【山岸玲奈視点】
「おはようございます」
「……あぁ、おはよう」
事務所のエントランスからボスが入ってきた。私は作業を中断し、立ち上がると、お辞儀をして挨拶をする。私に気付くと、ボスの表情はにやけ顔から引き締まったものへと変わり、私に一瞬視線を向けてから、そのまま、自分の個室へ入っていった。
私の職場であるこのオフィスは、エントランスを入ると受付カウンターに私のデスクのある部屋とボスの部屋、そして、応接室に給湯室の計4部屋となっている。私のこの職場での役割は、受付兼秘書兼ファンドマネージャー見習いだ。一昨年、アメリカの大学を卒業し、日本に帰国してから、国内最大手の金融機関に入社したものの、くだらない新人研修に、意思決定の信じられないくらいの遅さと旧来的な男尊女卑の社風に嫌気がさして、一年を待たずして退職した。アメリカに戻って就職しようとしたが、私が望むポジションを未経験の新人に与えてくれる会社等そうあるはずもなく、大学時代のコネを通じて紹介されたのが、ボスが運営する個人ファンドだった。
ボスの名前は大学在学中から聞き及んでいた。若くしてボストンの伝統あるファンドのパートナーとなり、確かな実績と莫大な収入を得ながらも、独立し、若くして個人ファンドを設立した伝説的な日本人。しかし、生来の一匹狼的な性格で、人を寄せ付けず、ひたすらビジネスに邁進するビジネスパーソンと聞いていて、自分なんかが採用されるはずはないと思っていたのだが――、一回の面接であっさり採用された。明らかに顔採用だった。
入社後、分かったことは、ボスは人を寄せ付けないのではなく、単にコミュ障であり、ビジネスに邁進しているのは、他にすることがないからだった。入社当初は、私への面倒見がよかったが、それが下心の表れということにはすぐに気づいた。何度か食事に付き合ったものの、これ以上女としての期待をされるのもしんどいと思い、アメリカに遠距離恋愛中の彼氏がいるからと言って、今後はプライベートで会うのは断ることにした。――彼氏がいるからというのはウソだけど。
私はクビになることを覚悟したが、ボスの態度はよそよそしくなったものの、クビにはならなかった。地道に事務所運営上の雑務や投資情報の下調べ、顧客対応等を頑張ったこともあり、私が多少は使えるということが分かったからと思いたいが、それよりも、最後の食事の時に、これまでの録音データがあることとセクハラ被害を匂わせたことの方が効果があったかもしれない。
以後、あくまで新しい転職先が見つかるまでのつなぎとして、ボスの下で働いてきたが、ここ最近、ボスの様子が明らかに変わった。まず、朝の身だしなみ、服装、髪型がきちんとするようになった。また、朝はいつも無気力な表情で、私が挨拶すると、私の全身を一瞥をしてから、部屋に入っていたのだが、最近は、にやけ顔で私に対してもそっけなくなった。
……それはそれで全然いいのだけれど、理由が気にはなる。ボスを変えたのは、おそらく、赤いアウディの女。このビルの窓から、ボスが赤いアウディから降りてくるのを何度か見ているが、運転している女は、遠目からもいい女オーラが駄々洩れしている。一度、家政婦をしているという女から職場に電話がかかってきたことがあったが、その女が赤いアウディの女とすれば、一緒に住んでいることになる。ただ、赤いアウディの女と電話の声のイメージとはあまり合わなかった気もしていて。
また、最近、代表者住所の登記変更の手続きを依頼されたので、ボスが引っ越したこともわかっている。グーグルマップで調べて、場所はわかったが、建物名はなく、ネット上にも部屋の情報は見当たらなかった。
――と言っても、別にボスのことを気にしているわけではない。この職場もいつ辞めてもいいと思っているし、ボスに対し何の思い入れもないのだが、急に自分に向けられていた関心が失われるというのも、あまり、愉快な気持ちにはならない。以前と変わらず彼氏もいないし、自分と釣り合う男は、この国ではなかなか見つからないのだ。ポーチの中の手鏡を取り出して、自分の顔を確認してから、今日のスケジュールの確認をするために、ボスの部屋にノックをしよう――とした時、来客を告げるコール音が鳴った。デスクに戻り、受話器を取る。
「はい。城宮ファンドですが。えっ、もう一度、よろしいですか?リャン…ハオユー…様の使い、ですか?はい、わかりました。確認しますので、少々お待ちください。」
私は、その名前に聞き覚えがあった。確か、先月、新規顧客になるかもしれないとボスが話していた相手の名前だ。私は、受話器を保留にしてから、ボスに内線を飛ばした。
「……はい」
「ボス。今、オフィスの受付に、リャン・ハオユーさんの使いの方が見えてるそうなんですがお通ししても――」
「えっっっ、リャン・ハオユー!!!まっ、マジか。どうしようかな……とりあえず、いないと言ってくれ」
「わかりました」
異常に慌てふためくボスの声色に疑問を持ちながらも、保留を解除して、リャンさんの使いと話す。
「お待たせしました。大変申し訳ありませんが、城宮はただいま外出中となります」
「わかりました。それでは、お渡ししたいものがあるので、そちらにお持ちしたいのですがよろしいですか」
「はい。わかりました」
私は電話を切ると、ボスの部屋をノックして、部屋に入る。ボスは、室内をうろうろと歩き回り、私に気付くと、「どうなった」と言いながら詰め寄ってくる。私は半歩身を引いて答えた。
「何か渡したいものがあるとかで、ここに持ってくるみたいです」
「えーーーっ、来るのか。まずいな。まぁ仕方ない。山岸君が受け取ってもらえるかな」
「わかりました」
私は部屋を出て首を傾げる。この前、リャンさんの話をしていた時は、大口の契約になるかもしれないと鼻を膨らませていたのに、なぜ、今になって、嫌そうな態度を取っているのだろうか。数分しないうちに、スーツを着た男達数人がエントランスに現われた。
「はじめまして。リャン・ハオユーの使いの澤崎と言います。こちらのトランクを城宮様にお渡ししください。」
澤崎の背後の黒服サングラスの男たちはまるで長期の海外旅行にでも行くような大きなキャリートランクを持っており、4つのキャリートランクがオフィス内に運び込まれたのだった――。
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晶子に見送られてオフィスビルに入っていく。ニヤニヤが止まらん。あと、何気に、晶子と一緒にいるときに晶子に集まる男達の視線が気持ち良すぎる。俺は今まで学歴や金でマウントを取ってきたが、女で他の男達にマウントを取れたことはなかった気がする。それが今や、誰もが羨むような女5人のご主人様になって、こんな優越感に浸るどころか溺れそうになるとは。ふと、後ろを振り返れば、晶子はまだ俺のことを見送っていて、俺が振り返ったことに気付くと、また深々とお辞儀をしている。俺は、周囲の視線を気にして顔を引き締めなおしてから、軽く手を上げて、エレベーターに向かう。すぐに顔を伏せたのは、またニヤニヤが止められないからだ。
自分のオフィスに入り、アシスタントの山岸君に軽く挨拶してから、自分の部屋に入る。高級リクライニングチェアに座り、3台のディスプレイのスリープ状態を解除すると、早速各国のマーケットの状況を睨みながら、大量のメールを取捨選択して確認していく。そして、今日来たばかりのバックグラウンドチェックの結果のメールを確認する。
「え……ウソだろ、マジか」
顧客からお金を預かるにあたっては、その顧客が反社ではないかのバックグラウンドチェックは必須である。反社と関われば、まともな会社からは契約を切られてしまうし、今は国際的なマネーロンダリング規制も厳しく、下手すれば背中に手が回る。だからこそ、新規顧客の契約前には、必ず、バックグラウンドチェックを行うのだが、先日、契約の依頼のあった客が引っかかってしまったのだ。しかも、その相手というのは――、受話器が鳴った。
「……はい」
「ボス。今、オフィスの受付に、リャン・ハオユーさんの使いの方が見えてるそうなんですがお通ししても――」
「えっっっ、リャン・ハオユー!!!」
たった今、告げられたのは、バックグラウンドチェックで真っ黒黒の反社であることが判明した相手だった。とりあえず、山岸君に対応を依頼し、自分は、個室からブラインド越しに外の様子を見守る。しばらくして、オフィスに入ってきたのは……俺の住むマンションの4階と5階に住むリャン・ハオユー(梁皓宇)のオトコだった。
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[回想シーンへ]
俺が、同じマンションの上階に住むリャン・ハオユーと初めて会ったのは、先月のことだった。黒鉄の話では、男は俺の一つ年下の中国人で複数企業の日本法人の代表を務めており、海外出張も多く忙しいとのことだった。俺も俺のハーレムの女たちを可愛がるのに忙しいだけでなく、国内出張に加え、海外出張もあり、なかなか予定が合わず、挨拶できたのは、引っ越してから2ヶ月も経ってからだった。
俺はさやかを伴い、上の階に向かった。と言っても、上階に向かうエレベーターは、1階からのエレベーターに乗る必要があり、しかも、リャンさんの部屋のエレベーターに乗るためには、もう一つ専用のエントランスを通過しなければならず、インターフォンを押して名を名乗った後、おそらく4階とつながっているカメラで顔を確認してもらうと、自動ドアが開いた。さやかも初めて会う他の主との対面を控えて、やや緊張気味で、俺は勇気づけるためさやかの手を握った。するとさやかは緊張しながらも俺に笑みを返してきて……その笑顔がむちゃくちゃ可愛すぎて、緊張よりもさやかへの欲情が勝る。このエレベーター内にこれ見よがしにカメラが設置されていなければ、さやかにキスしていたところだろう。
先日のカズさんと晶子のことがあったので、さやかを連れて行くのは、実は心配もあるのだが、それを黒鉄に言うと、あっさりと、「それは大丈夫だと思います」と言われたので、俺は勝手に、男性的魅力は俺の方がリャンさんに勝っているのだと思っていたのだが……。
4階に着くとも思っていたら、着いたのは5階だった。後で聞いたところによると、5階は応接スペースやパーティールームがあり、居住スペースは4階で、屋上には、ジム設備に竹林のある庭園、プールまであり、ちょっとしたリゾート施設のようだった。5階のエレベーターホールから部屋の入り口のドアに向かうと、そこに男が立っていて、ボディチェックを入念にされた。さやかまで服の上から入念に。ボディチェックが終わりドアを開けると、そこにいたのは、自分よりおそらく年上に見える男だった。
「どうもはじめまして、城宮と申します。ご挨拶が遅れて、大変申し訳ありませんでした。こちらはさやかです」
「さやかです。ふつつかものですが、何卒、よろしくお願いいたします」
「澤崎と申します。主がお待ちです。どうぞこちらへ」
男は片膝をついて、俺に挨拶した。ん?と思い、さやかを見る。さやかは立ったままだ。少なくとも目の前の男はリャンさんではないと分かり、小さく一息つくと、さやかも同行してお目通り願いたいと申し出て、了解を得れば、靴を履いたまま、室内に入ると、すぐ横にあるエレベーターから屋上に向かう。
「あの、澤崎さんはあれですか、組織の人間ですか?プランナーさんとか。それとも、リャンさんの会社関係ですか?」
澤崎さんが答える間もなくエレベーターのドアが開くと、そこは、マンションの屋上とは思えない庭園だった。エレベーターの前には、5階の入り口にいたようなボディガードらしき男が無言で立っており、その男を残し、澤崎さんの後ろから竹林の小路を進むと、大きなプールがあり、そのプールサイドのデッキチェアにサングラスを付けてTシャツにカーゴパンツとラフな格好で寝そべり片手にグラスを持った男がいた。その視線の先には、プールで泳いでいる男……男?
「ラオバン(老板)、城宮様がお越しです」
「あぁ、城宮さんこちらにどうぞ。あと、お連れの姫も遠慮なく」
俺は、一旦形式上、固辞するさやかを連れて、リャンさんに近づいた。そして、デッキチェアに横向きに座りなおしたリャンさんと対面する。サングラスを付けているため表情は分からないが髪は短く、小柄で唇は薄く、微笑を浮かべていた。さやかは、既に俺の斜め後ろで正座の体勢で床に着くまで頭を下げている。
「はじめまして。城宮と申します。こちらに控えるのはさやかです」
「さやかです」
さやかはごく小さな声で少しだけ頭を上げて視線は落としたまま名乗ると、また深々床に頭を付ける。すると、いつの間にか澤崎さんと、プールに入っていた男、というかよく見れば少年もプールから上がって、2人とも片膝を付いて俺に頭を下げていた。
「こんにちは。リャン・ハオユーです。ご挨拶が遅れてこちらこそお許しください。お目にかかれて光栄です。そこに控えるのは、澤崎、後ろに控えるのは、ティエン。僕のハーレムのオトコです」
リャンさんは流暢かつ流麗な日本語で挨拶した。『僕のハーレムのオトコ?』、それって、そうゆうことよね。俺は何で事前に言わなかったんだ、と黒鉄を心の中で罵りながら、俺はへらへらと愛想笑いを浮かべていた。