Coma Anger Woe Wound Untied. 作:やわらかな土
――アイツに刺されたんだ!
そういえばと、男性の手の中にナイフの柄のようなものが見えていたことを思い出した。
でも、まさか自分が刺されるだなんて。
血と傷を意識した途端に痛みは熱を持ち始め、詩は意識がくらくらするのを感じた。
慌てて傷口を抑えたが、血が指の隙間から止め処なく溢れていく。
――このままだと死んでしまうかもしれない!
――血が止まらないの!
――誰か助けて!
詩の心の中に恐怖や絶望といった感情が激しく去来する。
怖くて助けて欲しいのに、まったく声が出せなかった。
どうすればいいのかも分からず、寒さや恐怖や不安で、詩は自分の手足が意志とは無関係に震えているのを感じた。
「ちょっと、この子ケガしてる!」
「大丈夫!?」
「大変! 救急車呼んで!」
詩の異変に気が付いて、人が集まってきた。
詩は横に寝かされて、足の付け根が紐で縛られて止血された。傷口にはハンカチが当てられた。
複数の女性たちが輪になって囲んで、詩を人目から遠ざけた。
現場は詩を核とした、ひとつの大きな生物のように動いていた。
詩は自分を助けようとする人々に本当の使命感や一体感のようなものが流れているのを感じた。
傷が激しく痛んで、心臓が脈打つたびに血が流れ出していく。
詩は生死の境にあって、生きるとはこういうことをいうのかなと、おぼろげな意識の中で思った。
本当の感情がここには渦巻いているように思えた。
遠くから救急車のサイレンが聞こえて、詩の意識は遠のいていった。
目が覚めたとき、スライドには教室が映っていた。
詩は足に包帯を巻いていて、それを隠すように黒いタイツを腿まで上げていた。
席には女の子が座っていて、それを女の子がぐるりと囲う。
詩もいつもの位置に立つ。
顔ぶれは年々変わっていくけれど、やっていることは代わり映えしなかった。
「駒川さん、足、大丈夫?」
「あ、うん。平気。心配かけてごめんね」
「ううん、全然。足が痛いと大変だよね。私も捻挫したときは大変だったからわかるよ」
足が痛いと大変だよね、うんわかると、グループに共感が広がり、詩はすまなそうに笑い返した。
「傷痕が残ったらかわいそう……」
「傷痕が消える薬があるんだって」
「ねえみて、レーザーでも治療できるって書いてあるよ」
友人たちはスマホで検索した画面を次々に詩に見せた。
「ありがとう。でも、すぐに治るだろうってお医者様もおっしゃってたし」
「そっか。何かあったら絶対に言ってね!」
「うん。ありがとう!」
やがてキーンという耳鳴りが響きはじめ、友人たちの声が掻き消えていき、詩は隔絶された。
声が聞こえなくても、雰囲気で相槌を打つことができ、特に不便はなかった。
放課後になった。
詩は帰路にあって、橋に差し掛かっていた。
詩が被害に遭った橋だ。
詩は刺された時のことを思い出して、足がすくんでしまった。
動悸がひどくなり、欄干に体を預けた。
息を整えようとすればするほど目眩がし、耳鳴りが強まった。
他の誰かにまた刺されるかもしれない――そんな考えに取り憑かれて、詩はしゃがみ込んでしまった。
道を歩くことがこんなに怖いだなんて思いもしなかった。
いつも通っていた道なのに、当たり前が奪われたことが情けないし、屈辱的だ。
意識は朦朧としていて、まるで無防備な自分がひどく頼りなかった。
ナイフを持った男性が目と鼻の先にいるように思えて――やめて! 来ないで! と、子供のように後ずさった。
男性は詩を見下すように立ち、ナイフの切っ先を詩の足に当てた。
詩は泣きながら命乞いをする――お願いです、助けてください、ゆるして!
男性は腕を振り上げ、無慈悲にナイフを突き立てる。
その瞬間、詩はナイフを刺された痛みと衝撃をまざまざと思い出した。
冷たい刃が肉の中になんの抵抗もなく滑り込んでくるおぞましい感覚。
刃が骨に当たり、硬質な音が体内に響く。
痺れたように、足全体から急に力が抜ける。
そして取り返しのつかない怪我を負ってしまったことへの焦りと恐怖。
その先にある死。
すべて本物の感情だった。
激しい痛みが詩に生をこれ以上ないくらい感じさせた。
胸に去来する感情は何ひとつとして同じものはなく、すべてが等しく強く咆哮していた。
痛い。
悲しい。
恐ろしい。
死にたくない。
すべて、嘘偽りのない詩の本心だった。
この橋の上で、詩は生きていた。
耳鳴りはいつの間にか止んでいて、世界は雨上がりのようにキラキラと輝いていた。
詩は欄干を手がかりに立ち上がった。
一歩あるくごとに、痛み、悲しみ、恐怖、嫌悪感、憎悪、生への執着、様々な本物の感情が立ち現れた。
――私、いま最高に生きてる!
――うれしい!
――うれしい!!
――うれしい!!!
気付いたときには橋を渡り切っていた。
がくがくと脚は震え、腰は今にも抜けてしまいそうだった。
ひどく疲れていたが、爽快な達成感があった。
来た道を振り返ると、ここはそんなに長い橋ではないことがわかった。
けれど、橋の向こう側にはもう戻れないような予感があった。
授業中の教室では、どこまでも果てしなく広がる青空が、窓枠で格子状に刻まれていた。
空を飛ぶ鳥が逆光になり、そこだけ翼を広げた姿の穴が空いているようだった。
教室内に、指名された生徒が教科書を朗読する声だけが聞こえていた。
「――神は言われた。
あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。
食べるなと命じておいた木からあなたは取って食べたのか。
人は答えた。
わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。
そこで主なる神は女に言われた。
あなたは、なんということをしたのです。
女は答えた。
へびがわたしをだましたのです。
それでわたしは食べました。
主なる神はへびに言われた。
おまえはこの事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。
おまえは腹で這いあるき、一生ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。
つぎに女に言われた。
わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産む。
それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう――」
あるとき、授業中に鼻血を出した女の子がいた。
その子は、廊下で人とぶつかって顔を強く打ってしまっていた。
平静を装っていたのだろうけど、やはり怪我をしていたようで、それが他の生徒の指摘によって、よりによって授業中に発覚してしまったのだ。
女の子が顔を抑えた手の隙間からぼとぼとと大量の血が流れ落ちていて、教室はにわかにざわめいた。
内訳は、珍しいもの見たさの好奇心半分、汚いものを確認する冷たい視線半分だ。
女の子は鼻を抑えたまま、やるせなさそうに縮こまっていた。
詩は立ち上がってフェイスタオルを女の子の顔に当てて握らせ、机にティッシュを厚く広げた。
教師が何かを言っていたが、詩の耳には耳鳴りの音以外なにも聞こえてはいなかった。
女の子が恥ずかしそうに詩を見ていた。
何か言っていたのかもしれないけれど、口元はタオルで隠れてしまっていたし、耳鳴りのせいで声も聞こえてはいなかった。
その日の帰りしな、橋を渡っていた詩は途中で足を止め、ペンケースからカッターナイフを取り出した。
手紙の封を切るくらいしか使い道のない、刃渡り1センチ程度の雑貨のタッチナイフだった。
詩は刃を最大まで伸ばして、親指の爪の隙間にはしらせた。
スッという冷たい感覚があり、それからズキズキという痛みを感じた。
詩は刃を爪の間に立てて強く押し込んだ。
すると鋭い痛みが体中を突き抜けた。
刃の先端が爪に当たる音が指先に伝わった。
傷口は熱を持ち、心臓はドキドキと脈打った。
「血ぐらいで騒がないでよ。あんただって月イチで股から垂れ流してるでしょう」
詩がそう声に出すと、耳鳴りが止み、視界がクリアに広がった。
息を胸いっぱいに吸い込むことができた。
血の流れる親指の爪は、まるで赤いネイルをしているように綺麗だった。
そこで、テレビの電源が消えるようにして、視界は暗転した。