いつのまにか、私は彼と一緒に登校するのが当たり前になっていた。
待ち合わせをしていた訳じゃない。ただ、使う駅が一緒で、登校時間も重なっていたってだけだと思う。
どうせ、同じ時間の電車に乗るならってだけで、彼が特別気を回してくれた訳ではないんだと自分に言い聞かせた。だって、そうでもしないと、もしかしたらって考えてしまう。
私を守ってくれるために、彼は私に時間を合わせてくれたんじゃないか。
優しい彼のことだ。本当は、この駅を使う必要なんてまったくないんじゃないかって。
そんな事を考えていると、自分の頬が熱くなっていることに気づく。
ひどい妄想だ。
期待して、傷つくのは私なのに。
彼に好きな人がいなくても、彼を好きな人はいっぱいいる。
そんな中に私も入っていって、その誰かを押しのけてまで「好きです」って、言える自信は無かった。
耳障りな踏切の警報音。
駆け足で近寄ってくる電車の足音。
滑舌の悪い駅員さんの声。
いつもの喧騒がホームに鳴り響いても、今日はまだ彼の姿を見てはいなかった。
今にも、向こうの階段から駆け上がってくるんじゃないかって、視線を送っては見るけれど。駆け足で上がってくるサラリーマンの群れの中に、彼の姿を見かける事もない。
♪♪♪
すると、手にしていたスマホが唐突に震えだした。
傷の一つもない真新しいスマホに目を落とし、画面をそっと撫でると、少しだけ胸が温かくなる。
あの日。二人で街中を歩いている途中、連絡先を聞かれた私は憂鬱だった。
つくづくと間の悪い。好きな人と連絡先を交換するだなんて、乙女チックなイベントフラグが折れてしまった。
「そっか。じゃあ、ちょっとショップ覗いてみるか?」
「でも、見つかるかもしれないし…」
「かもだろ? 見るだけならタダだって」
「じゃあ、うん…見るだけね」
正直助かった。
前の機種だって、特に思い入れが合って買った訳じゃない。
人気がある=無難。ていう程度の気構えで、使っている内に手に馴染んでしまっただけ。
買うにしたって、同じものを買えばいいやと思っていたけれど、数年前のスマホなんて置いてる訳もなく。きっと、一人で来ていたら途方にくれてたに違いない。
「こだわりとかあるのか?」
「ううん。ないよ、別に」
「じゃあ、使いやすいほうが良いよな」
多分、私の文学少女ってイメージを、まだ引きずっているんじゃないかな。
彼が勧めてくれたのは、桜色をした可愛らしい機種だった。
前の機種のバージョンアップ版。そのカラーバリエーションの一つを手に取った私を見た彼は「よく似合ってる」だってさ。
使い慣れた機種の後継ってのは当然あったけど。
一番の決め手になったのは、きっと彼の言葉に違いない。
真新しいスマホの画面には「寝坊した」と、彼からのメッセージが入っていた。
可愛いんだ。普段、頼もしいと思っていた彼が見せる抜けた一面に、ちょっとだけ頬が緩む。
先に行ってくれって言われたけどどうしようか?
彼と居れば忘れていられた嫌な思い出も、一人で抱えるにはまだ重い。
もうちょっと、待ってようかな?
2・3本電車を遅らせたって、遅刻するほどではないんだけど。
メッセージの雰囲気から察するに、今飛び起きた感じなのは伝わってくる。
10分か、20分か。30分後なら、流石に遅刻だろうけど…その頃には、朝ラッシュも落ち着いてるだろうと思えば、待ってられなくもない。
明日から起こしに行ってあげようか?
送ったメッセージは、私にしては攻めた冗談のつもりだった。
恋人を起こしに行く彼女も、きっとこんな気分になっているんだろうか?
だけど、そうだろう。短い付き合いでも、それで彼が慌ててみせるとは思わない。
「頼む」だってさ。忙しいだろうに、律儀に返ってきた返信に、こっちの方が照れてしまいそうだった。
♪♪♪
「ん?」
熱くなり始めた頬を冷ましていると、すぐに次の着信がやってくる。
なんだろう? 冗談なんて送ってしまった自分も悪いんだけど、慌ててる割に案外余裕があるもんだと思いながらスマホの画面を見ると、そこには私の名前が浮かんでいた。
そう、不思議なことじゃない。
失くしたと思っていたスマホを悪戯に使われたんだろう。
なんの根拠もなく、まぁ平気だろうと、色んな手続きを後回しにしていた結果がこれだ。
悪い事って重なるんだな。あんな目にあった後なのに、今度はこんな事になっちゃって。
無視をすれば良い。むしろ、そうするべきだった。淡々と携帯会社に連絡して、利用を停止するなり、GPSだとかで場所を特定するなりと、事務的な対応するのが正解だ。
けれど、それも今更だ。私の個人情報を握った相手が何をするか分からない。不安に駆られた私は、一応の警戒はしつつも、送られてきたメールを開いてしまっていた。
彼の、写真?
それも、今大慌てで走り出したような写真を前に、思考が固まってしまう。
これは何? どうしてこんな写真が送られてきたの?
理由もわからず、戸惑う私の前に送られてきた次のメールには、お母さんが映った写真まであった。
「あ…ぁ」
言葉が、詰まる。声が、出ない。
脅されているのは分かる。
彼とお母さんは、犯人の手の届く所にいるのは確か。
それで?
分かったからってどうなるの?
警察に連絡すればいいのにって。小説を読んでいると、そう思うことが何度もあった。けど、それが自分の番に回ってくると、そんな常識が何の役にも立たない事に気づく。
今すぐ警察に連絡して、もし、それを犯人に気づかれたら?
きっと、一人じゃないんだろう。
お母さんを見てる奴と、彼を追いかけてる奴が絶対にいる。
そんな中で、私に監視がついてない訳なんかない。
チラッと、大げさにならない程度にホームを見回してみても、それらしい人影なんか何処にもない。ううん、一度疑い始めれば、全部がそれらしく見えて判断なんかつかないんだ。
向こうのベンチに座っている人も。あっちの方でスマホをいじっている人も。
たった今、階段を昇ってきた人だって、そんな振りをしているだけかもしれないし、向かいのホームからなら私の動きなんて丸見えだ。
警察に連絡して、駆けつけてくるのにどれだけ掛かる?
大体8分くらいだっけ? それだけあれば、彼とお母さんに手を掛けるくらい簡単なんじゃないか?
いや、お母さんならまだいい。
今は仕事中で、他の人も周りにいてくれるはず。
何かをしようにも、8分でどうにか出来るとも思えない。
問題は彼の方。
人目があるにしたって、赤の他人にそこまで気を掛ける人なんて そうはいないのは自分が良く分かっている。ちょっとやそっと、そこらで揉めていたって、面白半分に写真を撮られ、SNSなんかに投稿されるのがせいぜいだろう。
だからって、それが抑止力になるなんて到底思えなかった。
ここまで陰湿な事をする犯人が、そんな程度を気にするもんか。
いっそ、馬鹿になれたら良かったのに。
何も考えずに警察に通報する。ただの悪戯だと思って無視をする。
私には、そのどちらも選べなかった。
ほら、また。
大切な場面で、私はいつも決められない。
戸惑って、躊躇って、考えてるつもりで答えは出ない。
こうして悩んで見せれば、先生や、お母さんがアドバイスをくれた。
それを参考にした振りをしながら、言われた通りにやっていればそれで良かった。
でも今は、アドバイスをくれる大人の人も、私を助けてくれる彼もいない。
お母さんが危ないかもしれないのに。彼が危ないかもしれないのに。
ああ、そっか。馬鹿になれたらって、そんなのは、何もしようとしない今の自分が馬鹿そのものだ。
♪♪♪
不意に震えたスマホに肩が跳ねる。
見なくても分かっていた。きっと犯人からの着信なんだろう。
恐る恐るに画面を見ると、そこには、短いメッセージが添えられていた。
次の電車の最後尾に乗ってください。
乗るわけがない。
乗ったら自分がどんな酷い目に合うか分からない。
殺されはしないでも。つい先日、痴漢にあったばっかりだ、そういう想像はイヤでも湧いてくる。
だけど同時に、お母さんと、彼の顔までちらつくと。それで良いのかって、また、悩んで動けなくなった。
そんな、私の性質も悪かったんだろう。
誰かからのアドバイスに従っていれば、悪いことにはならないからって、いつもの自分が顔を出す。
正常性バイアスっていうんだっけ?
本の中の知識はあっても、それが私を助けてくれることはなかった。
気づいても抗えない。どうして良いかわからない分だけ余計にいつもの癖ががでてしまい、私は座っていたベンチから立ち上がってしまっていた。
行き先は、もちろん階段なんかじゃない。
ホームの一番端っこ。
ラッシュの時間も落ち着きはじめたそこには、わざわざ足を運ぶ人も多くは無かった。
耳障りな踏切の警報音。
駆け足で近寄ってくる電車の足音。
滑舌の悪い駅員さんの声。
いつもの駅のホームで、だけど、アナウンスされる行き先は、いつもとは全然違う方向が案内されている。
ゆっくりと電車が停まり、開いた扉から わっと人が降りてくる。
逃げるなら今が最後のチャンスだった。
乗ってしまったら、どんな目に合うかわからない。
でも、それは、逃げたって同じだ。お母さんと、彼と、私が無事だって保証はない。
じゃあ、私が電車に乗れば二人は安全かって、そんな事もないんだろう。
犯人からの要求は次の電車に乗れってだけで、お母さんや、彼に危害を加えると言った事は何も書かれてはいない。それは当然、乗ったからって二人を助けてくれるって保証になる訳が無かった。
全部は私の想像。ただし、今の所はだ。
こうなったらイヤだなって思いが強くなるほど、悪い方へとばかり考えてしまう。
けれども、誰かからの提案に慣れきっていた私には、大切な場面でそれを拒む勇気が出ない。むしろ、言われるままに電車を待っている事で、多少なりの落ち着きを取り戻した自分もいる。
最低でも、自分一人は助かる選択肢を消極的に放棄した私の後ろには、逃げ道を塞ぐようにして、知らない誰かの気配が立っていた。