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拝啓
将来の僕へ
お元気ですか? 自分に向かってお元気ですかなんて言うのは少し気持ちが悪い気もするけど、多分元気でしょう。だって読んでるんだもの。
この手紙を読んでいるということは、おそらく、全てのことが解決したか、大方の片が付いたということでしょうから。
今の僕は、勉強を精一杯頑張っています。曖昧だった進路も決めて、それに向けて必死にやっています。とはいえ、天才とかそういうのではないので、苦労することは多いです。
そして、今の僕は、彼女の隣にいます。描いた絵を見せてくれたり、ふらっと一緒に歩いたり、毎日が幸せです。僕が勝手に幸せと感じているだけで、彼女はどう思っているのだろうと、実は気になってます。
未来の僕は、どうなっていますか? 彼女のために、一生懸命頑張っていますか? それとも、彼女に愛想を尽かされて、泣いちゃってますか? どちらにしろ、そうなってしまったのなら仕方がないでしょうけど。
幸せと書きましたが、今の僕は、本音を言うと、かなり辛いです。
今の僕には、彼女のためにしてあげられることが殆どありません。僕には、悲しみに昏れる彼女の話を聞くことしか、そして慰めることしかできないのです。話を聞く度に、何も出来ない自分を無力に感じます。
正直、毎日、彼女を傷つけたお義父さんを殺してやりたいという気持ちでいっぱいです。彼女のことを散々弄び、傷つけて、脅して、大切なものを奪ってきたあの人を、僕は許せません。
彼女を辱めたことは確かなのに、それなのに尚、彼女も同意の上だったとか、こっちにも事情があるだとか、しらばっくれるあの人のことを、僕は何度も殺してやろうと思いました。けど、そんなことはできません。それではなんの解決にもなりませんし、余計に彼女を苦しめることになるからです。
だからこの先、僕は頼りになれない自分が悔しくて泣き叫ぶでしょう。
唐突に過去の悪夢が蘇り、泣き叫ぶ彼女に対して、ただ隣に座って慰めることしかできないでしょう。
だから、今できることを精一杯頑張ります。一生懸命働いて、一生懸命勉強します。そして、少しでも彼女の役に立てるようになります。
これを読んでいる未来の僕が、僕だけでなくて、彼女のことも、少しでもいい方向に進んでいることを願います。
何があっても、僕は彼女のことが好きです。
追伸
ついでということでもう少し。
この前、彼女の叔母さんに会いました。彼女にとって唯一の味方で、彼女のために真っ先に動いてくれた人です。ですが、まあ当然と言いますか、僕のことはかなり警戒しています。仕方のないことですが。けど、この先、少しずつでもいいので、打ち解けられたらなぁと思ってます。
それに、僕は今、父さんと母さんにとても感謝しています。彼女を連れてきた時も、何があったのか問い詰めることもせずに、ただ黙って僕と彼女のことを受け入れてくれて、いつも通りに接してくれました。母さんは相変わらず僕に毒を吐いて、父さんは相変わらずのんびりとしています。
そして、僕が夜な夜な隠れて泣いていた時は、黙って背中を撫でてくれました。
両親には、感謝してもしきれません。
どうか、あの人達には幸せになって欲しいです。
追伸の追伸
あと書きたいことがもう1つ。
実は以前、彼女と付き合っていた『彼』にお会いしました。いえ、嫉妬とかそういうのではなくて、本当に偶然だったんです。
彼は、彼女のことですごく後悔している様子でした。どうしてあの時、彼女を助けて上げられなかった、何も状況も知らないで勝手に振られたと思い込んでと、自分の膝を殴っていました。
彼は、彼女にはもう会えないと言っていました。自分にそんな資格はないと、僕にも会ったことは内緒にして欲しいと言ってきました。ただ、もし『あの人』の件で役に立てることがあるなら、協力させて欲しいと言っていました。
僕は、彼にも幸せになって欲しいと思ってます。彼はいい男で、あのまま彼女と付き合えていたら、2人は結ばれていたと思います。だから、彼のことを責める気持ちなんてこれっぽっちもありません。ただ、幸せになって欲しい、それだけです。
追伸の追伸の追伸
ごめん、あともう一つだけ。
手紙を読んでいるということは、大体のことが終わったと思っています。
その時点で未来の僕が、彼女と結ばれているのか、まだ結ばれていないのか、破局しているのか、嫌われているのか、それは分かりません。
けど、もし、もしもでいいけど、もしも彼女と一緒にいられているのなら、どうか、彼女と一緒に海に行ってください。初デートは海って決めてましたので。もちろん、彼女の同意の上でですが。
お願いします。そして、これからも頑張ってください。
過去の僕より
──────
「…………敬具、書き忘れてる」
自分の部屋の窓側に置いている、腰程の高さのデスクの上に広げた手紙には、そんなことが書いてあった。いつもは仕事関係の資料か、趣味関係のものを広げているのだが、今日に関しては、この手紙を懐かしむことに使っていた。
これは過去の自分が、当時の辛さや自身への激励を込めて書き綴った手紙だ。あの頃の僕は、成人になったとはいえ、まだまだ大人というものを知らない子どもも同然だった。勉学も未熟で、知識も乏しい。そんな状態だから、泣き叫ぶ彼女に対して、受け止め、必要な言葉をかけ続けることしか出来なかった。そんな自分に対して、過去の僕は一種の目標というか、そういったものをこうして形として残していたのだ。
しかし、仕事中に突然思い出すまで、この手紙の存在自体を今の今まで忘れていたのだから、実はあまり意味がなかったような気もする。
「それにしても…………」
なんというか、改めて読むと結構恥ずかしい。
学生時代の手紙とはいえ、こうも好きだの殺してやりたいだの。初めのお元気ですかの流れも寒々としてしまう。よくこんなに素直な文章をかけれたなぁと、書いた張本人である自分でも思ってしまう。
それに、最後の最後で願望を丸出しにしてしまっている。こんなもの、絶対に彼女には見せられない。
「早く捨てよ」
「何を捨てるの?」
突然背後から聞こえた声に、僕は肩を跳ね上がらせ、思わず両手で開いていた手紙を縦に潰す。クシャッとしてしまった手紙には、消えない無数の皺ができてしまった。振り向くと、すぐ後ろに彼女が立っていた。相変わらず訝しそうにする姿が可愛い……なんて変態的なことは口が裂けても言えない。
「あ、あれ。いたの?」
「あ、うん、ごめんね。ドアが開いてたから、勝手に入っちゃった」
いるならいるで声をかけてくれればいいのにと、やや口を尖らせ気味に返した。彼女は少し意地悪そうに微笑みながら言った。
「ごめんてば。けど、君が熱心に机に向かってたから、今は声を掛けない方がいいかなって思って」
「そんな、背後に立たれた方がよっぽど怖いって」
僕の小さな抗議に、彼女は口元に手を当てながら微笑む。気持ちの悪いことを言うかもしれないが、そんな彼女の仕草は僕からすれば天使そのものだった。出会った頃と変わらない。いや、あの頃よりも艶めいていて、可愛らしい。
「それで、何を読んでたの?」
覗き込もうとする彼女を振り切るように、僕は手紙を瞬時にくしゃりと丸めた。大学時代にお世話になった人へのお礼の手紙の失敗文を捨て損ねただけだと誤魔化し、ゴミ箱に放った。こんな黒歴史は闇に葬り去らなければならない。
それに、今の僕にはもうこんな手紙は必要ない。なぜなら、手紙に書いてあった内容は既に終わっているのだから。今更取っておいても意味がないのだ。
「そんなことより」と、僕は席を立って背中を伸ばしながら、彼女に顔を向けた。
「もうそろそろ出かける時間だね。準備はできた?」
「うん、できてるよ」
と言っても、特別持っていくものはないけどと、2人で笑い合う。
それじゃあ行こうかと、僕達は部屋を後にした。
今日、僕達はとある場所に出かける。それは、手紙にも書いてあったもので、過去の僕が彼女と一緒に行きたかった場所だ。
◇◇◇
青空の下にて、波が打ちよせる音が、耳の中を癒すように響き渡る。
テレビやスマホのスピーカーから流れるものとは違って凄く自然で、鼓膜に心地よい振動を与えてくれている。
そしてなにより、海特有の潮の匂いが鼻腔をツンと刺激してくる。潮の香りと聞いて初めに想像したのは、塩味のお菓子っぽい臭いだった。そいつは一体どんな香りなんだと首を傾げていたが、こうやって直に嗅いでみると、『ああ、そういうことか』と言葉にする前に感覚で理解することができる。
電車を乗り継ぎ、さらに最寄りの駅から歩いて10分以上かかる場所に開かれた海辺で、僕と彼女は砂浜を歩いていた。テレビや動画でよく目にしていた海とは少し違って、海水にそれほど透明感は無い。かといって濁っているというほどでもなく、鮮やかな青色が海面に広がっている。
この海は、町の観光スポットの1つであり、夏場になると大量の水着男女が真夏の日差しと海の冷たさを求めてうじゃうじゃと群がるらしい。らしいと云うのは、少なくとも今はそういった光景はないということである。祝日でもない水曜日に足を運んだおかげか、人集りなんてものはどこにもなく、小さな女の子を連れた夫婦が、彼女を真ん中にして、3人仲良く手を繋ぎながら歩いている程度だった。
そんな仲睦まじい光景を、僕達は少し離れた場所から眺めていた。波打ち際の少し手前で、2人で並んで歩く、単なる散歩に近いが、僕達にとってはこれが今日ここに来た目的だった。
「…………」
「大丈夫?」
「うん、平気…………小さい頃のこと、ちょっと思い出してて。私も、昔はああやって、お母さんと『あの人』と並んで、手を繋いでたなって……もう、曖昧だけどね」
『あの人』という単語を口にした瞬間、彼女は左手で自身の右肘を掴んで抱いた。
親子を見つめる眼差しと声は、過去を懐かしんでいるように感じられる。しかし、彼女の体は、まるで過去から掴みかかろうと迫る不安から身を守るように震えていた。
「…………手、繋ごうか」
そう訊くと、彼女は黙って頷く。肘を掴む左手を離して、今度は僕の右手に伸ばした。指先が探るように僕の右手に触れる。1本1本が指の隙間に滑り込み、けれど力が込められていないせいか、今にも抜け落ちそうになる。僕は右手の指をゆっくりと閉じて、彼女が落ちないようにきゅっと握った。
「大丈夫そう?」
「…………うん、大丈夫」
彼女が深呼吸をして、ゆっくりと息を吐く。
こうして並んで手を繋げられるようになったのは、大学に通っていた時だろうか。それまでは、手を繋ごうと何度か試してはいたが、触れる前に彼女の頭の中に当時の恐怖と痛みが蘇ってしまい、その場で蹲り、謝るばかりだった。こうして並んで歩けるようになったのだって、彼女が必死な思いで努力をした結果なのだ。
「……うん、よし。うん」
彼女の頷きと共に、波が打ち寄せるその隣を、僕達は1歩、また1歩と歩幅を合わせて進む。湿る砂浜に靴底が沈み、深い足跡をつけていく。
「ごめんね。今日は車で行くって決めてたのに、私のせいで変えちゃって」
「君のせいじゃないよ。ほら、車よりも旅した気分になれるし」
僕の無理やりな発言に、彼女は苦さを隠した笑みを浮かべた。
僕達が一緒に暮らすようになってから既に幾つもの年月が経っているが、彼女は未だに自動車に乗ることができていない。いや、本人も頑張って乗ろうとしているのだ。だが、いざ乗った瞬間、『あの人』に山奥まで連れていかれた記憶が蘇ってしまい、恐怖と苦痛で泣き叫んでしまう。だから、彼女と出かける時は、いつも公共交通機関を利用していた。
だが、その公共交通機関だって、前までは乗れていなかった。
高校卒業後、『あの人』関係で一悶着あった際に、彼女の中で解れながらもなんとか耐えていた糸がプツリと切れてしまった。そして、その日から病院で治療を受けるまで、彼女は電車やバスに乗ることすら出来なかった。男性に背後に立たれたり、複数人に囲まれるような状態になると、『あの人』のねっとりとした声が、脅しが、首周りを包む指の感触が、全ての幻覚が彼女に襲いかかるのだ。
だから、2人で電車に乗って、こうして海に出かけられているのは、過去の僕には想像もできないだろう。
「ここの海、昔、テレビで取り上げられててね」
と、海を見ていた彼女が口を開いた。
「色が凄く綺麗だなぁって、いつか好きな人と一緒に来てみたいなって思ったの。私、海なんて行ったことなかったから」
「あー、確かお母さんが嫌がってたんだっけ」
「そうそう。お母さん、高校生の時に海に遊びに行って、その時にオコゼに刺されて大変な目にあったんだって。それで『海なんか絶対いやっ!』って、子どもみたいに駄々を捏ねて、結局、水族館とか動物園とか、そっちに行くことが多くなってた」
「けど、オコゼがいる水族館も結構あると思うけど」
「うん、すごく睨んでた。あの時はよくもって、水槽の中に向かって恨み言をブツブツ吐いてた。別に、その子が刺したわけじゃないのにね」
当時の母親の鬼の形相を思い出したのか、彼女はふっと吹いて笑った。変わらぬその笑みに、胸の中は飛び跳ねた。何年経っても、僕の初心な気持ちは変わらないらしい。
僕達は一旦止まり、2人で体と視線を海に向けた。遠くに見える水平線に向かって、徐々に雲が小さくなっている。まるで吸い込まれているかのように、風に流される白い雲達はどんどん水平線の向こうへと消えていく。もしもあの雲に乗れたら、海外かどこかに着くのではないか、なんて、子ども地味た発想をしてしまった。
試しにと、2人で靴と靴下を脱いで、砂浜に足を踏み込んでみた。湿気った砂のシャリシャリとした感触が足の裏全体に伝わり、少し深めに踝辺りまで沈める。
もう少し前に進むと、今度は打ち寄せる波が足首にぶつかり、冷たい海水で包み込む。かと思えば、すぐに引いて手を離す。そしてすぐにまた打ち寄せて、今度は少し強めな波を足にぶつける。そんな繰り返しの中、僕達は空と海に視線を向け続けた。
「ねえ」
「ん?」
「空、何色?」
「……君には、何色に見える?」
「……青色」
「海は?」
「んー……少しだけ濃い青色。この前テレビで取り上げられてた海よりは綺麗だと思う」
「僕も同じだよ」
彼女の目は、僕に全てを告白してくれたあの日からはっきりと色を認識するようになったらしい。けど、もしかしたら、ちょっとのショックでまた前のようになるかもしれない。だからこうして、1日1回は必ず僕に目の前の景色を訊いてくる。
「良かった」と、彼女は胸を撫で下ろしながら、きゅっと手を握る。力の込められた彼女の指が、挟んだ僕の指を少しだけ圧迫する。圧迫して、震え始めた。
僕は彼女に目を向ける。
いつの間にか笑顔はなくなり、子どものように泣きじゃくっていた。
次から次へと瞼から涙が溢れ、頬を伝い、顎下に集まって、雫となって落涙していく。
「……私が、許してあげてたら…………お母さんも…………一緒に……来れてたのかな…………」
鼻をすすり、咽び泣く彼女。僕は声をかけることはせず、静かに彼女の肩に触れる。彼女は怯えることなく、抱きつくように僕の胸に顔を埋めた。
『あの人』の件で、彼女は沢山傷ついた。体にも心にも、一生治ることのない傷をつけられ、さらには周囲からも心無い言葉を投げかけられることもあった。そのせいで部屋から1歩も出れない時期もあったし、毎日のように記憶が蘇ってしまい、不眠症に悩まされることだって今でもある。感情が不安定になって、泣き叫ぶことも。苦痛に耐えきれず、自分で体を傷つけることだって。
しかし、それは彼女の母親──おばさんも同じだった。運命の出会いだと、素敵な人だと信じていたはずの夫が、数年に渡って娘に手を出していたという事実は、おばさんの精神にショックを与えるには十分すぎた。
順風満帆だと思っていたものが、実は娘の犠牲によって成り立っていた。それに気づかず、勝手に幸せに浸り、愛しいはずの娘からのSOSを切り捨てた、そんな自分をおばさんは激しく責め立てた。自分を罵り、『あの人』を罵り、娘と前夫の遺影に何度も頭を下げた。
だが、あれから数年経って、おばさんは『あの人』を許すと言い出した。たとえ娘を強姦した男だとしても、自分にとっては亡くした夫と同じくらい大好きな人で、いつまでも過去のことを引きずる訳にはいかないと、手紙のやり取りをしている。出所したら一緒に暮らそうだの、人の少ない場所に引っ越そうだの、今頃、十数年後のことを想像しながらペンを走らせていることだろう。
その行為が彼女にどれ程の傷を与えたのか、多分、分かっていない。分かっていたら、『私、あの人のこと、受け入れようと思うの』という言葉を本人に言うわけが、『あなたも、今すぐとは言わないから。いつの日か、お義父さんのことを許してあげて』などと言えるはずがない。許すとか許さないとか、もうそんな次元ではないというのに。
いや、きっとおばさんもおばさんなりに辛いのだろう。そんなことは分かっている。娘に対する罪の意識だって、本物なのは違いない。そして、悩んだ末に『あの人』と向き合うという選択肢をしたことも、僕だって分かってあげたい。
けど、彼女が受けた苦しみが、僕やあなたの想像を絶するものだと、あの叫びと嘆きを聞けば分かるはずだ。なのに、どうして実の娘にあんな残酷なことを言えたのか、彼女が何のために、誰のために、あの男からの屈辱に耐えていたのか、あなたは本当に分かっているのか。彼女が勝手にやったことだとでもいいたいのか。
そしてなにより、その言葉のせいで、彼女が味方だと思っていたあなたに対してどれほどの絶望感を抱いたのか。大好きだったあなたに、二度と会いたくないと思うほどの嫌悪感を抱いてしまった彼女の気持ちが、どれほどのものだったか分からないのか。分からないから、あんな残酷な言葉をぶつけたのか。分からないとしても、あまりにも他人事として捉えすぎている。あなたも『あの人』も。
「…………大丈夫」
僕は咽び泣く彼女をそっと抱きしめる。抱きしめるしかなかった。でないと、僕自身も崩れてしまいそうだからだ。
『あの人』からの手紙は、服役してから1年経った時に届いた。内容は、表面上は彼女への謝罪の言葉で埋められていた。おばさんのことは本当に愛していて、けれど、娘である彼女に卑猥な感情を抱いてしまったのもまた事実で、自分を抑えることができなかったと、長々と書き綴られていた。
しかし、やはり自分がやった罪の重さがどれほどのものかという本質的なことに対しては理解をしていないのか、自分だって義父として辛かっただの、彼女にも非があるだの、直接的な言葉はないものの、文章内にはそうと受け取れる言葉がいくつもあった。まるで反省などしてないと自分から言っているようなものだった。
その手紙を読んでから暫く、彼女は部屋に閉じこもった。閉じこもったまま、また『あの時』のような絵を沢山描いていた。そうすることでしか、自分の感情を発散できなかった。
そしてその件以降、彼女は手紙を受け取らなかった。たとえ送られてきたとしても、すぐにゴミ箱の中へと捨ててしまっていた。僕は彼女に内緒でこっそり読んだ。こっそり読んで、『あの人』の本性を垣間見て、怒りで手が震えた。
今は、彼女と一緒に別の場所で暮らしているため、手紙が届くことはない。彼女のお願いで、『あの人』とおばさんには引越し先の住所を教えていない。唯一知っているのは、口の硬い叔母さんと僕の両親、それから疎遠になっていた彼女の『友達』ぐらいだ。
────そう、たとえおばさんと『あの人』と縁を切ったとしても、彼女には味方が沢山いる。
叔母さんは常に彼女のことを気にかけてくれる。彼女が折れていないのも、あの人の存在が大きい。紆余曲折あったものの、今では僕のことも認めてくれている。
僕の両親だって、たまに僕達の様子を見に遊びに来ている。僕は父と、彼女は母と時間を過ごし、2人でいる時には言えない本音や鬱憤、悲しみを吐き出している。本当に両親には頭が上がらない。
身内だけじゃない。ここまで回復するのに、色んな人が彼女に関わってくれた。関わって、彼女の思いを受け止めてくれて、寄り添い、味方になってくれている。もしもみんながいなければ、彼女は今頃立ち直れていなかっただろう。
…………そして何より、彼女の支えになっているのは、彼女の『友達』の存在だろう。
初めは、彼女を見捨てた自分に会う資格はないと、向こうから再会するのを避けていた。けれど、それでも彼女は唯一の『友達』に会いたかった。会って話をしたかった。
そして2人は再会した。彼女の頼みもあって、僕は遠くから見守っていたので、何を話していたのかは分からない。けれど、泣きながら頭を下げる『友達』と、微笑みながら抱擁する彼女の姿は今でも覚えている。
──僕は、どうなんだ?
ただ彼女の傍にいるだけで、僕は何もしていない。あの手紙には彼女のために勉強をするだの、一生懸命頑張るだの、立派なことを書いていたくせに、現状はどうだ。大方のことは確かに片が付いた。けど、僕は殆ど何もやれてないじゃないか。彼女が立ち直れたのだって、叔母さんや周りの人達が動いてくれたおかげであって、僕は彼女の隣にいただけだ。僕はただ、彼女を傷つけた『あの人』に怒り、彼女の嘆きを受け止めることしかできなかった。
僕がもっと優秀な人間だったら、おばさんと彼女の仲を取り持つことも、『あの人』に謝罪の言葉を吐かせることも、彼女の辛さをもっと軽減させることだって出来たかもしれない。
僕は彼女が好きだ。惚れてからずっと好きだ。
けど、彼女はどうだろうか。頼りない僕と一緒にいて、辛くはないのか、息苦しくないのか。本当は僕が彼女の足枷になっていて、幸せになれるはずの彼女の人生を邪魔をしているのではないか。
「…………どうしたの?」
「…………え?」
気がつくと、目の前に彼女の顔があった。泣き顔は落ち着きを取り戻しており、代わりに心配そうな表情で僕を見つめていた。
「いや、何でもないよ」
「……嘘」
「いやいや、嘘じゃないから」
「だって、泣いてるよ」
そう言うと、彼女は指先を僕の頬に当てて、溢れていたものを受け止めた。
あれ、なんでかな、自分でも気が付かなかった。涙がこんなにもわいてくるだなんて、彼女の前なのに、これじゃあ最高に格好悪いじゃないか。また彼女が自分のことを責めてしまうじゃないか。
僕は必死に涙を止めようとした。けれど止まらない。止まらないどころか、どんどん溢れてきてしまう。僕、どこまでも情けないな。
「ごめん、なんか、急に出てきてさ……止まんないや」
もう自分でも分からない。涙が止まらない。ポロポロと顎を伝って落ちて、砂浜へと染み込んでいく。
「…………ねえ」
彼女は僕の名前を呼んだ。あの時と同じ、君付けで。
やっとの思いで涙を拭うと、彼女が柔らかな微笑みを浮かべていた。涙で目の周りを腫らしながらも、あの頃と同じ、透き通った笑顔を見せていた。
「…………私の傍にいてくれて、ありがとう」
突然そんなことを言われても、そんな、僕は何もしていないよ。僕は、ただ君の隣にいただけで、ありがとうなんて言われるようなことはしていない。
「……私が生きていられるのは、君が傍にいてくれたからだよ…………君がいなかったら、私は、あの時に死んでたかもしれない。だから」
彼女の両手が、僕の頬を挟む。
「自分が無力だなんて、思わないで。私は、君と一緒にいられるだけで幸せだから」
少しだけ首を傾げながら、彼女は微笑みを続ける。
それは僕も同じだ。僕も、君と一緒にいられるだけで幸せなんだ。たとえどれだけ辛くても、君といられるだけで、僕は…………。
「…………あの」
僕は彼女の名前を呼ぶ。あの時と同じ、さん付けで。
彼女は不思議そうに首を傾げたまま僕を見つめる。
あれからもう何年も経っている。けれど、答えは未だに曖昧だった。また彼女が怯えてしまうのが怖くて、言い出せずにいた。
けれど、今なら大丈夫。今の僕なら、勢いに任せなくても伝えられる。そして、その先の言葉も。
「…………ずっと好きでした。僕と付き合ってください…………そして、これからも、ずっと一緒にいてください」
彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら、そう言った。
彼女は目を瞠り、すぐに緩めて笑みを浮かべた。
「はい、お願いします」
僕と彼女は、そのまま見つめ合った。
見つめ合い、顔を近づけ合う。
彼女の手が震える。
呼吸が少しだけ乱れている。
けれど、その手を離そうとしなかった。
目を閉じながら、唇を少しだけ尖らせ、慎重に顔を近づけ合う。
そして、唇に柔らかいものが当たる。それは彼女も同じで、僕達はそのまま押し付け合い、お互いを包み込むように密着させた。
さざ波の音が、遠くで海水の冷たさに燥ぐ親子の声が、優しく耳に届く。
僕達は唇を離した。彼女の顔は上気し、ほんのりと頬を紅くさせていた。陽の光が、彼女の笑顔をより眩しく照らしていた。
「怖かった?」
「……少しだけ」
少しだけ、でも、それ以上に嬉しかったと、彼女は続けた。
2人にとってのファーストキス、それは、少しだけ酸っぱくて、ほんの少しだけ甘かった。
それから僕達は暫くの間、砂浜の上で笑いあった。足元で海水の冷たさを感じながら、空を見上げ、流れていく雲を眺めた。
ふと、彼女が空を指さした。指された方角に目を向けると、そこには、ハートの形をした雲が浮いていた。美術館に展示されていたあの絵と同じような、見事なハートマークだった。