし」
その言葉に、アコは視線を落とした。
──声。
自分には、もうない。
「ぅ…………」
一ヶ月前、社長の首を絞めようとして、発声機能を奪われた。どれだけ喉を震わせても、声にできない。タブレットを使った筆談だけがコミュニケーションの手段だった。
『ミカさんの声は、よく通りますね』
「えへへ、そう? シュプレヒコールで四十人を引っ張るの、マジで楽しかった~☆」
ミカは無邪気に笑っている。アコの沈黙に気づいていないのかもしれない。
(それとも、気づいていて、あえて明るく振る舞ってくれているんでしょうか……)
アコは、周囲を見回した。
この託児室ゲヘナ──なんてひどい名前だろう──には、乳幼児を養育するために必要なものがそろっている。ベビーベッドが何十も並ぶスペースもあるし、遊具で遊ぶためだけの部屋もある。
奥のスペースから、教育用
『おひさまおねえさんと、おつきさまおねえさんの、たのしいたいそう~!』
一歳から三歳くらいの幼児たちが、女性の朗らかな声に合わせて跳んだり跳ねたりしている。
全員が、社長と女性社員との間に産まれた子だ。
そしてBDから聞こえている声は、一之瀬アスナのものだった。
『──♪ おつきさまってきれいだね♪ おひさまもあったかいね♪』
これは『おひさまとおつきさま』シリーズという。ユートピアの福祉部門が制作した、乳幼児向けの教育コンテンツだ。
(アスナさん…………分かっていて、そのBDに出演してるんですか?)
ここの子どもたちは『おかあさんといっしょ』も、『アンパンマン』も知らない。会社に与えられた教育コンテンツだけを見て育つ。閉ざされたビルの中で、太陽と月が照らす本物の世界を知らずに育つのだ。
明るく歌うアスナは、それがどれだけむごいことか分かっているのだろうか?
アコは、タブレットを握りしめる。
『そろそろ、反省会を始めましょうか』
「えー、もうちょっと喜ばせてよぉ」
ミカは頬を膨らませるが、すぐニッコリと笑った。
「ま、いっか。アコちゃん……じゃないや、書記長の言うとおりにする」
書記長の天雨アコ。副委員長は聖園ミカ。そして、委員長の空崎ヒナ。この三人がユートピア労働組合を組織し、実質的に動かしている三役である。
「ねえねえアコちゃん、今日のシュプレヒコールさ、マジですごかったじゃん」
指を折りながら、ミカは興奮気味に続ける。
「まず組合員の集め方! イエローの子たちに声かけて、四十人も集めたんでしょ? しかも一週間で」
『ミカさんの協力があったからです』
「いやいやいや」
ミカが両手を振る。動きが大きい。お嬢様育ちとは思えないほど、身振り手振りが派手だった。
「私はただ、『社長に愛されたい子、集まれー』って叫んだだけじゃん。資材の確保とか、場所の手配とか、全部アコちゃんがやったでしょ?」
『それは、委員長がゲヘナを貸してくださったので』
ヒナは、視線だけを静かに動かした。ミカを見て、アコを見て、また赤ん坊へと戻し、哺乳ビンの角度を微調整する。頬にかかった白髪の後れ毛を払いもせず、気だるげな目でまた二人を見た。
「でもでも、声の出し方の指導! あれすごかった! 『おへその下で空気を固める』『声は単語で区切る』『喉はアクビをする形』『三拍子のリズムで』って、あれで私、喉潰さずに最後まで叫べたもん」
『ミカさんは、もともと声量がありますから』
「あははっ。ねえ、アコちゃんって風紀委員だったんでしょ? 女子校の」
『はい』
「だからあんなに人を動かすの上手いんだ? 手旗で四十人を同時に動かすとかマジやばいじゃん。後ろの子たち、旗は見えてないのに、『社長は・平等に・愛を与えろ~』って、みんな三拍子で声揃ってたし」
それは、催眠術と同じ原理だ。
リズム。反復。感染。
群衆の中にいる人間は、個人としての判断力が低下する。その心理を利用すれば、旗の動きを見ていない後方の人間も、前方の熱狂に呑まれて同調する。
『風紀委員の経験が、少しだけ役に立ったんです』
「あれで少しだけ? 風紀委員ってすっご。私はね、お嬢様学校だったから、風紀委員とかいなかったし。みんなお行儀よかったから」
アコは、ミカの顔を見上げた。
「これでさ、私たちイエローも社長に愛される生活に戻れるよね。だってさ、社長も気づいてくれたじゃん。私たちのこと、ちゃんと見てくれてた」
笑顔の中で、琥珀色の瞳が星のように輝いている。
(純粋ですね、この人)
社長を愛している。それも本気だ。もちろん洗脳のせいなのだろうが、早瀬ユウカや砂狼シロコにも似た、腹の奥底から湧き出るような情熱を感じる。
「この活動でさ、全員が愛してもらえるように会社をカイゼンしたら、私、イエローから昇格できるよね? スカイブルーに戻りたい。また社長室で、二人きりであのひとに愛されたい。だって大好きなんだもん!」
労働組合の活動も、社長に振り向いてもらうための手段だと本気で信じているのだ。思慮が足りない、と言ってしまえばそれまでだが……。
(ごめんなさい)
アコは視線を落とした。タブレットの画面に、一つ一つ文字を打つ。
『次は、団体交渉を目指しましょう』
「おっけ~、予定通りだね」
『ええ、みんなで社長と直接
人を操る。人を騙す。催眠術まがいの方法を使い、誰かの愛情を利用して目的を達成する。それは、あの社長とどう違うのだろう。
「ミカ」
ヒナの声が静かに響いた。
「言ったわよね、騒ぎすぎないで」
低くて気だるげだが、有無を言わせない響きがある。
「はーい。じゃあ私、大きい子たちと遊んでくるね」
ミカは頬を膨らませたが、意外と素直にうなずく。立ち上がると、白いスカートがふわりと揺れた。
その背中を見送ってから、ヒナは視線を向けてくる。
「アコ」
名前を呼ばれただけなのに、背筋が伸びる。
「七十……七十五年前かしら。団体交渉中に
ヒナは乳飲み子を抱き直した。哺乳ビンの角度を調整しながら、淡々と続ける。
「今日のシュプレヒコールは成功した。社長も無視できないと思う。でもね、アコ」
『お言葉ですが委員長。社長には、償いをさせないといけません』
急いで打ち込み、ヒナに見せる。
彼女はちらりと画面を見たが、表情は変わらない。
「命で?」
アコはタブレットを握りしめる。指の圧力で画面がきしむ音がした。怒りを込めて、一文字一文字を打ち込んでいく。
『委員長は、性犯罪者を実力で排除することに反対でいらっしゃいますか?』
「ごまかさないで。彼に命で償わせるつもりなの?」
沈黙が落ちた。
奥のスペースから、子どもたちの笑い声が聞こえる。ミカの明るい声も混じっている。
その音が、遠い。
『委員長を引き受けていただいたことには感謝しています。ここを事務所として貸していただいたことも。でも』
指が止まった。次の言葉が出てこない。「でも」の先が、打てない。
頭の中で、法律の知識が駆け巡る。
(あの男の、罪状…………)
不同意性交等罪。五年以上の有期拘禁刑。
逮捕・監禁罪。三月以上七年以下の懲役。
傷害罪。暴行罪。強要罪。詐欺罪。
百人を超える被害者。何十もの罪状。
(でも、死刑には、ならない)
どれだけ積み上げても、どれだけ数えても、法律は冷たい結論を返す。あの男を殺すことを許す、そうは決して言わないのだ。
無意識に、右手が首筋に触れる。
一ヶ月前に、社長の首を絞めた。両手で、力の限り絞めた。死ねと叫んだ。声の限り叫んだ。
そして──アスナに、頬を張られた。あの衝撃が、まだ残っている。
「アコ」
ヒナの声で我に返った。
彼女は乳飲み子を見下ろしている。社長の子だ。
「私はね、彼が女に刺されるなら、それも仕方ないと思ってる」
淡々とした声だった。感情が削ぎ落とされている。
「自業自得よ。それだけのことをしてきてるわ」
赤ん坊がぐずり始めた。ヒナは哺乳ビンを置いて、小さな背中をさすり始める。
「でもね、あれでも人の親なの。許せとは言わない。私だって許さない。だけど……せめて、人として見てあげて」
ヒナの腕の中で、赤ん坊が眠り始めていた。小さな手で彼女の服を握っている。寝顔は無防備で、安らかなものだ。
奥のスペースから、笑い声が聞こえてきた。子どもたちの甲高い声と、それに混じるミカの声。積み木を崩したらしく、派手な音と歓声がいくつも上がった。
「アコちゃーん」
ミカの弾むような声が近づいてきた。振り返る間もなく、腕を取られる。アコの腕をぎゅっと掴む力は、手指の細さから想像するよりもずっと上だ。護身術の心得があるらしい。
「ごはん行こ。遊んでたらお腹すいちゃった」
屈託のない笑顔だ。子どもたちと遊んで汗をかいたのだろう、額に細い髪が貼りついている。
逆らわずに立ちあがると、背後でヒナが乳飲み子を抱き直す気配がした。視線を感じる。
アコは振り返らなかった。
廊下に出ると、空調の冷たい風が頬を撫でた。ゲヘナの暖かさとの温度差に、アコは小さく身震いする。ミカは気づかなかったのか、そのまま歩き続けた。
「ごはん☆ ごはん☆」
エレベーターホールに向かう廊下は、夕焼けの光で赤く染まっていた。窓ガラスの向こうに、東京のビル群が見える。
あの向こうに、普通の世界がある。普通の人々が、普通に暮らしている。ここにいる限り、その世界には戻れない。
アコも、ミカも、あの子どもたちも……アスナも。
「ねえ、アコちゃん」
ミカが急に声のトーンを落とした。足を止め、窓の外を見ている。夕陽に照らされた横顔には、いつもの天真爛漫さがうかがえない。
「……ありがとね。イエローにされて腐ってた私に、やるべきことを教えてくれて……」
声が、小さくなっていく。
「私、スカイブルーに戻れるよね。
アコは、タブレットの縁を握りしめた。ぎゅっと、指が白くなるくらいだ。
(ダメです。妥協したら、ダメです)
ミカの望みは社長に愛されることで、それは洗脳の結果だ。彼女を開放しなければならない。
あの子どもたちを、アスナを、自分自身を、偽りのユートピアから解き放つ。それこそが天雨アコの誓いであり、自らに科した「社会人としての仕事」なのだから。
そのためには──。
『でもね、あれでも人の親なの。許せとは言わない。私だって許さない。だけど……せめて、人として見てあげて』
その、ためには──。
(続く)
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