◇◇◇◇◇◇◇◇
「……………………」
普段なら聞こえない時計の針がチク、タク、と動く音が、ハッキリと耳に届いている。
ふと時計に目を向けると、針が9時を指していた。いつもはアオイと母さんの3人で雑談を交わしている頃だろうから、それが無いせいで、余計に居間が静かに思えてしまう。
こんなにも静かなのは何時ぶりだろうか。
あの子が来る前でも、ここを建てたばかりの頃から僕達の会話が途切れたことはあまりない。
多分、これは母さんを先に寝かせて、1人で小さい缶ビールを味わっていたときと同じだ。
あの時も、チク、タク、という一定のリズムで時間が刻まれる音が鼓膜を震わせていた。そして、母さんが泣いている声も染み付いている。あれ以来、お酒は飲めていない。会社の付き合いでも健康のために控えてると話して避けている。飲めば、あの瞬間の音全てが聞こえてしまう。
「お父さん、どうしたの?」
声をかけられて顔を上げると、母さんが隣に座りながら心配そうに僕を見つめていた。意気消沈していたせいで、彼女が隣に来たことにすら気づけなかったようだ。
「……ちょっと、アオイのことが心配で……あの子が他人の家に泊まるなんて、初めてだから」
そう答えると、母さんは「お父さんは心配性ねぇ」と表情を明るくし、僕の手に自分の手をそっと重ねた。昔よりもハリがなくなって皺が増えている僕の手の甲に、彼女の柔らかい手の平の温かさが広がった。
「アオイちゃんなら大丈夫。相手の子、リョウ君って言う名前らしいよ。とっても優しそうな声してたから、きっと今頃お泊まりを楽しんでると思うよ。それにアオイちゃんがお付き合いしてる子だもん。絶対にいい子だよ」
「そうだといいんだけど」
「大丈夫、私にはわかるもん」
不安を募らせる僕を横に、母さんは首を傾げながら屈託のない笑顔を向けた。
彼女は昔からこうだった。子どもの頃からいつも明るい太陽のような笑みを浮かべていて、どんなに辛いことがあっても、前向きに、マイペースに生きてきた。
二度と子どもが産めない体になった時も、『これからは2人で幸せになろうね』と逆に僕を励まそうとしてくれた。本当は自分が1番傷ついているのに。
けれど、そんな彼女の明るさに、僕は何度も救われてきた。
流石に昨夜と今朝は駄目だったようで、今朝なんて、アオイちゃんに嫌われちゃったかな、と泣き顔で弱音を吐いていた。
「でも私、びっくりしちゃった。だってアオイちゃんに恋人がいただなんて知らなかったもん」
「それは僕だって同じだよ。帰りが遅くて、いきなり電話をかけてきたと思ったら、恋人の家に泊まってくるだなんて……前から親しい男の子がいるとは言ってたけど、まさかその子だとは」
なんで言ってくれなかったのだろう、という言葉を言いかけて息と共に呑み込んだ。
子どもには、親に言えない秘密の一つや二つあるに決まっている。子どもの世界は、単純そうで複雑だ。僕だってそうだったんだから、その気持ちは分かるはずだ。親に全部話すだなんて、流石に気持ちが悪い。
なのに、僕はあの子から信用されてなかっただなんて、勝手に思って、勝手に落ち込んだ。そんなことを考える自分が余計に気持ち悪く思えてしまった。
また気分が沈み始める。それに気づいているのかいないのか、母さんは「それにしても」と重くなりかけた空気を切るように緩い口調で言った。
「昨日は凄かったなぁ。あんなに怒ったアオイちゃん、初めて見た」
昨夜、僕達はアオイと喧嘩をした。原因は母さんの悪気のない一言で、それがアオイの逆鱗に触れてしまったらしい。
母さんは怒るアオイを目の前にどうしたら良いかとオロオロとしていた。僕だって、あんなに怒るアオイを見たのは初めてだったから、間に入って止めるしかなかった。いつも笑顔で優しいあの子が、あんなにも怒気を孕んだ顔をしたのは初めてだった。
売り言葉に買い言葉で、僕と母さんか言えば言うほど、アオイの怒りは増していった。
それで僕達に向かって『あの言葉』を吐いて、母さんが大泣きして、僕は思わずあの子の頬を叩いてしまった。叩いた後に、母さんに謝れと怒鳴ってしまった。部屋に逃げるあの子を引き止めることも、隣で泣き続ける母さんを慰めることもできず、僕はその場で立ち尽くした。
娘の頬を叩いたのも、怒鳴ったのも、悲しい目で睨まれたのも、生まれて初めてだった。ああ、なんか、初めてばっかり言っている。けど、本当に昨夜は初めてのことばかりだった。
今朝も一言も話さず、謝ることもできず、行ってらっしゃいすら言えなかった。ああいう時、どう接するのが正解なのか、分からなかった。
「けど、昔の僕達を考えれば、ああやってあの子が怒るのは別におかしなことじゃないと思うんだ」
「そうだよねぇ、普通は怒る時は怒るもんねぇ。私も、親と喧嘩したこと、何度もあったもん」
そう、親子喧嘩なんてさほど珍しいことじゃない。
僕だって、高校生の時は母親に向かってババアなんて言ってブチ切れられたことはあるし、父親と本気の殴り合いの喧嘩をしたことだってある。
多分、喧嘩なんて、誰だって1度はしたことがある、当たり前の出来事なはずだ。
でも、アオイと僕達親子の間にはそれがなかった。
あの子を向かい入れてから昨夜まで、僕達は喧嘩ひとつせずに暮らしてきた。ギリギリ手続きを終えて、戸籍上も本当の親子になったあとも、僕達の間には見えない境界線が無意識に引かれていた。
それがおかしいことぐらい、あの子が僕達に気を遣っていたことぐらい、薄々は気づいていたはずだ。
なのに、僕はあの子の気遣いに甘えてしまった。父親でありながら、衝突することを恐れてあの子に甘えてしまっていたのだ。その甘えの積み重ねが、昨日の件で一気に崩れてしまった。
…………いや、それだけじゃない。
あの子には、ずっと我慢をさせてきた。
我儘だって、悪口の1つだって、嫌な顔の1つだって、あの子は我慢していた。そんな色んなことが積み重なって、爆発したんだ。
作文の時だってそうだ。あの日からしばらくの間、アオイは僕達に何かを隠している気がした。明るく振舞っていても、時折見せる暗い顔は誤魔化せていなかった。あの子が周りと違うという理由で虐められているのではないかと心配になっていた。
心配だった。
心配しただけで、本人に聞くことすらしなかった。
──アオイ。もし虐められているなら、遠慮なく父さんに話してくれ。お父さんが絶対に守るから──
そんな台詞すら、僕は口に出せなかった。
僕には、娘のために誰かに拳を振り上げる勇気すらなかった。
「あ、鳴った」
母さんがソファから立ち上がり、レンジで温めていたものを取りにダイニングに向かった。
手の甲に彼女の熱がまだ残っている。それは徐々に冷めていって、元の手の温かさに戻った。
僕は俯き、彼女に聞こえない声で呟いた。
「……そうだよな…………嫌だよな」
こんなに甘えてばかりで頼りない、衝突すら恐れてなにもしなかったくせに、キレたら手を上げる。そのくせ、謝ることすら怖がってしない。こんな父親のいる家に帰りたくないのは当たり前だろう。
「はい、お父さん」
俯く僕の目の前に青いマグカップが差し出された。中から白い湯気がモワモワと湧き出て宙を揺蕩い、生暖かい匂いで鼻を擽る。どうやらホットミルクを作ってくれたようだ。
「悩んでる時はコーヒーよりもホットミルクが1番なんだって、しぃちゃん」
「……みぃちゃん」
マグカップを受け取ると、母さんはソファに腰を深く沈め、両手で赤いマグカップを持ちながら、アツアツなホットミルクにフーフーと息をかけて一口飲んだ。
しぃちゃん、そう呼ばれたのは久々だった。
みぃちゃん、そう呼んだのは久方ぶりだった。
小学校の同級生で、みんなから仲間外れにされていた者同士、クラスの捌け口にされて孤立していた者同士、そしてお互いに唯一の友達と呼べる存在だった僕達は、親しくなった時からそう呼び合っていた。
貸本屋や図書館で本を借りて団地の踊り場で読み合った時も、駄菓子を分け合った時も、白黒テレビを一緒に観ていた時も、恋人になってからも、同居してからも、結婚してからも。
アオイを引き取って、お父さんとお母さんになるまで、そう呼び合っていた。
「…………みぃちゃん」
汚れのない真っ白なミルクの表面を見つめながら、僕は彼女の名前を呼んだ。
彼女は口からマグカップを離して、「しぃちゃん、覚えてる?」と、僕が話すよりも先に口を開いた。何を、と訊くと、僕を見ながら「家出した時のこと」と微笑んだ。
「しぃちゃんったら、いきなり私のところにやってきて、今日1日泊まらせて欲しいって言ってきたんだよ」
「……あったっけ、そんなこと」
「あったよぉ。あまりにも突然だったから、私も部屋の片付けなんてしてなくて、それで大変だったんだよ?」
ぷりぷりしながらみぃちゃんは僕を睨んできた。
嘘だった、本当は覚えている。あの時は両親と喧嘩して、本気で二度と戻らないつもりで家を飛び出した。度々衝突することはあったけど、後にも先にも家出を決行するくらいの大喧嘩をしたのはあの時だけだろう。
あの件で、みぃちゃんだけでなく、彼女の親にも多大な迷惑をかけてしまい、後日、両親が訪ねてきて一緒に頭を下げた。確か高校生ぐらいの時の話で、両親は破天荒エピソードとしてグチグチネチネチと、懐かしい思い出のように笑いながら話している。
「……なんだか、似てるよね」
「似てる?」
「しぃちゃんとアオイちゃん。いつもは優しいけど、思い切った時には大胆な行動をするところ、そっくりだよ」
みぃちゃんは表情を変えて、今度はおどけた笑みを向けてきた。いつもは天然っぽい彼女は、たまにこうやって僕にこういう笑顔を向けてくる。
「そういうみぃちゃんだって、あの子のマイペースなところとか、本当に君にそっくりだと思うよ」
僕がそう返すと、みぃちゃんは「うん」と笑みを深めた。思わず僕も釣られて笑った。
「アオイ、僕達にそっくりだね」
「当たり前だよ。だって、アオイちゃんは私としぃちゃんの娘なんだもん。初めて出会った時から、あの子は私達の子どもだって、運命感じたもん」
みぃちゃんが子どもを作れない体になってから、僕達は2人の時間を過ごしていた。将来の計画も何もかもが白紙に戻って、1ページ目からまた始めた。このままずっと、2人きりで生きていくと思っていた。
ある日、縁があって『あの場所』を尋ねることになった。そこで暮らす子どもたちの様子を観る中で、僕とみぃちゃんはあの子に出会った。
みんなが遊ぶ中、1人だけ絵本を読んでいたあの子は、僕達に気がついて首を傾げた。みぃちゃんが手を振ると、あの子は僕達に手を振り返してくれた。
その姿に、みぃちゃんはときめいた。あの子は運命の出会いだと、帰り道でずっとトキメキを語っていた。けど、僕も同じだった。あの子を見た時、僕の心の奥にはフワフワとしたものが浮かんできた。みぃちゃんと同じで、僕もあの子にときめいていたのだ。
……………………ああ、そうだ。
あの子は、間違いなく僕達の子どもなんだ。
血の繋がりとか、そういうものじゃない。
アオイは僕とみぃちゃんの、大切な子どもなんだ。
「……私ね、アオイちゃんに怒られた時、ごめんねっていう気持ちと一緒に、嬉しいって思ったの。あんなに素直に自分の気持ちを吐き出してくれたことなんてなかったから、やっと、アオイちゃんも私に気持ちをぶつけてくれるようになったんだって。それに、彼氏君のこともそう。いつも何でも話すあの子にも隠し事ができたんだって、嬉しくなっちゃった」
「だからね」と言葉を繋げた。
「私、絶対にアオイちゃんに謝る。ごめんねって言って、これからも一緒に暮らそうって伝えるの」
「……僕も、叩いたこと、謝らないといけない。それで僕達はアオイのことを捨てたりなんかしないって、伝えるよ」
君は他人の子じゃない。僕達の娘だ。
怒っていい、我儘でいい、辛い時は笑わなくていい、不満があれば言っていい。
だから、これからもクリスマスも花見も、一緒にやろう。彼氏君を連れてきて、僕達に紹介して欲しい。
「しぃちゃん」と呼んだ彼女は、僕に片手を差し出し、小指を立てた。
「指切りしよ? 絶対にお互いに謝ろうって、約束しよ」
「……うん」
僕も片手を差し出し、彼女の小指に自分の小指を絡ませる。
指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます。
ゆっくりと、その言葉を口にしながら手を上下に振る。
振り終えたあとは、針千本って本当に飲めるのかなとみぃちゃんに訊かれて、僕は絶対に破らないから飲むことは考えなくていいよと返した。みぃちゃんはそうだよねと微笑んだ。
──アオイ、ごめん。僕は、僕達は、君に謝らないといけない。
──だから、早く帰っておいで。
──ここは、君の帰る場所だ。
──僕達は、君の帰りを待ってるよ。
──だって、僕達は、君の親なんだから。
──僕達は、君の味方なんだから。
◇◇◇
「おじいちゃん、おじいちゃん」
暗闇の中で、聞き覚えのある声が僕を呼んでいる。重い瞼を開くと、ぼやけた視界の中に、大好きなあの人のシルエットが浮かんでいた。
それは意識が明確になるに連れて徐々に形を作っていって、霞が晴れると、心配そうにこちらを見つめるおばあちゃんの姿になった。ソファに並んで腰をかけていたため、彼女は少し下から覗き込む姿勢で僕の顔を見つめていた。
「ああ、おばあちゃん。おはよう」
「おはよう」
おばあちゃんは口の端っこを上げて、皺を作りながら微笑んだ。昔と比べて腰が丸くなって皺も増えた。髪も鮮やかな白髪が増えてきている。けれど、優しい声はあの頃と変わらなくて、むしろ若返ったかのように透き通っていた。
「おじいちゃん、なんだか嬉しそう」
「そうかな」
「うん」
おばあちゃんは不思議そうに頷いた。
「実はさっき、昔のことを思い出していたんだ。ほら、覚えてないかい。初めてアオイが怒ったときのこと。あの時の君、凄く泣いてたのに、アオイが気持ちをぶつけてくれて嬉しいって話してたろう」
「えー、泣いてたっけ?」
「泣いてたよ。もう子どもみたいに」
「……覚えてるよ。うん、泣いてたね、私。仲直りした時も泣いてたの、全部覚えてるよ」
「……あれからだよね 」
「うん、あれから」
おばあちゃんは頭を上げると、おどけた笑みを向けてきた。
あの一件の後から、アオイは僕達にあまり遠慮をしなくなった。遠慮をしないというのは悪い意味ではなく、甘えるようになったとか、我儘を言うようになったとか、喜怒哀楽を見せてくれるようになったとか、言いたいことを言ってくれるようになったとか、そういう意味でだ。
あれから少しずつだけど、アオイは僕達に『自分』というものを見せてくれるようになった。遅れたけど反抗期も無事にやってきて、一時期父親として娘とのやり取りに困り果てたこともあった。
けど、その反面、僕は確かな幸せというものを感じていた。言い合いや喧嘩をするようになった分、前以上にあの子とやり取りをしている気がした。おばあちゃんも同じで、失言した時はハッキリ言われて、謝って、そして笑っていた、
10年以上も僕達の間にあった溝は塞がった。ペリペリと剥がすように、足でザラザラ消すように、白っぽくて薄い境界線は無くなっていた。
今、あの子はリョウ君と子ども達と一緒に離れた場所で暮らしている。気がつけば、初めて喧嘩をした時の僕達と同じくらいの歳になって、三児の親として、リョウ君と2人で頑張っている。そしてその苦労を、遊びにきた時に吐き出している。それを聞くのが、僕達の楽しみのひとつになっていた。
「今日はお出かけだっけ」
「うん、そうだった気がする」
ちなみに今日、アオイはリョウ君とともに出かけている。ずっと探していた『ある人』に逢いに行くらしい。その人が一体どんな人なのか、アオイにとってどれほど大切な人なのか、リョウ君には話しているそうだけど、僕達には「ちゃんと会えたら教えるから」と笑ってはぶらかしていた。
いい。あの子の話したいタイミングで話してくれればいい。僕達はいつでも君が話してくれるのを待っている。そのまま話さないのもいい。どんな答えを出しても、僕達は受け入れる。
「ちゃんとお話できたらいいね」
「そうだね」
遠くを見るように、視線をローチェストの上に並べた写真立てに向ける。初めて2人でデートに行った時の写真、アオイが家にやってきて初めて撮った家族写真、あの子の入学式と卒業式の写真、安藤家の皆さんと撮った結婚式の写真、可愛い孫達の写真…………隣には、まだまだスペースがある。きっと、これからも増え続けるだろう。
そして、僕はそのまま視線を壁の上部分に向けた。40年以上もここにいる針時計が、昔と変わらずチク、タク、と音を立てて時を刻んでいる。僕達の歴史が、沢山のものが、この音と共に刻まれてきた。
「しぃちゃん」
不意に、おばあちゃん……みぃちゃんから名前で呼ばれた。顔を向けると、あの頃よりも歳をとって、けれど何一つ変わっていない彼女の微笑みがあった。
「これからも、ずっと幸せに過ごそうね」
「…………うん、みぃちゃん」
できるかな? できるとも。
僕とみぃちゃんなら。
僕と君なら。