がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる。
誰かの体がぶつかっても他人事。
まるで満員電車の一部にでもなったみたいだ。
肩に、背中に、お尻にも、誰かの何処かがぶつかって、私の何処かがぶつかって。
気にしない、気にも留めない。
満員電車の中では、私達は何も違わない。
ただ運ばれるだけの荷物。早く開放されたいって気持ちだけは一緒の荷物。
手にしたスマホに意識を向ける。物語の中にだけ集中する。
何時もの様に気にしない振りをして、私はスマホの画面に視線を落とし続けていた。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
軽い違和感だった。
不自然に揺れるスカート。その感触に気づいたのは普段の慣れのおかげだったんだろう。がたん、ごとん…と、揺れる電車の流れに逆らって、ふわり、ひらりと、スカートが微かに揺らめく。
それが一度なら、体勢を変えた誰かの手でも掠めたのだろうと無視もできたが、2度3度と偶然が続く訳もない。
ぽつりと、恐怖って言葉が胸に浮かんだ。
大人の男の人達に囲まれるって、意識的に無視してきた状況を改めて思い出すと、急に息が苦しくなる。
視線だけを動かして気配を探るけれど、そんなあからさまな相手がいたら、とっくに誰かに捕まっているだろう。
おまけに、私は小説の中の主人公じゃない。
何処にでも居る普通の女の子だ。相手の気配を探るって言ったって、それで殺気やら何やらが分かる訳もないんだ。
せいぜいが、後ろに人が居るなってくらい。
けれど、ここは満員電車の中。
何処に背中を向けたって、人がいない状況はありえない。
気にすれば気にするほど、人の気配は気になってくるし、ちょっとした鼻息や、身じろぎでさえ怪しく感じてしまう。
それでも、長年読み漁った本の中の知識は、私に別の手段を示してくれた。
流石に、こんな事態までは想定していなかったけど。自分が、探偵や、ヒーローになったりなんて、子供みたいな夢は見たことがある。
スマホの画面に視線を落としたまま、カメラを起動する。
そこに映ったのは、前方の人混みじゃなくて、私の肩越しに映る景色だ。
けど、それが間違いだった。
目だ。
目が合った。
偶然なんかじゃない。
それは、見られていた自分だからこそ分かる事。
私の肩越し。三つ編みの影から覗く視線が、手元のスマホに注がれている。
「っ…!?」
ああ、本当に怖いと、悲鳴すら上がらないだなって。
さっきまでの探偵気分でいた私は何処へ行ったのか。これで証拠の映像でも撮影して、痴漢を掴まえられたら、ちょっとしたヒーローにでもなれるんじゃないかって、バカみたいな事を考えていた自分が恥ずかしい。
今となってはもう、次に自分がどうして良いかすらも分からなかった。
頭が真っ白で、体が竦んで動けない。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる。
がたん、ごとん…と、それが次のリズムを刻む前に、きぃっと電車はゆっくりと速度を落とし始めていた。
滑舌の悪い車掌さんのアナウンスが車内に響く。
程なくして電車は動きを止め、扉が開くと同時に、人混みで蒸れていた空気が一気に外に流れ出す。
逃げないと…。
降りる駅にはまだ遠いが、次の電車でも学校にはまだ間に合う。
ううん。それで遅刻したっても、これ以上この電車に乗っていることは出来なかった。
動き出した人並みに合わせて、開いた出口に足を向けた その時だった。
ぐっと、手首を掴まれた。
知らない手が、私の手首を掴んでる。
大きな、大きな、男の人の手だった。
私の手首くらい簡単に、折ってしまいそうな手の大きさに、体から血の気が引いていく。
「っ…!?」
慌てて振り返り、掴んだ相手を確認しようにも、向かってくる人並みに紛れて、それが誰かが分からない。
そこにいるはずなのに、顔が見えない。
私が硬直している間にも、一旦途切れた人並みは、今度は逆向きになって押し寄せてくる。
「あ、まって、おりま…きゃっ…」
こうなると、もう逆らえなかった。
私の細い声は誰の耳にも届かない。
それでも、強引に人並みを割って外に出ようとすると、掴まれていた手首が、ぐっと、後ろに引き寄せられた。
歩き出そうとしたその瞬間にバランスを崩した私は、電車に乗ってくる人並みに流されて、奥へ、奥へと、押し込まれていってしまう。
手を伸ばしたって届かない。
扉はどんどん遠くなっていく。
誰かの肩にぶつかられ、スマホが手から滑り落ちる。
床に転がったスマホは、踏まれて、蹴飛ばされ、雑踏の向こうに消えていくと、何処に行ったかもわからなくなってしまった。
「あ、まって…っ」
落としたスマホに気を取られているうちに、車掌さんのアナウンスが聞こえてくる。スマホを諦めて外に出るかどうか。一瞬迷っている間にも扉が閉まり、私は一人、電車の中に閉じ込められてしまっていた。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる…。
最悪だった。
落としたスマホは見つからないし。
気づけば私は、閉まる扉と座先の衝立との間に挟まれて身動きが取れなくなっていた。
今、もし、さっき私の手首を掴んだ犯人が後ろにいたりしたら。
考えただけでも心が震えてしまう。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる…。
誰かの体が掠め、ぶつかる度に「ひっ…」と、飛び出しそうになる心臓を飲み込むのに必死だった。
大丈夫、大丈夫。
今、扉の前にいるって事は、次に電車が停まった時は、すぐ外に出られるから。
だけど、その時の私は完全に失念していたんだ。
私が降りる駅まで、此処の扉は開かないって事を。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる…。
次の駅まで、こんなに長く感じたことはなかっただろう。
いつもはスマホを眺めている分だけ、今は余計にそう思う。
はやく、はやく、はやく…。
このまま、何も起こらないうちに電車から降りたい。
半分、パニックを起こした私の頭は、それ以外に考えられなかった。
ただ、ちょっとだけの勇気があればよかったのに。
声を上げて騒ぎ立てて。
ちょっと白い目で見られたって良い。最近のご時世を考えれば、冤罪を恐れた男性は近づくことすら嫌がるはず。そうすれば、少なくても駅につくまでの安全は保証されたかもしれないのに。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる…。
ひらり、ひらりと、不自然に私のスカートも揺れ始める。
何とか その感覚から逃れようとした私は、扉と座席との間に体を押し込み、ますますと、逃げ場なくなっていることにも気づかない。
ただ、揺れているだけだったスカートの中に、空気が入る感じがした。
捲られそうになったスカートを払うようにお尻に手を回すと、誰かの手に私の指先が掠めていく。
少なくとも、女の人のじゃない。
触れて分かるほどに、がっしりとした手つきは男性を思わせるには十分だった。
恐る恐るに、後ろを盗み見る。
もし、今、誰かと目が合ってしまったら。
見なければ良いのに。ホラー小説を読んでいる時、外から見ている時はどうとでも言えたんだ。それが自分の身に降り掛かって初めて分かる。
見ない方が良いとは分かっても、見ないではいられない。
たとえそこに何が合ったって、分からない事のほうがずっと怖い。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる…。
盗み見たそこにはだけど…誰もいなかった。
ううん、満員電車の中だもん。人なんて何処にもいて、私のすぐ後ろにだって、背の高い男の人が立っている。クラスの中でもまだ小柄な私には、ただ立っているだけの男の人でも壁みたいに見えてしまう。
手にしたスマホをポチポチと。
一見すれば、誰もが私になんて興味がなさそうにも見えた。
後ろに立つその人だって、隣に立っている誰かでさえ、みんなスマホを片手に、誰にも彼にも興味を示してはいない。
やっぱり、気の所為だったのかな?
痴漢だなんてさ。特別美人でもない私を相手にしたってしょうがないもんね。
なに、自意識過剰になってるんだろう。そうやって自分の心を納得させると、今までの行為が恥ずかしさになって返ってくる。
スマホは…もう、諦めよう。
家に帰ったら駅に電話して、戻ってきたら御の字って程度。
仮に見つかっても、踏まれてボロボロになってる可能性のほうが高い。
お母さんになんて言おうか。
恐怖で立ち竦んでいた心に日常が戻ってくると、当たり障りのない不幸に思考が流されていく。
その時だった。
さわり…。
スカートの上から、お尻を誰かに触れられた。
手の甲がたまたま触れただけ?
それは違う。
だって、そこには確かな指先の感触がある。
「…っ!」
驚いたその拍子に、私は慌てて振り返ってしまっていた。
急に動いた私に押されて、周囲の人並みから不自然な揺れが伝わっていく。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる…。
ちっ…。と、聞こえてきたのは舌打ちだった。
一瞬、スマホを覗いていた視線の一つと目があってそれだけだ。
相手が犯人かも分からない。
苛立たしげな舌打ちの音に、私の方が悪い事をしてしまったような気さえする。
「ごめん…なさい」
謝っていたのは私の方だった。
なんでって思う気持ちは当然あったけど。冤罪で人生を狂わされた人の話を思い出せば、安易に声を掛けるなんて出来なかったし、そもそも、ちゃんとした確証があっても、私に声を上げる勇気があったかどうか。
それが、いけなかったんだろう。
当然だ。
もし、私が犯人でも同じ事をしたはずだもん。
人目を引くような美人よりも、誰にも気に留められない地味な女の子がいい。
気が強そうな相手よりも、気弱そうな相手を選ぶ。
こんな風に、お尻を触られたのを分かってはいても、声を上げられない子の方が良い。
ふと、電車の窓に映る自分と目が合った。
ああ、なんだ、それって私じゃないか。
自分の事をブスだってまでは思いたくないけど、誰かの印象に残るほどの顔ではない。ちょっと困り顔で、俯きがちな私は、こういう時に声を上げられるタイプにも見えない。
実際に、電車の隅で縮こまっているしか出来ないんだ。
なけなしの勇気を振り返って、それで諦めてくれるのなら良いけれど。
はたして、私のそんな子供じみた願望が叶うわけもなかった。
また、お尻に誰かの手が触れてくる。
スカートの上からだって、とてもじゃないが我慢出来るものじゃない。
嫌悪感と恐怖心が胸の中で渦巻くと、すっかりと竦んでしまった私の体はもう、自分じゃまともに動かせなくなっていた。
手にしていた学生鞄を後ろに回して、お尻の前で壁を作る。
そんな些細な抵抗をするので精一杯。
反応は無い。
お願いだから、このまま諦めて欲しい。
ぎゅっと、鞄の取っ手を握りしめて、電車の揺れに耐え続ける。
ゾクッとした…。
単純な恐怖に体が震える。
知らない誰かの手。大きな男の人の手。
私の願いをあざ笑うみたいに、太い指先に太ももを なぞられた。
カサついた指先の感触が、つぅっと、上へと向かってくると、スカートの縁が軽く持ち上がったのに気づく。
「っ…!?」と、飛び出そうになる心臓が、喉に引っかかった気さえした。
細い意識の全部が、繋ぎ止めていた正気の糸が、お尻と、揺れるスカートに向かったその瞬間。
ぐっと、学生鞄を引っ張られた。
あっと、言う間もなく。疎かになっていた指先から取っ手が滑り落ちると、私の足元に鞄が転がってしまう。
もう、自分を守る手段なんて何もなかった。
鞄に邪魔をされ、手前で止まっていた指先が、本当に中にまで入ってくる。
スカートを捲られると、車内の蒸れた空気にお尻を冷やかされた。
そのまま、丸い形をなぞるように昇ってきた指先は、薄い下着に触れ、悪戯をするように引っ張ってくる。
やめて、やめて、やめて…。
声なんて出るわけがない。
ただ、恐怖に震えた冷たい吐息が口の端から漏れ続ける。
下着の布を引っ張られ、それでも私の抵抗が無いことに気を良くした相手の動きは、さらに大胆なものになっていった。
一本、二本と、指が増える。
お尻を掴まれ、撫で回されて。背筋に怖気が走ると同時に、背中からイヤな汗が吹き出してきた。
助けて欲しい…。
ぎゅっと、胸の前で手を握りしめ周囲を見渡した。
けれど、私の異変に気づく人は誰もいない。
すぐ隣りにいる人だって、イヤホンを付けたまま手にしたスマホに夢中になっている。
そもそも、相手は男の人だ。
今も男の人にお尻を弄られているのに、同じ男性に声を掛けるなんて無理。
せめて近くに女の人がいてくれたら。彷徨わせた視線の先に、女性を見つけたのは幸運だった。
あの…。
たくさんの人がいる電車の中。がたん、ごとん…と、揺れる電車の中。
私の声は届かない。
精一杯に絞り出したつもりでも、途切れるようにか細い私の声音は、車内の雑音に掻き消されてしまう。
すぐ隣にいるのに。
扉のすぐ横のシートに座り、衝立に頭を預けて眠っているように見える女性は、何度呼びかけたって私の声に気づくことはなかった。あるいは、気づいていて無視をしているのかもしれないが、私に その違いが分かる訳もない。
そんな中。一人、私の悲鳴に気づいた人がいたのは、ただの不運だった。
ぎゅっと、お尻の肉が抓られる。
声を上げようとした事を咎めるような仕草に、私はすっかりと萎縮してしまい、その場に縫い付けられたみたいに動けなくなった。
男の人の指先は、とうとう下着の中にまで潜り込んでくる。
直接、お尻の柔肉を撫でられながら、伸びた指先は丸みの向こう側へと沈んでいくと、太ももの内側に指が触れた。
それでも私は動けない。他人に、異性に、触れられるのが怖くって、声すらも上げられない。
心臓がバクバクと胸を打つ。胸の前でぎゅっと手を握り、泣き出しそうになるのをただ堪える。その間にも、だんだんと、少しずつ、近づいてきた男の人の指先は、ついには私の恥丘へと触れ…。
「おいっ、おじさん。待てよっ!」
車内の喧騒すら掻き消すくらいの大きな声だった。
それと同時に、私に近づいてきた指先が、乱暴に遠ざかっていく。
えー、次はぁ…次はぁ…。
騒然とする車内、聞き慣れた車掌さんの声。
きぃっと電車に制動が掛かると、ゆっくりと速度が落ちていき、程なくして電車は駅に停止した。
「だれか、警察と、駅の人呼んでくれっ!」
私のすぐ後ろで、同じ学校の制服を着た男の子と、スーツを着た男の人が騒いでいる。
そんな光景を横目に見ながらも、震えた足は、とうとう自分を支えていられなくなった。
ズルっと、体が落ちる。
手すりを掴んで、倒れないようにするのがやっとだ。
そのまま、へたり込み、座り込んで、ようやく流れた涙が頬を流れていく。
「大丈夫か、北見?」
「ひっ…」
唐突に肩に触れられて、思わず声を上げてしまった。
私が声を上げた事に驚いたのか、その手が ぱっと離れると、申し訳無さそうに謝られる。
「っと、悪い。驚かせたな。俺だよ、俺って…詐欺師じゃないからな? ほら、同じクラスの…」
涙で濡れた瞳の向こうに、冗談めかして笑う彼の顔があった。
「清水…くん?」
「お、正解。誰? とか言われたらどうしようかって思ったけど」
知らないわけがない。
だって彼は、クラスの男の子の中で、顔と名前が一致する数少ない人だ。
だって彼が、私に可愛いと言ってくれた、初めての異性だったから。
気にするなって方が無理だ。
ナンパな人なのかなって、最初はちょっと警戒したけれど、ただ彼は誰に対しても気さくで、優しいだけだった。お世辞を言われたんだなって、浮かれそうなった気持ちを抑えようにも、彼を見ている内にそうでもない事に気づく。
彼に可愛いって言われたのだって、別に私だけってわけじゃない。
だからって、女の子をおだてておこうとか、調子のいいことを言って持て囃されたいって訳でもなさそうだ。
彼の中ではちゃんとそう思っていて、それを素直に伝えてくれただけ。
モテるんだろうなって、見てれば分かる。
だって、クラスの中で彼が一人でいるのを見たことがない。
彼への誤解を訂正しながらも、やっぱり私は、浮かれそうになっていた自分の気持ちを抑えることにした。だってそれは、私の誤解のはずだから。彼にとって、私が特別可愛いわけではないんだから。
「ごめんな。もう少し、早く助けてやれればよかったんだけど。確かめるのに時間かかちまって」
「ううん…、私の方こそ ごめんね。手間かけちゃって、私が…こんなだから。変な人にも、何も出来なくってさ…」
「手間なんて言うなよ。そんなの、やった奴が悪いに決まってるだろ。俺だって助けられて良かったって思ってるし」
やっぱり、優しいなって思う。
駅員さんに引き継いで、それじゃあって言っても誰も責めないはずなのに。
助けてくれただけじゃなくて、ただのクラスメイトってだけの私に付き添ってまでくれて。
もういいよ、大丈夫だよ、遅刻しちゃうからって私が言っても。
気にすんな、遅刻くらいなんだ、放って置けるわけ無いだろうって、意外と強引な彼の一面に押し切られてしまっていた。
とくんっと…。
淡い恋心が胸を打つ。
こんなの、ただの吊り橋効果だって分かるけど。それでも今はまだ、誰かの優しさに甘えたい。
「立てる? とりあえず、電車降りようぜ?」
「うん、ありがとう。清水くん…」
差し出された手を取って、何とか立ち上がった私は、彼に手を引かれながら電車を降りた。