◇◇◇◇◇◇
まだ、寒さが残る時季だった。
始業式のときよりは暖かいけど、羽織るものはまだ手放せないといった気温が続いていた。
「なんか、いつもより衣が湿気ってんな、これ」
「湿気ってるって、なんか、変な言い方」
「そうかぁ?」
古い住宅郡に囲まれるように作られた公園内にあるコンクリートドームの中で、彼が持ってきたコロッケパンを半分こにして食べていた。
公園と言っても、家の近所の公園よりは狭く、遊具も鉄棒とこの小さめなドーム、あとはベンチが1つある程度で、あとは何もない更地状態。月に1度の土曜日休みですら人の気配はなく、いつも閑散としているここは、私達がコソコソと集まるには打って付けの場所だった。
ここで私達は、持ち寄った食べ物を分け合いながら、いつも悪口を言ってくる意地悪なクラスメイトのこととか、家庭のことで目の敵にしてくる先生の話とか、学校や家で遭遇した嫌なことをいつも愚痴りあっていた。ここで偶然会ったときからずっとだ。
「お、そうだ」
なにか思い出したかのように彼が声を上げた。
「なに」
「実はな……俺、中学卒業したらおばさんのとこを出るんだ」
2つある出入口から入り込む光で薄暗く照らされる中、彼は唐突に告げてきた。本当に突然で、私は手からパンを落としそうになった。
「……なんて? どういうこと?」
意味が分からなくて思わず聞き返すと、トーマは「まあ、独り立ちするってことかな」と俯き気味にパンを頬張った。咀嚼に合わせて、ニキビの多い頬の内側で噛み潰されたパンがころころと転がる。
「……独り立ちって、なんで?」
震えないように声を抑え、奥歯を噛み締めながら訊いた。
こうでもしないと、彼に怒声を浴びせてしまうかもしれないからだ。
トーマは一旦飲み込んでから口を開いた。
「S先生の知り合いに工場をやってる人がいるんだ。それで、その人のところで働かせてもらえることになったんだよ。前から先生に相談してたんだけど、先生の方も、知り合いに聞いて回ってくれてたらしいんだ。ホントさ、頭上がんないよなぁ。忙しいのに、俺のために色々としてくれたんだ」
S先生とは彼のクラス担任のことで、話を聞く限りだと、いつも厳しいけど特殊な生い立ちのトーマのことを気にかけてくれている優しい先生という印象だ。でも、トーマとは学区が違うし、別の中学に通うことになるから、私がS先生に会うことはない。
「違うっ……そのことじゃない。私、なんで独り立ちするのかって訊いたんだけど……そもそも、初めて聞いたんだけど」
つい不機嫌が滲み出てしまう。手に力が入って、柔らかなパンの皮を潰してしまう。トーマは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑みを作った。笑みと言っても、引き攣ってるから苦笑に近い。
「いつまでも、おばさんのとこにいさせてもらうわけにはいかないからな。中学でもギリギリなのに、高校に行く金なんてないんだ。だから、さっさと独り立ちして1人で稼げるようになりたかったんだ。まあ、おばさんがそもそも許してくれないだろうからな。それに俺、成績よくねーし、どこも受かんねえよ」
苦笑しながらトーマはもう一口齧る。茶色く揚がったコロッケの中身が歯型に合わせてはみ出し、粉々と揚げカスが学ランに降り落ちた。
同じ公営住宅に住むお兄さんから貰ったお古の黒い学ランは、経年劣化でところどころが擦れて傷んでいる。彼の体に対してサイズがあっていなくて、袖口から日焼け気味な手首を覗かせている。袖のくすんだボタンも糸が解れて取れかけている。
「……ここから……出てくってこと?」
そう訊くと彼は言葉を詰まらせた。そしてパンを飲み込み、「本当は」と、いつ誰が書いたのか分からない落書きだらけの壁を見つめた。
「この近くとかで就職できたらいいなって考えてたんだ。けど、現実はそう甘くなくてさ……このご時世だから、中卒ってなると、全然働かせてもらえるとこがないんだ」
「そうなの?」
「ああ。ほら、この数年で色々あっただろ? 先生も、今は大卒でも就職は難しいかって愚痴ってたんだよ。最近じゃ、元教え子が相談しにくるらしいんだ。まあ、高校に行く予定もない俺には、大卒なんて想像できないけどな 」
そういう話題は、テレビのアナウンサーとかコメンテーターとか、そんな感じの人が話していた気がする。校長先生も「これから先、君達は苦労することになるだろうから、兎に角頑張りなさい」と、頻りに口にしている。お父さんが仕事をクビになったのも関係しているらしい。ずっと尽くしてきたのにゴミみたいに捨てやがってと、酔ったときにいつもぶつぶつ愚痴を零している。お母さんが働いている間、ずっとそんな調子だ。
「だから、見つかったのはかなり運が良かったんだ」
「……どこで働くの?」
「〇県の×町ってところにある工場」
×町は知らないけど、〇県なら分かる。授業のときに何度か取り上げられた場所だ。
「なにそれ……全然遠い」
正確な時間は分からないけど、多分、片道だけでもかなりの時間がかかる。子どもの私には到底行けそうにない。
トーマは「俺も初めて聞かされた時は、すげーびっくりしたな」と息を吐いてガクンと項垂れた。その拍子に頭のフケがパラパラと舞った。
「〇県なんて、俺も挨拶で初めて行ったんだけどさ、もう何がどこにあるかとか分かんないんだよな。かなり距離があるだけでこんなにも分からないのかって、ホントにここで暮らしていけるのかとか、先生の昔話そっちのけで不安になりっぱなしだったな」
「だったら……」
だったら行かなきゃいいよ。そう言おうとして、直前で口を綴じた。
そんなに不安なら行かなければいい、ずっとここで暮らせばいい、働くとか分かんないけど、こうやってまた二人で会えばいい、こうやってここに集まっていつものようにパンやお菓子を分け合えばいい、私はそれでいい、私はそれがいい。そうじゃないと私は……。
喉から出かかった言葉の束を無理やり閉じ込めて抑えた。
「でもさ」
抑える私を横に、彼は唇を開いた。
「その工場の社長さん、凄いいい人だった。工場の人達もみんな慕っててさ、奥さんも優しくて、俺、あの人達のとこでなら働きたいって思えたんだ。ここで1から初めて、一人前の大人になりたいなって思ったんだ」
不安を抱きながらも、姿勢を前向きにしてトーマは語る。ここに留まるとかそういう気持ちはどこかへ捨ててしまったかのように、自分はそこへ行きたいと決心したかのように、私の事なんて見えてないかのように、淀みなく言い切った。
それはそうだ。彼の事情を考えれば、一日でも早くおばさんの元を離れないといけないのだ。彼だってずっとそうしたいと零していたし、私もよく知っているはずだ。
ただ、ここから……私から離れるなんて思いもしなかったのだ。
「ごめん、もっと早く言えば良かったよな。ジュン、いっつも俺が持ってくるパンとか菓子とか、楽しみにしてただろ」
「別に、そんなんじゃない。ていうか、なんか、その言い方じゃ、トーマに物乞いしてるみたいで嫌なんだけど」
「ごめんごめん」
また、言ってしまった。
こうやって相手を突き放すようなことばかり口にしてしまう。それを彼はいつも笑って受け流してしまうことを知りながら辛く当たってしまう。いつも彼に甘えてばかりだ。
それに物乞いだって間違いじゃない。こうやって持ってきてくれているのも、そもそも私がお腹を空かせていることが多かったからだ。私から持ってくることは殆どないうえに、彼の方だってパン1つでもかなり厳しいはずだ。けど、私に気を遣って持ってきてくれている。
それなのに、私は…………。
「じゃあ、もうここには…………」
戻って来ないんだ、そう言い切る前にトーマは私を呼んで言葉を被せてきた。
「なあ、ジュン。俺、向こうで頑張るからさ…………ある程度落ち着いたら、お前も一緒に来ないか?」
「…………は?」
思わず呆ける私を横に、彼は頬をかきながら続けた。
「まあ、いきなり変なこと言われてわけわかんねえよな……あれだ、ジュンが良ければ、あっちで二人で暮らさないかってことだよ」
「………………」
「あー、つってもすぐには無理だぞ。しばらくは住み込みだし、そもそもお前、今年から中学だろ? 流石に義務教育の奴は連れて行けないしさ、行くとしても卒業してからだな。俺もペーペーだから、仕事を覚えるのに必死になるだろうし、早くても数年とか掛かると思う……それでもいいなら、ジュンが良いって言うなら、俺、迎えに行くよ。絶対に、ここに戻ってくるよ」
「………………なんで」
「まあ……ほら、あれだあれ……つまり、そーいうことっつーか……お前のことほっとけねえもん」
彼は頭を横に捻った。ボサボサの髪を揺らして、気恥しさが混ざった笑みを浮かべた顔を私に向けてきた。
この悪意のない、屈託のない笑顔。
私は彼のこの表情が好きだ。初めて話したときからずっと好きだった。
でも、今この状況では、その笑顔がとても腹立たしい。腸が煮えくり返りそうになる。
「…………なんで、そんなこと言うの」
なんで、今ここでそんな告白をするんだ。
向こうに行くって決めておいて、どうして私を誘うようなことを言うんだ。
しかも数年、そんなに待てっていうのか。
私が、そんなに待てると思っているのか。
こっちの気持ちも状況も知らないで好き勝手言って、どこまで頭の中、濁りがないんだ。
「あー。でも流石に数年も待てなんてワガママか? 俺も忘れないようにしないとなぁ」
……ああそうか、分かった。
あんたは、私が邪魔なんだ。
私という存在が鬱陶しくて仕方ないんだ。
ひもじいばっかで、食い物を集るクソガキとしか思ってないんだ。
見下せるガキとしか思ってないんだ。
それで飽きたから、適当なこと言ってさっさと放り出したいんだ。
私を捨てるんだ。
「ジュン?」
どうせ迎えに来るつもりもないくせに。
本当は私なんか厄介でしかないとか思ってるくせに。
慰め程度に言葉を並べれば、私が騙されると思ってるんだ。
みんなそうだ。みんな私がどうなってもいいクズだから、どうしようもない馬鹿だから、なにをしてもいいと思ってる。嫌がらせも、暴力も、八つ当たりも、全部全部全部。
あんたも、傷つく私が見たいんだ。
想像して馬鹿にしたいんだ。
期待させて、裏切って。
「おい、ジュン?」
嫌い、嫌い。あんたなんか嫌い。
嫌いだ、嫌いだ、嫌い嫌い嫌い。大嫌い。
消えろ、消えてしまえ。
……さっさと目の前から消えてなくなれ。
………………
…………
……
よく耳にするけど、名前や姿形が分からない虫の鳴き声が聞こえる。それと、ランドセルの金具が揺れる音。それらが混ざって、耳の中に不快感を与えてきた。
気がつくと、私は舗道を歩いていた。細かな亀裂と塗装が剥げた路側帯が目立つ黒いアスファルトの上に、更に濃い自分の影が揺れている。日差しの位置もあって、胴長になった私の影は前進する度にずんずんと上下している。お日様の熱が背中に当たって変なむず痒さが肌に走る。
「(さっきまで、トーマと……ああ、そうだった)」
ぼんやりとした思考が徐々に晴れていき、さっきまでの記憶が鮮明になっていく。
彼に誘われて、頭の中で憎しみが爆発して感情を抑えきれなくなった。それでありったけの罵倒をぶつけて、パンを投げつけてそのまま公園を飛び出した。背後で彼がなにか叫んでいた気がしたけど、結局は聞き取れなかった。聞き取りたくなくて全力で走った。
「……最低」
なんで、あんな言動を取ってしまったんだ。
あんなことをしたから、彼はもう二度と会ってくれない。
どちらにしろ遠くへ行くからもう会えない。
私も、気まずくて会えない。
今すぐ戻ろうとも思えない。
ごめんと謝ったところで、もう遅い。
ホント、自分が間抜けすぎて阿呆らしく感じてしまう。
彼の本心なんて分からないのに、勝手に思い込んで勝手に怒って……最後の最後で、一方的で最悪な別れ方をしてしまった。ずっと恐れていた行動を、とうとうやってしまったのだ。
…………でも、何故だろう。
悲しい気持ちがあるのに、なぜか、安心している自分がいる。
やっぱりそうなんだ、私はこういう人間なんだ、クズで最低で自分勝手で、誰かと打ち解けても結局はダメになるんだと、心の中では安堵している。
いつかはこうなると、ずっと考えていたことが現実になって安心している。
いつかは別れる相手なのだから、それが今来たんだと諦めて納得している自分がいる。
仕方ない、そう、仕方ないことなんだ。
みんな、私のことなんか嫌いなんだから。私は人を怒らせてしまうダメな人間なんだから。トーマだって、サイテーな私なんか嫌いになったはずだ。
もしかしたら、なんて変に期待してバカみたい。期待なんてものは、するだけ虚しいものなのに。
「……でも……本当は…………」
自分の意思とは無関係に独り言がぶつぶつと漏れる。
いつの間にか、目が熱くなって視界が歪んでいた。下瞼に溜まった熱いものが何度も頬を伝って顎先に滑っている。目を開けたり閉じたりしてなくそうとしても、全然消える様子はなかった。
本当は、嬉しかった。
行けるのなら、今すぐにでも彼のそばに行きたいと思った。
トーマは、嘘つきとか、君に問題があるとか、自業自得とか、ずっと言われてきた私に「ジュンは悪くない」って、初めて言ってくれた人だった。お母さん以外で唯一きちんと目を見て話せる相手だった。
そんな彼と一緒になれるのなら、それでいいと思った。
でも、ダメだ。ダメなんだ。
私は、どこへも行けない。どこへも行っちゃいけない。だって、私みたいなどうしようもない馬鹿な子は、どこにも居場所なんかない。
お母さんとお父さんしか、私の家族はいない。
あの人達がいなくなったら、私はひとりになってしまう。
あの家から離れたら、どうなるか分からない。怖い。そもそも、離れるって分かんない。何を言われるか分かんない。
だから…………私は、どこへも行けないんだ。
「…………っ! ……ゔっ…………っ!」
急に、喉の奥から突き上げるような気持ち悪さが襲い、咄嗟に両手で口許を抑えた。
胃の中のものが無理やり食道を迫り上がってきているようで、痛みと酸味と異物感が口の中にまで広がった。
あまりの気持ち悪さにその場に蹲り、必死に抑えようとした。けど、這い上がる異物の不快感が勝ってしまい、勢いよく外へと吐き出した。
どろどろどろどろ、びちゃびちゃびちゃびちゃ。
不快な音が辺りに駆け抜ける。
さっき食べたコロッケとパンの破片が黄色い液体と一緒に泡立って私の口から吐き落ちる。
止めようとしても止まらない。ランドセルの重みもあるから、余計に吐きやすい姿勢になってしまう。
嗚咽に合わせて指の隙間を縫って、ベチャベチャ、と汚い音を立てながら黒い舗道の上で広がっていく。鼻の奥に酸っぱい空気が溜まって嘔吐感を煽り、えづきと一緒に涙と鼻水が溢れ出す。顔の穴という穴から液体が漏れている。
ようやく治まる頃には、荒い息を吐いていた。唇から粘った唾液の糸を引きながら、ぜぇぜぇと呼吸をしていた。目の前で図鑑に載っていたアメーバのように広がるゲロの海に涙がポロポロと落ちる。けれど小さなそれらは、落ちた瞬間にアメーバの中へと飲み込まれてしまった。
「は…………ぁは…………あ、はは……はぁ……はは」
掌にべっとりとついたドロドロのゲロを見つめながら乾いた笑い声をあげた。本当は笑えないのに、体の力が抜けてしまって無意識に笑みが零れてしまった。
なんだ、そうだった。
どっちにしたって、ここから離れられなかった。
あの日、ねっとりと貼り着く野太い声と湿った息遣いを耳にしながら、抜け殻のようになっていく自分の体をただ眺めるしかなかった。
ぼんやりした丸い蛍光灯と揺れる紐、流れる汗、糸を引く涎、肌を滑るぎとぎととした脂、揺れる黒い人影、冷たくなる両手、体の中で暴れる異物、激しい痛みと込み上げる吐き気、絞まる首、塞がれる口、痛む頬、煙草の混じった生臭い息、重くのしかかる体、首筋を舐めるような声で呼ばれる私の名前、そして、抜け殻のような私自身。
目に見えるもの感じるもの、全てが幻のようだった。
そうだ、あの時点で、もう終わっていた。
1度や2度じゃない。今になるまでもう何度味わったか分からない。
ずっと前から、この身体は修復できないくらいにバラバラに砕けていた。少しずつヒビを入れられて、とうとう粉々にされてしまったのだ。
なのに、それを認めたくなくてトーマに縋った。彼といるときだけ、私は私になれた。死んで冷たくなった空っぽな体に、唯一生きた心地を与えてくれた時間だった。毎日の嫌なことを頭の端っこに追いやることができた。
けど、もう無理だ。
どちらにしろ彼は私の前から消える。縋るものは無くなる。
そして私はというと、遂に『体』がダメになってしまった。
何をやられたのかも、今何をやっているのかも、そして自分の体がどうなっているのかも、自分が1番よく理解している。だから、体の内側で蠢く物の正体も察してしまった。
血が出ない、気持ち悪い、頭が痛い、胸が痛い、体がだるい、苦しい、吐きそう、臭い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、やめて、いやだ、汚い、死にたい、死にたい、死にたい、死にたくない──。
「…………帰らなくちゃ」
言葉を吐いて、自分の体を無理やり起こした。手や袖についた吐瀉物をアスファルトやすぐ横の壁にある程度擦り付ける。残りは途中の手洗い場で洗い流せばいいと思った。
日差しが背中を変わらず照らし、前方に縦長な影が浮かぶ。吐いたゲロが潰れる感触を靴の裏で感じながら、再び家に向かって歩き出した。
帰る。帰るしかない。帰らないといけない。
救いようのない、どうしようもない私が、唯一居られる場所に…………両親と暮らすあの家に。
◇◇◇◇◇◇
この周辺は、色んな建物が並ぶことで形を成している。
錆の目立つ古いモルタルのアパート、新しく建てられた一戸建て、くすんだ壁の三階建ての公団住宅、間に挟まれるようにひっそりと営む小物店や床屋、赤茶色の傾いた平屋建て……そういったものが狭い路地を挟みながら犇めきあっている。
統一性もなければ、暮らしている住人もばらばらで、唯一の共通点を挙げるとするなら、皆が他人への干渉を極力避けているところだろう。それはこの周辺で暮らす人にとっての暗黙のルールのようなものだ。
隣人の家庭事情すら分からない、何人家族だとか、誰が引っ越したのかも、死んだのかも分からない。交わすのは会釈程度。けど、だからこそ暮らしやすいのかもしれない。少なくとも他人からのちょっかいがあまりない分、私にとってはありがたい。
建物に挟まれた狭い路地を曲がり、だいぶ前から放置されている凹みと赤錆だらけの軽トラの傍を通り過ぎて、アパートの二階へと続く階段を上がった。
上がって一部屋先の玄関扉を開けると、中は暗くひんやりとした空気に包まれていた。冷たい風が吹いているわけでもないのに、外とはまた違った無機質な寒気が室内に広がっている。薄暗いせいか、キッチン全体が寒々しく映った。
玄関には、彼の仕事用の靴が端に追いやられるように脱ぎ捨てられていた。
「ただいま」
扉を閉め、頭とコートに滴る水滴を軽く拭ってから靴を脱ぎ、シンク横に袋を置いた。駅を降りる頃には霙は勢いを増していて、おかげで袋はびしょ濡れになってしまった。ハンバーガーは土産には不向きだったかもしれない。けど、中までは濡れてなさそうだから、後で温めればなんとかなる。
シンクには彼が使用したと思われるコップが1つだけ置かれていた。出る時にはなかったはずだから、帰宅して早々に1杯飲んだのだろう。
コップにそのまま水を半分ほど注いで喉奥へと一気に流した。寒さで冷たくなった水が、口に張り付くヘドロのような苦味を巻き込みながら食道を通り、胃の中へ突き刺さるように落ちた。
ただの水道水。だけど、間違いなくこのアパートの水だと分かる。それだけでもここに帰って来れたと安心できた。
ここはあそこじゃない。間違いなく、私と彼の、2人の家だ。
「……はぁ、重たっ」
霙ででっぷり湿ったコートは倍近く重くなっていた。余分になると思ったけど、やはり途中で傘を買って置いた方が良かったかもしれない。けれど今更悔いても仕方ないことだ。それにこの天気では、どちらにしろ外には干せない。
とりあえずポケットから財布を取り出して、浴室扉の前に置いている籠の中へ突っ込んだ。そういえば、コートって普通に洗濯して良いんだっけ。いいや、また後で考えればいい。
「トーマ、起きてる?」
締め切った引き戸越しに聞いたけど返事はない。もしかしたら寝ているのかもしれないと思い、音を立てないようにそっと引き戸を引いた。
開いて早々に、灯りを消した6畳間の中心で布団を被る彼の姿が目に映った。
クローゼットとテレビと背の低めなタンス、あと壁に立てかけたテーブル。それらに囲まれるように、布団はいつもの向きで敷かれていた。
若干黄ばんだ色のレースカーテンから差し込む光で布団の白い布地が輝いて見える。傍らには脱ぎっぱなしのシャツやズボンが散らばっていた。おまけになんだか、酒臭い。ここまで臭うということは、かなり飲んできたのだろう。
「ねえ、ストーブ付けないと風邪引くよ」
布団の中で彼がモゾモゾと蠢き、うーんと唸る。
生きていて、ちょっと安堵。
服を退かして、電気ストーブのコンセントを差して電源を入れた。ボオォン、という音を立てると、中の細長い2本の棒が徐々に光を帯び始める。やがて真っ赤になって、部屋の隅で熱を放った。
やっぱり、ストーブをつけた方が暖かい。たったこれだけの熱でも、暖かいと感じる。
「……トーマ」
枕元に座って、もう一度名前を呼んでみると、布団がゆっくりと捲れて目をしょぼつかせた彼の顔が現れた。寒いのか、インナーの袖から伸びた二の腕に鳥肌が立っている。こんなに寒いのに寝巻きすら着ていない。
「あれ、ジュン? 帰ってたのか?」
「うん、ちょうど今。気が付かなかった?」
「悪い、全然気づけなかった」
「そう……外、霙降ってる」
「あー、霙かぁ。なんかさっきから寒いと思ったんだ」
「ストーブすら付けずにそんな格好してたら、当然だと思うけど」
「いやぁ……もうそれどころじゃなくてさ……帰ってくるだけでもギリギリだったんだよ……おかげで原チャ、そのまんまにしてきちまった」
下に愛用の原付がなかったのはそれが理由だったようだ。
「飲むの分かってたんなら、電車にすれば良かったのに」
「そうだよなぁ、ケチるんじゃなかったなー……明後日は奥さんの雷確定だ」
怒ると怖いんだよなぁと、トーマはしんどそうにため息を吐いた。顔色は悪く、声は焼けたように若干ガラガラとしていて、湿っぽい息には酒のふわ着いたアルコール特有の甘い臭いが混ざっている。
「お土産、ハンバーガー買ってきた。ナゲットとデザートもあるよ」
「お、マジか。ご馳走じゃん。どうしたんだ?」
「別に、たまにはいいかなって思って」
「ありがとな」
そう言ってトーマは体を起こそうとした。
「いい、無理して起きなくてもいいから。後で食べよ」
「でも」
「今は寝てていい。私も疲れたから。これから寝る」
「あ、ああ、悪いな、ホント」
トーマは申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。一目見ただけでも二日酔いと分かる。もともと苦手なのにかなり無理をして飲んだに違いない。おまけに煙草臭い、付き合いで吸ったんだろう。煙草だってそうそう吸わないのに。
彼に布団をかけ直してから、私はニットとズボンを脱いだ。脱いだ途端、ニットの中に篭っていた汗がむわりと熱気を放つ。下着の中まで蒸れていて、隙間から抜け出し、代わりに冷たい空気が入り込んだ。反対にズボンは、コートのかかっていなかった脛辺りが濡れたのもあって、肌がひんやりとしている。寒いのに暑い、うなじから全身にかけてゾワゾワと厭な感覚が巡った。
「バイト、お疲れさん。どうだった?」
「……まあまあかな。ちょっと面倒な人が絡んできたから、その対応で結構疲れた。夜中って、昼と違って変な人が多いから」
「そりゃあ災難だったな……大丈夫か?」
「んー、なんか……パンクと洋楽がクソだって言ってた気がする」
「うわー、そーいう……先輩達が聞いたら喧嘩だな」
「そうなの?」
「ああ、みんなどっちも好きだから、間違いなくガン飛ばしてるだろうな」
「ふーん」
脱いだ服を隅の方へ追いやった。後で纏めて籠に放り込めばいい。
「でも、ちょっとずつ慣れてるようで安心した」
「初めは反対してたくせに」
「いや、反対ってわけじゃないけど……アルバイトなんてやったことないって話してただろ? だから、ちょっと心配だったんだよ」
「……心配しすぎ。私だってちゃんと考えて選んでるから大丈夫」
「そうだよな、折角ジュンが頑張ってくれたのにな、わるぃ」
口の端を歪めて笑いながら、トーマは左手で顔を覆い、目の横を掴むように揉んだ。
私は彼の手を退けて、代わりに両手の指先で彼の頭を挟み、顬の辺りで円を描くようにぐりぐりと回した。
「どう? ここら辺、気持ちいい?」
そう訊くと、トーマは「すげー効くー」と眉間に寄せた皺を解いて気持ちよさそうに答えた。
彼に売春のことは話していない。昼間夜中、自分がやれると思って選んだバイトをしていると嘘をついている。秋頃から始めたから、もう数ヶ月は騙していることになる。
ガバガバで怪しい、普通ならもっと問い詰められるかもしれない。
でも、トーマは私がまともにバイトしていると信じている。引き篭もって、泣いて喚いて当たり散らかすばかりだった私が、自分から色々とやれるようになったと喜んでくれている。だから、必要以上の追求もして来ない。それが罪悪感を生んで胸の中をキリキリと痛めつける。
「食費と煙草代ぐらい私がどうにかするから、トーマは気にしないで仕事に集中してくれればいいよ」
「んー、ありがとー……でも、無茶だけはするなよ」
「はいはい」
こんな嘘、近いうちにバレるに決まっている。私にもそれくらいのことは分かる。分かっていても、これしか方法が思いつかなかった。
もしも私が知らない男とセックスして金を稼いでいたと知ったら、彼はどう思うだろう、どんな表情をするだろう、そうかと快く受け入れるのだろうか、もっと稼げと言うだろうか、せっかく連れ出してやったのに騙しやがってこの淫売女と怒って殴るだろうか、この恩知らずと罵るだろうか。
……なんて、彼に対してさえそんな妄想を抱いてしまう。ホント、つくづく自分は嫌な女だと自覚させられる。
「煙草、貰っていい?」
上着のポケットに入ってる、と言われ、彼の頭から手を離す。
座ったまま彼の脱いだ上着を掴み取り、ポケットに手を突っ込んで煙草の箱とライターを取り出した。
蓋を開け、5本残っているうちの1本を取り出し、フィルターを咥えて先端に火をつける。深く吸い込むと、先端がチリチリと赤くなり、煙草のヤニくさい煙が肺と頭の中に入り込んで満たしていった。喉や胃袋に残った客の男の残滓が煙に掻き消されていくような感覚が来る。セックス後の気怠さも、脳の中を掻き乱す不安も、ついさっき湧いたものも、全部が靄の中へと溶けていくように落ち着いていく。
昔、付き合ってた男子に1本吸わされて以来、煙草は私の一部になっている。シャワーが体を洗い流すのを気持ちいいと思うように、煙草は脳と肺と胃を満たし、男の精液の苦味を鼻を突くようなヤニ臭さで上書きしてくれる。幼い頃は不快に思っていた舌の上にざらつき貼り着く煙の匂いも、今では馴染みあるものになっている。
煙草を指で摘んで唇から離す。フィルターは唾で少し湿っただけで血は付いてない。皮は持っていかれずに済んだ。
深く息を吐き、部屋の中に薄い煙を広げた。
「そっちはどうだったの? お別れ会、楽しかった?」
「そりゃあ……もう大変だったぞ。これでもかって言うくらいみんな飲みまくってな、あちこちで注ぎまくってた。おまけにシショー、俺が弱いの忘れて口の中に放り込んできたんだ。おかげでこの有様だ」
「うわ……」
「まあ、悪い人じゃないんだ。ただ、酒に酔うと性格が変わる人だから、仕方ないっちゃ仕方ないんだ……いつも真面目に機械とやり取りしてるから、アルコールで溜め込んだ分を吐いてるんだ。社長さんも、歳上だし、最初のときから世話なってたから、なかなか止められないんだ」
シショーは、彼が勤めている工場に古くから働いていた社員で、仕事に必要な知識や技術をトーマに叩き込んでくれたベテランだ。話を聞く限りでは、真面目で厳しくて時折理不尽な分、弟子のトーマを偉く可愛がってくれていたようだ。
そのシショーが、諸事情で工場を辞めることになった。昨夜はその送別会ということで、工場のみんなでお別れ会をしたという。トーマは可愛がられた分、多量に酒を盛られたらしい。
「で、そのまま飲んで……2件目出た後だったかなぁ、急に先輩の1人が映画観たいとか言ってさ、そのままシショーの奢りで見に行ったんだよ」
「やってたの?」
「ああ、ギリギリな」
「なんの映画?」
「あー、それが……気持ち悪すぎてあんま覚えてなくて……なんか、おばさんと学生がひたすら殺しあってて……たまに懐かしい歌謡曲かなんか聞こえてきてた」
「……なにそれ、変なの」
どんな内容の映画なんだ。
「で、終わってから、また朝まで遊んで……気がついたらアパートに着いてた」
「……お疲れ様」
煙草を咥えてもう一度吸う。今度はふかして口の中に溜めて、白いモヤモヤを吐き出す。誤ってトーマの顔にかかってしまい、彼は眉を顰めて咳き込んだ。
「あ、ごめん」
「いや、大丈夫だいじょうぶ」
と言いつつオエッっと声を漏らした。その顔と声がちょっと可愛くて、思わず綻んだ。
気づくとトーマが顰めた顔を向けていた。顰めながらも口許は笑っている。
「なに?」
「いや、ジュンは笑ってるほうがいいなって思っただけだ」
「……意味わかんない」
そういうことを悪意なく言われると、なんだか恥ずかしさが込み上げてくる。
「そういえば、社長が気にしてたぞ。ジュンちゃんは元気かって」
「……そう」
「なんかあったら言うんだぞって。心配してくれてた」
「……うん」
適当に返して、煙草の先端で燻る靄を見つめる。
社長さんとは、しばらく顔を合わせていない。
あの人には、ここに来てからたくさん助けて貰っている。本当は感謝しないといけないのだって分かっている。
けど、どうしても私の中でいらない疑念が湧いて引っかかってしまう。
なぜ、赤の他人でしかない私を構うのだろう?
だいいち、私はあの人にどういう人間だと思われてるのだろう?
もしかしたら、可愛い社員に怪我を負わせた厄介者と思っているかもしれない。いや、多分、本音では思われている。思われても仕方ないことをした。初めて私を見た時の、あのバツの悪そうな顔はハッキリ覚えている。今でも十分迷惑をかけている。でも、私になにかあったら大切なトーマが困るから、手を尽くしてくれているんだ。
つまり、私は、彼を人質にしているようなものか。
……あーあ、また最低な思い込みをしてしまう。嫌だな、こういう自分。
「ジュン? どうした?」
「ん、ううん、なんでもない」
不意に鼻穴がムズムズして、小さい嚔が出た。嚔と一緒に煙が穴から洩れる。
「早く着替えないと風邪ひくぞ?」
「うん、分かってる」
壁に立てかけたテーブルのすぐ横に置いた硝子の灰皿を掴み、煙草の先端を押し付けた。部屋ではほとんど私しか吸わないから、ほぼ私専用の灰皿になっている。音を鳴らしながら崩れた灰が皿の上でボロボロと広がった。
そしてそのまま着替えることなく、彼の被る掛布団を軽く捲って中へ潜り込んだ。自分用の布団を出すのはなんだか億劫だった。
「さ、寒…………」
「ごめん、私も疲れたから、今日はこうさせて」
震える彼の体に腕を伸ばしてそのまま抱きつく。
冷えた太腿を彼の脚に、頬を彼の肩に密着させる。
寒いと言いつつ布団の中で温まった彼の体はポカポカとしていて、霙で凍えた私の体を温めてくれる。
「……トーマの体、あったかい」
他の男と目合ったときにはない心地良さが身を包む。
ベッドの浮いた柔らかさよりも、煎餅のように薄い敷布団の平たい柔らかさ。
シーツのザラつきよりも、毛玉の多い掛布団のザラつき。
知らない銘柄の煙草よりも、嗅ぎなれた煙草。
あのビー玉目の肉厚な体よりも、トーマの体。
他人の臭いよりも、彼の臭い。
トーマの手が私の髪に触れる。濡れてるじゃん、風邪引くって。そう言いながら、 優しい手つきで濡れた私の髪の毛を梳かすように撫でた。
やっぱり、自分の家の方が落ち着く。
体の至る所が根元の方から安らいでいるのを実感できる。
体の気怠さがふわふわと浮かんで、魂が抜け出してしまいそうになる。
けれどそれは、彼処にいたときのような、体から抜けたような、離脱したフワフワ感じゃない。心の底から安心してふわついているのだ。
「……嫌だったら言っていいから」
そう訊くと彼は、嫌じゃない、と返す。もう何度目も訊いてるけど、優しいトーンは変わらない。
もう、何度もこの質問をしている。自分でもくどいと思うくらいに、体を抱きしめたときに毎度毎度訊いている。彼が嫌がってたらどうしようという気持ちと彼なら受け入れてくれるという気持ちを孕ませて尋ねる。このままじゃいつか嫌と言われると思いながらも辞められない。でも、いきなり拒否されるよりははっきりと嫌いと言ってくれた方がいい。でも、言われたら言われたで傷ついて自暴自棄になりそうで。
愛想を尽かされても仕方ない行動ばかりするのは、我ながら面倒くさい女だと思う。けど、不安で不安で仕方ない感情が、どうしてもそういう行動をさせてしまうのだ。
そして、その先にある甘えたいという欲求が、これまた厄介なものだ。もう眠いのに、体はまだ眠りたくないと駄々を捏ねる。彼だって疲れているのに、私の体はお構い無しに安心を求めてしまう。
「……ねえ……頭、けっこう痛い?」
「うーん……熱で寝込んだときよりはマシだな」
「そう……じゃあ、ちょっとだけごめん」
彼に一言告げて、私は布団の中で手足を彼の体に這わせた。胸元に置いた手を肩まで伸ばして、脚を挟む太腿を広げて、乗り上げるように彼の体に重なった。
「あ、おい。流石に今は……」
「大丈夫、ちょっとだけだから。寝る前に1回だけ、ね? 負担、かけないようにするから」
1回、なんて言ってるけど、また引き摺るんだろうな。
内心自虐しつつ、潜り込んだ掛布団の中でモゾモゾと動きながら全身を這わせる。ショーツ越しに割れ目を押し付けて、ブラジャーに包まれた乳房を胸板に潰して畝らせる。できるだけ彼の感じ易い箇所を攻めつつ、ひょこっと布団から顔を出して首筋に吸い付く。
薄くて硬めな皮膚、それを唇で覆いながら歯を立てて噛み跡を残していく。
「ん……ん、ぁむ……ん゙……」
彼の体の上で全身を微動させる。
下半身の陰部で彼の股間部分を撫でながら、血を吸い出すように甘噛みを続ける。まずは右側の根元と鎖骨にかけて、その次は反対側を同じようにキスマークを残す。
こうした方がトーマは喜んでくれる。現に今も、私が噛む度に可愛らしい声を洩らしている。
「あ、んむ゙……っ、ん、はむっ……れぇ、れろっ……」
そのあとは軽く噛んだ箇所を舐めていく。表面のザラつきを塗りたくるように、加減をしながら舌を上から下へと這わせて走らせる。シャワーも浴びていない彼の皮膚は汗でしょっぱくて、痺れるような味を口の中に広げた。苦味とアルコール臭さも混じっている。でも、不快感はない。トーマの味だからもっと舐めたいと舌が自然と生き物のようにくねる。
体を徐々に上へ登らせる。両手を彼の火照った両頬に添えて、布団から頭を出して彼の顔に自分の顔を近づけた。
脚を広げて彼の腰から上に乗っかるようにしながら胸やお腹を擦るように前後させる。まだ挿入はしてないけど、それと同じような動きを繰り返して、ショーツにぴっちり張り付き筋張るオマンコをパンツに擦り付けた。
「れろ、れ……んっ」
指先で頬と首筋を撫でながら、彼の唇を舌でベロベロと濡らし、そのまま吸い付くように自分の唇を押し付けた。
重ねた瞬間に入り込む彼のアルコール臭さ、普通なら唾液自体が酒と煙草でできているかのように錯覚してしまうくらいに苦くて吐き気を催す。
でも、それはあくまで赤の他人とのセックス。トーマの場合は同じ味でも受け入れてしまう。彼は唯一気持ちよくさせてあげたいと思う男性なのもあるだろう。彼なら、苦味さえも肯定できてしまう。
「ん、ちゅ……れぇ、あ、あ゙っ、っ゙んぢゅ……!」
舌を伸ばし、唇の隙間に尖端をねじ込んで彼の口の中を掻き回す。それから舌と舌を絡ませ合い、粘膜に蕩ける唾液を混ぜ合う。
口深くで繋がったことで、煙りの残滓が息と一緒に喉の奥へと吸い込まれる。時折鼻先同士が触れ合って、先端の冷たさにゾクゾクとした鳥肌が立つ。たまに撫でるようになぞって顳かみと耳の穴にもキスをすると、トーマの口から顫えが洩れた。
ああ、感じてくれているんだ、汚い私なんかで。
手で彼の頭を包むように抱えこみ、より唇を密着させる。ぴちゅぴちゅ、ぴちゃぴちゃと、粘り気のある液体が私と彼の間で音を奏でる。
ディープで空気を吸い込むように頬を窄ませる。ときに唇を離して、突き出した舌先を宙で遊ばせる。
ギラギラと濡れて光る赤い肉が、私達を肉体の中身で繋げている。奥の穴から透明な唾液が溢れ出て、より舌肉に粘り気と生温さを加える。寒さで乾きそうになっても、舌肉を包む粘液が瑞々しさを保つ。畝って畝って、まるで手脚のない1つの生き物の交尾のようだ
細めた瞼からトーマの姿を確認すると、彼は渋い顔をしていた。頭の痛みと体のだるさで顔色がグロッキーだ。けれど体の方は正直で、ショーツに張り付いたおまんこを固いものが何度も押し上げている。下着なんてものがなかったら今頃、私のものと接吻してそのまま奥へと入ろうとしていたかもしれない。
「ん、んふ、……っ゙、れろ、あ゙っ、ん゙っ……」
濃厚なキスを交わしながら、トーマは私の背に腕を回した。肩甲骨の辺りをすーっと愛撫しながら、ブラジャーのホックを摘んで外していく。体を乱して暴れるなか、私も彼のインナーを掴んでまさぐり捲っていく。ホックを全て外すと、今度はショーツのゴムに指先を持っていって下げる。時折指から離れてパチンと肌を叩きながら、私の下半身から薄い下着が抜けて布団の中へ埋もれていく。
「あ゙っ」と声を出して頭を上げると、たっぷりの唾液が白い濁りを含んで私達の間に太めな銀の糸を引いた。とろりと垂れて彼の顎下に貼り付くのを見てから、私は掛布団を払って体を起こし、彼からインナーを剥ぎ取り、自分のブラジャーを脱いだ。
下着に阻まれていた乳房から、一瞬むわりと熱気が昇ってきた。谷間と乳首にかけて汗で湿っている。部屋の空気に触れた瞬間、ひんやりとした寒気を肌に与えた。それはトーマも同じで、露わになった逞しい胸板は汗で蒸れていて、触れるとぴちゃりと粘ついた。
「はぁ、んっ…………ふっ、んんっ゙」
ショーツが脱げて剥き出しになったマンコで陰部を撫でるように腰を揺らし、グリグリとパンツの中で勃起する肉茎を押し潰す。ビクビクと震える硬いモノは、パンツ越しでも分かるくらいに熱を帯びている。早くどうにかして欲しいと呻いている。
「あ、あっ……あん……」
トーマはうっ、と唸りながら、大きな手で私の両乳房を掴んだ。力は殆どいれずに、むしろこそばゆい加減で私の胸元の脂肪を揉みしだく。仕事で機械を相手にしているのもあって、彼の手はかさついて硬い。おまけにシャワーも浴びてないから、昨日の油が少し手に残っていて、ツンと鼻を突く匂い放つ。
でも、嫌いじゃない、私は彼のこの手が嫌いじゃない。
沈ませた指の1本1本を動かして、たまに乳輪を挟んで、乳首をしこる。強引に摘んで捏ねるんじゃなくて、私も気持ちよくなるように。
張ったり張らなかったりを繰り返してきた私の乳ぶさをトーマはこんなに優しく触れてくれる。噛んだり吸ったりするときも、私が痛がらないように気を使ってくれる。それが擽ったくて、心地いい。
セックスの性的な快感とか、よく分からない。
そもそもセックスは気持ちのいいことだっていうのを昔から理解できなかった。
だって、セックスはただやるだけで痛みか異物感しかない。体も心も死んだように固まって動かなくなって、全部が朧気になって、相手の従うままになる。私の意思なんてものはなくて、相手が満足するためだけに行うものだった。早く終わればいいのにとか、なんでこんなことやってるんだろうって、ただ意識がぼーっとなって、自分が別の場所にいるみたいに感じる。記憶が飛んでいつも間にか終わってる、記憶はないけど精液の苦味は口に残ってる、膣から精液が逆流して垂れ流し、なんてことはしょっちゅうだった。
でも、トーマは違う。
トーマは私で感じてくれている上に、私も気持ち良くさせようとしている。一方的じゃなくて、私の顔を見ながら。今もこんな汚れきった私に苦しそうにしながら興奮してくれている。
そんな彼の優しさが嬉しくて、私も彼が感じるように体を駆使する。私の方から気持ちよくさせたいと思うのは、彼だけ。やっていると、自然と内側で快感が生まれる。演技じゃない喘ぎ声が洩れる。歓喜って言った方が正しいのかな。とにかく、他の人間では抱かないものが湧いてくるのだ。
「……もうそろそろ、やろっか、本番」
「でも、今、ゴムないだろ……」
「大丈夫、ちゃんとピル飲んでるから……それに、たまにはゴム、なしでやりたい」
揺れる体をそのままに、彼のパンツに手をかけてズラす。
すると、ズレた瞬間に中で勃起していた彼の肉茎が私の淫唇に胴体を貼りつけた。
回りに筋を走らせる血管の脈動が伝わり、受け入れたいと私の下半身が疼いて奮えた。
体を浮かせて指で肉茎を掴む。勃起して膨れ上がった表面に浮き出た血管が一定のリズムで脈を打っている。陰毛の生える割れ目に先端をあてがうと、亀頭の先から染み出た我慢汁がヌルヌルと滑って、穴と黒い茂みに付着した。
「ねえ、ゴム……なしでいい?」
裂け目で先端にたっぷりと接吻をしながら訊く。
トーマの喉仏がゴクリと上下した。
そしてすぐあと、こくんと頷いた。
これでいい、欲のままに従ってくれた方が、嬉しい。
「んっ……」
狙いを定めて、私もちょっと唾を飲んでから体を下ろしていく。
割れ目にキスを交わしていた亀頭が、膣穴を押し広げて中へと沈んでいく。中は、ちゃんと濡れている。昨夜の残りかもしれないけど、きちんと分泌液が染み出していた。これなら私も彼も痛い思いはしなくて済むはずだ。
「んん゙……」
ちょっとの嬌声にぬちゅっとした音。縦割れの唇と肉筒が彼の形に合わせて広がって、竿の根元まであっという間に飲み込んだ。
膣内で熱くて太いトーマのものが隙間なくみっちりと収まっている。内部から押し広げて圧迫する感覚が、私と彼が肉体的に繋がっていることを証明している。
「…………なんだか、いつもより熱い気がする……アルコールのせい?」
ふるふると小刻みに腰を震わせて呟いた。トーマは苦味混じりな呆けた顔を向け、口の代わりに肉茎を体内で跳ねさせて答えた。どうやら彼も気持ちがいいらしい。こういう時の顔はちょっと変で、可愛くて、愛おしくなる。
「ん……ふっ、あっ」
彼の腹部に手を添えながら、私は腰を使っていく。
「ん、んっ、あっ゙、あんっ゙……ぁ」
両膝を布団に着きながら、ゆっくりと全身を動かしていく。まずはお腹に埋まる肉茎を労るように柔い膣壁を使って竿を揉み解す。この姿勢だと激しい動きをしているわけじゃないから、肉茎はオマンコの中に残って肉襞に握られて圧迫される。チンポを掴むその感触は私にも届いていて、きゅうっと萎むとより形が明確になる。
「ん、っんん……あぁ、ぁっ……あっ、あっ゙」
穴をこじ開ける雄のもの、トーマのものは他の誰よりも私を求めている。
チンコは長い方が気持ちいいとか、長さじゃなくて実は太い方がいいとか、巷ではそういう話が囁かれている。より大きく立派なペニスの方が雄は優勢であり、女を気持ちよくさせる、なんて。性感帯をより刺激するとかなんとか。
けど、私からすれば他人のペニスはどれも同じだ。今朝の男も、私を
そしてみんながみんな、最後には精液を吐き出す。
ゴム越しの時もあれば、容赦なく生で出すこともあった。
吐き出して吐き出して、ふうっと萎れたモノを抜いて事後に浸る。
それでやる気が起きたらもう1回入れて、また揺らす。
その繰り返し。
快感を得て、また腰を振る。
結局、私にくれるのはただの不快感だけ。気持ち良さとは程遠い。いや、そもそもそんなものを欲しいとも思っていなかった。ただの行為でしかないセックスにそんなものを求めていなかった。どうでもよかった。どうでもよかったから、ぼんやりとした輪郭を残して殆どが記憶から消えている。
「んん、トーマ……あ゙、ぁ、ぁ、お゙……っ」
だからこそ、トーマには快感を与えてあげたい。
傍に居させて貰える分だけ、彼が気持ちがいいと思えることをしてあげたい。
私にとって、チンポの形なんかどうでもいい。
相手が彼であることが重要だった。
この人の為ならと、体が動いて彼を発情へと導こうとする。
すると、自然と私の体も興奮していく。
普段は醒めている体が火が灯ったかのように芯から熱くなって、
「お゙っ、んん゙……ぅ゙んっ……んんっ゙」
十分に竿を揉みほぐしたら、今度は前後にも揺さぶってみる。濡れたクリトリスを擦り付けるように下半身を捩らせて、彼のモノを湾曲させるようにマッサージしていく。
硬い肉棒が引き締まった膣肉の内部でぐにっと無理やり逸らされる。普通の固い棒だって、無理やり曲げようとすればポッキリと折れてしまう。だからこっちでも加減をしないと単に痛いだけになってしまう。
「いっ、ジュン……」
「ん゙っ、トーマ……」
トーマは掌に力を込めた。陰部に与えられる痛みを逃すように、指先に力を込めて胸を絞った。汗をかいているから、掴んだ瞬間に乳房の表面を掌がぬるりと滑る。自然と強く揉み絞る握り方になって、親指と人差し指が乳首をぎゅっと摘んだ。
「……ぃ゙……」
「ああ、ご、ごめん……」
「ん、大丈夫、ぁ、へーき……んん」
遠慮することはない。
だって、ちっとも痛くない。
トーマが傷つけようとしていないことを知っているから。
不器用な手つきはむしろ疼疼としたものを啄いてさらに焦らしてきて、その疼きは子宮にも届いて、肉襞をさらに収縮させる。
「はぁ、あ、ぉ゙っ……んぁ、ぁあ゙っ、くっ、んぅ」
肉棒全体に愛液が馴染んだのか、初めよりもだいぶ滑りが良くなった。ならそろそろいいかと、畝らせていた体を上下に揺らす。
初めはゆっくりと、幹の一部を肉穴から這い出させて、直ぐに奥深くまで埋め直す。それを何往復かさせてから、徐々にピストンの速度を上げていく。
「はぁ、はぁ、あぁ、ぁ゙、ぉ゙、んお゙っ……ぁ、っ、んっ、ぁんっ」
腰使いが速くなればなるほど、内側で燻っていた淫らな快楽が水音になって鳴り渡る。ずぶっ、とか、じゅぷっ、という粘液と粘液が摩耗し合って泡立つこの音は、乱れる私をさらに奮い立たせる。だって、この音が鳴っているということは、トーマも気持ちよくなっているってことなのだ。実際、目の前の彼も眉間から皺を取って、ふっふっ、と息を漏らしている。陰部に全神経が集中していくのか、自然と両手が乳房から離れて布団の上に投げ出された。
「んっ、ねえ、トーマ……ぁ゙ん、どう?」
訪ねると、トーマは掻き消えそうな声で応えてくれた。
いい、気持ちいい、ジュン、スゲー、かわいい。
可愛いってどういう意味って思ったけど、トーマからの可愛いは私は好きだ。今も時々見せる、屈託のない笑顔と同じくらいに。可愛いって、そういえば彼以外の他人から言われたこと、なかった気がする。
ベッドならギシギシと軋むんじゃないかってくらいに腰を真上に持っていってから一気に落とす動作を繰り返す。杭を打ち込むように強く強く叩きつけて、弾けて吹っ飛んでしまいそうなくらいに臀の肉が震える。
ここ、まあまあ建付けが古いから、下の部屋にも結構響いてるかもしれない。けど、そんなことお構い無しに腰を煽った。
愛液をたっぷりと纏った肉の幹が膣を何度も何度も往復している。ふっくらと鰓を張った亀頭は、私の肉襞をごっそりとこそげ落とすみたいに肉の中を引っ掻く。反対にずんっと奥へ行くともう離さないと言わんばかりに埋まって、オマンコも求愛に答えるように引き締まった。
「トーマ、ん゙、とーまっ、私も、いい……あんっ、あっ、あっ、ぁ゙……」
他人とのセックスでは得られない心の快感に、私は裸体を弾ませて喜んでいる。生え際から流れる汗を飛び散らして喘いでいる。
無意味で嫌で仕方なかったこの行為がこんなにも嬉しいと思えたのは、トーマとの初夜が初めてだった。
単なる女性の生殖器でしかないここはこのためにあるのだと、愛液を飛沫にしながら実感した。
人肌がこんなにも心地いいものだったのかと、蕩け落ちる意識の中に浸った。
繋がりたい人と繋がりながら眠るのがこんなにも安心できることだったなんて、初めて知った。
「ぉ……ん」
腹中で彼のモノがさらに熱を帯びる。射精の直前になると血液が陰部に集中して硬さを増す。きゅうっと噛む膣穴をさらに押し広げて合図を送ってきた。
「ん、んんんっ゙……!」
背中を反らせて、乳房で天井を仰ぐような姿勢を取る。膣が後ろに湾曲したことで、反り上がる肉幹をぐいっと持っていく。腰を下ろす度に亀頭先が子宮口の先っぽを掠めていて、膣の奥深くを突き上げてキスを交わす。
「……ジュ……も…………」
消え入りそうなトーマの声が、もうじき絶頂を迎えることを告げる。
後ろ手に彼の太ももを掴んで、腰使いの速度をそのままにより強く体を振り下ろした。脂肪が波を打ちあって、陰毛と陰毛が絡み合って、卑猥な音はさらに激しさを増した。
欲しい、中に、欲しい。
妊娠のためじゃなくて、トーマのもので私の中を染めて欲しい、奥深くの傷に上塗りして欲しい。
毛穴の穴という穴から粘ついた汗が吹き出て滴る。すーっと伝った一部が口の中に入り込んで勝手に舌の上に広がる。
一部は弾けて飛沫して、また一部は股間の方にまで落ちて粘液と一体化して弾ける。
2人の体液がぐちゃぐちゃと混ざりあって溶けていく。
「んっ、ぁ、あ、あ゙っ、あっ゙、あっ、ア………………ぁ゙ッッッ゙……っ!!!」
体を揺さぶる途中、丁度先端が奥を突き上げたところで、彼は私の腰を掴んできつく密着させた。途端に、彼の敏感な部位が最高潮に達した。
お腹の裏で体液が吐き出されている鈍い感覚、膣内にじんわりと熱いものが広がっていく感覚、膣内に溜まる白濁の精液を子宮口が降りてゴクゴクと吸引していく感覚、収縮と弛緩を繰り返す膣から生えた肉襞の一つ一つが肉幹に吸着して搾る感覚。
全部の感覚が私の中で一度に起きていた。その全てを、私は肉茎の脈動に合わせて跳ねながら受け止めた。炸裂する度に彼の腰が浮いて、私も浮く。なんだかいつもより長い気がする。オナニー、してなかったのかな。
「は、あ、は……はー」
詰まっていた空気の塊が喉を這い上がる。湿り気を帯びせて口から吐き出した。ストーブがあるとはいえ、部屋の中は十分に冷えている。
冷気に囲まれる中で私と彼の周りは熱い。肌の表面は粟立っているけど、裏側の筋肉は火照っている。全身が上気して、子宮の中でドロドロのゲル状の精液が泳いでいる。
しばらくすると、体の中にあった圧迫感が消えていった。一通り吐き終えたことでチンポが萎れたようだ。
「は、あ……はぁぁ……」
背を戻して深い息を吐く。
戻して早々に、射精後の余韻に浸る彼が目に映った。激しいものが過ぎ去った後のような、安らかな表情を浮かべながら肩で息をする私を見つめていた。
「ねえ、トーマ……気持ちよかった?」
彼は「ああ」と言葉を零して、両手を這わせて私の両腕をゆっくり掴んだ。掴んだまま、手首と前腕部に指を這わせるようにして撫でた。
表も裏も、もう何度付けたのかも忘れてしまうくらいに、私の両腕は切り傷だらけだ。深くまで切り込んだせいで、平べったい箇所は殆ど残ってない。回数は減ったけど、傷の数は今も増えている。今も、時々切っている。酷いとタオルを数枚駄目にしてしまうこともあるし、気絶しかけたこともあった。
それに、傷痕は腕だけじゃない。首下にも太腿にも、体の至る所に過去に付けた痕が残っている。こうでもしないと、当時の私は耐えられなかったし、今も傷つけている。
こんなんだから、他人に見られれば気色悪いと吐き捨てられる有様だ。
意味不明、キョーイクに悪い、構って欲しいのか、当てつけのつもりか、キモチワルイ、気色悪い、頭がおかしい、気が違っている、精神異常者。
途中から雑音に聞こえるくらい、何度言われたか分からない。
傷つけることで行き場のない感情を逃がしているだなんて、死にたいけど生きたいから切っているだなんて、過去の苦しみから逃れたいから傷つけてるだなんて、他人には理解されない。
いや、普通の人間ならわざわざ自分を傷つけるなんて行為はやらないのかもしれない。刃物で傷を刻んだ瞬間の痛みを、すうっと皮が裂けた瞬間にじわりと出てくる粒のような血を、普通の人間は嫌悪するのかもしれない。
普通、普通、普通、呟く度に、自分は普通じゃないと思い知らされる。
「この前の傷、結構深かったから、やばいかなって思ってたけど……塞がってよかった」
そんな異常な私の、肌上の細い凹凸を、トーマは擽るように愛撫する。
彼の愛撫は、いつまで経ってもどこか拙い。
その拙さが私は好きだ。
傷痕を中心に沁み渡るように全身にかけてゾクゾクと駆け巡る気持ちよさが、私は好きだ。
誰でもいいわけじゃない。トーマだから、私の傷痕を貶すことも見下すこともせずに、模様みたい、と言って普通に触ってくれる彼だから気持ちがいいんだ。
「頭、どう? さっきより酷くなった?」
「いや、ちょっとマシになった気がする。ジュンがスッキリさせてくれたおかげだな」
たしかにさっきに比べれば彼の表情は少し和らいでいる気がする。セックスって、頭痛を緩和させる作用でもあるのだろうか。
「トーマ」
飼い主に頭を擦り付ける猫のように、私は上半身を寝かせた。乳房を彼の胸元に密着させて、微動して尖った乳頭を擦り付ける。浮き出た彼の鎖骨を唇で挟むと、玉のように吹き出た汗が口の隙間に入り込んで、ピリピリと味覚を刺激した。塩辛さがさらに増している。帰ってからシャワーを浴びていないから、垢っぽい味も混じっている。
「……ねえ、あと1回、もう1回だけ。そしたら、大人しく寝るから」
「……うん」
トーマは鼻先を私の頭にくっつけて匂いを嗅ぎながら片手で私の髪を、頭頂部分から毛先にかけてまた櫛で解くように撫でた。
どっちも擽ったい。
たまにポンポンと優しく叩かれると、自然と心地良さが湧いてきた。
湧いてきた心地良さは膣穴を締める。抜けかけたペニスを捕まえて肉ビラで咥える。締めつけることで、逸物は再び活力と硬さを取り戻して充血を始めて、膣肉を押し広げる。
「……んっ゙」
ぐりぐりと円を描くように腰を使う。根元まで刺さった肉茎が1回2回と首を振って海綿体を悶えさせる。中で肉襞が肉幹をずるりと引き摺るように擦っている。私の中は、漲る彼のモノに合わせて形を整えていた。
さっきと同じ感じで、と思い腰を揺らした矢先、トーマがのしかかる私ごと体を起こしてそのまま胡座をかき、自然と器のようになった彼の脚元に臀部を嵌め込んで座る姿勢になった。
真正面にトーマの顔が映る。おでこやもみあげから大量の汗を流して顔を濡らしている。きっと、いや、私も同じように汗で濡れている。
「あっ、ァ、ぁ゙、トーマ、あ、あつ……んんっ゙、ッ、ぁ」
彼に腰を支えられながら上下に体を揺すぶる。喘声をあげる度に隙間から白い蒸気のような息が吹き出す。それは彼も同じで、アルコールとタールとニコチンの混ざった空気が私達の間で生まれる。他人なら激臭でも、今の私達にとっては性に燃えるためのお香の代わりだった。
彼の首後ろに腕を回して抱きついて、そのまま乳房を押し付けた。男らしい胸元から生えた濃い体毛が汗でべとついていて、潰れた乳房の産毛と絡み合う。
揺れに任せて膨らみ立った乳首を筆のように動かすと、彼の小さな乳首と擦れ合う。まるで舌先を遊ばせるみたいに先端がむつみ合う。
「は、ぁ、トーマ……トーマ、ぉ゙……あ、っ、ぁ……んっ……!」
唇と唇がまた触れ合い塞がる。喘ぎが彼の喉から胃袋に向かって響いているのが胸の内側の震えで分かる。チンポがマンコを突き上げる肉の衝突によるものとは違う、内臓の中から外へ向かう震えだ。
私は、こんな声も出せるんだ。マグロだのまな板の上の鯉だの、抱いてきた相手から好き勝手言われてきたけど、トーマとのセックスには心から喘いでいる。演技でもなんでもない、私が喘ぎたくて喘いでいる。喘ぐことで喜びを表現している。
「ん、んちゅ、んんっ、あっ、んっ、ん゙っ、ちゅ、ぁぇ、あむっ、ふぇ゙……んぅ゙……トーマ……トーマ……」
無我夢中で唇を吸い、舌を吸い、貪り合う。
愛液と汗で体全体が粘ついていることも気にせずに、腰と腰をぶつける。
外も内も、全部が奮えている。
「あ……ぅ」
激しさを増す中で、トーマが前のめりに倒れる。平らな布団に体がぼふんと投げ倒されて、彼が覆い被さりながら腰を揺らす。下半身がより密着して、自然と脚が開脚して彼の猛攻を受け入れる。いつも私の方から求めて甘えていたから、こうして彼に攻められるのは珍しい。
……このまま、身を任せてみようかな。
彼の首後ろに回していた手を解いて、頭の横にだらんと寝かせて全身を委ねてみる。受け身のセックスは慣れているから、恐怖心はない。いや、そもそも感じないように心が勝手に離れていた。
「ジュン、ぅ、ジュン……」
トーマが呻くように、私を求めて何度も名前を呼んでくれる。掌を重ねて、私の指の隙間に自分の指を入れて、絡ませるように握る。ゴツゴツとした硬い働き者の手は、指の先まで私を挟む。
重なった彼の重みがのしかかって、体が布団との間に挟み込まれる。自由は首と頭くらいで、あとはほとんどない。ただ身を任せて、亀頭が膣奥を突き上げる鈍い感覚を味わう。
ゆさゆさ、布団が擦れる。
キシキシ、畳が軋る。
ミシミシ、骨盤が鳴る。
ぐちゅぐちゅ、膣と肉棒が混ざる。
ぴちゃぴちゃ、肉が波を打つ。
ぐらぐら、視界が揺れる。
はぁはぁ、彼の荒れた息が顔に吹きかかる。
意識が飛ばずにハッキリしているからこそ、この体が私のものだと自覚できているからこそ、こういったことに気づく。早く終わればいいとか、考えようとは思わない。今の私は、自分の意思で彼との性行為に浸っているのだ。
「トーマ……トーマ、トーマ……」
ジュン、と名前を呼ぶから、私も彼を呼ぶ。
薄く目を開いて、部屋に微量に入り込む外の明かりを逆光にする彼の顔を見る。
背後には天井から吊るされた室内灯の白い輪があって、中心から細い紐を垂れている。
この光景、どこか見覚えがあるような、ないような。
…………不意に、背中に寒気が駆け巡った。
唐突すぎて、自分でも何故か分からない。
でも、よく似ている。
普段から私を苦しめる過去の記憶、それが蘇るあの瞬間に。
「(え、なんで……どうして……?)」
分からない、今まで彼とのセックスでそんなことはなかったのに、心で喜んでいるのに、体が冷たくなっていく。
穴という穴から中身が徐々に漏れ出していくみたいに抜け殻になっていく。感覚も喜びも、全てがどろどろに溶けて抜け出していく。
手が動かない、頭も首も動かない、唯一動かせるのに動かない。
けど目だけは前をじっと見ている。トーマじゃなくて、どこか遠くを見つめているみたいにぼやけてる。焦点が合わない。
「ジュン、ジュン」
──ジュン、ジュン。
違う、目の前の男はトーマで、あの人じゃない。
あの人とは違う、目も鼻も口も全部のパーツが違う。
息も違う、汗の味も違う、声も違う、私としているのは間違いなくトーマだ。
──はぁ、ジュン、ジュン、いい体だ、なぁ。
なのに、あの人の声が彼の声に重なっている。初めはハモるように、そこから少しずつ上書きするように、あの焼けた声に侵食されていく。
目は間違いなく今を捉えている。なのに、頭の中は過去を映している。普段は怒鳴ってばかりなのに、こういう時ばかり猫を撫でる声になるあの人が、私の目の前に現れる。顔の輪郭も息の匂いも体の重さも全てがあの頃に戻される。私の体もまるで子どもの頃に戻ってしまったかのような錯覚に陥る。
──きもちいなぁ、ジュン、なあ、ジュン、お前もそう思うだろ。風呂で教えてやっただろ?
違う、全然気持ちよくない。
気持ちいいわけがない。
汗臭い、涎が汚い、油ぎった肌が気持ち悪い、手が痛い、お腹が貫かれたみたいに痛い、お股が痛くて吐きそう、息ができない、叩かれたほっぺたが痛い、煙草臭い、重い、体が動かない、体が言うことを聞かない。
「ジュン?」
──ジュン、お前もきもちいよなぁ? 指よりいいよなぁ?
やだ、嫌だ、やだ、やだ、臭い、臭い、苦しいっ、苦しいっ、痛い、痛い、お股が痛い、体が裂ける、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、動けない、動いて、嫌だ、嫌だ、痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい……死にたいっ!
「大丈夫か?」
頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回される。堰き止めていたものが一瞬で崩れたみたいに感情がぶれる。息が荒れる。聞こえるもの全部が雑音になる。目の前が斑に濁る。
「ジュン……?」
──ジュン、お前も女だな。
ああ、ダメだ……。
……これ、ダメなやつだ。
……私が、壊れる。
……最悪だ。
「あぁぁぁああぁあぁ゙あぁぁぁぁ゙あっっっ!!!」
体の奥底から黒い物が駆け上がって、口から悲鳴になって飛び出した。自分の耳でさえも劈くような金切り声が、ずっと抵抗しなかった、できなかった分を吐き出すように部屋を震わせた。
体が目の前で蠢く恐怖を払い除けようと飛び跳ねる。
手脚をばたつかせてのしかかるものを力任せに殴って蹴りつける。
股下と腹裏の異物を抜こうと苦しみ藻掻く。
「ジュン」
「やだ、いや、やぁっ! やだぁぁぁ! ああぁぁ゙ああ!」
悲鳴が空気を伝わる。
分かってる、今の私を支配してるのは『ダメな私』。
ダメっていうのは、トーマを傷つけたり迷惑をかけるって意味。
あの時、無知で抵抗する力もなくて何も出来なかった、何も出来なかったから生まれたこの私は、ピンチの時に代わりになって私を守ろうとしてくれる。
1度砕けて粉々に割れた、
私にとっては迷惑で、けれどいないと困る存在、いなかったらそのまま沈んで死んでいるかもしれない。
でも、違う。
今ここは私と彼の部屋で、目の前にいるのはあの人じゃなくてトーマだ。それは理解している。理解しながらも、私の意思と体は彼を敵と認識して身を守ろうと狂う。
「いやぁぁぁぁ゙あっ! 痛いっ! 痛いっ! あぁあぁぁっ!」
喉が裂けるくらいに滅茶苦茶に叫び散らかす。飛び起きて半ば押しのける形でトーマが退いたあとも、体は必死に抵抗を続ける。暴れても宙を切るだけなのに、腕も足も頭も、指先にかけてまで全身のパーツが駄々を捏ねるように暴れる。
「やっ! あぁ! あぁ゙っ! ああぁぁあっ!」
トーマが離れても、あの体にまとわりつく感覚は消えない。
声も息遣いも体温も湿り気も痛みも生臭さも、私の身体の中で完全に再現されている。
涙が止まらない、ワーワーギャーギャーと声を上げれば上げるほど瞼から熱い液体が溢れて頬をべちょべちょに濡らす。
膣穴から精液が漏れ出している。
毎回毎回、何も付けずにやっていたから、いつもこうやって精液が垂れ流しになっていた。
本人は付けるつもりなんて更々なくて、なにもしない私の中に吐き出していた。
掻き出す度に、白濁色の精液がドロリと滴った。
唇が気持ち悪い。
ベトベトに汚されて、臭い。
引っ掻いても引っ掻いても落ちない。
あの脂とアルコールの混じった息遣いが粘り着いて取れない。
拭っても拭っても消えない。
皮が剥がれて血が出てるのに消えない。
「ジュン」
声と一緒に手が私へと伸びる。
その手は、私を貪ろうと襲いかかる悪魔の手にしか見えなかった。
「やっ! やだっ! やだっ! いやだぁ! さわるなぁぁぁぁぁ゙!」
無我夢中で近くにあったものを掴み、思い切り振り上げた。振り上げて投げたそれは、眼前の相手の頭に当たり、ごんっと叩きつけるような鈍い音を立てて、1度弾んで畳へと落ちた。
「っ゙……」痛みを堪えるような一瞬の呻きが聞こえた。
「…………ぁ」
興奮が醒めた時には、トーマは俯いたまま額を抑えていた。あの声は聞こえない、風景も元のアパートに戻っている。全身の熱がひゅうっと抜けていって、芯を冷やす寒気が背中に走る。目の前で呻く彼を見て、傷つけてしまったという事実に肩が震える。
もしかして、なにか硬いものを投げてしまった? テレビのリモコン? 灰皿? 灰皿だったら大怪我だ、灰も散らばるから目に入ると危ない。リモコンでも当たり所が悪ければ血が出てしまう。硬いから頭じゃなくても痛いし、目に当たったら腫れて、最悪失明してしまうかもしれない。
「トーマ……あの、ごめ…………っ」
──お父さん、殴ったあとはちゃんと言ってくるんだ、ごめんなって。ハッって正気に戻って、ああまたやっちまったって、いつも後悔してたよ。本当の本当に悔しそうに、たまに泣くことだってあったんだ。
謝ろうとして、不意にあの人の言葉が蘇り、咄嗟に下唇を強く噛んだ。血が滲んで鉄臭い味が広がった。
……なんだ、やっぱり私、そっくりじゃん。
嫌いで嫌いで、憎くて憎くて、怖くて仕方ないのに、結局はあの人達の子どもなんだ。
自分が受けてきたことをトーマにも同じようにぶつけている。サイテーな部分、しっかりと受け継いでる。いや、そもそも私がダメな人間なんだ。
「……ごめん……なさい…………ごめん、なさい……ごめんなさい……」
気がつくと、ひたすらごめんなさいと同じ言葉を繰り返していた。加害者のくせに被害者ヅラして涙まで流してる。
サイテー、ホント、サイテー。
「……ジュン、俺が分かるか?」
トーマが肩に手をかけてきた。顔を上げて優しげな眼差しを向ける彼を見る。額は当たった箇所が赤くなってるけど血は出ていない。でも少ししたら腫れるかもしれない。おでこは肉が薄いから腫れやすい。ちょっとでも強く殴られるとたんこぶみたいになる。
「なあ、俺は大丈夫だって。ほら、財布、ジュンの財布。柔らかい部分だったから、怪我はないよ。だからほら、もう心配しなくていい」
トーマが私の肩を微かに揺らしながらあやすように声をかける。
私はなにも答えられない。
答えられずにただ泣きじゃくるだけ。
都合が悪ければすぐに泣く、涙を免罪符にして謝る、最低な人間のやり口、許してもらえないかもしれないけどとか、傷つけたくせに許してもらおうとする。私は、そういう人間。お母さんやみんなの言う通り、クズ。クズ、クズ、クズ。最低な卑怯者。
「うぅ……」
こんなときに、また体の内側で痛みが走った。駅で襲ってきたのと同じ、子宮の壁から膜を剥がされる痛みと、目の奥を圧迫するような痛み、膣穴から大きなものが這い出る痛み。
両腕で体を搔き抱いて、皮膚に爪を深く刺して震える。
死ね、死ね、死ね、そう言いたい。
いつもみたいに呪詛を吐こうとしても吐き出せない。
どんなに痛みを与えても冷静になれない。爪が皮膚の薄い表面を破ってくい込んでも変わらない。
それどころかどんどん深い穴の中へと落ちていく。
脳の中で昔の記憶が意志とは無関係に再生されて、私の内臓をズタズタに引き裂いていく。
怖い、全てが怖い、全てが憎い、この世界が嫌い。
自分が大嫌い。
「うぅ、ぐすっ、ぅ、ご…………さい……ごめん、なさい…………ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。
私は誰に何に対して謝っているのだろう。
そうだ。ごめんなさいは、私が小さい頃から繰り返してきた言葉だ。
お母さんもお父さんも、不機嫌になるといつも怒鳴ったり殴ってきた。何もできなかった私は、あの人達の言う通りで全てが私が悪いと思って、謝り続けていた。
だって仕方ないもの、私、悪い子だから。迷惑ばかりかけて、人を不幸にすることしかしないから。
──あたしは仕事で体張ってんの。好きでやってるあんたと一緒にすんな。
まただ、またお母さんとの記憶が蘇る。
彼処を出ると宣言した日の、荒れ狂うお母さんの罵倒が、ずっと抑えていた本音をぶつけられたあの瞬間が、心底からの憎しみが込められた瞳が、映像と一緒に蘇る。
──そもそも、本当に嫌だったら拒否できたはずだろ。
──それをあんたは毎度のように飽きもせずに……本当は、あんたも楽しんでたんじゃないの? でなきゃやらないでしょ? 知ってんだよ、あんたとあの人が今でもやってんの。思いっ切り臭うんだよ。どーせあたしのこと馬鹿だとか見下してるから、気づかないとか思ってたんだろ。そーいうとこ、
──あの人にやられたなんて言ったけど、結局は気持ちよかったんだろ? だから続けてんだろ? あ? 違う? どこが違うんだよ。嫌ならやらなきゃいいだろ。そんな簡単なこともできないわけ? バカなの?
違う、違うよお母さん。
私、本当に嫌だった、凄く嫌だった、凄く痛かった、死んじゃうと思うくらい辛かった、息ができないと思うくらいに、死にたいって思った。
でも、どうにもできなかった、凄く怖かった、やめてって言おうとしても口が動かなかった、体が動いてくれなかった、殴られるのが怖くて、殺されるのが怖くて、何も出来なかった。
あの後もずっとそう、また酷い目に遭うと怖くて、掴まれて倒されてもどうにもできなくて、体が人形みたいになって…………。
──大体、中学はあんたの自業自得だろうが。こっちは教科書代も昼飯代も、制服買う金だって出してやったっていうのに、マトモに行きもしないで、それどころかマセて男子とやって、挙句には何度も何度も腹ん中に作っては金を無駄にさせて……借金だって返さなきゃいけないのに、あんたがバカなことばっかしてくれたおかげでどれだけ迷惑がかかったと思ってんの?
だって、学校に行っても虐められるから。
教科書も鞄も全部ぐちゃぐちゃにされたし、尻が軽い女とか、嘘つきとか、お水の娘とか、ロクデナシの娘とか呼ばれて、教室に居場所なんてなかった。
でも、家に帰ってもお父さんに怒鳴られるか、いつものように相手をさせられるかの、どっちかだった。だから、少しでもいいから、どこでもいいから逃げたかった。
でも、逃げても苦しかった。みんな、セックスのことばっかり。たまに3人とか4人とか、仲間とか言って知らない人の相手までさせられた。酷い時なんて、私は迫れば簡単にヤラせてくれる女だって、知らない人達に囲まれることもあった。もう何回
──そもそもあんたさぁ、性格悪いよ。自分が可哀想みたいな言い方ばっかしてさぁ、都合の良いように自分の記憶書き換えてない? そんなんだから虐められたんでしょ? それもあたしのせい? あ? 違うだろ? あんたの性格の問題だろ? あんたの性根が腐ってるのが悪いんだろ? あたしに責任押し付けんな。
「ごめんなさい……」
──つーかさ、さっきからなに被害者ぶってんの。むしろこっちが迷惑かけられっぱなしで謝って欲しいくらいなんだけど。てか、そんなに嫌なら出てけば良かったんでしょ。ねえ? 今ここ、あんたが自分の意思でここにいるわけ。分かる? あたしはろくに働きもしないで居るなって言ったの。勝手に体売ってここにいるのを選んだのはあんた。売んのを決めたのもあんた。フツーのバイトとかやればよかったのに、やんなかったのはあんた。自己責任じゃん。それをさぁ、なに? お母さんのせい? お母さんが稼がないと追い出すって言ったから? 都合の悪いことはぜーんぶあたしのせいなわけ? へーそう、あんたの中で自分の不幸は全部あたしが原因ってことになってるわけだぁ。
……っ、ふざけんなっ! 何でもかんでもあたしのせいかよ、全部全部あたしのせいかよっ! どいつもこいつも馬鹿にしやがって、あたしはゴミ溜めじゃねえんだよ、クソがっ!!
違う、お母さんを責めたいんじゃない。お母さんを悪者にしたいわけじゃない。私が悪かったのは分かってるよ。
ただ、アルバイトとか、働くとか、よく分かんなくて、でも、この家しか、お母さん達の隣しか、私が居てもいい場所はないから、凄く怖かったんだよ、ここを追い出されたら、どう生きればいいか分かんなくて怖かった、だから、せめてお金を集めるだけでもって……。
それに……ずっと傍に居てねって、お母さんと約束したから。お母さんの味方はあたししかいないって、お母さんには、私が必要だって、言ってくれたから……だから、私……。
──知るかっ! あんたの欠点をあたしのせいにすんなっ!
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん、なさい」
──あーほんと………………ほんともぉぉぉ゙!! なんなのあんたっ! さっきからごめんなさいごめんなさいって、どーせ本心ではそんな気持ち1ミリたりともないくせにっ! こっちからすりゃあ、あんたなんかが生まれたせいであたしの人生めちゃくちゃなんだよっ! せっかく地獄から抜け出したと思ったのに、今度はあんたがあたしの人生をぐちゃぐちゃにしたっ! 分かる? あんたマジでろくな奴じゃないんだよ、あたしを苦しめるためにこの世に生まれてきたんだよ、ああもうっ! 畜生っ! 畜生っ! 畜生゙っっ! あたしの人生返してよっ! 奪った時間返せよっっ!
「ごめんなさい…………ごめん、なさい……」
──………………あんたなんか……あんたなんか、堕ろせばよかった……あのまま産まなきゃよかったんだよっ! あーあっ! この人殺しっ! 死ねっ! 死ねっ!
待って、お母さん……私…………わたし。
──うるさいっ! うるさいっ、うるさぁぁい゙っ! もーあんたに振り回されんのはうんざりなんだよっ! 出ていきたきゃさっさと出てけっ! あたしの目の前から消えろっ! 二度とそのキモイツラ見せんなっ゙!
「ご…………さい…………ごめん…………」
そうか、そうだった。
全部、私が悪いんだ。
あそこに残りたいと思ったのは自分の意思だし、男に抱かれたのも私の意思、中学に行かなかったのも私の我儘、お父さんに抵抗しなかったのも私、嫌だって言わなかったのは私、そもそも、私が必死に抵抗してればお父さんだって…………全部、私が悪いんだ。
勝手に汚れた私のせいだ。
生まれてきちゃった私の責任なんだ。
私がみんなを苦しめてるんだ。
私は人を不幸にすることしかできないんだ。
私が苦しいのは、自業自得なんだ。
私は、誰からも必要とされてないんだ。
私は、死んでもいい人間なんだ。
死ねって、本当は私に対して言ってたんだ。私なんか死ねばいいのにって、ずっと声を上げていたんだ。
死ね、死んでしまえ、私なんか、死ねばいい。
「ジュン」
トーマが私の名前を呼ぶ。両手を肩に置いて、面と向き合うように座ってこっちを見つめてる。俺が分かるか、と訊かれた。こくんと頷くと、彼は覗き込むように顔を近づけてきた。さっきと変わらず、穏やかだった。
「いいか、ジュン。ここはジュンと俺の部屋だ。ここにお母さん達はいない。教えてないからここには来ない。誰もジュンを怒るような人はいない。それは分かるな?」
問いかけにもう一度首を縦に振った。トーマは間を置いてから口を開いた。
「……ジュン。いいか、ジュンは、悪くない。ジュンは、謝んなくていい。ジュンは、なんも悪いことしてない。ジュンは、必死に頑張ったんだ。生きるために、傷つきながら、沢山傷つけられながら、ジュンなりに必死になって生きてたんだ。ジュンはなんにも悪くない。
だから、自分を責めなくていい、謝らなくていい。自分が誰かを苦しめてるなんて思わなくていいんだ」
優しく語りかける彼の言葉が鼓膜に絡みつく。
徐々に体の震えが収まって、肩と手の力も抜けてきた。
恐怖が落ち着いて、彼の目を見ることができた。
「ジュンは、汚れてない。誰も苦しめてもない。頑張って今まで生きてきたんだ、それって凄いじゃんか、素敵じゃんか、な? 俺も、ジュンに助けられてるんだ。そんなジュンは、素敵だ」
一つ一つの言葉に、冷静さを取り戻していく。体の中に生気が戻って五感がハッキリとしてくる。手入れを怠った荒れ気味な肌をくちゃっとさせた屈託のない笑顔が眩しい。
初めて出会った時と全然変わってない、濁りのない眼が私を捉えている。擦れていない、人を疑うことを知らない頭の中の純粋さが瞳に浮かんでいた。ホント、子どもの頃のままだ。図体だけ大きくなって、あとはそのまま。好きな笑顔もそのまま。昔の私は、彼のこういうところが愛しくて憎くて、好きだった。
再会した時もそうだった。
彼は、最後に会った頃と比べて成長して大人になっていた。私も初めは誰なのか思い出せなかった。
でも、私を見て、私の名前を呼んで、私がトーマの名前を呟くと、彼は笑顔を向けてくれた。
それを見た瞬間、ずっと奥底に閉まっておいた記憶が一気に引き出されて、彼との思い出が蘇った。辛い日々の中で、唯一幸せに感じられたあの一時が波のように押し寄せてきた。
……こんな彼に、私はなにをした。
再会した彼に、どうしてあんな惨い言葉を投げた。
それどころか、怪我まで負わせてしまったじゃないか。
そして今、私は彼に隠れてなにをしている。
どうして裏切るようなことしかできない。
こんなにも散々迷惑をかけて傷つけて、それでも私を受け入れて抱きしめてくれる彼を、どうして私は仇で返すような真似しかできないんだ。
本当に、私は、何をやっているんだろう。
「……ごめんなさい」
また謝った。けど、今度はお母さんにじゃない。
「ううん、俺の方こそごめんな。勢いでこんなことになっちまって。嫌な思いさせたな」
「……違う、そうじゃない」
そうじゃない。私はトーマに謝らなくちゃならないんだ。
嘘をついてた、アルバイトなんてしてない、本当は知らない男に体を売っていた。今朝も年上のおじさんに貪られてチンポをしゃぶって精液を飲んで唾液を啜った。トーマが苦労して働いてる間、私は他の男とセックスをしていた。過去のことでいちいち泣き叫んで八つ当たりして、それでも見捨てずに信じてくれるあなたを差し置いて、私は嫌なことと自称していた行為で金を得ていた。嘘つきの自分勝手な、生きる価値のない最低野郎なんだ。そう言ってしまいたかった。
けど、口が開かない。このまま打ち明けたら彼に拒否されるかもしれない、もうここにいられないかもしれない、居てもいい居場所を失うかもしれない、そう考えた途端に口元が縫い付けられたみたいに塞がった。
モゴモゴと唇を細く開閉させるだけで、何も続かない。掌に爪がめり込むくらいに拳を握っても、最初の一歩が踏み出せない。その場でジタバタと地団駄を踏むだけでちっとも前に進めない。このまま逃げてしまいたい。逃げて嫌われれば楽になる。いっその事そうしてしまった方がいい気もした。
「ごめん、トーマ……ホントに、ごめん…………」
でも、ただひたすらに謝ることしかできない。
裏切ったことも、これまで傷つけてきたことも、全部を引っ括めて、たった6文字の言葉を繰り返すことが今の私の精一杯だった。
「ごめん、なさい……ごめん……トーマ、ごめん……ごめんなさい」
もうトーマは止めなかった。代わりに肩を引き寄せて、厚い掌で私の背中を軽く叩いた。
トントン、背中が一定の間隔で叩かれる。労るような音色が背中に広がって内側まで響いて、奥底に溜まっていたものを這い上がらせて嗚咽として吐かせる。
「いいよ、今は言わなくて……今は、自分のために泣いていいんだ」
「……うん」
トントン、トントン、彼の手が優しく背中を叩く。1回1回叩かれる度に、硬った体が解れて、胸辺りの詰まるような感覚が溶けていく。自然と手の力も抜けて、彼の背中に手を回していた。
分かる、私にも分かる。私はここにいる、トーマの体の温もりが、優しさが、分かる。私の体が芯から火照っている。死んだように冷たくなっていた体は、こうしてちゃんと熱を持っている。
薄暗い部屋の中が歪む。けれどそれは嫌な歪みじゃなくて、目から溢れたものが膜のようになって視界を被っただけだった。
「ごめん……ごめんなさい……トーマ……ほんとに、ごめん……」
歪みに被われた世界の中で、私は子どものように泣きながら謝り続けた。彼は止めることはせず、そうかそうか、と慰めるみたいに背中を擦った。掌のザラザラとした表面が擽ったくて、けど、心地良い。
トントン、トントン、トントン。
叩くそのリズムは、私が喚いている間、ずっと続いていた。