野球部の音――ボールを打つバットの金属音とか、何か怒鳴るような掛け声――が廊下にまで響いてきている。三階の視聴覚室、音楽室、美術室のならび。
校舎の裏側なのに、校庭の音がここまで響くのな――特に深い意味もないが、気が向いて圭はパレットを洗う手を止めた。普段は音なんか気にしない。けど、気になりだすと案外いろいろと気が付く。
この階に自分以外は誰もいないこと。パレットを洗うガチャガチャとした音がやみ、蛇口の水がステンレスを静かに打っていること。あいた窓から涼しい風にのって、物悲しいヒグラシの鳴き声が聞こえてくること。
アブラゼミはすっかりなりをひそめていた。
これで夕日で真っ赤、とかになってれば超エモいけど。
圭は案外自分にも詩的な感性があるのだと感心しながら、白んだ青空の鱗雲を眺めた。
まあ、でも、意外にいい感じだ。
ここは人が来なすぎて打ち捨てられているような感じがしていたが、考えようによっては校舎のだれもいない場所なんて、貴重なことなのかもしれない。
感傷的な気分になっていると、誰かが階段をのぼってくる足音がした。
この時間に、こんなところに?違和感があった。
誰だろう。
ここに来そうな人間の顔が頭を駆け巡る。
顧問の杉本――は、ない。アレがここに来たことはない。
数人の親しい同級生――いや、あいつらは塾だ。
最後に頭をかすめた顔。
ありえないのに、なんかありそうな――そう思っていると紺色の靴下、野暮ったい丈のスカートがみえた。続いて黒くてショートでもロングでもない髪。
女子…… やっぱり、そう。武藤だった。
ここに人がいることの違和感からだろうか、それとも武藤の存在感のせいだろうか。
とにかく音がなくなった気がした。
(なんか時間が止まったみたいだ)
がっつりと目が合って、唐突に二人きりになってしまった。
いつからかだろう。
いつからか、武藤とやけに目が合うようになった。
そして今も。
正直なところ、それは気持ちよいものじゃなかった。
武藤のスカートはいつも変なしわが寄っていたし、足はどことなく傷じみていた。髪はなんか、こう、乾いていてパサパサしている感じがする。
クラスの女子、とくに「そういうこと」を気にしている女子とは明らかに異なる。全体的に飾りっ気がない。
かといって、ほかの飾りっ気がない内向的な女子と話しているかと言えば、それも目にしたことがない。
いつも独特な家?のにおいがして、失礼だとは思うけど、そういうのも友達がいない原因の一つなのだろうか、とか勘ぐってみたりしたこともある。
もっとも話したこともないから、友達がいないは勝手な憶測、圭の偏見だった。
女子のことはよく分からないにせよ、いろいろとヒエラルキーがあるのは分かる。十八年生きて、そのどこかに入れてもらえる処世術を身に着けていないヤツって、やっぱりどっかイカれてるんじゃないか、というのが正直な気持ちだった。
し、その武藤がやたら自分を見てくるというのは、なんとなくマズいような気がする、とも圭は感じていた。
音がなくなるほど武藤に集中したのは、そういうアレコレのせいなわけで――
「春田君…… 」
そういえばこんな声だった。
武藤は特徴のあるかすれた声をしている。先生に指された時にしか口を開かない武藤が、自分の名前を呼んでいるのが新鮮だ。
「お…… あ、うん」
圭も緊張していた。
「なに、珍しいねこんなところに」
珍しいというか事件。
「ごめんあの春田君がいると思って…… 」
そうだろう。この半年、ここには圭しかいない。
「別に用事があるってわけじゃないんだけど」と、武藤は早口でまくし立てたあと「じゃなくて」と打ち消した。
武藤は「じゃなくて」と言った。用事がない→打ち消し→用事はある。
なきゃこんなとこに来ない。はずなのに、武藤はなかなか用件を切り出さず、見ていて気の毒になるくらい目が泳いでいた。
武藤から受けるこのちぐはぐな印象、何なのかな。圭は何かを詰まらせて顔を赤くしている武藤沙也加のことを眺めながら、一瞬だけ違和感の正体について思いをめぐらせた。制服があってない、肩幅が広いせいなのか…… 改めてみると女子の中では背が高く、なんだか薄いカラダをしている。
少しの沈黙。
武藤に対して気の毒な気持ちが勝って「仕方ない、なんとかしてやろう」と思わざるを得なくなってしまった。
「まあ、じゃあ、とにかく入りなよ。なんか…… わかんないけど」
言いながら、先ほどから出っぱなしだった蛇口の水を止める。
唐突にヒグラシの声が頭に入ってきた。
(あ、時間、うごいた)
洗いかけのパレットに水を浸して、シンクにおいておく。
武藤の喉のあたりから「うん」らしき音が聞こえた。かすれて声になっていない。でも小刻みに首を縦にふったので同意しているのは分かった。
「入りなよ」も何も、別に自分の部屋ってわけじゃないのだが。
一応、美術室の戸をあけてやった。そうでもしなきゃ武藤は下校時間までそこにつっ立っていそうに見えたのだ。武藤はおずおずと美術室に入っていく。
武藤にとってこの部屋は、招かれなければ入れない俺のテリトリーということなんだろう。圭はそう思うとなぜか微妙にイラっとした。
「なんか飲み物でも出せればいいんだけどさ」言いながら武藤の後について美術室に入った。
こんな風に気さくに接さなければ、今にも飛び上がって走り去ってしまいそうに見える。
戸を閉めるかどうか迷って、開けておくことにする。一応、いつでも逃げれるように?
猫かな。
飲み物についてはなんの反応もない。
「で、どうしたの?絵でも見に来たの?」
三年に進級した時から、圭は思うところがあって放課後に美術室で絵を描いていた。こんなこと人に話すと変に勘ぐられたり、理由を説明しなきゃいけなかったりでウザイから、ほとんど人に言っていない。絵を描く理由を説明するなんて難しい。
言いようもないし、卒業したらもう描かない、のかもしれない。
「絵を見に来たのか?」と聞かれた武藤が一瞬ぼんやりしているのが、背中越しでもわかった。振り向いた武藤と目が合う。例によって訴えかけるような強い視線。
「そうじゃなくて――」ええと、と中継ぎを入れて武藤は続けた「春田君、絵描いてたんだ」
絵を見に来たわけじゃない、と。それを知らずに来たらしい。
「もう卒業だから」
「うん」
「わたし一回春田君と話してみたかったから」
なにそれ、と言いかけてやめる代わりに、武藤にすすめる椅子を目で探した。
「なにそれ」は多分だめだ。
教室のすみの机に一脚だけ伏せてあった。
「話してみたい、ね。そうなんだ」
武藤に椅子を出したが、すぐには座ろうとしなかった。
「急で迷惑だった?」
視線が強すぎて、話が入ってこない…… なぜか目を逸らしたら傷つけてしまうような気がした。
果たして。こんなに目を合わせなくちゃいけないか?
ついノータイムで「いやそんなわけないよ」と答えてしまった。もちろん迷惑だった?に対しての返事だ。
戸惑いと迷惑はどれくらい違うのかは置いといて。
「でも、じゃあ、なんで急に?」
椅子に座る様子がない武藤を差し置いて、仕方ないから自分だけでも座ることにした。
沈黙が流れる。
こんなシチュエーションで女子と二人だったらもっとテンション上がるだろうし、舞い上がってうまくしゃべれないんだろう。
「まあまあ」言いながら圭は思う。
相手は緊張でがちがちになった武藤だ。
「まぁどうぞ、おかけになってください」なんだかヤケっぱちな気分になって、気が楽になってきた。
相手は女子じゃない(いや女子だけど)、武藤だ。
「はい、うんありがとう」
早口。
武藤は俺と話してみたい、と言った。
圭は次第に、武藤が出たとこ勝負を仕掛けてきたのだと分かってきて、このクラスメイトに対して気遣うのがばかばかしくなってしまった。
なんか、わかる。きっとここに来るのには勇気を出したんだろう(の、かもしれない)。
けど。
やってきたはいいけど、ノープランがすぎないか…… せめてもう少し練ってから来いよ。
もういいか。
「俺、あんまり武藤が人と話してるの見たことない」
率直でいいや、率直で。気遣う労力がもったいない。
武藤沙也加を気遣う気持ちがかなり減った。
彼女は一瞬目を覚ましたような顔をして「うん、あたし友達いないから」と答えた。
意外にすんなり返ってくる。
「え、じゃあ学校に一人もいないの?」
「うん」
「まじか。三年もいたのに」
言いながら、圭は茶化すためにフフ、と笑って見せると武藤も一応少し笑った。「まじか」なんて驚いて見せたけど、実際は驚いていない。
「じゃあ、地元の友達とかは」
「いない」
「友達いないって、
「そう」
普通に生きてりゃ友達の一人や二人はできるんじゃないかな。
こういうタイプの人って、友達欲しくなったりするのかな。案外気にしないのかもしれない。
こういうこと聞くと気まずくなるし、あんまり好きな話題じゃない可能性が…… いや、いいのか別に。
(気ぃ遣うだけ損だしな)
もう話題はある程度好きにをふりまわしてもいい。はず。
「友達、欲しくなかったの」
「わかんない」
へえ、と相槌を打ったものの、思っていた以上に打ち解けられないんじゃないか、これは。
所在なくなって、風で膨れ上がったカーテンのを眺めていた。
「わたし、人と何しゃべっていいかわかんないから」
そうだね。俺もだよ。今まさに。
「春田君はいつも友達と何しゃべってんの」
「いや、なんだろう。普通に音楽の話とか、下」
ネタ、と言っていいんだろうか。いいのか、別に。
「シモ?」
「下ネタとか」
「そういうこと話して仲良くなるんだ」
なんだそりゃ、人間一回目かよ。
「まあね」
「それで仲良くなるの?」
そりゃ、まあ。
「じゃあ、まあ、例えば武藤は音楽きくの」
「聞く」
「どんなの聞くの」と、一応普通の会話っぽいことをしてみる。人に化けたての猫に、人間社会になじむための訓練をしてるような気分になってきた。
「最近はパソコン音楽クラブと、ノルディックラウンジが好き」
圧倒的に知らない。
そこは普通にアドとかヨアソビとか言っておきゃいいのにな。せめてなんかアニメの主題歌おさえとけと思う。いや、まあ仕方ない。化けたてだからな。
「じゃあさ、ちょっと今言ったの聞かせてよ」
そういうと武藤は意外なほど戸惑った。
とり落とすかと思うほど慣れない手つきで自分のスマホを取り出して(スマホもってんだな、一応)画面を開いて(俺に見られてもいいようだった、なんか想像通りの暗い色調のホーム画面だ)「え、わたしこんなの初めてだ」と繰り返しながらスマホをタップして曲を再生してくれた。
「春田君、わたしこんなこと初めてだよ」と、再生をする前に念を押すように武藤が繰り返し言った。
それを聞いて、圭は少し自分の心が動いた気がした。
流れた曲は透きとおったような達観したかのような印象の曲で、言っちゃなんだけど普段の武藤に似つかわしくないと思った。
正直かなりかっこいい。
「別によくないよね」曲が終わってすぐに、注釈をつけるように武藤が言った。
「いやパソコン音楽クラブは最高なんだけど、別に私の、いや…… なんか、なんだろう」
と言ったきり、武藤は伏し目がちにおし黙った。
「いや。よかったよ。意外だった。すごいよかったよ。武藤、センスいいんだね」
今聞いた曲は、確かにかっこいいと思った。
武藤は何とも言えない顔になった。
「春田君は何きいてるの」
そういわれて気が付いたが、熱心に紹介するような曲はない。武藤のように自己紹介になるような「好き」はないのだ。自分に。
「いやあ、なんでも聞くよ、別に」
と、いうしかない。
「そうなんだ」という武藤の耳が真っ赤になっている。
もしかして、今自分が好きな曲をほめられただけでそうなったのか。だとしたら、あまりに人に慣れてなさすぎじゃないだろうか。
「とにかく、こんな風にして仲良くなるわけ。分かる?」
というと、武藤は目が覚めたような顔をした。
「自分のことを話すモノなの?」
「まあ、それ以外なくない?」
圭は(いや、そんなことはないか)と思ったものの、これで武藤が人間社会で友達を作れるようになるなら、それでいいかとも思えた。
「でも私の話なんか聞いても面白くないよ」
「いや、面白かったよ。意外だったし」
そういうとなんの臆面もないドヤ顔でニヤッと笑って、顔を輝かせた。そういう気持ちって、微妙に隠したりするんだけどな。
「パソコン音楽クラブ、かっこよかったし」
でもいい。素直なのは、それはそれで。
「その、じゃあ、友達になったら下ネタとか、自分のことを話すの?」
「え、いやまあ、……そうだな、そう、かな」
「じゃあ、お尻に興味がある話とかも?」
まじかあ。
次は距離感とか、男女の友情とかについて話す必要があるのか。
(いや、男女の友情とか知らねえな)
自分にとっても初めてが起きている。と、圭は思い直した。