Coma Anger Woe Wound Untied. 作:やわらかな土
「ニーナ、テメェはよぉ」
のしのしと足音が近づいてきたかと思うと、いきなり頭に衝撃を受け、つんのめって顔から床に突っ伏した。
「勝手に外に出かけるなって言ったのに、なんで言うこと聞かねえんだよ!」
襟を掴まれて無理やり起こされる。
痛みと怒鳴り声のせいで、頭のてっぺんから指先までぶるぶると震えてしまう。
腹の底から震えがきていて、限界を越えた恐怖が涙となって目から溢れた。
「泣いてんじゃねえよ! テメェが悪いんだろうが!」
そして平手打ちが二度、三度と降り注ぐ。
頬が熱を持ってじんじんと痛む。
チッと小さく舌打ちが響く。
――なにこれ、なんなのよ!?
詩は身に覚えのない光景に驚いだが、確かに痛みがあったし、恐怖も自分のことのように感じることができた。これは現実なのだ。
〝わたし〟は怖くて顔を上げることができない。
のしのしと足音が遠ざかっていき、バタンと扉の閉まる音。
やっと顔を上げることができ、おそるおそる立ち上がる。低い目線。
そこでスライドが切り替わるように視界が暗転した。
次に見えたものは、暗く狭い部屋の中と、膝と、膝を抱えた両手だった。
今度は押し入れの中にいて――おそらく閉じ込められていて――息を殺していた。
心臓はどきどきと脈打っているのに、頭の中は冷え切っていて、裏切られたような気持ちと嫌悪感と後ろめたさとで引き裂かれる思いだった。
今いる場所は押し入れの中で、襖一枚隔てた向こう側に誰かがいることがわかった。
外から猫が鳴くような鼻にかかった声が絶え間なく聞こえていて、リズミカルな振動が床を伝う。
どうやら外で誰かがよろしくやってるらしい。
なんとか見えないものかと、襖をほんの少しだけ開けると、そこでは布団の上で先ほど詩を殴った女が見知らぬおじさんに組み敷かれていて、乳首を吸われるたび、腰を打ち付けられるたびに、猫のような甘い声をあげて喜んでいた。
その女が声を上げるたび、自分の体のことが嫌いになり、自分なんて生きている価値がないという思いが胸に広がっていく。
ひと鳴きごとに軽蔑して、ひと鳴きごとに〝母親〟への思いに引き戻される。
ははーん、と詩はピンときた。
この女は山田ニーナの母親にちがいない。
つまり、山田ニーナの記憶を覗き見しているのだ。
いま詩が感じている思いは山田ニーナの思いそのものなのだ。
母親への思いが今まさに傷付けられている――。
このことに気付いて、詩の胸は期待に高鳴った。
この記憶は山田ニーナの傷跡――心の痛みなのだ。
これが共鳴――。
この世のどこにも存在しないと思っていた本物の感情、本当の痛み、絶対的なもの、たったひとつの真実。
詩は仁菜のことが一発で大好きになった。
なにせ心も体も凄まじい痛みに包まれているのに、頭の中だけは麻痺してしまったようにひんやりと落ち着いているのだ。
全部がバラバラに壊れてしまっている。
四つん這いにさせられた母親が髪をかきあげる一瞬、目が合って、とろんと濁った瞳は興醒めだとでもいうように見つめ返した。
仁菜は慌てて目を逸らし、再びゆっくりと覗いたときには母親の顔は既に向こう側を向いてしまっていた。
再び暗転。
次に映し出されたスライドは、今度は目線が高く、アパートの外階段を上っているところだった。
外は黄昏時で薄暗く、雪が降っていてひんやりと寒かった。
慢性的な怒りが血管中を駆け巡っていたが、皮膚の上を諦めがぴっちりとコーティングしているため、危ういバランスで落ち着いていた。
自分も含めた誰かの死を常に願っていて、ほどけた靴紐を直すような自然さで、人を刺してしまいそうな雰囲気があった。
だから、扉を開け、母親の刺殺体が真っ先に目に飛び込んできても、慌てることなく部屋に入って行けた仁菜を意外だとは思わなかった。
むしろ、ニーナならばそうあるべき、とすら詩には思えた。
うつ伏せに倒れている母親を、仁菜は足を使って裏返した。
嫌悪感も解放感もなく、いちおう確かめておこう、という程度の思いしかなかった。
母親は既にこと切れていて、瞳には何も映っていなかった。
これでおしまいか、と思うと、胸にはわずかに喪失感や不安が広がった。
いまや母親を失った痛みよりも、住むところを失うことや、生活の環境変化に対する思いのほうが大きかった。
ついに母親と縁が切れたというのに、気持ちはうんざりとしていた。
重く湿った生臭い荷物を、ようやく置き去りにできるといった気持ちだ。
動かなくなって、ようやく母親らしいことができたなと、皮肉めいた気持ちがよぎる。
仁菜が母親に求めていたものは、何よりも沈黙だった。
どちらにせよ、ここにはもう居られないし、居たくもない。
仁菜が床に倒れている母親から目を離して顔を上げると、再び視界が暗転した。
詩の心がこんなに激しく揺さぶられたのは久しぶりだった。
今では、仁菜のすべてを信じられるような気がしていた。
なにせ本当の感情と本物の痛みを感じさせてくれたのだ。
――最高です、ニーナちゃん……。
視界は暗いまま、胸には仁菜の手のひらの感触と、吹き込んでくる風が感じられる。
そして風は仁菜の胸に当てた手のひらから抜けていき、その風に少しずつ詩の思いが運ばれていく――。
◇
暗闇の中、トンネルの出口を迎えるようにして、視界が明るく開けていった。
目の前には女の子用の黄色い通学帽とランドセルが、歩くたびに揺れていて、ランドセルに付けられた小さなフェルトの人形のアクセサリーも一緒に揺れる。
このアクセサリーは確か友達の家で作ったもので、友情の証だったなと詩は思い出した。
つまり、今度は私の番というわけね――。
確か、この子とはクラス替えで別れてしまったのだっけ。
友達だからクラスを越えて遊びに行っていたのに、いつしか詩はその子に無視されるようになってしまった。
その子のランドセルからアクセサリーはいつの間にかなくなっていた。
詩もアクセサリーを外して捨てた。
そして視界が暗転する。
気配は感じられないが、どこかで仁菜もこの記憶を見ているはずだった。
スライドが移り変わり、再び視界が明るくなると、そこは中学校の教室だった。
席についている女の子を囲むように三人が立ち、詩は三人のうちの一人だった。
話題はもっぱら或るイケメン俳優Kについてであり、彼のどんなところが尊いのかを少女は席から熱弁した。
実はイケメン俳優Kというのは、同じ苗字を持つ他校の生徒Kを指す符牒になっていた。
Kの話題になると三人のうちの一人が微妙な表情をするのだった。
まるで横殴りの風を受け流すススキのような顔だった。
この場にいる全員がこの表情に気付いていたが、誰も触れることはしなかった。
符牒を使って熱弁する少女は牽制していたし、ススキの少女は隠し事をしていた。
詩は両者から相談を持ちかけられていた。
Kに恋する少女からは恋の応援をしてくれるかと。
もちろん抜け駆けはしないこと、ススキの少女とKの関係を探ることなどを意味する。
詩はもちろんだと頷いた。
ススキの少女からは打ち明け話だった。
自分がKと真剣に交際していること、彼がどれほど魅力的なのかを詩に語った。
詩は捌け口だった。
王様の耳はロバの耳だと叫びたてる床屋にとっての穴だった。
もし裏切ればススキの少女は無視の対象となるだろう。
詩の良心が人質に取られた格好だ。
Kに恋する少女が恋を語る間は生ぬるい気まずさがグループを支配し、一方、秘め事のように交わされるススキの少女との会話は開放的でさえあった。
こういうのを二枚舌というのねと、詩は自分を嘲った。
詩は相談されているのが自分だけと言われていたが、自分だけではないことを悟っていた。
けれど追及することはしなかった。
そこで交わされるKに恋する少女への陰口と、ススキの少女から顕れた密かな優越を、詩は笑って受け入れた。
少女たちの隠し事はあっけなく明るみに出た。
Kと交際していることがバレたススキの少女はグループから離れて孤立し、無視された。
その無視に詩も加担した。
やがてススキの少女がKと破局したことがわかると、再びグループは少女を受け入れた。
Kを巡る二人の少女の間には陳腐だが切実なやり取りがなされていたはずで、変化はどちらともなく「おはよう」と挨拶するところから始まり、昼食を並んでとるようになり、グループに欠けていた穴は再び埋められた。
――やっぱり四人がいいね!
――本当だね!
――私たち、ずっと一緒にいたいね!
「私もそう思う! 同じ気持ちなんてすごいね!」と詩は笑って言った。
心にもないことを口にすると引き裂かれるような思いになるのだと、詩は知った。
なぜ嘘だと繋がれて、本当のことが暴かれると繋がりは消えてしまうのだろう。
ススキの少女はKでなくグループを選んだのだろうか。
この関係の中に身を置きたいとは思っていなかったが、一人でいるということが想像もつかず、仲間から外れてしまうのはとてつもなく恐ろしいことなのだと思い込んでいた。
このグループにいる限り詩は、詩によく似た誰かでしかなく、グループも詩によく似た誰かを求めているに過ぎず、このグループに本当の詩はいなかった。
再びスライドが切り替わる。暗闇の中に黄色い光がどろりと溢れて拡がっていく。
夕暮れ時だった。
雲がかった黄色い空の下、詩は一人で歩いていた。
どこか遠くで防災無線の童謡が聞こえていた。
橋に差し掛かると、とぼとぼとしたローファーの靴音が欄干に反響して細長い余韻を残した。
前から人が歩いてきた。
ツバのある帽子を目深に被り、黒いパーカーを首まで閉じていた。男性だった。
詩は俯いたまま端を歩いてやり過ごそうとした。
けれど男性との距離は開くどころか詰まっていき、詩が顔を上げた瞬間に二人は衝突した。ほとんどタックルのような体当たりを受けて、詩は欄干まで弾き飛ばされた。
ぶつかられた胸と打ち付けた背中にずしんという痛みがあった。
男性はちらりと詩を見て、そのまま早足に立ち去って行った。
――なによあれ?
詩は嫌な気持ちになったが、男性が意図的にぶつかってくるのは決して珍しいことではない。
詩には今まで何度も経験があったし、学校の友人からも似たような話を聞いていた。
――さっさと帰ろう。
詩はため息をついて、一歩足を踏み出そうとした。
すると、踏み出した右足に鋭い痛みがはしり、そのまま倒れ込んでしまった。
足の痛みはみるみる増していき力がまるで入らない。
詩は欄干を手がかりになんとか体を起こし、激しく痛む右足を見ると、スカートが引き裂かれて、足の付け根まで露わになっていた。
太ももの真ん中には縦長の穴のような傷が口を開けていた。
鮮血が足をつたって流れ落ちた。