■01 創真の誘い
「『
「そ。んで、今週の日曜なんだけどさ」
とある冬の日、
「商店街の知り合いの結婚記念日なんだよ。うちの店が思い出の場所らしいから、その日だけ店を開けようと思ってさ。緋沙子、手伝ってくんない? 土曜から泊まりがけになるけど」
「ん、ああ」
手帳を開き、予定を確認する。
「ちょうどその日は空いてるな。私でよければ手伝おう」
「お、サンキュー。じゃあよろしくな」
そんなやり取りがあって、授業が終わり、廊下を歩いていたとき、緋沙子ははたと気づいた。
「はっ――!」
足を止め、手にしていた教科書やノートをばさばさと落とした。
今週の日曜日は2月14日――つまりバレンタインデーだ。
■02 緋沙子さんの妄想
「どうかしら緋沙子、ちょっとスパイスが――って、どうしたの?」
スープの器を手にしたまま、ぼーっとしていた緋沙子の顔を、えりながのぞき込んできた。
「あっ、いえ、なんでもありません!」
放課後、
緋沙子が心悩ませていたのは、やはり昼間の創真とのことである。バレンタインデーは、恋人同士がイチャつくには
チョコレートは今から準備しても間に合うだろう。それはいい。ただ、そうした色気づいた思考がまったく抜け落ちていたことに対するショックが大きく――まあ、
さらには、あまりにも自然に創真が誘うので、気にも留めていなかったが……つまり、彼の実家にお泊まりである。それも2人きり。
彼と一晩を共にするのは、初めてのあの日以来だ。あのスタジエールの夜、ホテルの一室で過ごした濃密な時間の――
「緋沙子、顔が赤いわよ? 体調が悪いのなら休んでいていいのですよ?」
「いいえ、大丈夫です! 私は元気です!」
「そ、そう? ならいいんですけど……」
らんらんと目を輝かせる――というか、血走らせる緋沙子に、えりなは首をかしげるのだった。
◇
その土曜日。
緋沙子はボストンバッグを手に、商店街の一画にある創真の実家、食事処ゆきひらの前に立ち、店の看板を見上げていた。
創真は先に着いているはずだ。大きく深呼吸をしたあと、緋沙子は引き戸に手を掛け、
「お邪魔します」
と、店内へ入っていった。
「お、緋沙子。いらっしゃい」
こぢんまりとした町の食堂。厨房では、前掛けにバンダナ姿の創真が立っていた。何やら、料理を試作しているふうであった。
「ここがきみの家か……」
そわそわした気持ちを表に出さないようにして、緋沙子は店内を見まわす。
「そうだ緋沙子、昼飯は?」
「いや、まだだが――」
時刻は11時。昼食にはやや早い時間帯である。
「んじゃ、これ食べてみてくんない?」
促されてカウンターに座ると、
「たしか、電器屋のご主人、だったか?」
「おう。
「そうか……」
一流ホテルのレストランなどではなく、この小さな食堂でプロポーズを? という疑問が沸かないでもなかったが、それを口にするのは野暮というものだろう。
聞くところによると、当時、電器屋の跡取りであった木原は、交際中の彼女に、なかなかプロポーズができず――高級レストランに誘ってみたが緊張で切り出せなかったこともあるらしい――、創真の父に相談を持ちかけた。そこで創真の父は、店を貸し切りにし、木原のためだけに料理をふるまったという。
かしこまったコース料理ではなく、一品一品、遊び心を盛り込んだ皿で、しかも家庭の温かみを感じさせるものであり――いま、緋沙子の前に並べられた創真の料理にも、それはしっかりと反映されているように思えた。
なるほど、改まった雰囲気ではなく、笑顔があふれるにこやかな時間だったのだろう。通い慣れた食堂で、気心の知れた仲間に背中を押されて――それならば、自然と愛情を口にすることができたのかもしれない。プロポーズを終えた彼らは、その日のうちに入籍しまったのだとか。
ひととおりの試食を終えて、緋沙子は、
「しかし、手伝うのはいいのだが、もちろん私は当時の味を知らないし、きみだけでも十分に店を回せるように思うのだが」
そのようにたずねてみた。
すると創真は、
「んー、まあ料理に関してはそうなんだけどさ。あの頃はおふくろも店を手伝っててさ……なるべく、当時の雰囲気を再現したいんだよ」
「そうか。きみはその頃――6歳くらいか?」
言ってから、緋沙子は幼い創真を想像してみた。
「……うん、生意気そうだな」
「あん?」
創真は不思議そうに首をひねる。なんとなくだが、あまり今と変わりのない、やんちゃな少年だったのだろうと、緋沙子は思った。
もし、自分と彼との間に子供ができたなら、どんなふうに――
「おーい、どうした緋沙子? 風邪か?」
「いっ、いやいや! ――ま、まだ早い!」
「早い? なにが?」
顔を赤くしてぶんぶんと首を振る緋沙子を、創真は怪訝そうなまなざしで眺めていた。
■03 前夜の絶叫
その後、まあ、いろいろとあった。なにがあったかと言えば、食事のあとに、
「あ、これ結婚記念日とは関係ないんだけどさ。ちょっと新作を試してみたんだよ。ほら、食べてみろって。ん? 遠慮すんなよ。ほらほら」
創真が期待に満ちた目で、彼いわく自慢の試作品『たこわさのカルパッチョ 生クリーム仕立て』を差し出してきた。
震える手で一口食べた緋沙子は、即座に異世界へと引きずりこまれ、うねうねした触手にあんなことやこんなことをされ、ぐちょぐちょのどろどろに汚され、快楽に身を震わせたのちに、カウンターに突っ伏した。(前話参照)
……ともかく。
「はあ……、きみに期待した私が馬鹿だった」
厨房から出てきて隣に座った創真に向かい、緋沙子はがくりと肩を落とすのであった。
「期待って、なんだよ」
「明日はなんの日か、覚えているか?」
「? だから、木原さんの結婚記念日だろ」
「そうだが――そうではなくて。バレンタインデーだ」
緋沙子が言うと、創真は「おお」と、いま気づいたように手を叩いた。
「そっかー。バレンタインデーか。なんだ、親父も木原さんも、意外とロマンチストなんだな」
緋沙子は、じとっとした目で彼を見る。
「なんだよ? ああ、そっか。ん」
と、創真は手のひらを差し出す。
「――なんだ、その手は?」
「なんだって、ほら。くれるんだろ、チョコ」
「きみという人は……」
まったく雰囲気の『ふ』の字もない。催促するにも、もっと別の方法があるだろうに、無遠慮に右手を突き出して、緊張感のかけらもなくて。だいたい、バレンタインデーは明日だというのに。この男は本当に馬鹿なんじゃないだろうか。
――と、緋沙子は自分のことを棚に上げて、胸の中でそうぼやいた。
しかし、もういろいろと諦めて、バッグからラッピングを施した手作りチョコレートを取り出し……出し……ん?
「どうした、顔が真っ青だけど?」
ない。
ゆうべ作ったはずのチョコレートが、ない。
――そうだ、たしか荷造りの途中で、えりなが急に仙左衛門に呼びつけられ、慌てて緋沙子も対応して……ああ、自室の机の上に置きっぱなしだ。
「す、すまない」
この世の終わりのような表情で、緋沙子は視線をそらす。
「作るには作ったのだが……忘れた」
創真は、しばしポカンとしたあと、意地悪な笑顔を浮かべて、
「うわー、ないわー。愛する恋人へのチョコレート忘れるなんて、ないわー」
「な、きみだって、そもそもバレンタインデーであることすら気づいてなかったではないか!」
「そうだけどさー」
いやしかし、八つ当たりをしてみても、自分がチョコレートを忘れてきたという事実は変わらない。これから作るという手もあるが、それはそれで雰囲気はぶち壊しな気もする。
しゅんと小さくなり、緋沙子はしんみりとうなだれた。
「んー……」
その様子を見て創真は、
「まあ気にすんなって。また来週でもいいんだしさ」
と励ますが、緋沙子の中で、自責の念が消えることはなかった。
「そうだ、じゃあこうしようぜ」
ひらめいた、というふうに創真が明るい声を出した。
「別に、チョコレートじゃなくてもいいだろ」
「それは……そうかもしれないが。なんにせよ、同じだろう」
「いやいや、チョコよりもっと良い物があるだろ」
「?」
首をかしげる緋沙子の顔を、創真はついっと指さした。
「なんだ、この指は?」
「だからさ、これ」
「これ?」
これ、と言われてもよくわからない。試しに振り返ってみるが――緋沙子の背後には、食堂の壁があるだけだ。
「え、もしかして」
嫌な予感がした。
「そ。チョコの代わりに緋沙子で」
「……き、きみはまさか……!」
緋沙子の肩が戦慄にふるえる。
「いやあ、一回言ってみてほしかったんだよな。ほら、『私を食べて』ってやつ」
「――――!!」
なにを調子に乗っているのだこの男は! 馬鹿か!? やっぱり馬鹿なのか!?
と、怒りとも、
「あれー、俺の彼女、チョコレートを忘れたうえに、恋人のたってのお願いも聞いてくれないのかー。あーあ、ショックだわー」
創真は、しれっとした顔で挑発してくる。
「くっ……、くそう!」
悔しい。こんなに悔しいのは、秋の選抜で
「ほれほれー」
「……私は、なんと言えばいいのだ……」
「そうだな、『創真くんお願い、緋沙子のことを食・べ・て(はーと)』で、どうだ?」
「どうだ、ではない!」
がたっと立ち上がり、拳を振るわせる。
「んん? そんな態度に出ていいのかな? あーあ、チョコが食べたいなー」
「ぐうう……」
緋沙子は覚悟を決め、彼の正面に着席し、
「そ、創真くん……お願い……」
「笑顔」
「ぐうっ」
もはや緋沙子は涙目だ。それでも、目一杯こびるような笑顔を作り、もじもじとしながら、熱っぽい上目づかいで創真を見つめ、
「創真くん、お願いします……緋沙子のことを、食べてください」
言った。
「なんだよ、そんなに俺に食べてほしいのか?」
「……はい」
「どんなふうに?」
「あの――、優しく」
「優しく?」
「す、好きにしてください……私のこと、どうにでも」
「好きに料理しちゃっていいんだ?」
「はい、お願いします。私のからだは、創真くんの…………あ」
そこまで言って、緋沙子は気づいた。店の入り口がわずかに開いていることを。そしてそこから、3つの視線が注がれていることにも。
「うわわっ、バレた!」
がたがたっという音がして、商店街のメンバーらしき男性が3人、慌てて転んで、店の床に将棋倒しになった。
「――あれ?
商店会長である富田を筆頭に、商店街の若店主ばかり3名が、そこに転がっていた。
「や、やあ創真ちゃん、ひさしぶり」
「どうしたんすか?」
「いやあ、店の前を通りかかったらシャッターが開いてて、誰か帰ってるのかなあ、と思ってちょっと覗いてみたんだけど――あはは、入りづらくって」
緋沙子は、わなわなと震えながら、富田にたずねてみた。
「あの、一体、どのあたりから聞いてらしたのですか……?」
「えーっと……」
富田は、とても答えづらそうに頬を歪ませながら、おそるおそる言った。
「『そ、創真くん……お願い……』のあたりから、かな。あ、あはははは――」
「ぎゃ、ぎゃああ――!」
緋沙子は悲鳴を上げて、真っ白に燃え尽きた。