新しい血を送り込み、肉体は代謝する。
一か月前。クルビア、トリマウンツ。―――ライン生命。
ドロシー・フランクスの夜は長く、朝は早い。あるいは、両者に区別がない。
彼女はゴミ箱に詰まったカフェイン剤の数だけ徹夜し、研究に励む。この日の夜もそうだった。
論文を書き終えたドロシーはペンを置き、背中を伸ばす。背骨や肩がバキバキと鳴った。
数時間も座りっぱなしだった体からの抗議を受け付けながら、小さく微笑む。気づけば今日も徹夜をしてしまったが、その甲斐はある。プロジェクトの進展は、ロドスのエンジニアを喜ばせるものになるだろう。
―――ロドス、か。エレナは元気にやっているかしら。
書類を整えながら、友人に想いを馳せる。
夕食をご馳走してもらったり、ドロシーのちょっとしたお願いを聞いてもらっていたかつての日々が懐かしい。
例の事件以降、ロドスのオペレーターとなってから、会うことは無くなっている。ロドスが彼女を冷遇したり、必要以上に酷使したりすることはないはずなので、そちらは心配していない。ただやはり、自分の目で見ない限り、去っていかないのが杞憂というものだ。
いい機会だし、論文を届けにロドスへ行ってみようか。ドクターにフィリオプシス、ロスモンティス……一目顔を見たい相手も多い。
思い立って席を立ち、外出の準備をしようとしたドロシーの耳を、冷ややかな夜風が引っかいた。
「…………!?」
異変を感じて振り向くと、いつの間にか窓が開いている。いつも締め切っているはずの窓が。
執筆休みに夜風を浴びた? いや、そんなことはしていない。ここはドロシー固有のオフィスで、今日は他の誰も入れていない。
窓を開けるような者が、いるはずもないのだ。
ドロシーは眼差しを鋭く尖らせ、自身のアーツを励起させる。何が起こってもいいように警戒しながら、ジリジリと壁際の内線へと近づこうとして。
すぐ真後ろに気配を感じた。
「失礼」
喉のすぐ左側を、熱さと冷たさが同時に走る。勢いよく迸る血液、そこに微かに混じった銀色の輝きを見たのを最後に、ドロシーの意識は闇へと落ちた。
⁂ ⁂ ⁂
「ドロシー……! ドロシー!」
「……うっ」
耳から脳を揺さぶる呼びかけが、ドロシーの意識を引き戻す。
目を開いたが、視界がぼやけてしまっている。どうやら、何者かが自分を抱きかかえ、顔を覗き込んでいるようだが……。
疑問に思うドロシーは、ごくごく小さな安堵の吐息と冷静な声音から、それが誰かを導き出した。
「意識を取り戻したか。何よりだ」
「その声、サリア……? どうして……」
「それはこちらの台詞だ。一体何があった?」
ドロシーはくらくらする頭を押さえて回答を引っ張り出そうとする。
確か、ロドスとの共同プロジェクトのための論文を書いていて……そこで、首元を襲った異物感を思い出し、首筋に手を触れた。
ガーゼと包帯の感触が指先に伝わってくる。
「首……そう、誰かに首を斬られて……。ごめんなさい、それ以外は……」
「相手の顔は見なかったのか?」
「ええ。いつ入られたのかもわからないわ」
「……それは、おかしな話だな」
サリアは慎重にドロシーを抱き起こすと、眉間に皺を寄せた。
医務室ではなく、ドロシーのオフィス。数人の警備課の者が周囲を警戒し、ひとりが窓から顔を出して外の同僚とやりとりをしている。サリアの傍らに立つ連絡係が、通信を受け取った。
「サリア主任、やはりだめです。侵入経路を特定できません。ここで採取した靴跡も一切ないと」
サリアが目を閉じ、黙り込む。報告を入れた警備課の隊員は叱責されると思ったのか、震え上がった。
ドロシーはどうにか自分の力で上体を起こしながら、サリアに微笑みかける。
「サリア、彼に何か言ってあげたらどう? 怒っていないと伝えるのも大事なことよ」
「む……いや、すまない。どうにも釈然としなくてな。立てるか」
「ごめんなさい、肩を貸してもらえると嬉しいのだけど」
「ああ」
体を支えてもらいながら、ドロシーは立ちあがってオフィスを見回す。
荒らされた形跡も、何かを盗られた様子もない。少なくとも、一見した限りはいつもの職場と大差なかった。
ドロシーはサリアの抱いた疑問を察する。犯人の目的がわからないのだ。
仮にも科学研究を行う企業であるライン生命は、サリアに言わせればギリギリ及第点程度らしいが、警備システムも追跡技術も最先端。それを欺いて、仮にも主任であるドロシーのオフィスに忍び込んでおきながら、何を奪ったわけでもない。
では、暗殺しに来たのだろうか。それにしては変だ。首筋を切られているとはいえ、まだ命がある。
ドロシーにさえ気づかれず侵入し、痕跡もほぼ残さず逃げおおせるだけの能力がありながら、ターゲットを仕留め損ねる。そんな暗殺者がいるだろうか?
「サリア、この包帯は、あなたが巻いてくれたの?」
「いいや。私が駆け付けた時には、既に止血が施されていた」
「……通報したのは?」
「お前でなければ、犯人だな。無限の内線がお前のオフィスから警備課に届いた」
「他の人が気づいてくれたということではないのね?」
「ルートの全てを塞ぎながら来た。だが、私も含め警備課の誰も、ここに来るまでに社員を含めた人影を見かけなかった。無論、だからといって、賊が潜伏していた可能性はゼロではない。ロドスにもステルスを可能とするアーツの使い手が何人かいる」
「…………」
サリアの口調は硬い。問題は、通路に犯人がいたかどうかではないということを、彼女自身が理解しているからだろう。
なぜ、賊はドロシーのオフィスに侵入した?
なぜ、ドロシーの首を切り裂いた後、わざわざ手当をした?
なぜ、わざわざ警備課に連絡を?
ドロシーは頬を強張らせながら目を細め、自身のオフィスを再度見回す。
「少し、いいかしら。オフィスの中を確認したいの」
「構わないが、三分だけだ。その後精密検査を行う」
「ありがとう。できればその間、肩を貸してもらえると嬉しいのだけど……」
「……いいだろう」
サリアは慎重にドロシーと歩幅を合わせながら、オフィスの中を練り歩き始める。
寒気と眩暈に襲われながらも軽く見て回ったが、やはりなんの痕跡も見つからなかった。