「今日も大漁、大漁!」
自分の身体の数倍もあろうかという大魚を担ぎ、山道を少年が歩く。木の陰から覗く動物たちは、その様子をうかがいながらも何もしようとはしない。一瞬で少年を縊り殺せそうな熊も、虎も、狼も。
少年がこの山のどの生き物よりも強く、自らに仇をなすものには容赦ないと知っているからだ。少年がこの山のどの生き物よりも大食いで、襲いかかりでもしようものなら数時間後には彼の胃袋に収められてしまうのを知っているからだ。
少年が食うための殺生しかしないことも、山の動物たちは知っていた。下手に手を出さなければそれでいい。彼とは"良き隣人"であることが最良であるということは、この山では常識だった。
あと数分で、亡き祖父と過ごした家へと辿り着くその刹那。少年がはじめて耳にする音が聞こえてきた。山を降りればいくらでも聞こえてくるその音。記憶のすべてをこの山で過ごしている少年が困惑したその音は、自動車のエンジン音だった。
少女は、山に入ってからここまで人間に会うことはなかった。であれば、と、コントロールを確保できる限界速度までアクセルを踏み込み、ダートレース気分で目的地に向かっていたのだ。
わずかな下り坂でもタイヤが飛び上がるほどのスピード。エンジン音に反応して振り向いていた少年は、猛スピードで突っ込んでくる鉄の塊に驚き、動きが止まる。
「い!!!」
「わっ!!!!」
少女は全力でブレーキを踏み、ハンドルを思いっきり左に切った。真横に滑りながら、タイヤがけたたましい鳴き声を上げる。車はさらに推進力を逆方向に逃し、車体後部を向けながら、少年の目の前でなんとかその動きを止めた。
「……ビ…ビックリした~~」
「ちょ、ちょっと!あぶないじゃないっ!!」
自らの危険運転は棚に上げ、少年を責め立てる少女。この山の王に向かって人間のメスが何をしようとしているのかと、動物たちがにわかに騒ぎ出す。
「お、おのれ怪物め!さてはオラの獲物をよこどりしようってんだな!!!」
車の下に入り込み、少年は力を込める。小型車とはいえ、少女を載せた車は数百キロの重さがある。それを、歯を食いしばりながら投げ飛ばした。第二次性徴期を迎えていないように見える幼い少年の姿から全く想像できない、異常なまでの膂力だった。
「さあかかってこい!!オラがあいてになってやる!!!」
少女の混乱は極限に達している。それなりに凶暴な獣も生息し、人などいるわけのないド田舎のこの山道に、突然現れた子供。轢き殺さなくて済んだという安堵と、恐怖による興奮からつい攻撃的な態度をとってしまったが、悪いのは明らかに車側、つまり自分であることは理解していた。
ここからの少年の態度次第ではあるが、この山の住民であれば目的地までの案内を頼む選択肢もあった。少女の目的地は、正確な位置はわかるものの、そこまでの過程はまったく不明だ。この山の地理に明るい者であれば、難しい場所であったとしてもスムーズに辿り着けるかもしれない。示談金を兼ねて謝礼を渡してもいい。なにせ少女は世界一の大企業の令嬢だ。金などいくらでもあるのだ。
混乱していても、一瞬でそう考えていた少女の明晰な頭脳。しかし少年の膂力によって少女の混乱は極限を超えた。轢き殺されかけたとしても、まさかいきなり反撃してくるとは想像していなかったし、ましてや少年の手によって車が地面を離れることになるなど、どれだけの天才であっても予想することは不可能であろう。先ほど坂をジャンプしたときとはまた違う浮遊感。どういう仕組みかはわからないが、少年はあの小さい身体で車を投げ飛ばした。そして、持っていた赤い棒を振り上げ、自分を攻撃する意志を明確にした。
で、あれば。
正当防衛だ。
先ほどまでは轢き殺しかけた加害者未遂と被害者未遂という関係性だった少女と少年。だが、少年の反撃は明らかにやりすぎである。車は横転し、前輪は吹き飛び、窓ガラスは割れ、少女は頭を打っている。もし自らの筋力で車を投げ飛ばしたのだとすればとてつもない怪力であり、あの棒で打ち込まれれば少女の頭は砂浜に置かれたスイカのように無惨に砕け散るであろう。すなわち、死だ。
「つつつつ……」
念のためアタッシュケースに入れておいた拳銃を手に、窓から身体を乗り出す。多少の危険は覚悟していた旅だ。人を撃ったことはないが、ある程度の訓練はしてきた。別に撃ちたいわけではないが、殺されるくらいなら殺す。この少年の家族がその辺りにいるかもしれないが、状況から正当防衛は認められる。
死体は放置しておいても獣が食い荒らすだろうが、どうするべきだろうか。獣は服や棒までは食ってくれないだろうから、痕跡が完全に消えることは期待しない。うまく銃創の部分を食ってくれればありがたい。
「あー、怪物のなかからへんな妖怪がでた!」
怪物、というのは車のことだろう。妖怪というのは自分のことだ。つまり、この少年は車を見たことがない、とんでもない田舎者なのだろう。よくわからないものの中から出てきたやつだから、怪物の中から妖怪が出たという表現になる。少年に家族や仲間がいたとしても、ほぼ山から出ない生活をしているのだと推測できる。そんな田舎者であれば丸め込むのはたやすいかもしれないが、少年の異常な膂力を考えると仲間も同等かそれ以上だと考えたほうがいい。まとめて敵対するような事態になれば非常に危険だ。
死体は獣に任せず、自分で始末するべきか。万能収納機・ホイポイカプセルに入れてしまえばそれで済むのだが、中身を処理する前に仲間と遭遇して荷物を改められでもするとマズい。いっそ仲間もまとめて始末するか。少女は殺人鬼ではないが、ある程度の覚悟はしていた。少女の探しものは、この世のすべての権力者と奪い合いになってもおかしくないのだ。戦闘になるようなシチュエーションがどこかで起こることは想定していた。とにかく、この少年は危険だ。死体はホイポイカプセルに入れる。この場はすぐに離れる。車は破壊されたが移動手段はいくつか用意してあるし、目的地には体制を整えて改めて向かえばいい。少年の家族や仲間がいる可能性を考えても、護衛を連れて行くべきかもしれない。
「こ、こんにゃろ!」
"その後"のことまで考えた、明確な殺意を持って、少女は2回引き金を引いた。2つの弾丸のうち、1つは少年の額をとらえ、少女は「ああ、ついにわたしも殺人者になってしまった。でもこういう試練を乗り越えて運命の人に巡り合うことでより絆が深まるわね」なんてことを考えていた。
そもそも車で移動するなんて無駄なことをしていたからこんなトラブルに遭うのだ、と後悔もしていた。レジャー気分でいたことは否定できない。着陸場所がなかったり、視界が遮られていたり、燃料が保たないなどの特別な事情がなければ、車ではなく飛行機を使うべきなのだ。地上より上空のほうが圧倒的に危険は少ない。これからは目的を最優先にして、遊び心は捨てようと少女は心に決めた。しかし。
脳漿を飛び散らせて倒れ込むはずだった少年は、銃弾を受けてのけぞりはしたものの、立っている。のけぞっていることで顔は見えないが、血も出ていないようだ。怪物だの妖怪だの扱いされたが、それはこの少年のほうではないのか?銃弾が貫通しない?もしかして自分はとんでもないバケモノと出会ってしまったのではないか?どうする、弾が無くなるまで撃つか、逃げるか、様子を見るか。
全弾撃ち尽くして、ほとんどの弾が当たったとして、こいつが死んでくれるのか。逃げるならホイポイカプセルから飛行機を出さなければいけないが、乗り込んで離陸するまでこいつがこのままじっとしていてくれるだろうか。ジャンプ力も凄まじいだろうから、高度を稼ぐまで油断ができない。様子を見るのは論外だ。時間の経過で状況が好転しそうな要素は何もない。いまから「痛かった?ごめんね!話し合いましょう!」なんてこと言えるはずもないのだ。であれば、撃ってから、逃げる。少年の、上下左右入り乱れて尖っている髪の毛が、少し揺れたように見えた。その瞬間、少女は、右手の人差し指に何度も何度も力を込めた。
1、2、3、4、5。乾いた音が響き、2発は胸部に、1発は腹部、1発は左足、残り1発は外れた。少年の小さな身体に7分の5。なかなかの命中率だが、そんなことはどうでもいい。少年はさすがに後ろに吹き飛び、赤い棒も離して転がっていった。今だ。少女は素早く飛行機のホイポイカプセルのスイッチを押し、少年とは逆方向に投げた。普段ならこの距離でホイポイカプセルを使うときは耳をふさぐが、そんなことにかまっていられない。爆発音とともに現れた飛行機に乗り込み、離陸シーケンスを起動した。普段は行うすべてのチェック項目をスキップし、最速で地面を離れる。
「まだ……起き上がっては来ないわね。もしかしたら死んでるかもしれないけど、希望的観測は禁物。多少Gはかかるけど一気に加速するわ」
少女が操作パネルに触れた瞬間。山が叫び声を上げた。
少年の身体が震えている。髪の毛がざわめく。閉じていた目が開くと、瞳孔は開ききり、少年の瞳は髪の毛と同様、漆黒に輝いていた。ゆっくりと立ち上がった少年は、空の異物を睨みつけて足に力を込める。髪の毛は逆立ち、口元には牙のような歯が主張している。少年がさらに力を込めると、様子を伺っていた獣たちが一斉にその場から逃げ出した。狂ったように鳴き喚きながら、木々から360度すべての方向に一斉に飛び立つ鳥たちは、上空から見る少女からはさぞ異様な光景に見えたであろう。強いものも弱いものも関係なく脱兎のように逃げ出す地上の獣たちは、そのときだけは狩るものと狩られるものの区別がなくなったであろう。見るものが見れば、少年の身体からは黒い、黎い、オーラが立ち上っていた。
「起き上がった!やっぱり生きてたか。けど、もう追いつけないはず」
すでに少年と少女の距離は、飛行機が豆粒に見えるほどに離れていた。だがその距離は、一瞬でゼロになった。
ボゴゥッ
身体を吹き飛ばすように、少年は自らの足を地面に叩きつけ、翔んでいった。その爆発的エネルギーを叩き込まれた地面はえぐれ、地震かと思うような衝撃が山全体に轟く。その様子を少女が確認したときには、少年は少女の乗る飛行機に激突していた。
「ッガァアアアアアアアアアアアアア!!!」
飛行機のガラスを突き破った少年は、ケダモノのように言葉になどならない叫び声を上げている。凄まじい勢いで衝突された小型の飛行機は、すでに墜落する運命だ。
「ひ、ひいいいいい!!!」
眼の前に迫る少年の形をした"死"。少女は思考を巡らせることなどできず、ただ予備の銃の引き金を引いた。パン、という銃声と、ガチリ、という音がする。少年は飛んできた銃弾を前歯で噛み、止めていた。衝撃で制御を失っている機内で少年を正確に狙うことなどできなかったが、弾は少年の顔面に向かって飛んだようである。だが、まったく無駄なことであった。歯で銃弾を止めるなど、とても人間業ではない。銃弾を何発も浴びても血さえ流さず生きていること、上空まで翔んできたことにとどまらず、この曲芸じみた防御法を見せられた少女は心から恐怖した。
それでも少女の生存本能は諦めることはなかった。残りの銃弾をすべて放つと、飛行機の緊急脱出装置を起動。座席が独立して飛び出し、自動で不時着できる仕組みだ。少年は叫び続けながら、破壊衝動の権化となっていた。窓ガラスをさらに叩き割り、飛行機の動力部めがけて拳を叩きつける。脱出装置が動くのと、動力部が爆発するのは、ほぼ同時だった。
「気づいたか」
少女が目覚めると、そこにはあの少年がいた。髪の毛は遭遇したときと同じように上下左右に尖っているが、表情は冷たく氷のようだ。すでに日は落ちていて、少年が起こしたのであろう火があたりを照らしている。
殺される、と少女は思った。同時に、まだ殺されていないなら生き延びる目はある、とも思った。
「ここは山の中腹あたりだ。俺も気絶していたようで、さっき起きたところでな。身体のあちこちが痛むし、雑魚どもではあるが暗くなって獣も厄介だ。今日はここで夜を明かす」
少年の顔が少し歪む。銃弾よりも、墜落の衝撃のダメージのほうが大きそうだ。
「で、お前は何者で、なぜ俺を殺そうとした。この距離で、俺とお前の間にあるのは焚き火だけ。適当な答えが返ってくればどうなるかわかるよな。もう油断はしねえ」
彼が真実を言っているのが少女にもわかった。銃はどこかにいってしまったのか、気絶している間に少年が取り上げていたのか手元にはない。あったとしても弾切れで、ホイポイカプセルを使わなければ予備の銃弾はない。同様にホイポイカプセルを使わなければ彼から逃げるための移動手段もない。そして、もう彼はそれらを取り出すことを許さない。すべて正直に話すしかない。その返答を気に入るかどうかは少年次第だとしても。
「……撃ったのは正当防衛よ。少なくともわたしはそのつもりだった。山中でいきなり車を投げ飛ばされて、武器を持って威嚇されたら、命の危険を感じないほうがおかしいわ」
少年が表情を変えずに聞いているのを確認して、少女は続ける。
「あなたがわたしに攻撃してこないのであれば、わたしもあなたを攻撃する気はまったくないわ。別に争いたいわけじゃなくて、あの山で探しものをしていただけなの。撃ったことは謝罪するし、賠償金を支払わせてもらうわ。もし探しものを手伝ってくれるなら合わせて謝礼も支払う。重ねて言うけど、敵対するつもりは一切ないの」
わずかな沈黙のあと、少年が口を開く。
「あやうく轢かれるところだったが、まあそれはいい。撃たれて多少痛みはあったが、まあそれもいいだろう。この星の武器をまともに食らうとあのくらいのダメージになることがわかったしな。で、その探しものってのはなんだ。言っておくがこの山に特別な価値のあるものなんぞないぞ」
やはり聞かれてしまったか、と少女は少年に見えないように唇を噛んだ。だが少年の言葉を信じるなら、命は助かりそうだ。であれば、やはり正直に話すしかない。目的を達成できる可能性は下がるが、命には変えられないのだ。
「
腰につけたポーチとその中身を紛失しなかったのは、少女にとって本当に幸運だった。ドラゴンボールのうちの2つ――
「……それが、ドラゴンボールってやつか。なるほどな。それなら俺がありかを知っている。日が昇ったら連れて行ってやるよ。賠償金に謝礼ってやつも、どのくらいいただくかは明日だ。今日はとにかく疲れた」
「ぜひお願いしたいわ。お金も弾む。約束するわ」
少女は、予想外に協力的な少年の態度にわずかな違和感を覚えながらも、それを表には出さず、少年の言う通りにすることにした。緊急脱出装置がうまく作動してくれたようで少女の身体に大きな怪我はないが、このまま野宿するのはつらい。しかし、ホイポイカプセルでキャンピングカーを出すことで会話の流れがわずかでも変わってしまうのが怖い。少年の気が少しでも変われば、少女は血の詰まったズタ袋へと一瞬で変えられてしまうだろう。そして少年がドラゴンボールを奪おうというのなら、寝込みを襲うなど面倒なことはせず今すぐ少女を殺せばいいだけの話だ。会話の流れは崩さないように、とはいえ多少友好的な流れを作れるように、少女は少年に訪ねた。
「ところであなた、名前は?わたしはブルマ」
「俺は……カカロットだ。孫、カカロット」
これは、運命の悪戯により、自分自身を取り戻したサイヤ人の物語。