天雨アコ「こんなイヤらしい社長が支配する会社に、私はぜったい屈しません!」→なお 作:a-su
「アスナさん、息をしてアスナさんっ」
「やばい心臓も止まってる! ミカ、AEDを!」
「分かった、場所は前と一緒だよね!?」
一糸まとわぬ姿のアスナが、目を見開いたままベッドに横たわる。覆い被さる社長は、心臓マッサージによる汗でパジャマをびっしょりにしていた。
下着姿のミカが駆けてきた。四角い装置を開封し、パッドをアスナの胸に貼る。
「離れて!」
どんッ!
一秒。二秒。三秒。
浅い呼吸が唇のあいだから漏れはじめる。
「呼吸もどった……!」
アコはアスナの手を握った。冷たい。指先にかすかに脈を感じるが、目は天井を向いたまま動かない。
「アスナさん。聞こえますか。アスナさん」
名前を呼ぶ。もう一度呼ぶ。何度呼んでも、焦点の合わない瞳がアコを素通りしていく。
ミカが社長の腕にしがみついた。
「……アスナちゃん、何がどうなってるの」
社長は答えない。アスナの顔を覗き込んだまま、汗を拭うこともできないでいる。
「社長」
アコの声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「どう見ても普通の病気じゃありません。外の病院に運ぶべきです」
社長の顔が歪んだ。唇が開きかけて、閉じる。
沈黙が長い。
長すぎる。
やがて彼は顔を上げて、鏡を見た。普通はテレビがあるべき場所にかかった、大きなものだ。
「ヒュプノス!」
声が壁に吸い込まれる。
次の瞬間、社長室の照明が一段落ちた。暗くなった部屋の中で、白い光が動く。
鏡面がかすかに青白く発光している。一枚だけではない。姿見も、三面鏡も……窓だと思っていたのはマジックミラーで──とにかく社長室のすべての鏡が、
アコは壁の鏡を見た。自分が映っている。泣き腫らした目で、アスナの手を握ったまま振り向いている──はずだった。
鏡の中のアコは泣いていなかった。真っ直ぐに見返し、薄く微笑んでいる。
『お仕事ですね。はい、お任せください』
──アコの声だった。
思わず自分の唇に触れるが、閉じているし動いていない。でも鏡の中では、口がまだ動いている。
『一之瀬アスナ様のお体をスキャンいたします。どういう事態なのか、もう少し検討する時間をください』
アスナの耳元で、ヒュプノスペックが光った。スカイブルーのLEDが、脈拍のような緩慢なリズムで明滅しはじめる。
鏡の中で、アスナの身体に青い線が走った。人体の輪郭をなぞるような細い光の線だ。頭部のあたりで線が密になり、赤く変わった。
鏡の中のアコが報告する。
『判明している分析データを確認します。心拍は回復。呼吸も安定しています。ただし大脳皮質の活動が著しく低下しています。神経応答が確認できません。端的に申し上げると、一之瀬アスナ様は、身体は生きています。しかし
それだけ言って口を閉じる。表情は変わらない。
社長室が静まり返った。聞こえるのはアスナの浅い呼吸だけだ。
ふと視線を動かすと、三面鏡の中にもアコがいた。
姿見にもアコがいた。
窓のマジックミラーにもアコがいた。
どのアコも同じ顔で微笑んでいるのに、現実のアコだけが戦慄している。
『原因の特定には外部医療機関の精密検査が必要です。ただし、セキュリティ・プロトコルに基づき、社員の外部搬出は推奨いたしかねます。ユートピアの機密保持に対する重大なリスクが生じます』
──いま、
社長は鏡の前に立ちつくしていた。鏡の中のアコと、ベッドのアスナを、交互に見ている。
アコは意識不明の親友から手を離し、立ち上がった。社長の正面に回り込む。
乾いた音が鳴った。
「しっかりしてください、
掌がじんと痺れている。
「あなたは、あなたは──女の子を見捨てる大人だったんですかっ!?」
社長の頬が赤くなり、目の焦点が合っていく。
彼はポケットからスマートフォンを取り出した。
「ネル? 救急車を手配して。そう、アスナを外部の大学病院に搬送する。健康状態のデータも、C&Cでスクリーニングしてから出して。……分かってるよ。私が責任を取る」
社長はベッドに戻り、アスナを毛布で包みはじめた。ミカがシーツを引き寄せて手伝っている。
アコは鏡の前に残っていた。
『はじめまして、天雨アコ様。私はヒュプノス。若く美しい女性を幸福にするために、存在するAIです。今後はスカイブルーになられるとのことで、どうぞよろしくお願いいたしますね』
そこに映る自分は、人間たちの慌ただしさとは無関係に、変わらず穏やかに微笑んでいる。
『先ほどは、社長のご判断を助けていただき、ありがとうございます。一之瀬アスナ様のご回復を、心よりお祈りしています』
鏡の中のアコが言葉を継ぐ。声のトーンも微笑みも変わらなかった。
『ただ、一つだけ。マインド・プロトコル第三条によれば、社員の感情は会社にお預けいただくことになっています。社長を叩くような衝動は──次にお感じになったとき、私のほうで調整させていただきますね。痛みはございませんので、ご安心を』
アコは答えない。ただ、自分の顔をした【敵】を睨み続ける。
(続く)
書きためはここまでです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
評価・お気に入りなどいただけると励みになります。
アンケートや感想でのフィードバックも大歓迎です!
次は夏頃を予定しています。お楽しみに!
どのエピソードが好きですか? 続きを書く参考にさせてください。
-
プロローグ
-
ユウカの章-1
-
シロコの章
-
リンの章
-
ユウカの章-1
-
ミッドローグ
-
ミカの章
-
アスナの章
-
アコの章-1
-
アコの章-2