Coma Anger Woe Wound Untied. 作:やわらかな土
由紀姫は詩とセックスをした後、体調をひどく崩していて、魔法部屋の更新が大幅に滞っていた。
詩はフラグメントを抜いた少女の思いを由紀姫にメールで伝えていたが、それらは文章化されることなく溜まり続けていた。
オンライン上に由紀姫が現れることもなくなり、『魔法部屋』は管理人不在の無法地帯に近い状態になっていた。
詩はその状況を利用して少女を煽り、ささやかな繋がりを求めていた。
詩のスマホが受け取ったのは、その由紀姫がオンライン上にツイートを投稿したという通知だ。
詩が由紀姫のツイートに「いいね」を付けると、しばらくして由紀姫から「また会いたい」とメールが来た。
詩はこれには返信しなかった。
その日の真夜中、詩は由紀姫のマンションの前に立っていた。
部屋の位置はわかっていたので、ベランダからベランダへ素早く飛び移っていく。
そして由紀姫の部屋の窓に立ち、小さくノックした。
部屋は消灯されていたが、由紀姫は必ず目を覚ますという確信が詩にはあった。
ほどなくしてカーテンが開き、窓の向こう側に、驚いた顔の由紀姫が現れた。
「ウタちゃん、こんばんは」
由紀姫は窓を開けて言った。
「今夜は窓からなんだね。驚いちゃった。あ、中に入って」
由紀姫は詩を招き入れるためにカーテンを開けた。
月明かりに照らされた由紀姫は、あきらかに以前よりも魅力が増していて、その変化に詩は驚いた。薄暗い中でもわかるくらい表情が明るく、どこか自信に溢れている。
「由紀姫、ここで話しましょう」
「えっ、でも……」
詩が首を振ると、由紀姫は諦めてカーテンから手を離した。
レースのカーテンが二人を遮って、お互いの輪郭を曖昧にした。
「まずは、ウタちゃんに謝らなくちゃいけないね。ずっと連絡できなくてごめん。調子を崩しちゃって何日か入院してたんだけど、詩ちゃんに心配かけたくなくて」
「でも、原因は私にあるのでしょう?」
「ううん。『私たち』だよ」
由紀姫はカーテン越しに詩を見たが、表情は曖昧で、よく読み取れなかった。
「あのね、ウタちゃん。私は病気のせいで誰とも繋がれないんだと諦めていたの。それならせめてネットで、と思って活動していたんだけど、そこにウタちゃんが現れた。私と同じ思いの人が、私の代わりに誰かと繋がってくれている――これは奇跡だと思った。ウタちゃんが私に誰かと繋がれる喜びを教えてくれたの。それに、ウタちゃんは私に触れられる喜びも教えてくれた。人と触れ合うのがあんなに素敵で幸せなことだなんて、ウタちゃんに教えてもらえなかったら、私きっと一生知ることなんてなかった。だからすごく感謝してるの。ウタちゃん、私に触れられる喜びを教えてくれてありがとうございます」
詩の目に、由紀姫がカーテン越しに深々と頭を下げたのが見えた。
「ウタちゃん。私は恋のことはわからないけれど、ウタちゃんのことを好きになれるように一生懸命努力します。嘘、ほんとうはウタちゃんのことをとっくに大好きなんだけど、ウタちゃんに恋したいし、ウタちゃんを愛することができたらと思っています。ウタちゃんは私の特別です。ウタちゃん、大好き」
由紀姫の思いはカーテン越しであっても痛いほど伝わってきた。
それは陽桜莉と瑠夏のビームに剣を叩き折られたときの痛みに似ていた。
「由紀姫にとっての痛みとはなんですか?」
「痛み……私の病気のことかな?」
由紀姫が尋ね返すが、詩は答えない。
「私にとって痛みとは、わたしを閉じ込めるもの。痛みは私から夢も、希望も、すべてを奪っていく。でも、この痛みのおかげで私はウタちゃんに出会えた。それまで、私に触れてくれる人なんて誰もいなかった。今はすべてのものが新しく感じる。生まれ変わった気分なの。もうウタちゃんのいなかったあの頃には戻れない。痛みなんてもう怖くない。痛みに負けて、したいことを諦めるだけの命なら、無くしてしまったほうがよっぽど良い。だからもう痛みになんて負けない。私は私らしくありたい!」
由紀姫の声には終始、強い意志が滲んでいた。
カーテンが室内から詩の方へ流れるように揺れた。
「私が、あなたを生まれ変わらせた?」
詩は由紀姫の言葉を反芻するように繰り返した。
詩が由紀姫にしたことといえば、『魔法部屋』の乗っ取りと、レイプ紛いのセックスだけだ。
変化は由紀姫の一方的な思い込みで、詩にはなんの実感もなかった。
詩を劇的に生まれ変わらせたものといえば、詩を刺した通り魔だ。
この傷害事件はフェミサイドと呼ばれ、詩はただそこを歩いていた「女の子」だったから狙われた。
フェミサイドは女性の存在を否定する犯罪だ。
詩に問題があったわけではなく、運が悪かったわけですらない。
詩にとって運が悪かったのは、この犯罪が存在を否定する性質を持っていたということだ。
詩は自分を偽ってその場所に繋がろうとしていたそれまでの自分を否定されたのだ。
乖離していた心と体は再びひとつに結合し、価値観は逆転した。
繋がりを持たないことよりも、自分を偽ることのほうがよっぽど恐ろしい。
詩は目が開く思いだった。
本当に嫌いなものがなんだったのか、詩は痛みによって生を実感したのだ。
そんな自分を自虐を込めて「マゾ」と評するようになった。
その後、この事件の加害者は自殺していまい、被疑者死亡で書類送検となった。
この事件が加害者にとってどんな意味を持ったのか、それを問う機会を詩は永遠に失った。
ナイフで刺すようなインパクトを由紀姫に与えたとは、詩には到底思えなかった。
由紀姫の前向きな姿勢からは、確かに傷付けたのだという手応えを感じられない。
由紀姫の思いは、詩が仁菜に向ける羨望に勝るのだろうか。
陽桜莉と瑠夏の繋がりよりも優れることができるのだろうか。
カーテン越しに詩を見つめる由紀姫の瞳の光は強い。
それに比べて、詩が由紀姫に向ける熱量は弱い。
詩は由紀姫に気圧されたようによろめいて、半歩後ろに下がった。
「――それなら証明しなさい。『あなた』という存在が、生きていることすら否定されてしまったとき、『あなた』が何を選ぶのかを」
そう言って詩は身を翻し、ベランダから飛び降りた。
背後から悲鳴にも似た由紀姫の声が聞こえた。
屋根から屋根へ渡っている間じゅう、詩は背中に由紀姫の視線を感じていたが、最後まで振り返ることはなかった。