いじめ描写があります。ご注意ください。
エロなのにエロ描写は結構少ないです。
話もガバい箇所が多いです。
※物語に出てくる登場人物等はフィクションです。
◇◇◇◇◇◇◇◇
父親のあの男と母さんが離婚したのは、小学1年生の時だった。あの男は僕が小さい頃から母さんに暴力を振るっていた。
自分の気に食わないことがあるとすぐに手が出る、足を出す。母さんの腹を蹴る、僕の目の前で母さんが胃の内容物を吐く、ごめんなさいと謝ってもあの男は止めなかった。
母さんが友達と遊びに行くだけでも、あの男は包丁を突きつけて怒っていた。
母さんがご近所の人と話しただけでも、あの男は痣ができない程度に頬を叩いた。
母さんの仕事の帰りが少しでも遅くなると、あの男は浮気を疑って母さんを罵った。
2人で逃げるように外へ出た時も、あいつは…………
あの男は卑怯者だった。外では決して母さんに手を出さない。いつも家の中で母さんを痛めつけているようなやつだった。まるでストレスをぶつけるように、自分は全く悪くないと言わんばかりに手を上げていた。頭になにか生えた人の形をした何かにしか見えなかった。
そんな中、僕は…………何も出来なかった。
小さかった僕には、母さんを庇うことも、癒すこともできなかった。ただ、母さんがボロボロにされるのを黙って見るしかなかった。あの卑怯者に対して、僕は何も出来なかった。
何もしなかった僕は、あの男以上の卑怯者だった。
あいつは僕達を逃がそうとはしなかった。だからこそ、母さんが離婚できたのは奇跡に近かったのかもしれない。
あいつは最後まで母さんと僕の首を掴もうとした。
会わせろ、会わせろ、知らない人達が僕たちを守るように囲む中、別室から聞こえた、本性をむき出しにしたあの男の喚き声が頭から離れない。
俺は悪くない、悪いのはあいつだと押さえ付ける大人達に喚くあいつの声がこびり付く。本気で自分が悪いとは思っていない太くて恐ろしい声が。
あの男だけは二度と会ってはならない。
生きていてはいけない。
あいつが生きている限り、僕達は一生苦しむことになる。
それは分かっているはずだった。けど、僕はあの男を殺す勇気なんてものはない。ただ、いつ仕返しに来るか分からないあいつの存在に恐怖しながら、母さんと一緒に怯えるしかなかった。
僕は母さんを見捨てた卑怯者だ。
そして、小学五年生の時も、僕は卑怯者になった。引っ越した僕と初めて話してくれた親友と呼べる子を、僕は見捨てたのだ。
始まりはほんの些細な悪戯だった。クラスにいる嫌な奴が彼にちょっかいをかけて、彼がやめてよと苦笑しながら反応する。たったそれだけのことだった。それをあいつは面白がり、仲間を引き連れて彼に対する嫌がらせを続けた。周りはただの弄りだと思って止めなかったが、実際はアイツらが怖かったのだろう。
彼へのイタズラは次第にエスカレートしていき、暴言、カツアゲとグレードを上げていき、とうとう暴力にまで発展した。プロレスごっこと称して一方的に殴って蹴る、ドッジボールでわざと彼に集中砲火を放つ、サッカーの授業の時は、彼をキーパーにして顔面にボールを当てる等など…………大人の前ではやらない、やっても虐めと気づかれないようにやるというのが、奴らの陰湿さを滲み出していた。
さらには、彼の私物にまで手を出した。彼の大切にしていたものを意図も簡単に破り捨て、ゴミ箱に放り投げた。彼奴らは落ち込む彼を影から見て笑っていた。周りのみんなも、初めは次のターゲットにされたくないと黙って見ていたのに、いつの間にか後ろからくすくすと笑っていた。傍観者として、彼を犠牲にすることで自分達は安全地帯へと逃げていたのだ。
一言で言えば、みんな、最低だった。
そして、僕もその最低な人間の1人だった。次のターゲットにされたくなくて、彼奴らに虐められるのが怖くて、彼が虐められているのを止めなかった。報復が怖くて先生にも相談しなかった。母子家庭だった僕は、いじめのターゲットにしやすい人種だった。だからそれが怖かった。
僕は次第に学校で彼と話すことも減った。僕は彼を見殺しにしたのだ。
もし彼が復讐をするのなら、僕はされて当然の立場だろう。たとえ彼を助けなかった後悔の念で苦しんで言おうが、彼を助けなかった罪は消えない。
…………僕は未だに忘れられない。家庭の事情で、逃げるように引っ越す彼から言われた一言を。
『アズマくん、ありがとう』
その一言は、今でも僕の心に残り続けている。最後まで僕に怒ることも、恨み節をぶつけることもしなかった彼の笑顔が。怒る以上に深く刺さるものが。
そして中学の時、僕は彼の辛さをその身で味わうことになった。
僕は遂に彼奴らの標的にされたのだ。
きっかけは分からないし、覚えている限りではどれが当てはまるのか分からない。ただ、きっと彼奴らにとってはそんなものはどうでも良いのだろう。彼奴らにとって、あの子の時と同じように、こいつならやってもいいという気持ちでやっているに過ぎないのだから。
家が裕福じゃないことも、父親がいないことも、みんなと違ってマンションに住んでいないことも、彼奴らからすれば、虐めるための材料でしかない。材料になるならなんでも良かったのだ。
あの子にしたことをまるで反省していなかった。
彼奴らの嫌がらせは相変わらず陰湿で、殴ったり蹴ったりするのに加えて、小学生の時よりも更に悪質さを増していた。肉体的な虐めだけじゃなく、精神を削り取るようなやり方にも一層磨きがかかっていた。先生も気づいているのかいないのか、彼奴らに対して何も言わなかった。それをいいことに、彼奴らのやり方は大胆になっていった。
けど、だからって先生を責めるつもりはない。僕自身も、大人に助けを求めなかったからだ。
理由は2つ、1つは母さんの迷惑になりたくなかったから、そしてもう1つは、彼奴らからの報復が怖かったからだ。ただでさえ1人で僕を育ててくれたあの人の負担になるようなことはしたくなかった。そして、このことを打ち明けたとして、もし何も解決されずに終わったらどうなる? 彼奴らはきっとチクったと怒って、更に悪化させるに違いないし、下手をしたら母さんにまで手を出すかもしれない。
中学生というのは、狭間の世界に生きるが故に、小学生よりも残酷になれてしまうものだ。
今でも覚えている。
彼奴らから嫌なことをされている時の、周りの視線が。チラチラとクスクスと、本当かどうか定かではないが、みんなが傍観者として高みの見物をするように、苦痛に悶える僕を笑っていた。可哀想と呟いていた生徒も、気がつけば観客の1人になっていた。
いつの間にか、僕を虐める人数も増えていた。お前ら誰だよ、名前知らねえよって奴らも加入していた。
同じだった。小学生の時に、友人を見捨てた時と同じ状況だった。
孤独で、誰も助けてくれない。よく話をしてくれている子ですら僕から目を逸らしていた。
ああ、あの子もこんな気持ちになっていたのかもしれない。
全てが敵に見える。どうして止めようとしないんだという憎めしい気持ちと絶望感と孤独感が波となって押し寄せる。
きっと、これが彼を助けなかった僕に下された天罰なのだろう。
けど、死のうなんて考えにはなれなかった。死ぬことすら僕は怖かった。弱虫だった。
そして、そんな状況で再び僕は卑怯者になるかを迫られた。ただでさえ自分の事でいっぱいいっぱいなのに。
きっと、逃げればそれで終わりなのだろう。周りのみんなも、初めは遺族から責められ、メディアから責められ、私刑判決を受けるかもしれない。でも時間が経てば忘れ去られ、いつもの日常に戻る。
きっと、傍観者として逃げた方が皆幸せになれるのかもしれない。彼奴らも、暫くは虐めを辞めるかもしれない。
けれど、僕は3度目の卑怯者になりたくなかった。
だから────────
『……し、死ぬのは…………ダメだ』
透き通るような青い色をした空の下で、屋上から落ちようとした彼女の手を掴んだ。
それが、ナオとの出会いだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
俺の家は裕福ではなかった。元々働いていた場所をやめて、引越し先近くに転職した母さんが身一つで俺を育ててくれていた。
だが、今のご時世、片親1人で子ども育てるのはかなり難しいようで、高校にもなんとかして通える程だった。
そんなんだから、高校生だった俺は、入学した時から卒業したらそのまま就職すると決めていた。本当は大学に行きたいという思いはあったが、現実的にそれは無理な話だった。高卒だと色々と不利になることが多いかもしれないけど、大学に進学するような大金はないし、なにより母さんに負担をかけたくなかった。俺も早く独り立ちをして働きたかった。
けど、そんな俺の考えを母さんや先生は見越していたのか、大学に関連する制度や奨学金について教えてくれた。先生は俺みたいな子どもでも大学に進める方法を模索してくれて、母さんはこんな時もあろうかと、俺のアルバイト代とは別に金を貯めていた。
初めはそんな無理することはないと断ったが、みんな『大丈夫』『この制度を利用すれば在学中のお金はなんとかなる』『大学で学びたいことあるんだろ?』『入学金なら任せなさい』と、俺の背中を後押しするように言ってくれた。そのおかげで、いつの間にか俺の中に大学へ行きたいという抑えていた気持ちが芽を生やしていた。
でも、やはり初めの1歩を踏み出させてくれたのは、友人の
通学の途中で彼女に大学進学について悩みを打ち明けた際、『行くべきだと思うよ、アズマ』と言われた。いつも自分の世界に篭もりやすい彼女が、向き合い、真剣な眼差しで俺を見ながらそう答えた。
『先生やお母さんが行っていいって言ってくれてるんだから、そうした方が良い』
『大学で学べるチャンスなんて滅多にないし、アズマのやりたいことをやらなきゃ』
『おばさんも、きっとアズマに大学に行って欲しいと思うよ』
『なんだったら、私も一緒の大学に行くから』
と、俺を見上げながらそう言ってくれた。それがきっかけで俺は大学に行くことを決心し、周りのみんなより少し遅めに受験勉強に取り組むことになった。正直な話、様々なものを我慢しなればならない状況を作らなければならなかったの上に、みんなの倍は頑張らないと行けなかったので、中学の高校受験以上にキツいものがあった。けど、諦めるつもりは全くなかった。
そして合格発表の日、俺は無事に第1志望に合格した。ナオも俺と同じ大学に合格し、共に進学することになった。
あれから早2年、大学2年生になった俺は…………
「…………もうちょっとで」
午後7時。外が暗闇に包まれた頃。
俺、
「つーか、あの教授ってまともに生徒の書いたレポート読むのか」
半分近くは流し見してるだろ、と愚痴を吐きながら、俺はキーボードを指で押し続け、誤字脱字の修正をする。
大学に入学してからというもの、毎日がレポートや感想文、宿題との闘いだった。一講義につき必ず1つは課されていて、基本的に期限は早くて今日中、遅くて1週間以上だ。かと言って、そんなに悲鳴をあげる程かと言われたらそんなでもなく、毎回きちんと講義を受けていれば、数十分でかけてしまうような簡単なものが多かった。途中途中にある大きな課題も、一日で終わらせることが出来るものが大半だった。
そんな課題を、俺は今日、忘れていたことを思い出した。アルバイトに夢中になりすぎていたせいもあるだろう、教授が明後日までが提出期限だから忘れずに、と言ってくれなければ、俺は今頃久々の休日と呑気に言いながら6畳ワンルームの部屋の中で伸び伸びしていただろう。
つまり、俺の自業自得なのだ。
「…………だぁ! ……終わったぁ!」
最後の1文字を打ち終え、教授にレポートを提出した俺は、誰もいない空間の中でため息の代わりに大きめな声を吐いて、机に突っ伏すように顔を伏せた。もう暫くこんなことはしたくない。
「おつかれ」
と、背後から声をかけられたと同時に、頭の上に冷たい何かが乗っかった。大きさからして、おそらく自販機で購入したばかりの缶飲料だろう。見なくても分かる。
「レポート、書けたの?」
「ああ、今さっきな。もう手も足も疲れて動けない」
「足は使ってないでしょ」
「座りっぱなしだったから痛いんだよ」
「それ、足じゃなくてお尻でしょ」
俺は頭の上に乗った缶を掴んで顔を上げた。めいいっぱい目を閉じたせいで、明かりがあるのに目の前が暗くなっている。
しばらくして視界が戻り始める。すると、俺から見て正面の席にナオが座っていた。両肘を机について、手に顎を乗せながら俺を見ていた。猫のような目の中から、赤い瞳がこちらを覗いていて、一瞬ドキリと胸が鳴った。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない」
とりあえず缶のタブを引っ張る。プシュッと音と共にフタが開き、俺は口の中にジュースを流した。サイダーの甘さと刺激が乾いた喉を潤し、全身を疲れから解放してくれた。
「で、そっちはどうだった? 今日も相変わらずだった?」
「うん。いつも通り、旅行の話で殆どの時間が潰れてた。おかげで別の講義の宿題も終わっちゃった」
「いいなー、俺もキツいのやめてそっちの受けとけば良かった」
「退屈な話を聞かされるのも、結構きついよ」
ナオは目の前に置いたペットボトルの頭頂部を指先で啄き、底をトントンと鳴らさせる。
基本的に俺とナオは同じ講義を受けていた。同じものを選んでいるわけではなく、必修科目が被っているだけだ。だから、関係のない科目に関してはバラバラに取っている。
午前中に講義を終え、俺が昼食を終えて直ぐに図書館に籠っていた頃、ナオは講義を受けていた。そして、今日も案の定つまらなかったようだ。
「提出、ちゃんとした?」
「今送ったところ。ちゃんと送れてたら後からメールが来るだろ」
「そっか。けど、もう忘れないようにしてね。下手したら卒業も出来なかったんだから」
「以後気をつけます」
卒業出来なかったかもというのは、大袈裟な話ではない。今回のレポートの科目は卒業するのに必須な科目だったため、もし提出できていなかったら、今頃単位を落として、留年か再履修する羽目になっていただろう。ただでさえ奨学金の返済のこともあるというに、今回のはかなりまずかった。つまり、かなり危なかったというわけだ。このことを聞いたナオの冷めた目付きは忘れられないだろう。
彼女の表情を思い出していると、パソコンの画面にメールが表示された。どうやら無事にレポートを受け取って貰えたようだ。
再び安心して息を吐くと、今度は腹の虫が鳴き始めた。
「ご飯、まだなんだ」
「あー、そういえば昼食食べてから何も食べてなかったな」
学食でAランチ(焼肉丼)を食べてからずっと図書館に篭っていたのだから、腹も鳴るはずだ。
「じゃあ、帰りにコンビニに寄っていくか。ナオもまだだろ?」
ナオは頷く。
俺は缶の残りを一気に胃へと流し、パソコンの電源を落として鞄の中へしまう。ここの閉店時間は8時、今の時間帯になると、図書館内にいる生徒も数が少ない。
図書館の出入口の自動扉が開くと、外気が吹き込んできた。冬の寒い時期なためか、寒風が温まった身体を冷やす。横に立つ彼女の髪も揺れた。
「去年よりも寒いか?」
「ううん。寧ろ暖かくなったと思う」
一言二言話すと、俺たちは歩き始めた。
◇◇◇
俺の通う大学は、実家から離れた場所にある山奥付近に建てられている。最寄りの駅からも歩いて10分以上はかかるところにあり、実家通いの知り合いはみんな息を切らせながら自転車を漕いでいるか、バスの中に詰め詰めになりながら通っていた。
俺の場合、実家から通うには時間がかかるし、定期代もばかにならない。だから、大学近くにあるアパートを借りて住み始め、そこから歩いて通っている。幸い、大学と提携を結んだ場所に入れたおかげで、家賃その他の金についての面は格安でなんとかなっている。
ちなみに、俺の部屋の隣にはナオも暮らしている。女の子1人で暮らすのは怖いとか、折角同じ大学に行くことになったのだからこのまま一緒に暮らしたいとか、お互いにメリットがあるから等々、そういった理由もあって、ナオも隣に越すことになった。おかげで、俺は結構な頻度で彼女に助けてもらっている。主にゴミ出しとか夕食とか夜食とか夕食とか。
「で、また2人のイチャイチャを聞かされたわけか」
「まあ、相変わらず仲が良いというかなんというか。どちらかと言えばアキラの愛が重すぎる思う。あの子、晴山君が他の人と話すだけでもムスッとしてるから」
そして今は、アパートまでの帰路の途中にあるコンビニを目指して歩きながら、知り合いのバカップルの話をしていた。
夜というのもあって、道は等間隔で置かれた街灯でポツポツと照らされている。ひとつ道を外れれば明かりのない暗闇が広がっていて、黒の中からは動物の鳴き声も時々聞こえる。1人で歩くのはかなり勇気が必要だ。
「晴山も大変だよなぁ、自分から告ったとはいえあんだけ愛されてたら、嫌でも参っちゃいそうだ」
「アキラも自覚はしてるから、晴山君の迷惑にならないようにはしてる……らしいよ」
「あれでな……」
晴山ヨウタと雨原アキラは、大学で偶然同じ講義を受け、偶然隣の席に座ったことで親しくなった同期生だ。そして、2人は高校の同級生らしく、その頃から付き合っているとのこと。初めは晴山の方から告白をしたらしく、それで雨原がOKをしたらしい。
2人のイチャイチャぶりは他人である俺から見てもあからさまで、特に雨原からのアプローチはかなり激しい。
物静かでクールな容姿からは想像も出来ないほどのダウナー系で、ジメッとした雰囲気が漂っている。晴山が他の女性と楽しそうに話していると、ジトッとした目でその光景を睨んでいる。彼の話では、高校の時はまだ距離感を感じていたそうだが、大学生になってから一気に縮んだらしい。
だが、俺から見ても雨原の愛は激しい、悪く言えば重い。恋人の晴山があんまり重さに気づいてないのが逆におかしいくらいに。ナオの話では、とある講義で一緒になった女性と彼が仲良さそうに話しているのを気にしているとかなんとか。多分あの子のことだと思うが、確かにあの子は誰にでも優しいし、勘違いされても仕方ないかもしれない。けれど、2人のイチャイチャぶりをみると、破綻なんてことはないだろう。
「まあ、本人たちが幸せならいいか」
「その度に惚気を聞かされるこっちの身にもなって欲しいけど」
「だよなー」
俺が苦い笑いをすると、ナオはため息を吐いた。
「…………私も、憧れちゃうな」
ボソッとナオが聞こえない声で呟いたが、俺は気づかなかった。
長い暗道から明かりの多い道を歩き、ようやくコンビニに到着した。入店した瞬間に、暖房によって温まった室内が俺達の身体を出迎えてくれた。
俺達は、とりあえずということで夕食になる弁当やおかずをカゴの中へ突っ込んでいく。空腹のせいもあって、夜なのにガッツリと食べたい欲に駆られてしまい、大盛りのパスタと唐揚げをカゴに放り込んだ。
「いくらなんでも不健康すぎると思うけど」
「腹が減ってるからいいんだよ。たまには偏ったもん食べないと、こっちが参っちまう」
「それ、遠回しに私の料理の悪口言ってない?」
「いやいや、そういうわけじゃないって。ナオの夕食にはいつも感謝してます、はい」
焦りながら首を振り、ナオからのジト目を振り払う。
恥ずかしい話だが、食事に関しては彼女のおかげで何とかなっていた。自炊もしてはいるものの、大体は面倒くさくて、コンビニやらバイト先近くのスーパーで値下げされた弁当を買うことが多い。おかげで不健康に突き進むことが多く、それを見兼ねて彼女が夕食を作ってくれていた。
彼女がいなければ、今頃体にガタが来てぶっ倒れていたかもしれない。
「まあ、こういうのもたまにはいいかもね」
そう言うと、ナオはシュークリームとロールケーキ、砂糖たっぷりなホットカフェオレをカゴに放り込んだ。そっちこそ糖尿病真っ逆さまじゃないか、と言い返したかったが、後が怖いので黙った。
一通りカゴに入れた俺達は、おつまみにと軟骨と枝豆にも手を伸ばした。不健康に加えた背徳感が堪らない。
「あ、そうそう」
缶ビールに手を伸ばしたところで、ナオは何かを思い出したかのように口を開いた。
「お昼ぐらいにお母さんから電話があってさ、今度いつ帰って来れるか教えて欲しいって」
「あれ、もう春休みの話? 早くないか?」
「なんか、せっかくだから家族水入らずで出かけたいから早めに予定とか組むらしいよ。それで、良かったらアズマも連れて来いって。どうする?」
「あー、おばさんってそうだったなぁ……」
ナオのお母さんは、俺達の関係について色々と勘違いをしている節がある。確かに俺達は中学の時からの付き合いで、同じ高校に通い、大学にも行っている。そこらの男女の友達とかよりは深めな関係だとは思う。ただ勘違いしないで欲しいが、俺達は付き合っているわけではない。一緒にいる時間は長いが、告白はしていない。そりゃあ、そこらのカップルより先に進んだことはしてるけど……口で説明するのは結構むつかしい。
「どうする? 行く?」
「うーん、バイトのシフトとそっちの都合次第だな。けど、俺も母さんに顔を見せたかったし、ちょうどいいかもしれないな」
「じゃ、行くって方向で」
「ああ、頼む」
最後に缶酒を放り込み、俺達はレジに向かった。今回は2人分の買い物なので、割り勘で支払う。
「実家か……また変わってんのかな、あの町」
「さあ」
自動扉を潜り、夜風に髪を揺らされながら呟くと、白い息を吐き、1歩を踏み出す。
あの町は、俺が引っ越してからずっと暮らしていた故郷のような場所だ。けれど、あそこに住もうとは思わないし、出来れば戻るのも本音では嫌だった。
あそこは、俺とナオにとって思い出したくないものが詰まった場所だ。二度と関わりたくないと思ってしまうほどに。
こうして一人暮らしを始めたのは、きっと彼処から一日でも早く抜け出したかったのもあるだろう。彼奴らが幸せそうに暮らしているのを見たら、頭の中がどうにかなってしまいそうになるのは間違いなかった。
でも、俺以上にそう思っているのは、間違いなくナオの方だろう。
彼女にとって、あそこは消えてなくなってしまえばいい、嫌な奴も、目を逸らしていた教師も、生け贄として自分を差し出した同級生達も、全部、まっさらに、塵ひとつ残さずに。
そんな俺の胸の内を読み取ったかのように、ナオは「おばさんとお父さんとお母さんは別だよ」と、前を見ながら言った。俺は黙って頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「ねえ、北岡君」
「なに?」
「北岡くんは、首を絞めたことってある?」
暑い空気が漂う夏日。日差しが地上をカンカンと照らして焦がそうとしている。そんな中でも、カラッとしているおかげで日陰は涼しかった。
そして今、学校帰りの僕達は錆びれた団地の踊り場で、学校帰りにこっそり買ったサイダー缶を片手に涼んでいた。ここは錆びれたという言葉の通り、殆ど人が住んでいない古い団地で、多めに植えられた木に止まった蝉の鳴き声が激しい。僕達のように隠れ家を求めている子どもや悪い大人にとっては持ってこいの場所だった。
僕達の場合は、学校のヤツらに会いたくないからというのが一番の理由だが。彼奴らに見つかれば、袋の鼠にされるのは間違いないだろう。そもそも、彼奴らがこんな場所に来るかも分からないが。
そんな中で、彼女から発せられた質問に、僕はサイダーを吹き出しかけた。もし吹き出していて、かつこの階に人が住んでいたのなら、後から文句を言われるのは間違いなかっただろう。
彼女はいつもこんな感じだった。唐突に突然に、まるで人生に絶望しているかのように、突飛推しもないことを訊いてくる。それは仕方のない事だと分かっているが。
「ないけど。ていうか、それって自分の? 他人の?」
「自分の」
西川さんはサイダー缶を隣に置き、両手で汗の伝う自分の首元を覆う。「こんな感じに」と真顔で僕に言った。
「私ね、前まではこうやって絞めてたんだよ。紐とか手でギュッと。そうすると息が出来なくなって凄く苦しくなるけど、その時に感じる頭のポーってする感覚が気持ちよくて、その日にあった嫌なことを忘れられるんだ。このまま、死んでもいいかなって思えちゃうこともある」
凄いでしょ? と、西川さんは力なく微笑んだ。でも、と言葉を続けた。
「元に戻れば直ぐにまた思い出しちゃう。気持ちよかったのに、また気持ち悪くなる。でも、もう苦しいのは嫌だからって、もう一度やる気にはなれないんだ。だから、その代わりに手首を切るしかない。それで、日が空いてまたやりたくなって……その繰り返し」
首を掴む西川さんの左腕に視線を移す。手首は白い包帯でぐるぐると巻かれていて、あの中には、剃刀で切った跡が幾つもある。前に彼女に見せられたことがあったが、それは痛々しくて、生々しくて、傷の数だけ彼女の苦しみを表していた。
西川さんは両手を降ろすと、また「でもね」と続けた。
「北岡君が一緒に居てくれるようになってから、そういう気持ちが減ったんだ。首を絞めなくったって、あなたが傍にいると思うと、気持ちが楽になるから」
それは、僕が彼女にとっての支えになれているということなのか。それはそれで役に立てて嬉しい。
「北岡君は、首を絞められたことはない?」
「……ある、かな」
首に指を巻かれるような直接的なものではないが、似たようなものは彼奴らから受けていた。
昼休みに急に囲んだかと思えば、プロレスごっこと称して、張り倒されて、背中にのしかかられて、顎を引っ張られた。あとから分かったが、キャメルクラッチという技らしい。
それをかけられた時に、僕は息が出来なかった。喉が絞められ、空気が通らない。おまけに仰け反る姿勢になってるから結構痛い。藻掻こうにも両手は押さえつけられて動けない。
やがて僕の意識は遠のき、気づいた時には口から泡を拭いていた。意識が戻った時、ぼんやりとする視界の先で彼奴らが焦っていたのは覚えている。きっと、一瞬死んだのかと焦ったのだろう。あれ以来、あの技はかけられていなかった。
「どんな感覚だった?」
「…………気持ちの良いものじゃなかったよ。苦しくて、痛くて、二度とやられたくない」
僕は素っ気なく応えると、彼女は「そう」と感情の読めない返事をした。
首を絞める、というのには良い思い出はない、あるはずがない。
現に、あの男が母さんにのしかかって首を絞めた光景は今でも忘れていない。死なない程度に加減して、けど苦しい程度に強くて、あの男らしいやり方だと思った。
「……私、やられたことあるよ」
僕はサイダー缶を持ったまま唖然とした。恐る恐る「誰にやられたの?」と聞くと、西川さんは「A子ちゃん」と返し、光の灯っていない瞳を僕に向けた。A子とは、西川さんと同じクラスで、彼女を虐めているグループの主犯格の女子生徒だ。
「中学一年生の時、1度だけあの子に反抗したことがあったんだ。そしたらあの子、思いっきり逆上しちゃって、ぐっと私の首を絞めてきたんだ」
「……苦しかった?」
「とっても。このまま死んじゃうかもって思うくらい。結局途中で辞めてくれたけど、『二度と生意気な口聞くな』って、脅されちゃった」
これ、お父さんとお母さんには内緒ね、と悲しそうに微笑む。
「北岡君」
西川さんの猫目が僕を捕まえる。
「私の首、絞めてみたい?」
唐突に訊ねて来た。僕はサイダーを飲む手を止める。
「……なにか、嫌なことでもあった?」
僕が訊くと、西川さんは表情を変えないままじっと僕を見た。何も返してこないというのが肯定を意味していた。
僕は彼女を守ると決めた。けれど、クラスの違う僕では、せいぜい昼休みと放課後しか彼女の傍に居れない。その間、彼女は嫌な目にあっているのは間違いなかった。「絞めてみたい?」という質問は、遠回しに「絞めて欲しい」と言いたいのだろう。
缶を横に置き、彼女の首元に目をやる。細くて白い肌を持つ彼女の首には、絞めたような跡が薄らと残っていた。
僕は唾を飲み、試すように震えるように彼女の首元に両手を伸ばす。手のひらと指が彼女の細い首を覆うと、風で冷えた汗と柔らかい首周りの感触が伝わった。
僕はそのまま黙ってしまう。彼女も表情を固定したまま、じっと僕を見つめていた。
「……ごめん、無理だ」
数十秒後、ミンミン蝉の鳴き声が響くなか、僕は彼女の首を掴んだまま、力を入れることなく、俯いてそう答えた。
絞められる苦しさも、誰かが苦しむ姿も知っている身として、彼女を絞めることは出来なかった。
「ごめんね」
消えるような声が聞こえると、彼女の手が僕の手首を掴み、そのまま下へと動かす。指がするりと抜けるように彼女の喉元から離れ、制服の上を滑る。そして胸元辺りで止まると、西川さんは僕の手を胸の膨らみに押し付けた。ほんのりとした、ふわふわとした柔らかさだった。
「西川……さん?」
突然の行動と感触に、僕はゆっくりと顔を上げた。
彼女は僕を見たまま黙っていた。代わりに、目から涙が溢れ、頬を伝っていた。
伝った涙が僕の手に零れ落ちる。
僕はただ彼女を見守るしかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「…………」
地味な苦しさに俺は目を覚ました。
コンビニで夕食とおつまみを買い揃えた俺達はアパートに戻り、そのまま俺の部屋で一緒に夕食を食べた。俺はパスタと唐揚げを胃に突っ込み、彼女は食後のデザートで糖分を過剰に補給した。
そして風呂をあがった後は、お楽しみにしていたつまみとビールを嗜んだ。酔いに任せて頭の硬い教授への愚痴も零しあったし、野球拳とかいってズボンとかを脱いだし、罰ゲームで軟骨を口移しで食わされた。俺もナオもそうだが、酒を飲むと少しはっちゃけるようだ。
そう、そこまでは確かに覚えている。そして今、意識が戻った俺は、仰向けの状態で誰かに馬乗りにされていることに気がついた。
暖房が効いた部屋の中は暖かく、灯りが消されて暗い。けれど、俺の体にのしかかる重さと、その犯人の顔ははっきりと確認することが出来た。そして、何故か俺の手のひらに柔らかい、懐かしい感触が広がっていた。
「……ナオ」
俺はナオの名前を呼んだ。黒い闇の中で、赤い目が見下ろしながら、不気味にこちらを見ている。彼女に掴まれた右手が胸元に押し付けられ、胸部の灘らかな山に沈んでいる。もう、このやり取りも何度目になるか分からない。
「……アズマ」
震えるような声で僕を呼ぶ。瞳からは涙が溢れ、掴まえた僕の手にぽたぽたと零れ落ちている。
きっと、また昔のことを思い出したのだろう。生きることに絶望し、自分の未来に失望した頃の記憶を。彼女の奥深くに刻まれた目に見えない傷が疼いている。
「…………んっ」
ナオは俺の右手を放すと、上半身を寝かせてそのまま俺の首に噛み付いた。噛み跡が着くくらいに強く、けど血が出ない程度に弱い痛みが俺に伝わる。酷い時は膿むくらい深く噛むこともあるから、これくらいはまだいい方だ。
「んっ、はむ…………れろっ……はむっ」
首の肉を数回味わい、細かなキスをしながら首から左耳を舌先で愛撫する。そして耳朶に触れると、柔らかい唇で耳朶を数回甘噛みし、肉舌を畝らせて耳穴を舐めた。
「れろっ、んむっ…………ぁ」
湿った声とともに漏れる吐息が聴覚に直接伝わる。その中に、か細い泣き声も混じっていた。
「んっ…………アズマ」
俺の名前を呼ぶと、ナオは俺の両頬を手で挟んで固定させ、ほんの数cmの距離から見下ろすように顔を向けた。
やはり、彼女の目には光が灯っていなかった。部屋の明かりを反射するとかそういうものではなく、もっと奥深くにある、人が生き生きとしている証とも言える目の輝きが、今の彼女にはなかった。まるで中学生の時に戻ったかのように、瞳の中心には深い闇が広がっていた。
「今日、していい?」
「…………ああ」
俺はいつものように返事をした。彼女は目を閉じるとゆっくりと頭を下ろし、俺の唇に自身のものを重ねた。寝起き特有の口内の匂いと酒臭さが混ざり合い、苦い味を口の中に広げた。吐きそうになるこの味も、ナオのものだと思えば興奮を促す珍味と思えた。
「んっ、ああっ……んちゅ…………あっ」
軽いタッチで唇が擦れ合い、離れたりくっついたりを繰り返す。その度に唾液の弾ける水音が小さく響く。
開いた口の中から舌が伸びて、俺の舌肉を絡めて嬲る。嬲るついでに唾液をまとわりつかせ、苦さをより広げる。
時に相手の口に入った舌を軽く噛み、小さな痛みを与え合う。
「ふぁ、はぁ、あっ…………んぁ…………あっ…………!」
気がつけば、彼女の声に喘ぎが混ざり始めていた。興奮に疼くように、キスに合わせて体もウズウズと身動いでおり、ブラジャーの付けていないTシャツ越しに、彼女のピンと立った乳頭が擦り付けられる。跨いでいる下半身も股間部分をまさぐるように動き、下着越しに彼女の陰部が俺のものをグリグリと押し始めた。
この行為をするのは、もう何回目だろうか。
彼女は夜になると、ごく稀に今のような状態になる。何がスイッチになるのか、酒か、ストレスか、それははっきりしていない。
ただ、こうなった彼女はどこまでも沈む。沈んで沈んで、何時しか帰れなくなってしまうと思わせるほどに。
その度に俺達はこうして体を重ね合い、性行為をすることで傷を癒していた。この行為に快楽は存在するが、恋人同士で行うような愛のあるセックスというものではない、単に傷を舐め合うための行動のようなものだ。
「んっ、あぁっ……あっ! ……はぁっ……ぁ…………硬い」
口を離し、舌先同士で銀色の橋を繋げる。それが切れると、ナオは濡れそぼった陰唇で幹の裏側を数回押し潰した。
哀しい気持ちになっていても性欲というものは正直なようで、彼女の下唇に何度も擦られたことで、俺のモノはパンツの中で身を硬くして勃起していた。何回も体を重ね合ったおかげで、彼女は自然と俺の気持ち良くなる箇所とやり方を覚えてしまっていた。
「ねえ、今日はゴムないけど…………挿れていい?」
首を傾げて問いかける彼女に、俺は頷くしかなかった。ここで引き離すことは、彼女という存在を拒否するのと同じだ。そうなれば、今度こそ彼女は自ら命を絶ちかねない。彼女の心は崩壊するギリギリを保っていた。
ナオは体を浮かせて、俺からパンツを脱がす。中で固めていた肉幹がその身を揺らして飛び出し、彼女の臀部を叩いた。
「アズマの……相変わらず大きいね」
ナオはTシャツの裾を掴むと、そのまま上に挙げて脱ぎ捨てた。彼女の微乳は姿を現すと同時に、先につけた乳頭をふるりと揺らした。そして細い体には、過去に彼女が付けた自傷の跡が残っていた。
ナオは右手の指で硬直する幹を絡めて捕まえると、左手でショーツ底のクロッチをずらし、下唇を露わにさせた。そして、膨らむ先端を唇の狭間にあてがうと、そのまま腰を下ろし、蜜穴の中へと挿入させた。
「んっ……ぁぁ」
滑るように肉幹は彼女の中を貫いた。既に数回もやっているせいなのか、彼女の愛器は完全に俺のモノの形を記憶していた。
「はぁ、あっ、あっっ!! ……んぁっ……はっ、あっ!」
ナオは腰を上下に振り始める。十分に濡れているおかげで、肉幹は彼女の中をスムーズに滑り、柔らかいヒダの一つ一つを押しのけながら奥を劈く。
「ふぁ、あっ、ああっ……あっ! あんっ、んぁ……んぅ」
肉幹が卑猥な音を立てながらナオの中を掻き混ぜる。一際黒い色をした雄の象徴が、陰部の茂みからその体を出入りさせている。蜜壷は肉幹の形に合わせて噛み付くように締まり、噛みちぎる勢いで食らいつく。
彼女が気持ちいいのなら、俺も同じような快楽に襲われている。
「んぁ、んんぅっ」
俺は手持ち無沙汰になっていた両手を彼女の胸部に伸ばし、ほんのりと膨らむ微乳を掴む。初めて触れた時よりも少し膨らんだ乳房は、成長した俺の手のひらを柔らかい身で受け止めて沈める。
俺の手を受けいれたように、ナオは胸元に手を置いて俺に体を任せて腰を振る。彼女の重さが、俺のものよりも小さな手から伝わる。
俺は胸に沈む指を動かし、柔らかい球を握るように揉みしだく。ナオのものは巨乳と呼べるほど大きくはないが、揉むとマシュマロのような弾力を跳ね返してくる。それが気持ち良いようで、一揉みする度に彼女は高い嬌声を上げた。
「ふぁ、アズマ…………あっ」
数回優しく揉みしだいた後、俺は親指と人差し指でピンと勃起する乳頭を摘んだ。やや大きい薄桃色の彼女の恥粒は、指で捏ねくり回せてしまうほどに柔らかく、軽く引っ張ってもすぐに元に戻ってしまうくらい丈夫だった。
肉幹と蜜壷が擦れ、接合部から愛蜜が弾ける。弾けた蜜は彼女の淫猥な動きによって一定のリズムで水音を奏でている。
柔乳を味わった俺は手を離し、流れるように腰周りに触れる。ナオがより動きやすいように腰を掴みつつ、辺りを円を描くように、時に尻の谷間を愛撫した。敏感な箇所を刺激されたナオは快感に身をよがらせる。ビクンビクンと小刻みに跳ねているのが伝わった。
「アズマ…………あんっ…………」
光の消えた瞳が、猫目によって細くなる。恍惚とした彼女の顔には快楽の笑みが浮かんでいる。けれど、そこに俺への恋心はない。
────
初めてナオから求められたのは高校2年生の時、衣替えの時期の、暗い部屋の中だった。
高校進学と同時に過去を断ち切ると意気込んだ彼女は、宣言どおりにがらりと雰囲気を変えた。ボサボサだった髪はショートカットに整えられ、腕の傷はリストバンドを付けて誤魔化し、他人とも会話を取るようにしていた。そのおかげか、彼女は高校では普通に過ごし、同級生とも普通にコミュニケーションを取っていた。
高校に進学してからのナオの瞳は、中学時代が嘘のように輝きに満ちていた。そして、その時から俺達はお互いを名前で呼び合うようになった。
そんなある日、それは突然起こった。
下校中、俺達はいつものように2人で並びながら、家までの帰宅道を歩いていた。今日の数学は相変わらず分かりにくかったとか、あの先生は威圧的で嫌われてるけど授業は凄く分かりやすくて嫌いになれないとか、その日にあった出来事を談笑していた。
丁度、広い歩道を歩いている時だった。さっきまで微笑みを浮かべながら話していたナオの顔が急に強ばり、俯き気味に顔を伏せ始めたのだ。初めはどうしたのかと聞こうとしたが、目の前からこちらに向かって歩いてくる女子高生を見て、俺は直ぐに理解し、目を剥いた。
向こうから歩いてきたのは、中学校でナオをいじめていたグループの女子の1人だった。隣には見知らぬ女子(おそらく、同じ高校の友人)が並行して歩いており、何やら楽しそうに笑いあっていた。
そうだとも、ここは俺達を苦しめたヤツらのいる街。たとえ高校でバラバラにはぐれたとしても、大半の奴らが戻ってくるのは、ここなのだ。会う確率が低くなるとはいえ、遭遇しないという訳では無い。
俺はあいつに気づかれないよう、ナオを隠すように歩いた。ナオも俺に隠れるように速度を合わせ始めた。
近づいてくる、あの嫌な笑いを浮かべていた女。
ナオを虐めていた他のメンバーと一緒に、ケラケラと笑いながら罵声を浴びせていた卑怯者。
俺がナオの傍に居るようになってからは、彼奴らに紛れて俺を笑うようになった狐のような女。
そいつが、心底幸せそうな顔で向こうから歩いてくる。
大丈夫、俺達はあのころと違って雰囲気も変えた。俺だって背はかなり伸びた。だからきっと、気づかれないはずだ。
10m、5m、1m、50cm…………0。
あいつが通り過ぎた瞬間、俺は心の中で胸を撫で下ろした。きっとナオも同じだっただろう。
けれど、運命は残酷だった。
『ねえ、もしかして、北岡と西川?』
背後から声をかけられた。
やけに高い笑いをするあの声が、忘れてたはずの歓声がフラッシュバックする。
振り向かなければ良い、無視をすれば良い、それなのに、俺は振り向いてしまった。ナオも数年間で植え付けられたトラウマのせいか、自然と後ろを向いていた。あいつの顔が目に映り込んでしまった。
『あ、やっぱそうじゃん! ひさしぶりー!』
数メートル先からこちらへ歩き、手を振ってきた。『卒業以来じゃ〜ん。元気してた?』なんて軽い口調で話してきやがった。ナオは冷静を装っているが、体は震えていた。
──なあ、なんでお前はそんなに笑っていられるんだ?
──お前は中学の時、ナオに何をしたのか覚えてないのか?
──集団で寄って集って虐めて、笑ってたよな?
同級生と思われる女子が『知り合い?』と聞くと、あいつは『そう、中学の同級生』と返した。この期に及んで知り合いで済むと思っているのか。
『凄〜い。北岡むっちゃ男らしくなったじゃん』
──不細工で生きる価値ねえとか言ってたくせに。
『西川もその髪型似合ってる〜』
──ボサボサで汚い、生臭いとか言ってたくせに。
『あれ、2人とも同じ高校? つーか距離近くない? もしかして付き合ってんの〜?』
──そのニヤケ顔だ、お前はそうやって笑いながら彼女の心をズタズタに引き裂いたんだ。
『あ、早く行かないと売り切れるよ』
『お、そうだった…………あっ、そうそう』
何かを思い出したかのように、あいつは俺達に顔を近づけ、申し訳なさそうな表情で口に手を当ててヒソヒソと話し始めた。
──あの時はごめんね。やりすぎたって言うか、やばかったと思ってるから。あたしも流石にやりすぎじゃないかって止めようと思ったんだけど、後が怖かったし、A子に逆らったら、あたしが虐められてたから、仕方なかったんだ…………ほんとごめん──
──────はっ?
という言葉は喉でつっかえ、代わりに『ああ』という返事をした。
──止めようとした? どの口が言っているんだ?
──悪いと思ってるのならなんでそんなヒソヒソ話す必要があるんだ?
──仕方がない?
──じゃあ、お前がナオに汚い言葉を浴びせていたのは仕方のない事だとでもいうのか?
──お前らのせいでナオがどれだけ苦しんだと思っているんだ?
──ノートを破る、鞄を汚す、上靴を隠す、上靴をボロボロにする、机に花瓶を供える、彼女の下駄箱に『さっさと消えろ』と書いた手紙を毎日入れる、手首の傷跡を周りに見せつける、『死ね』と書いた寄せ書きを渡す、大切なシートを隠して血だらけになった彼女を笑う…………お前も加担してたよな? ノリノリで参加してたよな? 彼奴らが彼女を無理やり俺の前に連れ出した時も後ろから煽ってたよな?
──お前、ナオを虐めてたよな?
──それが、全部仕方のない事?
──お前
『死ねよ』
理性という物がなかったら、今ごろ俺はこいつにその言葉を浴びせて殴りかかっていたかもしれない。殴って殴って、顔が判別できなくなるまでぐしゃぐしゃに潰していたかもしれない。
あいつは一方的には話を終わらせ『それじゃ、またどこかで』と言うと、駆け足で友人の元へ走っていった。二度と会ってたまるか。お前にとって中学時代のやらかしは『ごめんね』で済むレベルだっていうことは分かった…………だから、もう二度とその穢い面を見せるな。
今度こそ、俺はお前を殺すかもしれない。
『ナオ』
俺は彼女の名前を呼んだ。首を横に向けるより前に、彼女が俺の手を握ってくる。酷く震えていて、手のひらは汗でじっとりと濡れていた。視線を向けなくても、彼女の目から光が消え、今にも嘔吐しそうな程に苦しいのは分かった。だから俺も手を握り返した。あいつの口撃から、彼女を守れなかったことを悔やむように、彼女が家に戻るまで、ずっと手を握っていた。
次の日、ナオは学校を休んだ。入学してから1度も休むことがなかった彼女が突然欠席したことに、彼女と親しいクラスメイトは首を傾げた。つい昨日まであれほど元気だったのにどうしたのか、と不思議に思う女子もいて、その事で俺は詳しいことを知らないか質問された。昨日のことを話せるはずもないので、とりあえず体調が悪そうだったと嘘をつき、彼女達に訝しがられながら授業を聴いた。
その日のうちに、俺は今日の授業分を書いたノートを彼女に見せるという名目で彼女の家を訪ねた。けれどインターホンからの返事はなく、試しに電話やメールを送っても反応はなかった。俺はしばらくドアの前で待っていた。
何かがおかしい、背中に悪寒が走った。こんなこと、前に似たようなことがあった気が…………
俺はドアノブに手を触れる。手前に引くとガチャリと鍵のかかっていない扉が開いた。いつもある彼女の両親の靴がなかったのを見て、2人が外出中なのは理解出来た。
それにしても静かだった。まるで無人のように、誰かが居る気配がしなかった。僕は恐る恐る中へ入り、彼女の家に上がった。
テレビからの音すらも聞こえないため、廊下の軋む音がやけに目立つ。電気すらも付けていない部屋の中は、日没前で薄暗かった。
忍び足でゆっくりと進む。すると、浴室から誰かの気配を感じた。ぽちゃんという水滴の落ちる音が聞こえた。
その瞬間、俺の頭の中に最悪の光景が浮かび、かけるように浴室場に向かい、扉を勢いよく開いた。
『ナオ!』
『……アズマ?』
開けた瞬間、俺の目に彼女の姿が映った。半袖半パンの部屋着姿で、右手に安全じゃない剃刀を握っている。そして左手首には、生々しい赤い切り傷が何本も付けられていた。出血はあるが、どれも少量で止まっていた。
『……これは?』
『……ごめん、昨日のあの子のことで、耐えきれなくなって、つい。でも、上手く切れなくて、失敗しちゃった』
無理に作り笑いをしているつもりかもしれないが、彼女の眉も頬も、顔を形成する全ての部位が動いていなかった。
俺は彼女を風呂場から出して、とりあえずリビングで手首の応急処置を行った。
ソファに座るナオは、力の抜けた様子でソファの背もたれに腰を沈め、ポツポツと口を開いた。
昨日のあいつのことでトラウマがぶり返したこと、嘔吐や腹痛が収まらず学校を欠席したこと、おじさんとおばさんは所用でしばらく家に帰ってこないこと、耐えきれずに手首を切ってしまったこと……全て、あいつと遭遇してしまったのが原因だった。
俺はナオを支えながら、とりあえず彼女の部屋まで移動した。部屋の中は予想していた通り、カーペットの床に物が散乱していた。棚の中に整頓されて並べられていた本が無惨に破り捨てられ、床に散らばっている。彼女の背丈ほどある姿見鏡が物をぶつけられて割れている。昨夜のうちに暴れたとナオは話した。
『……アズマ…………隣に……一緒にいて』
ベッドに寝かせた彼女が腕を掴み、せがむような目を向けて来る。俺は断ることが出来ず、そのまま彼女の隣に横たわった。
仰向けの俺に、彼女が体を密着させる。
長く風呂場にいたせいか、肌は酷く冷えていた。
彼女の鼓動が密着した部分から伝わる。
ナオが俺の体に顔を埋めながら泣いた。
やがてそれは嗚咽となり、くぐもった叫びに変わった。
ようやく新しい自分になれたつもりだったのに、結局抜け出せていなかった。
悔しい、悔しい、苦しい、苦しい、こんなはずじゃなかった。
こんなのってないよ。
──ああ、分かるよ。俺はずっと傍で見てきたから。
ナオは子どものように泣き続けた。泣いて泣いて、声が枯れても泣き続けた。
ようやく顔を上げると、ナオは目の周りを真っ赤に腫らしていた。頬には涙の跡がついている。
『アズマ…………お願い……』
嗄れた声でナオはそう言うと、俺の身体に乗るように身動ぎ、さらに密着させる。甘え強請るような目が俺の瞳を捉える。彼女には、これ以外に壊れそうな心を保つ方法はなかったようだった。
…………俺は、どうするのが正解だったのだろう。
彼女を見届けて戻るべきだったのか?
いや、そもそもあの時、あいつから彼女を守れば良かったのだ。あいつを無視して、そのまま進めば良かった。そうすれば、彼女が手首を切ることもなかったかもしれない。他にもっと方法があったかもしれない。
けど、当時の俺には、彼女の望みを叶えることしか出来なかった。
────
「……ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ねっ」
肉と肉がぶつかり合い、艶かしい叩音を響かせるなか、ナオは俺の首を絞めていた。その表情は快感に耽けるような生易しいものではなく、彼奴らへの憎悪と憤怒孕んだ形相へと変わっていた。
ナオの指の関節が首に反って曲がり、ぎゅうっと音を立てて喉を絞める。その間も、彼女は呪詛のように彼奴らの名前を、唾を飛ばしながら吐いていく。
一人一人、あの頃、毎日のように彼女を虐めていたA子、女子生徒、男子生徒、見逃していた裏切り者の教師、画鋲を仕込んだあいつ、私物をゴミ箱に捨てたあいつ、弁当箱をわざと床にぶちまけたあいつ、トイレに水を放り込んで自分を濡らしたあいつ、体操服をズタズタに切り裂きたあいつ、包帯をとって無理やりみんなに傷を見せたあいつ、着替える姿を盗撮して、写真を教室に貼り付けたあいつ、取り囲んで汚い言葉を投げかけたあいつら…………
どれも覚えている、彼奴らの憎たらしい顔も、嫌な笑顔も、名前も、彼女は覚えている。俺も覚えている。思い出すだけでも腸が煮えくり返るような気持ちになる奴らの顔が。
息ができない、頭がふわふわと、意識が遠くに行くような感覚に包まれる。苦しいはずなのに、なぜだか心地よい。
それにこんな状況でも、俺の肉幹は彼女の愛器に興奮していた。
「死ね、死ねっ、死ねっ! 死ねっっ! …………っ!」
そして絶頂の時。ナオが腰を深く下ろすと同時に、肉幹が彼女の中で脈動し、白濁とした精液を吐き出した。幹の先が敏感な箇所を突き上げたことで、ナオは背中を仰け反らせて同じく絶頂した。
首を絞める力がより強くなり、俺は意識を遠のかせる。なのに、尚も射精は続いている。腰を震わせ、彼女の微乳を小刻みに揺らしながら、肉幹は彼女の奥に吐き出し続けた。
数秒後、ナオは力が抜けたかのように俺の胸板に倒れた。
ナオの絞から解放された俺は、急ぐように呼吸をして酸素を取り入れた。
「…………ナオ」
名前を呼ぶが、ナオは答えない。答えない代わりに、すすり泣いていた。
「ごめん…………ごめんね…………アズマ……」
謝罪の言葉を漏らしながらナオは咽び泣く。
俺は両手を彼女の頬に当て、そっと顔を起き上がらせた。
ナオの赤い瞳が涙で潤い、絶望に染まっている。
「ナオ……」
彼女の名前を呼び、瞼を閉じる。やがて彼女の鼻をすする音とともに、唇に暖かい感触が伝わった。
────
『おーい、始めるぞー北岡ー』
放課後、中学生にとっては長い授業を終えてようやく迎えた帰宅時間であり、友だちとゲームの話をしたり、読書で時間を潰したり、さっさと帰って宿題をするか寝るかを選べる自由な時間である。
けれど、僕にとっては悪夢の時間と変わらない。教員がいなくなったのを確認すると、合図とともに掃除当番でもないやつが机を後ろに下げる。『今日は逃げるなよ』という主犯格の脅した笑い声が響く。
僕は、毎日のようにプロレスごっこと称した一方的な暴力を受けていた。
授業で使っているノートや教科書は既にズタズタに裂かれている、鞄の中もゴミ箱のごみを投入された、服を脱がされ、みんなの前で恥ずかしい箇所を見せびらかすこともやられた、金も何万円単位でカツアゲされている、固定電話に無言電話もかかってきたし、僕が出ると『いつ死ぬんだよ』と一言言って直ぐに切られた、花瓶も週ごとに違う物が置かれていた、弁当も幾つダメにされたか分からない。
此奴らにとって、最早直接手を出すプロレスくらいしか楽しめるものがないのだろう。
本当なら、西川さんの傍に駆けつけているころなのに、今日は不幸にも囲まれてしまった。
『ちょっと、どこ見てんのよ』
『きっも、変態』
観戦組が僕に罵倒をぶつける。僕を不細工と言ってきた別のクラスの女子がまた煽ってる。彼女は西川さんを虐めているグループの1人で、僕が彼女を守るようになってからこっちにも顔を出すようになった。
『ほら、早く立てよ。昨日はサボったんだから、早速1発やって気合い入れるぞ』
主犯格の奴が生き生きとした嫌な笑顔で僕に言ってきた。
『おい早くしろよ』
『怖えのか? それでも男かよ』
『仕方ねえな、俺たちが支えてやっから』
両腕を僕よりも背の高い奴らががっちりと固定し、僕の逃げ場をなくす。
『いーけ! いーけ! いーけ!』
目障りなコールが耳に響く。鼓膜を破ってしまった方がいっそのこと楽だと思えてしまう。
このコールは、時々『死ね』や『やれ』といったものにも変わる、汎用性の高いコールだ。
主犯格は勢いを付けて両足で、僕の腹部に激しいドロップキックをお見舞してきた。
当たった場所は丁度真ん中、見事100点、よく出来ました。けど残念、給食の残りは吐きませんでした。
『次は誰がやる?』
主犯格が聞くと、グループのひとりが手を挙げて位置についた。僕は腹の痛みと喉奥から込み上げる胃液を我慢しながら立たされた。
今度は左腿、下手くそ、そこは30点だ。悪い悪い、今度は100点狙うから。
次は俺だ。股間にストライク、120点。さすがに痛えわ。
──ああ、いい加減もう慣れたよ。お前らのそういうの。先生が見てないからって調子こいてるの、ださいよ。あの子の時もそうだったろ。
『ああ? なんだよ。気合いたんねーなー』
『だっせ』
1年生の時から虐めの毎日を送っていた僕は、最早考えることなど放置していた。考えるだけ無駄だ、抵抗しても無駄だ、やめろと訴えるのも無駄だ、無駄なことばかりだ。それを削ったことで気分は幾分かマシになった。
グループも観客もみんながつまらなそうな表情になった。
すると、見学していた女子の1人がヒソヒソと主犯格に耳打ちした。彼女もまた、西川さんを虐めているグループの1人だった。主犯格は口角を上げ、周りで聞き耳を立てていた奴等はくすくすと笑い始めた。なにか悪いことを思いついた時の笑顔だ。
『なあ北岡、俺たち、友達だよな?』
主犯格が僕の頭を掴み、無理やり頷かせる。
『だよなー。じゃあ、俺のお願い、聞いてくれるよな?』
僕は思わず首を傾げた。こいつは一体何を言いたいんだ?
『はい、飛び入り参加者とうじょ〜』
観客の後ろから女子の1人が笑いながらそう言った。顔はまだ見えないが、その声の主は間違いなくA子だった。
飛び入り参加者? 誰だよそれ。なんて思っていたら、観客の列の一部が左右に開かれた。
──は?
僕はそう言わずに口だけを開いた。
現れたのは、両手を女子達に捕まれた西川さんだった。
無理やり連れて来られたようで、彼女は乱暴に床に投げ捨てられた。腕に巻かれていた包帯が剥ぎ取られ、リストカットの跡が露わになった。西川さんは咄嗟に隠すが、A子達はそれを見て蔑むように笑った。
『なんかさぁ、この子の知り合いが西川に悪口言われて泣かされたらしいんだよ。俺、そういうの許せないんだよね。でも、俺って西川とあんまり面識ないから、怒るのもなんか違うと思うんだ』
観客から『ひどーい』『さいてー』という棒読みの笑い声が湧いた。彼女が何も言わないことをいいことに、好き勝手な罵声を浴びせた。
『北岡、確か西川と仲良いんだろ? 最近よくつるんでたもんなぁ。だからさ、ここはお前からガツンと言ってやって欲しいんだ。お前、最低だって』
──お前、何やってるんだよ。西川さんはお前になんもしてねえだろ。
──何でそんな残酷なこと、こうも簡単に出来るんだよ。
『ほら、頼むよ北岡』
僕は半ば無理やり立たされ、西川さんの前まで背中を押された。西川さんも、女子達に髪を掴まれながら強引に二本の脚を真っ直ぐにさせられた。
『やっちゃえ』
『早くやれ、北岡』
実行犯や観客の一部が僕たちを取り囲むように煽り立てる。四方八方、逃げ道はなく、すぐ後ろには主犯格が僕の背中を押すように立っている。
『なあ、ほら。ガツンと言うのがやだったら1発殴るだけでもいいから』
主犯格が小突くように僕の背中を殴り、一歩前へ踏み出させる。目の前では、西川さんが長いボサボサな髪を項垂れさせながら俯いていた。
『おい北岡。まさかやれないなんて言わねえよな? 俺、お前の友達なんだぜ? その友達が頼んでるのに…………お前、友達を裏切るつもりか? もし裏切ったら、どうなるか、分かってるよな?』
主犯格が脅すような低い声色で、背中越しに僕に話す。まるで包丁の刃先で皮膚を撫でられているような、冷たく鋭い感覚が背中を駆け上がった。
気がつくと、僕の心の中は恐怖でガタガタと震えていた。身体は硬直したように固まり、視線は彼女から外せない。息も酷く荒い、整えようとしても、どうしても整わない。
こいつらは、きっと分かっている。僕と西川さんがどういう関係なのか、そして、僕が彼女を突き放すことで、僕と彼女に深い傷が残ることも。
そして、僕が彼女を罵倒するかしたら、その瞬間、僕を彼女を虐めたいじめっ子として非難するだろう。それがなくても、今度は彼女がいじめの標的になる。クラスの奴らだけでなく、僕を虐める彼奴らからも西川さんは虐められるかもしれない。いや、やりかねない、絶対にやる。一年以上も虐められてきたから、彼奴らがどんな性格で、どれだけ陰湿なのかは分かっている。
西川さんを守ると約束した僕が、彼女を殴るなんてことはあってはいけないことは分かっている。なのに、僕は今にも泣きそうになっていた。
こいつらが怖い、すぐ後ろで僕が彼女に危害を加えることをニヤつきながら楽しみにしている主犯格も、周りで観戦する奴らも、西川さんの背中を見ながらクスクスと笑ういじめっ子達も。
長い期間で植え付けられたこいつらへの恐怖心が、体の底から泡を吹きなが浮上し、僕の体を縛り付けた。
『ほら、やーれ、やーれ』
『やーれ』『やーれ』『やーれ』。いつの間にか、いけいけコールはやれやれコールへと変わり、教室に震えるように響く。『やれ』という言葉が『殺れ』のように聞こえる。
きっと、こいつらに僕達を殺そうなんて意思は無い。もしこれで僕達のどちらかが自殺でもしたら、こいつらは酷く驚くだろう。キャメルクラッチをかけた時にあの反応なのだから、人を殺すなんて度胸はないだろう。
ただ、僕たちが絶望する、その方が面白そうだから。こいつらにとっては、それが全てなのだ。
──ごめん、西川さん。
──僕、君を守るって約束したのに。
──僕のせいで、こんなことになってしまった。
──結局、僕は卑怯者にしかなれない。
ゆっくり、僕は両手を彼女に向けるように上げた。その行動の理由は、僕にも分からない。
『…………北岡君』
今にも消えそうな声で、西川さんは僕を呼ぶ。項垂れていた顔が少しだけあがり、髪の隙間から彼女の瞳が姿を覗かせた。
彼女は何も言わない。両手を上げた僕を見たまま、彼女はただ、力なく微笑んだ。
気がつくと、僕は教室の真ん中で大の字になって倒れていた。体中が痛み、目の前は上手く見えない。顔中に大きなたんこぶができているに違いない。体も、何人もの奴らから蹴られたかのような痛みが走った。硬い床のせいで背中も痛む。
時間はかなり過ぎたのだろうか、いつの間にか教室内にいた彼奴らはいなくなり、外で観戦していた野次馬もどこかへ消えていた。残っていたのは、窓から差し込むオレンジ色の光に照らされた僕と、僕を心配そうに覗き込む西川さんだけだった。彼女の制服は所々が汚れていて、額には蹴られたあとのような小さな傷が出来ていた。
『みんな、もういないよ……ここにいるのは私たちだけ』
僕の聞きたいことを察したのか、西川さんはポツリと呟くように言った。その直後、僕はようやく意識を完全に戻し、何があったのかを思い出した。
彼女の微笑みを見た瞬間、僕は雄叫びを上げた。自分でも驚くほどの怒りの彷徨を教室中に響かせ、周りの奴らを怯ませた。
次の瞬間には、僕は勢いをつけて後方に振り向き、背後に立っていた主犯格に目掛けて突撃し、そのまま床に叩きつけ、馬乗りになりながら殴っていた。グーパンの、硬い拳を主犯格の頬に何発もめり込ませた。遅れて止めようとした奴らを我武者羅に殴って振り払い、僕はあいつを殴り続けた。
けれど、数の多さと自分の非力さには勝てなかった。
僕はあっという間に仰向けに張り倒され、集団でボコボコにされた。虐めの実行グループ、西川さんを虐めていた女子達、数人分の足がペットボトルを潰すように僕を踏みつけた。耳の中には、カタオヤ、ダンチ、ビンボウニン、チョウシニノルナ、ザコノクセニ。リンチされる中で浴びせられた、刃物の形をした鬱憤を孕んだ言葉の数々が残っている。
主犯格は『北岡てめぇ、裏切ったな』と憤怒し、数多の罵詈雑言を浴びせながら、動けない僕を蹴り始めた。いつも嫌な笑顔ばかり浮かべていたあいつが、あそこまで怒りに満ちた表情で蹴りに来たのは初めてだった。今まで反抗しなかった相手が殴りかかってきたことが、心底腹立たしかったようだ。
さらには、連帯責任だ、西川も制裁しろとグループのヤツらに怒鳴るように命令し、彼女まで標的にし始めた。困惑しながら従う奴、主犯格と同じようにキレる奴、彼奴らは色んな表情を浮かべながら、僕達を踏みつけた。反抗する力も残っていなかった僕は、蹲る彼女を庇うように覆い被さり、彼奴らからの蹴りの痛みを引き受けることしかできなかった。
『…………川……さん』
痛みに耐えながら口を動かし、彼女を呼ぶ。西川さんは暗い瞳で僕を見下ろしている。僕が反抗したせいで、彼女まで彼奴らからの暴力を受けることになった。庇いきれなかった分もあるから、彼女の体にも痣ができてしまったはずだ。
なのに、彼女は微笑んでいた。
何処までも虚空を見つめているようで、けれど、確かに僕に向けたものを。
『…………北岡…………君……』
一言、僕の名前を呼ぶと、彼女は僕の胸に顔を埋めて泣き伏せた。僕が目を覚ますより前から泣いていたのか、小さく鳴く彼女の声は枯れていた。
僕は、動かない体で彼女を受け止めるしかなかった。腕を動かそうとしても、動かなかった。
僕は、何も出来なかった。謝ることも出来なかった。
────
「…………ごめん…………ナオ…………」
暗い部屋の中で、行為の過程で布団に寝転がり、裸になった『僕』とナオ。
僕はナオと繋がったまま、彼女の体に被さる姿勢で泣いていた。目から溢れる涙が、彼女の頬に落涙する。ナオはそれを、嫌な顔ひとつせずに受け止めてくれている。
「僕は…………君を…………」
僕は彼女を見捨てないと誓った。絶対に守ると約束した。なのに、僕は彼奴らに向かって負けて、ナオに傷を追わせてしまった。
弱いくせに、中途半端に守るだなんて言ったから、結果的に彼奴らにも目をつけられて、僕の虐めに巻き込まれた。受けなくてもいいものを、彼女は受けてしまった。
…………いや、それだけじゃない。
あの時、僕は間違いなく彼女を押そうとした。
彼奴らが怖くて、無意識に両手を上げて、守るはずの彼女を裏切ろうとしたのだ。
僕は、彼奴らの言いなりになって、自分だけ安全な地帯に逃げようとした。あの子の時と同じように、僕はナオのことを見捨てようとした。それがどれほどの重罪なのか、僕自身で分かっていたはずだ。
「ごめん…………ごめんっ………………」
目の前が涙で滲み、ナオの顔がぼやけてぐらつく。腕に力が入らず、彼女に体を任せてしまう。
「…………アズマ」
彼女が耳元で僕を呼んだ。
「ずっと、苦しかったよね。アズマだって苦しかったのに、私まで守ってくれて。なのに、私は自分のことばかり考えて、トラウマをあなたにぶつけて…………それでも、アズマは私の傍にいてくれた」
「違う、違うよ…………僕は…………そんなんじゃないんだ…………僕は…………」
そんな良い奴じゃない。僕は、君を見捨てようとしたどうしようもない奴なんだ、そう言おうとするが、言葉が喉でつっかえる。言葉の代わりに嗚咽が漏れた。止まらない、止めることができない。
…………ああ、そうだ。そもそも、僕が彼女を助けようと思ったのは、卑怯者になりたくなかったからだ。
母さんを見捨てて、親友を見捨てて、もう最低の人間になりたくなくて…………だから、彼女の手を掴んだ。
結局、僕は彼女を守るだの言っておきながら、自分の自己満足のためにやっていたに過ぎない。けど、それすらも満足に出来なかった。
僕は、自分のことばかりしか考えれない、どうしようもない卑怯者でしかなかった。
「……ねえ……私を、見て?」
ナオの囁くような呼び掛けに、僕は頭を上げた。
鼻先が付きそうなほどに近い距離で、彼女の瞳が僕を映す。赤い鏡には、少しの光が宿っていた。
「…………屋上で飛び降りようとした時、もう死ぬしかないって思ってた。自分の未来なんて考えられないくらい、辛かった。大人になったらなんて、そんなものがあるなんて思えなかった」
でもね、と微笑む。
「私、ちゃんと生きてるよ。死ななかったよ。好きなことを勉強して、話せる友達もいて、お酒だって飲める歳になったよ。講義だって、つまらないものはつまらないって思えるし、将来のことだって、あれになりたい、これになりたいって、迷ってるよ、迷えてるよ……死ぬのが、凄く怖い、怖いって思えてるよ」
「ナオ……」
「…………全部、アズマのおかげだよ。アズマが、私の手を掴んでくれたから。あの時、みんなから私を守ってくれたから。
…………あなたが、自分のことをどれだけ嫌いでも、どんなに卑下しても、私はあなたに救われた、あなたが、私を救ってくれた。それは事実だから」
彼女の両腕が僕の背中に回され、包むように抱きついた。
「……アズマ、ありがとう………………大好きだよ」
涙いっぱいで微笑むナオに、僕の涙腺は脆く崩れた。もう自分でも止められないくらいに、自分のことを俺と呼ぶようになってからずっと我慢していたものを吐きだすように、どっと流れていく。
「……僕も、ナオが好きだ…………ずっと好きだった…………一緒にいたい…………」
「…………ずっと…………一緒にいよ…………」
僕達は慰め合うように言葉を繰り返す。
そして僕達は体を動かし、お互いの生を確かめ合うように再び身を交わらせる。
今度は傷を癒すためのものではなく、互いのことを思いながら、好きだという気持ちを込めながら、体をしがらませる。
「はぁ、あっ…………あっ、あっ、んぁっ。あぁっ!」
肉幹が緩む蜜壺を起こすように擦り上げ、再び締め付けさせる。愛蜜が剛直した陰部を受け入れ、敏感な箇所へと誘導して小突かせる。
「あんっ、あっ、んんっ……はぁっ、あっ! ……あっ、ぅぅんっ、あぅ、ふぁっ……ぁぁ!」
小突く度にナオは嬌声を上げる。涙が流れているのに、表情は快楽に従うように緩みきって、陶酔したようにうっとりしている。そもそもお酒を飲んだ後なのだから、酔っているのは当たり前なのだが、それ以上に彼女は妖艶に映っている。
「ナオ……ナオ…………!」
僕は雄の叫びを上げながらゆっくりと腰を揺らす。彼女の脚がピンと真っ直ぐに伸ばされているため、股は閉じて蜜壺も共に締まる。肉で出来た突起が幹にまとわりついて、きゅうっという擬音を鳴らしながら絞める。
「アズマ……あぁ、んっ……アズマぁ…………!」
快感によがる彼女の甲高い声が口から漏れる。僕を求める声が揺さぶる身体に共鳴する。
「んっ、んんっ…………ぁぁ」
僕らは腕で体を触れ合い、離れぬように抱きしめ合う。
蜜壺の絞めはよりきつくなり、肉幹もまたその身を膨らませて彼女のヒダに引っかかる。まるで二度と離さないと体で訴えているようだ。
細い指が僕の背中の表面を撫で、彼女の手首の傷跡が触れる。彼女への愛おしい気持ちがより一層強くなる。
「はぁ、あっ、あぁんっ…………アズマ……好き……好きぃ…………」
「ナオ……好きだ…………ナオ…………」
名前を呼びあって、より体を密着させる。彼女の固くなった乳房の先と僕のものがお互いの体を擦り合う。
「んっ、んちゅっ…………あっ、んっ…………」
唇を重ねて、愛を含んだ唾液を混ぜ合う。途中途中で漏れる吐息は白く、熱が篭っていた。
「んちゅ、あっ、れえっ、んんっ…………」
首を絞めた苦しみも、舌を噛んだ痛みも忘れて、僕達は涙と愛蜜を溢れさせた。
震える体と締まる蜜壺、それが僕と彼女の絶頂を伝えた。
僕はより深くを突いて、彼女の奥へと潜り込む。ナオも僕を受け入れるように股に力を入れる。
「あっ、あっ……アズマ…………」
僕は彼女を抱きしめ、肉幹をできる限り奥深くへと挿し込んだ。
「んんっ……あぁぁぁぁぁっ!」
目の前でナオは絶頂した表情をし、今日1番の喘ぎ声を部屋中に響かせた。
2つの球体から熱いものが這い上がり、肉幹の先から放出される。どくん、どくんと血液とともに脈を打ちながら、白濁色の液体がナオの奥にある部屋に注がれる。数年間も抱いていた彼女への思いが形となって放たれた。
「…………アズマ……………………大好き…………」
彼女は泣きながら、蕩けた笑顔でそう言った。
赤い瞳には、生き生きとした光が輝いていた。
◇◇◇
次に目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていた。散々泣きすぎたせいもあるが、頭も二日酔い気味に鈍い痛みが走っている。体も痛い。今日は昼から夜までシフトが入っているが、乗り切れるか少し心配だ。
『俺』は体を起こし、掛布団を剥がす。軽く目を擦ってから、両手を組んで上に向かって伸びをする。いつの間にかカーテンが開かれていて、ベランダの窓から朝日が射し込んでいる。デジタル時計に目を向けると、午前の8時を表示していた。
「…………さむっ!」
よくよく考えたら、昨夜の行為の途中で寝てしまったのだから、自分が裸なのは当たり前だった。暖房が効いているとはいえ、流石に裸は寒かった。
「ん?」
服を着ようとしたら、ふと、廊下から鼻歌が聞こえてきた。
このアパートには、部屋と玄関を繋げる短い廊下があって、途中に備え付けの小さなキッチンがある。
視線を向けると、キッチンに立つナオの姿があった。昨夜みたいな裸ではなく、室内用の半袖長ズボンの、暖かい部屋に適したラフな格好をしていた。
「あ、起きたんだ」
「ああ」
「今、朝ごはん作ってるから、もう少し待ってて」
「そんな、いいのに」
「いいよ、私が好きでやってることだから。それに、アズマって放っておいたら、頭痛いのとか、そのままにするでしょ。そんなんじゃバイトの時にしんどくなるよ」
猫目を光らせるナオの言葉に俺は黙った。黙るということは、彼女の言うことを肯定したということだ。
「ほら、風邪なんかひいたら大変だから、早く着替えたら」
「あい。ところで何作ってるんだ?」
「お粥、二日酔いに効くらしいよ」
「へー」
俺は布団から立ち上がり、押し入れから適当な外出用の服を出して着替えた。
ふと、俺はナオにもう一度視線を向けた。
今の彼女は、昨夜のことを覚えていないかのように嬉々とした様子で調理をしている。酒で酔っていたということもあるが、彼女は果たして昨夜の……『僕』の本音を覚えているだろうか?
俺は、ハッキリと覚えている。彼女が首を絞めたことも、お互いに好きと伝え合ったことも、彼女が俺を受け入れてくれたことも、全部だ。
「…………ナオ」
「なに?」
鼻歌を歌うナオのもとへ歩く。本の数mの距離なのに、少しだけ緊張してしまうのは何故なのか、そんなことは理解している。俺はそういう奴なのだ。
彼女の傍に立って、しばらく黙り込んだ。
「あのさ、昨日のことなんだけど」
少しの間を置いて、俺はやっと口を開いた。
その直後に、ナオは火を止め、視線をこちらに向けぬまま「ちゃんと覚えてる」と、俺の言いたかったことへの答えを先に返した。
そして、ナオはお玉を置くと、俺に体を向けて抱きついた。身を任せるように、ぼふっと音を立てながら胸に顔を埋め、灘らかな胸を押し付ける。
「ずっと、一緒…………ずっと一緒だから…………ね?」
「……ああ、ずっと………………好きだ」
「…………大好き」
俺はナオの背中に腕を回し、少しキツめに抱きしめた。ナオもまた、返事をするようにキツめに抱きついた。
気がつくと、俺達はまた泣いていた。もう何度目になるか分からない、あれだけ嫌という程泣いたのに、涙が止まらなかった。
けれど、この涙は悲しさではない、お互いにやっと前に進めたことへの嬉しさで溢れているのだと、俺達は言葉にしなくても理解出来た。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ある日、私はアパートからかなり離れたところにあるとある場所まで、電車を乗り継ぎながら目指していた。実家のあるあの場所とは反対方向に進んでいて、かれこれ1時間は電車に乗っている。車窓から見える景色は、都心部だったり、田圃や畑が広がる田舎だったりと、コロコロと姿を変えている。みんな同じよう見えて、所々にその地域特有の特徴が出ていた。乗車する人も、田舎の駅なのに沢山乗ってきたり沢山降りてきたりしている。
私はスマホの画面を確認する。アズマから送られてきた『バイト行ってきます』というメッセージが表示されていた。
アズマには、今日は知り合いと遊びに行くと嘘をついて外出した。別に、彼は私を束縛とかそういうことはしない。寧ろ私が彼にしてしまっているような気がするけど。
けれど、今回逢いに行く相手は、できれば彼には知られない方が良い。もしバレると、アズマは複雑な感情を抱くか、昔のことをぶり返すかもしれないからだ。
電車が停車し、目的地の駅に到着した。私は電車を出てすぐ目の前の階段を降り、電子マネーで改札を通り、待ち合わせ場所の、駅のすぐ外にある自販機の列の横に立った。
目の前にはやや大きめな駅前広場があって、送迎の自動車が数台止まっている。今日が平日なのもあってか、学生服を着た子が後部座席の扉を開けて運転席に一言二言話して、駅に向かって歩いていった。
そうだよね、学生なんだから、平日に学校があるのは当たり前なんだよね。私は少し懐かしみながらその光景を眺めていた。
しばらくして、スマホから着信音が鳴り響く。画面に表示された番号を確認し、私は応答した。相手の声が聞こえ、駅に着いたことを教えてくれた。私が周辺を見渡していると、少し離れた場所から電話をかけながらこちらに歩いてくる男の人が見えた。試しに話しながら手を振ると、相手も軽く笑いながら手を振ってくれた。
「初めまして、西川南央です。先週は突然のことで、失礼しました」
「いえ、そんなことはないですよ」
そう言うと、カレは電話の時と同じように自分の名前を私に伝えた。
その名前は、アズマから聞いたことのある名前……彼が小学校の時に見捨てた親友の名前と、確かに同じだった。
私達は、駅から少し歩いたところにある公園に場所を移した。今はベンチに人一人分のスペースを空けながら座り、目の前の砂場で遊ぶ子どもたちを眺めながら話していた。話題は勿論、アズマのことだった。そもそも、アズマのことについて知りたいとカレに連絡を取ったのは私なのだ。
「アズマ君か……懐かしいなぁ。小学生の頃はよく遊んでたよ。彼、結構僕と好きなものが同じでね、趣味が合ったんだ」
アズマのことを話すと、カレは懐かしそうに昔のことを話してくれた。
アズマが小学一年生の時にあそこに転校してきて、慣れない様子でオドオドとしていた所をカレが話しかけたこと。
それから何かと話が合って、そのまま親友になったこと。
小さい頃、2人して印籠で変身するヒーローや鍵を差して変身するヒーローにハマっていて、よくアズマが彼の家に遊びに行っては2人で録画した分を見ていたこと。
夏休みの自由課題で、小学生が1日かけて自転車を漕いだ場合、何処まで進めるのかというテーマで冒険に出発し、結果的に迷子になってお巡りさんに家まで送ってもらったこと。
夏祭りで2人で神社に出かけて、ヒーローのお面をおそろいで購入したり、屋台の料理を食べたりしたこと。
どれも、彼が話してくれたことのない、私の知らない彼の過去だった。カレにとっては思い出話だけど、私にとってはどれも新鮮さを感じた。彼にも男の子っぽい所があると知れて少し微笑ましかった。
「西川さん、なんだか嬉しそうだね」
「……あ、いえ」
「確か、アズマ君とは中学からの同級生だったね。どうかな、彼。元気でやってる?」
「はい、大学で頑張ってます。けど、結構抜けてるところもあって、前にレポートを提出し忘れて危うく留年になるところでした」
「相変わらずだなぁ」
昔もときどき大きな宿題とかを素で忘れて慌ててたことがあったよ、と思い出し笑みを浮かべながらカレは話す。
砂場で遊ぶ子どもたちが、砂で作った山にトンネルを掘り始めた。崩れないように、慎重に喋るで入口と出口を掘っていく。
「…………それで、本当に聞きたいことは何かな」
表情は変えず、前を見たままカレは私に訊く。私は少し間を置いてから答えた。
「…………アズマが話していました。昔、虐められていたあなたを見捨ててしまったって。そのことについて、お話を聞きたかったんです」
「見捨てる、か……大袈裟だな」
カレは苦笑しながら、顔を空に向けた。
「……あれは、小学5年生の時だった。初めは向こうからの軽いからかいだった。僕は嫌がりながらやめてよって反応したんだ。それが面白かったんだろうね。その日から僕は彼奴らからターゲットにされたんだ。いや、多分、鬱憤を晴らせるなら誰でも良かったんだと思うよ。運悪く僕が捕まってしまったんだ」
視線を前に戻して、話を続けた。
「初めは、軽く小突いたり、ジョークで僕のことを弄ったりする程度だったんだ。それが、掃除当番を押し付けてきたり、物を隠されたり、どんどんエスカレートしていったんだ。そう、結構冗談抜きで酷いことになり始めたんだ。それで、流石に耐えきれなくなって先生に話したんだよ。そしたら、彼奴らから『このチクリ』って言われてね。解決するどころか寧ろ悪化したよ」
ため息を漏らし、カレは話を続ける。目前の砂場の子どもたちが、山が崩れたことで喧嘩を始めていた。
「体育の時は、わざとボールで集中砲火をされるのは当たり前で、いやいやキーパーをやらされた時は、毎回顔を狙われたよ。でも、それだけじゃ気が済まなかったんだろう。今度は物にまで手を出されてね、アズマ君と一緒に買ったお揃いのキーホルダーとかも、全部壊された。何よりタチが悪いのは、彼奴らは決して表では僕を虐めなかったんだ。初めに先生に怒られて学習しちゃったんだろうね。いつも『俺たち、友達なんで』とか言って肩を組んで誤魔化してたよ。その時も指が食い込むくらい力強く掴まれたよ。『言ったら分かってるな?』って無言で圧をかけられた…………正直、家の事情で引っ越すことになったのは、僕にとってはラッキーだったよ。あのままだったら、僕は…………」
実に彼ららしいやり方だった。
「嫌だなぁ……忘れたと思ってたけど、話せば話すほど思い出してしまうよ。嫌なことってどうしてこうも覚えてるんだろ」
カレは疲れたようにため息を吐き、乾いた笑いを浮かべた。私にもカレの気持ちは凄く理解出来た。楽しい思い出は忘れやすいのに、そういうのって、早々忘れることなんてできない。
砂場で男の子が年下の女の子を押し、尻餅をつかせ、女の子を泣かせていた。山が崩れたのはお前のせいだと叫んでいた。
私は少し緊張しながらあのことを訊いた。
「……あなたは、クラスのみんなのことを恨んでますか?」
カレはゆっくりかぶりを振る。そして「と言っても、加担してた子は許せないかな」と付け加えるように言った。「恨んではないんだ。いつまでも恨んでたら疲れちゃうからね」
「……じゃあ、アズマのことは、親友と思っていた彼のことも、許せませんか?」
カレはまたかぶりを振る。そして「中学に上がるまでは」とまた付け加えるように言った。
「……中学2年の時、1年の時に同じクラスだった子が虐められていたんだ。昼休みや放課後になると、クラスのタチの悪い奴らに呼び出されてたらしくてね、カツアゲとか暴力とか、色々とやられていたらしいんだ。まさに、小学生の時の彼奴らにやられてた僕みたいにね」
いつの間にかカレは項垂れていた。前で組まれた両手が微かに震えていて、声も悔いるようなものに変わっていた。
「クラスの子はみんな、彼のことを助けなかったよ。寧ろ、ノリノリで加担してた子もいたくらいだ。オマケに、先生もその子とあまり相性が良くなかったみたいでね……味方は1人もいなかったと思う」
カレは泣くように声を震わせた。さっきまで笑顔を浮かべていたけど、今は悲しみにくれた顔をしている。見えなくても分かった。
「……僕は、何もしなかった。1年の時に、あんなに親しく話していた彼が虐められているのに、僕は遠くから見ていただけだった。むしろアイツらと別のクラスだったことを良かったとも思っていたよ。
…………僕は、自分が次の標的にされることが怖かったんだ。折角、彼奴らのいない場所に逃げたのに、またあの地獄の日々を送ると思うと……足が動かなかった。それに、彼が虐められることで、僕は自分に目を向けられないことに、ほっとしていたんだ。あれだけ許せないだのなんだの言っていた僕が、今度はそっち側の人間になっていた……あの時のみんなの心境もこんな感じだったんだなって、分かってしまったよ…………だから、僕は、アズマ君のことを許さないなんて、そんな資格はないんだ」
カレは深く息を吸って吐き、心を落ち着かせるようにしばらく黙った。そして手を下ろすと、落ち着いた口調で口を開いた。
「……虐めが始まってしばらくしてからだよ、その子が校舎から飛び降りて、自殺したの。西川さんも見たことないかな? A県の〇〇市ってところの中学校に通う男の子が自殺したってニュースなんだけど」
はい、と私は答えた。当時の私はかなり追い詰められた状態だったが、時折ニュースを見ることはあった。その時に確か、その件について流れていた。
〇〇市にある県立の中学校で、中学二年生の男の子が1人、早朝に校舎屋上から飛び降りた。飛び降りる瞬間を目撃した子もいて、確か男の子の名前も公表されたはずだ。そして、屋上には、風で飛ばされないように石で固定された遺書が残されていた。
「遺書には、彼を虐めていた奴の名前と恨み、それから家族への謝罪の文字が書かれていたらしい…………ニュースでは伏せられていたけど、そんなものは無意味だった。連日で学校に記者が押しかけてきて、通学する子に突っかかっていたよ。特に彼のいたクラスの子は結構色々とあったようで、しばらく学校を休んだ子もいたらしい。虐めていた主犯格のやつは、住所や家族まで特定されたみたいで、ネットに晒されたらしい。途中から学校に来なくなったよ」
「あなたは…………」
「…………僕は……何もなかったよ。驚く程にね、なにも。責められることなんて一切なかった。クラスが違うってだけで、何もなかったんだよ」
それが余計にカレに後悔の念を抱かせたという。
砂場で遊ぶ女の子が叫ぶように泣き始めた。男の子は気まずそうに俯いていた。
「……彼、両親には虐められていることを話してなかったらしい。みんなの中には、そのことで彼のことを責める人もいたよ。どうして言わなかったんだって…………でもね、僕には理解できたんだ。彼はきっと、両親に余計な心配をかけたくなかったんだと思う。自分のせいで親が悲しんだり、病んでいくのって、結構嫌なことだよ。僕の両親も、僕が虐められていることを知った時は、酷く動揺してたし、母なんて『まだ虐められてる? 解決したの?』って心配性になって、しばらく睡眠もろくに取れなかったんだ。だから、余計に悪化したことなんて話せなかったよ。報復だってそうさ、自分ならともかく、ああいう奴は家族にまで手を出しかねないから。
そう、僕もやられたから分かるさ…………そう…………僕は、分かってやれる人間だったんだ…………」
再び声を曇らせ、顔を手で覆うことなく泣き始めた。いつの間にか、私も泣きそうになっていた。私には、自殺した彼とカレの気持ちが理解出来た。私も、同じような経験をしていたからだ。
「…………3年にあがると、みんな、何事も無かったように暮らしていたんだ…………彼を一緒に虐めていたメンバーも、隣で笑っていた子も、みんな、受験勉強のためとか、将来の為とか語って…………メディアですら、あの子のことなんか…………本来なら、彼だって同じように………………僕が、助けてさえいれば…………僕は…………卑怯者だ………………」
溜めていたものを吐き出すように、カレは俯き、泣きじゃくる。溢れる涙が垂直に落下して、足元の砂に落涙する。
砂場の女の子も、カレのように泣いていた。
「……アズマは」
しばらくカレが泣いたあとで、私は口を開いた。
私の口は震えていた。私が聞きに来たことで、カレは過去の記憶を蘇らせてしまい、深い後悔を叫んだ。そんなカレに対して今から私が話すことは、もしかしたら嫌な人間だと思われるかもしれない。カレを追い込むかもしれない。けど、話さずにはいられなかった。
「アズマは…………中学校で、あなたと同じように、彼奴らから虐めを受けていました。あなたが彼奴らにやられたような内容と同じものを……いえ、もっと陰湿なものを」
カレはゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情は、驚きと悲しみが合わさったようなものだった。
「彼は、おばさんに……母親に虐めのことを話していませんでした。ずっと1人で育ててくれたあの人に、これ以上負担をかけたくなかったって。それに、これは自分への、あなたを見捨てた卑怯者の自分への天罰とも言ってました…………アズマは、あなたを助けなかったことを、ずっと後悔してるんです」
「…………君は、一体」
怪訝そうな目を向けるカレに、私は左腕を見えるように出して、長い袖を捲った。リストバンドも包帯もつけていない左手首には、生々しい切り痕がいくつも線を描いていた。微かな風が傷跡を撫でる。とっくの昔に塞がったはずなのに、風の冷たさが傷口に染みた。
「私は、ずっと死にたいと思ってました。私も、あなた達と同じで、虐められていました。毎日毎日、クラスの子に体も心も踏み躙られてました。首を絞めたり、手首を切ったり、自分で自分を傷つけたりもしてました。
でも、それでもダメで、私は屋上から飛び降りて死のうとしました…………そんな私を、アズマは、助けてくれました。自分だって辛いのに、同じ目にあっていた私の手を掴んでくれたんです」
気がつくと、涙が溢れていた。思い出すだけでも息が苦しくなりそうだった。でも、全部を話さないといけないと思った。
砂場に、別の子が駆け寄ってきた。
「…………アズマは、私のせいで、もっと傷つきました。でも、それでも彼は、私の手を離しませんでした…………私が崩れそうな時も…………ずっと…………」
カレは黙って聞いていた。
「…………私は、アズマが好きです。ずっと彼に頼り切りだった。だから、今度は私が彼を支えたいんです」
日が照り付けるなか、風が私たちの間を通り抜ける。
砂場で駆け寄ってきた子が、女の子と男の子を励ます。
しばらく経ってから、カレは泣きながらふっと吹いた
「……そっか……アズマ君も、そうだったんだ…………僕なんかより、ずっと凄いや……」
「…………お願いがあります…………」
「……なんだい」
「……アズマと、もう一度会ってください」
カレは赤く腫らした目を私に向けた。口を少し開けた状態で驚いたような表情を作っている。一体何を言っているんだと言わんばかりの様子だった。
「アズマと、もう一度会って、あの時のことを話し合ってください」
私がやっていることがお節介なことぐらい、理解している。下手をしたら二人の間に一生埋まらない溝を作ることになるかもしれない、私もアズマから見捨てられるかもしれないし、彼に嫌われるかもしれない。でも、このままにしておくことなんてできなかった。
「このまま、彼が後悔を背負ったまま生きるなんて、耐えられないです……アズマは、私にとって…………」
そこから先は言葉が出なかった。言いたいことが喉で引っかかってしまっていた。
私は今、カレの気持ちを考えていないと思われても仕方がないくらい、凄く自分勝手になっている。
目の前の砂場では、男の子が女の子に頭を下げて謝っている。女の子は泣きながら手で涙を拭い、いいよと微笑んだ。
私も彼女のように涙を拭い、鞄から手のひらサイズのメモを取りだした。
「…………これ、アズマの電話番号です。必要ないなら、捨ててもらって構いません」
カレは手を伸ばしてメモを受け取る。黙ってメモを見つめるカレを横に、私は腰を上げて、背を向けて歩き出す。子どもたちの遊ぶ声が、その中に混ざるカレの嗚咽が耳に届く。
私には、カレを見ることは出来なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
とある寒い日の朝方、俺とナオは開いた扉を潜り、急行電車から駅のホームへと降りた。子どもの頃から何度踏みしめたか分からない硬い床を踏みながらエスカレーターを下り、改札を抜けて、出入口に立った。
外に出ると同時に、冷たい風が吹き込み、暖房でほかほかに温まった体を急激に冷やし、身震いさせる。早起きと車内の暖房、電車特有の心地よい揺れによって齎されていた睡魔も、この時期特有の冷風によって一気に吹き飛ばされてしまった。
「アズマ、大丈夫?」
「ああ、ごめん。暖かいところからいきなり寒いとこに出たから、なんか体が冷えたみたいだ」
ナオが心配そうに顔を覗き込む。相変わらず猫目に潜む赤い瞳は生き生きと輝いていた。最近だと残業続きのせいで、俺の方が目に光が灯っていないことが多い気がする。
もしも、昔の俺や彼女が今の俺達を見たなら、驚きで思わず口を開けてしまうだろう。
「じゃあ、こうしよっか」
ナオは俺の右腕に自身の腕を組ませ、寄りかかるように体を密着させた。
「いこ」
「ああ」
俺とナオは歩幅を合わせながら、出入口から1歩を踏み出した。
今日、俺達は数年ぶりに実家のあるこの場所を訪れていた。目的は、母さんとおばさん、おじさんに『あの報告』をするためだ。
ナオに告白をしたあの日から、既に数年が経過している。学業と就職活動を何とか両立させ、何度も躓きながら内定を貰い、課題を忘れることなく大学を無事に卒業して、今の仕事先で必死に働いている。
ナオとは現在、同じアパートの一室で一緒に暮らしている。大学生の頃とはまた違って、社会人2人での暮らしは色々と大変なことが多く、家事の分担とか、金銭関係の管理とか、多方面で苦労することが増えた。正直、俺が彼女の負担になっていないか不安になることが多い。
「アズマ。今、自分が私の負担になってないか、なんて考えた?」
「え、いや、そんなことは」
「言っておくけど、全然負担になんかなってないよ。アズマがいてくれて、私は凄く幸せだよ」
だから、そうやって自分を卑下しないで。そう言うと、ナオは腕にに力を入れ、ぎゅっと締め付けてきた。それは彼女の愛情表現なのか、単にちょっと怒っているのか、旗また両方なのか。どちらにしても、俺はそんな彼女の仕草が好きだ。
「あ、おいあそこ。コインランドリーに変わってるぞ」
「ほんとだ。確かケータイショップだったっけ」
「よく変わるよなぁ」
「あ、ねえあっち。また駐車場が増えてる」
「うわ、マジか。あの飯屋安くて美味かったのに」
「仕方ないよ、店主さんももう結構歳だったし」
駅から離れ、俺達は数年の間に変化した街並みに驚きながら歩道を歩き、実家までの道を進む。
今の故郷は、昔と比べて随分と変わっている。
俺達がこっそりサイダーを飲んだあの団地は、大学3年に上がると同時に取り壊され、新しい県営住宅が建った。
サイダーを購入した自販機とその隣にあった店は潰れ、駐車場に変わった。
あの子とよくお菓子を買いに行った駄菓子屋さんは取り壊され、代わりに新築の戸建てが建てられ、知らない人が住んでいた。
所々にあった更地には、埋め合わせるように一軒家が建てられた。
今回は大学を卒業してから初めての帰省だ。今歩いている場所から見える景色でさえ、前と変わっている箇所がかなり多い。きっと、あの周辺はもっと変化しているだろう。
…………変わっていると言えば、ひとつ思い出したことがあった。
大学2年の春休みに戻った時に、あいつに再会したことだ。あいつとは、ナオがトラウマをぶり返すきっかけになった『あいつ』のことである。その時は、ナオが母さんとおばさんが2人でショッピングをして回っていたため、ナオがあいつと遭遇することはなかった。
後ろから聞き覚えのある声が聞こえたと思い、恐る恐る振り返ったら、お腹を膨らませたあいつ……いや、彼女が手を振っていた。高二で遭遇した時と違って、染めていた髪の毛は黒に戻り、格好もお腹の子を労るような落ち着いた衣服を身にまとっていた。ケラケラとした笑顔も、少し大人びたものになっていた。
突然の声掛けとガラリと変わった雰囲気に唖然としていると、彼女は聞いてもいないことをペラペラと話し始めた。高校を卒業して働き始めたこと。高校から付き合っていた彼氏との間に子どもを儲けたが、妊娠したことを告げた次の日に別れ話をされたこと。親に勘当され、誰にも頼れず、今は1人でお腹の子を育てようと仕事を頑張っていること。遭遇してから2、3年経った間に起きたことを、彼女は苦笑混じりに話した。
ついでに、主犯格やA子のことについても話していた。何でも2人はそれぞれ進学した高校で酷い虐めにあったらしく、不登校と引きこもり、退学、更には自殺未遂までしたとのことだった。どこで何をやっているのか、彼女も知らないらしい。
それを聞いた時は、ざまぁ、なんて気持ちにはならなかった。勿論、許している訳でもないし、許すことなんて今後もないだろう。会いたくもないし、会うなんて死んでも嫌だ。
ただ、俺やナオが受けた苦しみを理解してくれたのだろうか、いや、少しでもいいから理解して、あの時のことを後悔して生きて欲しい、そう思った。
『北岡。西川には今日会ったこと、話さないでね。あたしがいるなんて知ったら、あの時のこと、思い出させちゃうだろうからさ』
それだけ言うと、彼女は手を振ってその場を去っていった。以来、彼女には再会していない。次の年もその次も、彼女に会うことはなかった。もし会いたいかと言われたら、答えは絶対にNOだし、許したのかと言われたら、同じくNOを突き出す。
けれど、彼女と彼女の子が今頃どうしているのかと、不意に気になることはある。それは、同じ立場になる可能性がある者として得た考えなのかもしれない。
「あ、メール」
そんな前のことを思い出していると、コートのポケットに入れていたスマホが震える。軽く欠伸をしてから取り出して確認すると、友人の彼からメッセージが届いていた。
「誰から? 晴山君? またアキラが何かやった?」
「いや、彼からだ。『今度飲まないか』だってさ。場所はこっちに任せてくれるらしい。行っていいか?」
「いいよ。でも、遅くならないようにね」
ナオの許可を貰った俺はメッセージを送信し、スマホをポケットにしまった。
彼から連絡が来たのは、大学3年になってからしばらくしてからのことだった。どうやら、知り合いを辿ってようやく俺の電話番号を探し出したらしい。彼の名を名乗る相手は、10年前に聞いた彼の声と比べると全くの別人にしか聞こえなかった。けど、話し方の癖で、俺は直ぐに彼だと分かった。
その数日後、待ち合わせの場所で彼と再会した。背丈も声もすっかり変わって大人びていたが、面影はしっかりと残っていた。
それから、俺達は10年分の空白を埋めるように話し合った。あの頃はこんなことがあった、こんなことをした、あの時助けなくてごめん、僕も実はこんなことがあったんだ、実は俺も中学の時に…………久々の再会で、俺は過去の謝罪と、中学時代のことを、彼に非難されることを覚悟して告白した。けれど、彼は全てを見越していたかのように微笑み、握手を交してくれた。
そして今も、俺達の関係は続いている。昔と同じ、親友として連絡を取り合い。年に1回は必ず飲み会や遊びをしている。その度に『今日は帰ったらママと娘に叱られるんだろうなぁ』と笑いながら言っている。その光景が、俺にとっては嬉しくて、ちょっぴり羨ましく見てた。
「…………ナオ」
交差点の横断歩道にて、赤信号で止まった俺は、目線は前に向けたまま、ナオに話しかけた。彼女は首を傾げながら「なに?」と訊いてくる。
俺はナオのことが好きだ。今も大好きだ。夜の営みの時は、ずっとこの時間が続けば良いのにと思うほどに彼女を抱きしめている。ずっと一緒にいたい。彼女の辛さを俺に分けて欲しい。告白してからもその気持ちは揺るがない。今回の帰省も、『あの報告』をするためにしたことで、それはナオとの関係が、単なる同級生、友達、恋人ではなくなることを意味していた。
そんな今だからこそ、この言葉を伝えたかった。とてもシンプルなのに、どこか照れくさくなってしまうあの言葉を言いたかった。
「…………ありがとう」
詰まっていた言葉を押し出し、唇を動かしてそう言った。
しかし、目の前を通り過ぎたトラックの通過音によって掻き消されてしまったようで、ナオは首を傾げていた。
「なに? なんか言った?」
「……いや、なんでもない」
俺は恥ずかしさを誤魔化すように笑った。完全にタイミングを逃してしまったが、これで良いのかもしれない。伝えるのは今じゃない、もっと良いタイミングがあるんだと、前向きに考えればいい。
歩行者用信号が青に代わり、俺達は横断歩道を渡る。
黒い部分を跨ぐように白い線を踏みながら、少し子ども子どもっぽく歩いてみる。
ナオは笑い、俺も釣られて笑う。
過去に受けた傷は、絶対に消えることがない。
けど、今の彼女の笑顔には、あの頃の悲しみはなかった。
◇◇◇
私達は、またこの場所に戻ってきた。大学を卒業して以来の帰省で、ところどころが変わっていた。まるで、あの地獄のような日々が過去のものとして一緒に消したかのように。
あの頃のトラウマを乗り越えられたのか、そう聞かれたら私はNOと答える。昔よりマシになったけど、どうしてもたまにフラッシュバックを起こしてしまうし、仕事中でも急にあの頃のことを思い出して、気持ちが悪くなることもある。それはアズマも同じで、いつもどっと疲れた様子で帰って来ている。時々、疲れのあまりお互いに泣きそうになることもある。
けど、だから私はこの人の傍にいたい。ずっと一緒にいたい。彼の支えになりたい。辛さを私に分けて欲しい。その気持ちは告白を受けた時からずっと揺らいでない。
信号機が青になる、私達は黒い部分を避けながら白い線を踏んで歩く。とても子どもっぽいことなのに、どこかおかしくて笑ってしまう。彼も釣られて笑っていた。
もうすぐ、私達は単なる同級生や友人、恋人という関係でなく、もっと深い関係になる。そんな今だからこそ、込み上げる彼への思いを言葉にしたかった。
「…………アズマ、ありがとう」
横断歩道を渡る途中、自動車が通る音と信号機のメロディに混じらせて、私は小さな声で言った。きっと聞こえてない。聞こえないように小声で言ったから、彼に聞こえてはない。この言葉は、もっとちゃんとした場面で伝えたいから。
渡りきった先で、私は彼に笑顔を向けた。
彼も一緒に笑ってくれた。
今の私達の笑顔に、あの頃の悲しみはなかった。
本当は『虐められた彼女が過去のことを思い出して、それを彼氏が慰めックスする』みたいな感じで短いものを書こうとしていた。けど気づいたらこうなってた・・・・・・
あと、入れたい描写とかも沢山あったけど、話の流れで無理だと判断してカットした。