※この作品はR-18です。

Sは寂しいのSと言えるか?   作:氷菓くん

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3/3 青丹マナ雲丹ナマコ

 一見して不老不死のサキュバスがその実どのようにして死を迎えるのか。その答えは現代においてググれば簡単に出てくる物なのだということを、俺はその日試してみて初めて知った。

 そこで聞きかじった知識いわく、サキュバスの不老と不死は「戻る力」によって実現している物らしい。彼女らの体には非物理的な形で「戻る機構」が施されており、その機構に魔力を流すことで「戻る力」が発揮される。どの時点にまで戻るのかは個人差があるらしいけれど、大抵の場合は若く健康だったある一つの時点へと戻っていくらしい。だからサキュバスはいつまでも変わらない姿で長い時を生きているし、どんな傷を負っても魔力さえあれば完璧によみがえる。

 つまり、サキュバスの寿命とはその「戻る機構」の寿命を指すらしい。機構は機構自身を戻すことができない。約五百年で朽ち果てるそれが完全に機能を止めた時、本来なら人間と同じく百年足らずで死を迎えていたはずの体は誤魔化していた五百年の時を急速に駆け進み、その時空的な摩擦によって単純な機能停止ではなく文字通り「塵と化して消える最期」を迎える……らしい。

 そしてサキュバスには、その塵と化す最期が訪れるタイミングを直前に自覚することができるのだという。それについては人間界でもすでに印象的な事例が残されていた。

 音信不通になったあるサキュバスの自宅へ警察が押し入ると、台所のコンロ上には油の入った揚げ物用の鍋が置かれており、中には衣すら生焼けの食材が浮かんでいた。そしてその傍には、すでに良い色になるまで揚げられた物がキッチンペーパーの敷かれた皿に盛られて冷えており、床に散乱していた灰色の粉末からは、機構という行き場を失い残留していた魔力が検知されたのだという。……どう考えても台所に立っていた本人が死期を察してコンロの火を消したとしか思えない現場だったということだ。

 ハクレナもいつかはそのように忽然と姿を消す。それが今日でもなければ明日でもなく、来週でも来月でも来年でもそのまた先でもまだ無いようにと強く祈っているのは、きっと俺よりも本人の方なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 調べるほどに、サキュバスの能力には素人知識では理解し難い部分が多いことが分かった。

 たとえば、サキュバスは驚異的な身体能力を持っている。その気になれば軽トラを片手で投げ銃弾を目視で避けるというその力の一端を、俺は昔コルカと腕相撲をしてみた時に体験したことがある。両手を使っても彼女に太刀打ち出来なかった。彼女は片手の、ただ小指一本を立てて人間男性の本気を迎え撃っていたのに、俺はその小指を鉄像か何かだとしか思えなかったのだ。

 けれどそれはどう考えても「戻る力」ではない。若さや健康は時を巻き戻すことで手に入れられても、スーパーマンのような力は誰の過去のどこにもあるはずがない。不老不死と身体能力は、魔力という同じリソースを使っていながら、ルーツを全く異にする力であるらしいのだ。

 同じように、サキュバスが性行為についてのあらゆる問題を解決していることについても、戻る力とは別のところに由縁がある。たとえば彼女らは妊娠の有無を意思で決められるけれど、それは望まぬ妊娠を確実に回避できるというだけではなく、望んだ妊娠を確実に起こせるという意味も含んでいるから、やはり戻る力だけでは説明がつかないのだ。けれど、それぞれの力が同じリソースからどのようにして実現しているのか……ということについては、もはや素人が読んで分かるような砕けた話がネット上には存在していないように見えた。

 しかしそれでも一つだけ、素人の理解度で見てもどうやら確からしいことがある。それはサキュバスの精神にまつわることだ。

 容姿の若々しさ、健康、身体能力。それらを高いレベルで維持し続けるサキュバスという怪物の中に、唯一担保されていないものがある。それは精神の強さ。彼女らはその高い能力と性を基軸にした独特の倫理観から必然的に自己肯定感も高くなる傾向にあるようだけれど、しかしたとえば、魔力を用いることで精神に対して起こせる作用等の記述はどこにも見当たらない。魔力を使って怪我を治したり肉体年齢を巻き戻すことは出来ても、心の傷を癒すことはできないらしいのだ。

 ……だから俺は疑っていた。ハクレナは精神的に病んでいるのではないかと。特に人間女性の話としては、マゾヒストが精神を病んでいることは典型的なことらしいから。

 あの何もない部屋と本人の無気力な様子、そして長い人生の終わりが迫っているという情報が合わさると、どうしてもそういう想像をしてしまう。彼女は晩年に疲れ果てて精神を病んでおり、俺はそこにつけ込むことで、性欲の解消などという大義の欠片もないことのために、彼女の心身を余計に痛めつけ踏みにじっているのではないか。だとすればそれはもはや同意の上と呼べるようなものではなく、許されることではない。

 けれどそう考えると同時に、自分に出来ることは彼女に性欲を献上することだけだ……とも理解している。正義に従い暴力を自粛したところで、俺はハクレナに何ら良い影響を与えられはしない。だからこそ俺は悩み、危惧していた。立派とは程遠い人間が片手間に考えるような矮小な正義がハクレナの役に立つものなのか。本当はむしろその逆で、俺の半端な良心は彼女から最後の楽しみすら取り上げてしまうのではないか……と。

 そしてそのように考える中で、ある時唐突に思い出したことがある。ハクレナは俺の書く小説を待っているのだ。

 具体的にいつとも知れない彼女の死よりも前に、俺はそれを完成させなければならない。たとえその意思が彼女の嫌う「サービス」に該当してしまうのだとしても、いくらなんでも未練を作るよりはマシだろう。

 ……だけどそう思い立ち小説のプロットを考えてみたところで、俺の頭の中から出てくるアイデアは最低な物ばかりだった。それらは質が低いというわけではなく、ただ贈り物のセンスとして最低だった。

 だから俺は、ネタバレ防止のために詳細は伏せつつも、もはや本人にそのセンスの是非を尋ねるしかなくなってしまう。平日の夜にいつものチャットでそれを問いかける。

「ところで、新しい小説が書けそうなんですけど」

「本当ですか! 読める日が楽しみですね。今回はどんな話になるんでしょう?」

「それなんですけど……。アイデア自体は浮かんでるのですが、問題があって」

「ふむ」

「以前にハクレナさんは、自分を小説のモデルにしてほしい、みたいなことを言ってたじゃないですか。これだけ毎週ヤらせてもらってたらそれはもう自動的にモデルになるんですけど、そこに問題があって……」

「どんな問題なんですか?」

「アイデア通りの物を書いてしまうと、ハクレナさんの尊厳を、いつものプレイよりもさらにひどく踏みにじることになりそうなんです」

「なんだそんなことですか。尊厳を傷つけられたくない人が、青ウニさんの小説のモデルになりたいなんて言うわけないじゃないですか。思う存分やっちゃってください!」

「普通に絶交が視野に入るレベルの内容になりますけど」

「個人情報を載せるとかはダメですよ……?」

「そういうことは誓ってしません。ただ単純に気分を害してしまうことが問題なんです」

「なら全然大丈夫です。私をモデルにした女の子がどんな酷い目に遭わされるのか楽しみにしてます。期待してますよ、青ウニ先生」

 ……というわけで、俺は初めに浮かんだアイデア通りの小説を書くことになった。

 そしてそれはそれとして、書き始めた物が完成するよりも先に、今週も彼女に会う週末がやって来る。もはやお互いの中間の駅で集合する必要はなくなって、俺が直接ハクレナの家へ向かう段取りになっていた。

 日差しの降り注ぐ青空の下で、道中の心境は不安にまみれていた。年齢を聞いたことをきっかけにハクレナの精神を案じて以来、自分が以前のように彼女へ純粋な性欲を向けられるのかどうか自信が持てなくなっていたのだ。もしカラオケへ行った日のようにそれを悟られて、彼女に落胆されたらどうしよう。そうなればお互いが悲しむことになるだけだ。かといって会わないわけにもいかない。時が問題を解決することを見込んでも、寿命の件はむしろより濃く頭の中を占有していくだろうから。

 だから俺は不安を抱えたまま家を出て、不安に思ったまま電車に乗り、まだ慣れない道を不安と共に歩き、彼女の住むアパートの前までやって来た。不思議なことに、そんな心持ちの日に限ってなぜか遅刻はせずに済むものだった。時間通りに部屋のチャイムを鳴らす。

 足音が聞こえず人の気配も感じられず、もしかして不在だったり寝落ちしているのか……と思ったところで、唐突に鍵の開く音がした。

「いらっしゃい」

「あ、どうも」

 ハクレナは部屋着のTシャツ一枚と短パンで玄関に出てきた。彼女のそういう格好を見るのは意外にも初めてだったことに気づく。

 そしてその姿を一目見た瞬間、俺の不安はすでに消し飛んでいた。綺麗さっぱり、かわりに罪悪感が湧いてきてしまうほどに。

 ……つまり、ハクレナを見ただけで勃起し始めている自分がいた。もちろん「ヤるために本人の家に来ている」という状況込みの話なのかもしれないけれど、しかし体感として明らかに、すでに俺の脳は「ハクレナ」と「セックス」を直結的に認識しているのだと分かった。

 知り合って間もなかった頃の自分なら、それを悟られてはならないと緊張していたのだろうけど、今はもうそういうこともない。現金な認識に一抹の罪悪感を覚えて、それきりだ。

 玄関の鍵を内側から閉めて、俺たちは目当てのことをするためにリビングへ向かった。

 すでに敷かれていた布団のそばに着くなり、ハクレナはさっそく部屋着の裾に手をかける。

「あ、ちょっと待って」

「うん?」

「着たまましてみません? 汚さないようにするので」

「いいけど。……こういう格好すきなの?」

「相手の家で部屋着のまま……ってよくないですか?」

「そう……?」

 共感はせずとも不快でもないようで、彼女はそのまま仰向けに布団に寝転がった。両腕はだらんと無造作に放り出されている。

 俺はそこに覆いかぶさるようにして、当然の権利であるかのように眼下の唇をふさいで、舌も入れた。

「ん……」

「舌だして」

「んぇ……んっ」

 ハクレナの舌に吸い付きながら、手は耳のピアスに触れる。無機質なそれと柔らかな耳たぶを交互に指でなぞると、妙な心地良さがあった。

 しばらくして長いキスを終えると、暗い色の瞳が不思議そうにこちらを見上げて来る。

「……なんか今日優しいね」

「優しくしてほしいですか?」

「べつに。青ウニくんの好きにして」

「そう言うと思った」

 その後に行ったプレイの数々は、もちろんいつも通りに悪趣味な物ばかりだった。

 ……数時間後、すでに一度中出しを終えた俺はあっという間に再燃した性欲を動機に、ハクレナの下腹部をシャツの上から何度も殴りつけていた。

 この家に置かれている淫具の中には目隠しや手錠もある。どちらもふわふわの可愛らしいファーが施されていて、今のハクレナはそのアクセサリーじみた拘束具に視界を遮られて両手も不自由にされている。もちろんその気になったサキュバスにそんな拘束は意味を成さないと知っているけれど、見映えがあるだけで興奮は十分に湧いた。

 殴られるたびにうめく彼女の頬には、ファンシーな目隠しの下から涙の線が伝っている。俺はあらゆる涙の中でもそれを見るのが特に好きだ。目元が見えないことによる表情の読みとりづらさと、目隠しを外すとあらわになる泣き腫らした目が、白日のもとに晒された瞬間から初めて訴えかけてくる感情のギャップに最高に興奮する。だから目隠しの下で相手が泣いていると分かった瞬間に、もう期待で勃起は強まる一方だった。その涙が演技ではなく、出来るはずの痛みの緩和をせずにいるからこそ流れる物なのだと分かっていてもなお、興奮を止められはしない。

 ハクレナと目隠し拘束プレイをするのはこれが初めてではなかった。というか、俺が思いつく範囲では、もはや彼女に対して試みていないプレイなどほとんど存在しない。着衣で抱くというのが唯一それだったというくらいで、あとの大抵のことはすでに体験してしまった。

 ……なのに全く飽きがこない。悪趣味で暴力的なプレイに触れると、興奮は何度でも呼び起こされてしまう。

 苦悶の声と共に涙を流しながら、ハクレナは今も無抵抗を貫いたまま、手錠で束ねられた両手でピースサインを作っていた。こちらが望めば彼女は何時間でもそのまま付き合ってくれるのだろう。

 けれど加虐その物に飽きはこないとはいえ、何時間もずっと全く同じプレイを続けているだけではさすがにマンネリ化してしまう。特に腹パンはそうなりやすい。興奮材料には困らなくても、拳からでは肉体的な快感を得られないせいだ。

 そんなことを考えながら、俺は彼女のシャツの裾をめくり、まだアザにはなっていないだけでひどく痛むだろう腹を撫でる。

「痛い?」

「うぅ……、は、はい……」

「腹パン飽きてきちゃったから、お風呂行ってイラマしたいんだけど」

「は、はいっ……。喉まんこいっぱい使ってくださ、うっ!?」

「うん、じゃあ目隠しと手錠外すね」

 最後に不意打ちの一撃を加えてから、いよいよ哀れな彼女の目隠しの下を確認する。……そこには瞳を潤ませながら、しかし寝起きのように呆けた様子の眼差しが秘められていた。

 その無気力な目には恐怖も怒りも浮かんでいない。以前までの自分なら、その一見して心ここにあらずといった様子の相手が、実際は苦痛を受けてしっかり泣かされているという図に興奮を覚えたのだろうけど……。今日はその目を見た瞬間にドキリと肝が冷えた。

 ハクレナの心は、本当にここには無いのではないかと思った。彼女は今この時でさえも、精神の渦中で別の苦痛と戦っているのではないかと。

「……服、着たままがいい?」

「え、あぁいや、汚れちゃうから脱いでもらって」

「汚していいよ」

「え……うーん……。でも悪いですし……」

「そっか」

 手錠を含む拘束から解放された彼女はそそくさと全裸になって浴室へ歩いていく。ついさっきまで「髪でも引っ張りながら連れて行こうか」と考えていた俺は呆気にとられて、内心そこそこ慌てながらその背中を追った。

 一度射精した後ということもあって、それから体感でかなりの時間彼女に喉での奉仕を強いたように思う。途中で「このまま夜までこれしようか」と脅しのつもりで言ってみると、「はい」とだけ返事があった。実際にはその後しばらくして二度目の射精をした後に、こちらから「やっぱり別のこともしたい」と言って、シャワーを浴びてから布団の上に戻ったのだけれど。

 そこで休憩がてらいつものようにティーカップに注がれた麦茶を飲んでいると、ハクレナの方から雑談を切り出してきた。

「またシャツ着た方がいい?」

「あ、いや、どっちでも」

「そう? ……青ウニくんにも普通のフェチみたいなのがあるんだって、ちょっと意外だった」

「えぇ? あぁいやべつに、フェチってほどではないんですけど。今日はたまたまピンと来たので」

「うん。何か他に着てほしいものとかあったら言ってね。できるだけ着る」

「それはありがたい。でも本当に思いつかないんですよね」

「うん」

 そうやって会話している彼女の瞳が今は何を捉えているのか、視線をなぞるように追ってみるけれどよく分からない。冷蔵庫から出されたばかりの麦茶につられて冷えたカップを両手で持ったまま、彼女は確かにどこか一点を見つめているのに、実際のところその目には何も映っていないような気がした。

 ……俺はハクレナが死ぬまでこういった生活を繰り返すのだろうか? それを良しとするにはどこかに致命的な収まりの悪さを感じて、分かりきっているようなことでも問わずにはいられなくなる。

「他の男も家に呼んだりするんですか?」

「えっ。……最近は呼んでないけど、なんで?」

「いや、昔読んだエロ漫画に、自室のベッドでレイプされる女の子の話があったんですよ。これから毎晩眠る時に今日のことを思い出すんだねって竿役が言ってたことが印象的なんですよね」

「あぁ、なるほど……? そうだよ、私も青ウニくんのこと思い出してる」

「でも昔は他の男もここに来てたんでしょう?」

「そうだけど、嫉妬?」

「いや全然。ただ、その男とはどんなことをしてたのかなって、下心的に気になるじゃないですか」

「んー。どんなことって言われても、今とそんなに変わらないと思うけど。……あ、顔をグーでよく殴られてたのだけは違ったかも」

「……なるほど」

 たぶんそいつは俺よりもガタイのいい男だったんだろうな……と、某恋愛ソングのような想像が脳裏に浮かぶ。けれどそれは嫉妬の感情には程遠い。むしろ嫉妬に終始できるならどんなによかっただろう……とすら思う。

 四百九十年も俺のような性癖の男とばかり付き合っていたら、きっとハクレナは今より遥かに過激な行為だって体験したことがあるのだろう。血にまみれた本物の拷問があったかもしれないし、不死であるのをいいことに致死量の薬物を入れられたことがあったかもしれない。それとも彼女は幸いなことに人間の人生何周分もの時を生きる中でそれらを偶然かつ完璧に回避してきたから、顔をグーで殴る男が知り得る暴力の上限だったから、「NG無し」なんて言葉を俺のような男に対して物怖じもせずに言えたのだろうか。あるいは俺がその手の一線を超えたプレイを好む者ではないと、小説から完璧に読み取れたからこそそれが言えたのだろうか。

 ……どれも違うと直感が訴えている。ハクレナの言動は改めて考えてみても不可解で、だから俺はもう一度あの時と同じ質問をするしかなくなる。

「……ハクレナさんは、どうしてSMが好きなんですか?」

 虚空をジッとさまよっていた瞳が、風に流されるようにこちらを向いた。

「前にも言わなかったっけ……? 何も考えなくていいから好き」

「けどそれなら、程度のマシなサディストを選べばよくないですか? 俺とか、その顔面グーパン男よりもマシな、ソフトなサディストだって世の中いくらでもいるでしょう」

「あー、そういう人たちは結構面倒くさいんだよ……。それにあれこれ選別すること自体が面倒だし」

「いや、面倒だからで我慢できる範囲をいくらなんでも超えてませんか。痛めつけられて気持ちよくなれるわけじゃないんでしょう?」

「……なに、罪悪感が出てきちゃったの?」

 空のカップを床に置いて、彼女が不意にこちらへ這い寄ってくる。片手は萎えたままの陰茎に添えられて、首筋に媚びるような舌が這う。

 艶めかしく、しかしどこか事務的な所作だった。

「私は平気だから、青ウニくんはしたいこと全部したらいいの。その方が君の性欲はおいしくなるんだから、私もそれが嬉しい」

「……違うんじゃないですか?」

「え?」

「ずっと思ってたんです。ハクレナさんって、普段はなにをして過ごしてるんですか? この部屋には、娯楽が何もない」

「……あ、えっと、ごめんなさい?」

「いや、責めたいわけじゃないんです。でも本当に、いつも何をして過ごしてるんです……? 趣味はないって言ってましたけど、そうは言ったって暇でしょう。俺や他の男と会ってる時以外の空いた時間、あなたは何をしてるんです?」

「え、それは……。……エッチな動画見たりとか」

「他には?」

「エッチな小説とか、漫画とか……?」

「他は」

「たまに音声作品も聴くかも」

「要するに性的コンテンツしか見てないってことですよね」

「だ、だって……。いいでしょ……? ダメ……?」

「ダメではないですけど、それだとおかしいんですよ」

「おかしいの……?」

「えぇ。だってそれだけ性的なことが好きなのに、なんで実際のエッチは苦痛に耐えることを選ぶんです? 漫画や動画を選んで見るみたいに男も選べばいいのに」

「選んでるよ。私が手を抜いてもかまわずに性欲をぶつけてくれる人を選んでる」

「ハードSMの動画を、真っ先にお気に入りとして挙げるようにですか?」

「……うん。だったらなに?」

「だったら、やっぱりハクレナさんはSMを楽しんでるんじゃないですか? 手抜きが目的なら、男を喜ばせる勉強のためにその動画を見てるわけじゃないんでしょう? 単純にSMが好きなんじゃないですか……? それが唯一の趣味になるくらいに……。なのになんで、考えなくて済むからそれが好きなんて言うんですか。興奮するとかではなく」

「…………あぁ、なんだ、つまり青ウニくんは私にこう言ってほしいんだ」

 惰性で腕を絡ませていたハクレナがふわりと俺から離れていった。けれど彼女がそのまま布団の端よりも外へ行くことはない。夜眠る時に思い出さずにはいられない行為を要求されると分かりきっているその範囲からは決して出ずに、三指をついて頭を下げる。

「……あなたの言う通りです。私は、乱暴にされればされれるほど興奮してしまう、どうしようもないマゾ女です。どうかあなたの気が済むまで、私のことをめちゃくちゃに壊してください……」

 とても流暢に、そんな台詞が発せられる。

 それはいつも通りの、どこか感情のこもっていない朗読だった。けれど俺にはもう、ただ感情が乗っている感じがしないからという理由だけで、それを丸っきりのリップサービスだと思うことはできなかった。彼女が重度のマゾであること自体はきっと真実だ。そうでなければ、これまでの彼女と照らし合わせても理屈に合わないから。

 そしてそう考えるのであれば、ハクレナについてはある一つの致命的な特徴が挙げられることになる。

 ……彼女は、自己認識が上手くできていない。そしてだからこそ、本人すら意図しないまま俺に嘘をつくのだ。

 前々からおかしいとは思っていた。気遣いをすることが苦痛だから思考停止で性欲のはけ口になりたいと言うわりに、事後の俺が自分のことを考えるのに必死な間に水を持ってきてくれたり、ああした方がいいかこうした方がいいかとプレイ中に気を遣ってくれたり、自分が好んで食すわけでもないカップ麺の備蓄に余念がなかったり、初めて来た土地からの帰りに「送っていこうか」なんて聞いてくれたり、とにかく彼女の行動言動は気遣いに欠ける自己中心さからは程遠かった。ただのダッチワイフとして扱われたいと真に望むような人物が、プレイ中に面倒になってきた時にムードを壊さないように気を利かせた言い回しでそれを伝えてくるか? 一度脱いだシャツを再び着るべきかと尋ねてくるか? 挙げ出せばキリがないほどに、彼女の振る舞いは、本人の掲げる主義的な言動には全く一致していないのだ。

 もちろん、彼女の言うことが根からの嘘ということはないのだろう。いつもの無気力でそっけない態度からして、気遣いが面倒という性格自体が全て嘘ということはないのだろう。彼女はそれを本当に面倒だと思っている。しかし同時に、本人が自覚しているほどには実際のそれを避けられていないのだ。同じように、ただ耐えていればいいからSMが好きという話自体も全てが嘘というわけではないのだと思う。唯一の趣味になるほど強烈な「性に対するマゾヒズム視点からの関心」が、なぜか気遣い云々の話よりも遥かに優先順位が低い物として本人の中では扱われているというだけで。

 そのように無自覚かつ不可解に、ハクレナの言動と行動には何かしら大いなる矛盾が秘められていて、見たところ本人すらそれを自覚していない。すると今「なぜSMが好きなのか?」という問いが矛盾の存在を明らかにした以上、そんな彼女の他の全ての言葉についても、それが本心であるとなぜ信じられるのか? という話にもなってくる。

 「私は平気」と彼女は言うけれど、それだって無自覚な嘘なんじゃないか? 本当は心が壊れてしまうほどつらいのに、本人がそれを自覚していないから言動にも出ないだけなんじゃないか。……と、そう考えざるを得なくなる。俺が感じていた「彼女との関係性の心情的な収まりの悪さ」の原因はまさにそこにあった。

 目の前でどこまでもへりくだるように頭を下げたまま、ハクレナは物言わずこちらの次の行動を待っている。きっと期待しているのだ、俺がその金髪を掴んで引っ張り強制的に顔を上げさせては次のプレイを言いつけることを。あるいはその頭を踏みつけて、そのまま暴力の限りを尽くすことを。彼女は望んでいるからこそ、いつまでも頭を上げずにいる。……本人としてはそう「望んでいるつもり」でいる。

 俺はどうするべきなのだろう? 彼女が矛盾の塊であることに気づいた上でなお、本人が望んだ通りに、己の中にある醜い性欲を無遠慮にぶつけるべきなんだろうか? それとも今しがた自分が気づいたことを素直に本人へ伝えるべきなんだろうか? あなたは確かに「視聴者」としては生粋のマゾヒストのようだけれど、我が身でそれを体験すると本当はただただ苦しいだけだから、相手に嫌がってもらわなければ興奮できないような歪んだ男の性癖をたまらなく満足させる反応を示せてしまうのではないか、本当は全く楽しめていないのではないか、それに自分ですら気づけていないのではないか……と。

 ……何をしても全て受け入れてくれるように見える女が、その細い体で一心にひれ伏している様を前にして、俺はかつてないほどの逡巡に追い込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰りの電車に揺られながら車窓の外に目を向けてみれば、高速で通過する景色としてすっかり夜になった街が見えた。家々の明かりの中に宿るものが幸福なのか不幸なのかはそれを眺めているだけでは分からない。どの明かりの中に孤独があって、どの明かりの中でセックスが行われているのか、思いを馳せても全ては同じ光に見える。

 ハクレナに対して自分のしたことが正しかったのかどうか、俺は帰路についた今でさえまだ測りかねていた。法に守られながら死体を埋めてきたような気分がする。それなりに混みあった乗客の中にも、何食わぬ顔をしながら今の自分と同じような境遇に立つ人物がいたりするのだろうか?

 ポケットからスマホを取り出して、チャットでハクレナに何かしら送ろうと文章を考える。問題なく付く既読といつも通りの返事を見ることで安心したかったのだ。……けれど送るべき文章はいくら考えても一向に思いつかない。

 潔く逃避を諦める気にもなれず、足掻くように適当なアプローチを考え続ける過程で、俺は今日のハクレナとのやり取りを頭の中で反芻していく……。

「顔を上げてください」

 そう声をかけると、彼女は真顔で様子を伺うようにこちらを見上げた。加虐を期待されていると感じたのはこちらの思い上がりだったのではないか思えるほど、その表情には心情的な前向きさが見受けられなかった。

 ハクレナという女性はいつもそうだった。俺は今までそんな相手に暴力を振るっては、「平気。嬉しい」という言葉をそのまま信じてきたのだ。……だけどそれはやっぱりおかしなことだった。行われてきたことの異常性に今さらながら正しく気がつけたなら、以前と全く同じ自分にはもう戻れない。

 俺は、古い疑問へと立ち返る。

「一つ気になることがあるんですけど、いいですか」

「なに……?」

「初めてオフで会おうって話が持ち上がった時に、そっちから自撮りを送ってくれましたよね。俺、あれがすごく印象に残ってて」

「うん」

「……ハクレナさんは、今ここで、あの写真と同じように笑えますか?」

 問うと、まるで生まれつきの身体的特徴に苦言を呈されたかのように、彼女の顔には明らかにこれまでとは違う痛々しい心情が浮かび上がった。

 ハクレナが最初に送ってくれた写真……。そこには、今の無気力な彼女とは趣の違う、活発そうで自信に満ちた陽キャの姿が映っていた。俺はずっとそれを、自分をよく見せるために努めて映りを良くした成果なのだと思っていた。だから駅のベンチでぼーっと魂の抜けたような顔をしている彼女本人を見た時にも、容姿自体は変わらないしまぁそんなものかと思ったのだ。

 けれどよく考えてみれば、そもそも彼女は演技が下手だと自称している。言うほど明確に下手だとは俺は思わないけれど、しかし一方で、確かに下手なのだろうと納得できる部分も大いにある。それは彼女が作り笑いや愛想笑いをしないことだ。写真映りを良くしようと努めて明るい表情を作るような人物が、いざ会えば愛想笑いの一つもしないだなんて……まぁそれだけならそういうこともあるのだろうと思えないこともないけれど。

 しかし、やはりこうも考えられる。彼女は演技が下手だから、愛想笑いを「しない」のではなく「できない」のではないか。だとすればあの写真は何なのか……?

 ……その答えを、本人の口から聞く時がやってきたのだ。

「…………青ウニくんは、無愛想で笑わない女が嫌い?」

「いいえ」

「じゃあなんでそんなこと聞くの? 写真の中の私の方が好きだった?」

「いいえ。今ならはっきり言えますけど、俺は間違いなく、今のハクレナさんの方が好きです」

「……じゃあなんで」

「確認したかったんです」

「なにを」

「ハクレナさんはやっぱり、……昔に比べて笑えなくなっているのかなと」

 その問いに対する答えは、もはや言葉で聞くまでもなかった。

 あの自撮り写真は、会おうという話が持ち上がった時に急遽撮られた物ではない。上手く作り笑いを浮かべることすらできないハクレナに、あんな写真を撮ることはできない。……あれは老いることのない体を持ったサキュバスが「少なくとも、俺が思っていたよりずっと昔」に撮った物なのだ。あそこに写っていたのは「まだ元気だった頃のハクレナ」だったのだ。そしてそれがポンと出されたということは、それだけ入念にその写真が保管されていたということになる。なぜ彼女は昔の自撮り写真が今も大切に保管しているのか? その答えはきっとカラオケで垣間見えていた。

 ニコニコしながらハキハキ喋る女性店員が、パッと見の性格以外の面でハクレナによく似ていた。彼女はそれを見て俺に聞いたのだ、ああいうタイプの方が好みかと。なぜそんなことを聞くのだろうとあの時は戸惑ったけれど、今なら彼女の考えていたことにも想像がつく。

 あの店員は「容姿だけ似ていた」のではなく、「昔のハクレナに似ていた」のではないか。昔の写真を大事に保管して、ここ一番の場面で男に送り、彷彿とさせる他人と比べてどちらが好みかと聞いてくる。……そんなことをする人物の思考回路として想像できるものは一つしかない。

 ハクレナは、昔の自分の方が好ましかったと思っているんじゃないか。無気力になり笑えなくなった現在よりも、写真の中の自分の方が魅力的だったと思っているんじゃないか。

 それをここまでハッキリと確かめてしまったからには、俺は結論を単刀直入に言うしかなくなる。

「ハクレナさん、隠そうと思っても隠しきれる気がしないので、この際はっきり言います。……俺はあなたが精神を病んでいるんじゃないかと思ってるんです。気持ちよくなれるわけでもないのに、いくらひどいことをしても平気だと言うのは、そのせいなんじゃないかと」

 そこまで不躾に言葉にしてもなお、ハクレナは大して表情を変えなかった。

「なに言ってるの。私はマゾだからそういうことされるのが好き。今さっき、青ウニくんがそれを言い当てたでしょ」

「だからそのマゾ自体が精神の病みから来ているんじゃないかと言ってるんです。その性癖は生まれつきだったんですか? あの写真を撮った頃に同じことをされても、同じ気持ちで受け入れられたんですか?」

「受け入れたよ。生まれつきだから」

「本当に……?」

「うん。何を賭けて誓ってもいい」

「……昔から気遣いが面倒だから、耐えているだけなのが楽だったんですか?」

「うん」

「昔に痛めつけられた時も今みたいに平気な顔をしてたんですか」

「いや、それはどうだろう。昔の私はもっと上手く媚びてたと思う。……演技が下手になったのはそうだよ」

「俺は今のハクレナさんのリアクションが一番好きですよ。……でも不安なんですよ」

「なにが?」

「俺は、自暴自棄になっている女性の弱みにつけこんで、本当は優しくしなければならない相手を余計に傷つけてるんじゃないかって」

「それはないよ」

「なんで無いって言いきれるんですか」

「昔からマゾだから、私は」

「俺はどうやってそれを信じればいいんです……?」

「……今までのことだけじゃ信じられないってこと?」

「はっきり言ってそうです」

「そっか。……青ウニくん、結構ひどいこと言うね」

「自覚してます」

 そう、俺の言っていることはあまりにもひどい。彼女が自分から俺に会いたいと言い出そうと、自分の意思で集合場所に現れたり家の鍵を開けたりしようと、どんなに過激なプレイのあとでも平気な顔をしてみせようと、緩和できるはずの痛みをあえてそのまま受け止めてみせようと、俺はそれらをたったの一言で一蹴すると言っているのだ。自暴自棄なんじゃないですか……と、彼女が何をしようとその一言で片付けてしまえる。言われた側からすれば、自身の行動に宿る意思の全てを否定された気分になるだろう。

 だけどハクレナだって同じくらいひどいことを俺にしたのだ。彼女の言葉を信用できなくなったのは、彼女が俺に何度も嘘をついていたからだ。次の瞬間にも「本当はつらい」と言いかねないという負の説得力をこれまでに培ってきてしまったせいだ。

 俺がどんな選択をしようと、俺の性欲は結局のところ濁るだろう。ハクレナは壊れかけているのではないかと常に疑いながらするセックスは、どうしても以前の俺と同じ純粋さでは行われないだろう。ハクレナから見た俺はすでに「さほどの価値がない男」になってしまったに違いない。しかしだからこそ、最後に全てを正直に話した方がいいと思い、そうした。

 目の前にいるハクレナは諦めたような表情を浮かべて、俺のことを見るでもなく見ている。彼女のいつも通りの表情だ。きっと彼女はこれまでに色々なことを諦めてきたのだろう。俺という人間もその一員になってしまったのだ。……そう思えてしまったからには鏡のように、俺もきっと似たような表情をしていたのだと思う。

 ハクレナは何も期待していないといった素振りで、覇気の欠片もなく言った。

「あぁ、でも、バレてたなら仕方ないよね。そう、私は、たぶん病んでる。……なんかね、上手く言えないけど、疲れたの、いろいろなことに。飽きちゃったのかなぁ……」

「飽きる……」

「何百年も生きてて、最後の最後なのにね。なんかこう、最近になって急に……。……なんだろうね?」

 なに、と言われても俺は答えを持ち合わせていない。百年生きられるかどうかも分からない人間の体と魂では、彼女に言えることなんてあるはずもない。

 問いかけた本人としても答えは期待していなかったのだろう。わずかに降りた沈黙に、自嘲的で乾いた笑いが珍しくも発せられる。

 ……そしてそのままその笑みは、彼女の顔に貼り付いたきり離れなかった。

 きっと本人も知らなかったことだろう。俺はその時初めて、まだ彼女は、男に媚びた笑みを浮かべられるのだということを知った。

「青ウニくんは、エッチだけが私の趣味だって言い当てたんだから、責任があるんじゃない?」

「責任?」

「こんな娯楽がない部屋から、私の人生から、君は最後の楽しみさえ奪おうっていうの? そんなことしないよね? 青ウニくんは、本当は優しい子なんだから」

「なんの話です……?」

「…………お願いだから、本当に、私のこと見捨てないでよ。言ってくれたらなんでもする、絶対にどんなことでも従うから、ね? 少ししかないけどお金も払えるし、平日だって夜中ならいくらでも呼び出してくれていいから、だから……」

「……ハクレナさん」

 縋るように俺の手を握って、彼女はへらへらと笑いながら一筋の涙を流した。……次の瞬間にも壊れかねないという予感が、こんな形で現実になるとはさすがに想像できていなかった。

 彼女が本当に虐待じみた性行為を望んでいるのか、それについてはやはり分からない。他の全てと同じように、明日にでも彼女は最後の砦である性にすら興味を失って、どうしてあんなつらいだけのことに縋っていたのだろうと言い出すかもしれない。……けれどはっきりしているのは、だとしてもそれを今取り上げるべきではないということだ。明日がどうであれ、一秒後がどうであれ、今この瞬間の彼女にとっては、それが確かに拠り所になっているようだから。

 だけど、それを踏まえた上でも聞いておかなければならないことがある。

「ハクレナさん。嬉しいですけど、でもどうしてそこまで俺に執着するんです?」

「え……?」

「どうして他の男を探そうとするんじゃなくて、俺にそこまで言ってくれるんですか」

「……それは」

 一瞬答えかけた彼女が、寸前で思いとどまったかのように口をつぐむ。それから代わりの答えを口にしようとして、また何かを思いとどまり黙ってしまう。

 それからというもの、数秒間という長い時の中でずっと、彼女はもごもごと躊躇を繰り返していた。俺はそこにデジャブを感じる。そしてそのデジャブの正体が、玄関で年齢について話していた時の物であることをも思い出した。

 こちらがすでにそうしてしまった罪悪感もあって、言う。

「正直に言っていいですよ」

「……言ったら今度こそ愛想尽かされると思う」

「誓ってそれはないので安心してください」

「嘘だ。だったらなんでこんな話になってるの」

「それはそうなんですけど、縋りつかれて気が変わりました。なので絶対に大丈夫です。俺は来週からもここへ来て同じようなことをします」

「本当に……?」

「本当に。だから正直に言ってくださいよ、忖度とか好きじゃないでしょう?」

「……じゃあ言うけど」

 ぼそりと、あわよくば聞き逃してくれと言わんばかりの小声で、

「今から他の男を探すのって、面倒くさいから……」

 と、彼女は確かにそう言った。

 もしその言葉が本心なのであれば、彼女の行動基準は滅茶苦茶だ。面倒という論自体は何もおかしくないけれど、それを動機に俺のような男に捨てないでと縋りつくのであれば、その判断はもはや滅茶苦茶だとしか言いようがない。

 けれど、だからこそ真に迫るものがあった。その歪な行動原理に、彼女の心の核心が垣間見える。

 個人差こそあれ、サキュバスは元々俺程度の人間に傷つけられる存在ではない。現にコルカはマゾというわけでもないのにあの余裕と寛容を備えていた。そして、だからこそハクレナの異常性は、俺を拒絶しないことではなく、「面倒」を本気で避けたがっているように見えることにある。サキュバスだから虐待じみた性交が平気だというなら、なぜ最もサキュバスらしい「男漁り」が平気にならないのか。ハクレナはそこが歪なのだ。人間としてまともでもなければ、サキュバスとしてまともでもない。それが彼女の中で何かが壊れかけているサインなのだと言われれば、いかにも納得できてしまうほどに。

 ……しかしそこまで理解できたところで、俺は彼女に対する接し方をどうすればいいのだろう? 考えても正解が分からずに困り果てて、やがてその末に、そもそも正解を選ぼうなんて魂胆は「サービスのS」に該当する物だと気がつき、俺は一切の思考を捨てた。

 それこそ「面倒」なことは全て忘れたフリをして、おもむろにハクレナの肩へ手を伸ばし、その軽い体を布団の上に押し倒す。性欲も湧かないまま、あることを確かめるために。

 唐突なことにさすがの彼女もいくらか驚いた顔をしていた。……俺はそれを見下ろして安堵する。ほらやっぱり、唐突にこんなことをしてみたって、彼女は多少驚きこそしても、嫌悪や怒りや恐怖とはまったく無縁の反応をするものなんだ。彼女の心の裏に万が一どんな事情が控えていたのだとしても、そんなこととは一切関係なくただ実際に起こることとして、少なくとも今のところは、俺はハクレナに対して何をしても許されてしまうんだ……と、改めて確信を得る。

 すると案の定、その確信は瞬く間に醜い性的興奮へと変容していった。俺自身にもコントロールしきれないそれの沸き立つ様が、サキュバスであるハクレナにもしっかりと伝わったはずだ。

「……試してみたいことがあるんですけど」

「なに?」

「今まで色々した中で、俺はまだ、女性の顔を殴ったことがないんです」

 俺が拳を握りながらそう言うと、彼女はそれに対応して、二本の指を立てて見せる。

「いいよ。好きなだけして」

 まったくの無表情で彼女はそう言った。

 求められることへの喜びも、受け入れてみせられることへの自信も、痛みへの恐怖も暴力への軽蔑も、他の男がしたことをなぞる意図への嘲りも、とにかくありとあらゆる感情が、見下ろした彼女の顔からは見受けられない。けれども例えば「人形」と呼ぶにはあまりにも生々しすぎる生命力だけが、ただ彼女の物としてそこにあった。

 俺はその日初めて体験した骨と骨がぶつかる感触を、きっと一生忘れないのだと思う。……遠慮がちな一発目を受けたハクレナが、初対面の頃を彷彿とさせるような不可解そうな顔をしたことも、その記憶にはきっと永遠に付きまとうのだろう。

 俺はその一度きりしか彼女の顔を殴らなかった。その後は怖気付いたことを誤魔化すために首を絞めたり、適当に慣れた暴力を振るいながら無抵抗な彼女を犯した。

 好意によって受け入れているというにはあまりにも抜け殻じみて見える従順さがまた、俺の醜悪な趣味にどうしようもなく合う。掲げられたピースサインの横で、わずかに苦痛が顔に出てしまうところなんかも相変わらず最高だった。

 射精が終わったあと、用済みになったサインを閉じたハクレナが、何事もなかったかのように語りかけてくる。

「元カノの顔は殴らなかったんだ……?」

「ですね」

「なんで?」

「……怪我させそうで怖かったんです。言ったでしょ、骨折とかそういうのは苦手だって。でもさっきはちょっと興味が出たから」

「なるほど。で、どうだった?」

「案の定、趣味に合いませんでしたね」

「だよね」

 それは殴られた側にも伝わっていたのだろう。けれど、なら初めからやるなとか、そういったことを彼女は絶対に言わないし態度にも出さない。たぶん思ってもいない。

 一方で、それは彼女の無関心を意味するわけではないらしく、質問は続く。

「やってみたいことは全部元カノで試したんだと思ってた」

「そうでもないですよ」

「なんで試さなかったの?」

「趣味に合うかどうか自分でも分からなかったっていうのと、シンプルに嫌われそうなことは避けてたんです。……じゃないとリスクリターンが見合わないでしょう?」

「リスクって、嫌われるとか?」

「そう」

「じゃあちょうどいいね」

「なにがです?」

「私で試したらいいよ、全部」

「……まぁそれも考えておきます」

 ハクレナの場合は嫌われることよりも、不安定な心がいよいよ壊れてしまうことの方にリスクがある。単純な暴力が今さら決定打になってしまうことは想像しづらいけれど、「SMに理解のある恋人のサキュバスにすら嫌われかねないプレイ」とは、それよりももっと多様な物だ。

 結局、その日はそれ以上踏み込んだプレイを試みることはなかった。いつも通り断続的な乱暴と射精を繰り返しているうちに、いつの間にか夜になっていた。

 結果だけを見て言うなら、俺は何も行動を変えなかったことになる。ハクレナのことを以前よりも深く知って、彼女の精神が不安定な状態にあり、人生の残り時間も少ないことを把握しておきながら、その上で、何も知らなかった頃と同様の暴力的な劣情をそのままぶつけることを選んだ。それが英断であるのかその真逆であるのかは、下手すれば一生かかっても分からないのかもしれない。何せハクレナはきっと死によって、答え合わせも何もなくある日忽然と姿を消すのだから。

 日が暮れて解散の段取りとなった時、今日もハクレナは玄関まで見送りにきてくれた。前回は会話に夢中で気がつかなかったけれど、こうしたちょっとした愛想の良さも、考えてみれば「気遣いが面倒」という本人の談には似合わない。……あるいはこういったことは本当に気遣いではなく、彼女の純粋な性格によることなのだろうか?

「来週も来れる……?」

 目も合わせないような表面的な無愛想さと共に投げかけられたその言葉に、俺はつい妄想じみたことを考えてしまう。たとえば「泊まってもいい」という話は、もしかして「泊まってほしい」という意味だったのかもしれない……だとか。本当は彼女は一人になりたくないのではないか……だとか。ハクレナの精神性を知った今となっては、それらがあながち妄想とも言えない気までしてくる。

 けれどもまぁ、泊まるなら泊まるでそれなりの準備が必要になる上に、性欲も燃え尽きたままそんなことを提案すれば、彼女はそれを押しつけがましいサービスのSとして認識するだろう。だからひとまず今日のところは、妄想は妄想として胸に留めておく。

「もちろん来ますよ」

「待ってるね」

「はい。じゃあまた」

「うん。また」

 軽く手を振りあって玄関を出た。扉が閉まった後にほんの少しだけその場で待ってみたけれど、鍵のかかる音はなかなか聞こえてこなかった。

 ……そして今現在、帰りの電車に揺られながら不安になっているというわけだ。自分が下した判断の諸々は本当にこれで良かったのかと。できればハクレナにチャットで話しかけて、いつも通りの何気ない返事がもらえることで、紆余曲折はあったが以前と遜色ない日常に戻って来られたのだ……ということを実感したかった。なのにその気待ちと相反するかのように、どうしても彼女に送るべき文章が思いつかないでいる。一文字も書かないまま道中の駅にいくつか停車して、人がまばらに乗り降りしていくのを眺めた。

 ……俺はチャットを諦めて、かわりに小説投稿サイトのブックマークをタップする。話しかけるべき内容が思いつかないならいっそ、見せると約束した小説をいち早く書き上げてしまおうと考えたのだ。

 けれど、それは決して会話の糸口を求めてのことではない。というのも次の小説は、仮に無事に書き上げられたとして、雑談の種にできるような内容ではないから。なのに俺はできるだけ早くそれを完成させてハクレナに見せなければならない。今日一日のやり取りを振り返っている間に、殊更にその思いが強まってきた。

 SMに理解のあるハクレナにすら嫌われかねないプレイの一手目が「その小説を読ませること」になる。だから出来れば来週彼女に会う前にそれを完成させて、悪趣味なプレイの試金石にしたい。オンライン上のやり取りであれば、万が一の時にもまだ傷は浅くて済むだろうから。

 まるで不安が原動力になっているかのように、執筆は非常に調子よく進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 金曜日の深夜になって、小説は無事に完成した。

 時間帯的にダメ元でハクレナに連絡を送ってみたところ、案外すぐに返事が来る。それはそれで彼女は普段から眠れていないのではないかと不安になりもした。ダブルスタンダードになるから決して口には出さないけれど。

「小説が完成したんですけど、やっぱり改めて見ても悪趣味すぎる気がするんです」

「え、読ませてください! 大歓迎だって言ったじゃないですか!」

「そうなんですけど、なんというか、ハクレナさんをピンポイントに傷つける内容になってしまったというか……」

「私をモデルにしてくれたからですかね……? とにかく気になるので読ませてください」

「悪意の塊みたいな内容でもですか……?」

「もちろんです。というかむしろ、今までファンとして追いかけてきた作者さんから名指しで責めてもらえるなら、それはご褒美じゃないですか」

「そういうことなら、いつも通り投稿しますけど。でも、読んでる途中でちょっとでもやばいなと思ったら閉じてくださいね」

「わかりました」

 そのようなやり取りを経て、その完成品は誰でも自由に読める形で贔屓のサイトに放たれた。一応URLもハクレナに直接送りつける。

 そうして公開してしまった後で、何のために予防線なんか張ったのだろう……と俺は自問自答した。ハクレナがああいう返事をすることは想像できていた。というかそもそも、今回の新作は彼女へ見せるために書いた物である。これが次なるプレイの試金石になるという考えは先週からずっと変わっていない。ならばなぜ俺は、深夜にチャットを送ってまで予防線を張ったのか?

 ……その答えは、何一つとして欲求を我慢していない自分が、身勝手にも「ハクレナに嫌われたくない」と思っているからなのだろう。だから「拒絶されるならすぐに行動を改めます」ということを、逆に言えば「拒絶されるまでは何を改める気もありません」ということを念入りに主張しておきたかった。

 そんな俺が今回書いた小説の内容はこうだ。

 

 ヒロインのイチカは尽くすタイプでこそあるけれどマゾではなかった。人間の学生である彼女は、大学で知り合ったカイトという男に好意を抱くようになり付き合う運びとなるが、付き合ってみてから判明したこととして、カイトはサディストだった。

 好きな相手が喜んでくれるなら……とイチカはサド趣味にも懸命に理解を示そうとする。男の方も最初は遠慮して軽いプレイに留めていたけれど、意欲的に受け入れてくれようとするイチカの好意を受けて、彼は次第に本心を打ち明け始める。……もとい、サディストとしての本性をあらわにして、加虐的な性行為をエスカレートさせていく。

 痛い、苦しい、つらい、悲しい。乱暴なプレイの中でイチカに降りかかる数々の苦痛は、決して彼女に快楽をもたらさず、倒錯を感じさせることさえなかった。痛いものはただ痛く、つらいものはただつらい……。しかしそんな彼女に与えられる唯一にして最大の報酬には、カイトの心底幸せそうな様子や、苦痛に耐えたイチカに対する彼からの労いの言葉があった。頭をなでられ、抱きしめられ、今まで生きてきて一番幸せだありがとうと言われれば、イチカは頑張って耐えた甲斐があったと何度でも思えてしまうものだった。

 けれど、エスカレートしていく行為には底が見えない。具体的には俺がハクレナにしたことと全く同じプレイが作中でも繰り広げられる。苦痛に歪む顔を見ると興奮すると言われて、ゲロを吐きアナルまで捧げ動画も撮られて、それでもなお底が見えたとは思えない加虐の数々に、イチカは日に日に疲弊していく。どれだけ痛めつけられてもカイトのことは愛おしくてたまらないのに、その愛おしさの影から、自分の心の軋む音が聞こえてくる。きっとこのまま永遠に彼の趣味に付き合うことは出来ない……と彼女は自身の限界を悟るけれど、それでも大好きな恋人と距離を置くという判断に至れはしなかった。

 そしてそのうち彼女は、限界ギリギリで壊れかけている自分の反応こそが、恋人の性癖を満足させる最適の物であることに気がついていく。ぎこちなくなった笑顔が、勝手に流れ落ちる涙が、ベッドの上の彼をとことん満足させられるのだと気づいたイチカは、ついに余計な思考を止める。ただ喜んでくれるカイトを見て、自身もただ満足することだけを考えるようになる。するとその中で、彼から心配されても「大丈夫。全然平気」と息をするみたいに答えられるようになった。SMプレイが本当は好きなんだと言ってのけられるようにもなった。つまりイチカは、嘘をつくことが上手くなってしまった。

 けれど、そんなイチカはある日、カイトが別の女と手を繋いで歩いているところを目撃してしまう。あまりのショックに立ち尽くした彼女は現場を押さえることができなかった。立ち尽くした彼女は二人の姿を見失った末に、後日改めてカイトに会ったら、あの女は誰だったのか、どういう関係なのか、問い詰めなければならないと思った。

 しかしいざ彼に面と向かってみると、様々な思いがイチカの頭の中をめぐる。今まで散々自己犠牲をして来たのにそれを仇で返されたこと、あの女もまた自分と同じ自己犠牲をしているのかということ、浮気を問い詰めて自分は何がしたいのか、彼に謝ってほしいのか、別れたいのか、自分は今怒っているのか悲しんでいるのか、カイトは何を考えていて、どういう説明をされたとすれば自分は彼を許すことができるというのか。……あらゆる思考がうずまく濁流のように彼女の脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回して、壊れかけていた心の最後の砦ごと破壊していった。イチカにはもう、何に対して何を思えばいいのかすら分からなかった。

 ただ一つだけ、そんな彼女にもハッキリと手に取るように理解できることがあった。自身の感情の輪郭も見失いつつある中で、彼女はその明確な理解を、己の選択として掬い取ることに決める。

「カイトにはもしかして、他に好きな子がいるの?」

「なんのこと?」

「この前、女の子と手を繋いで歩いてるところを見たの」

「……そうか」

 弁明をする様子もなく黙りこくった彼に向かって、イチカは言う。

「ねぇカイトお願い、私を見捨てないで。その子の方が好きならそれでもいいから、私はセフレでもなんでも、二番目でも……ううん何番目の女でもいいから、だから、今さら私のこと見捨てないでよ……」

 すらすらと出てくるその言葉が本心なのかどうかは、もはや本人にも分からない。けれどもそんなこととは無関係に、イチカの視界には、もうすっかり見慣れた光景が広がった。痛みに耐えてでも、尊厳を踏みにじられてでも、何度でも見たいと思えたその光景がまた手に入ったのだ。

「イチカならそう言ってくれると思ってた」

 カイトはそう言って笑った。イチカも、いつものようにぎこちない笑顔を浮かべて、涙を流した。

 

 ……という話が、ハクレナの目に入ったことになる。それもイチカのモデルが彼女であることを半ば明言してしまった上で。

 どこまで読んだのか分からないハクレナから「今読んでます。感想は明日送りますね」とチャットが入った。それを見た俺は就寝の意思を固めて部屋の明かりを消す。こんな内容の小説を書いて公開して、URLを直接本人に送りつけた後でも、意外なほどぐっすりと眠ることができるものだった。

 ……翌朝十時頃に目が覚めると、早朝と呼んで差し支えない時間帯にすでにハクレナから感想が送られてきていた。

「読み終わりました。すごくエッチでしたね! イチカの健気さを綺麗事だと嘲笑うみたいに次々と過激なプレイを要求されるところとか、最後には彼女はどうなってしまうんだろう?って不安とわくわくを刺激されて特に好きなんですけど、これって私がもしマゾじゃなかったらっていう発想から来てるものですよね……? 青ウニさん、エッチしてる時にもそういうこと考えてたんだって思うと本当にすごいです。それにオチもすごく私好みで、もしかして狙ってくれたんですかね……?」

 ……と、感想はそこで終わっていた。いや、終わったというよりも途切れたのかもしれない。最後の問いに対して俺が答えるまで、おそらく続きは彼女の心の中にだけあるのだろう。

 寝起きの頭をどうにか徐々に稼働させつつ返信を考える。と言っても俺はこういう時、返信をあまり推敲しない。

「オチはハクレナさんをモデルにした尊厳破壊のシチュエーションとしてライン超えかと思ったのですが、気に入ってもらえたならよかったです。でも特に何かを狙ったつもりはなかったんですけど、どのあたりを狙われたと感じましたか?」

 と送ると、爆速で既読がついた。返信もすぐに来る。

「こういう可哀想さを「エッチな物」として認識してるところが、一番素敵だと思ったんです」

「なるほど」

 冷静を装って四文字の返事を送りながら、俺は一人で唸った。

 ハクレナが指摘した点は、まさに本作の最も邪悪な点だ。イチカの物語をエロ作品として投稿したことにこそ一番の度し難さがある。……そしてその度し難さが何を意味しているのか、この様子だとハクレナはすでに気づいていると考えるべきだろう。

 ひたすら嬲られて報われもせず、最後には自分の尊厳を投げ売りする形で壊れてしまったイチカが「エロいもの」なら、精神的に病んでいてNG無しを豪語するハクレナのことだって似たような目で見ているということになる。彼女が精神を病み、自分自身を粗末に扱ったとしても、それはエロいことなのだと。……そんな視点の表明は、レイプの被害者に「あなたがレイプされたという事実に興奮しています」と伝えることとほとんど同じなのではないかと思う。だからそれは一線を超えた尊厳破壊になってしまうのだ。

 けれどハクレナはおそらくそれに気づいた上で、それこそが自分好みなのだと発言している。彼女がイチカの壊れ方をフィクション上の他人事として割り切って見ているとは思えなかった。これがエッチなら自分だってエッチだろうと、そう言っている気がしてならなかった。自分だって「可哀想さ」を持っているのだと、彼女はとっくに自覚しているんじゃないか。

 そのことをもっとはっきりとした言葉で確かめることは今すぐにでも出来る。けれどそれはどうしても気が進まなかった。先週、元カノにも試したことがないプレイを自分にならしてもいいとハクレナから言われた時、具体的なプレイ内容の相談をせずにこんな小説を公開することへと逃げたのはそういう明言を避けたかったからだ。明言してしまうと、二度と取り戻せない何かを失うような気がしたからだ。

 だけど、では俺は、この小説を見せていったいどうなることを期待していたのだろう? 意図が彼女へ完璧に伝わってしまったことを観測して初めて、自分がそのあたりについて何も考えていなかったことに気づいた。ただ回り道をしただけで目的地は変わっていなかったということに、俺は今の今までまんまと自分自身を騙し続けて気づかずにいたのだ。

 一方でハクレナの視点には、今回の小説から舌なめずりの音でも聞こえていたのかもしれない。

「ところで今日は来てくれますか……?」

 そう問いかけられたことで、俺はのそのそと外出の支度を始めたのだった。

 支度の最中から電車に乗り込むまでの間、俺は思いつく限りの「まだ試してないプレイ」をハクレナに文章で送った。彼女はその全てをウキウキと前向きに肯定してくれた。しかしそんなやり取りに精を出していたせいか、電車に乗った頃にはこちらの遅刻が確定していて、以降は遅れることについての謝罪の旨を送ることになった。彼女はそれにも「焦らなくて大丈夫ですからね」と寛大な言葉をくれる。それに対して痛む自分の良心が、確かに痛んでいるのにひどく嘘くさかった。

 アパートの階段を上っていつもの部屋のドアノブを握る。話をつけていた通り、鍵はすでに開かれていた。俺は深呼吸を一つしてからその扉を薄く開いて玄関に入る。

 そこでは、裸のハクレナが土下座をしながら俺のことを待っていた。

「遠いところを来ていただいてありがとうございます。どうか今日も満足いくまで私の体を使ってください」

 ……俺は段取り通り、床にこすりつけられるように下がったその頭を、靴を履いたままの足で踏みつけた。

「……今どんな気持ち?」

「踏んでいただけて嬉しいです」

「あんまりそうは見えないけど?」

「ごめんなさい……」

「いいよ。じゃあ先にお風呂から行こうか」

「はい……」

 足を退けられて立ち上がろうとするハクレナの髪を掴んで浴室まで連れていく。もちろんただシャワーを浴びるために行くわけではない。俺に連れられてここへ来るということは、嘔吐を伴うプレイが始まることを意味している。

 こちらだけ服を着たまま壁際にハクレナを立たせて、まずは腹パンから始めた。予告もなくいきなり殴ると、それ自体が段取り通りではあったものの多少の不意打ちになったようで、「うっ」とうめいた彼女が膝を震わせては背中を丸めこむ。

「痛い?」

「う……、き、気持ちいいです……」

「そうは見えないんだけど」

「うぅ……」

 どうにか背筋を伸ばした彼女は涙目になったまま、いつも通り両手でピースサインを作った。

 その健気さを嘲笑うかのように、俺はまた無防備な腹に拳をめり込ませる。

「うっぐ……」

「気持ちいい?」

「は、はい……」

「だから、全然そんな風に見えないんだけど?」

「ご、ごめんなさい」

「気持ちいいなら笑えよ。ほら」

「あっ」

 髪を引いて強制的に顔を上げさせる。すると目が合ったハクレナが、言われた通りにぎこちない笑みを浮かべた。

 ……いや、違う。もはやそれは下手くそな作り笑いですらない。それはただ少し口元を動かしただけの、表情を変えようとしている意思だけは伝わってくる表情未満の何かだった。

「は? なにその顔」

 頬に平手をくらわせる。

 長い人生に疲れた彼女が、とっくに自らの意思では上手く笑えなくなっていることを俺は知っている。だからこそ、この一線を超えた「尊厳に対する責め」を発想できてしまった。

 打たれた頬を押さえることもなく、ただ二つのピースサインを掲げ続けるハクレナと再び視線が合う前に、今度は気の逸れた腹へと拳を突き込む。内臓に響くような手応えも冷めやらぬうちに、うずくまろうとする彼女の髪を掴んでまた顔を上げさせる。

「ほら、笑って」

「あ……ぅ、え、えへへ……」

「下手クソが!」

 もう一度腹を殴ると、彼女はついに膝を折って冷たいタイルの上にうずくまった。体を支えるように地に着いた手が、同意のピースサインだけは必死に保っている。

 ……穿き物の中で勃起した物が、うなだれた金髪のすぐ傍に膨らみを作りながらそそり立っている。今後彼女のことをどんなに心配しても全て嘘にしか聞こえなくなるような興奮がそこに隠されている。今後どんなに良心や罪悪感を語っても戯言にしか聞こえなくなるような興奮が静かに昂っている。

 俺はうずくまるハクレナの頭をそのまま足蹴にした。何度も何度も、恨みでもあるかのように。

「なんで作り笑いの一つも出来ないんだよこの愚図! いつもいつも愛想悪くて、見ててムカつくんだよ、クソ女!」

「ごめんなさっ、ご、ごめんなさいっ……」

「男に媚びるしか能がない淫魔に生まれたくせに、それすら出来ないんだったらお前は……………………体も貧相だし、本当に何ができるんだよ! なぁ!?」

「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!」

 思いつく限りの人格否定の言葉を、彼女の全てを否定するような言葉を並べながら、リズムを取るみたいに何度も頭を蹴りつける。相手が必死に防御の姿勢を取り始めてもその上から蹴って踏みつけて罵り続ける。……ただ一つを除いて、全ては今朝二人で話し合って決めた段取りの通りだった。

 一つだけ想定から外れたのは、本当は俺が「生きてる価値ないだろ、死ねよ」と言うはずだったこと。言い訳がましいことだけれど、罵倒の台詞は全てハクレナ自身が考えて提案した物を採用している。とはいえそのどれもが俺の語彙を上回っているわけではなく、ただ俺の悪趣味さを、俺が好んで見る物と同じような作品にばかり触れてきたハクレナが、形ばかりの提案によって肩代わりしてくれているだけだ。……その上で俺はどうしても、死ねというワンフレーズだけは口にすることが出来なかった。

 相手が不死身だと分かってはいても、その金髪めがけて蹴りを入れるたびに、ガクンと首にかかる負担がこちらにまで感触として伝わってくる。うっかり当たりどころが悪くなれば取り返しのつかないことになるんじゃないかという予感が、加害側にさえ本能的な恐怖を想起させる。

 ……なのに、俺は勃起していた。最後に残った最低限の良心は本当に自分の中に実在する物なのか、感じている不安は気のせいではないのか……。何に対しても自信が持てなくなる。ハクレナを信頼する、という名目で暴力を振るって罵倒の言葉を吐きつけるのは、全て自分の支配欲を満たすための、それ以外の全てを些事だと言い捨てるための言い訳であるような気がしてくる。

 おぞましくも不思議なことに、不安と興奮がない混ぜになった中で無抵抗に許しを乞う相手を蹂躙していると、良心の呵責はむしろ次第に薄れていってしまうものだった。一つ一線を超えてしまったなら二つも三つも変わらないという思考回路がみるみるうちに自分の頭に形作られていくことを感じる。

 これが俺の、興味はあるけれど絶対に誰にも試すことはないだろうと思っていたプレイの、最初の一部始終だった。

「ごめんなさい……。見捨てないで……ごめんなさい……」

 ひとしきりやり終えた時、涙声でうわ言のようにお決まりの台詞を繰り返すハクレナを見下ろして、俺はあることに気づき一瞬だけ肝を冷やした。

 いつの間にか、ピースサインが見当たらなくなっていた。その上自分がいつからそれを見失っていたのか、記憶を振り返ってもまるで思い出せなかった。

 けれどすぐに、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないという恐れはかき消されることになる。うずくまった彼女はいつの間にか防御姿勢に徹することをやめていて、その手を自分の下半身へと回していたからだ。

 ごめんなさい、ごめんなさい、役立たずでごめんなさい、生まれてきてごめんなさい……。そう繰り返しながら彼女はたしかに、ひとりでに自慰に耽っていた。

 彼女はこれをプレイとして楽しんでいる。そう確信できると同時に、脳裏には嫌な想像も過ぎる。もしかしてハクレナが性にしか興味を示さないのは、つらい気持ちを紛らわせる手段が彼女にとってそれしかなかったからなのではないか。「つらい」ということ自体を性的興奮に変換しなければ、心を保てなかったのではないか……?

 加虐が相手の想定を超えていなかったことに対する安堵と、彼女の心に向けた心配と、サディストとしての興奮が同時に混ざり合う。俺はズボンの内側で勃起したまま立ち尽くして、しばらく彼女の自慰を呆然と見下ろしていた。

 延々と見下ろされるだけの時間に向こうも違和感を覚えたのか、それとも単に物足りなくなったのか、ある時ハクレナが足元に這いずってきて、その舌をこちらの裸足の親指へと伸ばした。

「はぁっ……うぅ……、見捨てないでぇ……」

「……口で奉仕できる?」

「は、はいっ、できますっ、させてくださいっ……」

 下だけ脱いで、天を向くサディストの証を彼女に見せつける。体を持ち上げてそこに縋りついたハクレナの顔には泣き腫らした瞳と、苦痛に朦朧としたような表情が目立って、やはりとても楽しんでいるようには見えなかった。だけどどうだろう、それを心配してプレイを中断してしまっては、それこそ演出のための台詞ではなく本心の言葉として、上手く笑えない彼女に対して笑顔を強要してしまうことにはならないだろうか。

 俺は彼女の表情よりも、それ以外の全てを信じたい。それがただ自分に都合のいい願望なのだとしても、ハクレナに対してはそれ以外の接し方が分からないから。

「勝手に口はなしたらマジで絶交しますからね」

「は、はい……。がんばります……」

 その言葉通り、ハクレナは息継ぎも何もない無茶苦茶なイラマチオをいくら強いられても、口と鼻から同時にゲロを垂れ流してでも、絶対にちんぽから口を離しはしなかった。

 彼女が地獄の奉仕に耐えきったあと、真っ赤な顔をして必死に息をしている最中に、俺は彼女の頭をなでた。そこに至るまでに散々髪を引っ張られたり頭を押さえつけられたりしていた彼女は、俺が軽く頭に触れるだけでビクッと警戒した反応を見せる。

 ……けれど彼女はその時、こちらを見上げて確かに笑ったのだ。

「私、役に立てましたか……?」

「もちろん」

 こちらに向けられた暗い興奮混じりの微笑みはきっと演技じゃなかった。性以外に興味を持てないと自称する彼女の数少ない心底からの興奮が、確かにそこに宿っていた。

 汚れた体をシャワーで洗い流したあと、俺たちは布団の敷かれているリビングへ向かった。風呂の床に散らばった吐瀉物を流した時に「いいの……?」といった表情でこちらを見られた時にはそそられる物があったけれど、ともかく一度休憩にする。

 そろそろプレイの範囲外で会話をしておかなければ、道徳的な帰り道を見失いそうな気がしたのだ。

「きつかったですか?」

「え?」

「一応段取り通りでしたけど」

「あ、うん。興奮した」

 まだ完全には整いきらない呼吸の中で、彼女はつまらない映画を見た直後のようなスンとした顔をしてそう答えた。普通に聞けば下手くそなお世辞にしか聞こえないけれど、そうではないことを俺は悟っている。

 休憩モードに入ることを察した向こうが「お茶いる?」と聞いてくれたのでとりあえずもらっておく。テーブルもない部屋であまり大きなコップを使っても倒してしまいそうだからか、冷えた麦茶はいつもグラスの類ではなく、小さなティーカップに入れられてやってくる。

 俺はそれをすすりながら、プレイの最後に引っかかった点を尋ねた。

「ハクレナさんって、人の役に立ちたいとか思うタイプですか?」

「え、なんで?」

「イラマ終わった時そんな感じのこと言ってませんでしたっけ」

「あぁ、だってその方がエッチでしょ? ……私のことそんなタイプに見える?」

「失礼を承知で言えば見えないんですけどね」

「そう。見たままだよ」

 自虐的な物言いに反射で愛想笑いしながら、内心胸をなでおろす。よかった、人の役に立ったり認められたり求められたりすることを動機に、それ抜きではただ苦しいだけの行為に必死で耐えているみたいな話があったらどうしようかと思った。フィクションの鑑賞においては人の弱みにつけこむ展開にすら興奮してしまうのがサディストではあるけれども、知らぬ間に現実でそれをやってしまっていたらさすがに心が痛むところだった。

 段取りはハクレナの性的興奮のために、本人が同志たる俺と共に考えた物だ。それ以上でもそれ以下でもない。そう再確認し続けなければ、己の興奮の裏に張りつく罪悪感をやり過ごせなかった。

「ところで青ウニくん」

 そんな俺に、トイレの電気がつけっぱなしだったとか、そのくらいの比較的どうでもいいことを指摘するようなトーンでハクレナが言う。

「貧相な体って、段取りの中に入ってなかったよね」

「……えっ?」

「べつにいいけど」

「あ、いやあの、それは……」

 冷や汗が出た。つかぬ間の安堵が遥か彼方であるように感じた。

 生きてる価値がない、死ね。……という言葉をどうしても避けたくて、俺はあの場で一瞬だけアドリブをしてしまったのだ。ボコボコに蹴られながら必死に身を守って許しを乞っていたように見えたハクレナは、まずいことにそれをしっかりと聞き覚えていた。

 しかしどうだろう、いざ指摘されてみれば、段取り通りの死ねより、アドリブの悪口の方が深刻に相手を傷つけそうだと考えればその通りの気もしてくる。俺は他のどんな残酷なプレイよりもなおやってはいけないことをやってしまったのか……?

 言い訳を考えても、俺はハクレナの体型を大いに気に入っている……とか、ただのセクハラ発言しか思いつかず、結果として一番まずい形での沈黙がその場に降りてしまう。

 ハクレナは、こういう時にはやはりニコリともしないものだった。

「あ、責めてないから」

「え……?」

「アドリブで罵倒されるの興奮したし。それに、青ウニくんのいいところはそういうところでしょ」

「そういうところって……?」

「罵倒を否定のためじゃなく、興奮のためにするところ」

「……どういうことです?」

 自分の話をされているはずなのにまったくピンと来なかった。けれど幸いなことに、どうやら本当に不快に思われてはいなかったらしいことは伝わってきた。

 こちらを見もせずに、ハクレナは茶を飲みながら続ける。

「女の子を罵ると興奮するから、適当に目についた箇所を罵ってるだけでしょ、青ウニくんって。それ以上でも以下でもないんじゃない?」

「……あー、まぁたしかに」

「胸が大きくても小さくても、背が高くても低くても、性格がお喋りでも無口でも、罵りたくなったらとりあえず罵るんだよきっと」

「改めて言われると否めませんね」

「そこが好きなの」

「ならよかった」

 罵倒自体が目的であって、その内容に深い意味はない。彼女からの指摘は鋭かった。……が、はたして本当にそれで全ての罵倒を「適当に代入した言葉」だと概念的に捉えて受け流すことができるのだろうか。死ねという言葉を意図的に避けたということは、そこには概念的な上っ面だけではない何かがあったのではと思われたりはしないものなのか?

 ……けれど実際、「貧相な体」というのは完全に客観性を借りてきただけの罵倒だった。俺は女性の体についてさほどの好みがなく、ゆえにハクレナの体についても何一つ文句がない。そういう意味で彼女の指摘は完璧に当たっている。ならばそれでいいか、と今のところは思っておきたい。

 ティーカップを台所まで回収していったハクレナが、布団まで帰ってくるなり俺に抱きついてきた。露骨なアピールにカラオケでのことを思い出す。

「まだ回復しない?」

「今日はやけに積極的なんですね……?」

「うん。ここ何年かで一番楽しい」

「へぇ……?」

 そんなに舞い上がっている風には見えないけれど、それもまた、ただ見えないというだけのことなのか。

 一方で俺はまだあまり、一線を超えたことの興奮に頭ではピンと来ていない。プレイに興奮したこと自体は間違いないけれど、それが普段のシンプルな暴力に比べて濃いのかと言われるとはっきりしなかったりする。試してみて分かったことだけれど、自分が感じられる興奮の上限は、案外一線の内側にあったのかもしれない。

 けれどもまぁ、それこそ俺だって健気とは対極の性格をしているけれど、それでも得意分野で己を求められるのであれば、それに応じることはやぶさかでもない。

「このあともまた人格否定とかしますか?」

「して」

「じゃあどういう風にするか、また一緒に考えないとですね」

「ううん、全部アドリブでいい」

「え」

「何も問題ないって、さっきので分かったでしょ?」

「……まぁ、はい」

 ついアドリブで出てしまった罵倒にまでそこが好きと言ってもらえたのだから、確かに大抵のことは大丈夫なのだと分かった。サービスのSになり下がらずにいられるだけの「まだ試していない語彙」も、実のところそれなりに残ってはいる。

 ……それら残り物の罵倒台詞について考えていると、それはすなわち妄想となり、性的興奮の炎を囃し立てる薪として機能し始める。そのサディスティックな炎に焼かれることを望んでいる相手が目の前にいて、例によって例のごとく、俺がそれを楽しむことについて誰も水を差しはしないことまで分かりきっている。

 だからこそ、相手と共有することのない勝手気ままな段取りが、小説を考えるみたいに自分の頭の中で次々と組み上がっていった。

「じゃあハクレナさん、いつもみたいにピースしてください」

「うん?」

 不思議そうにしながらも、彼女は従順にダブルピースを作る。

「そのポーズを取らされた意味は分かります?」

「え、うん。たぶん」

「そうですか。じゃあ言いますけど、…………俺は嫌がってる相手じゃないと抜けないって言ったよね? そっちから求められると萎えるんだけど」

「……あ、えっ、ごめん」

「帰るわ」

「えっ? ……いや、えっ、ちょっ、うそっ! ごめんなさい!」

 俺が立ち上がると、ハクレナが慌てて肩に縋りついてくる。……その両手からはなんとあっけなくサインが失われていた。

 最悪だ……と一応自覚はする。俺はそのサインが失われている様を見て、間違いなく興奮していたから。

 けれどそれはそれとして、俺は彼女の手を握り、努めて優しく、かつ強制的に二本の指を再び立てさせる。すると向こうも少しだけハッとした顔をして、こちらの意図を掴んだようだった。

 両手でカタツムリの目のようなピースサインを保ったまま、彼女は間抜けな土下座を披露することで、素早くその場に這いつくばった。

「白けさせてしまって本当にごめんなさい。青ウニくんに見捨てられたら私は生きていけません。どんなことでもしますから、どうかもう一度チャンスをください」

 もちろん俺は、足元へ差し出されるように降りてきたその後頭部を気兼ねなく踏みつけた。

 踏み込んではいけない領域というものを失った二人の二回戦は、こうして始まっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪口と同じで、尊厳破壊はブーメランとの戦いになる。自分に跳ね返ってくる罵倒ばかりが思い浮かぶのだ。

「こんなことで喜ぶなんて頭おかしいんじゃねぇの?」

「どうせ誰にも見向きされないんだろブス」

「必死すぎて気持ち悪いわ」

「親がこれ見たらどう思うんだろうな」

 ……と、それらがブーメランの数々であることを頭の片隅では自覚しつつも、俺はその言葉の刃を全てハクレナに投げつけた。彼女のことは美人だと思うし、必死に媚びてくる様はいかにも魅力的で無限に興奮したけれど、そんなことは構わずにひたすら罵倒し続けた。

 だけど最後の一言だけは、一線を超えた人格否定プレイの中でも本当に超えてはいけないラインだったのかもしれない。

 床に飛び散った精液を犬みたいに舐めとったハクレナが、その失言に対してぽつりと答えたのだ。

「親はもういません」

「……あ」

 言われて、浅はかすぎる自分を呪った。人間だろうとサキュバスだろうと、寿命間近の者の親が存命なわけがない。ブスに続く罵倒の中に「年増」というフレーズを混ぜようとして、輪をかけて見た目に実感のない言葉を連続させてはさすがにこちらが白ける気がして避けたところまでは頭が回っていたのに、その直後がこの体たらくだった。

 興奮の最中から突然の動揺へと引きずり出されて慌てふためき、要領を得ない思考からてきとうな言葉が口をついて出る。

「じゃあ他の身内は」

「誰もいません」

「友達とか」

「いません」

「……じゃあなんだ、天涯孤独ってやつ?」

「はい。……私にはもう、青ウニさんしかいません」

「それでさっきから必死なんだ?」

「はい」

「自分が惨めにならないのか?」

「いいえ。青ウニさんのおかげで今はすごく幸せです。……精液全部飲めました。とっても美味しかったです、ごちそうさまでした」

「……おう」

 射精後も半勃ちのままになっていた物が、今さらへたって衰えていく。興奮どころか動揺まで段々と冷めていって、過ちを重ねるだけ重ねたあとのような、地平線まで続く焼けた瓦礫を見下ろすような気分がした。

 天涯孤独だとか、そんな話も「その方がエッチだから」という理由で綴られた出まかせだったりしないだろうか。そうであってほしいと俺は望んでしまう。無責任にも程があるというものだ。

 顔に出ていたのか、性欲の鎮火に不自然さを感じたのか、ハクレナはこちらの心境をいくらか察したようだった。舌を伸ばして精飲を証明するべく口内を晒していた彼女が、唐突に神妙な顔をする。

「……休憩する?」

「あ、はい」

 いつものティーカップに注がれたいつもの麦茶をいつものようにもらう。……ここに毒が入っていたとしても文句は言えないようなことを自分はやっているのだ……と、今さらになって実感が湧いてきた。

 一度布団の上に視線を落とすと、それきりハクレナの方を見る度胸がなくなった。茶を何口飲んでみてもそれは変わらなかった。

「青ウニくんってさ」

「はい」

「なんでSMが好きなの?」

「え……」

 糾弾されているぞ……と、絞めつけられるような心臓の痛みが自身に訴える。けれどその尋問めいた言葉にどんな真意が込められているのかは、いくら考えても分かる気がしなかった。

 ハクレナがどうして今さらそんなことを聞くのかが分からない。分からないこそ俺は、もはや観念して正直に答えるしかなかった。

「物心ついた時には、もうそういうジャンルを選んで、好き好んで見てたんです。なんでと言われても、生まれつきなんじゃないですかね」

「そうなの?」

「はい」

「……私、分かった気がするんだけど」

 一拍の間だけ、彼女は言葉を切って止める。物覚えの悪い子どもによく言って聞かせるみたいに。

「青ウニくんは、寂しいから、女の子をいじめたくなるんじゃない?」

「……寂しい?」

「自分のことを理解してもらえなくて、寂しいんじゃないの? だから自分を受け入れてくれそうな子をみつけたら、どこまで受け入れてくれるんだろうって、相手の限界を試すためにいじめるんじゃないかな。……本当のところでは、そこまでひどいことは望んでなかったりしない?」

「……どうしてそんな風に思うんです?」

「遅刻したことを悪く言われて、喧嘩になったみたいだから」

「は……?」

「一方的にフられたわけじゃなかったんでしょ? ってことは言い合いの喧嘩だったんだ。青ウニくんは遅刻癖があることを悪く言われて、それで怒ったんじゃないかって」

「……まぁ確かに逆ギレしたような記憶がありますけど」

「ならそれも、寂しかったせいなんじゃない? 君は、したくて遅刻してるわけじゃないのに、相手がそれを分かってくれないから悲しくて、誰も理解してくれないから寂しくて、それでキレちゃったんじゃないの? なんで分かってくれないんだ! って。……だとしたらSMだって、寂しいからわざとひどいことをしてるんじゃ」

「いや、それは違うってハクレナさんが一番知ってるでしょう? 俺の性欲は相手が嫌がっている時にこそ……」

「そうかな。青ウニくんは、本気で嫌がってる相手をレイプできる? 私にピースまでさせて合意を確かめようとするのに」

「……それは」

「嫌がられると興奮するってところまで含めて、受け入れてほしいんじゃないの……? 受け入れてくれない相手には、むしろ萎えちゃうとか」

「…………なるほど」

 思わずそのように、俺は反論を躊躇ってしまう。

 かつてなく饒舌なハクレナに空恐ろしさを感じていた。彼女の推論が、一応は全て当たっていたからだ。

 確かに俺は本物のレイプは望まない。嫌がる素振りに興奮する一方で、本気で拒絶されたことは強制できないし、どの程度までが許容範囲なのかも分からない相手にいきなり全力の暴力を振るうこともできない。ハクレナはその点をよく観察してくれていた。性以外に興味がないというわりには異様に的確な洞察力だと言える。

 けれども俺は、彼女の推論に一つだけ致命的な間違いがあることを知っている。その間違いとは、まだ彼女が知らない部分にある物だ。全ての観察は正しく当たっているのに、今まで俺が彼女に対しておくびにも出してこなかったある一点の話題だけが、彼女の語った結論部分だけを決定的に否定してしまう。

 しかしそれを今の彼女へ馬鹿正直に告げてしまうのは恐ろしいことだ。彼女がどうしてそこまで俺という人間の心に関心を持ってくれているのかが分からず、自分がいったい何を裏切ろうとしているのかということすら分からないから、見切り発車で話すような真似はとても出来ない。……しかしその話題を黙秘してしまっては、それ自体が彼女に対する致命的な虚言になってしまう。

 俺は選択を迫られている。ハクレナの関心から、黙って自分の本質を隠蔽するのか。それとも黙っておいた方が良いような話を、正直に口に出してしまうのか。……どちらを選んでも悪徳である気がして、正直選びたくない。

 逃避するようにティーカップの中へ視線を落としてみると、そこはとっくに空になっていた。濡れた白い底が、行き止まりの壁のように見える。

「さっき青ウニくん、私の親について話題に上げちゃった時、焦ってたでしょ」

「……まぁ、はい」

「優しいよね。言ってから、今のはまずかったって思ったんだ」

「それに関しては本当にすみません……」

「いいよべつに。それで傷つくような人は、こんなプレイ初めからやりたがらないし」

「は、はぁ」

「でもそれで気づいたんだ。青ウニくんが私のこといろいろ言い当てたみたいに、私も分かった気がして。この子は相手を打ちのめしたいわけじゃないんだって」

「……なんでそこまで俺のこと考えてくれたんですか?」

「エッチだから」

「エッチ……?」

「青ウニくんの考え方で好きなところがあるんだよ。可哀想はエロいのほかに、もう一つ」

「はぁ」

「青ウニくんは、私のことを容赦なくいじめてくれる人の中で唯一、私の心を見てる人なんだよね。……大体の人は私自身には興味がないか、優しいだけでつまらないかだから」

「……そういうものですか?」

「うん。だからそこが気に入って、私も真似したくなったんだと思う」

「真似……」

 優しさが優しさを呼ぶように、俺がハクレナの心に興味を持ったから、向こうも俺の心に興味を持ってくれたのだと言う。

 しかしそれは、あまりにも都合のよすぎる話だった。優しさがこだまするなら、悪意だってこだまするはずだ。なのに、俺は彼女に散々虐待じみたことをしてきたのに、彼女はその一切を俺に跳ね返さない。にも関わらず、好意的な興味だけは返してくれるというのだろうか?

 ……そこまで考えて俺はようやく、自分はこのハクレナという人のことがやはり好きなのだと理解できた。とても浅はかで、コルカとの破局を機に一度その醜さを自ら思い知った程度の、尊さの欠片もない好意が己の胸の中に宿っている。

 遅刻癖について彼女が言ってくれた「理解してもらえなくて寂しいんじゃない?」という見解が、今になってじわじわと心の根っこに沁みてくる。嬉しい、と思ってしまう。けれど、だからそういった感覚こそが、浅はかだというのだ。

「でもハクレナさん、俺は、あなたが思ってるよりクズですよ」

「そう?」

「元カノと遅刻で喧嘩した時の話、おぼえてますか? 俺は大体こんな感じのことを言われたんです。遅刻せずにいられたらいいなと思ってるだけで、絶対に遅刻しないようにしようとは思ってないでしょうって」

「うん」

「でもそれは何も遅刻に限った話じゃないんですよ。コルカは……元カノは何も言いませんでしたけど、俺は元々、もしかしてワンチャン付き合えるんじゃないかと期待して、それで彼女に告白したんです。……付き合えたらいいなと思ってただけで、絶対に付き合いたいだなんて思ってなかった。たぶん思考回路が根からそうなんですよ。軽蔑されて当然なんです」

「それは、私が青ウニくんに声をかけたのも、同じような理由なんだけど?」

「……でも、だとしても、俺は違うんです。あなたの言うような、生まれつき理解されづらい性分のせいで寂しがっているだけの、本当は善人だとか、そういうのじゃないんです」

「なんでそう思うの?」

「それは……」

 その続きを言えば、いくらなんでも好意的には受け止めてもらえなくなる。それが何を意味するのか、俺はハクレナの何を裏切ろうとしているのか、今一度よく考えてみる。

 俺はハクレナのことが好きだ。なぜかといえば、それは彼女の言う通り、彼女が俺のことを受け入れてくれるからだ。だけどその好意は愛ではない。ただ受け入れてもらえることが嬉しいというだけ、寂しさを埋めてくれてラッキーというだけの、どこまでも浅い刹那的な感情の一つに過ぎない。

 けれど、彼女が俺を関心に値する対象として貴重がってくれるように、俺にとっての彼女も間違いなく貴重な存在だと言える。知り合うことさえ出来れば俺のことを受け入れてくれる他のサキュバスも、広い世の中だからきっとどこかには居るのかもしれないけれど、それでもその「受け入れる」の形がハクレナほど好ましいものであることはそうそうあり得ないように思う。その認識がより一層、浅はかな好意を尊い物であるかのように紛らわせてくる。

 しかし、では、ハクレナの方は俺のことが好きなのか? 俺は彼女の好意を裏切ろうとしているのか? 俺がこれから俺という人間の本質を語れば、彼女はその醜悪さに失望して俺に愛想を尽かすのか? ハクレナは本当にそんな意味合いで、俺に対して好意と関心を向けてくれているのか……?

 口が滑って度の過ぎた罵倒をしたことを許され、心の奥にあるものを言い当てられ、関心を持って「なんで?」と聞かれて……。俺は要するに絆されたのか、さっきまでは気まずさからとても見られなかったハクレナの顔を、今はあっさりとこの目で見据えることが出来た。……そしてそれで確信した。

 俺の好意が恋愛感情ではないように、ハクレナの好意もその類の物ではない。彼女は、まるで小説の続きを待ち望むかのように気長な期待を秘めた瞳で、俺の答えを黙々と待っていたのだ。そこに慈愛はない、恋慕もない、親愛もない。そこに宿っているのはただ、男が女の裸を見た時に抱くような、性に対する興味と似通った物だけだった。

 俺たちは所詮、お互いのことをそういう風にしか見られないらしい。……だからこそこれから語る内容は殊更まずいような気もしたけれど、しかしどうだろう、このまま黙秘を決め込んだのでは、同志への返事としてはあんまりだとも思える。それに同志であれば、もしかしてもしかすると、軽蔑はしても拒絶まではしないでいてくれるのではないか……と期待してしまう側面もあった。これまでの彼女が一度も俺を拒絶しなかったことで、味を占めた気になっていたのかもしれない。

 何にせよ俺は、そうして熟考の末に、己の本性を隠しきることを諦めたくなってしまったのだ。

「……それは、俺がAV女優の自殺をオカズにしてシコってるからです」

「じさつ?」

 珍しく分かりやすいほどに、ハクレナがきょとんとした顔をする。それが今から嫌悪と拒絶の色に塗り変わったりはしないことを期待しながら、俺は続ける。

「もう十年ほど前になるんですかね。まだAV女優という職業が、今ほどサキュバスに占有されていなかった時代のことです。俺はいつも通りネットでイラマ系の動画を探してました。ハードな物も探せば見つかるんですけど、ただハードであればなんでもいいとは思えない性分なので、その日見た動画はどれもいまいちピンと来なかったんです。ただ、そのピンと来なかった物のうち一本だけに、いやに美人な女優が出ていたことはなんとなく印象に残ってました」

「へぇ……? それで?」

「それで、それから数年経ったあと、巡回していたエロサイトのコメント欄で、あるAV女優が自殺したという話を聞いたんです。確認のために調べたところどうやら話は本当のようで、本人のSNSは「さよなら」の一言を最後に更新が止まり、同業者がそれを引用しながら友人の死を悼む投稿をしていました。……俺はそれを調べる過程で気づいたわけです。このAV女優は、あの時見た美人だって」

「うん」

「彼女が何を理由に自殺したのかまでは調べても分かりませんでした。けど自殺って、昨日まで一切その気がなかった人が唐突にするような物ではないでしょう? 自殺する人はみんな、それを実行に移してしまうまでの長い時間を、希死念慮について考えながら生きていたはずです。……つまり俺が見た動画に出演していた時の彼女も、そういうことを考えていたはずなんです。もしかすると撮影の時だけは忘れていたのかもしれませんけど、だったとしてもそれは凄く一時的なことでしょう」

「だね。それで青ウニくんは、その動画を見ながらシコっちゃったんだ?」

「見ながらなんてもんじゃないですよ……。その動画はね、プレイのハードさに対して、現場の和気あいあいとした雰囲気が印象的だったんです。その女優は、ひどい時は顔が茹でダコみたいになるまで窒息させられてたのに、ほんの数秒の休憩があればもうニコニコしてるし、男優やスタッフに対しても気さくだったんですよ。でも俺にとってそれは元々好ましくないことだったんです。嫌がってくれなきゃ抜けない性癖だから……」

「あぁそっか。たしかに」

「でも自殺の事実を知ってからは、見る目が変わりました。こんなに平気そうにニコニコしてるけど、本当はつらかったのかもしれない。本当はこんなことしたくない、何のために生きてるのか分からない、つらい、死んでしまいたい……と思っていたのかもしれない。なのにそれをおくびにも出さず、苦しくて当然のことをされても平気なフリをしてしまうくらい、全てを隠しながらずっと生きていたのかもしれない。……そう考えるとね、なんでか分からないんですけど、興奮するんですよ。ガチガチに勃つんです」

「うん」

「ハクレナさんは俺が寂しさを埋めるために……試し行動のために、必要以上にひどいことをするんじゃないかって言ってくれましたけど、一人の人間が自殺にまで追い込まれたのに、それをオナニーのオカズにするよりもひどいことなんて、この世にあるわけないでしょう? それに、死んだ相手からは、受け入れてもらうもクソもないんですよ。死んでるんだから。だったら受け入れてほしくてやってしまうなんて話は成立しないことになる。実際まったく成立してないんです。俺はそんな可愛げがある人間じゃないんですよ」

「そっかぁ。なるほどね」

 ……俺は最後まで語りきったはずなのに、ハクレナからは気の抜けた返事が返ってくる。

 そしてそれに続けて、彼女はまるで、今日の天気の話でもするかのようにぼんやりと言った。

「自殺は、人間の特権だもんね」

「え……?」

「サキュバスじゃそういう風にはオカズになれないからさ。なるほどって思った」

「なるほどって……」

 その言い草の、どこまでも覇気のないこと。

 いや、むしろそれは覇気どころか、もはや生気まで抜けているとすら感じるような、どこか地に足のついていない物言いだった。

 俺はそれを聞いて、不意に直感する。

 ……ハクレナは死にたがっているのか?

 その発想に至った時、何か逆さまになっている物の蓋が外れたかのように、ドバドバと感情の濁流が頭の中に押し寄せてきた。ため息を吐く気力も失せるような冷ややかな感覚と、叫び出しそうなほどの怒りにも似た感覚がごった返して、気泡の群れのような思考を乱雑に形作っていく。

 その中でまず一番初めに知覚できたのは「意外」というものだった。ハクレナに希死念慮があるかもしれない……と考えさせられたこと自体が、その予想の当たる外れるに関係なく意外だった。

 俺は心のどこかで、ハクレナは死に近すぎるせいで病んでいるのだと思っていた。余命宣告された患者が自暴自棄の末の無気力に陥るように、寿命の終点が見えてきたことに動揺している部分があるからこそ、彼女は見ての通りの異様さにも至っているのかと思っていた。けれど自棄などではなく、彼女がむしろ心の底から早く死にたがっているというなら、その話は成立しなくなる。

 ではハクレナは、自殺に至る人間がそうであるように、死が間近だから病んでいるのではなく、病んでいるから死を間近に感じているのだろうか。性以外の何にも興味を持てなくなったのが先で、希死念慮があるというのが後なのか。……もしそうなのだとすれば、それは正直言って羨ましい。本来、希死念慮を持つ者の大半には、寿命の終わりなどそうそう近づいては来ないものなのだから。

 俺は死にたいとまでは思わないけれど、生きる理由も大してないと思っている。自殺などという、苦痛と失敗と後遺症と恐怖心のリスクにまみれた手段を選択肢に入れなければならなくなるほどの不幸には幸いにも全く触れない人生を歩んでいるけれど、では死その物を御免こうむりたいのかというと、それは違う。今はまだいい、来週もハクレナに会いたいし、生きていたいと思う。けれど十年後はどうだ? ハクレナがいなくなった世界に、死にたくない理由とまで呼べるものがあるだろうか。

 人間の異性に俺の全てを受け入れてもらうことは期待できない。全てを受け入れてもらうには、性に対する底無しの耐性と不死身の体が最低条件だからだ。だけど運よくSMに理解のあるサキュバスと再び巡り会えたとして、その人はきっとハクレナではなくコルカに似ているのだ。俺には分かる、ハクレナの魅力は精神の病みに由来するものだと。きっと大昔の元気な彼女なら、悪趣味な暴力と暴言は笑い飛ばして、俺の内心に興味など持ちはしなかったのだろう。しかし大抵のサキュバスは人間よりもずっとメンタルが強い。そうでなければ、寿命五百年の体に入れ込まれた魂なんて物は、今頃とっくにそこかしこで発狂しているはずだから。

 それなら俺だって、出来ることならあと十年くらいで死にたい。もっと正確に言うなら、すすんで何十年も生きる理由がない。老化に衰えていく体の軋みを感じながら死を待つでもなく、苦痛にうなされた末に息を引き取るでもなく、ただ健康な暮らしの中である日フッと塵に消える。そんな死を近々迎えられるというなら、俺だってそうなりたい。……自分の中にそんな考えがあったのだということを、ハクレナの希死念慮を感じ取った今この瞬間に、腹の底からどうしようもない苛立ちが沸き立ってきたことで気づかされた。

 そしてその苛立ちは、希死念慮とは別の話題にまで波紋を広げる。俺にはハクレナが、俺の話の肝を理解していないように見えた。こちらは意を決して話したのに、彼女はそれを他人事だと思って聞いているのだと思い、それに対しても苛立った。

 分からないなら、分かりやすく教えてやればいい。俺はわざとザラついた鋭利な方向へと言葉を選ぶ。

「ハクレナさん、もしかして今の話を他人事だと思ってませんか」

「え?」

「AV女優の自殺でシコるような男が、あなたの死後、あなたを映したハメ撮りをどんな目で見るのか、ちゃんと想像してますか? 他人の内心の苦痛を想像して勃起してるような人間が、あなたの心の病みを言い当てたことの意味を、ちゃんと考えてるんですか……?」

「…………」

「軽蔑するならすればいいですけどね。これから面倒を我慢して他の男でも探しますか? 俺が動画を誰にも見せないという約束を守るかどうか冷や冷やしながら、残りのあと十年くらいを生きてみますか? それとも今ここで力づくで消させます? それであなたの気がさっぱり晴れるならいいですけど。…………あなたの言う「可哀想そうはエロい」っていうのはそういうことなんですよ? ちゃんと考えてました?」

「……考えてなかった」

「でしょうね。俺も聞かれなければここまで話すつもりはありませんでした」

「うん」

「……もう帰った方がいいですか?」

「ううん」

 ハクレナは小さく首を横に振った。

 その瞬間、俺はハッとする。

 ほんの数秒前まで、自分は来週もハクレナに会いたいと思っていたはずだ。死ぬよりもそちらの方がいいと思っていた。なのにどうしてこんな、お互いの関係性を取り返しがつかないところまで貶めるような言葉を俺は口にしているのだろう。

 デジャブを、あるいはトラウマを感じる。忘却の底に埋められて、二度と引き出せはしないはずの記憶が、その一端だけを蘇らせる。……今の自分は、コルカと喧嘩をした時に似ている気がした。

 ハクレナはいつかのように、俺の手を握った。まるで波に攫われていくものを繋ぎ止めるみたいに。

「やっぱり当たってた」

「え……?」

「青ウニくん、今私に「受け入れてほしい」って思ってるでしょ。だから全部話してくれた」

「……いや、俺は」

「ヤりたいだけなら、聞かれても黙ってればよかったのに。聞かれたから、受け入れてもらえる気がしたんでしょ?」

「……そうかもしれないけど、でもそんなことを言われたら……」

 彼女の言葉を否定することはできなかった。手錠をかけられた犯人のようにうなだれて、自ら指摘を認めるしかないような気もしてくる。

 けれど、彼女の推察はまたしても半分しか当たっていない。

 確かに俺は受け入れられたいがために我を忘れて、今のような振る舞いをしてしまう人間であるらしいし、すでに言い当てられている通り、コルカとの喧嘩もそれが発端だったのだとは思う。けれどそれはあくまでも俺の「怒り・苛立ち」についてのことであって、俺の全てについてのことではない。

 受け入れてほしくて、露悪的な、黙っていた方がお互いのためになるようなことを口に出してしまう。……そんな性格の問題と、俺の性癖が悪趣味なんてレベルではないことについては、別々の問題として存在している。だってそうだろう。仮にハクレナが俺の全てを受け入れてくれたとしたら、それで俺の悪趣味さは消えてなくなるのか? そんなわけはない。

 だけどそうであるにも関わらず、困ったことにハクレナはもう永遠に、その事実をまともに受け止めてくれはしないのだろう。俺が何かを語れば語るほど、彼女は「うんうん、そうだね。それも含めて受け入れてほしいんだよね」と知ったような顔をするだけで、俺という人間にまつわる善悪だとか、罪だとか度し難さだとか、そういった物にまともに関心を持ってくれる日は永遠に来ない。気がつけばもうすでに、俺はそういうドツボにハマってしまっていた。

 そしてそうなって初めて、相手の気持ちにも理解が及ぶ。心を病んでいることを理由に、本人すら自覚できない嘘をついてしまうことを理由に、俺に発言の全てを疑われるハクレナの気持ちが少しだけ分かった気がした。なるほど、何を言ってもまともには通じなさそうだという見通しを得ることは、それがいくら友好的な物であっても、心境として複雑なところがある。

 けれどだからこそ、俺はお互いがきっと永遠にそうであるのだと確信できてしまった。俺はハクレナの言葉の裏を一生疑い続けるだろうし、彼女は俺の性癖の是非に一生興味を持たない。……それでもその関係性は、十年で失うにはあまりにも惜しい物だ。

 ならばいっそ、残りの時間を余すところなく味わいたい。俺が善人だろうと悪人だろうと、ハクレナがそんなことにはお構いなしに俺の性癖と性欲を求めるというなら、こっちだってそれに乗ってしまいたい。……いや、乗ってしまおうじゃないか、実際に。

 そう決めた時、きっと俺たちの意思は一致した。ハクレナの光に乏しい目と視線が重なり合った時、希死念慮さえ彷彿とさせるようなその瞳の奥で、彼女は確かに笑ったのだ。

「……それで、青ウニくんのしてみたいことは、もう終わり?」

「というと……?」

「人格否定プレイ以外に、試してみたいことはないの?」

「……ありますよ? そっちは物理的な、ただの拷問ですけど」

「へぇ。血も怪我も苦手なのに?」

「えぇ、それでもたぶん出来る物があるんです。元カノには試せなかったくらいえげつない物が」

「楽しみだ」

「……どれだけ苦痛でも後悔しないって約束できるなら、お風呂場に行って四つん這いで待っててくれませんか? お尻はこっちに向けて」

「お風呂……? わかった」

 こちらの意図が読めないのか少し不思議そうな顔をしつつ、それでも彼女はお互いが持っていたティーカップを手短に片付けたあと、従順に浴室へ向かって歩いて行った。俺は布団の上に座ったままその背中を見送る。

 はたして彼女は、拷問と聞いてどんな物を想像しているのだろう? またゲロを吐かされると思っているのか、それとも不死身であるのをいいことに、一度本当に心臓が止まるまで水責めをされるとでも思っているのだろうか。……何にせよ今の俺はそんなことはしない。他人の自殺に勃起する異常者として矛盾しているようにも思えるけれど、出血や骨折と同じように、俺にとっては不死身かどうかに関わらず「死体」も恐怖の対象になるから。

 ……ではいったい俺がこれから何をするのかというと、端的に言って「確かめる」のである。自分の中に感じる法則性が当たっているのかどうか、好奇心が身の丈に合っている物なのかどうか。

 骨折のような大怪我を見ることは俺にとって恐ろしいことだけれど、かといって全ての怪我を見られないわけではない。たとえば単なる打撲なら普通に見られるだろうし、それはハクレナの腹を殴りつけてできた青アザやスパンキングによって真っ赤に腫れた尻、首についた絞め痕あたりを見ても平気だったことから確かなことだと言える。なんなら少なくともエロ動画を見る分には、鞭を受けて赤を通り越し青黒く変色した尻を見ても勃起していた。

 それを踏まえて考えると、これまで目についた物の中で一つ、まだ試していない過激すぎる虐待行為がある。ハクレナはそれに気づいているだろうか、あるいは過去に体験済みだろうか? できればそうであってほしい。俺は自分の趣味を確かめたいのであって、彼女の「NG無し」に前言撤回をさせたいわけではないのだから。

 ハクレナが視界から去ったことを確認してから、俺はのそりと立ち上がり、あとで洗うためにひとまずそこへ放置されたのだろう台所のティーカップを一つ持った。そしてそのまますぐ近くにある給湯ポッドの前に立つ。

 ただ家に招いた男へカップ麺を振る舞うためだけにある機械。あるいは、嘔吐プレイに付き合う際に胃の中身を用意するためにも使われる機械。……保たれた温度は九十度と表示されているそれのロックを解除して、湯気の上る熱湯をティーカップに注いでいく。

 俺はそれを持ったまま、浴室で犬のような姿勢になってこちらに尻を向けているハクレナの傍に立った。彼女は当然相変わらずの裸で、白くなめらかな背中を無防備に晒している。

 彼女が普段からガラスのコップを使っていれば、俺だってこんなことを試そうとは思いついていなかっただろうに。

「……ハクレナさんは、アイロンを背中に押し当てられるリョナ漫画を見たことありますか?」

「えっ……?」

「あれのグロくて嫌なところは、焼け爛れた肉がアイロンに張り付きそうなところなんです。逆にそういうことさえなければ、結構クるんですよね、ああいうのも」

「あ、えっと……」

「サキュバスは火傷も治せますよね?」

「……は、はい」

 これから何をされるのか、彼女の方もある程度察したようだった。……もしかすると六十度程度の熱湯シャワーを浴びせられることを考えているのかもしれないけれど。

「近所迷惑になるので、絶対に悲鳴とか上げないでくださいね。じゃないと俺、もうここに来れなくなっちゃうので」

「は、はい。絶対叫びません」

「……じゃあいきますよ?」

 雫が跳ねることを嫌って、俺はしゃがみ込み、カップをギリギリの位置まで下げる。……そしてその震える背中に向かって、沸騰寸前の熱湯をぶちまけた。

 声なき悲鳴が、耳ではなく目に響き渡る。一言も発さないハクレナが、しかし確かに全身で耐えがたい苦痛を叫んでいた。

 それを見ながらガチガチに勃起を強めた俺は、あぁ、自分は死んだ方がいい人間なんだろうな……と思った。思うだけで、きっと十年後も二十年後も、どうせ生き続けているのだろうけど。

 

 

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