Coma Anger Woe Wound Untied. 作:やわらかな土
詩は利用していたインターネットカフェを後にした。
足取りは軽やかだ。
由紀姫を傷付けた手応えはあった。
好きな人を自分の手で傷付けて、罪悪感や自責の念が絶え間なく詩を苛んだ。
悲壮な声を上げた由紀姫は詩のことを心から信頼していた。
それを裏切ったのだ。
その声を思い出すと心臓は跳ね上がり、詩は生きている喜びに打ち震えた。
由紀姫ならきっとわかってくれるはずだった。
今頃、部屋で詩と同じ思いでいるはずだ――詩には由紀姫が苦しんでいるという確信があった。
詩の指先で赤い指輪がフラグメントの暴走を検知してわんわんと明滅しているが、このときは指輪よりも自分の感覚のほうが信じられた。
だって、私がこんなに辛いんですもの、由紀姫もさぞかし辛いでしょうね――。
由紀姫のマンションに近付くほどに指輪の明滅は激しさを増し、リープレンジが今にも広がりそうなほど悲しみは爆発寸前だった。
由紀姫は今まさに答えを得ようとしている――詩は昂揚していた。
マンションの前で詩は悶え苦しむ由紀姫のように明滅する指輪を愛おしく思い、赤い宝石に指の腹を押し付けた、そのときだった。
由紀姫のフラグメントが大きく膨らんで、暗い熱が破裂するまでの一瞬の静寂に、母の腕に抱かれたような安らぎを得た由紀姫の思いが立ち込めた。
それを契機に暴走は収束した。
先ほどまでの身を引き裂くような悲しみは掻き消えて、辺りは穏やかな温度で満たされた。
「なによそれ……」
詩は目の前の景色が信じられず、慌てて駆け出した。
由紀姫の家の扉をチャイムも鳴らさずに乱暴に開けた。
すると穏やかな風が抜けていった。
やわらかであたたかな思いが由紀姫から流れ出していた。
由紀姫は自室の床で胎児のような姿で眠っていた。
胸にノートパソコンを大事そうに抱えて、安らいだ表情をしていた。
背中にはフラグメントが元の世界に戻るために潜り込んだ残滓があり、詩はそれに手を触れた。
詩は手の中に吹き込んでくる風を感じて目を閉じ、由紀姫の思いに身を任せた。
喜んで欲しくてついた嘘だった――。
子供の頃、友達が誤って大切にしていた人形を壊してしまったことがある。
わざとやったのではないし、その子は混乱して今にも泣き出してしまいそうだった。
「気にしてないから平気だよ。だから泣かないで」
そう声をかけると、ほっと安堵して、ごめんねと謝ってくれた。
本当は大切なものだったしショックだったから、自分が何をしてしまったのか怒って教えてやりたかった。
でも、その子が喜ぶだろうなと思って嘘をついた。
嘘。
本当は友達がいなくなるのが怖かった。
あるときは病室で、
「全然平気だよ。今日は調子いいみたい」
そう言うと、両親にほっとした安堵が広がっていく。
だからこんなところで時間を無駄にしないで欲しい、そんな思いから出た言葉だった。
嘘。
本当はまたお見舞いに来て欲しかったからだ。
ただでさえ重荷に過ぎない自分がわがままを言ったら、もうお見舞いに来てもらえなくなるかもしれないじゃないか。
祖母が亡くなった日。あんまり悲しくてふさぎ込んでいると、母が庭に連れ出してくれた。
そして満天の空を指差して、
「おばあちゃんはね、星に詳しい人だったのよ。お気に入りの星はあれ。きっと、今頃あの星になっているのね」と言った。
そんなはずはない。けれども、母の気遣いから出た嘘だった。
記憶の中にある、棺の中で花に囲われてもう目を覚まさない祖母の顔が、嬉しそうに星を見上げる祖母の顔で上書きされた。
祖母は生きている日々のたくさんの思い出の中で今でも笑っていて、見えなくなってしまったけれど、身近に感じられるのだった。
体調を崩し、入院が長引いたときのことだった。
いよいよダメかもしれない、そんな風に思っていた。
でも両親は、諦めちゃダメ、一緒に頑張ろうねって言ってくれた。
「全然平気だよ。今日は調子いいみたい」
そう言うと、両親の目から涙が落ちた。
そして、愛してる。愛してる。愛してる。と繰り返した。
このまま誰とも繋がりを持てないまま人生を終えるのかな――父と母にそんな意地悪な質問を投げかけたことがある。
人生にはなにがあるかわからない――父は思わせぶりな表情で言った。
それを受けて母も笑っていた。
母は――道を歩いていたら誰かとぶつかって、その人と口論になるようなことが人生にはたまにある、案外そんなところに運命が転がっているのかもしれないのよ、そう言って笑った。
嘘ばっかりと言って私も笑った。
そんな私の前に、嘘ばかりつく子が現れた。
口を開けば悪口と挑発ばかりなのに、本当はそんなことカケラも思ってない顔をしてる。
本心をどこかに置き忘れてしまったような子。
きっとその子にとって嘘はコミュニケーションなのだ。
運命だと思った。
ウタちゃん、だから私は――。
名前を呼ばれて詩はそれが自分のことを指しているのだと気付いた。
由紀姫のフラグメントから自分の名前が出てくることに詩は動揺した。
――由紀姫は私と心の深いところで繋がっていたとでも言うのだろうか――特別な繋がりだったのだとでも――何も感じられなかったのに――?
詩は思わずその場を飛び退いた。これ以上見ていられなかった。
そんなことよりと、由紀姫の抱いているノートパソコンを奪おうとすると、母親の死体を足で裏返す仁菜の姿がフラッシュバックした。
ナイフが刺さったまま死んでいる仁菜の母親の死体の記憶がまざまざと蘇る。
布団は血にまみれ、鼻をつく嫌な臭いが充満している。
はっと我に返った詩が慌てて由紀姫の脈を確認すると、とくんとくんと穏やかに脈打っていた。
ゆっくりとした寝息が聞こえている。
詩は由紀姫のそばに屈んで、両手を使って体を裏返してノートパソコンを奪った。
画面には『魔法部屋』が開いたままになっていて、今しがたまでのやり取りのログが表示されていた。
やり取りの相手はMIYAKOというアカウントで、アイコンには青い星が二つ並んでいた。
『ずっと自分を偽って生きてきた。そうじゃなきゃ私なんて見てくれない、そう思っていたから。本当の自分なんて誰にも求められていなかった。だから誰かの望む私でいようとした』
このメッセージの下に由紀姫の返信が並んでいた。
『わたしは』
『ずっとこわかった』
『このせまいへやにひとりだけ』
『えいえんにこのままだとおもうと』
『こわくてたまらなかった』
『そんなわたしがげんじつを』
『わたしをわすれていられるのがこのせかいだった』
『わかってた』
『どれだけつながったとしてもみとめてくれたのは由紀姫であってわたしじゃない』
『みんながみつめるさきに』
『わたしはいない』
『わたしにはひつようなつながりだった』
『たいせつなつながりだった』
『ずっと』
『ずっとわたしは』
『さびしかった』
『ひとりになりたくなかった』
由紀姫のメッセージはすべてが平仮名で、余裕がない状態で必死に打ったものであることが見てとれた。
これは由紀姫の最後の選択であり、本当の言葉だった。
この下にMIYAKOからの返信があった。
MIYAKOは相手が言いたいことを言い終わるまで割り込まないよう、由紀姫が書き終わるまで待っていたのだろう。
『あなたのことが知りたい』
『このつながりを少しでも信じてくれるなら』
『あなたと話したい』
『私は高岡由紀子』
ここで二人のやり取りは終わっていた。
由紀姫は最後に寂しい自分を受け入れて、醜さを抱えた本当の自分のまま、都とつながることを選んでいた。
「嘘でしょ、なんなの?」
詩は信じられないものを見たといった顔で床に膝をついた。
その拍子にポケットからスマホが落ちたが、詩は動揺してそのことに気が付かなかった。
「ウタちゃん」詩は由紀姫の呼び声を聞いた。
けれど由紀姫は床で眠っているし、由紀姫の声の出どころは由紀姫からではなかった。「ウタちゃん」
「なによ」
「私は選んだよ、ウタちゃん」
「ふん。最後に当て擦りみたいなことして、陰湿なやり口ね」
「ウタちゃんは悪くないんだよ」
「なんのことよ」
「人は追い詰められたときに本性を出すなんていうけど、そんなのは操られているのと同じ。追い詰められたら誰だって同じ判断をしてしまうものだし、そこにはなんの個性もない。お腹がすくのと同じ、当たり前のこと。そんなものは本当でもなんでもない。原初の人間の姿を『本当』なんて言わない。そこにウタちゃんはいないんだよ」
「私は極限の状態で『本当』を知ったのよ。それが偽りだったとでも言いたいわけ?」
「ウタちゃん――」
フラグメントの残滓は掻き消えて、由紀姫の声もそこで途切れた。
由紀姫は確かに追い込まれていた。
由紀姫は極限の状態で、自分の寂しさを認め、それでも誰かとつながることを選んだ。
それが『本当』の由紀姫だ。
由紀姫は追い込まれても変わらなかった――由紀姫と高岡由紀子は同一人物だったのだ。
「まさか私を連れ戻す気? あの気持ち悪い毎日に。嫌よ、そんなの嫌! お願いだからもっとわたしを感じさせて!」
詩が叫ぶが、声は主の眠ったままの部屋に虚しく響いた。
詩のスマホが着信を受けて震え、セミの断末魔のように重く響く不快な音を立てた。
画面には『山田センパイ』と表示されている。
詩は床に落ちたまま震えているスマホの通話をタップした。
「詩! テメェいまどこにいんだよ? 勝手に抜け出しやがって!」
離れていても仁菜の怒声が聞こえた。
怒られているのに、何も感じなかった。
仁菜からの電話は詩を引っ張り上げようとする手だ。
不器用なやり方だが仁菜なりに詩の身を案じているのだ。
でも、そのやり方では詩には何も感じられないのだ。
だから詩は一言も発せずに通話を切った。
その瞬間、詩の目から涙が溢れた。
伸ばされた手を掴むなんでまっぴらだ。
感じられないのだから仕方ない。
嘘をついて感じたふりなんか絶対にしてやるもんか、と詩は思った。
もう、ひとつだって嘘をつきたくなかった。
繋がり方は自分で選ぶ――それが詩に残された最後のプライドだった。
「帰ろ……♡」
詩は口の端を吊り上げて挑発的に笑った――そう、いつもの『駒川詩』らしく。
けれど涙が後から後から溢れ出してくるのだった。