◇◇◇◇◇◇
「雪、酷くなってきたな」
「…………」
「久々にこっちのやつ見たけど、やっぱあっちとは比べもんにならないなぁ」
「…………」
「あっちは降らないんだ、あんまり。のくせに、夏はすげー暑いし、冬はすげー寒い。体、バカになりそうだ」
出入口の穴から外の様子を眺めながら、彼は細い息を吐いて、思い出を語るように言葉を零した。
時刻は深夜近く、空は黒く染まっているうえに、白い釦のような塊が勢いよく降り注いでいる。常夜灯の白い光が、ザラザラと当たる塊越しに、辺りをぼんやりと照らしていた。
見ない間に随分と寂れ度合いが増している。
公園の周りを囲む背の低い柵は塗装が剥げて、何かが衝突したような痕がそのまま残されている。鉄棒のバーは完全に錆びて茶褐色に変色しているし、この小さいドームも黒いひび割れが目立っている。それどころか、周りの住宅郡までもが古さに拍車をかけていた。唯一あの頃の形を留めているのは、ピンク色の硬いベンチくらいだった。
いつかなくなるだろうな、ここ。
何となくだけどそう思う。
「ここ、こんなに荒れてたか? 数年離れてただけで、こうも変わるもんか」
ふう、とまた息を吐く。今度は多くて、視界の端で彼の白い吐息が舞って、風に流されて消えた。
変わったと言っても、ここの荒れさは昔からだ。
だからこそ、逃げ場所という名の居場所にはちょうど良かった。
「確か、ジュンと初めて会ったときもこんな感じだったよな。雪が降ってて、寒い寒いなんて言ってたら、お前が入ってきたんだ。それで、俺が食ってた肉まん見て腹を鳴らして、食うか? って渡したんだ。あのときすげー睨んできたよな、お前」
「…………全然違うんだけど」
「ん、どう違うんだ?」
「あの日は、冬じゃなくて夏。夏休み前で、しかも凄く暑かった。雪なんて降ってないし、むしろ蚊が多くて、痒くて痒くて大変だった。くれたのも、肉まんじゃなくてどろどろに溶けたチョコレートのパンで、手にチョコがくっついて大変だったし、睨んでない……あと、これは雪じゃなくて霙、見れば分かるでしょ」
そう言うと、彼は「知ってる」と返し、「わざと間違えたんだ」
まんまと嵌められたわけだ。
「なんで、わざわざそんな面倒なことを」
「ジュンが本当に俺のこと忘れたのか気になったんだ。とっくの昔に忘れた、なんて言われたからな」
「……意味、分かんないだけど」
本当は分かってる。
「……なんで、私なんか助けたの?」
でも、今更そんなこと言えないから、誤魔化すために質問を投げた。
「あんなことが起きたのに、突っ立ってるだけなんてできねえよ」
彼は私に顔を向けた。傷が痛むのか、少し首を捻っただけで呻くような声を上げた。
「馬鹿じゃないの。わざわざ突き放した人間を追いかけるなんて。その上そんな怪我までして、そういう自分がかっこいいとか思ってる?」
「かっこ悪かったか?」
「最高に。なにもやり返せずに一方的にボコボコにされるって、ダサすぎ」
「そう言われればそうだな。俺、喧嘩とかしたことないから、あーいうときどうすればいいのか分かんないんだ」
こうなるなら先輩達から喧嘩の仕方くらい教わっとけば良かったなぁ、なんて言って彼は目を細めて笑った。
その顔は傷だらけで、誰がどう見ても袋叩きにされたと一目で分かる。目はわざわざ細めなくてもいいぐらいに青黒く腫れ上がっていて、口端や頬や鼻には赤い擦り傷ができている。私なんか助けようとしたから、一方的に男達からリンチされてしまったのだ。
私は、アイツらが罵声を吐きながら彼を嬲る光景を、ただ呆然と見ていた。何もせずに、悲鳴すら上げずに、あんぐりと口を開けたままだった。挙句、病院にすら連れて行かずに、こんな場所に来てしまった。
「…………馬鹿みたい」
捨てるような言葉は、彼に対してなのか、それとも自分に対してなのか、分からない。多分、両方かもしれない。
それにさ、と彼は言って、
「言っただろ、絶対迎えに行くって」
と繋げた。
そんな昔の約束を、しかも拒絶したのに、彼は数年間も覚えていたのか。わざわざ、こんな離れた場所に戻ってまで。
「そもそも、私がまだここに居るとか、他に男がいるとか、考えてなかったの? ていうか、あの時だって拒否したでしょ? ふざけんなって。なのに来るって……普通は気持ち悪い」
「まあ、だよな。そうなるよな。でも、それならそれでいいと思ったんだ。ジュンは大丈夫だって思えたら、そのまま向こうに戻ればいいって」
じゃあ、彼から見た今の私は、全然大丈夫じゃなかったわけだ。
いや、彼じゃなくても、他人からすれば私は異常かもしれない。
「……私のこと、少しは周りから聞いたんでしょ?」
そう尋ねると、彼は「まあ、少しはな」と軽い口調で答えた。まあ、当然か。少なくともここいらの人間は私のことを知っているはずだ。勿論、悪い意味で。それで全員、嘲笑ってる。
「じゃあ、分かってて私を助けたんだ」
「助けたっつうか、実はちょっとだけ跡つけてた」
「……キモ」
「自分でも思う」
出入り口から冷たい風が入り込んで、私達を掠めていく。ぼおぉ、という風音が耳を叩いた。傷口に染みたのか、「いってぇ」と囁くように彼が呻いた。
「……じゃあ、もう分かってるんでしょ? 私が今なにをしてるのか、どんな女なのか」
私はどうして欲しい。さっきから彼を罵倒するような言葉を並べて、このまま帰って欲しいのか、の割には体を彼に任せて引っ付いている。つくづく、面倒くさい。
「別に、トーマはなにもしなくて良かったんだよ。全部、私が自分で蒔いた種なんだから、ただの巻き添え損」
トーマ。
酷い別れ方をしてから、私はこの名前を忘れようとした。もう二度と会いたくない、会えるわけないと、頭の中から消していたつもりだった。
でも、結局は忘れられなかった。消したつもりが、記憶の片隅にこっそり保管していた。思い出に縋る、なんとも醜い女だ。
「トーマ」
「んー?」
──もう、いいか。どーでも。
投げやりな独り言を胸に零して、私は彼に、この数年間の爛れただらしない生活、それから、最後に会った日のこととか、家でやられてきた日々とかを、捨てるように話した。別に、詳しく説明する必要もないくらい、価値のない話を、長い時間をかけて聞かせた。
ほんと、自分でも驚くくらいに、スラスラと言葉が出てきた。トーマと一緒に居た時なんか、絶対に知られたくないとか、話したくないとか、適当な言い訳を並べてたくせに、今じゃ他人の体験談を語るように話せている。
「さっきのは多分、元彼から私を紹介された男達だよ。この前久々に再会してセックスした時に、いいバイトがあるって言ってきて、ろくに内容も聞かずに受けたってわけ……まあ、まさか、あんな強姦紛いのことされるとは思わかなったけど」
だとしても、強姦なんて経験済だからそんなに焦らなかった。むしろ、ああまたこれかぁって感じで諦めてしまっていた。抵抗なんて無駄だからと、囲まれて掴まれた時点でもうどうでも良くなっていた。また一方的に入れられて、しゃぶらされて、中に吐き出されるんだろうな、その程度の気持ちだった。
「だから……完全に私の自業自得。なあなあで引き受けた報いを受けただけ……トーマは、ホントに巻き込まれただけ」
話し終えたのを察したのか、トーマは「そっかぁ」と言って、こてんと私の頭に自分の頭を乗せてきた。吐き出す息がより近くなって、冷えた頬に届いた。ほんのりと、血の匂いが混じっている気がした。
少しの間を置いて、彼は口を開いた。
「馬鹿だよなぁ。俺、ホントに大馬鹿野郎だ。ジュンがすげー苦しんでたのに、それに気づかなくて、一緒に暮らそうだなんてカッコつけて言ってよぉ……お前が怒って当たり前じゃんか……なんだよ、無責任すぎだろ、マジで。アタマ、バカだ」
「……別に、トーマは悪くない」
単に、私が言わなかっただけだ。
トーマには、本当の私を知って欲しくなかった。秘密を共有する相手として、心を許せる相手として、汚い私を見せたくなかった。
だから、言わなかった。
だから、再会した彼に突き放すように罵倒をぶつけた。
無意味にただ生きている私なんかを見て欲しくなかった。
それなのに、彼は追いかけてしまった。私なんかを追いかけた挙句、こんな怪我までしてしまった。
やっぱり私って、最低な人間だ。みんなの言う通り、人に迷惑しかかけない、悪意だらけの女。
存在の価値も意味もない、ただ生きてるだけのクズなんだ。
ひゅうっ、と鳴る細い風が、膝の下に入り込んで湿った臀部を撫でた。
「……なあ、ジュン」
彼は私の頭から離れた。見上げるように目を向けると、目の前に腫れて歪んだ笑顔があった。視線が交わり合った。
「俺と一緒に、向こうで暮らさないか?」
吹いていた風が不意に止んで、辺りが静寂に包まれる。まるでこの世から音が消えたみたいに、けどただ1つ、彼の呼吸だけは拾っていた。
「……人の話、ちゃんと聴いてた?」
「ちゃんと聴いてたぞ。だから、言ったんだ」
「……言ってる意味、分かってる?」
「うん、分かってる」
「じゃあ、なんで」
「……俺、やっぱりお前のこと、放っておけないんだ。
ううん、違うな。俺、お前と一緒に居たいよ…………ずっと、忘れられなかったんだ。ジュンのこと。あっちにいる間、お前のことばっかり考えてた。あいつ、まだ元気かなーとか、飯食ってるかなーとか」
「……普通に、気持ち悪い」
風はまだ吹かない。
手足の先の感覚がなくなってきた。
凍った空気の中で、お互いの生温い吐息が顔に降りかかり合う。
「……私なんかと一緒にいても、なんもいいことない」
「そんなもん、分かんないって」
「ちょっとは頭使ったら」
「勉強苦手だったから、ちょっと無理だな」
「私のせいでこんな目に会ったのに」
「お前は悪くないだろ。なあ、なーんにも、な」
どれだけ否定しても、彼は引かなかった。
「……今度こそ、本当に連れて行きたいんだ。置いていきたくないんだ」
──ああ、その目だ。その瞳だ。赤く滲んでも透明さを失わない。やっぱりトーマは、昔から変わってない。
「……あーあ、ホント……バカみたい」
視線を逸らして、もう1度トーマの肩に頭を任せる。
彼もまた私の頭のてっぺんに自分の頭をこてんと預ける。視線はお互いに、外の景色に向いている。
「……普通とか、わかんない」
うん、と彼が喉を鳴らす。
「……幸せとか、わかんない」
うん、とまた喉を鳴らす。
「……子どもとか、作る気ない」
うん、と頷く。
「……泣いても、知らないから」
うん、と囁く。
「……後悔しても、責任、取れないから」
少し笑って、またうん、と呟く。
風が、また吹き始めた。
外の霙は地面に落ちる音すら立てずに、しんしんと降り注いでいた。
◇◇◇◇◇◇
「頭、まだ痛む?」
「んー、目の奥が少し。けど、朝に比べれば全然」
「そう、ならいいけど」
「お前こそ、唇大丈夫か? 結構真っ赤だぞ?」
「少し痛いだけだから、平気。すぐに乾くと思う」
行為を終えた私達は、お互いに並んで敷布団の上に座りながら、ぼーっとした時間を過ごしていた。ただ何もせずに、小さなストーブの熱と包まった掛布団の中に籠る2人の体温で暖を取りながら、窓外を眺めていた。
「霙、止みそうにないね」
「ああ、この調子じゃ、明日は道が凍るかな」
「……かもね」
「電車は、まあ積もんない限りは大丈夫か」
外の霙は勢いを増していた。灰色のはずの空の色すら白で隠している。向かいの一軒家の黒い瓦屋根もザラザラと降りる粒に邪魔されてまともに見えない。さっきから寒さが増していた気がしたけど、これなら当然だ。
「いい加減、炬燵とか買った方がいいかもな」
「……別に、なくていい」
「けど、ストーブ1つじゃ寒いだろ? 炬燵くらいなら、2人用の安いやつがあるだろうしな」
「……私は、なくても平気」
炬燵なんか無くても、こうやって2人で寄り添っているだけで十分に暖かいからいらない、そんな気持ちの悪い言葉を口にする勇気は、今の私にはない。
絡めている手に力を込めた。掌にじんわりと汗をかいている。顔は冷たいけど、布団の中はやや暑い。裸なのもあって、毛穴から吹き出す汗はそのまま肌に留まっていた。
「あの……さっきは……本当にごめん。ううん、いつも、本当にごめん……迷惑しかかけなくて、ごめんなさい」
ひとしきり泣き終え、『ダメな私』がようやく息を潜めてくれたあと、私は彼に慰められながら、自分がこの数ヶ月間、嘘をついてなにをしていたのかを、できるだけ言い訳がましくならないように話した。自分のできる精一杯とか、そういうことは加えずに、事実をぽつりぽつりと呟いた。
でも、それでもやっぱり言い訳っぽくなってしまった。
話の中でちょくちょく挟む自虐も鬱陶しかったし、第一、ずっと俯いてて前を向けなかった。自分でも酷いと思ったし、もし自分が聞かされる側だったら、怒りを通り越して呆れるレベルだと思った。
そのくせ、今も縋るように謝っている。
いい加減うざいと言われても仕方ない始末だ。
「ジュン」とトーマは空いた手で私の前腕に触れた。そして肌に刻まれた傷痕を撫でながら、「俺はジュンのこと、迷惑だなんて思ったことない」と繋げた。
「むしろ、こうやってジュンが居てくれるだけでも、すげー助けられてる。1人でいたときよりも、仕事とか全然頑張れるし…………なんていうか……なんて言うんだろうな、こういうのって」
「……知ってるわけないじゃん」
「……やっぱ勉強、真面目に受けとけば良かったな」
自嘲したようにトーマは言った。
トーマは私の告白を聴いても責めなかった。それどころか、「気づいてやれなくて、ごめんな」と謝り返した。彼が謝る必要なんて全くないのに。
でも、そこが彼の良いところで、もどかしいところで……
次の言葉を想像しようとしたら、急に体温が上がった気がした。布団の中の蒸れが増して、けれど絶対に体は離さなかった。体を重ねたくせに、なにを初心になっているんだろう。
……でも、まぁいいか。それでも。
「……外、止んだらさ、買い物行こうよ。今日の夜ご飯、私が作るから」
「ああ、いいな」
「なにがいい?」
「うーん、じゃあ揚げ物」
「多分、焦がすけど」
「焦げても美味いよ、ジュンの飯」
「……そう」
「ついでにビールも買ってくっか」
「苦手なのに?」
「冗談。しばらく酒は飲みたくないし、頭痛が酷くなりそうだしな。て、その前に、一緒にシャワー浴びるか」
「風邪、引くと思うけど」
「だって、臭うだろ、今」
「……あー、そっか、うん。そうかも」
「臭いか?」
「どうだろ、私は好きだけど……臭いと言われれば、臭いかも」
「なんか、いかにもって感じに思われそうだな、これじゃ」
「……かもね」
つまんない冗談。
でも、だからいい。
意味のない会話が、私達を取り囲む空気を和ませてくれる。
セックスの後の気怠さを少しずつ流してくれる。
体の内側に広がる苦味を和らげてくれる。
お腹の痛みを取り除いてくれる。
体の感覚を取り戻して、ぐうぅっと鳴き声を上げさせる。鳴き声の主は、私だ。
「お、腹の虫か」
そして続けざまに彼も鳴き声を上げた。私のよりも少し高めで、ぐうぅっよりもぎゅるるぅっという、虫と言うよりは荒々しい獣の雄叫びのようだった。
「あー、そういえば、朝飯食ってなかったな」
「……うん、お腹、空いた」
お腹が空くってことは、ちゃんと生きている証拠だ。
なにか食べたいって、私はちゃんと訴えてるんだ。
──死にたくないな。
「よし、じゃあハンバーガー食うか」
「AとB、どっちがいい?」
「んー、ジュンは?」
「……A。でも、Bでもいい」
「んー、じゃあいっそのこと半分ずつにするか?」
「……うん、それでいい」
ぎこちなく頷きあってからも、私達は少しの間、外を眺めた。
布団の中は、びちゃびちゃとした感触。
澄んだ香りとは程遠い、酸味と汗臭さが籠った匂い。
だけど、霙と違って、熱い。
「……熱いね、なんか」
「ああ、熱い」
──まだ、生きていたいな。
心の中で、小さく呟いた。