※この作品はR-18です。

オリジナルエロ話   作:歩輪気

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今回、すごく長くなったので、3つに分けて投稿します。
プロローグとエピローグにエロシーンはありません。

今回、児童に対する性的虐待の描写があります。読む方によっては気分を害する可能性があります。ご注意ください。

また、今回は文字数がかなり多いので、所々文章がおかしいかも知れませんので、誤字脱字等があった場合、教えて貰えるとありがたいです。

※物語に登場する人物等は全てフィクションです。


君と私とお義父さん プロローグ

 ◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 彼女は同じ1年5組のクラスメイトで、入学式の日に教室で軽い挨拶を交わしていた。授業でも教科書の読み合いとかで何度か話すことはあって、お互いに顔も知らない仲ではなかった。ただ、話すのはその程度で、友人というには全く未満な関係で、クラスメイト以上のものはなかった。偶然にも同じ部活にも入部したものの、特に話すこともなく、新入部員の歓迎会的なものでも、会話を交わすことはなかった。

 

 僕達が初めて会話したのは、部活中に僕が忘れ物に気づいた時のことだった。僕の入部した部活は所謂文化部に分類されるもので、他校にはなかなかないと言われる珍しい部活動だった。しかし運動部のように特別な道具を複数用意する必要はなかった。ただ、その日に限って持って来なくてはならないものを忘れてしまった。家に戻ろうにも、往復で1時間はかかる。今から取りに行っても遅すぎので、僕は途方に暮れるしかなかった。

 

「あの、もしかしてあれ、忘れたの?」

 

 そんな僕に、隣に座っていた彼女が話しかけてくれた。僕の挙動不審な様子から、道具を忘れたことに気づいたようだった。

 

「良かったら、貸すよ。私、同じもの2つ持ってるから」

 

 そう言って、彼女は細い指先で握った道具を僕に差し出した。傷一つない肌に、薄らと血管が透けて見える。

 僕は礼を言い、道具を受け取った。彼女は「どういたしまして」と、柔らかな微笑みを返した。

 

 これが僕と彼女が会話をするようになったきっかけだった。それ以来、僕達は部活で会う度に話すようになった。初めは主に部活に関係する話題が多く、どうして入部したのかとか、ここが魅力的だとか、高校の中でもこの部活はここしかないとか、そういった些細なことだった。

 それが日を重ねるうちに、少しずつプライベートに変わっていった。

 僕は少し離れた場所に住んでいて、そこから電車と歩きで通っていることを。

 彼女は、元々は実家が離れた場所にあって、この学校を受験、入学するのが決まったのをきっかけに、母方の叔母の家に居候として暮らしていることを、打ち解けるように話した。

 

 また、趣味の話までするようになった。

 意外だったことは、彼女は絵が趣味で、小学校の時は学校の宿題で提出した絵が素晴らしいと先生達に褒められ、表彰されることもあったらしい。あまり褒めなれていないのか、僕が凄いというと、顔を赤くして照れていた。そんな彼女の表情が僕は好きだった。

 前に、彼女が趣味で描いてきた絵を描き綴ったスケッチブックを見せてもらったことがあった。

 叔母さん家の近くにある河川敷から見える風景、団地が建ち並ぶ住宅街、学校の屋上から一覧できる景色等など。白と黒しかないにもかかわらず、鉛筆の濃さや力加減を上手く使って、まるで何色も使用しているかのような作品がいくつも綴られていた。どの絵も、滑らかで柔らかく、彼女の笑顔のように美しかった。

 

 関係が親密になっていくうちに、僕達は教室でも親しく話すようになった。初めからそうしなかったのは、クラスルームという空間で異性と話すのは、お互いにどこか気恥ずかしくて、口がもごもごとしてしまうからだろう。

 

「おはよう」

 

 朝一のクラスルームでの挨拶はその言葉から始まる。いつもならそれで終わって、それぞれの机に荷物を置いて一限目の数学の用意をする。けれど、彼女は続けて「今日の部活だけど、必要なものって他にあったかな?」と、いつもなら振らない話を振ってきた。僕は焦りながらもないよ、と答えて流れるように一限目の宿題をしてきたかを訊いて、彼女は「うん、少しだけ」と微笑んで答えた。僕が合ってるかどうか分からないから見せ合いっこをしようと言うと、「うん」と答えてノートを見せ合った。彼女の机の上で、2人分のノートが開かれる。対面する形で彼女と話し合い、計算ミスを指摘して、ポカミスに笑う。

 

 そう、僕達の教室での親しい会話はこの日から始まったのだ。

 

 それ以降、僕達は教室内でも、友人のように話すようになった。友人と呼ぶにはまだまだ未満と呼ばれてしまうレベルだけど、クラスメイトの女子の中では彼女と1番話していた。それを親しい男子から揶揄われ、違うと軽く笑って受け流した。

 

 ふと、僕は気づいたことがあった。

 彼女はいつも、クラスで誰かと群れたりすることはない。女子との会話も最小限で、いつも教室の窓から外を眺めていた。まるで、意識だけが外を浮遊しているかのように、彼女の目は遠くを見つめていた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 それは彼女と親しくなってから暫く経った時のことだった。期末試験を無事に終え、解放感に心と体が緩み切っていた僕は、授業中に返却されたテストの点数を見て、絶望の2文字を頭に落とされて沈んでいた。特に酷かったのは英語で、赤点は回避出来たものの、褒められた点数ではなかった。他の科目の点数で学年順位は中間で留まることはできたのが唯一の救いだろう。

 

 母親に叱られるのは確定している。なんせそういうことにいちいち毒づく言い方をする人だからだ。それが原因で、中学時代に酷い言葉をぶつけてしまったこともあった。所謂反抗期というやつだ。

 対して、父親はそういうことには緩く、赤点は取らなかったんだから良かった良かった、と言って笑って済ます人だ。そんなんだから、いつも母親に怒られている。

 けど、そんな父親だけど、怒ると人一倍怖くなる。中学時代に母親に酷い言葉をぶつけてしまった時は、どこからともなく現れて僕を怒鳴った。怒鳴って叱って『母さんに謝れ』と頭を下げさせてた。その後に、自分も昔はお前と同じように母ちゃんに酷いことを言ってたと、何故か隣で並んで落ち込んでいた。

 そんな父親だからこそ、母親は大好きで、彼を悪くいう人のことを許せないといつも言っている。あの人以上にいい男はいないとか、あの人は私がいないとダメだとか、父親に対してかなり重い感情を持っていた。

 

「ねえ、今日、一緒に帰らない?」

 

 帰宅後の両親の表情を思い浮かべながらリュックに荷物を詰めていると、横から声をかけられた。いつの間にか彼女が立っていた。背中にはカラフルな色つきのリュックを背負っている。今日は部活がないので、手提げカバンは持ってきていない。白い手を前で組んでこちらを覗くように見ている。

 突然のことに、僕は口を動かすだけで何も言えなかった。話すことはあっても、こうして下校に誘われることなんてなかったからだ。

 

「もしかして、忙しいかな?」

 

 彼女が首を傾げながら訊いてきた。僕は激しく頭を横に振り、忙しくないことを伝えた。

 階段を降りて、玄関口で靴を履き替え、校門を出て、僕達は並んで帰り道を歩いた。梅雨明けの夏本番前なためか、この時間でも外は昼間のように明るく、太陽は熱い日差しで地面を照らしていた。

 緩い坂道を彼女と並んで下っている。いつも1人か友達と歩くのを、今日はクラスメイトの彼女と歩いている。僕の方が歩くのが速いので、意識して歩幅を合わせた。

 

「暑いね。まだ夏休みじゃないのに、これじゃあ、8月になったら蒸発しちゃいそう」

 

 手を額辺りに翳して、目に影を作りながら顔を顰めて笑った。僕はそうだねと言った。

 

「こうして君と一緒に帰るの、初めてだね」

 

 続けるように彼女は言い、僕は頷いた。

 部活中や教室で話すようになったとはいえ、僕は彼女と1度も下校を共にしたことがなかった。登下校は、あくまでも学校外という扱いになる。多分、そういうのもあって、自然な話というものが出来なくなるのだろう。現に今、僕は緊張しているため、彼女に軽い返事か頷きしかしていない。学校だともっと話せているのに、どうして『そうだね』とか『新鮮だなぁ』とか、言葉が出てこないんだ。

 

「どうしたの?」

 

 小首を傾げる彼女に、なんでもないよと返す。ふんわりと跳ねる髪の毛が歩くのに合わせて上下に揺れる。白いブラウスに汗が染みて、中の下着が透けて見える。青いブラジャーを身につけていた。

 僕は思わず目を逸らし、今日は湿気が少なくてカラッとしているね、と焦りながらもなんとな誤魔化した。

 

「梅雨が明けたからね。風も気持ちいいし、日陰とか、座れたら涼しい風が吹いてるかもね」

 

 ニコリと、僕の誤魔化しに返答をしてくれた。

 彼女の表情はいつも透けていて、どこまでも柔らかい。血管が透けて見えるほどの透明感のある肌に、滲み出た汗が滴り伝う。刹那、僕の鼓動が大きく一跳ねした。動悸に襲われたのかと思い、思わず胸を抑える。手の平に心臓の鼓動が伝わった。

 

「ど、どうしたの? 大丈夫?」

 

 突然胸を抑えた僕を見て、彼女が心配そうに手を掴む。暑いのに彼女の手はひんやりとしていて、熱を持った僕の手を冷やした。その冷気は手を通して全身に伝わり、背中までも涼しくした。そんな幻覚を感じつつ、今彼女に手を握られているという目の前の事実に、体の内側から火が吹き出るように体温が上がり、顔から湯気が出そうになった。

 僕は噛みながら大丈夫、大丈夫、少しふらっとしただけと答えた。

 

「そう? ならいいけど……水分とか、ちゃんと持ってる?」

 

 勿論だよ、とあたふたと汗を流しながら答え、カバンの中からペットボトルを取り出そうとした。しかし、どこにも見当たらない。朝ちゃんと持ってきたはずなのに、無くなったかのように見当たらなかった。どうやら教室のロッカーに置き忘れでもしたようだ。前にも何度かやらかしたことがある。

 

「もしかして、お茶とか持ってないの?」

 

 訊ねられたので、素直に忘れたことを伝えた。続けて今から急いで取りに戻るよ、と言おうとしたけど、そうなると彼女をこの炎天下に待たせることになる。駅はもう少し歩いたところにあるし、ここは我慢して、彼女と別れた後に買えばいい。170円くらいの出費はかなり痛いが、仕方の無いことだ。僕も、折角の彼女と二人きりの下校を途中で終わりたくなかった。

 

「はい、これ」

 

 後で買うよ、そう言おうとしたが、その前に、彼女が僕の目の前にコップを差し出してきた。水筒の蓋の役割を果たしているコップの中には、茶色い液体が注がれていた。

 

「私のお茶、飲んでいいよ。途中で買うとお金がもったいないからね」

 

 ニコッとまた笑った。僕は顔から火を吹き出しそうになりながら、彼女からコップを受け取り、縁に口をつけて液体を飲み干した。麦の味が効いた、冷たいお茶だった。

 飲んだあとの一息をつき、ありがとうとコップを返す。彼女は「どういたしまして」と受けとり、自分の分のお茶を注いで1口飲んだ。

 間違いない、関節キスだ。紛れもない関節キス。思春期ならドキドキが止まらない関節キスを、彼女は平然とやってのけた。

 

「……ん、美味しい」

 

 ぷはっ、と小さく息を吐く彼女。今度こそ心臓が飛び跳ねそうになる僕。僕は今、自分の気持ちがどう言ったものなのか自覚した気がした。

 

 どくどくと暑さよりも熱い体を引きずりながら、僕達は駅に到着し、改札口を通った。ここで僕は左側のホームに、彼女は右側のホームに上がり、それぞれの電車に乗り込む。

 

「それじゃあ、また明日。宿題、見せ合おうね」

 

 微笑みながら、彼女は僕に手を振った。

 そして彼女が踵を返した。瞬間、僕は彼女の苗字をさん付けで呼んだ。彼女は振り返り、「どうしたの?」と僕の苗字をくん付で呼んで首を傾げた。

 拍動が速くなる、小動物のようにドクドクドクと異常なまでに。喉に固いものが詰まったかのような感触がする。あ、あ、と絞るような声しか出ない。

 周りにチラチラとした視線が向けられ、恥ずかしさで体温が上昇する。けど、ここで伝えられなければ、この先、いつ言えるか分からないと思った。

 

 ──僕と友達になってください! 

 

 僕は息を大きく吸い込んで、そんなセリフと共に吐き出した。

 

 彼女は一瞬だけ瞠り、すぐに戻って微笑みながら

 

「うん」

 

 と頷いた。「じゃあ、今日から私たち、名前で呼び合おっか」と付け加え、僕のことを名前で呼んだ。僕も彼女を名前で呼んだ。

 

 しばらく笑い合い、彼女は手を振って今度こそ立ち去る。透けた下着が見える後ろ姿が階段の上へと消えていく。ほんの数十分程度の帰り道だったのに、僕は長く、長く、幸せに感じた。

 

 気温が高くて暑い中、僕は浮かれて電車に乗り、水分確保も忘れて帰宅し、暑さと脱水で玄関でぶっ倒れた。団扇で僕を仰ぐ母は『なんかあったのかしら?』と父に訪ね、父は『なんかいい事でもあったんだろう。そっとしとけ』とニヤニヤしながら炭酸水を飲んでいた。そのやり取りを、僕はクーラーの聞いたリビングのソファで横になりながら聞いていた。

 

 お父さん、あなたは何のかんの言ってお見通しなんですね。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 その日以来、僕達は名前で呼び合うようになった。朝に教室で顔を合わせた時も名前で挨拶をしあい、宿題の見せ合いっこや教え合いっこでも名前を呼びあい、部活動でも名前を呼んで取り組んだ。

 友達になった僕達は、苗字で呼びあっていた時よりも、明らかに距離が縮んでいた。親しさも、話す回数も、前よりも増えていた。

 そして何より、僕達は帰り道を共にするようになった。短い時間だけど、僕は彼女と話しながら帰る。話が盛り上がった時は、日陰のある場所に座ってお喋りの続きをしていた。その光景を友達に見られても、僕は気にしなかった。そして、ホームでお互いの姿を見た時は、こっそりと手を振りあった。

 

 僕にとって、彼女との2人きりの時間は至福のときだった。

 

 そして、僕は確信した。

 あの時、彼女からお茶を貰ったときの、心臓が飛び出るかと思った幻覚。

 あれは間違いなく、僕が彼女に『惚れた』瞬間だった。僕は彼女に恋してしまったのだ。

 

 しかし、そんな思いを伝えられるはずはなかった。なんせ、僕達は友達になったばかりで、異性として告白する勇気なんてものは形にすらなっていなかった。

 毎度、僕はベッドの中で彼女の顔を思い浮かべた。彼女の笑う顔、困った顔、窓から外を眺める遠い目。その全てが僕には可愛いと思えた。

 

 天井に手を掲げて、彼女に握られた感触を思い出す。柔らかいあの白い手を思い浮かべると、僕の体温と血液は沸騰した。こっそり部屋を覗いていた母が『なんか変なの』と言い、父が『青いなぁ』と呟いたのが聞こえたが、気にする暇もなかった。

 

 一方的な片思い、叶うかどうかなんて分からないものを抱えながら、僕は彼女と時間を共有し続けた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 彼女と知り合って1年が経ち、僕達は2年生に進級した。2年ともなると、分野ごとに分かれている。僕は大学に行くつもりだったので、進学コースを選んだ。と云っても、まだどんな分野に行きたいとかは決めてない。とりあえずは大学に進学することを踏まえて選んだだけだ。

 彼女も僕と同じ進学コースを選んだ。けど、彼女には明確な理由があるようで、なんでも、とある分野に特化した大学に行きたいそうだ。詳しい内容は省くけど、絵を描くことが好きな彼女にピッタリな理由だと思った。

 

 新しい学年になっても、僕達は奇跡的に同じクラスになれた。しかも席は隣同士、こんなに喜ばしいことはなかった。

 

「また一緒になれたね」

 

 隣で座る彼女が笑いながら言ってきた。窓から入った風が彼女の髪を揺らし、笑顔の明るさをより鮮明にさせた。

 よろしく、と僕は満面の笑みで返した。

 

 2年生に上がってからも、僕達の関係は続いた。大学受験という同じ目標を持っているおかげか、寧ろ1年生の時よりももっと縮んだ気がする。とは言うものの、彼女の夢は明確で僕はまだ不明確、その点が彼女と僕の大きな違いとなっていた。彼女は既に大学について県内・県外共に模索しており、時折僕にそのことを話してくれた。将来のことが決まっていない僕は、彼女の話に着いていけないことが多かった。けれど、こうして彼女と話していられる。それだけで僕はこのコースを選んで良かったと心の底から思えた。

 

 彼女の柔らかな微笑みに毎日に花を咲かせていたある日、とある噂話を聞いた。なんでも、別のクラスの男子が彼女に惚れていて、数日前に告白をして、無事に玉砕したそうだ。ふわふわとして柔らかい印象を与える彼女なのだから、惚れる男子も僕以外にいてもおかしくはない。寧ろ、彼女に告白したその男子は玉砕覚悟で向かって行った。半分は尊敬に値する。もう半分は嫉妬している。

 

 そしてこの時、僕はある決断をした。いや、実は前々から準備はしていたのだが、どうしても言い出せなかった。しかし、こうして新学年で一緒になれたのは最早運命だ。そう自分に言い聞かせて、僕はある行動を実行した。

 

 

 ◇◇◇

 

 

「梅雨前なのに、最近雨が酷いね」

 

 2年生になってからしばらく経った。顔見知りなクラスメイトにもすっかり慣れてしまい、僕達は1年生の時と変わらない日々を過ごしていた。違うとすれば、1年前よりも授業が格段に難しくなったということと、宿題の数が異様に増えたということだろう。

 

 そんな毎日を何とか生き残っていた僕は、今日も今日とて部活動に参加し、彼女と共に窓外を眺めていた。まだ梅雨入り前だというのに、ここ1週間、不安定な天気が続いていた。空はいつも灰色に濁った雲に覆われており、昼間の太陽は明るさだけを雲内に散乱させて、日差しは一切地面に届かなかった。こんな天気が続くものだから、電車は当たり前のように遅延するし、傘は手放すことができなかった。

 

「昨日はごめんね。傘借りちゃって」

 

 僕はいいよ、気にしないでと返した。

 昨日、彼女は行きの電車に傘を忘れてしまった。幸い、朝は雨が降っていなかったので濡れることなく登校することが出来たが、放課後はバケツの水をひっくり返したような豪雨が襲ってきた。

 僕は彼女を放っておけず、咄嗟の提案で2人で相合傘をしながら駅まで帰った。恋人でもない男女が相合傘なんてするもんだから、当然僕は緊張で固まりまくった。必死に彼女に雨がかからないように、自分が濡れることも厭わずに傘を差した。そして駅に着いてからも彼女に傘を貸した。彼女を濡れて帰らせるだなんて出来なかったのだ。おかげで家までずぶ濡れで帰ることになったが、彼女の役に立てたのだから、どうってことはなかった。ちなみに、傘は今朝に返してもらった。

 

「叔母さんにね、帰りに駅前のコンビニで新作のスイーツを買ってきてって頼まれたんだ。駅から家までの帰り道にコンビニなんてないから」

 

 僕達が毎日乗り降りしている、高校から近い駅の目の前には、全国に展開しているコンビニがある。どうやら、彼女は今日そこに寄っていくようだ。よくよく考えたら、傘もそこで買えば良かったのでは? と思ったが、そんなことを言ったら昨日の僕の苦労が水の泡になってしまう気がしたので、気づかなかったことにした。

 

「また、一緒に帰ろう」

 

 天使のような微笑みが僕を照らした。

 そして、危うく忘れそうになった僕は、笑みを浮かべる彼女に一言、あのさ、と言った。

 

「どうしたの?」

 

 彼女はいつものように首を傾げた。僕は続けて、この後時間ないかな? 実は話したいことがあるんだ、と言おうとした。だがヘタレなのかなんなのか、僕はその言葉がでなかった。固まって口を開いたまま、パクパクとさせてしまう。

 

 おいおい、あのさ、なんてカッコつけておいてそれはないぜ、おい、最高にかっこ悪いぜ、俺。なんて、らしくもないことを頭の中で呟く。そんな暇あるなら、さっさと目の前で首を傾げる彼女にあのセリフを言えよと、発破をかける。

 

 ──こ、この後…………遊びに行かない? 

 

 遊びじゃなくて話がある、だろ。それで告白するんだろ。おい、何言ってるんだお前は。そう自分を責めたが、もう遅かった。既に口に出してしまっているうえに、この言葉はしっかりと彼女の耳にも届いていた。

 彼女は苦笑しながら「この後は、難しいかな。雨、酷いし、お使い頼まれてるし」と返した。当たり前な答えだった。

 

「でも、今週の日曜なら……」

 

 続けてそう言うと、彼女は手帳を取りだしてスケジュールを確認した。彼女は今どきの高校生の中では珍しく、スマホのような携帯機種は持っていなかった。もし購入したら、真っ先に僕と連絡先を交換してくれたらいいのになー、なんて呑気なことを考えていると、彼女は「うん、大丈夫」と言って「今週の日曜日なら遊べるよ」と繋げた。

 いつの間にか遊びに行く前提で話が進んでしまい、表情はぼーっとしつつも、脳内は混乱していた。

 

「大丈夫?」

 

 余程呆然としていたのか、彼女が目前で手を振っている。真っ赤っかな顔を見せないために今にも逃げ出してしまいたい衝動に駆られながらも、こんなチャンスは二度とないと全身を使って踏ん張り、彼女に遊びに行こうと答えた。

 

「それで、何するの?」

 

 唐突な質問に僕は口をニヤリとさせたまま硬直した。そもそも自分でも遊びに行こうなんて言うと思わなかったし、彼女が了承をしてくれるとも思わなかったから、どこに行くかとか何をするかなんて決めているはずがなかった。

 

「あ、じゃあ、駅前の美術館に行かない? ほら、A駅の前に新しく出来た美術館。私、まだ行ったことないんだよね。今なら学生割で安く入館できるらしいから、行ってみようよ」

 

 いつにも増して積極的に懇願する彼女の姿。こんな姿を見せられては、断ることなんてできるわけがなく、僕は笑顔を作ったまま顎を引いた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 そんなこんなでやって来た日曜日。やや雲が多いけれど、平日みたいな雨が降る気配は無い。

 僕は待ち合わせの目印であるA駅北出口前の謎の銅像の前に突っ立っていた。時刻は12時半、待ち合わせの時間は13時なので、やや早めに到着してしまった。

 本来なら、彼女からの提案で一緒に昼食をとってから入館する予定だった。ただ、片思い中な僕が恋した彼女と2人きりで外食だなんて、想像するだけでも頭から湯気が出そうになってしまう。なので、昨日の放課後に彼女に声をかけて、昼食を食べてから待ち合わせをしてもらうよう変更して貰った。昼放課ですら、お弁当を食べる彼女の姿を視界に入れるのが手一杯だというのに、その彼女からの食事の誘いを断ってしまった。食事する機会なんていつ来るか分からない、もしかしたら来ないかもしれないという事実に半分後悔しながら、今日という日を迎えた。

 

「あ、お待たせ」

 

 高度で飛行するちっぽけな旅客機をしばらく眺めていると、透き通るような声が鼓膜を刺激した。空から顔を下ろすと、目の前に制服姿の彼女が立っていた。と言っても、登校時に身につけているネクタイといったものはなく、学校指定の白いブラウスと灰色のスカートでコーデしていた。

 それは僕も同じで、男子用の白シャツと灰色のズボンという通学時のほとんど変わらない格好をしていた。

 

「少し早めに来たつもりだったけど……もしかして、待たせちゃったかな?」

 

 申し訳なさそうに訊かれ、僕はかぶりを振り、自分もついさっき着いたことを伝えた。実際は待ち合わせに遅れないために、11時半には近くにある喫茶店で軽い昼食を食べながら待機していたのだが、そんな愚行は恥ずかしくて話せるはずがなかった。

 

「君も制服で来たんだね。私も。私服は流石に恥ずかしいからこれで来ちゃった」

 

 困り顔に笑みをつけた彼女の姿に、僕は逆上せそうになった。

 

 

 横に広い建物にずらりと並んだガラス扉を潜り、受付で支払いを済ませ、壁に貼られた矢印に従って四角い入口を潜った。

 このA駅前にあるH美術館は、大分前から工事をしていて、今年に入ってようやく完成した場所だ。オープンしたばかりということもあって、建物内には数多くの絵が展示されている。有名な画家からマニアックな画家、風景画から人物画、風刺画から抽象画まで、絵に興味がある人にとっては、選り取りみどりな宝庫であった。

 

「すごい……この絵、こんなにも力強い」

 

 絵を観ながら、彼女は囁くように独り言を呟いていた。彼女の目は、ずらりと並ぶ絵画の列を常に視界に入れており、ひとつひとつ、飛ばすことなくじっくりと観察していた。この人は力強いとか、この人は優しいけど、絵から自分の後悔が滲み出ているとか、立ち止まっては、絵の一つ一つに褒めるように感想を述べていた。

 

 一方の僕はというと、正直な話、間が持たないと思っていた。美術関係については全くと言っていいほど明るくはない。

 昔、母が教育の一環として美術館に連れて行って貰ったことがあったが、その歳は『川!』『人!』『女!』『ちんちん!』『太っちょ!』『なんか食ってる!』と、素直な感想を述べていて、周りから失笑を集めていたそうだ。そうだというのは、僕は当時のことを全く覚えておらず、全ては母から恥の恨み言のように聞かされたことだからだ。父はバカ笑いして母からしばかれた。

 そもそも、感性が育っていない年端も行かない子どもに美術館で教育なんてものが間違っている気がするが。

 

「…………あの、もしかして楽しくない、かな?」

 

 凍りついた池の上を滑る人々の絵をぼんやりと眺めていると、横から彼女に声をかけられた。

 

「ごめんね、私が行きたいって言い出したから、付き合わせることになっちゃって……」

 

 申し訳なさで落ち込む彼女に、僕は必死に違う違うと言った。周りにも響いたようで、同じ入場者達から細い目で視線を送られ、警備員から咳払いをされた。

 

「私、昔からこういう絵とか、好きだったんだ。絵は描いてても楽しいし、観てても楽しいから。こういう美術館に飾られてる絵も、昔のことを直接見なくても、こうして絵として体験ができる、そういう所が、結構好きなんだ」

 

 僕の横に立って、彼女は目の前の絵を口端を上げて見つめた。彼女は今、この絵に対してどんな感想を、気持ちを持っているのだろう。何を受け取ったのだろう。

 少なくとも、僕には分からない。なんか楽しそうに滑ってるとしか思えない僕には。

 

 

 暫く歩いて、2階部分を回っている時に、ふと、とある絵に目を奪われた。

 それは大きなハートマークが描かれたシンプルな絵で、背景は漆黒に染められていた。他の絵画達に比べれば、あまりにもインパクトが弱く、作者もそれほど有名人じゃない。実際、僕の前を歩いていた老夫婦やカップもこの絵は素通りしていた。

 けれど、僕は目が離せなかった。まるで道具で目玉を固定されているかのように、瞳はハートを逃さない。どうしてこんなにも目が離せないのだろう。美的感覚とか、そんなものはないも同然なのに。

 

「この絵、初恋の時の心情を表したものらしいよ」

 

 またもやいつの間にか横に立っていた彼女が、作品下に取り付けられた説明文を読みながら言った。そして、それは僕にとっては答えも同然だった。

 この絵は、およそ1年前の、初めて彼女に胸を高鳴らせたあの時の、初恋の初動の瞬間を表現したものなのだ。だから、僕はこの絵に対して共感を覚え、そして、作者の気持ちを理解した。

 

 あなたも僕と同じで、こうして初恋を芽生えさせたんですね。僕も同じです。僕は、今隣に立っている彼女に恋をしてしまいました。ずっと、かれこれ約1年の片思いになります。前から告白しようと思っていたけど、どうしても言葉に出せずじまいだったんです。その間にも、彼女は告白されて、結局相手は振られたけど、この先、彼女に告白できずに他の人に取られると思うと、僕の心はドギマギが止まらないんです。でも、あなたの絵を観て決心しました。あなたの絵のおかげで、自信が持てました。もし、告白に成功したら、その時は…………海、行ってみたいです。砂浜の砂を踏んで笑う彼女、見てみたいです。出来たらまた、報告に来ますから。

 

 僕は改めて絵を見つめ、深々とお辞儀をした。そんな僕の姿に彼女は唖然としつつ、クスリと笑ってくれた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 時刻はあっという間にすぎて午後5時。結局4時間近くあの美術館に入り浸ってしまったらことになる。おかげで僕の頭の中はカラフルな色彩と描かれた人物たちが混ざりあって混沌としていた。もしこの脳内に漂うイメージを絵として表現できていたら、僕は一躍時の人になれたかもしれない。そんな能力なんてないから、考えても仕方のないことだが。

 

「今日はありがとう。凄く楽しかった」

 

 駅前に設置されたベンチに座りながら、彼女が自販機で購入した缶ジュースを片手に微笑んだ。日が沈むには猶予がある空は、まだまだこれからだと言わんばかりに明るい。

 僕は眩しさに目を渋めながらどういたしまして、僕も楽しかったと返した。美的センスが皆無な僕でも、彼女とこうして2人きりでお出かけできたのは嬉しかったし、共感する絵にもいくつか出会うことができた。それだけでも十分に楽しめたと思う。

 

「また、こういう場所に行きたいね。今度は美術館だけじゃなくて、他の場所にも」

 

 その言葉に、深い意味が込められているのか、単なる友人と遊ぶという意味が含まれているのか、分からない。けれど、僕の心を突き動かすには、十分すぎるほどの一撃だった。

 

 僕達は立ち上がり、解散しようとする。彼女が振り向いて去ろうとするのを、僕は声を上げて止めた。

 

「どうしたの?」

 

 呼び止められた彼女は僕に顔を向けた。僕は実は話したいことがあると、消えそうな声を吐いた。

 突然のことに当然不思議に思い、彼女は訝しそうにこちらを見つめる。

 

 

 大丈夫、大丈夫、何度も練習してきた。たったの一言、いや、二言か。この日のために練習をした。恐れるな、恐れたら負けだ。僕だって男なんだ。当たって、砕ける勢いで。逡巡してばかりでは、どうにもならない。

 

 

「話って何かな?」

 

 ほんの1m先、彼女が頭を斜めにして待っている。透明感のある手を前に組んで、口をへの字にして疑問符を浮かべている。その姿が可愛らしくて、胸の鼓動がまたもや速くなった。上昇する体温もあって、今にも茹でダコになってしまいそうだった。

 

「ん?」

 

 口をパクパクと動かし、言葉を伝えようとする。

 けれどどうにも言葉が出ない。友達になってくださいと言った時と同じように、詰まるものを吐き出すように、大きく息を吸って吐いても声は出ない。自分でも、どうして出ないのか不思議で仕方がなかった。いや、本当は分かっていた。分からない振りをしていたのだ。

 

「あの、なんか変だよ。もしかして、何か悩み事でもあるとか? それとも、やっぱり楽しくなかった?」

 

 心配を孕んだ表情で、彼女が1歩2歩と僕に近づく。かつ、かつ、と鳴る足音に、体がビクンと跳ねて、僕は何を思ったのか、彼女の手を両手で掴んだ。

 

「へ?」

 

 彼女は呆気に取られたような顔をした。そのすぐあと、僕は破裂するような勢いであの言葉を告げた。

 

 

 ──ずっと好きでした! 僕と付き合ってください! 

 

 

 叫び声が、空気を通じて辺りに散らばった。近くにいた鳩が驚いて飛び去り、空の向こうへと舞い上がる。チラホラと歩いている人達がこちらに視線を向けて、すぐさま通り過ぎる。

 僕は握った彼女の手をじっと見ていた。返事が来るまで、ずっと見ているつもりだった。

 

 けれど、いつまで経っても彼女からの返事はない。その代わりに、掴んでいる白い手が、小刻みに震えていた。

 

 ハッとして顔を上げた。

 

「あ…………あ…………」

 

 上げた途端、目の前にいたのは、脅えるように震える彼女の姿だった。

 

 口は小さく開けたままで、歯を小刻みにカタカタと鳴らしている。目は見開き、瞳は光を失ったように暗い。あんなに笑みを浮かべていた彼女の顔は、恐怖一色に染められていた。

 

 僕は咄嗟に手を離し、頭を下げて謝った。この時の僕は、突然の大声や手を掴んだことで、彼女を怖がらせてしまったと思ったからだ。

 彼女は握られていた手を隠すように胸に当てる。あ、あ、と声を出して、僕から数歩後ろへ離れる。まるで恐怖したかのように、恐ろしいものを見たかのように。

 彼女は今にも崩れ落ちそうに脚を震わせ、荒い呼吸をしている。見開いた暗い瞳は、尚も僕を凝視していた。彼女がここまで脅える顔は初めて見た。

 

「あ、あの…………」

 

 口元を揺らしながら、彼女は何かを言おうとした。けれど、震えるせいか、ただの一文字だけが宙に消える。

 

「………………ごめん、なさい」

 

 泣きそうな顔で彼女はそう告げた。それだけ言うと、逃げるように走り去っていった。

 たっ、たっ、たっ、と、逃げる足音が虚しく響く。

 

 その直後、あんなに明るかった空が濃鼠色に埋め尽くされ、やがて冷たい雨粒を落としてきた。何の猶予もなく、この場所を集中豪雨が襲った。

 

 大量の雨粒があちこちにぶつかる音は、鈍くて、荒んでいて、弾丸のように僕の心と体に無数の穴を空けようとした。そうでなくても、僕の心は既に抉られたような穴が空いていた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 あれから、僕達は一緒に帰らなくなった。一緒に帰らないだけでなく、教室でも話さなくなった。朝の挨拶も、全くしなくなった。宿題の見せ合いっこも、道具の貸し借りも、何もかもが、1年生の最初の頃に戻ったように。いや、軽い言葉すら交わさなくなっているから、それ以上なのかもしれない。すれ違っても彼女から顔を逸らされるのだ。駅のホームで視線が合った時でさえ、彼女の方から逸らしてしまう。

 

 それは部活動でも同じだった。会っても挨拶も会話もせず、それどころか、彼女は休みがちになっていた。前まで毎日来ていたのに、今では週に2、3回、来れればいいほうだ。

 

 彼女の様子に、同学年の部員が何かあったのかを僕に訊ねる。僕はさあ、と答えて誤魔化す。本当は、言いたかった。彼女がああなってしまったのは、僕のせいだと、僕が悪いのだと。

 

 後悔。彼女をあんなに怖がらせてしまったという後悔。

 全ては、僕があんな行動を取ってしまったのが原因だ。僕が彼女の気持ちも考えずにしでかしたばかりに、彼女は塞ぎ込んでしまった。

 誰か、僕を責めて欲しい。真実を話して、僕を罵倒して、彼女を助けてあげて欲しい。そう思っているのに、僕は本当のことを誰にも言えなかった。責めて欲しいと口だけは達者なくせに、実際の僕は逃げていたのだ。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 彼女と話さなくなってから1ヶ月が経った。

 授業の内容の難しさに慣れてきて、大量だと感じていた宿題も、訳が分からないと思っていた授業も、徐々に軽く熟せるようになっていた。分からない箇所は友達とスマホで写真を送り合いながら答え合わせをしていた。ついでに雑談をして、無駄に時間を潰したりもした。それでも、僕にとっては十分楽しかった。

 

 彼女とは、1ヶ月に1度ある席替えで離れ離れになった。彼女は窓側、僕は廊下側と今の僕達の関係を表すかのように、座席の神様は座席の配置を決定した。

 

 彼女と話さないことには、こちらも既に慣れていた。目を合わさないのも、挨拶をしないのも、隣に座らないのも、全て。

 けれど、その度に僕の中にある罪悪感は重くなる。いつになったら彼女に謝罪するんだと、自分で自分を罵倒する。窓の外を眺める彼女に、また1人でいることが多くなった彼女に、いつ頭を下げるのだと、自分を責めた。責めるくせに、行動には移そうとしなかった。

 

 そういえば、一昨日くらいに、僕達の関係を揶揄う友達が妙な話をした。なんでも、近所にあるショッピングモール内で、彼女が知らない男性と一緒に歩いていたそうだ。初めは援交でもしているのかと思ったそうだが、途中からこれまた知らない中年の女性と合流して、何やら楽しそうに会話をしてからそのまま去っていったらしい。友達が話す人相からして、おそらく彼女の叔母のことだろう。疎遠になる前に、彼女が嬉しそうに叔母さんのことを語っていたのを覚えている。

 

 けれど、今の僕には彼のからかいに反応する余裕はなく、そう、とだけ言って聞き流した。友達は半分つまらなそうに、もう半分は心配そうな表情で『お前、大丈夫か?』と言って顔を戻した。

 

 

 ──男の人とは誰だろう、叔母さんの旦那さんか。けど、叔母さんは独身だって彼女は話していた。なら、一体──

 

 

 おい、5限終わったぞ、早く教室戻ろうぜ。

 

 隣に座る親しいクラスメイトが話しかけてきて、ようやく意識が体に戻り、僕は苦笑しながら彼に並ぶ形で理科室を後にした。

 2階に下がる途中、理科室に筆箱を忘れたことに気がついた。あれがなければ授業なんて出来やしないと、僕はクラスメイトに一言告げて階段を駆け上がった。急いで戻らなければ、次のクラスが来てしまう。そう思いながら、僕は3階を通り過ぎて、理科室のある4階の階段を上りきり、突き当たりを右に曲がった。

 

「……あ」

 

 曲がった直後、僕は思わず足を止めた、理科室の扉から、彼女が出てきていたのだ。

 お互いに目が合い、思わず声を上げる。僕達の瞳が、お互いの体を映す。ふと目を下に向けると、彼女の手に持った教科書の上に、僕の筆箱が置かれていた。

 

「…………忘れてたよ。はい」

 

 表情は変えていない。けれど、実に数ヶ月ぶりに、僕は彼女に話しかけられた。僕はありがとう、と返した。別に言葉を一言も発していないわけではないのに、数ヶ月ぶりに彼女と会話したせいか、喉が弱ったような声で返してしまった。

 

「………………声、枯れてるね」

 

 彼女はクスリと笑う。

 けど、前のような微笑みではない、どこか疲れたような、無理に出しているような笑いだった。気のせいか、少し痩せたようにも見える。

 僕は笑い返すことはせず、代わりに頭を下げた。頭を下げて、1ヶ月前のことを謝った。手を掴み、大声を上げて告白をして、怖がらせてしまったことを、ずっと謝れず、無視してしまっていたことを。

 

「……違うよ」

 

 違う、とはどういうことだろうか。僕は顔を上げて彼女を見た。

 

「……あなたの告白が怖かったわけじゃない…………『思い出しちゃった』から」

 

『思い出す』、その言葉をオウム返しする。意味がよく分からなかった。

 

「今日の帰り、時間、あるかな?」

 

 彼女が力なく首を傾げる。僕は勢いよく頭を上下に振った。

 次のクラスが僕達を避けるように理科室へと入っていく。コソコソと何かを話しては中へ入り、やがて扉が閉められ、休み時間終了のチャイムが鳴った。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 B棟の屋上は常に解放されていて、比較的生徒が出入りしやすい自由な場所だった。ただ、夏場は直射日光が容赦なく石床を照らし、熱せられたフライパンのように足の裏を焼く。冬場は冬場で寒い風が吹き込み、全身を凍えさせる。昼食を屋上で、なんてロマンチックなことは望めない。やるとしたら、まだ柵とか日陰とかがちゃんとしてるA棟の方を選ぶ。

 そんなんだから、このB棟の屋上に来る生徒はほとんどいなかった。だからこそ、僕と彼女は周りを気にせずに、こうして放課後にここで話し合うことが出来た。

 今は、彼女が胸あたりまである柵を手で掴みながら、街の景色を眺めていて、僕はその数歩後ろに立っていた。

 

「ここから見える景色、私、好きなんだ。実家の景色なんかよりずっと……おばさんには、感謝しきれないよ」

 

 まるで遺言を残すかのような声色で、彼女はそう言った。

 

「前に、変な噂があったでしょ? ほら、私が告白されたなんて。あれ、本当だよ。告白されたのも、私が断ったのも……あの時は、少し怖くて、はっきりごめんなさいって言ってから逃げたんだ……あの子には、悪いことしちゃった」

 

 彼女は項垂れるように話すと、手すりから手を離し、振り向いた。

 

「聞いて欲しいことがあるの」

 

 そう言うと、傍らに置いていた鞄の中からとあるものを取り出し、突っ立っている僕に手渡した。

 それは、彼女が愛用しているのと同じ種類のスケッチブックだった。けれど、1年前に見せてもらったものとは違い、かなり古く、それこそ小学生の時から使っているかのように色褪せていた。

 

「今から話すことは、全部本当のこと。あなたの告白に答えられなかった理由も、全部話すから……」

 

 彼女は上目遣いをするように深い瞳で僕を覗き込む。

 屋上に吹く風が僕達の髪をなびかせるなか、彼女は過去のことを語り始め、僕はスケッチブックの表紙を開いた。

 

 

 

 

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