文字数の割にエロ描写は少ないです(♡喘ぎ、擬音無)。一応、当時について違和感がないように書きましたが、「いや、これはまだなかった」「これはおかしい」というのがあるかもしれません。
登場する人物、施設等はフィクションです。
また、本作に偏見・差別等を助長する意図はありません。
◇◇◇◇◇◇◇◇
9月に入って、夏の暑さが落ち着いてきた今日この頃。新学期が始まってかなりの時間が流れ、夏休み明けの怠い憂鬱とした気分から、ようやく体が慣れ始めた。6月に開催された体育祭という名の苦行を何とかやり過ごしたのが、まるで遠い昔のことのように感じられてしまう。
今年の夏は、とあるアニメ映画が一大ブームを巻き起こして世間を騒がせていた。その熱狂は今も収まらず、映画館には多くの観客が押し寄せている。
また、その同時期に別のアニメ映画が密かに人気を博しており、オタクの友人は当然、映画館まで足を運び、案の定、死んだ魚の目をして戻ってきた。あのまま僕まで連れていかれたら、同じ目になっていただろう。
僕はというと、世間のブームを横に、茹だるような暑さに何度か頭を焼かれそうになりながら地道に宿題を進めて、今放送している革命のアニメとか、胸にライオンを付けたロボットアニメとかを視聴しながら、時どきオタクの友人の家に遊びに行って、男臭い部屋の中でアニメやゲームの考察を聞かされた。そして『あること』を進めながら、まあまあ充実した夏休みを送っていた。
ひとつ言っておくと、僕はアニメが好きなだけで、オタクというわけではない。アニメを観るのだって、殆ど親の影響のようなものだし、ジャンルも偏っている。僕がオタクという枠に入るのなら、オタクの友人は仙人として崇められることになるだろう。友達からは「いや、お前もオタクだろ」と突っ込まれているけど。
「ずっと前から好きでした! お付き合いしてくださいっ!」
そんな中、僕は自分の通っているC高等学校の校舎裏……ではなく、高校から少し離れた場所にある高架橋の下で、同級生の女の子、
辺りには人の気配はなく、風の通る音が聞こえるのみだった。真上に自動車が通っているおかげか、恐らく僕の告白の木霊は他の人には届いていない。
「…………君」
少し間を置いて、清水さんは口を開いた。乙女な高めの声が耳に届く。
僕は顔を上げて彼女の方を見た。
くりくりとした瞳を持つ丸顔が斜めに傾げていて、鮮やかな色をした長髪がゆらりと揺れている。
それに加えて、高校指定の制服がより一層彼女の可愛らしさを引き出していて、清水さんは光を宿した飴色の瞳をこちらに向けたまま黙っていた。
一体何を言われるのか、やはり振られるのかと内心ソワソワとしていると、清水さんはにっこりと訊ねてきた。
「名前、なんだっけ?」
「へ?」
「いや、君の名前、なんだったかなーって」
「……り、亮です。
「ふーん、そっか。亮くんって言うんだ」
彼女は納得したようにウンウンと頷く。
納得するも何も、今さっき彼女に名前を告げたばかりなのだ。それ以前に、下駄箱に入れて置いた手紙にも、きちんと僕の名前を書いていた。まさか、全部スルーしていたのだろうか。
「それで、亮君は私とどうしたいのかな?」
「いや、だから……」
それもついさっき告げたはずだ。大きな声で、あなたとお付き合いがしたいと、振られる怖さや罵倒される怖さを抑えながら言ったのだ。それをもう一度言うというのは、かなり勇気がいるし、体温も上がりっぱなしで顔から湯気が出そうだ。
「ねえ、どうしたいの?」
笑みを浮かべながら、彼女は僕の顔を覗くように見てくる。
もしかして、彼女は僕のことをからかっているのか。いや、告白をしている身分として彼女に怒るつもりはないが、この笑顔は間違いなくわざとだ。明らかに僕の反応を楽しんでいる。名前も、もしや忘れたフリをして。
「…………えっと」
「ん? なになに?」
清水さんって大人しそうに見えて実はかなりのイタズラ好きなのか? 周囲のみんなは彼女を不思議ちゃんだとか言っているけど、今の彼女はどう見ても悪戯に夢中な女の子だ。こちらが本性なのか。
「……ぼ、僕と……付き合ってください」
窄んでいくように、僕は再度、告白をした。彼女はふうんと小声を漏らし、スカートを揺らしながら僕の方へと近づいてくる。
「いいよ。君、面白そうだから、お付き合いしよっか」
「え?」
「あれ、嫌だった?」
「いえ、はい、お、お願いします」
何故だろう。僕の想定していた流れでは、彼女からOKを貰った場合はその場で喜んでいるはずだった。しかし今、僕は素っ気ない返答をしている。
だって、OKはOKだけど、その理由が『面白そうだから』とハッキリと言われてしまった。オマケにからかわれて、2度目の告白までさせられた。この流れで笑顔になるだなんて、演技だとしても絶対に無理だ。
「それじゃあ、よろしくね。リョウ君」
「あ、よろしく。清水……さん?」
「アオイって呼んでいいよ」
「いや、まだそこまでは」
「もしかして、恥ずかしいの? 恋人なのに、傷つくなー」
「あ、いや、えっと…………アオイ、さん?」
「うん」
彼女は両手を後ろに組みながら、ニコッとした笑みを浮かべて顎を引いた。
どれだけ弄られようが、彼女の笑顔を見た瞬間、湧いたものがふっと消えてしまった。そう、僕はこんな彼女の笑顔に惚れたのだ。
◇◇◇
僕が清水さんに好意を寄せるようになったきっかけは、1年生の冬休み前のことだった。
僕と彼女は1年時から違うクラスに入っていて、会話をする機会なんてものはなかった。僕自身、初めから彼女のことを知っていたわけではない。彼女と話したことはないし、実を言うとすれ違ったことすらない。ただ、清水さんと同じクラスに所属していた友達から、彼女の話をよく聞かされていたのだ。
なんでも、彼女はクラスメイトから『変わった子』と呼ばれているらしく、その名の通り、彼女はクラスの中でもまあまあ浮いているらしい。大人しいというのもあって、虐めの対象にならないのか気になったが、どうやらそういう類ではないようだ。
女子達からは話しかけられていないらしいが、それもわざとではなく、どちらかと言えば話題が合わないとか、話した後に流れる沈黙が気まずいとか、そういった理由らしい。
そんな周りの空気など知ったこっちゃないもんという雰囲気で、清水さんは自分の好きなことをしているそうだ。
友達曰く、彼女は究極のマイペース主義者だという。
周りが卵型のゲーム機の話題で盛り上がっているその横で、ブロックみたいな厚さの小説を黙々と読み進める。
男性アイドルユニットについて一部の女子グループが熱狂している後ろで、どこで売っているのか分からないドラマに脇役として出演している俳優の写真集を見て微笑む。
人気芸能人が出演しているバラエティ番組やドラマの話で周りが盛り上がるのを背に、御大という愛称を持つ先生方が描いた漫画をニコリとしながら読む。
みんなが持ち込み禁止のPHSや流行していたポケベルをイジる真ん中で、眠り姫のように昼寝をする。
そんな感じの毎日を送っているという。なぜ友達がそんなに彼女に詳しいかというと、普通に声をかけて何をしているのか訊いているからだそうだ。
僕と違って、小学校から付き合いのある彼は、昔から女子にも気楽に話しかけるくらいに明るい性格だった。最近は、CMにひっきりなしに出演しているタレントに夢中らしい。
小学時代は、まさに明るい子供というのを絵に表したような子で、ブームだった芸人の真似をして、周りの子から失笑と苦笑と爆笑を集めていた。
また、当時大人気だったゲームを徹夜してクリアしようと躍起になって、結果、親から叱られた挙句、セーブデータが吹き飛んで、そのショックで体調を崩し、学校を数日間休むなんてこともしていた。
中学時代は、ほぼ巻き込まれ同然でバカなことも沢山して、近所のおじさんおばさんに叱られたことだってある。お兄さんの部屋からパクってきたエロ本を持ってきては、同級生のみんなで回し読みするなんて言う思春期じみたことをしていた。後日、顔に青痣を作ってきたのは言うまでもない。
確か『卒業記念だ』なんて言って、近所の自動販売機で売られていたコンドームを奢られたこともあった。一緒に自販機を凝視し、周りに誰もいないことを確認しながら彼と購入したあの緊張感は、今でも忘れられない思い出になっている。
そんな彼だが、交友関係の構築に長けていて、昔から外でも遊び友達は多い。アルバイトでも店員達との仲は良いらしい。そんなんだから、清水さんにも気楽に声をかけれるのだ。
僕に彼女のことを話すのは、おかずを貰うお礼のようなものだという。勝手に聞かされる上におかずを取られる僕の身にもなって欲しい。
だが、清水さんの話を聞かされても、僕はまだ彼女に好意を抱くことはなかった。なんせ高校は一学年に数百人単位で生徒がいるのだから、その中の一人が変わっている子だからといって、特に気にするようなことはなかった。
それに僕自身、その時は、機動する方の新世紀のアニメを追いかけるのに必死だった上に、オタクの友人から布教のように押し付けられた機動しない方の新世紀なアニメのビデオをループして観たりと忙しかった。
そういった生活をしていたのもあるし、そもそも教室のある階自体が違っていたので、彼女と遭遇するなんてことはなかった。
だから、きっとあそこで出会ったのは、本当に偶然だったのかもしれない。
冬休み前、地獄のような文化祭やテストを無事に終え、二学期の終業式を間近に控えた僕は、友達といつものように話しながら、透き通る薄い青色の寒空の下を歩いていた。
事前に渡された冬休みの課題が意外と多かったことに友達は嘆き、折角立てたバイトと遊びのプランが台無しになったと愚痴を零していた。このまま人類滅亡の大予言が当たればいいのにと、恐怖の大王が降ってくれば良いのにと、自暴自棄気味に話していた。
そしてバスに乗ろうとした僕は、財布がないことに気がついた。一体どこで落としたのだろうか、確か、最後に財布を取りだしたのは、友達に借したバス代を返して貰った時だ。おそらく、その後のどこかで財布を落としたのだろう。
僕は友達に一言詫びて、気をつけろよーという彼の軽い言葉を背に受けながら、歩いてきた道を組まなく探しつつ、大急ぎで高校へ戻った。
あの中には僕の全財産が入っている。もしなくしたなんてことになったら、数ヶ月はジリ貧生活になる。おまけに消費税が上がるという理由で母さんの気分も悪に悪くなっていた。是が非でも見つけなくてはならなかった。
「…………あ」
そう思いながら人混みをかき分け、玄関口に飛び込むと、僕の目の前に、廊下を歩く女の子が映った。スクールバッグを肩から下げていて、手には僕のものと思われる長財布を持っていた。
僕はそのまま黙って見ていて、そして彼女が廊下の角を曲がる前に大急ぎで追いかけ、声をかけた。
「あの! それ! 僕の!」
そう叫ぶと、女の子は振り向いた。
窓から差し込む光を跳ね返しながら、長い髪が揺れた。クリクリとした瞳が、僕を捉える。赤いマフラーとモコモコとした手袋を身につけていて、いかにも暖かそうだった。
声をかけて、すぐに後悔した。そもそもあの財布が僕のものだという確証がないのに、どうして声をかけてしまったのか。女子と話すのが苦手なくせに、何をやっているんだ。
「あ、あの…………」
「……なに?」
彼女が首を傾げる。僕は謎の緊張に苛まれながら、ゆっくりと手を挙げて、財布に指を差した。
「それ……多分、僕のです……落ちてたやつなら、僕のだと思います」
「……そうなの?」
彼女は財布を一瞥して、すぐに僕へと視線を戻す。
「さ、財布の中に、僕の住所が書かれた紙が入ってるはずです。落とした時ように。い、1番前に入ってるはず」
たどたどしい口調で伝えると、彼女は手袋を外して財布を開き、紙を探し始めた。そして指先が何かを掴み、それを取りだした。
「これ?」
「は、はい。安藤亮って書いてあるはずです」
「……うん、書いてある」
そう言うと、彼女は紙を財布に戻してパタリと閉じる。そして僕の方へと歩き、財布を差し出した。
「はい。階段に落ちてたよ」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。もう少しで職員室に持っていくところだったから、落とさないように気をつけてね」
彼女は微笑みながら、僕の横を通り過ぎて玄関口へと向かった。
靴を履き替え、トントンと床を蹴り、手袋を付け直して扉を潜る。どんどん小さくなっていく彼女の背中を、僕は見つめていた。
多分、見蕩れていた。陽の光で鮮やかに輝く長髪は、この距離からでも美しく見えた。
後から友達から聞いた話では、その財布を拾ってくれた女子こそが清水さんだった。なんというか、イメージしていた姿よりも何倍も可愛かったし、むしろ今まで気づけなかったのが不思議なくらいだった。
◇◇◇
あれから、僕の頭の中には清水さんの姿が常にあった。
可愛くて、太ってはいないけど、つついたらもちもちとしてそうな頬、そしてあの瞳と笑顔が僕の脳みそに焼き付いていた。自分でもどうしてここまで彼女のことを考えてしまうのか分からなかった。おかげで冬休み中は彼女のことばかりが頭の中を埋めつくしていた。
そこで僕は、そのことを母さんに相談した。もちろん周りに言いふらさないように、それ相応の賄賂を渡した。母さんは真顔で『それ、普通に恋でしょ』と煎餅をバリッと食べながら言ってきた。
恋、一昔前のトレンディやドラマや青春ドラマでよくある恋。
そんなもの、生きてて感じたことはなかった。なかったからこそ、僕は突然湧いたそれに混乱していたのだろう。
ふとしたきっかけから恋が始まると言うが、ふとしすぎて気付けなかったのだ。
◇◇◇
冬休みを明けてからというもの、僕は彼女のことを見るようになった。登校時にすれ違う時も、移動教室で彼女の通り過ぎる姿が見えた時も、僕は必ず彼女の姿を見つけるようになった。気持ちの悪いことを言っていると思うけど、1度意識してからというもの、彼女の姿が遠くからでも分かってしまうようになったのだ。
そして僕の視線は、無意識に彼女を追いかけてしまうようになった。
そんなだから、友達から、清水さんのことが好きなのか、とからかわれてしまうことも多々あり、その度に僕は否定した。からかうだけで言いふらしたりしないのは、長年の友情を培ってきた彼との信頼関係によるものだと信じたい。
2年生になり、クラス替えが行われた時も、僕の初恋は冷めなかった。清水さんと同じクラスになれたらいいなぁと密かに思っていた。生憎、その願いは叶わなかったが、奇跡的に同じ階の、しかも隣のクラスになった。おまけに友達もまた彼女と同じクラスなので、これからは極自然に彼女のことを見ることができる。
そしてジャンケンの末、僕は彼のいるクラスで昼食を食べるようになった。本来は負けた方が相手のクラスに出向く、というものだったけれど、僕にとっては勝つこと以上に嬉しかった。
彼の言う通り、彼女は1人で黙々と食事を取っていた。それを終えると、机の中から大きめのサイズの本を取りだし、静かに黙読していた。時折クスリと笑う様子から、おそらく漫画でも読んでいるのだろう。
ベランダで友達が最近買ってもらったと持ち込み禁止の携帯電話を自慢してくる横で、僕は彼女のマイペースな姿を観ていた。
2度目の体育祭の時は、みんなが新しいクラスで最初の大きなイベントということで一致団結をしようと踏ん張っている最中、空気の読めない僕は、遠くに座る体操服姿の清水さんを見ていた。体操服姿の彼女は少しだけふくよかに見えて、けれど太っているわけでもない、絶妙なバランスを保っていた。
そして今更になって、僕は自分が半分ストーカー化していることに気がついた。
体操服姿の彼女もジロジロと観察するだなんて、バレれば女子達から即その場で処刑されるレベルの罪だ。これは下手をしたら一歩を踏み外すかもしれない。
しかし、僕はあくまで彼女の姿を見ているだけなのだから、これはまだストーカーというわけでは。
それに、僕には偶然を装うていで消しゴムを拾うとか、スライディングを決めてまで取りに行くとか、気楽に話しかけるとか、そんな一芸はできなかった。だが、見ているだけではどうにも出来ないだろうに。
そんな自問自答をしていると、いつの間にか一学期が終わり、夏休みが終わり、二学期が始まり、そして僕は彼女に告白をした。
僕のような学生が、彼女に告白して成功するなど、おそらくゼロに近い。
しかし、僕の彼女への恋心は本物だった。
それに、来年は受験戦争が待っているため、遊ぶ暇なんてものはないらしい。
だから、僕は自爆覚悟、晒し者になる覚悟で、夏休み中に何遍も書き直したラブレターを送り、彼女へ想いを告げることにしたのだ。
小説なんてものは滅多に読まないから、こういう時、初恋をした主人公はどんな行動を取るのか、片思い中な主人公とヒロインはどういった出会い方をして、どう仲を詰めていくのか、全く分からなかった。だから、僕は自分なりに考え、考えに考えた結果、当たって砕けろ精神で彼女に告白をしたのだ。
そしてそれは成功し、彼女は僕の告白に頷いてくれたのだ。
頷いてくれたけど…………
「それで、リョウ君は私のどんなところに惹かれたのかな?」
「えーっと…………笑顔」
「それだけ?」
「あとは、目とか、髪とか、ほっぺとか」
「部位ばっかり。もしかしてそういう趣味?」
「いやいや、そんなわけじゃ」
「そっか。君って結構、変態さんなんだね」
「へ、変態?」
「私のこと、むしゃむしゃ食べちゃうのかな?」
「食べるって。そんな下品な」
「ん? 下品って何かな? 私、別に下品な意味で言ったつもりはないよ? ただ体のことばっかり言うから、本当に食べるのかなーって。リョウ君、そっちの意味だと思ったの?」
「あー、その」
「……エッチ」
次の日の放課後、僕は清水さん、いや、アオイさんから早速弄られていた。
いつも静かで大人しかったため、僕の頭の中で、彼女は大人しいというイメージが勝手に作り上げられていた。だからこそ、こうして僕に対して悪戯な笑みを浮かべながら揶揄う彼女にやや混乱していた。
「ふふ、冗談だよ。男の子も女の子も、まずはそういうのから好きになるもんね」
「はぁ」
「リョウ君って、初心なんだね。そんなんだから、ずっと遠くから私を見ていたのかな」
「え、気づいてたの?」
「あれ、今のも冗談のつもりだったけど。まさか」
「あ」
「へー、そうなんだ。リョウ君って、そんなことしてたんだ……本物の変態さんだね」
今はバス停に並んで話しているが、彼女からの弄りは朝から始まっていた。登校してすぐ、すれ違って話しかけた時からずっとこの調子だ。
いや、ホントに、朝から彼女にどう声をかけようか悩んでいた自分が馬鹿らしくなるくらい、彼女の方から声をかけてきた。教室まで手を繋ごうかとか、おはようのファーストキスをしようかとか、私、まだキスもしたことないからね、とか、もう……ね。可愛いってこう言うのを言うんだろうね。
おまけにどこで嗅ぎつけたのか、昼食時に友達が早速僕が彼女に告白したことを突っ込んできた。教えてもいないしその場にいなかったのになんでお前が知ってるんだと訊くと、清水さんが教えてくれたと話した。その大声は他の生徒にも聞こえたようで、浴びたくもない視線が僕に突き刺さった。
僕たちの他にも、バスを待つ人はいる。絶賛放送中の光の巨人の主題歌を歌う子どもとその母親、デコったピッチを弄りながら甲高い声で談笑し合う同校の女子高生、大きな欠伸をしながら眠そうに腰を丸くするお爺さん。みんな、僕達の会話なんて耳にも入っていないようだった。変態、というワードに反応してくれなくて良かったと思う。
ふと、アオイさんに視線を向ける。彼女は口元に手を当てながらクスリと笑っていた。顔を赤くしている僕の姿が面白いのだろうか。
「と、ところで、アオイさんはどうして告白をOKしてくれたの?」
「昨日、言ったよ。君と一緒にいたら面白そうだったからって。今もこうして顔を赤くしてるし、見てて飽きないよ」
「……それ、褒めてる?」
「さあ、どっちかな」
やはりこの人は僕をからかって楽しんでいるようだ。
と思っていると、僕の乗るバスが遠くから見えてきた。彼女は別方向に行くバスに乗るため、ここでお別れだ。
「ほら、バスきたよ」
「あ、うん。じゃあ、また明日」
「明日は……そうだなー、あのコンビニの前で待ち合わせしよっか」
バスに乗る直前にそんなことを言ってきたから、僕は思わず振り向こうとした。が、後ろの人が次々と乗り込んで来て、前に進まざるを得なかった。
扉が閉まり、バスが出発する。窓の外では、彼女が微笑みながら手を振っている。僕も思わず手を振り返した。
付き合ってから1日、たったの1日しか経っていない。デートもしていない、ご飯も食べてない。手も繋いで居なければ、キスなんてもってのほか。
なのに、すごく疲れていた。
けれど、それを忘れてしまうくらいに、彼女の微笑みは素敵だった。また明日も頑張ろうと、横に通り過ぎる窓からの景色を見ながら思った。
次の日、僕は彼女の指示通りにコンビニの前で待った。
しかし待っても彼女はなかなか来ず、遅刻ギリギリで教室に駆け込んだ。
ぜえぜえと息を吐いていると、教室扉から顔を出してきた彼女が声をかけてきた。
どうやら待ち合わせのことをすっかり忘れていたらしく、いつも通りに学校に来たらしい。しかもそれを悪びれる様子もなく、ふわふわとした雰囲気で言ってきた。
折れそうになったけど、ふわふわな彼女を見ていたらまあいいかな、と思えた。付き合い初めてまだ2日目、彼女との恋は始まったばかりだ。
彼女のことは、まだまだ知らない。
だから、もっと知りたい。
◇◇◇◇◇◇◇◇
生まれてすぐに両親が死んでしまった私は、物心が着く前から『あの場所』で育ってきた。
山奥に隔離されるように建てられた、白い建物が並ぶあの場所。
夏になると、羽化した蝉の鳴き声があちこちで鳴り響いて、脳みそを溶かそうとしてくる。外から来た害虫が隙間から入り込んでお菓子の食べカスや残飯を平然と食い漁るそこは、私にとっては家でもあり、世界でもあった。
周りの子供達が運動をして遊んだり、虫を見たり殺したりしている横で、私はずっと絵本を読んでいた。大人から貰った絵本を何冊も、読めない字があったときは、大人に教えて貰いながら黙々と読んでいた。大人達は勉強熱心と褒めていたけど、そんなつもりは全くなかった。
『あの場所』での生活は、当時の私にとっては当たり前で、けれど、今思えば、幼い私にとってはとても苦しかった。
子どもたちが何百人も押し込められていたあの場所は、『いい大人に貰われるため』という理由で、規律・規則が厳しかった。生まれた時からここにいて、勉強も何もかも、ここで学んでいる子が殆どだった。
違反をすれば、当然、罰が下される。
叱責から拳骨、平手打ちは日常茶飯事。
酷い時にはご飯抜き、もっと悪いことをすれば、外に建てられた暗くて狭い倉庫の中に1日中閉じ込められることだってあった。
さながら罪人のような扱い。そういった躾をすることで、子どもたちに悪いことをすると酷い目に会う、という思想を植え付けていた。
あそこでの大人の言うことは絶対。
言うことを聞かない子は、存在を否定されるかのように叱られる。暴力は子どもたちを躾けるには最も手っ取り早くて、即効性のあるものだった。
優しい大人も何人かいた。
けど、大半は怖い大人ばかりだった。
優しい大人はみんな、私達を置いてさっさとどこかへ行ってしまう。明日、お古の本をあげるねって言った人も、そのまま来なくなったこともあった。
だから、私達は大人達に怒られないように暮らしていた。
当時の私にとってはそれが『当たり前』だった。
それが世界だった。
『あの場所』での生活こそが常識だった。
そして、『あの場所』での生活で何より酷かったのは、子供達同士のいじめだった。
封鎖された空間で、親も知らずに、厳しい大人達に囲まれた環境での生活を強いられている子どもたちにとって、鬱憤を晴らす方法は他者に当たり散らすことだった。
あそこで大人にやられたように、みんな、それしか知らないかのように。
それは、大人に隠れて行われていた。
ある時は、同じ部屋の男の子が年長組の男の子達に連れていかれて、お尻を押さえながら泣いて帰ってきたこともあった。とても苦しそうな顔をしていたその子は、あの後、数日間はうんこのお漏らしが続いていた。
違う日には、私と同じ部屋の女の子が、歳上の女の子達に連れて行かれたこともあった。その子は何故か大人に叱られていた。多分、何か悪いことをやらされたのだろう。あの子の悔しそうな表情は、今でも頭の中にこびり付いて離れない。
この世界は、私たちの世界は、弱肉強食だった。弱い奴が悪いかのように、それはウイルスのように蔓延していた。
そして、いつも1人で本を読んでいた私も当然、狙われた。
ヒソヒソと陰口を叩かれたり、わざと肩をぶつけてきたり、おかずの皿を倒してきたり、親のことで勝手に話を作られたりした。あいつの母親はコーシュウベンジョってやつなんだ。それで男とやりまくってあいつを作って逃げた。だらしない女だ。そんなありもしない話を作っては、嫌な笑い声をあげていた。
けれど、それはまだマシな方だった。下手に反応しなければ、向こうからつまらなくなってやめてくれる。そうすれば、ターゲットすぐに次に切りかえてくれる。
そうやって私は、周りからの嫌がらせに耐えていた。
けど、あれだけはダメだった。
各部屋に用意されていた大きな四角い棚、そこが子ども用に用意された唯一の私物スペースだった。
私のスペースは2段目の端っこから2番目、そこにいつも本を置いていたんだけど、ある日、全部破かれていた。まるで八つ当たりでもするかのようにビリビリにされて、雑巾を絞ったような濁った液体でビシャビシャにされていた。
もういない大人から貰った大切な本も。
初めて貰った誕生日プレゼントの絵本も、全て。
笑い声が聞こえてきたので振り向くと、男の子と女の子がコソコソと話しながら笑っていた。彼らは私をターゲットにしていたいじめっ子で、その視線は泣いている私に向けられていた。おそらく、いや、間違いなく彼らが犯人だ。
なんだよ、こっちみんなチビ、とし下のくせに、きもちわるい、しね、きえろ。
小声と目で彼らは私に向かってそう言った。
その時、私の中の何かがブチリと音を立ててキレた。
私は本の残骸を抱えて、笑っていた彼らに投げつけた。ふざけんな、やめろという声も無視して、私は怒りに任せて叩いた。慣れてないくせに、怒りのままに平手打ちで叩き続けた。
手の平が、痛い。人を叩くのって、こんなに痛いことだって、その時、初めて知った。
パチン、ペシンッ、と音が鳴る度にジンジンとした。叩いた子の頬も、林檎のように真っ赤になっていた。
けれど、相手は私よりも歳上だったから、当然、ひ弱な私では勝てず、あっという間に押し倒されて羽交い締めにされた。
跨られて、胸ぐらを掴まれて、お返しと言わんばかりに顔を叩かれた。両腕は別の子に押さえつけられていたから、身動きなんて取れない。
何度も何度も、年齢も性別も関係ないと、頬が腫れるまで平手打ちをされた。
それはやがて拳になって、ついには殴られた。たとえ子どもの拳でも、小さな私には凶器だった。
鼻を殴られた時は、じんわりとした熱いものが奥に溜まり、鼻の穴から赤いものが流れてきた。
頬を殴られた時は、口の中に鉄のような血の味が広がった。
目を殴られた時は、バチバチと火花が散った気がした。
大人が止めに入るまで私は殴られ続けた。こんなのは日常茶飯事だったから、周りの子達は止めようとしてくれなかった。むしろ、次の標的にされたくなくて、わざと目を逸らしていた。けど、それは当たり前だ。私だって、同じことをして逃げてきたのだから。
その日の夜、私はご飯を抜きにされて、暗い倉庫の中に閉じ込められた。
喧嘩両成敗、けど、どんな理由があろうと、先に手を出したのは私の方。だから、私への罰は重くされた。運が悪いことに、私に罰を下したのは、大人の中でもかなり怖くて厳しいことで畏れられていた大人だった。
彼らも頭を、特に男の子は強めに殴られて、ご飯を抜きにされていた。ただ、本を破ったことに関しては、彼らが破った証拠がなかったため、そのことで責められることはなかったらしい。
真っ暗の、物置として使われている窓のない倉庫の中で、私は顔の痛みに泣きながら膝を抱えていた。叩かれた時に切れた口の端が痛んだ。ズキズキとしていて、あとでグジュグジュに膿むかもしれない。
でも、痛み以上に悔しかった。ずっと大切にしていたものが、ここを出ていってしまった優しい大人から貰った本が、全部ビリビリにされた。しかも、破った相手を倒そうとしたら、逆にやり返されてしまった。
本当に悔しかった。どうしようも出来なかった自分が、凄く、悔しかった。
『ひっ…………!?』
ここは怖い。
暗くて何も見えない。
夏場は熱が籠るけど、冬場は冷気が籠って寒かった。手が悴むと思うくらいの寒さで、全身が震える。
寒さを耐えるためにここで暖をとっていた虫が体を這い上がって、肌の表面で細い足をカサカサと動かす。
今は外からバンバンとやられている。棒のようなものが倉庫を叩いて、激しい騒音を内部に響かせる。
誰が叩いているのか、分からない。犯人は彼女達かもしれないし、私が閉じ込められていると噂を聞き付けた意地悪な男の子達かもしれない。
耳を塞いでも、騒音は消えない。
怖さをなくすことなんてできなかった。
『(こわい……こわいよ…………)』
もしも、顔すら知らない両親が生きていたら、怖い思いをせずに済んだのかもしれない。
私のことを、絵本のお母さんみたいに優しく抱いてくれたかもしれない。
けれど、今更そんなことを言ってももう遅い。
私に『アオイ』という名前をくれた親は死んだ。私を産んで直ぐに死んでしまったと、大人からは聞かされていた。
私は、今という現実に何度も絶望した。
『…………?』
しばらくすると、外から怒鳴り声が聞こえてきた。大人のものじゃない声が響くと同時に、騒音は鳴り止んだ。
暫くの沈黙のあと、倉庫の扉が開かれた。
金属が摩れる音と共に寒い風が吹き込んできて、体をさらに冷やす。真っ暗な場所に慣れた目は、外の暗さまでもが眩しく感じてしまう。
『お……ねえ、ちゃん?』
扉を開けたのは、倉庫の鍵を持った『お姉ちゃん』だった。お姉ちゃんは、生まれた時から『あの場所』で育ってきた、私よりも歳上で、いつも私たちのことを守ってくれた女の子だった。
お姉ちゃんは白い息を吐きながら、私の顔を見て胸を撫で下ろして腕を広げてきた。私は暗さと怖さ、寒さで震えていた体を跳ねさせて、泣きながらお姉ちゃんに抱きついた。どうやら雪が降っているようで、私とお姉ちゃんの頭に白い粒が降りてきた。
『でも、なんで……? おこられちゃうよ?』
そう訊くと、お姉ちゃんは優しい顔で答えてくれた。どうやら、私を倉庫から出してくれるよう大人達に言ってくれたらしい。
『でも、それじゃ、おねえちゃんが…………』
お姉ちゃんは苦い顔をしつつも、夕食くらい1食抜いても平気だ、と言った。それに、と言葉を続けると、お姉ちゃんはズボンのポッケに手を突っ込み、何かを取りだした。
それは、前に大人達の部屋をこっそり覗いた時にテレビに映った、外の世界で売っているというチョコレートのお菓子だった。さっき、ここに来る前に別の大人が、ご褒美にこっそり分けてくれたらしい。
お姉ちゃんは私に食べるか訊いてきた。私はゴクリと喉を鳴らして頷いた。
そして、私とお姉ちゃんは、人目のつかない場所で、雪を見ながらこっそりチョコレートを食べた。時々出てくるおやつよりも美味しくて、口の中に甘さが広がった。
少しだけ、生きる気力が湧いた。
その後、鍵を返し終えたお姉ちゃんは、別棟にある自分の部屋にこっそり連れて行ってくれた。他の子達が寝ている中で、私はお姉ちゃんと同じ布団の中で抱かれながら眠った。
ぬくぬくとしたお姉ちゃんの胸の温もりが、体を芯から温めてくれた。ドクンドクンという心臓の音が、恐怖を和らげてくれた。
お姉ちゃんは『助けてやれなくてごめん』って言ってたけど、私にとっては一緒にいてくれるだけでも嬉しかった。
お姉ちゃんは、私にとって唯一の味方で、みんなにとってヒーローのような存在だった。
食事を抜きにされた子がいれば、お姉ちゃんはこっそり分けてくれた。理不尽に怒られている子がいたら、割って入って罰を軽くして貰うように訴えていた。
そんなお姉ちゃんが、私は大好きだった。
ある日、お姉ちゃんが大人から褒められていた。あの大人は子どもたちに優しくしてくれる『いい大人』で、私もよくいらなくなった本を貰っていた。
『おねえちゃん、うれしそう』
そう言うと、お姉ちゃんは頬をかきながら、恥ずかしいな、と言った。それが面白くて、ほんのちょっとだけ意地悪をしてみた。
『なんではずかしいの?』
お姉ちゃんはあーとかえーとか言って、困った様子で目を逸らした。お姉ちゃんは、こういう時に分かりやすい。
『……おねえちゃん、あの人のこと、好きなの?』
優しいから好き、と答えた。
『そっかー、すきなんだー』
ちょっと意地悪に言うと、お姉ちゃんは顔を赤くしながらジト目で睨んできた。私が『んー、べつにー』と返すと、そっぽを向いた。
この時のお姉ちゃんは、恥ずかしそうにしながらも、大人に褒められて、とっても嬉しそうだった。
そんな可愛いお姉ちゃんも、私は大好きだった。
────その日は、突然、決まった。
私がここを離れて、外の世界に出ることになったのだ。引き取り人は『清水』という夫婦で、時々私の様子を見に来ていた人達だった。確か、初めは向こうから手を振ってきて、私は不思議に思いながら手を振り返していた。それで数回くらいお話して、外の世界について話してくれた。どうやらその人たちが、新しく家に迎える子どもとして私を選んでくれたらしい。
私は大人達から良かったね、これからはお外で暮らせるよと言われた。子どもたちからもいいなー、なんでお前なんかと、羨ましがられたり妬まれたりした。
けど、私はちっとも嬉しくなかった。確かにここの生活は辛いし、死にたいと思うことは何度もあった。でも、お姉ちゃんと離れるのはもっと辛かった。どうせならお姉ちゃんも連れて行って欲しいと思った。お姉ちゃんがいれば、私は寂しくない。お姉ちゃんがいないと、私は不安で潰される。
そんな私に、お姉ちゃんはこう言ってくれた。
──アオイ、お前はとてもいい子だった、だからこうして大人が迎えに来てくれたんだ。
外の世界には、テーマパークや遊園地がある。それだけじゃない、学校にだって行けるし、そこで友達も作れる。だから、お前は行くべきだ。
……うん、私は平気だよ。いつか私も大人に連れて行ってもらうから。
『……じゃあ、約束して……お外にでれたら、あいにきて』
──ああ、約束する。絶対に会いに行くよ。
そう言って、私たちは指切りをした。また絶対に会おうって、破ったら針千本飲ませるって。
清水さんに引き渡された時も、車に乗せられた時も、青い門を潜り抜けたあとも、お姉ちゃんは手を振り続けてくれた。私も手を振り返した。
きっと、お姉ちゃんならきっと、いい大人に拾ってもらえる。だって、お姉ちゃんはみんなを守ってくれる優しい人だから、お姉ちゃんこそ、いい大人に拾われて欲しい。
『さあ、今日からここがアオイちゃんのお家だよ』
初めて見る家は、白い建物が並んでいたあの場所よりも凄く小さくて、けれど、3人で住むには大きいと思った。
『僕達のことは、好きに呼んでいいからね』
『まあ……できれば、お父さんとお母さんって、呼んで欲しい、かな〜?』
『そんな、いきなりそれは無理だよ。みぃちゃん』
お父さんとお母さん、2人はそう呼んで欲しいようだった。この人たちに好きになってもらうためには、呼んだ方が良いらしい。
『……おとーさん……おかーさん……?』
初めて言うセリフを、私は少し迷いながら言った。2人は顔を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
そうして私は、清水さん家の一人娘、『
それから始まった3人での生活。私は初めてだらけな毎日を送ることになった。
ご飯の量が多くて、お腹いっぱいに食べられる。おかわりも自由で、万が一食べきれなくても怒られない。
スーパーという場所があって、そこではお菓子が普通に売られていて、お金があれば買える。
お風呂に入る時間も自由で、当たり前のようにテレビを観ることが出来る。
少し寝坊したとしても、大声で怒られることも、叩かれることもない。
休日には、デパートの屋上で開かれた遊園地に連れて行ってもらったり、テレビの中でしか見たことがなかったテーマパークにも連れてってくれた。動物園に遊びに行って、長い列に並んだこともあった。
誕生日には大きなホールのケーキを食べさせてもらった。誕生日プレゼントも、勝手に選んだものじゃなくて、私が欲しいと思ったものを買ってくれる。
初めて背負ったランドセルは、当時は珍しかった水色だった。普通、女の子は赤色だと聞いていたけど、スベスベとした水色のボディが素敵だと思った。お父さんもお母さんも、私の意見を否定せずに受け入れてくれた。
学校から戻ると、いつもお母さんが出迎えてくれた。お母さんの優しい笑顔が、その日あったやなことを忘れさせてくれた。泣きそうになった日も、家に戻るとすぐに涙は引っ込んだ。
どれも、あの場所にいた時には、あのままいたとしたら味わえなかったことばかりだった。
私にとって、どれも夢にまで見た、いや、夢以上のものだった。
それに、私はお父さんとお母さんになってくれたあの人達が大好きだ。
2人とも、私のことを本当の娘のように可愛がってくれている。だから私も、2人を困らせないように、怒らせないように気をつけた。
2人の前では笑顔を絶やさない。
我儘は言わない。
怒らない。
これが、私が小さな頃からあの家で守ってきたことだった。
この場所も、この人たちも、絶対に手放したくなかった。だから、追い出されるようなことはしなかった。
もう、あの場所を離れてから10年以上も経つ。
あの場所はもうなくなってしまったらしい。
歳を重ねるにつれて、あの場所の記憶は薄れてきている。今こうして覚えているものも、いつかは忘れるかもしれない。
けれど、お姉ちゃんとの約束は、今でも忘れていない。
お姉ちゃんと再会して、幸せになれたことを伝えたい。
ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは今、どこにいるのかな?
私、今、とっても幸せだよ? 小学生の時は、家の事で嫌な目にあったけど、今は平気だよ。
それに最近、彼氏ができたんだ。同じ高校で、時々私をチラチラとみていた男の子。揶揄うと面白くて、私も、どうしてこんなに意地悪をしちゃうのか、自分でも不思議なくらい。けれど、優しい子なんだ。
お姉ちゃんにも、その子のこと、お話したいな。
……どこにいるのかな?
もしかして、お姉ちゃんも外の世界に出て、幸せに暮らしてるのかな? もしかして、お姉ちゃんも大好きな『あの人』と一緒になれたのかな?
…………逢いたいよ、お姉ちゃん。
◇◇◇◇◇◇◇◇
アオイさんに告白をしてお付き合いを始めてから、早くも1ヶ月が経っていた。その間、僕は変わらず彼女から弄られていえ、昼食の時も、下校の時も、僕は彼女からのタチの悪いジョークに翻弄された。友達からも「お前ら、本当に恋人なの?」「なんつーか、いじめられてるみたい」と突っ込まれるほどだった。
確かに、僕だってアオイさんのジョークにムッとすることはある。彼女の他人のことなど知ったこっちゃないと言わんばかりのマイペースに巻き込まれることも屡々あった。けど、どれも僕からすれば許容範囲内で、それ以上に彼女と過ごす時間のことを考えれば、むしろお釣りが沢山来るくらいだ。
話の方だってそうだ。僕がアニメの話をすると、彼女は興味を示したように聴いてくれる。僕もまた、彼女が本の話をする時は、説明の上手さに思わず聞き入ってしまう。こうやって趣味のことを話しあえる人は、家族や友達以外では彼女が初めてだった。
そしてなにより、知らなかった彼女の一面を知れているので、僕にとってはプラマイゼロだった。甘いチョコレートが好きなことは、ちょっぴり可愛いと思った。
…………まあ、簡潔に言えば、僕は彼女に夢中になっていた。
彼女の行動一つ一つが、可愛くて仕方がないのだ。
気持ちの悪いことを言うが、本当にそうだ。
どれだけ酷いことをされても、彼女を知れば知るほどその魅力に唆られるし、イタズラを怒ろうにも、ふわふわした笑顔の前では力が抜けてしまう。これ、他人からすればかなり歪んでるのかな。けど、僕は今の彼女とのやり取りに不満はない。
「ほら、ここだよ」
だって今もこうして、学校帰りに手を繋ぎながら、彼女とのデート(という名の買い物の付き添い)をしているのだから。強く握る彼女の手の柔らかさに体温が上昇をやめてくれない。
そう、ついこの間だから、ようやく手を繋がせてくれるようになったのだ。帰っている途中で突然微笑みながら「手、繋いでみる?」って言われた。そりゃあもう、ドキドキが止まらなかったし、何度も手を拭いてから彼女の手を握った。彼女は全くそんな様子はなかったけど。
「今日は何を買いに?」
「小説。今読んでる本、読み終えちゃうから、もうそろそろ買おうかなって思ってね」
そう言うと、彼女は僕と手を握ったまま本屋へと入店。最近売れっ子の歌手の歌がスピーカーから流れる中、店内を散策し始めた。
やや低めの天井には、白い蛍光灯が縦に並ぶように取り付けられ、白い光で店内を照らしていた。
その下で、雑誌や漫画、小説などが陳列されていて、最新刊とかは目立ちやすい場所に置かれて、店員さんお手製の紹介メッセージ的なものまで添えられていた。
「あのー、アオイさん」
アオイさんを呼ぶが、店内BGMで聞こえなかったのか、彼女は振り返らない。
確かに手を繋げるのは嬉しいけど、店の中でまでやる必要はない気がする。今もほら、店内にいる客の数人がチラチラと僕達を見ている。それを言おうとしたが、珍しくルンルン気分で鼻歌を唄う彼女を見ていたら、そんな気も早くに薄れてしまった。
「あ、これ」
彼女は棚に並べられていた一冊の単行本を手に取る。最近発売された新作、ではなく、去年発売された本だった。
「去年偶然立ち読みした時に、凄く面白かったから、いつか買ってちゃんと読みたいなって思ってたんだ」
「それがなぜ1年もかかった?」
「他の本を読んでて忘れてた。思い出したのもついこの前だし」
てへ、と言いたいような顔で彼女は苦笑した。恐ろしいほどのマイペースだ。
でも、少しずつだけど、彼女は僕に対して色んな表情を出してくれている。これは、彼氏として認められ始めているということなのか、うん、そう受け取ろう。
「この人、有名になるよ。だって面白いから、私、自信持って言えるよ」
それにしても今日の彼女はやけに笑顔が多い。何かいいことでもあったのか。
試しに他の棚を散策するアオイさんに声をかけた。彼女は「ん?」と返すだけで視線は本に泳がせている。
「今日、なんだか嬉しそうだね。いつもより元気な気がするよ」
「そうかな?」
「何かいいことでもあった?」と、ほんの軽い気持ちでそう訊くと、彼女は小説を持つ手をだらりと下げて、まるで呆然とするように棚を見つめ始めた。虚空を見るようなその目は、何かに取り憑かれたようにも見えた。
「どうしたの?」
訊いたらまずいことだったのか。そう焦り出すと、突然彼女はこちらに顔を向けて、笑った。
「ていう感じになったら焦っちゃうよね」
どうやら彼女のイタズラだったらしい。僕は焦りながらもほっとし、苦笑した。
「冗談。うん、今日はね、特別な日なんだ」
「へー、特別な日か」
それってどんな日、と訊くと、彼女は笑顔で、
「お父さんとお母さんの養子になった日だよ」
と答えた。
多分、自分と無縁な事柄に直面した時、人はこんな感じに宇宙に漂うかのような気分になるんだと思う。たとえ、相手が恋人であろうとも、家族であろうとも、自分というものが一瞬無に帰す。
「……養子?」
僕はそう言って、笑顔のまま、彼女の言葉に暫く思考を停止させた。何故停止をさせてしまったのか。
「あの、それって……」
「そのままの意味。私がお父さんとお母さんの家に引き取られた日。つまり、私が清水葵になった日ってことだよ」
いつもと変わらぬ微笑みのアオイさんに、僕は言葉を迷わせる。それは表情にも出ていたようで、アオイさんにも伝わってしまった。
「……いきなりこんなこと言われて、びっくりした?」
「いや、そんなことは」
ない、と言ったら嘘になる。彼女からの告白に、僕は思い切り動揺してしまっている。
何故、どうしてこんなにも動揺しているのか。自分でも不思議でならない。
彼女は「とりあえず」といい、本を持ち上げた。季節外れの夏という漢字に目がいく。
「本、買っていいかな? 詳しい話はまた後でするから」
僕は無言で顎を引いた。
◇◇◇
購入を終えた僕達は店を出た。
今日は気温が低い所為か、扉が開いた瞬間に肌寒い風が吹き込んできた。昼間はやや暑いのに、朝晩近くは冷え込んでいる。この時期の気温はそんなだから、なかなか好きになれない。
外は既に夕陽に照らされていて、空はオレンジ色に染められていた。時々通り過ぎる雲が影を作って立体的に見える。広い歩道に木立が並んでいて、所々に緑を混ぜた紅葉を枝先から生やしている。おそらく、1週間後くらいが最高の見頃かもしれない。
僕達は、歩道の途中にあったベンチに腰を下ろした。並んで座る僕達の距離は近い。なのに、心は距離をとっている気がする。
背の高い街路樹のおかげで、夕陽の眩しさは遮られているが、それが作り出す影が、僕たちの今の状況を表しているように感じた。
「もう、10年くらい前になるかな」
自販機で購入したホット缶を両手で持ちながら、彼女は昔話を語るように話してくれた。
彼女は元々、とある場所──彼女は『あの場所』と言っている──で生活をしていた。山奥に建てられたその場所には、親や頼れる身内のいない、行き場のない沢山の子ども達が捨てられたように押し込められ、集団で暮らしていたそうだ。
ただ、そこでの生活は厳しく、ルールを少しでも破れば、働く大人達から罰を加えられたという。それは『いい大人に貰われるため』の教育の一環だったらしい。
また、子どもたちの間でのいじめも酷く、彼女も何度か被害にあった。具体的な内容についてはここで話すと長くなるので省くけど、途中で耳を塞ぎたくなるようなものだった。
封鎖的な生活環境で、彼女を助けてくれる子は、いつも自分を守ってくれた『お姉ちゃん』以外にはいなかったという。お姉ちゃんはアオイさんにとっては唯一の味方で、一緒に食べたチョコレートの甘さが忘れられないらしい。
そんなある日、あの場所にとある夫婦が訪ねてきた。名前を『清水』と名乗った彼らはアオイさんをぜひ娘に欲しいと言ったそうで、大人達もそれを了承し、彼女を清水家に引き渡したという。
その人たちが、今のアオイさんのご両親だった。
「それで、私はただのアオイから『
それから、彼女はあの場所とは違った外の世界で暮らし始めた。
外に出られるという自由、自分を出迎えてくれる存在、知らなかった外の世界の景色…………あの場所での生活とは大きく違った環境、そして初めて味わう心地良さに、彼女はショックを受けた。それは悪い意味ではなく、良い意味でだ。そして同時に、家があり、自分を待ってくれる人がいるという幸福を感じた。
「小学校に進学してからも、話す子はいなかった。もともと1人で過ごすことが多かったのもあったけど、あの場所にいた時は友達なんて作れなかったから、それで学校でも同じ、一人ぼっち。お誕生会なんて、1度も呼ばれたことなかった。でも、勉強は楽しかったし、図書室の本も好きだったから、特に苦しくはなかったかな。図書室の棚の本は、面白くて殆ど読んじゃったと思う」
アオイさんは缶の縁に口をつけ、ドリンクを1口飲む。ふうっと吐いた息が宙を舞う。
「けど、まあ、辛くなかったって言ったら嘘にはなるかな」
ある日、授業の一環として、彼女は両親への感謝を込めた作文を書くことになった。発表日には親が参観に来るらしく、クラスからは絶望の声が湧き上がったという。
面倒くさい、適当でいいか、何を書こう、下手なこと書いたら怒られそうだ、先生マジ信じらんねぇ、誰か事件起こして中止してくんねえかなぁ等々、クラスメイト達が悩む横で、彼女は育ての親である両親への気持ちを綴った。
一人ぼっちだった私を引き取ってくれたこと、私を娘として可愛がってくれていること、そして、そのことで感謝をしていること。それらを彼女は隠すことなく書き記し、発表当日にみんなの前で堂々と発表をした。
「そしたらみんな、ザワザワし始めたんだ。私が両親の実の子どもじゃないってことに、相当驚いてたみたい。先生とお母さんだけは嬉しそうに拍手してたけどね」
それから始まったのは、言葉にするのも億劫になるようなことだったと、彼女はため息混じりに話した。
今まで話したこともない奴らが嫌な笑みを浮かべて近づいて悪口を言ってきたり、わざと聞こえるような声でヒソヒソと噂話をするようになったり、学校で頻繁に自分の物がなくなることもあったという。
「実の子どもじゃないのって、結構珍しかったみたい。酷い時は、他の子の親までそういう目で見てくるんだって。でも、おかしいよね。私は清水家の人間で、戸籍上でも2人の子どもなのに。どうして血が繋がってないだけで、周りはあんなに言ってくるんだろうって、その時は不思議で仕方なかったよ。先生は私の味方をしてくれた気がするけど、なんか、凄く勘違いしてたと思う」
「……お父さんとお母さんには、学校でやられたことは話した?」
「んー……余計な迷惑はかけたくなかったから。それに、あんなのは『あの場所』での嫌がらせに比べたら、全然マシなほうだったから。こっちも特に何も言わなかったから、小学校を卒業したら勝手に収まってたよ」
日陰を作る木の枝が風で揺れる。彼女の髪もふわりと揺れた。彼女は僕の方に顔を向けると、柔らかく微笑んだ。
「どうだった? 私の話、面白かった?」
「……どうって…………その……」
彼女からの質問に、僕は黙ったまま何も返すことができなかった。面白いとか面白くないとか、そういう話ではない気がするが、なにか返事をしなければならない。けれど、どう返すのが正解なのか、今のこの気持ちをこの想いをどう言葉にすれば良いのか、分からなかった。
歩道を歩く仲良しなカップルの談笑が静寂した僕達の間に響く。僕達は視線を逸らさずに見つめ合う。しばらくして彼女は「『あの場所』はね」と切り出した。
「今はもうないんだ。私が引き取られて数年経った後に閉鎖されちゃったみたい」
トントンと、指先が缶の側面を叩いて軽い音を鳴らす。半分を飲みきっているのか、少しだけ高く響いている気がする。
「…………あそこに住んでいた子どもたちも、お姉ちゃんも、今はどこで何をしているのか、全く分からない……みんな、元気かな」
寂しさを孕んだ彼女の言葉に、僕は何を思ったのか、単に何か返さなければならないと思ったのか、ただ口を開いた。
「じゃあ、いつか……そのお姉ちゃんを探しに行こう」
多分、咄嗟の思いつきだった。けど、彼女は目を細めて「うん、約束だよ」と言い、小指を立てた右手を差し出してきた。僕は誘われるように小指を立てて手を伸ばし、彼女のものに触れた。互いに関節を曲げて絡め合い、指切りげんまんを歌う。針千本なんて本当に飲めるかなと、指切りを終えた後に彼女は言った。食べ物じゃないから飲んじゃダメだと思うと返すと、アオイさんはそうだよねと頷いた。
ホット缶を飲み終え、僕達は再び歩き始めた。
夕焼けが濃くなってきて、並んで歩く僕達の影を大きくしている。
アオイさんとの間には先程までの距離は感じず、僕も彼女も肩の荷が降りたように歩いている。きっと、彼女も過去のことを話せて気が楽になれたのだろう。
「私はね」
ふと、彼女は前を向いたまま、手を繋ぎながら語り掛けた。
「作文を書いたこと、後悔してないよ。お父さんとお母さんには感謝してもしきれないから。それを文章と言葉にできて、良かったって思ってる。私は清水家の娘だって、胸を張って言えるよ」
君ならそう言うよね、なんて、付き合ってまだそんなに経ってもいない僕は、生意気にもそう思ってしまった。彼女は強いなと思った。僕がもし彼女の立場だったら、今頃塞ぎ込んでいただろうし、血縁関係のない両親に八つ当たりしていたかもしれない。
「……さっきの話だけど」
「さっき?」
橋の上で足を止めて首を傾げてくるアオイさん。だけど、きっとなんのことかは分かっている。
「正直、可哀想だと思った。君の育った『あの場所』での生活とか、学校のこととか。どうして君がそんな目に会わないといけないんだって、思ってしまった」
「…………」
「けど、同時に、凄く逞しいとも思ったんだ。嫌がらせをされても、自分は清水家の人間だって、血が繋がっていなくても2人は私の両親だって、堂々と胸を張って言える君は…………その……サイコーにカッコイイって思った。もしも僕が君の立場だったら、そんなことは怖くて出来ないなって思ったから、余計にカッコイイって思った」
「…………」
「それと……君がこうして清水葵になったお掛けで……ぼ、僕は君と付き合うことができた……運命ってやつかな? これ?」
いい所で終われば良いものを、最後のセリフはどう考えても余計だった。いや、女の子に対してカッコイイっていうのもどうなんだ?
「…………ふっ」
アオイさんは突然吹き出し、笑い始めた。いつもの悪戯が成功した時の意地悪なものではなく、心の底から可笑しいものを見た時のような笑い方だった。
「え、やっぱりおかしい?」
「ううん、ごめんね。なんだか、君ってやっぱり面白いなって思ったの」
「それ、褒めてる?」
「うーん、どうだろう?」
いつものように意地悪そうな笑みを浮かべるアオイさん。けれど、そこにはいつもとは違って、嬉しさも隠れている気がした。僕もからかわれながらも、嬉しくて笑った。
「ねえ、リョウ君」
僕の名前を呼ぶと、アオイさんは手を離して、真っ直ぐと後方を指さした。
振り向くと、そこにはみかんよりも濃いオレンジ色の夕焼けが、空の彼方へ沈もうとしていた。ちょうど電線や建物が遮らない絶妙な位置にいるから、余計に美しく見える。
夏と違ってこの時間帯であそこまで移動するのだから、もうすぐ冬が来るのだと実感した。
「いや、あれがどうしたの?」
顔を彼女の方に戻そうとする。
ぐにゅっ……
「えぅ」
まるで頬を突っつかれたような擬音がした。否、実際に突っつかれていた。彼女の人差し指が、振り向こうとした僕の頬をぐにゅりとめり込ませていた。
「…………ふふ」
思わず間抜けな声を上げてしまった僕に、アオイさんはまた笑っていた。どうやら彼女の悪戯に引っ掛かったようだ。
「リョウ君ってすぐに引っかかるね」
それは、僕が騙されやすいというのもあるだろう。けれど、僕自身が彼女にこうして騙されることを楽しんでいるのもある。
「ねえリョウ君。私、君のこと、異性として好きになれそう」
「え、じゃあ、今まで異性として意識されてなかったってこと……?」
唖然とする僕に、彼女はただ微笑むだけだった。異性として意識していなかったことが嘘なのか本当なのか、彼女しか分からない。けれど、どちらにしても、彼女は僕のことを好意的に見てくれているのは変わらないだろう。
「帰ろっか」
彼女の言葉に、僕は頷いた。僕達は再び歩き始め、目的のバス停まで向かった。その間も僕達は手を繋ぎ続けた。彼女は笑いながら、僕はそれに釣られるように。
バスが来るまで待ち時間があったので、近くのコンビニでデザートを買った。彼女は幸せそうに、デザートの甘さにほっぺを蕩けさせていた。
きっと、予想になってしまうけど、また明日、僕は彼女と近い関係になれていると思う。それは卑猥な意味ではなく、人間として、恋人として、彼女と仲を深められそうだという意味で。
だから、僕は彼女のことをもっと知っていきたい。僕も、自分のことを、彼女に伝えたい。
◇◇◇◇◇◇◇◇
どうして人は、言葉というものを発展させたのだろう。
それはきっと、お互いの気持ちを仕草や鳴き声だけで伝えきれなくなったからかもしれない。
気持ちというのは、仕草だけで表すにはあまりにも複雑で、もっと高度なツールが必要だった。だから、人は言葉を使い始めたのかもしれない。
若しくは、言葉という高度なツールを使い始めたから、より複雑な気持ちが湧いた可能性もある。どちらにしろ、起源については誰も知らない。私も知らない。
私は…………そんなものは、発展しなければ良かったのにと、今、この時だけはそう思う。言葉を使わないやり取りだけだったら、余計に傷つく必要も、傷つける必要もないだろうに。
『だいきらい』『しんじゃえ』
たったの5文字、それだけでも人は十分に他人を傷つけることが出来る。
『ばか』『あほ』『しね』
たったの2文字、これだけでも人は他人を不快にすることが出来る。
『おやなし』『すてご』『させこのがき』
特定の人を不快にさせる、嫌な言葉。私が小学生の時に言われた言葉。
『あんたなんかしねばいい』『おまえなんかいなくなれ』『いつしぬんだよ』『きもちわるいんだよ』
私が『あの場所』で虐められていた時に吐かれていた言葉。これは、少し長いけど短い。なのに、十分に悪いが込められている。
けど、人を傷つけるには、何も露骨に悪い言葉ばかりではない。人によっては傷つくことでも、ある人にとっては何とも思えないことだってある。
…………私がお父さんとお母さんに言い放ったのは、多分、人によっては傷つく言葉だ。もしかしたら該当する人は殆ど傷つくかもしれない。そしてそれは、間違いなくあの2人を傷つけた。
切っ掛けは、ほんの些細なことだった。本当に些細で、くだらないことで、少し話し合えば仲直り出来ることだった。
なのに、私は、その時だけは引かなかった。
心の底から怒りが込み上げてきて、どうにもできなかった。
いつもの私なら、2人を傷つけないように、怒らせないように気をつけていたはずだった。なのに、その時だけはどうしても許せなかった。
湧き上がる怒りが、私を『あの場所』にいた頃の私に戻してしまった。怒りに身を任せて物を投げて、相手を叩いた、悪い悪いあの時の私に。
「どうせ…………」
それ以上は言っちゃダメ。言ったら嫌われて、捨てられちゃう。そう自分でも分かっていたのに。
「どうせ本当の………………」
どうして、止められなかったのかな。
「どうせ……本当の親じゃないくせに……」
なんで、酷いことを言ったのかな。
「他人の子どもとしか思ってないくせにっ!」
後悔しても、遅いのに。
◇◇◇◇◇◇◇◇
アオイさんと付き合い始めて、気が付けばもう3ヶ月。赤みがかった緑葉が紅葉を通り越して枯葉に変わってしまった。
この間も、文化祭やら、悪魔の期末テストやらで何かと騒がしい毎日を送っていた。
その最中でも、僕達は相も変わらず恋人として緩やかに過ごしていた。
朝は、いつものコンビニの前で待ち合わせをして、一緒に登校する。
昼休みは、彼女の机を挟むようにして、2人で昼食を食べる。時々仕掛けてくる彼女のイタズラに、いつものように翻弄される。
帰りは校門の前で待ち合わせをして、少しだけゆっくり話しながらバス停で別れる。
たまに寄り道をしては、デートという名の買い物を楽しみ、彼女に手を繋がれながら、店内をぐるりと巡る。
そんな感じに、僕達は恋人ライフを楽しんでいた。
言葉にしてみると、なんてワンパターンで、なんて代わり映えのない、面白くもないものだと思われるかもしれない。寧ろ、カラオケとか、そういう娯楽施設に行っていないのだから、恋人らしくないと言われる可能性もある。
しかし、僕にとっては、これこそが彼女との過ごし方であり、それだけでも僕にとっては彼女と恋人生活を満喫できていると感じることができるのだ。
それに、あの告白の一件以来、彼女との距離が更に縮んだ気がする。アオイさんから、家族の話をするようになったのだ。
彼女の両親は小学校からの同級生で、お父さんが大学を卒業したことを機に結婚したこと。
結婚して間もない頃に、お母さんが子どもができない体になったこと。
とある縁があって『あの場所』を訪れ、アオイさんと出会い引き取ったこと。
アオイさんのマイペースな性格は、お母さんによく似ていること。
それこそ、恋人になってまだ3ヶ月しか経っていないのに聞いても良いものかと思うほどの内容を、彼女は打ち明けてくれた。
彼女から自分のことを話してくれていることが、僕への信頼の証のように感じて、とても嬉しかった。
…………さて、惚気話はここまでにしておこう。
僕がアオイさんとイチャついている間に、今年もあと僅かになった。12月後半で、冬休みまで1週間を切った。
恐怖の大王が降ってくるのも間近に迫って来てるし、今世紀の終わりも近い。雪が降るこの季節に、世の中は冬休みとクリスマスと世紀末ブームに浮かれていた。本屋には、早速オカルト雑誌の最新号が置かれていた。
テレビでは、とあるアニメのフラッシュが世間を騒がせていたり、視聴していたアニメが最終回間近になったり、9月頃にデビューしたバンドのクリスマスソングが音楽番組で紹介されていたりと、忙しそうだった。クリスマスが過ぎれば、すぐさま大晦日大売りつくしとかお年玉とか、そんなキャンペーンに切り替わるだろう。
「はー……寒いなぁ」
僕はいつものように、バス停から少し離れた場所にあるコンビニの前で彼女を待っていた。空が白雲に覆われる冬真っ只中ということもあって、外は氷点下に近い寒さに覆われていた。吐く息も白くて、通り過ぎる風は露出した肌部分を容赦なく冷やしてきた。手なんて感覚が殆どない。指を曲げるのも精一杯だ。
でも心配は不要だ。
彼女が来たら、まずは両手を繋いで、手を温め合うからだ。彼女はバス内でぬくぬくに温まった手で、僕の冷たい手を握る。じんわりと熱が伝わり、ある程度温まったところで手を繋いで登校する。それが冬場の僕達の日常だった。
そんな光景を見て、周りのみんなも、初めは物珍しそうな目を向けていた。目の前で堂々と手を繋ぐのだから、嫌でも目が向いてしまうようだった。
けれど、今はすっかり慣れたようで、僕達が手を繋いで歩いていても、またイチャイチャしてる程度にしか思われなくなった。友達曰く「他人の恋愛なんてすぐに飽きるもんだ」とのことらしい。
それでいい、そうやって日常に溶け込んでしまうのが1番いい。
「あ、きた」
そんなことを考えていると、ちょうどバス停に、アオイさんが乗っているはずのバスが停車した。出口から学生の集団が降車する。冬だというのに、相変わらずスカートを短く履く女子生徒が多かった。
その中に、アオイさんの姿があった。首に赤いとしたマフラーと、両手にモコモコとした手袋をつけていた。そして、いつものようにプリーツスカートと鮮やかな色の長髪を揺らしながら、学生の群れに紛れて道を歩いてきた。周りの女子高生がダボダボなルーズソックスでいる中、規定の長さのソックスを履いていた、
この後は群れから外れて僕と合流し、そのまま一緒に登校する。それが僕達が毎朝行っていることだった。
「あれ?」
しかし彼女はこちらに来ず、そのまま僕を無視して流れに任せて高校までの道のりを歩いていた。
もしかして、前にあったド忘れでもしたのか。
そう思った僕は、鞄を背負ってその場を後にし、彼女の背中を追いかけた。
「アオイさん!」と呼びかけると、彼女は立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。少し眠そうな、魂が抜けかけている表情だった。目の周りも、若干赤くなっている。
「……あれ、リョウ君? なんで?」
ぽけーっとした顔から、現実に引き戻されたような表情でアオイさんは僕を見た。そして、辺りを見て、すぐに待ち合わせの場所を通り過ぎていたことに気がついた。どうやら、本当に気づかなかったらしい。
「ああ、そっか、ごめんね。ちょっとボーッとしてた」と、アオイさんは疲れた様子で苦笑した。いつもなら「……なんて、こんな感じに無視されたら怒る?」みたいなジョークの1つでも言ってくるのに。
「大丈夫? もしかして寝不足? 目の周りも赤いし」
「うん、ちょっとね。夜に本を読んでたんだけど、それが結構面白くて、オマケに泣けるシーンも多くて、つい夜更かししちゃったんだ」
指先で目を擦りながら、彼女はいつものように微笑んだ。実に彼女らしい理由だとは思う。
けれど、その笑顔はいつもとは違っていて、ふわふわとしていない、貼り付けたような作り笑いに見えた。
「……何か、あったの?」
アオイさんの目が一瞬見開き、すぐに元に戻った。
「ううん、全然。何も無いよ。強いて言うなら、夜更かししたことをお父さんに叱られたくらいかな。叱られて、叩かれちゃった」
「お父さんが?」
「嘘」
「違うんだ」
その場に転けそうになって、アオイさんは手袋を口元に当てながら笑った。今度は本当に笑っているようだった。
「じゃあ、行こっか」
アオイさんが僕の両手を取って握る。ギュッとしているけど、握力の弱い彼女の手は、ちっとも痛くない。
温まった手袋の熱が、少しずつ僕の方へと渡り、悴んで痛覚が麻痺している表面を温める。冷たかった両手に感覚が戻っていく。戻ってきて初めに感じたのは、手袋越しの彼女の指の形だった。
「手、冷たいね」
「手袋、持ってなくて」
「寒かったら買えばいいのに。そんなに高くないよ?」
「いやー、それは……」
実はアオイさんに温めて欲しくて敢えて買っていない、なんて恥ずかしいことは言えなかった。
「もしかして……私に握って欲しいから?」
ドキリと胸が高鳴った。彼女の充血した目は、やはり疲れている証拠だろう。でも、それ以上に、細めた瞳で悪戯な笑顔を浮かべている彼女に、僕の心拍数は上昇した。
「……いいよ。リョウ君の手なら、何回でも温めてあげる。私達、恋人だもんね」
そう言うと、彼女は僕の右手を引いて、通学路を歩き始めた。僕は引かれるままに彼女と共に歩く。やがて2人の歩幅が合ってきて、いつものように並んで歩き始めた。僕たちの関係を知らない1年生から視線を浴びるが、特に気にしなかった。
ふと、彼女を見る。同じタイミングで彼女も僕を見た。
僕は思わず顔を赤くして、彼女はうふふ、と笑った。
彼女の笑顔は、普段の彼女のものだった。
しかし、僕を握るその手はなぜだか震えているような気がした。それは寒さのせいではないと、直感で気づいた。
◇◇◇
彼女への違和感に気づきながらも、僕は普段のように過ごした。
来週は終業式だからと、各科目の先生から冬休みの課題を配られて、その量にクラスのみんながため息を吐いた。
先生が、ぼんやりと赤く灯るストーブ近くでぬくぬくしながら課題の説明をしているのを、少しだけ恨めしく思いながら必死に足元を擦って耐えた。
合間の休憩時間には、おしくらまんじゅうをするようにクラスメイトがストーブ周りを占領していた。
昼食では、いつものように彼女と食べた。
しかし、彼女は何も言わなかった。いつもなら冗談とか、世間話とか、本の話とか、そういうのを話すのに、今日の彼女は常に上の空だった。
おかげで僕も、遠くを見る彼女の表情を見たまま、母特製の鮭おにぎりを黙食した。友達から「なんか、お通夜みたいだな」と苦笑されたが、僕達は何も返さなかった。何故か「すまん」と謝罪された。
結局、最後までアオイさんとは殆ど話をしなかった。黙々と食べ続け、もきゅもきゅとお米を頬張る彼女を眺め続けていたら、いつの間にかチャイムが鳴っていた。2人の間に流れた気まずい空気がなんだったのかはよく分からない。
◇◇◇
そして現在、ホームルームを終え、無事に今日の授業が終了した。周りが冬休みの都合やら、部活動の話やらをしている中、僕は机の中に仕舞いこんでいた各科目の課題を鞄の中へ詰めていた。
冬休みはオタクの友人からインターネットに転がる考察を基に自分なりに編み出したという例のアニメの考察を聞くために、最悪2日分は何もしない日を作らないといけないので、僕のスケジュールも結構シビアだったりする。
断ればいいのにと思われるかもしれないが、そうなった場合、僕の家で演説会が開かれ、家族全員で考察に対する討論会をする羽目になるので、出来ればそれは避けたかった。オタクの友人と両親による討論会は、その場にいるものを情報の海へと沈めてしまうため、同胞ぐらいしか参加はオススメしない。
「それじゃ、また来週」
本来なら明日も授業のはずだが、我が校では12月の第3土曜日は諸事情でお休みになっている。理由は定かではないが、他の学校が土曜日授業をする中で休みというのは、何だかちょっと特別感がある。
「じゃ」
「おお、また来週」
荷物を纏め、比較的話すことが多いクラスメイトに別れを告げて、僕は教室扉を開けた。
「あっ」
開いたその先では、アオイさんが立っていた。幻覚ではなく、ホンモノの、赤いマフラーを首に巻いた、飴色の瞳を持った彼女が立っていたのだ。両手を後ろに組んで、僕が出てくるのを待ち構えていたかのようだ。
驚く僕に、彼女は「やっ」と気さくな挨拶をしてきた。
「びっくりした?」
「結構。けどなんで?」
「なんとなくだよ。今日は何となく、私の方からリョウ君をお迎えに行きたいなって思ったの」
「そうなんだ」
「あれ、反応薄いね。もしかして嬉しくなかった?」
首を傾げて訊ねてくる彼女に、僕は即行で首を横に振った。寧ろ嬉しい。嬉しいけど、いきなり過ぎて反応ができなかった。
「それじゃあ、帰ろっか」
彼女が差し出した右手には、モコモコの手袋が着けられていた。
僕達は、毎日手を繋いではいる。しかし、それはあくまで校門を潜る前と校門を出た後のみで、校内で繋いだことはなかった。
緊張しながら、僕は左手を伸ばして、彼女の手を握った。来る前にストーブに当てたのか、とても温かかった。両手を温める彼女を想像したら、少しほっこりとした気持ちになった。
廊下を歩く。周りからチラチラとした視線を受けながら、階段を下りて、正面玄関で靴を履き替えて、ゆっくりと帰り道を歩いた。冬本番なのもあってか、帰宅する時間帯になると寒さは朝と同じくらいの本格さを増している。冷たい風は最早冷たいという言葉だけでは不十分なほどで、冷たいを通り越して痛いという感覚を肌に与えてきた。
「はー……寒い。これなら耳あても買っておいた方がいいかな」
雲で白く染った空を見上げながら、アオイさんは独り言のように呟いた。
「けど、今月のお小遣いは本で使っちゃったから、来年まで無理かな」
呟く度に、白い息が口元から漏れて宙に消える。そういえば、彼女と付き合い始めてから買い物に付き添ったり、デザートを食べたりすることはあっても、何かをプレゼントしたことはなかった。これは男を見せる時なのかもしれない。
「耳あてなら、僕が買ってあげるよ。そんなに高いのは買えないけど、安いのだったら可愛いのが売ってるお店、知ってるから」
勇気を出して言ってみた。しかし、彼女は空を見上げるだけで、何も返してくれない。
「アオイさん?」
「…………」
「おーい」
「……ん? 何か言った?」
「いや、耳あてが欲しいって話じゃなかったの?」
「……もしかして、声に出してた?」
「思いっきり。ていうか独り言だったの?」
「うん」
冗談でもイタズラでもなく、本当に気づいていないようだった。「そっか、声に出てたんだ……」とぼそっと言うと、少し落ち込み気味に、アオイさんは俯き気味に顔を下げた。
バス停に到着し、少し長くできた列に並ぶ。僕はあと5分で来るバスを待つ。彼女はその次に来る別の駅へ向かうバスに乗る。付き合って2日目から始まったこの流れも、今ではすっかり日常の1つになっていた。
そういえば、僕が彼女に一目惚れしたのも丁度冬休み前だった。バスに乗った時に財布を忘れて、それを取りに戻った時に、偶然財布を届けようとしていた彼女と遭遇した。今思えばあれが全ての始まりだった。
もし、友達からアオイさんの話を聞いていなかったとしても、僕は間違いなく彼女に惚れていただろう。
けど、それだと彼女に告白をする覚悟はできなかったかもしれない。
その点を考えると、アオイさんのことを教えてくれた我が友人である彼には感謝しきれない。
彼は、僕にとって友達であり、恋のキューピットだったのだと、今なら言える。本人に直接言うのは引かれそうなので辞めておこう。
「でも、意外と喜ぶかもしれない」
つい口に出してしまった。いつものアオイさんなら今の僕の発言を聞き逃さず、すぐさま弄って来るだろう。
しかし、彼女には聞こえていなかった。それどころか何も聞いていなかった。列に並ぶ女子高生達の会話も、世間話をするおばさん達の笑い声も、携帯電話で通話するおじさんの淡々とした声も、朝方に放送枠を移動した特撮番組のおもちゃを持った男の子の歌声も、全てが片方の耳から入っては、もう片方の耳から抜けていくかのように、アオイさんはただじっと前を見ていた。
僕はアオイさんを呼ぼうとしたが、そうしなかった。彼女の手が震えていたのだ。手袋をつけているのに震えるようにぷるぷるとしている。
やはりそうか。
朝の手の震えは気の所為ではなかった。これは間違いなく、寒さから来る震えじゃない。
良く考えてみれば、朝から様子がおかしかった。たったの3ヶ月間の付き合い、いや、3ヶ月間も付き合っているからこそ、今日の彼女にどこか違和感を感じていた。
「アオイさん」
「……ん? なに?」
「……やっぱり、何かあったでしょ」
アオイさんはゆっくりと、過去のことを話してくれた時と同じように、僕に顔を向けた。
あの時の彼女は柔らかく微笑んでいた。
今の彼女は、どこまでも真顔で、飴色の目は曇っているかのように暗くなっていた。
「どうしてそう思うの?」
唐突な質問に不穏で胸が鳴る。思わず出ていない偽の唾を呑み込む。ここまで冷めた声色で言われたのは初めてだった。
「今日の君は、常に遠い場所を見てばかりな気がするんだ。朝も、昼も、今も。それに手だって、何かに脅えているみたいに震えてる。こんなにも暖かいのに、おかしいと思ったんだ」
こちらが思っていたことを告げると、彼女は目を据わらせたまま薄く笑った。薄く笑って、何も答えずに、僕の目を見続けた。それが彼女の肯定を意味しているのか、単に誤魔化されているのか、見ただけでは分からなかった。
「もし、本当に何かあったのなら、僕に話してよ。僕は君の」
味方だから。その言葉に重なるように、ぷおんという短いクラクションが鳴った。僕が乗車するバスが来てしまったのだ。
乗車口の扉が開かれ、列が中へと消えていく。意外と素早く乗り込んでいくのもあって、列は徐々に短くなっていった。
僕も流れで列を進む。彼女と手を繋いだまま、最後尾で自分の乗り込む番を待つ。
そしてついに自分が乗る時になったが、僕は乗り込まなかった。彼女から手を離さずに、薄く笑う彼女の表情をじっと見ていた。
このまま帰りたくなかった。あからさまに辛そうなアオイさんをこのまま1人にしておきたくなかった。彼女の身になにかあったのは間違いない。僕は、どうしても彼女の話を聞いて、できることをやってあげたいと思った。
けど、彼女はただ「早く乗らないと言っちゃうよ」とだけ言った。
バスのクラクションが鳴る。運転席を見ると、運転手が困った表情でこちらを見ていた。乗るか乗らないのかをハッキリして欲しいと言いたそうだった。
「……行くね」
「……うん」
本当にこのままでいいのか、優柔不断な気持ちを抱えながら、彼女から手を離してバスに乗り込む。背後から彼女の視線を感じながら手すりを掴み、目の前の窓ガラスに視線を向ける。車内と外の寒暖差のせいで、窓全体に大きな結露ができていたので、外の景色は見えなかった。
扉が閉まる音がし、僕はアオイさんの姿を見ようと振り返った。
扉窓の外に、彼女の姿はなかった。
その代わりに、目の前に彼女がいた。
呆気に取られた声をあげる前に、バスが出発した。瞬間的な強い揺れが起きたが、目前にいるアオイさんは「お、とっと」と言って、手すりを掴んでバランスを保った。
「……あ、アオイさん?」
「ん? どうしたの?」
「いや、バス、このバス、アオイさんがいつも乗ってる奴と違うけど」
「うん、知ってる。だから乗ったんだよ」
何を不思議なことを言っているのかな、という顔で僕を見つめる。揺れるバスに思わず体がよろめく。
「知ってるって、これ、僕の家の方面に向かうんだけど」
「そうだよ」
「これ、君の家とは別方向に向かうけど」
「だからだよ」
終わりの見えない会話に唇を紡ぐ。彼女は「リョウ君って、結構鈍感なんだね」と、ジトっとした目を向ける。
「鈍感って?」
「…………女の子に言わせるの?」
「言わせるって……」
瞬間、バス車内が大きく揺れた。どうやら道路の盛り上がった部分を通ったらしい。ふわりとした浮遊感が一瞬だけ襲い、すぐさま床に叩き落とされるような振動が起こった。
僕は手すりを掴んで必死に耐えた。アオイさんはよろめき、思わず前に倒そうになり、僕の胸元に倒れてきた。
「アオイさん、大丈夫?」
そう訊ねたが、彼女は胸元に頭を押し付けたまま動かない。他の乗客から見物されているような視線を向けられ、恥ずかしさで顔が赤くなりそうだった。中にはいつものメンバーともいえる人もいて、その人からは微笑みを向けられていた。
「えっと……とりあえず顔を上げて。け、結構近いっていうか、ゼロ距離というか、こういった場でそういうのは流石に……」
「……ねえ、リョウ君」
彼女が僅かに顔を上げる。胸元から彼女のくりくりとした瞳が上目で現れ、こちらを覗く。その目は潤っていて、今にも泣きそうだった。
「……今日、家、着いて行っていい?」
くぐもった言葉に僕は何も返せなかった。
「……今日、リョウ君の家に、泊まらせて欲しいの」
甘えた声で女の子からそんな言葉を言われたのは、人生で初めてだった。それだと両親が心配しないか訊こうとしたが、それすらも遮られた。彼女が両腕を僕の背中に回してきたからだ。柔らかい感触が制服越しに体に伝わった。
小さな子どもが、母親にあれなにーと訊いている。母親はあなたにはまだ早いと手で彼の目を覆った。
おばさん達は最近の若い子は場所を選ばないと勝手に嘆きつつ、電車でならやったことあるとヒソヒソ話をしている。
女子高生達は一瞬だけ見て、すぐに談笑を再開した。
携帯電話を片手に持ったおじさんは、チラチラと確認しては窓に視線を泳がせた。
腰を丸めたおじいさんは、暖かい目で僕達を見守っている。
バス車内に変な空気が漂う。その中で、僕の体温はさらに上昇した。
「……お願い」
人目など気にせず、ぎゅっと体を締め付ける。
そんな状況で、僕はただ黙って、家の最寄り駅に着くまで、そのまま動けなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
私は、分からない。自分があんなに怒った理由が、分からない。
『あの場所』では、大人から怒られることはあっても、大人と喧嘩することなんてなかった。大人を怒らせないようにするために、表向きはいい子にしていなくちゃいけなかった。
小説や漫画で、親子喧嘩をする描写はいくつもあった。ちょっとしたことで親が怒って、それを子どもが反抗して、家出をしたり、殴りあったりの喧嘩に発展して、けど、結局は仲直りをして、泣きながら抱きしめ合う。親子の喧嘩ってこんな感じなのか、なんて、読者の私には遠い世界のように感じていた。
けど、今それは、自分の身に起きている。
私は両親に対して怒りをぶつけた。2人を傷つけるようなことを言って、お母さんを泣かせて、初めてお父さんに叩かれて、それっきり、口を聞いていない。いや、聞きたくても、聞けずにいた。
原因なんて、本当に些細なこと。お母さんの発言に少しムッとして、けれど冷静になればそれで済む話。
なのに、私は怒りを抑えられずに、そのまま怒った。自分でも、どうしてこんなに怒るのか分からないくらいに、お父さんとお母さんに怒りの言葉をぶつけた。衝突したのは初めてだった。
今日の朝も、私は2人に挨拶をせずに、無言で朝ごはんを食べた。お父さんもお母さんも、何も言わずに席に着いた。
謝ろう、今すぐ昨日のことをごめんなさいって言おう。そうすれば、きっといつものような日常が戻ってくる。
なのに、私は言い出せなかった。パクパクとパンを齧りながら、ずっと2人の顔を見るだけだった。いつも笑顔なお母さんが無言でパンをモグモグしてて、お父さんもモクモクと食べる。まるで、私がここにいるのに、いないような気がした。
分かってる。2人とも怒っているんだ。怒ってるから私と話さない。話しかけてくれない。
謝ろう、謝ってすぐに許してもらおう。少なくとも『あの場所』ではみんなそうすることしかできなかった。大人は怒らせてはいけない。怒らせてはダメ。
そう考えながら、何も言わずに家を出で学校に向かった。考えすぎて、今日一緒に彼と食べようと思っていたチョコレートを忘れてしまった。この前偶然買ったもので、お姉ちゃんと一緒に食べたあのチョコレートによく似ていた味だったから、彼にもこんな味だったと教えたかったのに。
それどころか、彼との待ち合わせすら頭から離れてしまった。
授業中もお昼ご飯も、お父さんとお母さんのことばかりを考えていた。お母さんの作ってくれたお弁当はいつものように美味しかった。本当に怒ってるなら、こんなに美味しく作ってくれないんじゃないのかな。もしかしたら、謝ったら許してくれるかもしれない。
でも、あんなに酷いことを言ったから、もう無理かもしれない。いつもの癖のように、お弁当を作ったのかもしれない。
朝も、私に視線を一切向けてくれなかった。きっと、こんなに悪い子だなんて思わなかったって思われたに違いない。
いい子にしていたら、いい大人に連れて行ってもらえる。けれど、悪い子は、いい大人から見放される。
私は、悪いことをしてしまった。
だからきっと、私も2人から見放されるんだ。見放されて、捨てられて、私はひとりぼっちになる。悪い子だから、2人を傷つけたから。
もう、私が育ったあの場所はない。お姉ちゃんもいない。帰るところはない。私の家は、もうどこにもない。
私は、あの2人に捨てられたら、どこにも帰れない。
お姉ちゃんも、助けてくれない。
だから、私はひとりぼっちになるんだ。
…………私は、最低だ。
彼が私のことを好きなのは、告白された時から知っているはずだ。そして私も、彼のことは3ヶ月前よりももっと、家族のことを話した時からうんと、好きになっていた。彼と毎日一緒にいるのが楽しみになって、いつか、手繋ぎや買い物の先のことをしてみたいと思っていた。
なのに、私は好きな彼の好意を利用しようとしている。利用して、傷を舐めてもらおうとしている。最低で、最悪な考え方。
けど、家には帰りたくなかった。帰れなかった。傷つけてしまった2人に会うのが怖かった。もしも、お前はもう清水家の人間じゃないなんて言われたらどうしよう。また、2人を傷つけるような言葉を言ったらどうしよう。そう思うと、いつものバスに乗るのも苦しくなった。
だからって彼に甘えて、傷を舐めてもらうために、身を委ねようだなんて。今度は彼に縋ろうだなんて、私は、どこまで行っても悪い子でしかない。でも、そうでもしないと、私は私を形成する全てのものを抑えることができなかった。こうでもしなかったら、私はバラバラになってしまう。もう、私に戻れなくなってしまう。
2人にも、リョウ君にも迷惑をかけて………………私は、どこまでいっても、人に縋らないと生きていけない、ダメな人間だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
友達の家に泊めてもらうというのは、子どもなら誰しも1度は夢に見たかもしれない。
自宅とは違った匂いや雰囲気、自分の親とはまた違った別の形の親、兄弟姉妹、時々ペット、初めて知る友達の趣味や他者の空間など、ある種のイベントめいたものを体験できる。
しかし、泊まらせる側に立ったら話は別だ。
たしかに、人によっては他人を家に招いて一泊させることを喜びに感じている人や、別に良いと歓迎する人もいるだろう。
だが、少なくとも安藤家は違う。
我が家では、他人を家に宿泊させることは禁止されている。たとえ親しい友人であっても、滅多なことがない限りはできない。
別に、家に招かないというわけではなく、遊びに来るのは全然良いし、部屋で仲良く好き勝手に騒ぐのも全然アリなのだ。父さんも昔からの友達(同士)を家に招いているし、母さんも赤ん坊を抱えた女友達とリビングで食っちゃべっていることだってある。来ること自体は別に良いのだ。
けれど、泊めるとなると話は別になる。
それは即ち、知り合いに自分達の生活の一部を晒すということになり、自分の家なのに他者に気を遣わなければならないということになるからだ。
唯一リラックスし、素の自分でいられるはずの空間が、他者の存在によって緊張感が奔り、休めるどころか、余計に疲れを溜めてしまう一方になる。せっかくの自分の生活圏なのに、これでは元も子もない。そんな理由で、我が家では宿泊等の行為は禁止されている。僕だって、よっぽどの理由がない限り、友達を家に泊めようとは思わない。たとえ友達がせがんだとしても、絶対に首を横に振る。
そんな泊まることについて散々持論を語ったが、僕は今夜、恋人であるアオイさんを我が家に招くことになってしまった。バスの中で抱きつかれ、涙目で懇願されてしまったのだから、僕の中に断るという2文字は思い浮かばなかった。
イタズラでもない、本気で頼む彼女の可愛さと可哀想さ、そしてアオイさんの味方であると、聞かれてないけど言ってしまったこともあったので、尚更断ることはできなかった。
バスを降りてすぐ、僕は近くの公衆電話にテレフォンカードを挿入して、家に電話をかけ、母さんに事の詳細について話した。
とりあえずは『彼女のご両親が明日の朝まで外出していないけど、彼女が肝心の自宅の鍵を忘れてしまい、家に入れなくなったから、今晩だけでも泊めてあげたい』という嘘話で誤魔化した。
当然ながら、母さんからは勝手に話を進めたことに対してマシンガンのような叱責の連打で叱られた。
しかし、それ以上に、僕が恋人を家に連れていくという事態に驚きを隠せていなかった。母さんにはアオイさんに初恋をしたことは相談したものの、彼女と付き合い始めたことはまだ話していなかった。
母さんは電話越しに怒鳴りつつ、寒いから早く連れてこい、パジャマは持っているのか、部屋の中を掃除するからあと10分は遅れて来い、ついでにあんたも帰ってきたら先に部屋を掃除しろ等々、矢継ぎ早に言葉を投げた後、一方的に電話を切った。
母さんの声が未だ耳の中で響く横で、アオイさんは隣の公衆電話で電話をかけていた。
途中、彼女から通話を変わって欲しいと言われた。僕は恐る恐る彼女から受話器を受け取り、通話に出ると、彼女の母親と思われる女性の声が聞こえてきた。
柔らかくて安らかな声色で、スピーカー越しでもふわふわとした印象が想像できる優しそうな人だった。お母さんは『うちの子がご迷惑をおかけしますねぇ』と、申し訳なさそうにゆるふわな謝罪をしてきた。僕は、はい、こちらこそお世話になります、と緊張しながら返した。
なんやかんやと準備を終えた僕達は我が家に到着。時刻は既に夕方になっていたので、外の寒さにやられて体は震え上がっていた。その間も、アオイさんの瞳と表情は、後ろめたそうに曇っていた。
「えっと、さっきも紹介したと思うけど…………こちら、清水葵さん。僕の彼女……です」
そして、白色電灯に照らされた我が家のリビングでは、親子三人とアオイさんによるご挨拶という名の夕食が開かれていた。僕とアオイさんが並んで座り、テーブルを挟んで反対側の椅子に、父さんと母さんが笑顔と沈黙を纏って座っている。
父さんはやや細い体で、黒縁眼鏡を指先でかけ直し、母さんはセミロングヘアーの黒髪にゴミがついていないか気にする。2人とも、沈黙の中でチラチラと視線を合わせていた。
今晩は豚肉の生姜焼きと白飯、レタスのサラダとひじき等々、バランスの良いおかずが並べられているが、誰も手をつけていない。
アオイさんは座ったまま、礼儀正しく頭を下げた。
「清水葵です。リョウ君とは恋人としてお付き合いしてます」
「そ、それはそれは、息子がお世話になっているみたいで、なぁ?」
「ええ、そうね」
「いやー、まさかリョウに彼女さんがいたとはなぁ。なぁ?」
「ええ、いるならいるで言ってくれても良かったのにねぇ」
「なぁ?」
「ねぇ」
必死に笑顔を作り2人はこまめに目を合わせながら会話をしている。
玄関扉を開けてすぐに、上がり框に立って引き攣らせた笑顔を作りながら僕達を出迎えた時は、こちらがびびってしまった。他人を泊めたことなんて1度もない上に、しかもその相手が息子の恋人だというのだから、緊張するのも無理のない話だ。
部屋の中もよく見ると、色々と片付けられている。いつも置いている2人のアニメ関連のグッズが置いていないのだ。
いつもなら置物のひとつのようにどこかしらに設置されているものが、今日はどこにもない。どうやらこの短時間で片付けたらしい。今頃押し入れか夫婦部屋の中に投げ入れられているに違いない。息子の彼女に、君の彼氏の両親はオタクなんです、なんてことがバレたくないのだろう。
こんな他人事のように言ってしまっているけど、そもそもこうなる原因を作ったのは、彼女からのお願いに応えてしまった僕なのだから、今頃2人とも、胸の内で罵詈雑言を浴びせているに違いない。本当に申し訳ない。
「突然すみません」
「いいよいいよ。家に入れないんじゃ仕方ないしね。それに、リョウの恋人なら大歓迎だ」
「けど、リョウ君の家では、絶対に人を泊めてはいけないって」
我が家のルールを話したのは、清水家のご両親への電話を済ませた後だった。母さんは、なに余計なこと話してんのよ、と睨み目で訴えてきた。僕はごめんなさいと小さく頭を下げた。
母はこほんと一咳つくと、直ぐに笑みを浮かべた。
「確かに、うちではそういうルールを作っているけど、それはあくまで基本的にってことだから、例外だってあるのよ。リョウの彼女なら尚更泊めてあげないなんてことはできないもの」
「そうだよ。それにこんなに可愛い子なんだから、断るなんてできないよ。いやーそれにしても可愛いなぁ」
父さんの発言に対して、母さんは肘で脇腹を小突いた。父は「おっふ」と呻き声を一瞬上げながらも、何とか笑顔を保った。
「アオイちゃん、リョウの彼女になってくれてありがとう」
「ええ、ホントうちの子がねぇ。迷惑かけてない?」
「いえ、むしろ私の方こそ、彼のお世話になることが多くて、凄く助けられてます。毎日、楽しいです」
そうなのか、意外ねぇ、という視線を僕に向ける。実の子どもなのに信用しないのか、この人たちは。いや、分かるけど。
「んっんー……さて、とりあえず冷めないうちに食べましょうか。食べながらでも話はできるものね」
母さんの掛け声とともに、4人で手を合わせて会釈をして箸を持って、各々のおかずへと伸ばした。
「どうかなアオイちゃん。お口に合うかしら?」
「はい、とっても美味しいです」
「よかった。うちって他の家よりも少し薄味だから、合うのか心配したのよー」
というのは真っ赤な嘘で、本当はかなり辛い。アオイさんが来るということで、いつもよりも薄味に調整したのだろう。
アオイさんの箸の持ち方は丁寧で、細い先に掴まれた豚肉がすっと持ち上げられ、彼女の口の中へと消える。もきゅもきゅという音が聞こえそうなくらいに愛らしい食べ方をする彼女に、思わず見蕩れそうになってしまう。
「私、他の人の家のご飯を食べるのは初めてです」
「そぉ? やだー、うちが1番もらっちゃったー」
「はい、1番です」
アオイさんはにこぉっとお日様のような明るい笑顔を浮かべた。
それに照らされた母さんまでもがにこぉっとした。
父さんも釣られてにこぉっとした。
僕までにこぉっとした。
どうやら、アオイさんの笑顔は安藤家の人間には効果抜群なようだ。
にこにこする自分に咳き込み、割り込むように母さんが訊いた。
「そういえば、2人は付き合ってどれくらい経つのかしら」
「おいおい、そういう話はよした方が……」
「えー、でも気になるじゃない」
思春期の色恋沙汰を興味深く聞こうとする母さんに、僕とアオイさんは目を合わせる。僕は頷き、彼女が口を開いた。
「3ヶ月前です。ラブレターを貰って、高校近くの高架橋の下で彼から告白を受けたんです。それで、直ぐにOKしました」
「ラブレターだなんて、リョウ、お前やる時はやるんだなぁ」
「父さん、自分の息子をなんだと思ってるんだ」
ヘタレだろ。多分、僕も父さんも同じことを内心で言ったはずだ。
「それでそれで、その後は?」
「登校の時と下校の時に一緒に歩いたり、お話したり、あとは学校の帰りにデートもしています」
「そっかぁ、それで時々遅くなることがあったのかぁ」
彼女から弄られている、という内容は伏せて僕たちの馴れ初めを話した。
しかし何故だろう。頷きはしたけど、こうも親に色恋沙汰について話すのって、結構恥ずかしい。
「けど、手を繋いだのは、1ヶ月くらい経ってからです」
「1ヶ月も? 随分と時間がかかったわね」
「いやいや、早い方だと思うよ」
「そうかしら。恋人って付き合ってすぐと思ってたけど」
「僕らの場合は結構早かったからなぁ」
「そんなものかしら」
そう言うと、母さんは不意に、固定電話の置かれた棚に接した壁に掛けられたカレンダーに視線を向けた。おそらく、無意識に、10月分は既に捲っていることを忘れて、僕達が手を繋いだのがいつ頃なのかを確認しようとしたのだろう。
そして母さんは固まり、父さんはどうしたと言って、同じ場所に視線を向けて固まる。
いつもあそこで、両面テープでくっつくタイプのフックに立てかけられているカレンダー。
電話をしながらでも、予定を確認するために見やすい場所に置かれたカレンダー。
それは、両親の趣味を体現するかのように、毎年発売されるアニメカレンダーがかけられていた。どうやら、カレンダーを片付けるのをすっかり忘れてしまったらしい。
「あ、うーんとこれは」
「あ、あのねアオイちゃん。あれは違うの。知り合いから貰ったものでね、使わないと勿体ないから」
母さんが必死に言い訳をしようと指をあちこちに振る。いつもは『自分の好きなものに正直になれ、恥じることはない』と言ってくるのに、関係が深くない人の前ではこうなる。
「…………ふふっ」
アオイさんがクスリと笑い、あたふたしていた2人は目を点にした。
「あ、ごめんなさい。リョウ君がよくアニメの話をしていたから、ご両親もアニメが好きなのかなって思ってたんですけど、予想通りだなって思って、つい」
「いや、あれは……」
「隠さなくて大丈夫です。私、お2人がアニメを好きでも、全然変に思いませんから。ね、リョウ君?」
こっちに話を振るの、と思いつつ、顎を引いた。
2人は肩の力が抜けたかのように息を吐いた。
「私、リョウ君からアニメの話を聞いてて、すごく面白そうだなって思ってたんです。私は、本とか漫画とか、そっちを読むことが多いので、あまり触れない分野にはなかなか興味を唆られます…………あの、良かったら、お2人が好きなアニメの話について、聴かせてもらえませんか?」
普通なら断るかもしれないが、両親は「いいの?」という表情でお互いを見合い、アオイさんを見た。聴きたがる人が、よっぽど珍しいのだろう。
彼女は「はい」と微笑んで答えた。
それから始まったのは、両親による演説。
幼少期に厳格だった親から隠れてみていたアニメや特撮番組の話から、現在放送中のアニメの話まで、当時売られていたレコードやらラジカセやらCDやらVHSやら、声優の握手会やらを、時々無関係なゲーセンに屯するヤンキーの話を挟みながら、時系列を辿るように話した。
それこそ、僕でも知らないことというか、僕でさえ踏み込んだことがない領域について語り始めた。
知らない用語が口から吐き出されては室内を飛び交うなかで語られたその内容は、口で説明するには膨大で、経験のない僕では語るには烏滸がましすぎるほどに、神聖なものに思えた。
オタクの友人のことを仙人と言ったが、両親もまた仙人だった。だから、オタクの友人が家に来た時は、僕でも読解不明な討論会を繰り広げられるのだ。彼が2人のことを『師匠』と呼んでいるのも納得だ。
話は食事が終わったあとも続いた。話の中には、音楽シーンに多大な影響を与えたと言われる数々の先人たちの名が織り込まれた。さらに加えるように、あの時の世の中はこんな感じだったとか、バブルが崩壊した時は大変だったとか、まるで時代を遡るテレビ番組でも見ている気分になった。
2人が話す中、正直僕は不安でしかなかった。語ると止まらない2人の話には僕でも疲れてしまうから、アオイさんが嫌にならないか心配だった。
けれど彼女は「面白いね」と言って、テーブルの下で僕の手を握った。柔らかい彼女の手に、僕は顔から湯気を出しながら頷いた。
それから色々あって、いつの間にか話題はアオイさんの話に切り替わっていた。僕に打ち明けてくれた内容全てではないが、自分が今の両親に拾われて、愛されて育てられたことを話し、2人の目から涙を溢れさせた。この人たちは、こういう話には滅法弱かった。
「ぐすっ……そっかぁ、アオイちゃんも、素敵なご両親に出会えて幸せだね」
「きっと、ご両親もアオイちゃんに出会えて幸せに違いないわ」
「……そう、ですかね?」
「そうさ、こんなにも自分たちのことを好きでいてくれる娘がいるんだから」
泣きながら嗄れた声で話す父さんの言葉に、アオイさんは首を傾げた。
「でも、もし悪いこととかしたら、きっと、私のことは嫌いになるかもしれません」
「……手を出して」
差し出した手を、母さんは両手で包むように掴んだ。
「いい、アオイちゃん。たとえアオイちゃんが悪さをしたとしても、きっとご両親はあなたの味方になってくれるわ。だって、あなたは大切な娘だもの。親が子どもを信じてあげないわけないじゃない」
母さんの言葉に、アオイさんは少し気が楽になったかのように頬を緩めた。
こんなにも優しくて、誰かを慰めるような母さんは初めて見た。
◇◇◇
──数時間が経過した。
あれほど緊張していた両親はすっかりアオイさんのことを気に入り、可愛がってる近所の子が遊びに来たかのような接し方をしていた。アオイさんも満更でもない様子で2人に可愛がられていた。
母さんとアオイさんが並んで食事の後片付けをして、最近流行りのアイドルグループが出演しているテレビ番組を観ている隙に、僕は自分の部屋を片付けた。2人の部屋と比べれば、そういったグッズの数は少ないため、殆ど部屋の掃除だけで済んだ。
ただ、やはりというか、ベッドの下のものや、見られたら恥ずかしい思春期の過ちを書き記した物は、押し入れに仕舞った。ついでに、オタクの友人から譲り受けたビデオテープも押し入れに一緒に仕舞った。
途中、来客用の布団を運んできた父さんが部屋に入ってきた。泊まらせることなんてほぼ無いせいか、奥深くに眠らせていたから、取り出すのに苦労したと、シャツに大きな汗ジミを作りながら話していた。
部屋を出る際、父さんは「リョウ、下手なことはせず、焦らずに」と背中を向けながら語っていた。どうやら同じ部屋に男女2人きりということで、僕が何かをやらかすかもしれないと思っているらしい。
父さん、心配してくれることは凄く有難いけど、僕がヘタレなことくらい父さんだって分かってるでしょ、と返すと、父さんは苦笑した。
そして現在、僕と彼女は僕の部屋に2人きりになっている。両親は僕達の邪魔をしないようにと、つい先程外出した。明日まで帰らないとのことで、そのまま明日上映予定の海外映画を観てから帰ると話していた。なので、今この家にいるのは僕達だけだ。両親には凄く気を使わせてしまって本当に申し訳ないと思う。
アオイさんは、僕が普段から使っている枕を抱きしめながら、部屋の中を見渡した。置かれている机やベッドなどの家具は、アニメで見るようなものとほとんど変わらない。違う点を挙げるとすれば、主人公やヒロインたちがドンパチやれるほど、部屋の中は広くはなかった。ものを片付けて、やっと来客用の布団をギリギリ敷けるほどだ。けど、僕にとっては十分に生活出来る自分のスペースだ。
「ここがリョウ君の部屋なんだ。男の子の部屋で泊まるの、初めてだよ」
「僕も、女の子を部屋にあがらせるのは君が初めてだ」
「じゃあ、お互いに初めてを捧げあったんだね」
「ちょ、そんな言い方……」
「別に疚しいことは言ってないよ? もしかして」
「……」
「エッチ」
両親の前では結構礼儀正しくしていたため、一体どうしたのだろうと思っていたが、2人きりになった途端に、彼女はいつも通りな接し方をしてきた。それはそれで安心した。
ベッドの上でぺたんこ座りをする彼女は、僕の予備の寝巻きを着ている。サイズが大きいせいかダボッとしていて、肩の部分が若干肌蹴ている。中に着用したキャミソールの紐が見えて、思わず目を逸らした。
「本当に私がベットでいいの?」
「いいよいいよ。君を床で寝かせるだなんて出来ないもん」
本来なら、彼女には布団で寝てもらう予定だったのだが、流石に床で寝かせるのはダメだと思い、ベッドを使って貰うことにした。
とは言うものの、あのマットレスと羽毛布団は何年もお世話になっているため、洗濯しても消えない僕の臭いが染み付いている。彼女からすれば臭いのではないかと、部屋に案内した時に気がついた。臭いが合わなくて振られたらどうしよう、なんていう不安が頭をよぎった。
「…………リョウ君の臭い、好きかな」
彼女が気に入ってくれたことが救いだった。
けど、そんな堂々と枕を吸われると恥ずかしい。
「この下、何か隠してる?」
「いや? 隠してないよ?」
「ホントに?」
「なんなら見てもいいよ」
物は押し入れに隠したから、ベッドの下には何も無い。アオイさんのことだから突っ込むだろうとは思っていたから、僕は少しだけ勝ち誇ったような気持ちになった。
だが、彼女の細めた視線は崩れなかった。むしろ、そう言うと思ったと言わんばかりの余裕を持っていた。
「……実はさっき、リョウ君がトイレに行った時に。すこーしだけ、部屋の中を探索したんだ」
「嘘でしょ、それ」
「どうかなー。嘘かもしれないし、嘘じゃないかもしれないし。けど、気になるものを見つけたんだ」
これは、嘘の可能性が高い。いや、しかし、彼女のことだから、僕の部屋の中を勝手に散策することも有り得るかもしれない。
余裕だった気持ちに、綻びが生まれ始める。それを狙ったかのように、彼女は枕に顔を埋めながら口角を上げた。
「…………あそこの中」
そう言われた瞬間、僕は思わず、咄嗟に押し入れの方に視線を向けてしまった。まさか、そう思った時には、目は自然とそっちに向かってしまっていた。
「……なんてね。嘘だよ。部屋の中なんて見てないよ」
「え…………あ」
「いくらなんでも人の部屋を勝手に散策したりしないよ。でも、気になるなぁ。リョウ君、あそこ見たよね。あそこの中には何が入ってるのかなぁ?」
「いやー、それは」
「……顔、赤いよ」
視線を戻した時には、彼女は満足そうにニヤッと笑っていた。どうやらまんまと僕を嵌めたらしい。この人は、分かった上でやっている。
「もう、そういうからかいはやめてよ」
「ごめんね。けど、リョウ君って困った顔が面白いから」
悪気がない様子で笑うアオイさんに、僕はうんざりとしかけた。人のことをおちょくるのもいい加減にして欲しいと思ってもいる。けど、帰りのバスのことを考えると、いつもの彼女の調子を取り戻したような気がして、少しほっとした。
直後に「リョウ君」と彼女に呼ばれた。
今度の彼女の笑顔には、意地悪やイタズラなんて感情は孕んでいない。そんな気がした。
「今日は泊めてくれてありがとう。おかげでリョウ君のこと、もっと知れた気がする。リョウ君のお父さんとお母さんとも仲良くなれて、すごく嬉しい」
「……どういたしまして」
やっぱり、どこかというか、何かに対して後ろめたそうな雰囲気を感じてしまう。そもそも、彼女がここに泊まりたいと言いだした理由を未だ聞けていなかった。
でも、食事のときの母のやり取りを見て、何となくだけど、これかなってうのは感じた。
だから、僕は勇気を振り絞って、何とか口に出した。
「……もしかして、ご両親と喧嘩でもした?」
僕を見ていたアオイさんの目線が下がり、表情を隠すように枕で目下まで覆う。表情というよりは、図星をつかれたことを隠しているかのようだった。
少しの沈黙が部屋の中を包む。10秒くらいの沈黙だったのに、僕にとってはもう少し長く感じた。
沈黙を破るように、彼女が枕から顔を上げて口を開いた。
「……明日、話すから」
「今はダメかな?」
「……明日になったら、頭の中がスッキリして、話せると思う」
その口調は、肯定と受け取ってもおかしくないくらいに弱々しかった。
「……絶対に話してくれる?」
「…………うん、絶対に」
「……でも、君のことだから、忘れるかもしれない」
「忘れないから、うん、絶対に話すから」
「……うん、信じるよ」
僕は立ち上がり、部屋の明かりを消そうと、丸型蛍光灯から垂れ下がる紐に手を伸ばした。
「リョウ君」
「ん?」
紐を引っ張る前に振り向く。彼女が羽毛布団を捲り上げながら、何故か自身の横に人一人分のスペースを空けて、トントンと指先で叩いていた。まるで僕を誘うかのように手招きまでしている。
「一緒に寝よ?」
「……それ、冗談で言ってる?」
彼女は首を横に振った。
「今日は、リョウ君と一緒に寝たい。せっかくリョウ君のお家にお泊まりしたから、このままリョウ君と恋人らしいこと、してみたいな」
彼女の飴色の瞳が僕を捉える。
そこに、いつものような余裕の色はない。まるで、捨てられた子猫のような、拾って欲しいと訴えているような眼差しだった。
「……一緒に寝よ?」
彼女の念を押した言葉に、顎を引く。今の彼女を見ていると、とてもじゃないが、首を縦に振ることしかできなかった。
◇◇◇
あなた、リョウ、上手くやれてるかしら?
あいつなら大丈夫だよ。僕らの息子なんだから。それに、僕らがいたんじゃ、アオイちゃんも話せることも話せないだろう?
そうね……リョウったら、嘘つくの昔から下手なのよね。電話越しなのに、凄くうわずっちゃって。でも、あの子、何があったのかしら。
そこまでは分からないよ。だから、ここは2人に任せよう。
ええ、そうね。
◇◇◇
女の子と2人でベッドで寝るだなんて、本当に初めてだった。
今まで女性経験がなかった僕にとって、部屋の中に女の子を連れ込むなんてことは考えられなかったし、一緒に寝るだなんていう発想すらなかった。
けど、僕は彼女と同じベッドの上で寝ている。同じ羽毛布団の中に、彼女の体が潜り込んでいて、すぐ隣にいる。そう考えるだけで、心臓が内側から僕の胸を殴ってくる。
「男の子と同じ布団に入って寝るのって、こんな感じなんだね。少しだけ、ドキドキする」
「そう、かも」
「リョウ君もドキドキするの?」
「……だって初めてだから」
夜空ほどではないけど、暗く照らされた天井が目の前に広がる。こんなに綺麗だったっけと首を傾げそうになる。
「この布団にもリョウ君の匂いがする。なんだかリョウ君に包まれてるみたい」
「そんな勘違いされそうな言い方は……」
「……勘違いなんかじゃないよ。リョウ君に包まれてるみたいで、安心する」
意外と思った彼女からの返答。
そこには、揶揄う気持ちも笑っている様子もない。どこか遠くを見つめながら、緊張を解いているような、そんか様子だった。
「……『あの場所』にいた時も、こうして暗い部屋の中で、じっと天井を見つめることが多かったんだ。明日はどんな一日になるのかなとか、また今日みたいに意地悪されるのかなとか。時々、天井にできた顔みたいなシミが話しかけてこないかなぁなんて思うこともあったよ」
アオイさんは言葉を繋げる。
「産まれた時からずっと1人で、このまま天井を見ながら死んじゃうのかなー、なんて思ってた」
だから。
「お父さんとお母さんに挟まれながら同じ布団の中で眠った時、凄く暖かかったんだ。お姉ちゃんに暖めてもらった時と同じで、2人の心臓の音が心地よくて、いい匂いがしたんだ」
だから。
「こうして好きな人の匂いに包まれながら寝ると、抱かれてるみたいで、凄く落ち着くんだ」
と、笑みが零れる。
しばらくの間、僕達に静寂が訪れる。時計の針が、規則正しく、一定の速度でカチカチと時間を刻む音だけが静かに響く。
僕は逃げるように瞼を閉じて、目の前を真っ暗にしてみる。しかし、眠気は全く来ない。
いつもならすぐに襲ってくる睡魔が、今日に限って気を遣ってくれる。追い打ちをかけるように、体の内でバクバクと動く心臓が、寝ている場合じゃないと僕を殴り続ける。
2人の体温で温まりきった布団の中が、蒸れて暑い。外の気温が1桁台という凍えるような寒さなこともあって、部屋の中も十分に冷え切っている。そのための羽毛布団なのだが、今の僕にとっては、暑すぎる。今すぐにでも捲って涼しい風を中へ送り込みたい。けれど、手足が動いてくれない。
寝巻きの袖が、縛りつけるように汗で蒸れてしまっていた。
「…………リョウ君……くっついてもいい?」
と聞いてくるアオイさん。
目を開き、「……うん」と彼女を見ながら頷くと、アオイさんは身動いで僕に近づく。
肩が触れ合う距離になると、アオイさんは手をモゾモゾとさせた。そして指先が僕の手に触れると、ぎゅっと弱い握力で僕の手を掴み、こちらを見ながら笑顔を使った。
暗闇の中でも、彼女の表情が分かる。僕が好意を寄せているアオイさんが、すぐそばに居る。
「……リョウ君」
細い声で、彼女が僕を呼ぶ。視線は僕を捉えている。
「私、リョウ君と恋人になってから、毎日が凄く楽しい。君と一緒にいると知らない気持ちが沢山湧いてきて、胸の奥がドキドキする」
「……僕も、同じだ。今だって結構緊張してるんだ。布団の中が蒸し暑くて、今すぐにでも捲りたい」
「……私も、暑いよ。多分、布団のせいだけじゃない」
それが何なのか、もうお互いに分かっている。
いつもは悪戯で翻弄する側と悪戯に翻弄される側。他人から見ても少し変な高校生のカップル。そうなんじゃないかと自覚はしている。
けれど、今の僕達は、まだ異性の恋愛がどう云うものかを知り始めた頃の、付き合いたての小学生のカップルのように見える。
ほんの数十分前まで普通に会話をしていたのに。
少ししてから、今度は僕から口を開いた。
「……1番初めの頃に、アオイさんのどこを好きになったか、君の方から訊いてきたのを覚えてる?」
アオイさんは寝たまま顎を引いた。あの時は、目とか髪とか、そんな返しをした。
「本当は、一目惚れだったんだ。君が僕の財布を拾ってくれた時に、君に惚れたんだ」
「そんなこと、あったかな?」と言うアオイさん。ほんの一瞬のできごとだったから、彼女が覚えてないのは当然のことだろう。
「じゃあ、私のことをいつも見ていたのは、そういうことだったんだ」
「……気持ち悪い思いをさせてごめんなさい」
「ううん、気にしてないよ。私もよくこっちを見てくるなぁ程度にしか思ってなかったから」
けど、と言葉を継ぐ。
「その出会いがなかったら、君が告白をしなかったら、こんな気持ちは味わえなかったんだね。そう思うと、何だか不思議で堪らなくて、とっても嬉しい」
彼女からそう言って貰えると、僕の方まで嬉しくなる。
アオイさんは寝返りを打って僕に体を向ける。枕に彼女の頬が沈む。
僕も彼女に腹部を向けるように寝返りを打つ。すぐ目と鼻の先に彼女の笑みがある。吐き出される息が僕の顔を掠めるほどに近い。
僕達はお互いを見合う。見合ったまま、顔を近づける。
枕の中の無数もあるビーズが、動きに合わせて沈んだり浮かんだりする。
近づく。
彼女の飴色の瞳が、紅葉のように赤くなった頬が、少しずつ、確実に。
「……んっ」
おでこが、こつんと音を立ててぶつかった。唇も鼻先も触れることなく、硬いおでこがぶつかっただけだった。
「……リョウ君……好き」
彼女の囁きが耳を掠める。僕も好きだと返したかったけど、恥ずかしさで口が動かない。
「……リョウ君となら、いいよ……そういうこと、しても」
続けて出た突然の言葉に目を見開いて、彼女を見る。
「……君となら、その先のこと……してみたい……今からでも、大丈夫だよ」
その言葉の意味を、理解できないわけがない。高校生にもなって、卑猥な本を持っているのに、分からないはずがなかった。
僕は逃げるようにゆっくりと体を起こした。捲られた隙間から熱気が逃げて、代わりに室内の冷気が入り込んで、体の汗を冷やす。
彼女も遅れて体を起こし、布団を捲る。パジャマの肩部分がへろりとズレて、キャミソールの紐が丸見えになっていた。
暫し、部屋の隅の暗闇に視線を向ける。そしてすぐに彼女に視線を戻した。
「……本当に、いいの?」
口が震えていた。彼女からOKを貰ったことに驚いていて、それが僕の中で上手く噛み砕けていないのかもしれない。卑猥なことに対して興味を持っていながら、いざやるとなると、自分が引っ込みそうになる。
僕は逃げようとしている。自分には訪れることはない、あるとしても、もっと先の話と思っていたことが今目の前で起きていて、それから逃げようとしている。
「…………」
アオイさんは照れ笑いをしながら首を縦に振った。
弱虫、彼女はこうして勇気を出しているんだぞ。
それなのにお前はなんだ、もっと前に出ろ、男を見せろと、心臓が胸をうんと強く殴りつけてくる。
心臓だけじゃない、筋肉が、脳みそが、全身が後を押すように僕の体を、次に何をするべきかを導いている。
僕は無言のまま、彼女に顔を近づけた。少しだけ顔を斜めにして、彼女の唇に自分のものを近づけた。
「…………んっ」
彼女は逃げることも後ずさることもなく、僕の口を受け入れた。
ファーストキス、恋人になって初めてのキス。僕達が男女の関係になって、初めての接吻。
緊張のせいで唇は閉じたまま。しばらく押し付けあって、ようやく解く。
味はレモンなんかではなく、歯磨き粉のミントの味だった。スーっとした彼女の息が口の中から入り込み、喉奥と鼻奥を擽る。彼女の方も、僕と同じようになっているだろう。
「んっ、んちゅ……んっ、あっ、ふぁ」
隙間を縫うように舌先を彼女の中へ潜らせる。閉じかけの歯を啄いて、歯茎を舐め上げた。
やがて口はさらに開き、舌がアオイさんの口内へ堂々と侵入する。表面にミントの風味が残る彼女の舌肉を、僕の舌は畝りながら撫でる。
「んちゅ、あっ……ふぁ、ちゅるっ……れろっ」
熱い。彼女の吐く息が、口の中へ送られるアオイさんの二酸化炭素が、火傷させそうなほどに熱い。
気がつくと、僕は彼女の手を握りながら、もう片方の手で彼女の体を抱き寄せていた。羽毛布団に潜り込んでいたのもあって、パジャマに若干の汗が染みており、手の平に濡れた背中の感触が伝わる。
「ん、んぅっ、んふっ……っ!」
キスはより激しさを増していく。舌の畝りが滑らかになり、螺旋を描くようにお互いの体を絡め合う。
もちろん、こうやってキスをしたのは初めてだ。
初めてなのに、以前からやり方を知っているかのように舌肉が独りでに動いてくれる。
「ふっ、あっ……んぅっ……っ!」
彼女が気になり、閉じていた目を開く。飴色の瞳が細めた瞼の間から僕を覗いていた。どうやら彼女も僕の表情を気にしているらしい。
僕は体の思うままに彼女を押し倒した。
唇を押し付けたまま、寝かせるように体で彼女の体をベッドに沈ませる。
ぼふ、という音のすぐ後には、僕たちの唾液が絡み合う粘着音が響いた。
「んんっ、ぁん……んっ」
微かに残るミントの風味が、唾液に溶けて僕の舌に貼り着く。貼り付いたものは自然と喉の奥へと流れ込み、唾とともに食道を堕ちる。
「……っ……あっ」
数回ほど吸い付き合うように唇を押し付けあった後、僕達は犬のように舌を出しながら頭を離した。
たっぷりと混ざって溢れた涎が、彼女の火照り顔へと滴り落ちる。彼女の口から、熱の篭った白い息がハァハァと吐かれて、僕の顔に触れた。
「……ファーストキスってレモンの味がするって聞いてたけど」
「……歯磨き粉の味しかしなかったね」
やっぱり都市伝説みたいなものなんだと、彼女は微笑む。火照った状態で微笑まれて、胸がドキリとなった。
「…………服、脱がせていいかな?」
そう訊くと、アオイさんは長い長い沈黙の末「初めてだから優しくね」と言い、鮮やかな髪を微かに揺らしながら頷いた。実際は一瞬だったのに、僕にとっては数秒も長く感じた沈黙だった。
胸が静かに内から高く鳴る。手を離し、体を起こして、彼女を見下ろす姿勢になる。
両手で彼女の首下のボタンに手を伸ばす。彼女は受け入れるように両手を頭の横に置いたまま目を瞑った。
親指で布を掴んで、人差し指でボタンを押して穴から外す。
プツッという音に近い音が鳴ったと思えば消える。僕は一つ一つをそうやって外していきながら、徐々に下へ下へと降りていった。
そして裾の方まで取り終えると、そのまま指で摘み、ゆっくりパジャマを左右に開いた。
開いたその先には、真っ白なキャミソールが僕を待っていた。飾り付けが一切ない、首周りや肩が露出したオーソドックス真っ白な生地に、微量の汗が染みていた。
「…………」
何より目を引いたのは、ほんのりとした2つの膨らみだった。大きすぎない控えめなそれを見て、思わず唾を飲んだ。呑み込んですぐに、僕は両手を伸ばした。
「んぁ……」
2つの胸に指を沈めた瞬間、アオイさんから悲鳴が漏れた。手の平には彼女の胸の柔らかさが広がっていて、キャミソール越しに形を変えてくれる。
「はぁ、あっ! ……んんっ! ……っ!」
むにゅむにゅと沈む指に合わせて、アオイさんから断続的に甘い声が漏れ出す。特に一部が敏感なようで、親指が微動すると必ず声を上げている。
この先は、どうすればいいんだろうか。
彼女の胸を揉みながら、僕の頭の中は次の行動について巡らせていた。確か、本番の前はお互いに準備が必要で、特に彼女はアソコを十分に濡らさないと痛いと聞いたことがある。だから、まずは彼女が気持ちよくなるようにしないといけない。
「ふぁ、んぁ……ぁ」
パジャマを掴み、アオイさんの体から脱がせると、隠れていた二の腕が露わになった。
試しに摘んでみると、ぷにぷにとした弾力を持っていた。昔、友達から女の子の二の腕はおっぱいと同じ柔らかさだなんて聞かされたことがあるけど、本当なのだろうか。
「リョウ君……擽ったい」
「あ、ごめん。少し気になって」
「……おっぱいの柔らかさと同じなのかなって思ったでしょ」
こんな場面でも僕の考えていることはお見通しらしい。
じゃあ、このあと僕がどんな行動を取るかも分かっているだろう。
「……脱がすよ」
一言告げて、僕は白いキャミソールの裾部分を掴んで捲りあげた。
途中でつっかえながらも首元まで上げると、彼女のアオイさんの2つの乳ぶさが姿を現した。胸用のパットに引っかかっていたのか、現した途端に乳先の乳首がふるりと揺れた。
「…………綺麗だ」
思わず心の声が洩れた。
女性の裸に関しては、押し入れに眠っているエロ本のおかげで何度も目にしてきた。桃色の物から黒い色素に染った物まで、吸われたり揉みしだかれたりしているのを、僕は部屋の中で一人静かに黙読し、静かに興奮していた。しかし、それは全て写真の中の話であり、実際に目の前にある訳ではない。
けど、今目の前にあるのは、間違いなく本物の女の子の乳房だ。丸みのある乳頭があって、綺麗に描かれた乳輪があって、薄い桃色をしている。穢れないその姿は、彼女の純潔さを表しているかのようだった。
「…………」
彼女は薄目で僕を見ながら、唇に波なみとした線を描く。どうやら相当恥ずかしがっているようだ。こんなにも顔を赤くするアオイさんを見るのは初めてで、そんな彼女の姿に興奮を覚えてしまった。
僕は掴んたキャミソールをそのまま上に捲り、彼女の体から脱がす。アオイさんは少しだけ抵抗したけど、すぐに諦めて脱がされた。
部屋の中は、外気が入り込んで来ないとはいえ十分に冷えている。そんな中、アオイさんは今、上半身を裸にして震えている。けど、それは寒さだけじゃない、緊張から来るのも確かだ。
「……アオイさん」
僕は彼女の名前を呼んだ。もうこれで何度目になるのか分からないが、これは必要なことだ。
僕は両手を彼女のおっぱいに載せて、慎重に指を動かした。バスの中で押し付けられたものと、同じ感触だった。
「はぁっ……っ……あぁっ!」
キャミソール越しで、パット越しで触った時とはまるで違う。さっきと違って、肌のヤワ心地と胸の柔らかさがダイレクトに跳ね返る。
手に収まるほどの大きさで、しかしお菓子のマシュマロのような感触が指を包んでくれる。もしかしたらお餅に近いのかもしれない。
「んぁっ、あっ……あぁん」
関節を曲げると、彼女のおっぱいがモチモチと山の形を崩す。円を描くようにまさぐると、アオイさんは口からか細い声を上げた。眉を八の字にして、体をピクンピクンと跳ねさせる。
「……あっ、っ! だ、ダメっ……そこは、摘んじゃ…………んっ」
乳ぶさを揉みながら、僕は親指と中指で乳首を摘んだ。少し力を入れると、彼女の薄くてピンと立って硬い乳頭はくにゅりと潰れた。さらに人差し指で擽るように撫でると、アオイさんは甘い悲鳴を上げた。
手に力を込める。彼女の胸が搾るように潰れて、先端をより固くさせる。そして彼女の悲鳴もより色っぽく、小刻みに溢れる。
「あんっ」
僕は姿勢を低くして彼女の胸に顔を近づけ、誘い込まれるように左乳の先を咥えた。
薄桃色の乳輪を唇で包むようにしゃぶりつき、口の中に吸い込んだ。
「あっ、や、おっぱい、くすぐったいよ」
震える声でアオイさんが囁く。反射的に僕の頭を手で退けようとしたが、力が込められていないため、優しく撫でているのと変わらなかった。
「ふぁ、ぃ、あっ」
柔らかい。語彙力のない僕には、アオイさんの膨らみをそう表わすことしかできない。
すべすべとした表面は汗で蒸れていて、口で引っ張るように吸い付く度に舌に絡みついてくる。それは汗のはずなのに、ほんのりと甘いミルクのような味をしていた。
「は、あぁっ……あ」
数回、飲み込む勢いで吸い上げたあと、僕は口を離した。ちゅぽんという瑞々しい音が響き、唾液で濡れた乳首と乳輪が揺れる。
「……あふんっ、ふぁん!」
休む暇も与えず、僕は舌でぬれぬれになった乳頭を舐める。細い舌先が弄り回すように舐めあげると、充血した彼女の肉粒が縦横に踊り振るう。
その間も、僕の両手は脂肪を揉み続けた。小さい頃に牛の乳搾り体験に行った時のことを思い出しながら、根っこの部分から先端にかけて搾乳するように搾り揉み、彼女の敏感な部分を刺激する。
左乳を堪能したあとは、右乳を舐め上げた。そして同じように口に含み、ぢゅうぢゅうと音を立てながら吸引した。時々乳首を歯に挟んでコリコリとさせると、彼女の体がビクンと跳ねた。
「はぁ、はぁ、あぅっ、んぁぁ……!」
アオイさんは表情を崩し、太腿を擦り合わせてモジモジとさせながら、目元と口元を緩めて露声を漏らす。
「り、リョウ君……おっぱいばっかり……エッチぃ」
彼女のいつもの言葉も、ふにゃりとしたもので、僕にはなんの効果もない。いや、むしろその乙女な声が僕自身の内側にある性欲をより駆り立てたと言った方が正しいかもしれない。
「や、だ、だめ、そ、んっ……! あぁっ!」
乳首を十分に舐めまわした僕は、そのまま彼女の体をなぞるように舌を走らせた。乳輪を掠め、首元の汗を舐めとり、そのまま耳に触れた。
耳朶をしゃぶる。硬い乳首とはまた違った弾力を持ったそれは、歯で噛み付くと跡をつけてしまいそうだ。
「ま、耳の中、舐めちゃ、やぁ……」
口ではそう言っているけど、アオイさんの腕は抵抗ひとつせずに僕からの口撃を受け止めている。
熱い、体が熱い。そういえば、パジャマ姿だったことを忘れていた。
僕はアオイさんの耳の穴に舌肉を潜り込ませながら、自分の着ているパジャマのボタンを外していく。暑いから早く脱ぎたいという一心で、僕は引きちぎる勢いでボタンを外し、長袖のそれを放り投げた。
まだだ、まだ暑い。僕は起き上がり、勢いそのままにインナーも脱ぎ捨てた。
学校での授業以外で、異性に見せたことがない僕の裸。運動部に所属している同級生と違って逞しさの欠片もないこんなものは、他人からすれば価値のないもの、僕だって価値があるとは思っていない。
「…………リョウ君」
けど、彼女はそんな僕の体に触れた。撫でるように、摩るように触れながら、ニヘラとした顔を僕に向けた。
体温が、部屋の寒さなど動じないくらいに上昇した。最早、衣服なんてものは必要ないくらいに、僕達の体は熱くなっていた。
僕は後ろに下がり、彼女の下半身まで移動した。そしてズボンを掴むと、そのまま下へとずらした。アオイさんは嫌がる素振りを見せず、大人しく脱がされていく。
足先がズボンがら抜け出し、彼女はショーツ1枚の姿になった。
程よい膨らみの胸と比べて、お尻は大きく、肉付きがいい。腰周りもしっかりとしている。こういうのを安産型と呼ぶのをテレビ番組か何かで聞いたことがある。
青色の縞模様の柄で、小さなリボンの着いた少し子供っぽい下着。けれど、その子供っぽさが、より彼女の蠱惑的な魅力を引き出していた。
「………………っ」
アオイさんの顔がさっきよりも紅潮している。相当恥ずかしいのか、目どころか顔まで逸らしている。太腿をくっつけて、内股になって僕の視線からアソコを守っている。
そんな彼女の抵抗も無視して、僕はショーツを掴んだ。両手で腰部分を持って、ズボンと同じように下へとずらす。
足を上げさせて脱がしてすぐ、アオイさんは股を閉じてしまった。確かに気持ちは分かる。胸よりも恥ずかしい部分をいきなり見せたくないのは、僕が彼女の立場だったら同じく隠すと思う。けど、この先のことをするには開いて貰わないといけない。
薄暗い中、アオイさんが熱気を帯びた白い息を吐きながら、潤んだ飴色の瞳を僕へ向ける。僕が頷くと、彼女は深く息を吐いて足の力を弛めた。
両手で彼女の太腿を掴む。掴んだ後は、左右に開かせた。
開脚したその先には、彼女の陰部が待っていた。剃刀で丁寧に剃られてツルツルになった恥丘と、彼女の大切な部位を覆う大きな縦唇が待ち構えていた。通常なら縦に割れ目をつけながら中を守る唇は、脚を開いたことで、少しだけ中身を覗かせている。
「…………あ、あんまり、じっと見つめないで欲しい……な」
「なんで?」
「……だ、って……汚いから…………」
「……アオイさんのものは汚くなんかないよ。むしろ、綺麗だと思うし、絶景……かな」
僕は初めて見る彼女の陰部から目を離さない。
我ながら、とてつもなく気持ち悪いセリフを言ってしまった気がする。いや、言った。自分でもうわって思うくらいには。必死に表情を作ってるけど、状況が状況だったら今すぐにでも叫んで窓から飛び降りて頭をかち割りたいくらいには恥ずかしい。
「……意地悪」
けれど、アオイさんは頬を少し膨らませるだけで、足を閉じようとはしなかった。受け入れてくれたんだと思った。
「アオイさん……触って、舐めてみてもいい?」
「…………」
アオイさんはシーツを握った。そして覚悟を決めたように頭を枕に任せると、小さな声で「うん」と答えた。
顔を陰部に近付ける。ムワッとした蒸気の中には、汗特有の酸っぱさ、ヨーグルトのような、お酢のような、そんな感じの匂いがした。初めはおしっこの匂いを想像していたけど、臭ってはこなかった。
太腿をすーっと撫でながら、両手で大きい唇に触れる。2つの丘はぷにぷにとしていて、僕は小さな唇も巻き込みながら左右に花を開かせた。
中には、彼女の恥ずかしい部分の全てが隠れていた。小さなクリトリス、尿を排泄する尿道口、そして、セックスの時に使うおまんこ……膣穴。
初めて見た第一印象は、胸と同じく、綺麗だった。男と同じく、他の部位よりも黒目な肌で、けれど、中は肉々しい色をしている。雑誌なんかじゃ感じ取れない。汚れもほとんどない。
今すぐ、しゃぶりつきたい。食べたい。舐めたい。
「……んっ」
「ひぁっ…………!?」
僕は抑えられない。目の前で卑猥にひくつく穴を前にして、優しさも手加減も忘れて貪りついた。
「や、やら、あっ! りょ、リョウく……あぁ!」
突然の口撃に彼女は驚き、悲鳴を上げた。けど、止めようとはせず、僕からの刺激にただ体をビクビクさせるだけだった。
「や、やだ、そこ、おしっこの穴ぁ……舐めちゃだめ……ダメだってばァ……」
まずは尿道口に舌先を伸ばして、慎重に突いてみる。おしっこの味はせず、蒸れた汗のようなものが味覚を刺激した。
「はぁ、はぁ、あぁっ!」
その次は膣穴に舌先を伸ばした。思っていたよりも穴のサイズは小さく、舌が入るかどうかも怪しい。
けど、入らないわけではなさそうなので、僕はそのまま何度も突くように押してみた。
「ん、ぁ……」
そしてずむりと押し込むように、舌先が彼女の膣穴に入り込んだ。酸っぱくてねっとりとした愛液の味が、早々に広がっていく。
手加減せずに畝らせる。誰から教わったわけでもなく、ただそうしろと命令されたかのように、肉舌を蛇のように畝らせ、彼女の穴の肉壁を撫で回した。
「ふぁ、ふぐっ、んぃっ、あぁっ!」
彼女の嬌声が溢れ出した。聞いた事のない、発情した動物のような姫声がアオイさんの喉から鳴らされていた。
こんな彼女の声を聞くのは初めてだった。
「あ、いやっ、だめ、激しい……んぅぅ!」
だから、彼女の声をもっと聞きたい、許してくれたお礼も兼ねて、もっと彼女を気持ちよくさせたい。
こういう場面以外では気持ち悪がられるだろうセリフを内心で叫びながら、僕は彼女を求めて舐め続けた。
彼女の匂いが鼻先を擽って、鼻の奥にまで流れていく。
舌先を畝れば畝らせるほど、愛液が蜜のように湧き出てくる。
僕は彼女の股に顔を埋めた。そして、ぢゅるるという汁を啜る音を立てながら、彼女の陰部を味わっていた。
「あ、き、きちゃ…………う」
気がつくと、アオイさんの体が震えていた。ガタガタとさせるように。きっと、もうすぐということなのだろう。
「りょ、う、りょっく…………んんんぅぅぅぅっ!!」
僕の名前を呼びながら、彼女は甲高い声を部屋中に響かせた。背中を仰け反らせながら目をぎゅっと閉じて、陰部から透明な液体を吹きだした。それは勢いは弱いが少し多めで、塩辛い味が舌を包んだ。
さらに後を追うように、乳白色の液体まで出てきた。これはなんだろうか。僕は知らない。
「はぁ、はぁ、はぁ…………いっちゃ……た」
しばらく痙攣をしたあと、アオイさんはベッドに腰を沈めた。ぽーっとした表情のまま荒い息をしつつ、少しずつ呼吸を整えていく。
「……エッチ」
はぁ、と白い息を吐いて早々に出たのは、そんな言葉だった。少し怒っているようにも見える。けど、彼女の縦唇は溢れた愛液で濡れに濡れている。準備はできているようだ。
僕は興奮に身を任せてズボンを脱ごうとした…………のを、寸前のところで止めた。
「……リョウ君?」
このまま脱ぐだろうと思っていたのか、アオイさんは緩んだ目を向けながら小首を傾げた。
ここまで、全身に走るものに後押しされるように彼女を貪ってきた。今からやることは、彼女を傷つけながら、気持ち良くさせる行為だ。
けど、それには準備が必要だ。幸い、僕にはあれがある。直前で外に引き抜かず、射精が出来る道具が。
「どうしたの?」
不穏そうにする彼女に少し待っててと言って、僕は起き上がって一旦ベッドから立ち上がる。アソコが固くなって歩きにくい中、カーペットを踏みながら勉強机の引き出しを開け、奥に手を伸ばす。
記念に奢って貰ってから、ずっとここに保管してきたそれは、期限内には使わないだろうと思い、半ば存在を忘れていた。そんなあれが、今、ようやく役目を果たす時がきたのだ。
「あった」
ガサゴソと探る内にそれを掴み、腕を引っ込めた。指に触れたのは、間違いなくそれだった。
取り出して、目を凝らして期限を確認する。ギリギリだが大丈夫なようだ。
僕はベッドに戻り、アオイさんにそれを見せた。初めは何かわからなくて呆然としていた彼女は、気づいて少し目を見開いた。
「……それ、もしかして、コンドーム?」
「うん」
「……初めて見た……そういうの、持ってたんだ」
「持ってたというか、中学の卒業の時に友達から奢って貰ったんだ。ほら、君と同じクラスの彼から」
「……そっか。てっきりリョウ君が……」
その先のことを彼女は言わなかった。言うのも恥ずかしいというのは、紡がれた唇から察することはできる。いつものアオイさんとは違い、今の言葉は本当に動揺して出た言葉だろう。僕も、捨てずに取っておいたのは、こういう日が来るのを期待していたからかもしれない。
僕は入れ物を持ちながらズボンとパンツを下ろしていく。自分の物が硬くなっているのもあって、先がつっかえて擦れる。無視してズボンを下ろし切ると、つっかえていた原因のものが、その硬い身を上下に振るように姿を現した。
初めて剥いたのは中学生の時、ちょうど周りの男子生徒がそういうエッチなことに興味ありありで、人前でも平気で下ネタの話をしていた黒い時代(後にこういうのは黒歴史と名付けられるらしい)。
そんな中で、僕も興味本位で皮を剥いた。噂では痛いと聞いていたがそういうものはなく、ただ殆ど外に出ていなかったから、感覚が敏感になっている程度だった。
あれから数年経って、僕の肉幹は多分大きくなった。大きいか小さいかは分からないけど、成長期に合わせて一緒に成長したのは間違いない。青い筋の血管が竿部分から根を張るように浮き出ていて、立ち込めていた臭いがむわっと外へ放たれる。早く挿入がしたいのか、先端からは既に透明な液体が溢れていた。
「…………大きいね」
そう言って僕のものを凝視してくる。「男の子のおちんちん見るのって、初めてだから、結構恥ずかしい」と付け加えた。
僕は彼女からの視線を受けながら、入れ物を開封し、手のひらに向けて斜めに傾けた。カサッカサッと音が鳴り、中から1つ、手の平にストンと零れ落ちた。入れ物を置いて小袋を開けた。瞬間、ゴム臭い匂いが広がった。思わず顔を顰めてしまうほどの匂いで、生まれて初めて嗅いだかもしれない。
「待って」
途中、アオイさんが力なくこちらに手を伸ばしてきた。僕は彼女の手を掴んで起こした。
彼女は「私が付けるよ。リョウ君は、じっとしてて」と言い、僕が返事をする前に続けて「リョウ君には、さっき気持ちよくしてもらったから、今度は、私が触る番だよ」と笑った。
彼女は小袋を受け取ると、指先で中身を摘み、取り出した。
「これが、そうなんだ……臭くて、変な感じ」
少しの顰めっ面を浮かべながら、アオイさんはコンドームを両手で摘む。そして亀頭先に顔を近づけ、軽く息を吸い込んだ。「こっちも結構臭うね」と囁くように言うと、僕の肉幹に向けてゴムの輪っかを下ろした。
キツキツな薄い皮が、食らいつくように亀頭の先から噛みつき、徐々に竿の部分を覆っていく。よいしょ、と小声を漏らしながら、破れないように慎重に下ろしていく。倒れないように竿を挟む彼女の指と、彼女の一生懸命なその姿が、肉幹の硬さを保ってくれていた。
「……できたよ」
アオイさんが両手を放す。僕の肉幹が薄いゴムに包まれていた。温かいような冷たいような、不思議な感覚だった。
「それじゃあ、やろっか」
僕が言うと、彼女はこくんとうなずく。とん、と軽く手で押すと、彼女は重力に身を任せてベッドに倒れた。
お互いに裸。部屋の中は寒いはずなのに、僕達の体はポカポカしている。だから、寒さなんてものは感じない。
僕は彼女の脚の間に入り込み、指で彼女の陰部の花弁を咲かせる。そしてもう片方の手で肉幹を支えて、間違えないように膣穴に添えた。
他と比べて大きめで、それでも小さな穴を亀頭は捉えた。
準備が整い、僕は彼女の両太腿を掴みながら、ゆっくりと腰を押し出した。
「ぁ、あぁ…………!」
キツイ、なんてキツさなんだ。亀頭が入口でつっかえて中々奥に進んでくれない。1回、2回と弾みを付けて、ようやくちょびっと進む程度だ。女の子のおまんこってこんなにも狭いのか。
しかも、彼女の表情も実に痛そうだった。先っぽが入り込み、苦悶する声が大きくなる。シーツをぎゅっと握りしめて、痛みに耐えているようだった。
「アオイさん、大丈夫?」
「うん、なんとか……いいから、続けて」
「……痛いなら、やめるよ」
「いい、大丈夫だから……このまま、リョウ君と繋がりたい」
細い目を向けながら、彼女は強請るように訴えた。
僕はそれに答えるために、1度深呼吸をしてから、再び腰を押し付け始めた。
肉幹が彼女の中へ進む。メリメリとくっついていた中の膣道が開いていくのがゴム越しに伝わる。
「くぁ、ぁぁ…………」
アオイさんの口から細かく息が吐かれる。
熱の篭った白い蒸気は、苦しみと未知の快感を孕んで宙に飛散する。
肉の棒によって膣壁が押し広げられていく。
狭い肉壺の中へ侵入していくにつれて、僕の肉幹に締め付けるような圧がかけられる。このまま中で潰されて、ひしゃげてしまいそうな感覚だが、同時に竿に愛液が染み込んでいき、さらに膨張していく。
「あ、アオイさん…………」
「あ……」
腰が彼女のお尻とぶつかると同時に、肉壁にびっしりと張り付いた襞が亀頭の鰓に吸い付いた。
鰓だけじゃない、亀頭先から根元にかけて、彼女の肉まんこが覆い尽くしている。
ゴム越しでも分かるくらいに、熱々でとろとろとした愛液が膣内を満たしていた。
「ん……全部、入ったね」
「ああ……熱くて、溶けそう」
「……私も、痛いけど、気持ちいい…………」
陰部が溶けるような感覚に僕達の顔が思わず綻ぶ。
「…………動くよ」
「……うん」
一言だけ告げあい、僕は一歩を踏み出した。
「くぁ…………ぁ」
腰を引いてギリギリまで肉幹を引き抜く。
中に収まっていた愛液が引きずりだされるように膣穴から溢れ、シーツへとポタリ落ちて染み込む。きっとその中には彼女の破瓜した証である血が混ざっているだろう。
「んぅううっ!?」
けど、僕は止めなかった。
身に任せて腰を前に突き出して、彼女の肉道を勢いよく貫いた。
ずるりと音を立てて鰓が肉壁を擦り上げて、先端が彼女の敏感な箇所を啄き、筒内に刺激を与える。
刺激は肉襞と性感帯を通して全身に伝播し、最後に彼女の脳に届く。届いた瞬間にアオイさんは背中を仰け反らせながらビクンと跳ねた。
アオイさんの感じやすい場所を探しながら、僕は一定の速度で腰振りを続けた。
キツキツで潰してしまいそうな肉壺は、肉幹が飛び出そうとすると、離すまいと膣内全体を収縮させる。そして中へ戻る時は、歓迎するように内側へ引きずり込むように襞先を畝らせる。
「ふぁ、あぁんっ、んぅ……」
己の衝動に任せて腰を揺らし、肉幹で蜜壺を柔らかく解していく。ドクンと彼女の心臓がなる度に、膣内も合わせてぎゅっとキツくなり、肉幹を絞り嬲る。
「はぁ……アオイさんの中……あったかくて、気持ちいい」
「あっ、私、んっ……リョウ、君の……熱くて、太くて……あ゛っ……!」
あまりの快感に口元が緩んで、涎が垂れ落ちそうになる。それは彼女も同じで、さっきまでの苦しい顔が嘘のように破顔し、蕩けた笑顔を浮かべていた。こんなにまでトロトロで頬を緩めた彼女を見たのは初めてだった。
「あんっ、あっ、はぁんっ、あ、いい、リョウ君のおちんちん、気持ちぃん゛んっ!」
アオイさんは喘ぎ声を上げながら何度も僕の名前を呼ぶ。おちんちんだなんて言葉が彼女から出るだなんて。そう思うと、僕の肉幹にさらに血が循環される。
「ふぁ、あぁっ! んぅ! あぁんっ……ぅんぅ!」
薄暗い部屋の中で、彼女の嬌声が響き渡る。淫猥な悲鳴と共に、じゅぷじゅぷという肉幹が媚肉を掻き混ぜる水音が空気中で震える。
お互いの口から息が吐き出される。吐き出された息は白い色を付けて空中でふわっと混ざり、幻のように消えていく。そんなことが、腰を一往復させる度に繰り返される。
「あ、あっ! あつい、お腹が焼けちゃう。うぅんっ!」
尖端が彼女のお腹部分の肉疣の群れをずるりと撫でる。途中にある固い部分を突き上げると、アオイさんの体が痙攣するようのビクンと跳ねる。
「うぁ、お゛っ、んあ゛あ゛」
突く、跳ねる、突く、跳ねる、その繰り返しの中で、彼女の喘ぎ声に露っぽさが増していく。
僕の知っている彼女は、いつもふわふわとした笑顔を浮かべている。
いつものように僕をからかいながらも、温かい手で僕の手を包み込んでくれる。
たまに本に意識を持っていかれてしまって、僕の声掛けに気が付かないことだってある。
それほどまでに彼女はマイペースなのだ。
「あっ、リョウ、くん…………んぅ゛!」
そんな彼女は今、産まれたての姿で、艶やかに乱れ咲きながら僕と交わっている。聞いたことがない嬌声を上げて、下の唇で竿を咥えている。
夢のようだけど、今起きているのは現実なのだ。現実で僕は彼女とセックスをしている。
「あ、くぅ……!」
気がつけば部屋全体が湿っていた。それは幻覚なのかもしれないけど、僕達の体は確かに熱くなっていて、毛穴の1つ1つから汗が噴き出している。
「ふぁ、あ゛っ、あ゛っ! んんぁっ゛!」
アオイさんは顔を横にして腰をよがらせる。初めは痛みに唸っていた彼女も、肉幹が何度も出入りをしたことで
痛みが和らぎ、陰部を通じて全身に走る悦びを感じ取れるようになったようだ。
「アオイさん…………んっ!」
僕は太腿をがっしりと掴んだまま、思いっきり腰を前に突き出し、膣天井をずるんと擦り上げた。
中で畝っていた無数の肉襞が亀頭にぶつかり、先端を摩擦で焼かれる。そして敏感な部分を頭で突き押した。
「あぁぁぁっ!」
同時に彼女の頭に向かって激しい電流が迸り、脳内をパチパチと弾かせた。そのことが目で見ても分かるくらいに、彼女は目を見開かせながら喉元を反らせて、舌を突き出した。
全身が跳ねるように何度も痙攣している。それに合わせて膣内もぐわんぐわんと動き、中に収まる肉幹ごと蛇行する。それでも離すまいと肉襞がぎゅぅっと絞めてくる。
「あ、あ……ぁ」
数回の痙攣のあと、彼女はベッドに体を沈めた。彼女の控えめな丘が呼吸によって上下する。
彼女は多分、絶頂した。それを証明するように蜜穴も隙間なく引き締まっている。
「リョウ…………くん」
僕の名前を呼びながら、彼女は何かを求めるように両手を暗い宙に伸ばす。
僕は彼女の腰に手を回すと、持ち上げるようにして体を起こさせて、そのまま抱きしめた。
彼女は嫌がる様子もなく、しがみつくように抱き返してきた。
「ん、んちゅ……んぅ、はむっ」
自然と近づく2人の顔。我慢できるはずもなく、僕達は貪り食うように唇を重ね、舌と舌を絡める深いキスを交わした。
対面する形で抱き合いながら、彼女が腰を動かす。僕は腰あたりを支えながら彼女の腰振りを手伝う。
肉幹がより深い場所を刺し、肉の林を掻き分けて奥へと突き進む。奥に行けば行くほど彼女の中は愛液に満たされてトロトロになっている。それを深いカリで引きずり出し、結合部から外へと汁にして溢れさせた。
「ん、ぢゅる、んむっ! んっ……あっ、あぇ、あむっ」
愛液という名の蜜が肉筒の中でシェイクされる中、アオイさんは舌肉を暴れさせながら、僕の唾液と自分の唾液を混ぜ合わせた。苦くて仄かに甘いそれは、僕らの喉を降りていく。時折、滴になって伝う汗が混ざると、塩っぱさを付け足してきた。
「ふぁ、んっ、んっ、んうぅ」
彼女の肉付きのいい尻肉が波を打つ。
肌に沁みた汗がぱちゅんぱちゅんと弾けてぶつかり合い、ベッドに飛散する。
彼女のほんのりとした膨らみが胸板で潰れて広がる。
胸と胸が体液でぬるりと滑り合い、お互いの乳頭を擦り合う。
腰同士のぶつかり合いが激しさを増す。
ギシギシとベッドが軋む音が響く。
肉幹がさらに熱を帯び始め、硬さと太さを増していく。どうやら僕もそろそろらしい。
「んちゅ、んんっ、ぁ、ぁ」
舌先を絡め合いながら彼女の瞳を見た。
──私も、イク。
潤んだ飴色がそう答えた。
彼女の腰つきが速くなる。肉幹が擦る速度も、全てがヒートアップしていく。
「はぁ、んっ、んちゅ、ん……んんんうぅぅぅううぅぅ!!!!」
彼女の絶頂声が、口の中を通り越して胃袋にまで響き渡る。
脳がパチパチと白く弾け飛んだ瞬間、亀頭先から精液が迸った。待機していた白濁液が次から次へと勢いを付けて飛び出し、ゴムの中へと溜まっていく。彼女はそれを、腰を反らせながら受け止めた。
びゅるる、びゅぶる、びゅぶるるる──
そんなえげつなくて、粘着質で、気持ちの良い音が、ゴムの中で響く。その音をもっと奏させようと、彼女の肉壁がびっしりとまとわりつき、上に撫で上げて射精を促してくる。
「ん………………ぁ」
ようやく口元が離れ、僕らは顔を離した。
蕩けきった彼女の顔は、妖艶に煌めいていて、どこか悲しそうにしていた。
「……アオイ、さん?」
絶頂の余韻に浸りそうになりながら、思わず彼女を呼んだ。
すると、彼女は顔を俯かせ始め、表情に影を作った。
「大丈夫?」、そう声をかけた次に返ってきたのは、彼女が鼻を啜る音だった。よく見れば、潤んだ瞳からも涙を流していて、頬を伝ってぽたぽたと僕の体に落ちていた。
「……ごめん……ごめんね……リョウ君……私、最低なこと……しちゃった」
謝るように彼女は同じ言葉を繰り返した。
何も事情を掴めない僕は、ただただ彼女の背を抱いて撫でることしかできなかった。
◇◇◇
この場所に住み始めたのは、僕がまだ小さい頃のことだった。初めは小さなアパートでの2人暮らしから始まり、僕が物心着く前にここに越してきた。父が思い出話のように昔からよく話していたことだった。
そんな場所は今、両親がいないせいか、やけに静寂に包まれている。いつもいる人がいないだけでこんなにも変わるものなのかと思いながら、僕はシンク近くに置かれている電子レンジの表示された時間を確かめていた。こうでもしないと、今の僕にとっては空気が重かった。
チンッという音とともに扉を開けて、マグカップの取っ手を掴んで取り出す。じんわりと湧き出る甘い湯気のせいで余計な熱さを感じながら、リビングへと向かった。
4人で食べたテーブルの隣にある、3人まで座れるソファとテレビ、その間を隔てるように置かれた小さいサイズの足の低いテーブル。ストーブのおかげで、冷えた床や室内は温かい熱が巡っていた。
アオイさんは、ソファの端で膝を抱えながら座っていた。お風呂上がりで潤った鮮やかな髪が、室内灯の灯りを反射してキラキラと煌めいている。体もポカポカとした湯気がうっすらと出ていた。けれど、膝と膝の間に顔を埋めていて、表情は分からない。
「ミルク、温めたよ。熱いから気をつけて」
「……うん」
テーブルにマグカップを置き、短く答える彼女の横に腰を下ろす。手に持っている自分用のマグカップに入れたホットコーヒーを飲んだ。昔は苦いから嫌いと言っていたのに、いつの間にか飲めるようになったコーヒー。今の僕にとっては、この苦さが少し心地良かった。
苦さを纏った湯気が鼻奥に入り込む中、僕は彼女に横目を向ける。顔を上げる様子は、まだない
「……さっき言ってたことだけど……本当なの」
「…………うん」
口を閉ざして喉を鳴らしたような声が脚の間から聞こえた。テーブルの上で揺蕩うホットミルクの湯気のように、すぐに消えてしまいそうな程に掠れた音だった。
行為後、突然泣き出した彼女は、しばらく泣き続けたあと、ポツポツと事の詳細を打ち明けてくれた。
彼女が僕に泊まらせて欲しいと頼んだのは、予想通り、ご両親との喧嘩が原因だった。
些細なことでお母さんと喧嘩になり、終いには暴言を吐いてしまい、お父さんに叩かれたらしい。
謝ることが出来ず、顔を合わせるのが怖くて、家に帰って『お前はうちの子じゃない』と言われるのが怖くて、それで僕を頼ったらしい。
その些細なこと云うのは、本当にありふれたことだった。どの家庭でも起こりうるようなことで、もし僕が母から言われたらムッとして、虫の居所が悪ければ軽い口喧嘩になるかもしれない、そんなものだった。僕からすれば、彼女が怒ったことは悪いことでもなんでもない、実に自然な反応だと思った。
けれど彼女にとっては、初めての出来事だった。両親に怒ったことも、お母さんを泣かせてしまったのも、お父さんから頬を叩かれたのも。
──私ね、清水になってから、ずっと怒らないようにしてたんだ。お父さんとお母さんに嫌われないように、ずっと笑うようにしてた。
──なのに、昨日はどうしても駄目だった。自分でも抑えられなくて、お父さんとお母さんに言っちゃった。
──本当の親じゃないくせにって。他人の子どもだって思ってるくせにって。
──そしたらお母さん、泣いちゃった。いつも優しいお母さんを、泣かせちゃったんだ。
──それでお父さんに叩かれて、謝りなさいって怒られた。
──なのに、私、謝れなかった。謝らないといけなかったのに、どうしていいのか分からなかった。
懺悔するように嗄れた声を上げていた彼女の言葉が、この世の終わりかのように啜り泣く彼女の姿が頭の中で再生される。
「…………ごめんね」
胸に押し当てられた膝の中で、彼女の小声が聞こえた。
僕はマグカップを置いて、彼女の方を見た。優しめなトン、という音が聞こえてしまうくらいに部屋の中は静けさに包まれている。
僕は謝ってきた彼女に返事ができなかった。
ただひとつ、どうしても聞きたいことがあった。
「…………僕とセックスをしたのも、今回のことが関係あるの?」
彼女の頭が膝から少しだけ離れる。長い髪の隙間から、涙目になった飴色の眼が僕の方を覗く。白い部分は充血して真っ赤になっていた。
彼女は僕を見つめたまま無言を貫いた。貫こうとして貫いたわけではない。口は動いて、言葉を探しているかのようだった。ただパクパクとするだけで何も出ない。
しばらくして、彼女は膝に顔を埋め直して、籠った声で答えた。
「…………リョウ君に……癒して欲しかったから……………………でも、告白したことはホント」
両親と仲良くなれて嬉しいことも、僕と2人で横になってドキドキしたことも、僕の匂いに包まれて安心したことも、恋人になれて嬉しいことも、全部。
ただ、本当の気持ちを、一時の暴走のために悪用してしまった。
いつもの明るい彼女はいない。ただ後悔と罪悪感に潰れてしまいそうだった。
「…………最低だよね。両親を泣かせたのも怒らせたのも自分のせいなのに、謝らないで、勝手に両親に捨てられるって思って。それどころか、リョウ君まで利用して…………サイテーでカッコワルイ」
前に僕が言った言葉の反対を言うと、アオイさんは両手で膝を抱き締めるように抱えて、体をさらに縮こませた。
…………こういう時、なんと答えるべきなのだろうか。
僕は、彼女のことが好きだ。
どれだけ彼女が自分のことをサイテーと罵っても、嫌いになんてなるはずがない。
彼女の告白が本当であることは、信じて疑わない。
じゃあ、今の僕にできることは何か。
落ち込む彼女に、どんなことがしてあげられるのだろうか。
恋人として、僕にやるべきことはなんなのか。
ご両親は君のことを嫌いになんかなってない、とでも言うのか。どんな気持ちなのかも知らないくせに、形だけの慰めの言葉をかけるのは、違う。
謝ればきっと許してくれるよ、なんてことは、分からないから言えない。電話越しのお母さんの声しか聴いていない僕には、2人がどう思っているかなんて分からない。
──僕にできることはないのか。
──恋人の僕に、彼女にしてあげられることはないのか。
──僕は彼女でも、彼女の両親でもない。だから、どれだけ考えたとしても、それは自分の頭の中、見た事、聞いた事で決めたことにすぎない。
──そんな僕にできることは、一体なんなのだろう。
苦いコーヒーをまた1口飲む。口の中に苦味が広がり、あれこれと巡らせていく思考を消していく。消されて、減らされて、やがて1つの案にたどり着いた。
「……アオイさん」
マグカップを置いて、僕は彼女に顔を向ける。相変わらず顔をあげようとしてくれない彼女に、僕は口を開いた。
「アニメ、観よっか」
笑みを浮かべながら僕がそう告げると、アオイさんは微かに体を動かす。そしてゆっくりと顔を上げて、唖然とした表情を僕に向けてくれた。鳩が豆鉄砲を食ったようなとは、まさに今の彼女のことを言うのだろう。
「ギャグアニメでも見て、笑おうよ」
続けて僕は言った。アオイさんの表情は、まだ固まったままだった。僕は笑顔のまま手を伸ばし、膝を抱えている彼女の手の甲に触れながら、言葉を繋いだ。
「ちょうど、父さんがビデオに録画してるアニメがあるんだ。これがおかしくてさ、毎回毎回わけが分からなくて、けど、不思議と笑えてくるんだ…………だからアオイさんも一緒に観て、沢山笑お? それで、少しでも気持ちを楽にしよ?」
彼女の真っ赤に腫れた目は、僕を捉えたまま動かない。当然の反応だ。もしかしたら次の瞬間には怒ってビンタをしてくるかもしれない。嫌いだと言われるかもしれない。ふざけないでと言われて出ていくかもしれない。
けれど、僕に今できることはこれしかないと思った。両親譲りのアニメ好きな僕には、これが今1番できる励まし方だった。
アオイさんは頭を上げて、目で一点を見つめる。色ついた瞳がじっとして動かない。
「…………ふふ」
次の瞬間、アオイさんの顔が綻んだ。呆れているようにも見えるけど、僕にはいつものアオイさんの笑顔に見えた。
「やっぱりリョウ君って面白いね」
「……どういたしまして」
笑いながら返すと、彼女も目を細めて口角を上げた。
「…………君が恋人で良かった」
アオイさんは両膝を崩して、手で僕の手を握ってくる。両手で包むように握る彼女の手は、ポカポカとして暖かかった。
その後、僕達は朝になるまで、ビデオに録画されていたとあるアニメを1話から順に視聴した。
1匹の子豚と少年が巻き起こす奇想天外なストーリーは、たまに意味不明で、いつも面白くて、僕とアオイさんに笑いを届けてくれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
土曜日の朝、人気のない住宅街の道は物音ひとつない静寂に包まれていた。もう10年以上も住んでいるここは、土曜日になるとみんな少しだけ朝寝坊をする。いつも挨拶をしてくれるおばさんやお婆さんも姿が見えない。
氷点下近い気温の中で、冷たい風がびゅうっと吹いて頬を撫でた。バスの中でホカホカにさせた体がすっかり冷めてしまった。
「この時間帯でも、学校に行く子はいるんだね」
「朝練だと大概この時間には出るらしいよ」
「そうなんだ。知らなかった」
その道を私はリョウ君と歩いていた。いつも1人で帰る道を、初めて彼と歩いている。
制服の上から貸してもらったコートを着ながら、スクールバッグをリュックみたいに背負って、空いた手で彼と手を繋いでいた。
リョウ君に全てを話した後に、私は彼と一緒に朝までアニメを視聴した。ソファに並んで座りながらで2人で観たそれは、昔読んだことのある本と同じタイトルで、デザインもよく似ていた。内容はどこかシュールで、ブラックで、面白くて笑えてしまうものだった。あの瞬間だけは、悩んでいたことが全て笑い声に溶けていた。
朝を迎えてから、私はリョウ君に、家に帰って両親に謝りに行くことを伝えた。正直に謝って、ごめんなさいと言って、本当の気持ちを2人に打ち明けようと話した。
それで、私が怖気付いて逃げないように着いてきて欲しいとお願いした。お世話になった挙句、寒い外に連れ出す。そんな我儘を、彼は頷いて了承してくれたのだ。
「ふぁ〜……やっぱり徹夜はまずかったかなぁ」
大きな欠伸をしながら、リョウ君は空いている手で口元を覆う。その手には、モコモコの手袋をつけていた。私の手のサイズにあったものなので、彼にとっては小さく、手首までは覆うことはできていない。
「アオイさんは大丈夫? 体、辛くない?」
「うん、平気だよ。お股は少し痛いけど、歩けない程じゃないから。それに寝てないおかげで、むしろ逆に頭が冴えてる気がする」
「それ、あとから眠気が来るんだよね」
ごめんと、彼は苦笑しながら謝った。「謝らないで」と手袋をせずに繋いだ手をきゅっと握りながら返した。
「リョウ君のおかげで、お父さんとお母さんと向き合うって決めることができたから。リョウ君が励ましてくれなかったら、私は本当にダメな子になってた」
アスファルトの黒い道路をコツコツと踏む音が響く。彼とゆっくりと歩幅を合わせて歩いているのもあって、音は一定のリズムを刻んでいる。
「僕はただやれることをしただけだよ。僕の方こそ、ちゃんとした励ましができなくてごめんね」
いい、ちゃんとした励ましとかちゃんとしてない励ましとか。そういうのは関係ない。私は、君らしい君の励まし方に救われたんだ。大好きな君が、私を救ってくれたんだ。
しばらく歩くと、左手に公園が見えてきた。少し広くて、子供達が遊べる遊具や広めな砂場があるそこは、小さい時に連れて行ってもらったことがある。成長した私には、この公園はあまり出向かない場所になっていた。
「昔ね」と話を切り出した。
「家族で遠くまでお花見に行こうとしたことがあったんだ。私が娘になって初めてのお花見だからって、お母さん、おかずの具とか、おにぎりは混ぜご飯にしようかとか、好きなものは何とか、凄く張り切ってた。
でも、前日に車が壊れちゃって、中止になっちゃって……その時は、お父さんもお母さんも落ち込んでた」
思い出す、結果だけしか記憶していないはずなのに、話していくうちに、その前のことも。
「アオイさんも落ち込んだ?」
うん、と顎を引いた。でも、仕方がなかったと続けた。
「でもね、当日にちゃんとお出かけしたんだよ。お母さんなんてお弁当箱を包んだ風呂敷を片手に『アオイちゃ〜ん、お花見行くよ〜』って、突然言ってきたよ」
それで私は両親に連れられて家を出た。当日着ていくつもりだった服を着て、2人に手を繋がれながら道を歩いた。
「それで来たのが、この公園だった」
公園内に植えられた木々を見る。今は寒さに全身を丸裸にさせている木の群れも、春になればたくさんの桜を咲かせる。
あの日も、私は2人に連れられてこの公園にやってきた。開花したばかりの桜は、薄いピンクを色付けて綺麗だった。『あの場所』に桜の木は生えていなかったから、人生で初めての桜だった。
「確か、あそこの木の下」
ちょうど、木と木の間に広い空間がある場所があって、そこでシートを敷いてお弁当を食べた。お母さんの作った唐揚げが美味しかったし、お父さんの会社のお花見の場所取りの話は、可哀想で可愛いかったから今でも覚えている。毛虫がお弁当に貼り付いて、お父さんが焦って追い払おうとしておにぎりをひっくり返したのも、それを見てお母さんがにこやかに笑っていたのも、ハッキリと記憶に残っている。
「また、ここで食べたいな」
無意識にそんな言葉が出てきた。
また、お父さんとお母さんと3人で。
けど、まずは、やらなくちゃいけないことがある。
冷たい空気を鼻いっぱいに吸って、頭の中を冷やす。そして、口から息を吐く。
「……行こっか」
公園をあとにしてしばらく歩く。
歩いている途中で、左手にある一軒家が目に入った。作りはなんの変哲もない普通の戸建てで、確か小さな女の子とご両親が住んでいる。
私は、その家から目を離すことが出来なかった。
理由は、家の玄関のれドアに付けられた飾り付けだった。
フサフサとした緑色の輪っかに、リボンやベル、松ぼっくりが彩られた、クリスマスリース。他にも、窓ガラスにはサンタクロースや雪だるまのジェルシールがぺたっと貼り付いていた。
そういえば、来週はクリスマス・イブとクリスマスだったんだ。
「……クリスマス」
つい足を止めて、その家を見る。本当は、昔の記憶を見ていたのかもしれない。
初めてのクリスマス。『あの場所』にいた時は、小さなケーキの1切れがみんなに配られて、それでお終いだった。プレゼントも何も無い。
だから、清水家の子になって初めてのクリスマスは、驚きで口が開きっぱなしだった。サンタさんとトナカイが乗った大きなケーキと、骨付きのチキンと、サンタクロースの帽子を被ったお母さんと、トナカイのお父さん、クリスマスプレゼントのうさぎの絵本。
また、思い出す。部分的な記憶が、細かなところまで明確に。
「……今年のクリスマスもみんなで祝おうねって、お母さん、言ってたんだ」
また、無意識に言葉が出てきた。
もう一度冷たい空気を吸い込んで、今度は頭と体を冷やす。澄んだ空気で内側の熱を冷まして、口から息を吐いて、また歩く。
まずは、やらないといけないことが、ある。
そして、とうとう家の前に辿り着いた。
二階建ての、3人で暮らしている大切な家だ。車1つ分の駐車場には、お父さんの愛車が駐車されている。この時間になっても動いていないから、多分、2人とも家の中だ。
「…………」
防寒着の奥で心臓が激しく脈を打つ。内側から殴るように、ドンドンと胸を揺らす。
「……大丈夫……外で待ってるから。まずは、アオイさん1人で」
頭を縦に振る。1歩前に出て、彼の前に立つ。踵を返して、彼に向き直った。
「……ハグ、していい?」
リョウ君は一瞬目を点にして、すぐに微笑みながら手を広げた。
彼の胸に向かって飛び込む。ぼふっという音とともに、胸元に耳を当てた。
彼の胸から、ドクンドクンという心臓の音が聞こえる。その音は、1つ打つ度に私の中の恐怖心を和らげてくれる。
彼の手が背中に回る。彼の温もりが、冷える身体を芯から温めてくれた。
私は彼から離れ、もう一度、体を家に向かせる。
左足を前に出す。右足、左足、順番に歩いて、扉の前に立った。
──大丈夫、今の私なら、言える。
私はドアの取っ手を掴んで扉を開けた。そして、扉の先で待っている2人に向かって口を開いた。
「…………ただいま」
◇◇◇◇◇◇◇◇
年が明けると、テレビではお正月スペシャルという名目で、色んな番組が3時間から6時間の長時間を組む。それは1週間ぐらいは続き、その間は本来放送されるはずのアニメやドラマはお休みになることが多い。そのせいで子どもに泣かれて大変だったと、友達は毎年電話越しに愚痴を零している。
そして今年も、お馴染みのように年明けの番組は殆どがスペシャルで埋め尽くされている。案の定、アニメや特撮といったものは来週までお預け状態だった。
去年は、僕がアオイさんに告白をした年にデビューしたバンドが解散したり、国民的アニメのキャストが一新されたりと、様々な出来事があった。 僕の方も色々あったけど、そんなことは今は関係がないので、これ以上の説明はしない。学生時代と違って毎日同じような日々を繰り返す僕の仕事話なんてものは、つまらないにも程があるのだ。僕の話なんかするよりも、父さんと母さんが一世一代の大喧嘩をした話や、お義母さんがお義父さんと喧嘩をしたにも関わらず、次の日にはけろっと忘れてデートしたいだなんて言い始めてお義父さんを驚かせた話の方がまだ面白いだろう。面白いだなんて、本人達に言ったら怒られるのは間違いないけど。
「お腹空いたなぁ」
「まあまあ、参拝が終わってからでも買えるから。何食べたい?」
「うーん、唐揚げと焼きそばとチョコバナナと綿あめと……」
「ちょっと食べ過ぎじゃない?」
すごく美味しいわけでもないけど、不味いわけでもない、ただ年に一度は食べたくなる味達を求めて、アオイさんは次から次へと食べたいものをリクエストしていく。流石に胃がもたれないか心配になる。
僕達は今、住んでいるアパートの近くにある神社に足を運んでいる。年明け初日ということもあって、神社の境内には大量の参拝者が押し寄せていた。家族連れから老夫婦まで勢揃いで、この周辺以外から足を運んで来た人達も混ざって、鳥居の外にまで長蛇の列を作っている。みんな、初詣のためにやってきたのだろう。かという僕達も同じで、今年は初日に行こうと2人で決めていた。
「それにしても、全然進まないね」
「初日だからね。三が日は基本的に人が多いから、敢えてもう少し時間が経ってから出かける人もいるらしいけど、仕事で時間がない人もいるし、やっぱりこういうのはお正月のうちにやりたい人が多いんだよ」
「そーなんだ」
前方を見ながら、アオイさんは横に並ぶ屋台の列に目を向けていた。今にも涎を垂らしそうな口元を、ハッと気づいた彼女はハンカチでサッと拭いた。
ここを訪れてから既に数十分は経っているはずなのだが、参拝者の行列は一向に進む気配がない。手水を終えた手が、冷たい風に晒されてすっかり乾いてしまった。
列の少し先では、親に連れられた男の子が待ちきれずにうろうろと辺りを歩き回りたがっていた。今にもその場から走り出しそうな様子だ。手には放送中の鬼のヒーローの玩具を持っている。多分、来月あたりにはカブトムシのヒーローの玩具に変わっているだろう。友達もそれで息子の物欲が止まんねぇと嘆いていた。オタクの友人も置く場所がないと喚いていた。
また、僕達の目の前で並ぶ女の子は、さっきまで終わったらチョコバナナを買ってあげると言われてウキウキしていたのに、早くも参拝なんてどうでもいいからチョコバナナが食べたいと母親に強請っている。この調子だと、あと数十分はありつけないのは間違いないのだから、気持ちは分からなくもない。
「僕も昔はあんな感じだったなぁ」
「そうなの?」
「うん、まあうろ覚えなんだけどね。お面とか綿あめとか射的とか、屋台なんて正月か夏祭りの時くらいにしかやってこないからさ。ああいうの、すごく特別に見えたんだ。それで、早くやりたくて、親が目を離した隙に屋台に行ってお面くださいなんて言って。今思うと、両親には迷惑ばっかりかけてた気がするよ」
「へー、リョウ君が。ちょっと意外かな」
「意外かな?」
列が少しだけ動きを見せる。僕達も流れにそって3歩ほど前に進んだ。
「お腹、空いたなぁ……」
その言葉に続けて、「あっ」とアオイさんが声を出す。どうしたのか訊くと、「今、蹴った」と口を弓なりにして応えた。
「この子も早く何か食べたいって言ってるみたい」
「もう少しだから待って欲しいんだけどなぁ……」
「仕方ないよ。子どもはみんな我儘なんだもん。ねぇ?」
アオイさんはぽっこりと膨らんだ自分のお腹を優しく撫でた。
彼女の体の中には、僕と彼女の愛の結晶が眠っている。
性別は男の子で、予定日は4月頃。今のところ特に異常はなく、食欲が旺盛になった彼女からたくさん栄養を貰いながらすくすくと育っている。むしろたくさん取りすぎて大変なことになりそうなので、こっちはそれを止めるのに結構苦労している。
「ねー、もう少しだから待ってようねー。ほら、パパも撫でてあげて」
「……え? あ、そっか」
一瞬、誰のことを言っているのか分からなかった僕は、直ぐにパパが自分のことを指していると気づいた。
「どうしたの? 反応、遅かったよ?」
「ごめん。なんだか、そういえば僕、父親になるんだなって。ちょっと忘れかけてた」
「ふふっ、しっかりしないと、ねぇ」
ほら、とアオイさんは僕の手をお腹に当てるよう促す。じゃあ、と返事をして、僕はそっと、彼女のお腹に触れた。
寒さを耐えるためにセーターとコートを着込んだ彼女のお腹。その上を手の平が乗った瞬間、内側からドンッという感触が伝わった。この中にいる子が、僕と彼女の子どもが足で蹴った。蹴ったまま、僕の手を触るようにぐにぃっと押してきた。そして引っ込んだかと思うと、そのまま何度も蹴ってきた。
「わぁ、すごい蹴ってる。パパが触ってくれて喜んだのかな」
「もしくは、早く屋台のご飯が食べたいって言ってるのかも」
自分のお腹を蹴られながら、アオイさんはニコニコと母性溢れる表情で両手でお腹を擦って「もう少し、頑張ろうねー」とあやした。
あの日、外で待っていた僕は、笑みを取り戻したアオイさんに家の中に招かれ、ご両親を紹介された。お義父さんは優しそうな人で、とても娘の頬を叩くような人には見えなかった。お義母さんは想像通りというか、受話器から聞こえた声のイメージをそのまま具現化したような人だった。2人とも、笑顔を浮かべていたけど、目は赤く腫れていた。家族3人仲良く。多分、そういうことなのだろう。
後日、アオイさんは僕の両親に改めて謝りに来た。事の詳細について細かく話して、けど両親は「そっか、そんな気はしてた」と言った。
そして、アオイさんとご両親が仲直りをした後も、僕達の関係は続いていた。恋人として、いつもと変わらぬ日々を過ごして、時々そういうこともしながら、受験を乗り越えて、大学に進学して、やっとの思いで就職して働いて、落ち着いた頃に籍を入れた。ここまでの数年間は山あり谷ありという名のイベントが盛りだくさんだったけど、学生時代の、アオイさんとの初な日々に比べるとあっという間だった気もする。
彼女が妊娠していることに気がついたのは、籍を入れて暫く経ってからのことだった。そういえば新婚旅行はどうしようかと考えていた矢先に、彼女が倒れ、病院で妊娠していることを聞かされた。初めて聞いた時は、驚きと嬉しさがぐちゃぐちゃになって、病院内を行き交う人達を横に、その場で彼女のお腹に顔を埋めていた。
けど、僕以上に大変だったのはお互いの両親だった。
おめでたを聞いて早々に、産休中はアパートと実家のどっちで暮らすかとか、産むなら家と病院のどっちがいいかとか、赤飯はいるかいらないかとか、僕達以上にあれこれと悩んでいた。互いに仲は良くて、だからこそ関係に亀裂が入らないように遠慮がちで、正直な意見を言えずじまいだった。
そんな中、お義母さんが『アオイちゃんとリョウ君が2人でじっくり話し合って決めればいいと思うよ』と言ってくれたおかげで自体は丸く収まった。そんなお義母さんも、性別を聞き間違えて女の子用の用品を買ってしまっている。
「……これじゃあ、君が生まれたあとはもっと大変だね」
お腹に手を当てながら言うと、返事をするようにドンと蹴ってきた。
今も尚アニメが好きな父さんと母さんは、孫にオタクの英才教育を施すだろう。お義父さんは子守唄代わりに昔の洋楽レコードを流すと思うし、お義母さんはのんびりと成長を見守るだろう。アオイさんも、産まれてきたら絵本をたくさん読み聞かせて上げたいと張り切っている。僕も、この子の父親として全力を尽くさなければならない。
聞こえるかな。君は、産まれる前からたくさんの人から愛されているんだよ。
たとえどんな子に育っても、僕は君の父親で、味方なんだ。
だから、安心して出ておいで。
「ここにいるんだよ。私と君の赤ちゃん」
「うん、僕と君の赤ちゃん」
また列が進み、僕達は砂利道を踏みしめながら進む。今度は結構進んだ。拝殿に近づくにつれて、甘酒のいい匂いが漂ってくる。
「…………」
ふと、目の前に並んでいた女の子が、こちらをじっと見つめていた。その視線はアオイさんのお腹に注がれていて、興味があるようだった。
「……触ってみる?」
アオイさんの言葉に女の子は「いいの?」と聞き返した。彼女と僕が頷くと、女の子はその場でそっと手を触れた。小さな手がぺたりと服の上に添えられる。母親がすみませんと苦笑いで頭を下げた。
「……あったかい、ほっぺみたいに柔らかい」
「ねえ、不思議だよね。でもね、あなたもこうやってお母さんのお腹で育って生まれてきたんだよ」
アオイさんがそう言うと、女の子は被りを振った。「違うよ」と言った。僕達はそうなのと訊いた。
「私を産んでくれたママは別にいるの。お母さんがね、教えてくれたの」
ね? と女の子は屈託のない笑顔で母親に振り向いた。流石に家庭のことをバラされて焦りを隠せていなかったが、すぐに表情に笑みを作って「ええ、そうなんです」と言った。
「……そっか。じゃあ、私とお揃いだね」
「お揃い?」
アオイさんは微笑みながら女の子の手の甲に自分の手の平を重ねる。
「私もね、産んでくれたお母さんは別にいるんだよ。でも、育ててくれたお母さんも、お父さんも、大好きだよ。血は繋がってないけど、私にとって2人は、大切なお母さんとお父さんなの。
あなたは、お父さんとお母さんのこと、好き?」
首を傾げて訊ねると、女の子は「うん!」と大きく首を縦に振った。「ママも好き!」と付け加えるように言った。
歩いてからかなりの時間が経って、ようやくあと少しの所まできた。
参拝者の列は未だに長蛇で、後ろを振り返ると尻尾の方は視界から見えなくなるまで、やはり鳥居の向こうまで続いていた。早めに来てよかったと胸を撫で下ろしながら、財布から小銭を取り出す。お互いに100円ずつ、そしてお腹の子の分も合わせてもう100円を取り出した。
「お願いすることってもう決めた?」
「うん、決めたよ。リョウ君は?」
「僕も決めたよ」
「どんなの?」
「それは秘密。多分アオイさんには分からないと思うよ」
そう意地悪を言うと、アオイさんは頬を少しだけ膨らませた。昔からこういうのはたくさんしてきたのだから、たまには僕だってやり返したくなるのだ。
目の前の参拝者がお参りを終える。さっきの女の子が僕達に手を振ってバイバイと言い、その場を後にした。
「あの子、やっとチョコバナナ食べられるね」
「僕達も、これが終わったら何か買おうか」
流石に注文全部は無理だよ、とは言わずに、僕達は並んで賽銭箱の前に立った。
マナー通りに手順を踏んで、100円玉を賽銭箱に投入させて、柏手を2回打ち、目を閉じて願い事を唱える。
──このまま、みんなとずっと幸せに暮らしていけますように。
唱え終え、僕達は礼をして手を繋いで横にずれた。寒空の下で長時間待った参拝は、あっという間に終わった。
「さてと、何しよっか」
「甘酒飲みたい」
「お、うん」
訊いた瞬間に食い気味にアオイさんは答え、さっきの女の子と同じように屈託のない笑顔で、甘酒の提供場を指さしていた。この神社の甘酒はアルコールのない、子供でも安心して飲める甘酒なので、妊娠中の人が飲んでも大丈夫だ。
「それで、甘酒の次はチョコバナナと綿あめ」
「うん、糖分の摂りすぎはあれだから、まずは甘酒飲んでから考えようか」
空腹で貪欲になって突き進もうとする彼女を宥めながら、僕達は砂利道を踏み締めて提供場に歩き始めた。
「あ、そういえば」と言うと、彼女が首を傾げながら振り向いた。「アオイさんは何をお願いしたの?」
アオイさんはその場に足を止めて、僕に向き直り、両手を握ってきた。
くりくりとした飴色の瞳でじっと僕を見つめて、そよ風に髪を靡かせながら、あの頃と変わらない笑顔を浮かべた。
「秘密だよ」
さっきの仕返しと続けて言う。僕は笑いながら意地悪だなぁと返した。
不意に、強い風が吹いて、僕達の間を通り抜けた。通り抜けた風はそのまま参拝者の列を潜り抜けて、すぐ隣の木々を揺すった。葉のない禿げた木と、いち早く葉を生やして緑に茂る木が混ざりあって、揺蕩うようにその身を風に任せている。そして風は、雲のない青い空へと消えていった。
「…………行こっか」
「…………うん」
僕とアオイさんは手を繋ぐ。指の一つ一つを絡めながら、ぎゅっと離れないように握り合い、歩き始めた。
僕達の手は、寒さに負けないくらい暖かかった。
この先、どんな未来が待ち受けているのだろうか。
いや、どんなことがあろうとも、きっと大丈夫。
僕達なら。僕と君なら。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ねえ、お姉ちゃん。今、どこにいるのかな。
私ね、今、とっても幸せだよ。
お父さんとお母さんと、お義父さんとお義母さん、そしてリョウ君とこの子に囲まれて、まるで夢見たい。
ううん、でも夢じゃない。私、もうすぐママになるよ。
ママになったら、私が育ったあの場所のこと、お姉ちゃんのこと、お父さんとお母さんの子どもになった時のこと、リョウ君に告白された時のこと、これまであったことを、この子にたくさん教えてあげるんだ。
…………だから、お姉ちゃんに逢うのは、もう少し先になりそう。
でも、いつか、必ず逢おうね。私、逢いに行くから。その時は、お互いのことを、どんなことがあったのか、話そう。
──いつかまた、お姉ちゃんに逢えますように。
──そして、このまま、みんなとずっと、幸せに暮らしていけますように。
私のお願いごと、神様に届いて欲しいな。