一歩、進みだそうとして足が止まる。
ホームと電車にある溝の手前。そこを越えてしまうともう、元には戻れないような気がして、残っていた理性が警笛を鳴らしていたんだろう。
♪♪♪
電車の発車を知らせるメロディーと、乗車を促す駅員さんの声。
そのどれもが、私から悩む時間を奪っていった。
悩んで、それでどうなる訳でもないのに。
彼なら、それでも逃げろって言ってくれるのかもしれない。
お母さんだってきっとそう。二人は私の犠牲を望まない。でも、それは私だって同じなんだ。
私が逃げて、本当に二人に何かあったら。
怖い。
板挟みだ。
大切な人を傷つけられる恐怖と、自分が傷つけられる恐怖。
どっちが良いかって。
そんなの、ただの日常を流されるように過ごしてきた私に選べる訳もなかった。
悩んだ振りをしながらも、結局は楽な方へと流される。
誰かの言う事を聞いていれば、悪いようにはならないはずだから。
私が少し怖い思いを我慢すれば、少なくても二人は助かるはずなんだから。
だから、仕方ないって思う。
そう、自分に言い聞かせる。
背後に立つ誰かの気配に背中を押され、私は車内へと押し込まれていた。
背の高い男の人。まるで、自分の頭の上に影が落ちた様な気配だ。
180か、90か。それよりもっと、2mはあるんじゃないかって、縮こまっていた私の心象は、不必要なまでに男の人の事を大きく感じ取っていた。
車両の中ほどで男の人の足が止まる。
そこは、出口から最も遠い場所だった。
開いた扉から私が逃げ出そうとしたって、きっと途中で取り押さえられてしまうんだろう。
「あの…」
沈黙に耐えきれなくなった私は、恐る恐るにでも、男の人に声を掛けていた。
思った通り、窓ガラスに映り込んだ男の人の背は高い。
私の頭は、その人の胸元くらいまでしかなく。頭一個分か、それ以上には大きく見えた。
身長だけじゃない。横幅だって、私より一回りか、二回りは大きく感じた。
もちろん、太っているとかじゃなく。着こなしたスーツの上からでも分かる程に、がっしりとした男の人の体型だ。
♪♪♪
返事の代わりに、スマホが震える。
表示されたメッセージには「前を向いて、つり革を掴んで」と書いてあった。
言われるまま。言われた通りに。スマホ片手に つり革を掴む。
窓ガラスに映り込んだ私は、何処からどう見てもただの学生だった。
学校とは反対方向に進んでいこうとする違和感に、誰か気づいてくれないかと期待はしてみても、そもそも他人の事を気に掛けてくれる人なんて何処にもいない。
チラホラと、閑散とした車内で見つけたのは2種類の人達だけ。
寝ているか、スマホを見ているか。とかく、他人と関わりたがらない都会の人特有の無関心がそこにはある。
私だってそう。
普段ならそっちの方が気が楽だってさえ思う。
なのに、こんな時だけ助けて欲しいだなんて都合のいい話はない。
多分、心の何処かでは期待していたんだ。
あの時、彼が声を掛けてくれたみたいに。
いざって時は、何処かで誰かが助けてくれるんじゃないかって。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる。
動き出した電車の中で、私は一人ぼっちだ。
でも、まさかって、甘く見てた部分はあった。
都会特有の無関心が手伝っていたって、人の目がまったくない訳じゃない。
私がちょっとでも声を出せば気づく人だって出てくるだろう。
それで助けてくれるかは別だとしても、犯人たちからすれば見られるのは面白くはないはずだ。
だから、きっと大丈夫。
軽く体を触られる程度なら、きっと私は大丈夫だから。
「ひっ…!」
けれど、心で強く思うほど、私に覚悟なんか出来ちゃいなかった。
太ももの裏側に男の人の手が触れる。たったそれだけで、怯えた声が口から出てしまう。お母さんとは全然違う。友人たちと比べてみたってそうだ。
大きな手の平と、太い指。
少し乾燥気味の肌はザラついていて、皮が張った様な固さがあった。
働く男の人の手だ。それは、清水くんに手を引かれた時よりも、昔お父さんと手を繋いだ時の感覚の方が近い。
お母さんの手と比べたら、触り心地の良いものではなかったけれど。
手を繋いだ時の力強さに、抱きしめられた時の大きさに、頼もしさとかいうような安心感を感じるものだった。
同じ、男の人の手なのに、なんでこうも違うんだろう。
安心感なんてあるわけもない。
ただただ、気持ちが悪い。
ただただ、怖い。
ささくれた男の人の肌に、私の薄い肌が傷つけられた気さえする。
そんな感触が、膝の裏側から、ゆっくり、ゆっくりと、太ももを伝い、上へと昇ってくると、スカートの中へ入った手の平に お尻の柔肉を掴まれた。
まるで、この間の続きをされているようだ。
あの時は、清水くんが助けてくれたけど、その彼は寝坊しちゃってて、今は大慌てで駅に向かっているんだろう。
バカ…。
思い浮かんだ言葉は、あまりに理不尽だ。
あの時助けてくれて、今日まで守ってくれて、そんな彼に私は何も返せてはいない。むしろ、どうして彼がここまで良くしてくれるのかって、半信半疑な自分もいる。
「ぅ…ぁ…やめ、やめ…て、ください」
お尻の柔肉を弄ばれているだけで、私の心はもう、潰れてしまいそうだった。
太い指先に揉みくちゃにされるまま、泣き出しそうになるのを必死に耐える。
それだけでも、限界だったのに。
つり革を掴んでいた右手側。
無防備に晒されていた脇腹に、男の人の手が触れた。
その感触にゾクリとする。服の上からとはいえ、敏感な脇腹を刺激されると、どうにも我慢が効かなかった。
「っ、ぁ、ゃっ、はぁ、んっ、ふぅ、はぁ…」
くすぐったさに、イヤでも体が反応してしまう。
逃げようとして、身を捩った私を咎めるように、男の人の手にお尻の柔肉を大きく掴まれた。
痛くはない。けれど、自分のお尻を好きにされている事に、悔しさだけが募っていく。つり革を強く握って、不快感に揺れる体をなんとか押さえつけた。
こんな人の 好きに何かされてやらない。
唇を噛み締めながら、左手に持ったスマホを握りしめる。
今度は落としてしまわないように。彼との思い出が、挫けそうな私の心を少しだけ慰めてくれる気がして、ただそこに縋るしか無かった。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる。
脇腹をくすぐっていた男の人の指先は、もっと上の方へと上がってきた。
上着と、薄いブラウスとの隙間に入り込んだ指先を遊ばせるみたいにして、脇の下へと近づいてくる。
「っ…」
唇を噛みしめる。つり革を掴む手に力が入る。
出来るだけ考えないようにしてはいたけれど、近づいてくる指先の感覚に、どうしても意識しないではいられなかった。
脇の下をくすぐられている間にも、こないで、こないでって、頭の中で願ってやまない。お尻を触られるのとどっちがマシかって、そんなの、どっちもイヤに決まってる。
ただ、それでも。目に見えて分かる女性の膨らみに触れられるのは、性的な事への想像を強くした。お尻を掴まれているみたいに、私の胸の膨らみも掴まれてしまうんだろうか?
大きな手に包まれて、掴まれて、揉みしだかれる。
考えただけで、胸が締め付けられた。
きゅっと、縮こまった心臓が、私に逃げろって言うみたいに胸を叩いてくる。
「や、め…やだ…ぃゃぁ…」
けど、私は動けない。
彼の為とか、お母さんの為とか理由は色々合ったけど。一番の理由はただ、怖かっただけ。その恐怖を誤魔化すみたいに、首を振って、けど、それだけだ。
不快感に耐えかねて脇を閉じようとしただけで、咎める様にお尻を強く掴まれた私には、抵抗することすら許されない。
見下ろした自分の体。
上着とブラウスの隙間から、指先の肌色が見えた。
脇の下に男の人の手首がある。1本、2本と、這うように、胸の膨らみに指先が伸びてくる。
すっぽりと、収まってしまった。
男の人の手のひらに、私の胸の膨らみが包みこまれている。
同年代の子達と比べても、小柄な私の胸はそう大きいものでもない。
自分で触ってみたって少し余るくらいで、男の人の大きな手なら簡単に覆ってしまえる程度だ。
薄いブラウスの上から胸を包まれる。ブラジャー越しにも伝わってくる男の人の体温に、嫌悪感が増していく。
ゆっくりと、何故か優しく指先が動いていた。
それはまるで、何かを確かめるように。たとえば、私の胸の形や大きさなんか楽しむみたいでもあった。
気持ち悪い。
お尻と、おっぱいを、良いように触られて、何も出来ない自分が悔しい。
つり革をぎゅっと握って、唇を強く噛み締めたってそれだけだ。
溢れた涙が頬からこぼれても、私には声を上げることすら出来なかった。
彼と、お母さんを守るためだから。そう、何度も自分に言い聞かせて、時間が過ぎるのを耐えるしかない。
がたん、ごとん、がたん、ごとん…。
電車に揺られて、私も揺れる。
男の人の指先が、私の胸を突き始めていた。
丁度、それは何かを探しているような感覚で、指先が膨らみの頂点を掠めると、私は思わず肩を跳ねさせてしまった。
「あっ…」
ダメって思った時にはもう遅い。反応を返してしまったのが間違いだ。
胸を揉まれても、そこだけは触られたくなくって、咄嗟に体を引いてしまう。
笑われたんだろうか?
首筋に、生暖かい吐息が掛かったような気がした。
ちょんっと、男の人の指先が、狙いすますように私の乳首に触れていた。
服の上から、ブラジャー越しにとはいえ、ピリっと、いやな痺れが伝ってくる。
ちょん、ちょんっと、押されて、押しつぶされて、胸の膨らみの中に押し込まれた乳首がクリクリとイジられると、むず痒いような感覚に、体を掻き毟りたくなる。
快感なんかじゃないって思いたい。
ただの嫌悪感だって、強く思う。
だけど、感じた事のない刺激に、私はどう反応していいか分からなくなっていた。
お風呂で体を洗う時だって、せいぜいがくすぐったい程度。
ふわっとしたような不思議な気分にならないことも無かったけれど、それはだって、肌の薄い部分をくすぐられて、変な気分になるのとそう変わるものじゃない。
くりくり…くりくり…。
胸を鷲掴みにされながら、指先で乳首を押し込まれる。
じっとりと、イヤな汗が背中を伝う。直接 触れられていたお尻まで汗ばみ始めると、乾いていた指先の感触が、しっとりと張り付いてくるみたいだった。
このまま、いつまで、早く終わって。
潰れてしまいそうな自分の心臓を、必死に励ましながら願い続ける。
そんな私に救いの手を差し伸べるかのように、がたん、ごとんと、一定のリズムで揺れていた電車が、ゆっくりと速度を落としていった。
車内に響くアナウンス。次の駅を知らせる声。
まもなくして電車が停まると、両端の扉がガチャリと開いた。
逃げられる?
ここまで大人しくしていたんだ。急に飛び出せば、男の人だって反応出来ないかもしれない。
それは、おとぎ話にあるような蜘蛛の糸の様にも思えた。
細い、細い、希望の糸。
掴んだら、切れてしまうんじゃないかってくらいに細い糸だ。
私はその糸に手を伸ばし…。