※この作品はR-18です。

オリジナルエロ話   作:歩輪気

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長くなったため、4話に分けて投稿します。

今回の話には、売春描写、喫煙描写、児童虐待に関わる描写がございます。苦手な方はご注意ください。

この物語はフィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係ありません。

また、一部不快になる表現があると思いますが、本作に差別・偏見・犯罪を助長する意図はございません。




私と彼と霙 上

 

 ◇◇◇◇◇◇

 

 

「ホイクエン?」

 

 初めて聞く言葉に首を傾げると、お母さんはうん、そう、と返した。

 

 その日は、濃い灰色の雲が空を包んでいて、白い雪がパラパラと降っていた。自分達が住んでいるここは、この時期になると沢山の雪が降る。そして雪の日は危ないからと、いつも家に閉じ込もっている。けど、たまには気分転換でもしよっかと、今日は珍しくお母さんが散歩に連れて行ってくれた。

 

 寒い風と冷たい雪がヒューヒューと吹いて体を凍えさせようとする中で、ジュンとお母さんは手を握って歩いた。道路に積もる雪を靴の裏でぎゅっぎゅっと踏み固めながら雪の唄を歌い、お父さんは今頃寒い中で仕事をしてるんだろうねとか、今日は温かいものでも作ろっかとか、手をゆらゆら揺らしながらお話をしていた。

 

 お母さんと2人きりのお散歩。雪の中でのお散歩。

 ジュンにとっては、なによりも楽しい瞬間だった。

 

 その途中でヘンテコな場所を見つけ、思わず足を止めた。

 そこはジュンの身長よりもうんと高い格子状の柵が周りを囲っていて、爪先立ちで中を覗くと、広いお庭がひろがっていた。お庭には公園のと同じ滑り台や鉄棒があって、お庭を挟んだ向こう側の大きな建物の窓からは、知らない子たちの姿が見えた。お母さんに訊いてみると、ここはホイクエンという場所だと教えてくれた。

 

「ホイクエンて、なーに?」

 

 お母さんはうーん、と困った顔をしたけど、少ししてから、お留守番する場所、と答えた。

 ホイクエンは、とっても忙しいお父さんお母さんが自分の子どもをお留守番させる場所で、子ども達は、お昼寝やお遊戯をしながらお父さんお母さんを待つらしい。

 

 ジュンは、とっても不思議だなと思った。

 

 ジュンは、生まれてからずっとお家でお母さんと一緒にいる。部屋の中でお母さんとお話したり、テレビを見たり、絵本を読んだり、ときどき一人でお留守番をしている。外へ出るのは滅多になくて、だから、ホイクエンのような場所があることを初めて知って驚いた。

 

 初めて知ったホイクエン、ジュンは幼い心ゆえに興味を唆られた。

 

「おかーさんは?」と訊くと、なにが? と返ってきた。

 

「わたし、ホイクエン、いかないの?」

 

 そう言った瞬間、お母さんの顔が怖くなった気がした。口が結んだように一直線になって、目がツンツンに吊り上がった。黒く影を作った真顔で見下ろしている。手を握る力も強くなって少し痛い。このままだと潰れてしまうかもしれないと思うくらい。

 

 多分、言っちゃいけない事を言ってしまったんだと、震えながら唾を飲んだ。

 

 お母さんはいつも、怒ると怖い。

 笑顔がなくなって、目がツンツンになって、大きな声で怒る。いつも怒ってばかりいるお父さんと違って、お母さんはジュンと2人きりのときは優しい。けど、怒ると手や腕をギューッと握ってくる。悪いことをすると、お父さんみたいに頭やほっぺを叩くこともある。

 叩かれたときは、すごく痛い。泣くと、ジュンが悪いんでしょって言ってもっと怒って、もっと叩く。お父さんがうるさいって言うともっともっと怒って、それでたまに喧嘩になっちゃって、お母さんが叩かれることもある。でも、そういう日は、裸のお母さんがお父さんの上に乗って声を上げて仲直りをする。2人とも、隣で寝たふりをしているジュンが見ていることに気がついてなかった。

 

 

 ──ねえ、ジュン。

 

 

 とにかく謝らなくちゃ、そう思ってごめんなさいと頭を下げる前に、お母さんがジュンの名前を呼んで、両手で小さな手を握りながら、目の前でしゃがみ込んだ。

 

 白い雪が帽子も何も被ってないふわふわな髪に降り掛かっていて、睫毛も少し白くなっている。その下にある細い目がジュンを見つめていた。

 

 

 ──ジュンは、お母さんと離れて保育園に行きたい? 

 

 

「はなれる?」

 

 

 ──そう、保育園はね、しばらくの間、お母さんと離れないといけないの。預けるっていうことは、離れるってことなの。離れたら、建物の中で知らない子とお留守番しないといけないの。

 

 ──お母さん、ジュンがいないと寂しいなぁ。

 

 

「さみしー?」

 

 

 ──寂しいよぉ。お母さん、ジュンが家にいてくれるから頑張れるんだもん。1人きりになるの、とっても不安で寂しい。ジュンも、お母さんと離れたら寂しいでしょ? 

 

 

 両手を掴むお母さんの手は、冷たいけど柔らかくてふわふわとしている。顔も笑っている。でも、目はなんだか泣いている気がした。怖がっている気もする。寂しいって言って欲しそうにしていた。

 

 ジュンは、よくお母さんから昔の話を聞かされていた。

 

 お母さんの両親は、とっても厳しい人だった。特にお母さんはキョウダイの中でも1人だけ頭が悪くて、いつもいつも冷遇されていた。どれだけ努力しても、他のキョウダイみたいには上手くいかなくて、怒られてばかりで、誰もお母さんの味方をしてくれなかった。馬鹿だ馬鹿だと言われ続けて、ずっとずっと一人ぼっちで寂しい毎日だった。

 だから、家から離れてお父さんと結婚できたことと、ジュンが生まれたことは、お母さんにとっては凄く幸せなことだったと、お母さんは話していた。

 

 正直、幼いジュンには少し難しい話だから、全部を理解できてるわけじゃない。でも、話している様子から、お母さんが泣きたくなるくらいに辛い目にあったということは分かった。

 

 もし、ここでお母さんと離れても寂しくないって言ってしまったら、本当に泣いちゃうかもしれない。また怒ってしまうかもしれない。

 お母さんが怒るのは怖い。

 けど、お母さんが泣いちゃうのは、怒るよりも嫌だった。

 

「……うん、さみしー。おかーさん、いっしょにいたい」

 

 そう言うと、お母さんは、でしょぉ! と周りに聞こえるくらいに大きな声を上げて抱きしめてくれた。

 ほっぺは凄く冷たいのに、なんだか凄く温かい。よかった、お母さんが喜んでくれたと、ほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 ──いい? ジュン。世の中にはね、お父さんもお母さんも、どっちもいない子が沢山いるの。

 

 ──それって、とっても可哀想だよね。

 

 

「……うん、かわいそー」

 

 

 ──それに比べたら、我が家はどっちもいるから、全然幸せだよね。そうでしょ? 

 

 

「うん、しあわせ」

 

 

 ──ね? お父さんもお母さんもいるジュンは、誰よりも幸せさんなんだよ。

 

 ──だから、ね? あんたにはお母さんがついてるからね。

 

 ──お母さんが傍にいるから、心配しなくていいんだよ。

 

 ──だから、ジュンもお母さんの傍にずっと居てね? 

 

 

 耳元で囁くと、お母さんはもっと強く抱きしめてくれた。ちょっと痛いけど、絶対に離さないからと言ってくれている気がした。

 だから、ジュンも「うんっ」と答えて、お母さんの体をぎゅーっとした。ずっとこうしていたいな、と心の中で呟いた。

 

 

 ──大丈夫。あたしは…………意地悪なお母さんにはならない。

 

 ──なって、たまるもんか。

 

 

 お母さんの呟きは、くっつくジュンには届かず、しんしんと降る雪の中に溶けていった。

 

 

 

 ◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 澱んだ空気の中に、精液の生臭さと汗の酸味が入り混ざっている。鼻が曲がりそうな臭いとは、こういうのを言うのだろう。

 

 ここには窓がないので、薄い色の室内照明が部屋を照らしている。もしも窓があったとしたら、今頃部屋中に舞っている塵埃の一つ一つが朝の光によって白く輝いていたに違いない。

 

「あっ、あっ、んぉ、ん……ぁぁ゙っ!」

 

 見ているだけで息が詰まりそうな、ひっそりと佇む場末のラブホテルの一室。その空間の中で、相手の男は無我夢中に腰を振り続けている。埃が舞おうが鼻が歪むような匂いが立ち込めようがお構い無しに情欲を燃やしている。かれこれ数時間はこの有様だった。

 男は、加齢臭の漂う粘つく汗を全身から流している。獣のような荒い呼吸とともに口から漏れた涎がうつ伏せに寝そべっている私の背中にべっとりと滴り落ちる。冷えているような、けれど生暖かいそれは、肌に浮き出た溝に沿って流れ落ちる。

 

「いいっ、ん…………あんっ! ふぁ……! いっ…………あぁんっ!」

 

 男が気持ちいいか訊いてくるので、喘ぎ声で返事を返した。抱かれる私は、精一杯に快楽に浸った顔を浮かべ、雄が興奮するような高い声を上げた。男は嬉しそうにニチャリと黄ばんだ歯を見せて私の臀部をリズム良く弾いた。たまに息が詰まると、フンフン、フガフガと鼻息を洩らしていて、項を舐めるように掠める。

 

「あ、い……んんぅ゙っ!」

 

 本当は気持ちいいとか、そういうのは全くない。

 膣穴の中を男の太った肉棒が潜り込んで、私の体の中で何度も往復する。

 ただ、それだけのこと。

 そこに快感はない。

 けど、ここで喜んでおかないと、最悪、ケチられる可能性がある。折角要求通りにセックスをしたのに、反応がしおらしくて萎えたとか、そういう理由で。

 

「あ、や……んぁ、はぁ、ぉ、お゙っ……!」

 

 男が背中に体重を預け、肥えた腹部を押し付けながら胸を揉みしだいてきた。

 蚊に刺された痕に触れるかのように、爪先で乳首をぐりぐりと弄ってくる。如何にもこうすれば気持ちいいだろと雑に指先を遊ばせていて、私が本当に善がっているかどうかなんて気にしていない。 俺はこれが一番得意なんだと言わんばかりに、私の胸を根元から乳首の先にかけて揉み搾る。

 これなら、以前相手をしたバツイチのサラリーマンの方が上手かった。あれはあれで、ひたすら逃げた奥さんの名前を呼びながら私の顔面に精液をぶっかける変な性癖の持ち主だった。あの様子だと暴力でも振るって逃げられたのだろう。ぶっかける節々で奥さんのものと思われる女性の名前と汚い言葉を吐いていた。性格もなかなかで、出したあとは何故か私に向かって説教をかましていた。君はこんなことして恥ずかしくないのかとか、私が君の親だったら悲しくて泣いてしまうとか、まだ間に合うからこんなことはさっさと卒業しなさいとか、女を買った自分を棚に上げてクソ真面目な顔で、上から目線の口調で。ぶっかけよりも、説教の時間の方が長かった気がする。

 

「んんっ、ぃ、ぃく……んぁっ、あ、あっ、あんっ…………ひぃん、あぁ……あぁん」

 

 男が胸を鷲掴みにしたまま、自分の顔を私の顔横にくっつけきた。耳の穴を分厚い舌でゴソゴソと弄り、そのまま顳かみ辺りをなぞるように舐めて頬に肉厚な唇を押し付けてきた。

 ぶちゅ、むちゅ、そういった音が真横で響く。

 生ぬるい熱が頬に広がり、荒い息が目を乾かす。

 

「んっ、んちゅっ……あぅ、んんっ、ちゅる゙……っ! ん゙っ、ちゅる、れろっ……!」

 

 胸から手を離したかと思うと、今度は私の頭を掴んで強引に横に向かせてキスをしてきた。朝特有のヘドロが溜まったような苦い唾液と口臭が口の中に広がり、あっという間に全体に染み渡る。

 男は満足しているようで、べろべろと舌先で私の口の中をぐちゃぐちゃにしながら、腰を揺らして自慢のペニスで奥を突き続けた。

 

「んっ、んゆっ、ふぁ、あぁぁ……っ!」

 

 男は私に体重を全て任せると、ピストン運動を強めて挟み潰す勢いで大きく腰を振りかぶる。鈍いペニスに対して、肉厚な腹と股間部を大胆に打ち付けて脂肪を揺らす。それらが私の臀部とぶつかって、突き上がる私の尻肉もベッドの軋みとともに大きな波を打つ。

 

 体の中で只管に肉の棒が暴れているのは腹越しに分かる。肉襞がゴムに被われた男のものを咥え、とりあえず形だけは取り繕うように絞る。内臓を掻き乱されるような違和感はあるが、ここを耐えればどうとでもなる。

 

 耐えればいいのだ。こんなものは、終わるのを待てばいい。

 

「あ、あ…………あぁ゙っ!」

 

 男が深く腰を突き刺し、全身で私をきつく抱きしめる。それに合わせるように、私は自分の体を弓なりにさせて喉元を露わにしながら甲高い喘ぎ声をあげてみせた。

 上擦った変な声。

 部屋中に、私の悲鳴と男の雄声が響き渡る。何度も喘いだせいで男の声は風邪でも引いたかのように嗄れてしまっている。歳の割には高めな声は、ガラガラと掠れたものに変わっていた。

 体の中で、男の汁が鈍い音を立てながらゴム越しに排泄されている。生暖かいものが膣内で膨らんでいるのが収縮と弛緩を繰り返す膣の感覚で分かる。

 男が腰を震えさせる度に私の体も跳ねた。こういう時は、相手に身を任せていた方が楽だ。

 

「あ、あぁ…………ぁ゙ぅ」

 

 どさりと男が横に倒れ、その勢いで萎えたペニスがヌプリと音を立てて膣穴から抜け出た。

 

 コンドームが装着されたペニスの先端には、ぷくりと膨らんだ小さな球が涙の雫のようにだらりとだらしなく垂れていた。薄桃色のゴムの表面からは、白濁色の精液が透けて見えている。数発出してこの量、どうやら本当に性欲だけは立派らしい。

 

 男が息を切らしながら私の頭を撫でた。さっきまでの強引で暴力的なセックスをしていたのが嘘のように、分厚くて太い指先で優しく髪を梳く。男は黒いビー玉のような小さな目で私を捉えながら、またにちゃりと歯を見せた。

 

 

 ──飲んで。

 

 

 まるで機械のような無機質な声で、強請るような笑みを浮かべた。

 

 朝までの数時間、プレイはあっちの自由、代わりにゴムやホテル代は全額負担するし、それなりの報酬を渡す。

 

 それが今回、男が提示した内容だ。

 

 

 ──上乗せするから、飲んで、舐めて、綺麗にして欲しい。

 

 

 撫でている手に力が入る。口調は優しいのに、手は早くしろと内側の本音が洩れ出している。

 

 ああ、これ、拒否したらやばいな。

 

 疲れた体を這うようにさせながら男の股座に移動し、指先でコンドームの口を摘み、中身が出ないように少しずつペニスから剥がしていく。

 完全に離れたところで先端を摘んで逆さにし、中の精液を舌の上に乗せた。半固形の粘着質な白濁液は、粘質な糸を引きながら私の舌に垂れ落ち、苦味と少しの甘みを舌上に広げ、そのまま滑るように喉奥へと下っていった。

 

 何億匹もの種が私の胃の中で灼熱のような液に溶かされる。理科とか化学とか、ほぼ不登校だったからよく分からないけど、胃液とか胃酸とかは知っている。異物だろうが汚物だろうが、殆どのものをジュワジュワと溶かしてしまうらしい。

 

「んぁ…………」

 

 口を開いて、目線の先で見下ろしてくる男に見せつける。一部始終を観ていた男は唸り、鼻の下を伸ばし、再び肉棒を勃起させていた。

 嘲笑するような笑顔。俺は金にがめつい惨めな路上の売春女にさえ優しく接しているのだと、丸い腹の裏に自己愛が渦巻いている。

 

「んむっ……」

 

 男に視線を向けつつ、ゴムの潤滑油でベトベトに濡れたペニスを咥える。口の中に再び生臭い味が広がった。私が咥えている最中、男は体を顫わせながら微笑んでいた。

 

 ◇

 

 男のペニスを含んで綺麗にしてから少しの時間が経った。

 

 男はシャワーを浴び、バスタオルを巻いた姿で一服しながら、一方的に話しかけてきた。君のような存在には本当に感謝している、君のように自分から体を売って抱かせてくれる子がいるから、私のような人間は卑劣な性犯罪者にならずに済んでいるんだよと、口の中で唾液が糸を引く粘った声で言った。

 そのあとは、昔からミーハー被れな洋楽の良さが分からないだとか、パンクというものは根暗で学と品のない奴らの時代遅れなお遊びだとか、自身の不運を時代と環境のせいにする負け犬には心底うんざりするとか、中身のない話題を、時折こちらをチラチラと見ながら話していた。

 多分、ちゃんと聞いて欲しいとかきちんと反応して欲しいとか意見をして欲しいとか、そういうのはない。ただ日頃から腹に溜め込んでいる思想や鬱憤を、とにかく生きた人間に向かって吐き出したい、批判は受け付けない、俺の話を聴いてくれ、という感じだ。

 だからなのか、こっちが聞き流しながら適当に相槌を打つだけでも、男は満足そうに言葉を跳ね、数本を灰皿に押し付けて話しを続けた。治まりが効かないのは性欲だけではないらしい。臭いのきつい煙が部屋の中を濃く揺蕩った。

 

 あれやこれやと口に出して清々したのか、男は着替えを終えると満足げに私に金を差し出した。金額は1万円札が数枚、どれも折り目のないピン札。変な帽子を被った昔の人じゃなくて、偉い小説家の絵が書かれた万札。最後に掃除してくれたお礼に3000円追加。薄い束でベッドにしなだれる私の頬を撫でてから、顔に被せるように置いていった。風呂上がりの指で触ったせいか、男の匂いが染み付いた札は若干湿っていた。

 

 

 ──良かったらまた相手をしてくれないかな。今度もいい額を支払うよ。

 

 

 そう言い残して、男は荷物を纏めて一足先に部屋を後にした。もう二度と会うことはないと心の中で呟きながら、「また会えたら」と去る背中に小さく投げた。

 確かに今までの客の中では結構羽振りがいい。だけど、長い時間拘束されるのはきついから、もう相手にしたくない。

 

「……だるっ…………」

 

 男が去った後、私は札を払い除けて汗と体液が染み付いたベッドの上に両腕を開くようにして仰向けになった。チッ、と軽く舌を鳴らすと、精液の苦味が再び味覚に広がった。歯の裏側から喉の奥にかけて粘ついた物が貼り着く異物感がある。食道から漂白剤に似た臭いが這い上がってくる。

 

 行為を終えて気が抜けたのか、全身が一気に腑抜けた。そしてこのままベッドに頭から足先までの全てが沈んでしまいそうなくらいな、どっとした疲れが襲ってきた。長い時間身体を酷使したせいか、節々に地味な痛みも走っている。

 

 他人とのセックスの後はいつもこうなる。ずっと意識を飛ばしていた反動で、重たいものが全身にぶら下がって、内側の内臓や筋肉が石のように硬直して重石になって、体の自由を奪う。

 

「……はぁーっ」

 

 深いため息をつきながら、ゆっくりと瞼を閉じて深呼吸を繰り返す。体液と煙草と埃で濁った空気が肺の中を満たして、吐息とともに外へ逃げていくのを感じ取る。こうすることで少しはこの疲れを楽にできる。

 

 赤の他人とのセックスで快感を覚えたことはない。ただやっているだけ。私自身が心の底から性的に気持ち良くなりたいとか、そういう気持ちは湧いてこない。終わったあとに残るのは全身を包む倦怠感だけだ。正直、やらないならその方がいい。

 ただ、『普通』のアルバイトすらまともにできない私には、知らない男に体を売るしかお金を稼ぐ方法を思いつかなかった。疲れとかそういうものを込にしても、これが私に今やれる方法だ。オマンコは女の武器、そう誰かが言っていた気がするけど、まさにその通りだ。

 そもそもこんな汚れきった体に今更、貞操とか純潔とか、そういう拘りは全くない。私にとって好きでもない相手とのセックスは、特別なものでもなんでもない。相手がやってだす、それだけだ。

 

『面接のときにねー、君はこの業界には不向きすぎてダメだって断られたんだ。こういう仕事は、ただ頭真っ白にして身体を売ればいいってわけじゃないから、少しは頭が良くないといけない、体使えば楽して稼げるとか軽い志でやっていい仕事じゃないって、店長さんに言われちゃった。確かに私、頭良くないし、勉強も得意じゃないよ。けど、別に楽して稼ごうなんて思ってなかったんだけどなー』

 

 ……そういえば、あの子は元気だろうか。

 

 天井の模様を呆然と見ながら、ふと胸の内で呟いた。

 

 結構前に、饐えた匂いが鼻を突く裏路地で、隣に立っていた子にティッシュを貸したことがあった。鼻水が酷くて、運悪くティッシュを忘れたというその子とは、数日後に街中で偶然再会した。私は言われるまで気づけなかったけど、向こうは顔を覚えていて、信号待ちの途中で後ろから肩を叩かれた。別に親しい仲だったわけじゃないけど、どうしてもお礼がしたいからと、近くのベンチに座り、一緒に缶コーヒーを飲んだ。

 

 ふわふわとしたウェーブのかかった長い茶髪を風に揺らしながら、その子は自身のことについて語った。

 

 両親が早くに死んで、親戚をタライ回しにされてきた。ずっと腫れ物扱いで、怒られてばっかで、嫌なことも沢山あって、学校を卒業して早々にほっぽり出されるように1人で外の世界に投げ出された。けど、右も左も分からなくて、頭も悪くて、色んな人に騙されて、借金もして、アルバイトだけじゃダメで、その結果、自分から体を売り始めた。体だけは丈夫だから、これで何とかその日の生活費を稼いでる。たまに変なお薬を飲まされたり打たれたり、酷い時はお尻の穴に突っ込まれたりして、凄くハイになったりエッチな気持ちになったりすることもあるけど、次の日にはケロッと治っちゃう。ほんと、体だけは丈夫。うちにお客さんを連れてきてって面接落ちした店の店員さんに頼まれることもあって、その日は特別にバイト代が貰えるし、たまに顔見知りの店員さんがエッチする代わりに部屋に泊まらせてくれることもあるんだ。

 

 ……生きるためだったり、遊ぶ金欲しさだったり、男に貢いだり、色情狂だったり、依存性だったり、自傷行為だったり、みんなが体を売る理由は様々だ。

 

 その中でも、あの子はこれ以外しかなかった、というタイプだった。他の選択肢がなかったから、こうするしかなかった。他の術を知らなかった。

 ちょっとだけ、昔の私に似ている気がした。

 

『でね、これが私の思い出』

 

 使い古した財布に1枚だけ残った、赤ん坊の自分と両親のスリーショット写真。これだけが自分の持つ唯一の思い出。いつかお金を貯めて高校に行きたい、それで卒業したら、故郷に戻って幸せに暮らしたいと語った。

 

 陽の下で伸びをしたときに見えたあの子の手首の皮膚は、平べったくてスベスベとしていて、陽の光を白く跳ね返していた。

 

 傷一つない、とっても、綺麗な手首だった。

 

 微糖のホット缶コーヒーに舌を赤くしながら笑っていたあの子とは、その日を最後に会っていない。連絡先は知らないから、今どこで何をしているのか、生きているのかすら分からない。

 

「……帰ろ」

 

 早く帰って眠りたい。

 頭の中で独りごちながら、ゆったりと起き上がり、体を引きずるように浴室に向かい、熱いシャワーを浴びた。雨のような多量の水粒とともに、精液と汗といった全身にまとわりつく不快感が流れ落ちる。薄く目を開くと、湯気が眼球を掠めてじわりと温める。この瞬間は、素直に気持ちがいいと感じることができる。それは性的なものというよりは、幸福感とかそういった類が当てはまる。

 

 シャワーのあとは口の中の後処理をし、諸々のことを済ませてから私服に着替えて部屋を後にした。受付口で手こずるカップルを横目にホテルの入口を潜ると、突然襲う外気の冷たさに思わず肩が竦んだ。この数日で気温はガクンと下がり、空気は一気に冷え込んだ。空は暗めな雲に覆われている。これでまだ本番じゃないというから、先が思いやられる。

 路地を抜けると、拓けた繁華街に出た。都市部とまではいかないけど十分に栄えているといえるこの繁華街は、朝の時間帯はまだ人は疎らだけど、昼頃になれば混み合うだろう。

 この稼ぎを始めて約数ヶ月、私は月に数回の頻度で街の群衆に紛れる。朝昼は一般人が行き交う普通の街だけど、夜になれば一風変わる。いわゆる、大人の蝟集する街へと変貌するのだ。ひとたび路地なんかに踏み入れれば、私のような女の子が列を作って待っていて、昨夜なんかは一番の稼ぎ時だった。

 路地裏には暴力という名の異臭が漂い、いつも女とポイ捨てされた吸殻が鎮座している、それがこの街の裏の顔だ。

 

 そして表では、年に一度の大イベントが間近に迫っているのもあって、あちこちがクリスマス関連のもので彩られていた。

 軒下にクリスマスツリーを飾る店。ガラスにポスターを貼り付けてイベントを告知する店。紙1枚ずつに手書きした『MERRY X MAS』の文字を紐でぶら下げたパン屋。どこもかしくも、白ひげの老人とトナカイと赤と緑の二色が支配していた。

 ここだけじゃない。世の中みんなそうだ。

 家から1番近いスーパーにもクリスマスツリーが飾られているし、一軒家の庭柵には紐のような電飾が括り付けられていて夜な夜な光っている。

 この時期は毎年こんな感じだ。それこそ、私が幼い頃から、ずっと。みんな、生きることを楽しんでいるかのように、周りに幸せを見せつけてくる。

 

 歩いている途中、食欲を唆る香ばしい匂いが漂ってきた。どうやら目と鼻の先にあるファストフード店から洩れてきたようだった。覗くと、朝食代わりのハンバーガーを口に運ぶ客がチラホラと見えた。

 

 そうだ。どうせならお土産でも買って帰ろう。今日は多めに稼げたから、ちょっと使っても問題はない。最近は食べてなかったから、偶には買っていくのもありだ。

 

『ありがとな』

 

 テーブルで肩を寄せ合いながら笑う彼の姿を想像し、少しらしくない気分を浮かせながら、自動ドアを潜った。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 若い女性店員の高い声が響いた。レジカウンターに立つ彼女のスマイルはどこか引き攣っていて、寝不足気味のようにも見えた。

 暖かな店内には、食事の最中の客が数人、テーブル席とカウンター席に腰掛けていた。ハンバーガーとコーヒーのセットを目の前に、携帯電話の画面をじっと見つめながらボタンをポチポチと操作する客もいれば、単行本を黙読している客や、携帯ゲーム機をしながら寛いでいる客、店内の喧騒に紛れてお喋りを楽しむ客もいた。

 

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「すみません。AバーガーのセットBバーガーのセットをひとつずつ。それとこのサイドを2つ……あ、やっぱり4つください。あとこのデザートも2つ……あ、あとこれも」

 

 かしこまりました、と店員がレジを打って値段を告げた。かなりの額になった。ちょっと買いすぎたかもしれない。

 

 注文を終えて順番を待つ間、私は窓際の、ちょうど外が丸見えなガラス壁の近くに背中を任せて呼ばれるのを待った。

 窓の外では、私服姿の男女が数人行き交っている。そして壁を挟んですぐ目の前を、2人の女の子が楽しそうに談笑しながら通り過ぎた。見た目からして中学生か高校生、少なくとも私よりは歳下で、私よりも何倍もお洒落で可愛かった。

 きっとこの子達は、平日は楽しい学校生活というものを満喫しているのだろう。毎日授業を受けて、だるいなんていいながら美味しいお昼ご飯を食べて、気が合わない子を詰って楽しんで、放課後は遊んで、彼氏とセックスをして。そんな青い春なんていうものを謳歌しているのだろう。

 

「ママー、あのおもちゃほしー」

「しょうがないわねぇ」

 

 レジに並んでいる親子がそんな会話をしていた。しっかりと防寒着を着込んだ子どもが、母親の長袖を引っ張ってレジ横に展示されているおもちゃを指さしている。あの歳の子どもは保育園か幼稚園に行くと聞いたけど、あの親子は違うのか。土曜日だから学校と同じように休みなのか。行ったことがないから分からない。

 

「ママもたのんで、ねぇねぇ」

「もー、そんなに貰ってどうするの?」

「かたほーはパパにあげるー」

「そっか、うん、偉いねぇ」

 

 ママ、お母さん。

 パパ、お父さん。

 

 子どもの言葉が鼓膜に張り付いてくる。どちらかと言うと、頭の中で響いている声が内側から耳穴に呼びかけているような気もする。

 

 お母さん、お父さん。

 

 私にもそう呼んでいた両親がいた。

 どんな扱いを受けていても、私はあの人達のことをお母さんとお父さんと呼んでいた。

 呼ばなければ生きていけなかった。

 

「ねえママ」

「はいはい」

 

 子どもがバーガーのセットで付いてくる玩具を、店員から差し出された小さな籠の中から探るように選んでいる。母親は早くしなさいと呆れて笑いながら、愛おしそうに子どもの頭を撫でた。

 

 ああいうのが、普通の親子なのか。

 親が子に手を出さないのが、当たり前の家族なのか。

 子どもが親に我儘を言えるのが、本来の家族なのか。

 罵倒をしないのが、普通なのか。

 

「あのー」

「……はい?」

 

 視線を戻すと、店員が大きな持ち手付きの袋を2つ持って目の前に立っていた。笑ってはいるが目は困惑している。あからさまに困ってる様子だった。私の表情が険しかったのか、目を合わせると体が微かに退いた。

 

「ご注文の品がご用意できたのですが、何度お呼びしても返事がなかったので……」

「ああ、うん、ごめんなさい」

 

 店員から袋をひったくるように受け取り、足早にドアを潜って外に出た。

 寒さは収まる気配はなく、冷たい風が晒している部分の皮膚を容赦なく刺してくる。風が唇の隙間に入り込んで口内を乾かし、上唇から下の感覚を麻痺させる。コートの襟を立てて首元を隠したけどあまり変わらない。せめてマフラーぐらいは巻けば良かったかもしれない。

 

 歩きながら辺りに目をやった。流石にこの時間で開いているのはコンビニくらいで、他の店が開く様子はまだない。壁にでかでかと看板がかけられた書店のシャッターは降りたままだ。

 

《営業時間10:00〜21:00》

《定休日:水曜 祝日》

 

 シャッターにそう書かれている。年末年始の定休日について書かれた貼り紙も貼られている。ついこの間まで読書の秋がどうだとか言われてたのに、もうそんな季節なのか。なんだか自分だけ取り残されたような気分だ。

 

 取り残される。なんて、いつも一人ぼっちだった私が、今更置いてかれるのなんて慣れっこだろうに。

 

 家族と同じ空間に居ようが、誰かが隣で寝息をたてようが、私は一人きりだった。

 

 結局、私は、生まれてからずっと一人ぼっちだったのだ。

 

「……っ、またか」

 

 不意に、頭にモヤのような嫌なものが過ぎった。この不快感は些細な拍子に浮かんでは苦しめる。それこそ、その場で呻いてしまうくらいに。

 

 それを振り払うように私は歩く速度を上げた。靴裏で舗道を強く踏みながら、背後から迫ってくる得体の知れないものから逃げるように足を速めた。

 

 けど、1歩を踏む度に、体は重くなっていった。

 

 まるで鉛でも括り付けているかのように、逃げる夢を見ている時のように、脚が思うように上がらなくなってきた。

 

 加えて疲労のせいか、遂には私鉄の改札口を抜けた途端に意識が朦朧としだした。

 

 虚脱感、というやつなのか。体にまとわりつくような嫌な気分。階段を上がるのもキツイ。このまま立って待つのは体に堪えるから、ホームのベンチに腰を降ろして一息ついた。軽く額を拭うと、手の甲に粘った汗が付着した。

 

 外に吹き曝しにされたプラスチック製の座面と背もたれは酷く冷めたくて、服越しにお尻と背中を容赦なく冷やしてきた。さらにホームに風が吹き込み易いのもあって、全身を冷風が襲う。並の格好では、ここにいるのさえきついだろう。

 

 

 ……この冷たさは、昔味わったものに似ている。

 

 

 親から怒鳴られるのは日常茶飯事だった。睨んだとか、イライラさせたとか、理由をつけては父はカーッと鼓膜が破れる勢いで怒鳴り散らして手を上げた。母は自分の身のために加勢するか、嘯いて目を背けるかのどちらかだった。

 

 グズ、バカ、ノロマ、ヤクタタズ、クズ、シネ。ドウシヨウモナイ。クズ、バカ、クズ、クズ、アヤマレ、オイ、クソヤロウ、キイテンノカ。ナンダソノメハ、オヤニムカッテ、ナメテンノカ。

 

 逃げられない状況の中で、父は口角泡を飛ばしながらひたすら罵倒と暴力をぶつけ続けた。素手の時もあれば、物で殴られることもあった。凄く硬いもので殴ることもあったから、痣とたん瘤は当たり前。父にとって、私は丁度いいストレスの捌け口だった。

 

『ごめんなさい、私はバカです、私は悪い子です 、私はクズです、泣いてごめんなさい』

 

 謝罪の言葉と自分を蔑むセリフを言われた通りに呪文のように嘆く。録音されたアナウンスのように、私は覚えた言葉を自分の口で繰り返し再生し続けた。

 

 私が悪いんだから、謝るのは当然なんだ。

 そもそも私のせいで迷惑をかけたんだから、怒られて当然なんだ。

 それに、抵抗したらもっと怒られる。

 だから、変に力を入れるのはやめよう。

 こうなったのは自分のせいなのだから諦めよう。

 

 そう思うことで、私は体から余計な力を抜いて、浴びせられる暴力を受け入れた。

 

 そして頭の中では、別のことを考えていた。

 

 ……明日の給食はなんだろう、またクラスのあの子達から意地悪されるのかな、また汚いって言われるのかな、物とか捨てられるのかな、図書室に逃げてあの本を読もうかな、でも戻った時が怖いから保健室にでも行こうかな、けど先生に痣とか見られたらお母さんが困っちゃうな、ただでさえ仕事で忙しいのに、私が原因で迷惑が掛かるなんて、バレたらお母さんが先生から怒られちゃう、それでお母さんからまた、あんたのせいであたしが怒られたじゃないっ! って怒られて、またお父さんに顔を殴られて……

 

 そうやってグルグルと連想させることで、時間が過ぎるのを待っていた。

 

 けど、たまに酷く荒れていることがあった。もうなにが沸点だったのか分からない、私が生きていること自体が悪いみたいな、何度何度殴っても謝られても、血を流しても気が済まないくらいに。

 

 そういう時は、ぽいと放るようにベランダに締め出され、怒りが完全に沈むまで放置された。鍵も閉められて、中に入れない。けど、泣いたり騒いだりすれば近所に聞こえる。そうなると誤解が解けるまで小言を言われて大変だし、どんな罰を受けるか分からない。怖い。私のせいでまた迷惑がかかる。また怒られる。

 

 

 ……ああ、そっか。この冷たさは、その時のものとよく似ているんだ。

 

 

 冬のベランダは、本当にきつかった。特に彼処は冬場は零度近い気温が当たり前だったから、凍死してもおかしくないレベルだった。この冷えたベンチのように、固くて冷たいコンクリートの床は、私の体から容赦なく熱を奪おうとしてきた。

 だから、私はがくがくと震える体を抱きしめながら、寒さに耐え続けた。体をぎゅっと丸め、歯をカチカチカチカチと鳴らして、必死に熱を保とうと潜めるように浅い呼吸をしながら筋肉を縮こませた。もう、力を抜くとかそんなこと言ってる場合じゃなかった。とにかく耐えないといけなかった。

 

 それでも限界はある。

 早く部屋に戻りたい。

 せめて、部屋の中にだけでもいさせてほしい。

 

 そう思って部屋を覗くと、テレビを見ながら笑う両親の姿が見えた。お揃いの煙草を片手に、白い煙を吐きながら唾を飛ばして笑っていた。その笑い声は曇った音になって外にまで聞こえ、ベランダ扉のガラスを震わせた。

 

 私が輪の中にいない、自分達の世界に浸っているときの両親は、いつもより楽しそうに見えた。私の存在なんて忘れてるかのように、大きく口を開いて笑っていた。

 

 ガラスに白い結露を作りながら、私は早く入れてもらうことだけを考え続けた。

 反省したから中に入れてください、私も仲間に入れてください、乾いた唇で何度も何度も呟いた。

 なんでこんなことになったんだろう、なんで私はいつも約束を守れないんだろう、どうしていつもいつも私は嫌われるようなことしかしないんだろうと、息を殺しながら鼻水と涙を流し続けた。

 

 それで暫くしたら父が外へ出て、その後に母がドアを開けて中に入れてくれた。そして立ち尽くす私を抱いて「たく、もう。悪いことしちゃダメだからね」と酒と煙草の混ざった息を吹きかけながら、普段の声で語りかけた。そして、寒さで凍える私にお湯を飲ませてくれた。やけどしてしまうくらいに熱々だったけど、冷えた体を芯から温めてくれた。

 

 子どもの私は、それだけで安心してしまった。良かった、許して貰えた、もううちの子じゃない、いらないって言われなかった。声もさっきと違って戻ってるからもう怒ってないんだ、そう思った。

 

 私が悪いことをしたのがいけないんだ、私が悪いことをしたから2人は叱ってくれたんだ、これはお母さん達の愛なんだ、反省できない私が悪いんだ。ずっとそう言い聞かせてきた。

 

 本当に私のことが嫌いなら、こうやって温かく抱きしめてくれない。

 

 私のことを愛してくれているから。

 

 だから、みんなに言うのは間違いなんだ、だって私はこんなにも愛されているんだもの、二度と迷惑をかけたらダメなんだ。

 

「……アホらしい」

 

 呟きが吐息とともに宙を舞う。こんなタイミングで、まさか昔のことをまた思い出すなんて。思い出しても無駄に精神を擦り減らすだけなのに。

 

 大人になった今なら、あの家から離れて客観視できる今なら、あの頃の私はなんて騙されやすかったのかと馬鹿らしくなる。

 

 あの人達は、単に自分達のことしか考えていなかった。

 

 全てを私のせいにしているだけだった。

 

 父は、ストレスを発散したいだけだった。自分の中にある欲を全て私に吐き出すことで自分を満たしたかっただけだった。私のことは、娘とすら思っていなかったかもしれない。ちょうど家にいる都合のいい女、単に自分の遺伝子を半分持って生まれた他人。その程度の存在だったに違いない。

 

 そして母は、私という夫からの矛先の身代わりを失いたくなかったのだ。なにより自分より下で蔑めて当たり散らかせる相手は私しかいないから、失えば身代わりも八つ当たりも不可能になる。そんなことは絶対に嫌だろう。母にとっても私はただの産んでやった娘、自分の足枷的な存在でしかない。

 

 そんな理由で、あの人達は、ずっと傷つけてきた。

 

 暴力に愛情。

 そんなものが存在するはずがない。

 暴力は単に他人を支配するためにあるものだ。

 抵抗する気力を奪うために振るうものだ。

 自分の立場を保持するために使うものだ。

 そこに感動の物語なんてものはない。

 親なりの愛情なんて、受ける本人が逃れられない理不尽な現実を受け入れるための幻想でしかない。

 少なくとも私は、あんなものが愛情だと思っていた自分に反吐が出る。あんたはなにを言ってるんだと、叱れるのなら叱りたい。 親も辛いとか、そんなこと考えるだけ無駄だと教えてやりたい。そんな気遣いなんて、親からしたら知ったこっちゃないんだから。だってみんな、自分が一番可哀想な被害者としか思ってないんだから。

 

 しかし、当時の私は、あの環境を、当たり前のように、普通の物として受け入れて生活を続けていた。全てを諦めてしまうことで、現実の辛さから逃避していた。

 

 

 ──お父さんはね、本当は優しい人なんだよ。

 

 ──母親に虐められて、施設でも酷い目にあって、ずっと周りに振り回されて、孤独だった。だから、手が出るのは身を守るために必要だった。仕方ないことなんだよ。

 

 ──ずっとそうされてきたから、親っていうものをどうやればいいのか、分かんないんだよね。だから、殴るのも蹴るのも、なかなか辞められないだけ。

 

 ──でも、あたしのことを褒めてくれたのは、あの人だけだった。家族と大喧嘩して、1人になったお母さんを迎えてくれたのも、殴った後に謝ってくれるのも、お父さんだけだったんだよ。

 

 ──お父さん、殴ったあとはちゃんと言ってくるんだ、ごめんなって。ハッって正気に戻って、ああまたやっちまったって、いつも後悔してたよ。本当の本当に悔しそうに、たまに泣くことだってあったんだ。

 

 ──最近は、ジュンが生まれたからかな、滅多に泣くことも謝ることもなくなったけど、でも、仕事は頑張ってるでしょ? それはね、私達のためにやってるんだよ。

 

 ──だから、ジュンもお父さんを責めるのはやめなね。

 

 ──お父さんもお父さんなりに辛いし大変なんだよ。

 

 ──どんな人でも、あの人はあたしたちの家族なんだから。

 

 

 ……もし、今の頭のままあの頃に戻れたなら、幼い私は母の並べたセリフになにか言い返せただろうか。

 

 自分の生活は変だと気づけただろうか。

 

 周りに助けを求めていただろうか。

 

 自力で逃げ出しただろうか。

 

 拒否できただろうか。

 

 抵抗できただろうか。

 

 あの人の言葉に、首を横に振ることができただろうか。

 

 ……いや、無理だ。どちらにしろ、動けなかった。

 

『今となっては』程度の話だけど、あの頃は、あの頃にあった『今が全て』だった。

 

『今』が全てだったから、『今』が当たり前だったから、生きてこれたと言えることが沢山ある。

 

『今』が普通だったから、あの人達の許から離れられなかった。

 

 そもそも周りに味方なんていなかった。手を差し伸べるどころか、家庭環境をネタに嫌がらせを仕掛ける周りの人間達は、私にとっては敵も同然だった。そんな相手に対して助けとか救いといったものが浮かんでくるはずもない。

 

 たとえこの頭のまま戻れたとしても、絶望してさっさと手首を切って死んでいる。

 無駄な痛みを2度も味わうくらいなら、苦しみながら生きるくらいなら、死ぬ方が楽だと気づく。

 バックリと肉が開いた傷口から、不純物で穢れた赤黒い血がドクドクと体から流れ落ちる、その光景を恍惚とした表情で眺めながら死んでいるだろう。

 

 

 ──あんたを産まなければ。

 

 ──あの人と二人で暮らせたのに。

 

 ──あんたがあたしの人生を狂わせたんだ。

 

 

「…………っ」

 

 突然、子宮辺りに膜を剥がされるようなズキズキとした痛みが走り、思わず腹部を抑えた。過去に刻まれた傷が、貼り付いたものをガリガリと剥がされるような鈍い痛みになって襲ってくる。

 ガリガリガリガリ、普通は感じないはずのものを、異物が下って穴から這い出る感覚を、この体はしっかり記憶している。

 頭に鈍痛が走って、目の奥に圧迫されるような痛みが襲う。苦痛が表情に出ているようで、空席を挟んで同じベンチに座る若い男性が怪訝そうにこちらを見ている。

 けど、止まらない。

 頭の中で過去の出来事が次々に溢れ出してくる。

 痛みも、苦しみも、声も、光景も、全部が勝手に再生されてしまう。折角距離を置いたのに、折角死んだも同然なあの地獄のような毎日から逃げ出したのに、ずっと抑えつけていたからこそ耐えられていたものが、この場で頭を割ってしまいたくなるような記憶が、現実を実感した今の私を不定期的に襲う。

 

 

 ──ねえジュン。ちょっとおいで。

 

 

『うん』

 

 

 ──あったかいなぁ、ジュンは。

 

 

『……うん』

 

 

 ──こうやってると、昔を思い出すよねぇ。

 

 ──あんたは全然変わんないね。

 

 

『…………うん』

 

 

 ──ジュンがいてくれるだけで、お母さんすっごく助かる。

 

 ──こうやってジュンを抱いてると、心が落ち着くっていうか、仕事での嫌なこと忘れられるっていうか、家族っていいなぁってなる。

 

 ──やっぱり、あたしにはジュンが必要だ。

 

 

『……そうなの?』

 

 

 ──うん、そう。

 

 ──あんたは、家族だもん。

 

 ──あたしの味方は、ジュンだけだ。

 

 

 嘘つき。

 

 嘘つき、嘘つき、嘘つき。

 

 そんな気持ちなんて一切ないくせに。

 

 本当は私に死んで欲しかったくせに。

 

 私なんか消えてしまえばいいと思ってたくせに。

 

 あの人のしたことをずっと見て見ぬふりをしてた。

 

 私のこと、見捨てて逃げた。

 

 結局、自分のことしか考えてなかった。

 

 都合がいい時だけ母親ヅラして、私を縛り付けて。

 

 自分のことが精一杯って、あたしも大変なんだよって怒鳴って逃げた。

 

 …………卑怯者。

 

「…………死ね」

 

 動悸が激しくなる。額の生え際から脂汗が流れてつうっと顔横を伝う。呼吸が苦しい。嘔吐物でない固まりが喉の奥から這い上がる。内側に焼けるような痛みを与える。

 私は自分の体を掻き抱いた。コート越しに両腕に指と爪を食い込ませ、その微かな痛みで正気を保ちながら、力を込めて瞼を閉じ、あの頃の悲鳴を上書きするように必死に呪文を唱えた。

 

『ごめんなさい』

 

「死ね」

 

『ごめんなさい。私は悪い子です。ごめんなさい』

 

「……死ね」

 

『痛い、痛い、痛いって言ってごめんなさい、ごめんなさい。もう逃げたりしません、勝手に外に出たりしません、許してください』

 

「…………死ね」

 

『ごめんなさい、ごめんなさい。もう誰かにお家のことは話しません。死にます、死にます、ごめんなさい』

 

「死ね……死ね……」

 

『ごめんなさい、私は嫌われ者です、とても悪いことをしました、虐められても仕方ない子です、ごめんなさい。もう泣きません』

 

「…………ね………………死ね…………」

 

 1回、2回、3回、4回、5回…………。

 目を潰す勢いで閉じて、奥歯を噛み締めて唱え続けた。アナウンスも、疎らに居る他人の声も、盲導鈴の音も、吹き込む風の音も、全てが耳の表面をなぞって消えていく。憎しみが記憶と共に浮上して、私の頭の中を狂わせようとする。

 

『悪い子でごめんなさい』

 

『馬鹿でごめんなさい』

 

『クズでごめんなさい』

 

『生まれてきてごめんなさい』

 

『だから、捨てないでください』

 

『私を、傍にいさせてください』

 

『私を、見捨てないでください』

 

「………………………………死ね」

 

 ぐっと喉を閉じて唇を噤む。

 

 やがて、ふつふつと湧き上がっていた塊が喉奥に引っ込み体の中へと戻り、自然と手の力も抜けた。

 深く吸って、ぬるい息を吐き出す。それを数回繰り返しながら、右手で髪をかきあげる。爪を立てながら、がりがりと爪先で頭皮を引っ掻くように、頭をくしゃくしゃと掻き回す。

 

 お腹の痛みが治まってから、私は目を開いた。ギュッと瞑ったせいか、一瞬視界がカラフルな輪郭を持った黒に被われて、やがて溶けるように消えて元の景色が視界に広がった。向かい側のホームに立つ乗客が、寒そうに体を抱いてさすっていた。

 いつの間にか私を見ていた男性の姿が消えていた。いきなり死ねなんて呟いたから怖がらせてしまったに違いない。

 他人から見れば、私は異常者にしか見えない。いや、実際、異常者なのだ。頭の中は普通の人達と違って狂ってる。その自覚はあるし、もうどうにもできないことも理解している。常に何処かが壊れていて、感情という水があちこちに飛び散る。普通の人間はこうはならないのだろう。

 でも、来たばかりの頃は感情に任せて暴れてしまい、いつも自分を傷つけていた。そのせいで彼には大きな負担をかけてしまった。それに比べれば、これが今のところ、狂いそうな自分を抑えるマシな方法だった。

 誰かに奇異の目で見られると分かっていても、1度浮かんだものはそう簡単に消えてくれない。気が済むまで私を傷つけてくるのだ。

 

 ホーム内にまもなく電車が到着するとアナウンスが響く。一息ついてから立ち上がって先頭に並んだ。その後ろを他の乗客達も並び始めて少しの列ができ始めた。

 不意に、唇に一瞬冷たいものが付着した。雨とは違う、付着した瞬間に溶けていくような冷たさ。拭ってみると、冷えた水滴が指先を濡らした。

 

「……雪?」

 

 彼処と違ってここは滅多に雪が降らないから珍しい。

 でも残念。灰色の雲から降ってきたのは、雪じゃなくて霙だった。

「うわ、マジか」と、後方から悲痛な声が聞こえた。確かに嘆くのもしかたない。これは普通の雪のようにふわふわと積もるわけでもなく、道路も服もびちゃびちゃにするから、下手したら普通の雨と変わらない。時々予告なしに降ってくることもあるから、傘がないのは最悪と言ってもいい。

 

「…………トーマ」

 

 白い息とともに彼の名が湿った空気に舞う。霙は屋根を無視するかのようにホーム内に入り込み、コートの表面に黒いシミを作る。これは帰るまでにはずぶ濡れかもしれない。

 

「ちゃんと、ストーブつけたかな」

 

 彼のことだから、きっとストーブも付けずに両手足を擦りながら耐えているかもしれない。霙が降るくらい寒いのに、こういうときに付けないと意味がないのに。

 

 狂う私を、彼はいつも受け止めてくれる。消えたい、死にたいと思っていても、彼が最後の一歩を堰き止めてくれている。まさにこの霙のように、私と彼はびちゃびちゃとした関係を続けている。

 

 確か、『あの日』もこうやって霙が降っていた。成長してすっかり狭くなったコンクリートドームで肩を寄せ合う私達を、この霙は、その冷たさで容赦なく体温を奪ってきた。

 彼は、私が全てを打ち明けても尚、私を必要としてくれた。彼の体温は、傷だらけのこの体に温もりを与えてくれた。

 だから私も、彼のために生きていきたいと、彼の傍に居たいと思った。

 勇気を振り絞って、彼処から離れる決意をした。

 

「(なのに、なんで私は…………)」

 

 他人とセックスなんてしてるのだろう。

 嫌な記憶が頻繁に想起するのに、どうしてこんなことをしているのだろう。どうしてこんな真似ができるのだろう。

 折角、彼が私を連れて行ってくれたのに。

 彼の負担になるようなことばかり仕出かしているのに。

 やっぱり、私は、どうしようもない人間なのかな。

 

「2番線に参ります電車は──」

 

 アナウンスと同時に列車がホーム内に進入した。

 軽い風圧が白い粒を散らして、撫でるように髪を揺らす。そして過ぎっていた言葉を消した。

 

 今は、とにかく帰らないと。

 

 私を待ってくれる、私が待ちたいと思う、彼のもとへ。

 

 

 

 

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