そんな生徒たちの明け方のお話です。
上手く手が動けば今週末に5話の1が更新できればと思います。
朝日が昇りきる前の。
彼女が目を開ける直前の。
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──イロハ先輩、私がんばるから。
ゲヘナ一帯を見下ろす高所だった。強い風が吹きつけて、ふた房に結われた美しい金髪が大きくなびいていた。
少し伸びた背。伸びた角、羽、尻尾。以前より大人びた表情、大人びた口調で。新たな議長に就任した彼女がこちらを振り返ってそう言った。その変化は彼女を一際可愛がっていた前議長がいなくなったからか。あるいはあの人の死がより大人になることを彼女に強いたのか。
本来なら彼女に議長を任せるのは早すぎた。ガラではないが自分か、あるいは他の誰かが責任を負う立場を担うべきだった。けれど、日々不安定になっていくこの都市と自由奔放なこの学園において明らかに突出した彼女の名声がそれを許さなかった。
何より当人が望んでいた。
だからせめて支えようと思った。
その小さな体にのしかかる多くの責任。降りかかる厄介な問題。それらを少しでも軽くしようと。
なのに私はそれすらやりきれずに。
ゲヘナの学生広場に轟音が響いている。建物か、銅像か。巨大なものが崩れた振動がここまで伝わってきた。
泣き叫び縋り付く彼女を力尽くで引きはがす。信用できる万魔殿のメンバーに彼女を託し先へ逃がす。既にゲヘナの自治区はその殆どを欲深い大人たちに蝕まれていた。暴れる生徒は首輪をつけて檻に入れられるか、見せしめに串刺しにされていた。かつてブラックマーケットで起きたあの事件以来明らかに生徒とそれ以外の力関係は変わっていた。
──あるいはそれすらかき混ぜ覆しうるゲヘナの混沌は、より救いがたい破滅をキヴォトスにもたらそうとしていた。魔王は火山を目指して去った。彼女に翻弄されるようにこちらの最大戦力も今は遠方だ。
生徒は殺せるもの、殺していいものになっていた。それが今起きている政変の原因の一端には違いない。学園都市全体で釣り合っていたはずの天秤は大きく揺らぎ、その振り戻しが波となって今この学園を飲み込もうとしていた。
生徒は殺せる。あるいは、殺さないのならばもっとおぞましい……。
既にこの議院にも多くのPMCの兵士たちが押し寄せている。あんな奴らにイブキを触れさせる訳にはいかない。だからこれでいい。これで良かったのだ。
こんな狭い室内では虎の子の戦車も持ち出せない。自分を支えるのはこの小さな一丁の拳銃だけ。どこまで時間が稼げるのか。嫌な手汗を服の裾で拭っていると、ふと連れ出される彼女の最後の声が脳内に蘇った。
──いやだ!!ダメ!ダメだよ!イブキも!!イブキも!!
必死で言いつのる彼女の姿を思い出してつい口元に笑みが浮かぶ。我ながらひどいと思うが許して欲しい。久しぶりに彼女が自分自身の事を名前で呼んでいるのを聞いて懐かしくなってしまったのだ。
ドアに銃弾を浴びせられる音がした。
だが、この議長室の扉は特殊な合金入りだ。並大抵の銃弾では破ることはできない。外の兵士もそれに気づいたのか途中から扉を押し破る方針に転換したようだった。何度も何度も扉に重い衝撃が走る。彼らがこの自治区を掌握するにあたって議長の確保は絶対だった。それくらい、彼女は今のゲヘナにおいて大きな位置を占める。
きっと扉を破った彼らはがっかりするだろう。目的の彼女はとっくにここから逃げおおせているのだから。
自分は──、それからどうなるのか。しばらく前に目を通した大人に食い物にされた生徒の末路についての調書。そこに並ぶ文字列が自分の体にべったりと張り付く様だ。
震えそうになる不安を無理矢理忘れる。この後にどれだけの絶望が待ち受けているのだとしてもせめて今だけはカッコいいあの子の先輩でいたかったから。
扉が破られる。ごつごつとした機械仕掛けの兵士たちが雪崩れ込みこちらへ銃口を突きつける。
「おや、そんなに慌てた様子で、なにか万魔殿にご用でしょうか?」
いつもの調子で。イロハはやる気のない顔で澄ましてみせた。
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「ヒナ委員長!どうしてですか!?どうして信じられないのですか!?」
鉄格子の向こうで手足を拘束された風紀委員の火宮チナツが悲痛な声を上げる。そこに敵意と呼べるものは微塵も含まれていない。ただ、理解を得られない事への悲しみが滲んでいた。
声を受ける風紀委員長は表情を変えず問いを繰り返した。
「あなたはイブキの検診以外で彼女と接触はしていなかった。間違いはないわね」
「……っ、はい。元々はセナ部長の仕事でしたが私もお手伝いすることになって、そこでイブキさんとはお話しました。それだけです」
「あなたには今より未来の記憶はない。それも変わりないわね」
「はい……イブキさんの見たという未来を共有できない事には忸怩たる思いですが」
「それでもあなたは──」
「ですがイブキさんの危惧された未来はすぐそこに迫っているんです!私たちゲヘナはこの危機に一丸とならねばなりません!!ヒナ委員長だっておわかりになるはずです!!」
最後の問いには食い気味に、熱意に満ちた瞳を向けてチナツは答えた。あまりに真摯な表情と言葉は、ともすれば自分こそが間違っていたのではないかと受け手に錯覚させる程の力強さを持っていた。
ヒナは内心で吐いた深い溜息をおくびにも出さずに牢の前から踵を返した。
「ヒナ委員長!どうか!どうかイブキさんとの和解を!!そして我らゲヘナの生存圏の拡大を!」
背中を打つ声の熱量に反比例する様にヒナの心の底は冷たくなっていった。
「如何でしたか?ヒナ委員長」
「私一人で話してみても、結局はほぼ変わらずね。イブキを信じてとそればかり」
執務室。アコからコーヒーを受け取りながらヒナは頭を振った。信頼していた部下の支離滅裂な主張は彼女の心に重い疲労感を与えていた。しかし、だからといって目の前の部下たちに疲れを見せる様な無様をヒナは行わない。たとえその目の下に深い隈が刻まれていたとしても、彼女の一挙手一投足は強く頼もしい風紀委員長のものだ。黒苦い液体を喉へと流しながらこの後にすべき事を脳内で整理していく。
「万魔殿の混成部隊の様子はどう?」
「最初に委員長が戦車部隊を壊滅させてくださったおかげでなんとか持ち堪えられています。ただ──」
言い淀んだ言葉の続きを促す様に静かにアコを見つめる。
「どうやらチナツさん以外にもシンパとなった風紀委員が紛れていた様で離反者や内部からの妨害が増えています。これが続くならどれだけ粘ろうと今日中には耐えきれなくなるのではないかと」
「……そう」
瞼を閉じ息を吐く。口の中に残るコーヒーの苦味がぼんやりと広がっていくのを感じる。
イブキこそがゲヘナを導く存在であり、彼女の主張する大災害に備えて他の自治区を征服すべきであると声高に主張する生徒の一団が声明を出したのが昨日の夜。まるで乾季の草原に火を放つ様に瞬く間にゲヘナ各地に賛同者たちが現れイブキの元へと集っていった。
彼女らは万魔殿の親衛隊と連携し、一様にゲヘナの外──他学園への侵攻を目指している。
できの悪い悪夢のような光景だった。
風紀委員はいち早くその動きを察知、各地の暴徒を鎮圧。万魔殿周辺で編成され始めた軍隊の封じ込めにかかった。
だが、それはかろうじてという前置きがつく状態だ。次第に勢いを増す万魔殿と彼女らに感化されたゲヘナ生の混成部隊に既に風紀員は押し返されつつあった。
「破滅の願いを叶える星屑。鍋をひとまぜするだけで化け物の森を出現させる
「そうですね。少し話しただけのチナツさんがあぁなるなんて……それこそ魔法か、催眠術でも使われたように思ってしまいます」
そう話すアコの脳裏にあるのは今は行方のわからない万魔殿のメンバーのひとりの姿だろう。
「不幸中の幸いなのはマコトたち万魔殿の中核メンバーがイブキのために動いていなさそうというところかしら。イブキさえ抑えれば今のような統率はとれなくなるはず」
「どうでしょう。あの議長であれば喜んで今のイブキさんにも協力しそうに思えますが」
「……できうる限りは調べた。これ以上見えない場所を怖がっていてもしかたないわ。それで、イブキの居場所は?」
「消去法ですが可能性が高いのは二箇所。万魔殿議院の最奥議長室、あるいは万魔殿上空に係留されている飛行船の中」
「やっぱりそこになるか」
ヒナはしばし考えるように自らの二の腕をとんとんと指で叩く。
結論はとうに出ている。これはその結論で本当に過たないかを精査する時間だ。こちらの情報網、イブキが敷く情報網。彼女が何を考えているかはわからないが、自分たちを破りゲヘナの外へと進もうとしているなら取る選択肢も自ずと絞られる。それでも二択。裏向きの二枚のカード。そこにヒナは薄らとイブキの意思を見て取った。
無邪気な、しかし残酷な笑みを浮かべる彼女の顔。誘われている。
それでも、結論は変わらない。
放置すれば彼女の影響力はどこまで広がるかわかったものではない。ならば彼我の差が致命傷になる前に叩き潰す以外ない。
「それじゃあ計画通り二時間後に陽動作戦を開始。一時間だけ保たせなさい。その間に私が──」
ヒナが口にした時、ばんと大きな音を立てて執務室の扉が開かれた。
「イロハさん、あなた……!」
アコが扉を開いた相手に驚きの声を上げる。アコが名前を呼んだ通り、そこにいたのは顔色悪く酷く憔悴した、けれど見たことのないほど瞳をギラギラと輝かせたイロハだった。
「イブキは、飛行船にいます!」
低く重い、あまり彼女に似合わない声だった。
「あなたにその話をした記憶はないのだけれど……」
「あの子がもう一度ゲヘナを率いるというのなら飛行船を選びます」
それは彼女が子供でいることを止めた場所。
「……しらみつぶしにする予定だったから飛行船を先にすることは構わないけれど」
ほんの少しだけ考えて、ヒナはイロハの話を聞くことにした。彼女の精神状態が下手な反論で乱れることを懸念した側面もあるが、何より彼女は貴重な未来の記憶を持つ協力者なのだ。
「私も行きます」
「は?何言ってるんですかイロハさん!?」
「足手まといと感じたら置いていってもらって構いません。けれど、私もイブキに会いに行きます」
「何故?今の状態のあなたを戦場に出すと思う?」
荒げるアコの声をバックミュージックにヒナは静かな声でイロハに問いかけた。
「私は、あの子を支えると誓ったんです」
答えはシンプルだった。
「なら、何故私と一緒に行くの?彼女を支えるというのなら、私たちを止めるべきなのでは?」
「いいえ。いいえ、違いますヒナ委員長。私はあの子が守ろうとしたゲヘナを覚えています。あの子が望んだ事を覚えています」
未来の記憶。泣いて、喚いて、恐怖に震えたおぞましい記憶。吐いて、その自分が吐き出した吐瀉物にすら怯えた。何故今自分がまともに立って息をしているのかもわからなくなる。大人に食い物にされた生徒の末路。
その向こうに。
確かに彼女との思い出があったから。
失ってしまったあの日々を、今はまだここにある日常を、彼女はあの小さな体で必死に守ろうとしていたから。
自分は結局彼女の望みを叶えることもできず道半ばで別れることとなってしまったけれど。
「あの子が泣いて止めてと言ったって、私はあの子のために戦うんです」
あの日そうしたように。
今またそうするのだ。たとえその結果、絶望の淵に沈むことになろうとも。
何度だって同じ選択をする。それが過ちだと言われようとも。
「わかったわ」
「委員長!?」
あっさりと了承したヒナにアコが戸惑いの声を上げる。明らかにイロハの姿は弱り切った人間のそれだ。どれだけ気迫があろうとヒナについて行けるような状態ではないはずだ。
それなのに。
「時間がない。すぐに行動開始よ、アコ」
「~~っ、わかりました。けれど後できちんと説明をしてもらいます!」
珍しく強い語気をヒナにぶつけアコは執務室を足早に去って行った。もう時間がないのは間違いないのだ。
「言っておくけれど、本当にあなたの体を気遣ってる余裕なんてないわよ?」
「かまいません」
「そう」
残された二人の会話は味気ないものだ。だが、今はそれで充分だった。
赤色と白色の少女が窓の外、暗い夜空に浮かぶ大きな飛行船を見上げる。もう間もなく、ゲヘナ内乱の最後の戦いが幕を開けようとしていた。
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「えぇ、いつも気にかけていただいてありがとうございます」
「こちらこそ。あなたの知謀にお力添えいただき感謝の念が絶えません」
「まぁ、知謀だなんて恐ろしい。私はただ、お友達に学園生活のちょっとしたアドバイスをしただけですよ?」
「ふふふ、そうでしたね、浦和さん。いえ、これからは親しみを込めてハナコさんと呼ばせていただきます」
「えぇ、是非。これからも仲良くしてまいりましょう」
「あなたがわたくしたちについていただいた、今日は良き日ですね。少し名残惜しいですがそろそろミサの準備もありますので、本日はこれにて」
シスター服の一団が部屋から出て行って三分。
「はぁ、どうしてこの時間に来たのだか。噂話にすら耳を傾けられないでよく今までこの学園でやってこれましたね」
ハナコは胸の内に貯まる汚いものを吐き出すように息をついた。
「しかし──これで、シスターフッドの動きはおおよそ調整がきいてきましたね。サクラコさんには悪いですが卒業を待たずして退いてもらいましょうか。隠居後のお家も用意して差し上げれば嫌とは言えないでしょう」
盗聴の可能性を徹底的に潰したこの一室で頭の中の情報を整理するようにハナコは自分が引いた絵図を口にする。あるいはそれは、自身に言い聞かせる様でもあった。
明け方。多くの生徒は未だ微睡みの中。密談には都合のいい時間だが今のトリニティに関して言えばそうではない。星屑・宇沢レイサの一件が決着せぬまま今も上層部はその対応に慌ただしく動いている事だろう。誰もが徹夜仕事となっているのはまるであの先生を全員で見習っているようで少し笑えてくる。
だが、上層部が忙しくしている中でその側を飛び回る小蠅がいればそれはひどく目につく事だろう。先程までこの部屋にいたシスターフットの一派は自分たちが小蠅である自覚がないようだった。
「正義実現委員会の動きが気がかりですが……」
あのシスターたちも、ともすれば彼女らに目をつけられるかも知れない。捕まったなら捕まったでそこから広げる布石も既に打ってあるので問題はないのだが。
「ツルギさんに出てこられると面倒かもしれませんね」
昨晩の会議でも今ひとつ真意を探らせなかったツルギの事を思い出す。自分が今こうしてトリニティ内で手を広げていく中で最も警戒すべきはセイアである。どれだけ取り繕うと勘の一点張りでこちらの思惑を暴かれてしまえば抵抗の術はない。その認識は今も変わらない。だが───。
「ツルギさんがきちんと正義実現委員会のトップをされている事は知ってました。ですが、それはあくまで組織運営、実行部隊の上役。外部折衝や政治の領域はハスミさんが握っているものと……」
それも、間違ってはいないのだろう。だが、あの会議の中で明らかにハスミはツルギの意向を確認し、ツルギは会議それぞれの思惑を組んだ上で発言をしているように見えた。ツルギは政治を理解し乗りこなしているようにハナコには思えた。
「ただ、確証もないんですよねぇ」
ツルギの普段の叫声や暴走は果たして狂人の装いか。あるいは素の表れなのか。何を考え、どういう思考の元に行動を起こしているのか。ハナコとしてはそれが読めないのが厄介であった。
ここまでツルギは一貫して正義実現委員会のトップとして文句ない動きを取ってきた。星屑の確保に失敗したという報告を少し前に受けたのでそこは瑕疵にはなるかもしれないが、ハナコは元々あの星屑が容易く確保できるとも思っていなかった。
それにあれは破滅を望むものがいれば自然にそこに流れ着くものだ。今、急いで手を伸ばす必要はない。
それよりもツルギが今後も同じように正義実現委員会のトップとしての振る舞いを続けるのかどうかが気がかりであった。単純に過去の経歴を洗えば多少のやんちゃはあれど逸脱しすぎた行動を取ることはないと予測できる。だが、ハナコには未だあの戦略兵器の胸の内が読めなかった。これが、サクラコやナギサ、あるいはミカやセイアであればもう少し確信を持って思考や行動を読むことができる。彼女らはどこまでいってもこのトリニティの政治闘争にどっぷりと浸かった存在だ。最初からそのつもりであれば、ハナコにとっては相手をすることにそこまで不安を感じることはない。こちらには向こうにない数年のアドバンテージもある。慢心するつもりはないが過剰に恐れる必要もない。懸念があるとすればセイアの勘くらいのものだろう。
ミカはアリウスの件など想定外の動きを取る場合もあったが、あの一件のおかげで寧ろ上層部の中で一番御しやすい存在になった。ハナコとしては最終的にはツルギよりは彼女を戦略兵器として運用していく形が望ましいと考えている。コハルに執心している彼女ならいずれ喜んでそれを引き受ける様になるだろう。
そういう形にこの学園がなる。
「……やはり先にティーパーティのホストを握って頭を抑えてしまうのが最善でしょうか」
ナギサを傀儡にする事も考えたが、彼女の人柄や影響力を考えると今からではいささか遅い。それならハナコが自分の息の掛かった者に入れ替えるか、あるいは自身がホストの座に納まる方が確実だ。本来のハナコの家の格を考えれば難しい目標だが、ハナコは既になり方を知っている。一度はやったことなのだ。二度目ならより手早く上手く実行できる自信があった。
本音を言えばそんな地位に就くことは反吐が出るほどに嫌ではああるのだが。望みを叶えるために必要ならば仕方ない。
「大丈夫ですよ、コハルちゃん。醜いものも汚いものも私が完全に管理して、今度こそあなたが安心して暮らせるトリニティを実現してみせます」
くだらない政治劇に奔走する者。特権階級などと勘違いの差別意識ばかりが肥大化した者。嫉妬と陰口ばかりを楽しむ者。我関せずと悲劇を見殺しにする者。そうして最も肝心なときにこそ醜い本性を露わにして害をもたらす者。彼女たちには彼女たちのいるべき場所がある。それは、今のトリニティではない。
ハナコは想像する。
愚かな者、醜い者たちが身の丈にあった苦役に喘ぎ、尊ばれる者たちに奉仕する楽園を。
汚物を全て下水へと流した美しいトリニティの町並みを。
あるいは、この時間だけを生きたハナコがそれを聞けば「それこそが肥大化した差別意識ではないですか」と皮肉の一つでも嘯いたかもしれない。だが、今のハナコは確信しているのだ。排除されるべき悪と守られるべき善は存在するのだと。その二つは切り分けることが可能なのだと。少なくともあの未来でハナコが奪われた多くは今も美しく彼女の記憶に残っているのだから。
今度こそ、奪われない。失われない楽園を自らの手で作り上げるのだと。
誰からも気づかれぬままに不可視の糸を手繰り彼女は魔女のごとく微笑んだ。
かつてはこの学園を粉微塵に解体したその糸で、今度は楽園を編み上げるのだと。
トリニティの蜘蛛は楽しそうに笑った。
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この都市は間もなく終わる。それは実のところしばらく前から予測されている未来でした。卒業生とそれ以外の大勢を連れてここを去る先輩たちが心配そうに自分の事を案じてくれたのを思い出します。
まぁ、ずっと問題児だったので不安になるのも当然だろうけれど。そう思っていたら。優しく抱きしめられて無理はしないで、なんて。まさかそんな風に言われるとは思わなくって、少し泣いてしまったのはここだけの秘密です。
にはは。
ミレニアム生の大半は既にキヴォトスを退去しました。様々な問題は付随したけれど、それでもこの都市に留まるよりはマシだとそう判断した生徒たち。けれど、そうでない生徒たちもいます。自らの意思で残った生徒。望む望まずにかかわらず離れられない生徒。ここで暮らす人々。日を追うごとに荒廃していくキヴォトスでは彼女たちの安全も生命ももう保証されはしません。いえ、元からそこまで安全な場所でもなかったですが。
いずれは、この都市ごと──。
だから、舟を作ることにしました。たとえ世界が終わった後でも彼女たちが世界から放り出されない為の舟を。
かつてビッグシスターと呼ばれたセミナー会長が古の超技術を再現した防衛都市。それすら力尽くで掌握した"女王"の権能──を当時のログと砂漠で発掘された宇宙戦艦の記録から可能な限り再現しようとしたのが私の座る緋の"玉座"です。
再現されるはずだったのは即ち分解と再構築。それは世界の掌握に等しい超技術です。とはいえ、流石のビッグシスターもそれを完全完璧に完成させる事はできなかったのですが。こんなものを作ろうとしたあの人は一体何を考えていたのやら。当時を思い出してもあまり彼女が何を話しどんな顔をしていたか思い出せません。同じセミナー所属ではあったけれど意外と接点は少なかったから。
当時の会長が卒業した後、ミレニアムの数多の天才たちがこのシステムの完成に挑み、膝を屈しました。あるいは、と思われていた先輩も全く別の事件がきっかけでその知性と人格を失ってしまいました……。それでも数年の日月によってなぜ未完成か、という原因は特定されたのです。
つまるところリソース不足なのだと。
恐ろしい事に当時の会長は分解と再構築を実現するためのロジックは完成させていたのです。ヤバいですね。──もしかしたら、あの車椅子の先輩も協力していたのかもしれないですが。あの人も物質を巨大化とかなんか意味不明な事をしてましたし。
ただ、いくら仕組みを解き明かしたとしても、それを実現するための演算領域が用意できなかった。彼女の作り上げた都市まるまる一つ分でもとても足りない。どころかミレニアム中の全てをあわせてみても必要最低限の半分にもならない、ともなれば。机上の空論もいいところです。そんな手の打ちようもない事実を見つける為に貴重な学生の時間を費やす事になったミレニアムの天才方はご愁傷様。
けれど、その二年の研究のおかげでこの今際の際に私は方舟を動かすことができます。
「本当に、やるのですか?」
私の座る"玉座"の背後から声をかけたのは眼鏡が個性的なエンジニア部の同級生。今となっては大変貴重な私の同期です。
「そりゃあ、このプランが一番大勢を救う可能性があるんですからやるしかないでしょう。あるいは、アリスさんがいれば私なんかがここに座る必要もなかったんでしょうけど」
口にしてみて、ふとこれは本来彼女のためのものだったのではないかと思いました。あの会長はアリスさんのことをとても気にかけてましたし、おそらく彼女であれば当人の能力だけでこれを使いこなせたのではないでしょうか。アリスさんがこの存在を知っていたのかはわかりませんけど。
彼女はこれを使わなかった。
私が代わりにここに座る。
会長には申し訳ないですが結果としてはそうなりました。
「もう、それしか残されていないのですね」
何度も話し合った事をここでもまた繰り返されます。けど、不快ではありません。それは彼女が私を案じているからだと今はわかるから。
「私だって今じゃ"
またの名をビッグクイーン!なんて言ってみる。特にそう呼ばれたことはない。私の体はビッグと言うには悲しいくらいに成長しなかった。歴代セミナー会長はみんな色んなところが大きかったのに、どうして私だけ……。
アリスさんがいたらきっとこの気持ちを共有できたのだろうに。彼女と一緒にいたちっこい双子も、引っ込み思案なもう一人のクイーンも今はもういない。他にも──まあ私は言うほど同学年と交流が多かったわけではないですが──大勢の生徒がいなくなってしまいました。この女王の間にいる三年生も私を含めて三人。セミナー所属は私だけ。かつての三大校も随分と寂しくなってしまっています。
「髪の毛はどうする?」
そう声をかけてくれたのはもう一人の私の同期にしてエンジニア部。彼女も最後までここに残ってくれました。それがありがたいやら申し訳ないやら。
「そうですね、折角だし最後は懐かしいツインテールで!」
最近は会長として少しでも威厳が出ればとずっと髪は下ろしたままにしてましたが、三人だけですし最後ですし。
なんとなく、一年生の頃の、あの最も輝いていた時間を思い出したくて。
女王様の如くお願いすれば、彼女は丁寧な手つきで私の髪を結ってくれました。くるしゅうない、くるしゅうない。……偉い人の気分に浸るつもりだったのに、ユウカ先輩の事を思い出してしまいました。
きっと彼女の笑みがとても優しかったから。
髪のついでにと襟元を正されます。ネクタイの締め具合を調整して「苦しくない?」って。だから私は笑顔で「ええ、ぴったりちょうどいいです!」と返します。
続いて彼女は私の首裏に手を伸ばします。そこにあるのは首から生えた無骨な金属のコネクタ。それは私の脊髄に接続され私の血流や電気信号、その他諸々に加えて脳波を調整しています。チリチリとした骨の内側を掻きむしられる様な言葉にしにくい気持ち悪い感覚。ちょっと内臓が裏返る様な気持ち悪さが腹の底から湧き上がって、耳鳴りが脳の奥深くに突き刺さります。
「こっちの調子はどう?」
もちろん答えは決まってます。
「絶好調です!!」
"玉座"への適合率は上々。なので決して嘘ではありません。これは本来使えないはずの"玉座"を使う為に絶対に必要なものです。
ヘイローの形を変える事で当人の能力や性格に影響を及ぼすという、いまのキヴォトスでは当たり前の様に語られる根拠のない、けれど真実嘘ではない噂。
その逆のアプローチが私の首、そしてその下に等間隔で埋め込まれたこの装置です。つまり、体の方を調整してヘイローの形を弄ろうというもの。もちろん無闇に体を改造したとして、あるいは形を変えてみたとして、ヘイローが簡単に形を変えるわけではありません。ただ、より影響の出やすい改造の組み合わせというものがあります。それは個々人によっても違うものなのですが、これはその最適を最小限の負荷で試験実行する為の装置なのです。
ミレニアムとしてはあまり推奨すべきでない研究なのですが、こんなご時世なのでサンプルもデータも嫌という程集まってしまいました。どうせ集まったのなら使わなければ損なので、こうして体に埋め込み、無理やりに私をこの"玉座"に適合させるのです。
そして──
遠くで、何か巨大な獣の咆哮のようなものが聞こえました。昔私が閉じ込められた反省室の様に、ここも分厚い壁が外部の情報を遮断しているはずなのに。まるで世界そのものを震わせているかの様な獣の声。怖いと言う気持ちを直接揺らし起こす様な、世界の終わりに響く様な。
動揺を滲ませながらも"玉座"の後ろで今も最終調整を進めているコトリさんは、最後の解説を私に聞かせてくれます。
その声はいつもより平坦で、意識して声を抑えているようなしゃべり方でした。どうせ最後なのだから、元気な解説が聞きたいのですが。
「"玉座"に完全に繋がった時点であなたはシステムの一部となります。おそらくその時点で人格と呼ばれるものは消失するでしょう。検証を元にした計算上では一部の記憶情報は保持されますが、それらを意味あるものとして理解し、感情を動かす為の脳部位はほぼ全て演算領域として使用されると想定されています。それは……人としてのあなたの死です。そして埋め込んだ装置で調整されたあなたの力が"玉座"の分解の工程全て代替します」
部屋が、なんらかの衝撃で大きく揺れた。
ここはシェルターにもなる様に作られた防衛都市の奥深くだと言うのに。外は、地上はどうなっているのでしょうか。都市のシェルターに避難している他のミレニアム生はどうなっているのでしょうか。私たちは遅すぎたのでしょうか。
手に握らせてもらった四つ葉のクローバーの栞をきゅっと握り込みます。今の私の体では全力を出してもわずかにその表面を擦ることしかできませんが。それでも、大切な人たちの思い出が私の心を確かに支えてくれるのです。
いつか無自覚にそうしてもらったように、今度は私が。そう思って湧き上がる様々な不安を飲み込みます。できる限りの事はしてきたはずです。この最終調整が終わり次第"玉座"を起動させ方舟を動かします。それで最悪は防がれる。今はそれだけを考えるべきです。
「本来ならコユキさんの意思によって"玉座"を操作し再構成すべき舟の形を定めるのですが、先ほどの説明の通りその時点でコユキさんの人格が残っている可能性は限りなく低いです。そのため外付けのこの装置を用いて"玉座"に指示すべき箱舟の設計図をコユキさんの脳に後から流し込みます。……おそらくその過程で残された記憶も塗りつぶされることでしょう。コユキさんは玉座とあわせて方舟を構築、維持し続けるためのシステムとして完成します」
それはなんとも恐ろしい話です。同時にロマンのあるお話だとも思います。
「ついに、ミレニアムは──エンジニア部は宇宙船を完成させるということですよね。これは先輩たちが叶えられなかった快挙ですよ」
正確には違うかも知れませんが、モデルの一つであるウトナピシュティムの本船は宇宙戦艦と呼ばれていたらしいので、そう間違った話でもないと思います。元気づけるためのちょっとした冗談のつもりでしたが、私のその言葉でずっと解説も手を止めずに最終調整をしていたコトリさんが泣き出してしまいました。
「私たちが……っ私たちのせいで……こん、こんな人を、コユキさんを犠牲にする…………こんな、ものが…………」
「コユキ……」
ヒビキさんが歯にものの挟まったような、気まずそうな声で私を呼びます。
「え、あれ!?す、すいません……えっと私元気づけたくて、それで……」
「自分の身を犠牲にしようとしてるあなたに言えることじゃないし、それに荷担してる私たちが罪悪感を覚えるのも筋違いだけど、さ」
「罪悪感なんて!私がお願いして、無理言ってやってもらったのに!それにちょっと私の人格が止るだけで、そんなもの…………あーっと、えっと、その……ごめんなさい」
よくよく考えてみればようは私は死ぬわけで普通に嫌ですし、目の前で同じ事をしようとしている人がいたらできれば止めたいなと思ったことでしょう。なんなら今から誰か変わってくれるというなら喜んで玉座を譲ってしまいたいです。実際問題私以外を組み込んだところで意味はないのでたらればですが。そんな状態で今から死ぬ私に「宇宙戦艦やりましたね!」とか言われるのは確かに気まずいとかいうレベルのものではないでしょう。
「い、いえ……ずいません。そう、ですよね……宇宙戦艦、できちゃうんですよね」
「そ、そうですよー!滅茶苦茶カッコいい見た目にする予定なんで、期待しててくださいね?」
そんな私に気を使ってくれたコトリさんのセリフに、全力で乗っかることにしました。世界の終りに何とも締まらない会話です。
「ずぴっ、へへ……ふぇへへ、デザインしたの私とヒビキですけどね」
「最初コユキに任せたら幼稚園児みたいな絵を渡された私たちのいたたまれなさ」
「に、にはは……」
最後にこんな微妙な空気のまま終わるのは申し訳なさ過ぎます。私らしいといえば私らしいのかもしれませんが。どうにも人を怒らせたり、困らせたりというのは治らずじまいのようです。あれですね。雀百万オシドリ一千万。あれ、何か違う気がする。
まあ、悲哀に暮れるような空気よりはマシと思いましょう。
「……あと少し、これで……最終調整が」
コトリさんの言葉の途中で、今までで一番大きな振動が部屋を揺らしました。まるで地震です。この都市に収容した生徒たち──ミレニアム以外にも逃れてきた他自治区の生徒たちも収容しています──彼女らの安否が気がかりです。たとえシェルターが無事でも、ここまでの振動、中で酷い目にあってなければよいのですが。私たちは本当にギリギリで、コトリさんもヒビキさんも話しながらも決して手は止めずにいてくれますが、だからこそ最早間に合うかどうかは運任せ。
運任せ。
ぞくり、と嫌な予感が機械に調整されてる背筋を走ります。思い返せば私は昔っから賭け事に弱かったのです。ここで勝てば、ここからめくれる、そんな場面で何度涙を流すことになったか。
私が幸運を手にできたのはいつだって──。いえ、それ以上は考えないようにします。今この時にあの人の事を思い出せばきっと私は私の役目を果たせなくなる。
どちらにせよです。
とっくにカードは配られ終わって、コールもレイズもフォールドも宣言は終わってます。あとはカードが捲られて勝敗が決まるだけ。だからもう泣こうと喚こうと意味はありません。ボタンを押した後のスロットにしがみついても仕方ないのです。嫌というほど知っています。
それでも。それでももう一度、もう感覚もない手で握っているはずのクローバーを思います。きっと、きっと大丈夫と。竦みそうになる心を必死に奮い立たせます。
「調整終わりました!同調率規定値をクリア。玉座起動いつでもいけます!!」
「周囲の素材精査確認。方舟収容範囲内のマスク完了。分解可能領域指定完了!」
無理やりに冠を被り、女王を装った兎は叫びます。
かつてのこの都市の名ではない。新しく再構成されるこの舟の名を。たとえキヴォトスが失われても、学園都市が終わっても、私たちの青春がここにあったことをどうか忘れないように。かつて私がいた生徒会で大きな事件から些細な笑い話まで丁寧に記録してくれていた先輩の名を借りた舟の名を。
「生成──────っノアの方舟!!」
光が、音が、世界が遠くなって。崩壊していく世界をkrとrwたしg新tndうかmnなが──t────────
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夢から覚める。
ひどい夢。怖い夢。辛い夢。ひとりぼっちの夢。
夢のはずなのに随分と彩り豊かだ。
べっとりとした汗とドクドクと脈打つ心臓がこの『私』がまだ生きている事を教えてくれる。泣きたい。誰かに縋り付きたい。望めばそうできる。けれど、それはできない。──望まないから。そして望まなければ今の私はどこまでもそう在れる。
望まなければ。
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朝焼けの光も届かぬ中。
彼女は目を覚ます。
そして決戦が始まる。