Coma Anger Woe Wound Untied. 作:やわらかな土
◇
ぱん! と弾けるような音がして、詩は意識を取り戻した。
目の前には山田仁菜が立っていて、お互いの胸に手を当て合っている。
詩は手のひらに仁菜のとくんとくんという鼓動を感じた。
詩は仁菜の記憶を追体験した余韻が覚めやらず、ぼうっとした頭でうっとりと仁菜を見つめた。
抱きしめて、キスして、皮膚をすべて舌で舐め取って、口から山田仁菜を全て飲み込んで、どろどろに溶けた山田仁菜だった肉塊を、顔じゅうに塗りたくってしまいたかった。
小汚い捨て猫だなんてとんでもない、山田ニーナは“本物”なのだ。
「ニーナちゃん……最高ですぅ……」
さいっこうですぅ……と詩はうわ言のように呟いた。
自分の胸に置かれた仁菜の手を掴んで押さえつけたまま、詩は仁菜の胸を服の上から愛撫した。
そうすれば、胸の中の記憶にもう一度触れられるような気がしたからだ。
だけど仁菜は手を冷たく払い除けた。
詩は支えを失って、へなへなとその場にへたり込んだ。
仁菜はまるで理解不能な汚いものであるかのような目を詩に向けている。
実際、仁菜は詩の記憶について感じるものは特に何もなく、ふうん、と思っただけだった。
よく知らない他人の中枢をなすありふれた痛み、それに寄り添うすべを仁菜は持ち合わせていない。
共鳴しろと言われたから共鳴しただけなのだ。
けれど、詩はたまらなく淫靡な気持ちになって、タイツの下に隠された傷痕に触れた。
下着の中は、触って確かめるまでもなかった。
指輪が詩の心臓に合わせてわんわんと赤く明滅していた。
リフレクターとは、痛みに苦しむ少女たちから、その思いを引き受ける存在だ。
思いは花の形を取り、少女の胸の奥を突き破って生えてくる。
思いの花がこの世に咲いたとき、世界の理が裏返る。
すると時が止まり、コモンが局地的に現れる。
これをリープレンジと呼ぶ。
詩には信じられないことだったが、ほとんどの人にとって、痛みとは手放してしまいたくなる思いそのものだった。
痛みのせいで本来の自分が歪んでしまうことは堪えられないことであり、自尊心が傷つき、傷のなかった頃の自分という失われた幻想を追い求めてしまうものなのだ。
そして、それが永遠に手に入らないことを悟り続け、それでもなお夢に見て、終わらない苦悩の中で静かに狂っていく。
ひとりの人間を根底から変えてしまう痛みとは一体どれほどのものなのか、詩には想像も付かなかった。
けれど、詩にとって痛みは余計なものなどではなく、痛みこそが余計なものを削ぎ落として本当の自分を掘り出してくれるものなのだ。
――そんなにいらない痛みなら、この私がもらってあげる。
“お姉さん”は、誰にも言えないし理解されもしない、そんな痛みを抱えた女の子を、いつもどこかから見つけてきた。
悩みの種類も、苦しみが頂点に達する瞬間もすべてを知悉していて、まるで暗闇のなか手を引く母親のように、取り返しのつかない出来事が起こる前に、あらかじめその場所に訪れていた。
そして、“お姉さん”は女の子に問いかけるのだが、そのやり口は詩から見るとほとんど誘導尋問だった。
“お姉さん”の会話には、はじめから答えが決まっていて、そこに向かって最短距離で悩みを引き出していくような鮮やかさがあった。
たとえばこんなふうだった。
その日、“お姉さん”と仁菜と詩は、三人で商店街を歩いていた。
やがて前方に制服姿の女の子が一人で歩いているのが見えた。
赤信号で立ち止まり、詩たちは女の子に追いついた。
詩がふと見ると、女の子の瞳から涙がひとしずく流れ落ちた。
あれっ、と思う間も無く女の子は車が激しく行き交っている道路へ駆け出そうとした――瞬間、“お姉さん”は女の子の前に回り込んで優しく抱き止めていたのだった。
クラクションが鳴り響く。
「大丈夫、大丈夫よ」と“お姉さん”が女の子の背を撫でる。
その様を仁菜がうっとりと見つめていた。
「私で良かったら話してみて?」
近くの公園のベンチに女の子を座らせ、落ち着くまで待ってから“お姉さん”はやさしく話しかけた。
「大切な人を亡くしてしまったことが忘れられないのね?」
「……」
女の子は俯いたまま首を縦に振った。涙がぽとりぽとりと膝の上に落ちた。
「心残りのある別れ方をしてしまったのね――妹さんかしら?」
女の子はしゃくりあげ、服の袖で涙を拭った。正解だ。
「きっと恐ろしくて、その場から逃げ出してしまったのね。私にも経験があるからわかるわ」
よしよしと、“お姉さん”が女の子の足に手を置くと、やがて女の子はぽつぽつと語り出した。
「あの日、妹と喧嘩したんです。些細なことで。あんたなんか嫌いよと。売り言葉に買い言葉で妹は――私だって嫌いよと叫んで道路へ飛び出して――そこにトラックが突っ込んできて……。私を嫌いだと言った妹は辛そうに泣いていたんです。その顔が忘れられなくて」
「そうだったの。辛いわね」
「いつもどこにでもいて私を責めるの……!」
女の子はそう吐き出して顔を覆い、肩を揺らしてむせび泣いた。
すると女の子の背中から太陽コロナのような黒い炎が立ちのぼり全身を覆い尽くした。
「ちょっと、大丈夫なのあれ?」と詩。
「黙って見てろ」
仁菜はチッと舌打ちして詩を咎めた。
「準備が整ったわ」
“お姉さん”は、そう言って詩と仁菜を近くに呼び寄せた。
「説明するよりも、実際にやって見せた方が早いわね」
“お姉さん”は女の子を膝の上に寝かせて、胸の中に手を入れた。
文字通り、手が胸の中に入っていく。
まるで水でできているかのように、突っ込んだ手の回りに波紋が立つ。
“お姉さん”が手を引き抜くと、その手には水晶でできた蓮のような花が握られていた。
花が胸から現れると同時に、世界は黒い膜で覆われたように暗く沈み、今まで聞くともなしに聞こえていた一切の音が消えた。
枝葉は微風を受けてたなびいた形のまま静止し、鳥は座標を固定され、車も歩行者も動きを止めた。
世界の時間が止まったのだ。
耳が痛いほどの静寂だった。
詩はこの静寂に覚えがあった。
指輪が暗赤色に光り輝いて、女の子がどれほど苦しんでいたのか、不思議と共感してしまうのだった。
指輪の光と詩の痛みと女の子の痛みが共鳴しているような感覚があった。
見ると、仁菜も同じ気持ちのようで、憎しむことそのものを辛く感じているような、やるせない表情を浮かべていた。
「あなたたちが体感しているこの空間がリープレンジよ。覚えておいて」
“お姉さん”が女の子をベンチに横たわらせた。
胸に花を咲かせて女の子は苦しそうな顔を浮かべている。
花から色素が失われて黒ずんでいく。
早く楽になりたがっていることが、この場にいる全員に伝わった。
「あなたたちはこの少女を救うことができるわ」
“お姉さん”はそう宣言して、次の瞬間、変身した。
一瞬のことだった。
テレビのチャンネルを変える一瞬の電波の乱れのように、“お姉さん”の像が乱れて、直ったときには姿が変わっていたのだ。
“お姉さん”は、袖と裾の大きく広がった人魚のようなドレスを身に纏っていて、黒紫で統一された意匠は正義や人助けとはかけ離れているように見える。
「自分の思いに寄り添いなさい。自分が何者なのか、その思いで何を為したいのか」
詩にとって信じられるものは痛みだけだ。
痛みだけはいつだって嘘偽りがなかった。
仁菜を見ると、女の子の痛みに共感したのか奥歯を噛み締め、息苦しそうに拳を胸に当てていた。
――あんな過去はもうたくさん、そうよね山田センパイ♡
痛みさえあれば人と人とは繋がれるし、分かり合うことだってできるかもしれない。
現に詩はこうやって仁菜と繋がれたではないか。
詩は自分を偽り、好かれるため媚びた笑みを浮かべる過去の自分に思いを馳せた。
生ぬるくて反吐が出そうだった。
嘘ばっかりで、どこにも本当の自分なんていない。
皮一枚下にぬめぬめと蠢いている醜さを隠して笑うことに何の意味があるのか。
その醜さこそ偽らざる本当の自分だ。
自分を偽らなければならないなら、そんな世界とはおさらばすればいい。
――私は、私らしくありたい――。
そう強く思うと、濃縮された風が詩の体を駆け巡り、次の瞬間、変身していた。
「へえ、これが私……」
詩はすっかり変わった自分の姿を、手を広げて観察した。
黒紫の意匠であるのは“お姉さん”と変わらず、ドレープのある大きな外套は体の前で留まり、裾は魚の尾びれのように丸く広がって、大きなフリルで縁取られている。
一方、仁菜も変身を済ませていて、大きなフリルの段になったブラウスと、コルセットと一体化したようなスカート姿に変わっていた。
「あなたたちには武器がある。右手を前に出して」
“お姉さん”の指示の通り、二人は手を前にかざした。
「そして、あなたの思いが脅かされたとき、あなたは何を願うのか。それを手に込めなさい」
“お姉さん”の手にはロングソードが握られている。
手を開くと、ロングソードはバラバラにほどけて、先端に鋭い棘を持つ二本の鎖に変化した。
鎖は意志のある大蛇のように鎌首をもたげて、詩と仁菜に狙いを定めていた。
「“お姉さん”の思いは鎖みたいですけど、どんな意味があるんです?」と詩が尋ねた。
「縛り付けるのよ」美弦が短く答える。
――あはっ♡
詩は自分の口の端が釣り上がるのを感じた。
敵を縛りつけて拘束するなんて、いい趣味してるじゃない。
私の思いは――と詩が考えていると、仁菜は手から剣を出していて、確信を持って切っ先を空に向けた。
雷鳴が轟き、仁菜の剣めがけて雷が落ちた。
仁菜はそれをさも当然といったふうに受け止めて剣を振り、自在に雷を放った。
「なるほど。山田センパイは雷――怒りなんですね」
詩は仁菜のことがますます気に入った。
怒りが仁菜の本当の思いであるなら、仁菜を怒らせるたびに詩は仁菜の“本当”を感じることができる――自分が生きていることを感じられるのだ。
さて、と詩はかざした手に現れた剣を握りながら思う――順手に握った剣の柄が、なんだか手に馴染んでいない。
試しに逆手に握ってみると、これがぴったりと手に馴染んだ。
まるで剣の方から詩の手に吸い付いてくるように感じた。
「これじゃまるで私の思いが逆さまみたいじゃない」
詩は唇を尖らせて誰にともなく愚痴った。
「さて、私の思いは――?」
詩は学校にいる自分が嫌いだった。
自分を偽って、嫌われないよう媚びた笑顔を振り撒く姿を思うだけで怖気がする。
だから媚びた笑顔を向けられることも嫌いだった。
綺麗に取り繕ったものは汚してやりたいし、澄ました顔を見ると化けの皮を剥がしてやりたくなる。
そんな奴には、味方のフリをして近付いて、後ろから襲えばいい。
こちらも化けの皮を被るのだ。
裏切られたと知ったとき、人はどんな顔をするんだろう。
詩は想像するだけで楽しい気持ちになった。
すると剣の刃から黒いタール状の液体が滲み出した。
黒い液体が刃をつたって地面に生えている草の上に落ちると、草はじゅうじゅうと音を立て、焼けて跡形もなくなった。
「なによこれ……私の思いは毒や酸だとでもいいたいわけ?」
詩の思いは焼けた草の周りも腐らせていて、鼻をつく刺激臭が立ち上っていた。
ベンチに寝かされた女の子を見ると、胸からの花はすっかり黒ずんでいて、リープレンジの中には四人分の痛みが立ち込めているようだった。
「時が満ちたわ」
“お姉さん”はそう言って、やりなさいと仁菜に言った。
仁菜が女の子の花に手を触れると、痛みを直接受け取ってしまい、苦痛に顔を歪ませた。
仁菜はやり方もわからないまま恐る恐る花を引き抜いた。
花の茎は脊髄のように複雑な鋸刃状をしていて、抜いてしまえば取り返しの付かない形をしていた。
「よくできたわね」
“お姉さん”が仁菜を優しく労うと、仁菜は照れ臭そうに顔を赤らめ、まるで小さな子供が母親に贈るみたいに、手の花を“お姉さん”に差し出した。
仁菜は無邪気な笑顔を浮かべていて、詩は毒気を抜かれる思いがした。
詩は“お姉さん”のことをまったく信用していなかった。