「いつでもイッていいですよ♪」と甘やかす姉と「絶対イっちゃダメだから」と意地悪する双子姉妹に挟まれる先生の話 作:千吹つぐ
「起立、気をつけー、礼」
さくらの号令に従って、三年三組の生徒たちが頭を下げる。午後のヒトコマが終わって、短い休み時間が始まった。
「つかれたー」「つぎ理科室だっけ?」
生徒たちがせわしない様子で移動を始める。さくらも、今日は質問に来る余裕などなくて、友人たちとともに去っていった。
高木も教室を出る。
そのあいだ二人は目線すらかわさなかった。外でのさくらは相変わらず、完璧な生徒会長でありつづけた。
それが高木を安心させて、同時に少し怖くなる。
(女は怖い。とはこういうことを言うのかもしれないな……)
歴史資料室に戻る。
高木は鍵を開こうとして、しかしそこがすでに開いていることに気づいた。
(おや? これは……)
扉を開くと、とても学校とは思えない、雰囲気の良い部屋が広がっていた。
おそらく、何代か前に趣味の良い歴史教師がいたのだろう。部屋にはそれ自体が歴史を感じさせる古びた棚がならび、郷土の遺物がインテリアのように飾られている。
「葵くん? 来ているのかい?」
声をかけながらソファを覗き込むと、そこに一人の生徒が眠っていた。
「……すぅ……すぅ……」
まるで西洋人形《ビスクドール》のように美しい彼女は、重厚なソファで体を丸め、すぅすぅと豊かな胸を上下させていた。綺麗に切りそろえられたショートボブがサラサラと流れて、顎のラインを撫でている。
「葵くん。起きてください。葵くん」
「ん……んん?」
少女が目覚めて、とろんとした瞳が開かれる。
(ああ……こうして見ると本当に、双子なんだな)
その顔に、高木は一瞬ヒヤリとする。
少女の名は藤宮葵《ふじみやあおい》。その名の通り、藤宮さくらの双子の妹だ。
「……おはよ、先生」
しかし、そっくりだったのはそれまでで、葵の印象はみるみるうちに変わっていった。瞳はきりりと吊り上がり、感情の薄い声は氷のように冷えていった。
さくらが陽なら、葵は陰。完全な一卵性の双子は顔立ちこそそっくりなものの、それ以外はまるで別物だった。
「葵くん、おはようではありませんよ。サボっているようなら、出席のハンコは押せませんよ」
「む……先生、私、さぼってなんかないよ。うたた寝したのは休み時間に入ってからだもん」
きっ、と流麗な眼差しが高木を突き刺す。ただ、見つめるという行為も、葵のような美人がすると迫力があった。
「え? ……ああ、なるほど、たしかに課題も終わっていますね。すみません葵くん、これは私の思い込みでした。謝罪します」
「ん、べつに」
高木は頭を下げた。普段からあの手この手でさぼろうとする生徒たちを相手しているせいか、彼女を不当に疑ってしまった。
これは気分を害してしまっただろうか? 高木はすこし不安になる。
「まったく、先生は他の大人と違って、すぐあやまるね」
「それはすみませ……あ」
「ほら」
「ごほん……確かに、謝罪グセはよくないですね」
「別に、悪いとは言ってない」
つん、とした態度で葵は立ちあがり、隅にある給湯所でお茶を淹れ始めた。
「はい、先生」
「……ありがとうございます」
学生時代から愛用している古びたマグカップに、ちぐはぐな玄米茶が入っている。葵もまた、勝手に愛用している萩焼《はぎやき》に注いで、茶道部もかくやという所作で口をつけた。
(……どうやら機嫌はいいようですね)
高木の猫舌にあわせたやさしいお茶が、わかりにくい少女の機嫌をあらわしていた。
藤宮姉妹の妹、藤宮葵。
事情を知らぬ人間が見れば『妹のほうがよっぽど生徒会長らしいのでは?』と目されるほどの秀才然とした少女は、しかし実のところ教師たちを悩ませる問題児だった。
と言っても、そこに彼女の責任はほとんどない。葵の成績はとても良く、素行だって悪くなかった。
ではなにが問題だったのかというと、彼女はドロップアウト組なのだ。
葵はもともと新体操の特待生としてこの学校に入学した。だが一年生の後半、関節の酷使によって、その選手生命を断たれた。
それだけでも過酷だというのに、葵を待っていたのは大人たちの諍いだった。
原因を学校に求めた母親と、真っ向から否定する学校側の闘いによって、葵の処遇は二転三転と覆されて、最終的に、無関係な高木のクラスに放り込まれたのだ。
乱暴な話だ。と高木は思う。件の編入に葵の意志はほとんどなく、すべてが大人たちの意向で決まったものだった。
当時の葵の姿を、高木はいまでも鮮明に思い出せる。誰も信用しておらず、捨て猫のような有様だった彼女。傷ついた足を松葉杖で引きずった、暗い目をした子供。
「……ん、おいし、うまく淹れられた」
だがいま、お茶を飲む葵の顔に、当時の悲壮感はなくなっていた。絶望は冷静に、臆病は用心深さへと姿を変えて、彼女の複雑な性格をいろどっている。
現在の葵は、いわゆる保健室登校という扱いになっていた。
保健室登校とは、いじめや精神的な問題で、登校はできるが教室にはいけない、そんなハンデキャップを抱えた生徒への措置だった。『保健室』と名前はついているが、その実態は図書室やそれに類する施設――たとえば歴史資料室の登校でもよしとされた。
葵は結局、昨年のほとんどをこの部屋ですごした。
だが、それもこの春までの話で、三年生になった彼女は自然と教室にも顔を出すようになっており、この部屋にくるのも久しぶりだ。
高木にはそれが嬉しくて、そしてほんの少しだけ寂しい。
例のハガキを思い出す。高木を忘れた五人の少女たち。葵もまた、告白こそされていないものの、似たような郷愁を感じさせた。
「……ね、先生、覚えてる?」
と、そのとき葵が言った。
自他ともに鈍感と言われがちな高木は、この手の『察する』質問が苦手だった。
だがこのときはなぜか、彼女の考えが読める気がした。
「ええ、覚えてますよ」
「え? ……嘘でしょ。自分で言っといてなんだけど、いまので分かるわけないよ」
葵がジト目で睨む。
「私、嘘、嫌いなんだけど」
「知っていますよ。嘘ではありません」
「……ふぅん。じゃあ当ててみてよ。嘘だったら、酷いからね」
「私達が初めて出会った頃のこと、じゃあないですか?」
葵が、こんどこそ本当にびっくりしていた。いつも驚かされてばかりの高木はすこしばかり痛快だった。
「すごい、先生。どうして分かったの?」
「ちょうど私も思い出していたので」
「ん……そっか」
葵が、本当に珍しいことに、ふわりとした柔らかな笑みを浮かべた。
やはり似ている。高木の心を、小さな針がチクリと差した。
「先生覚えてる? あのころって私、ボロボロでさ」
「……ん」
「誰も信じられなかったの。ママも、コーチも、私にあんなに『がんばれ』って言ってたくせに、いざとなったら『自分は知らなかった』って知らんぷりして……」
「葵くん?」
高木は慌てて立ち上がり、ソファの横で膝をついた。無理に思い出すことはないと、視線でやんわりと伝えた。
「大丈夫、先生。私もう大丈夫だから……」
しかし、葵は力強く微笑んだ。
「ね、先生、あのときもこの場所だったよね」
思い出が蘇っていく。一年半前にこの場所で起きたことが脳裏に浮かぶ。
(私が担任の高木鷹也です。藤宮葵さん、これからよろしくおねがいしますね)
そう挨拶した高木を、完璧に無視している少女がいた。
心と体に傷を負った少女は、高木を見ることすらせずに、ただ松葉杖にすがっていた。……まるでそれ以外の何も信用できないとでも言うように。
その姿が、高木には哀れで、申し訳なくて、
(……すみませんでした)
気づけば、高木は頭を下げていた。
(え?)
そのとき、初めて少女の瞳が高木に向いた。
(……なんで、あんたが謝るのよ……)
(大人が――本来責任を取るべき我々が、あなたにひどいことをしたからです)
教師人生で、あれほど真摯に謝罪したことは他にない。
(今回のこと、あなたはなにひとつ悪くなかった。ただ、大人たちの身勝手な期待に応えようとして、限界を超えて壊れてしまった。そのことを、どうか謝らせてください。本当に、申し訳ありませんでした)
「あのときね、先生」
思い出から現実に戻る。
「ママも、コーチも、大人たちはみんな私に言ったの『運がなかった』『きつかったなら、もっと早く言えば良かったのに』って……それで、私もそうなんだって思ってた、私が弱いのが悪いんだって……でも、先生が頭を下げてくれて気づいたの」
葵が立ち上がった。足の古傷をものともせずに、もう松葉杖になど頼らずに、自分の足で立っていた。
「ああ、私って、悪くなかったんだって。……ママやコーチは、やっぱり卑怯だったんだって、私に、あんなに頑張れって言ったのに、やればできるって、さんざん背中を押したくせに……」
「葵くん」
高木も立ち上がって、そんな葵の肩を抱いた。そうすることに躊躇いはなかった。
「私、本当はただ謝ってほしかったの、自分たちのせいだって、ひどいことして、ごめんって、でも、でも……」
本来なら、これは違う人間の役割なのだろう。母親や、馘首になったコーチ、そういった人たちがしてこそ、彼女の傷は癒えるのだろう。
だが、人生はそう上手くもいかず、かといって最悪にも落ちきれず、代わりの男を遣わせた。
「ママの、ばかぁ……」
高木の胸のなかで、小さな娘が泣いている。本当にほしいものを得られなくて、代わりの品で慰めている。
自分がそれになれるのなら、これ以上の幸せはなかった。
「じゃあ、先生、ばいばい……」
学習時間が終わって、葵はカバンを持ち上げた。その目元はまだ少し腫れていた。
「大丈夫ですか? なんなら、もう少し休憩していっても構いませんよ」
「いい、……どうせもうすぐお姉ちゃ……さくらも来るんでしょ?」
葵が、苦虫を噛み潰したような顔をする。この姉妹は、というよりも藤宮の家にはまだ高木も知らない確執があるようで、妹は姉を避けていた。
「はぁ……まったくもう、歴史なんて前は全然興味なかったのに、どうしていまさら」
「それは……」
言われて高木は気が付いた。さくらの最初の目的は歴史でも高木でもなくて、きっとこの妹を気にしてのことだったのだろう。
「先生、分かってると思うけど、今日のことは内緒だからね? ……とくにさくらに言ったら、怒るから」
「もちろん、誰にも言いませんよ」
「本当? 嘘じゃない?」
じっと、過去に何度も裏切られた少女が、用心深そうに睨みつける。
「ええ。……私が葵くんに、嘘を言ったことがありましたか?」
「ん、ない」
葵が、にっこりと笑った。
「先生のことは、信用してる。……それじゃ、また明日ね」
そう言って、振り返らずに去っていった。
「……あれ? ブレス、どこ?」
三十分後、最寄り駅まで付いたところで、葵は忘れ物に気がついた。
左の手首にいつもつけている、革の編み紐がなくなっている。それは以前、資料室で見つけた高木の研究資料で、なかば無理やりねだって貰ったブレスレットだ。
「……あ、コップ洗ったときか」
忘れ物の在り処を思い出して、葵はさっさと踵を帰した。これまでの二十分の道のりも、姉に出くわすかもしれないというおそれも、関係なかった。
(先生にもらった、ブレスレット……)
足取りがだんだんと早くなる。万が一にもなくしたくなくて、急いで学校に戻っていく。登校口で靴に履き替えて、二段飛ばしで階段をのぼる。
(こっそり入って、内緒で取れば気づかれないよね……)
できれば姉には会いたくなかった。さいわい給湯所は入り口のすぐ近くなので、静かに入れば気づかれることもないだろう。
旧講義堂に入って、その奥にある資料室へと続く扉を開こうとして、
「あれ? 鍵かかってる。……もう帰ったのかな」
それにしては、まだ空調が動いている。
「……先生?」
二人が中から鍵をかけている。普通に考えればそうなるはずだが、葵にはその想像がなかなかつかなかった。高木は生徒と二人っきりになるということを良しとせず、葵と一緒のときも鍵など決して閉めなかった。
嫌な予感が立ち上る。もちろん、それは部屋のなかで行われていることを予見してのものではない。葵は高木を、そして真面目な姉のことだって信頼はしていた。だから、なにか事故でも起きているのかと思ったのだ。
「よいっしょ……」
葵は窓をカラリと開けて、跳馬競技のように飛び越えた。すっかり癒えた足で着地を決めて、室外機に膝を乗せて窓に張り付く。
なぜかカーテンが閉まっている。逆光で室内がよく見えない。顔を近づけて、わずかな隙間から覗き込む。
そして、見た。
『……ああ……せんせ……』
葵が唯一信頼する大人が、姉と淫らに抱き合っていた。