奉仕しないと帰れない部屋に囚われた男の業務記録 作:dolph
アウラは薄汚れた姿で異界の部屋を訪れる。
身なりのよい美しい男へ向ける目には、憎悪と殺意と怒りがあった。魔族が抱くにしては稀な感情だ。
憎悪を抱く前に殺す。殺意はその時だけのもの。力及ばず殺せないなら逃げを打つ。怒りに任せて死ぬより生存を選ぶ。しかし現状はどちらも選べない。逃げも殺せも出来ないことが、肉体的な負荷となってアウラを襲っていた。
現状を受け入れて諦められればよいが、アウラの精神はそこまで老成してない。社会性のない魔族ならではだ。良く言えば若々しく、悪く言えば未熟である。
「ノートを出しなさい。サインしたらさっさと帰るから」
「記帳だけは先にして頂きましょう。ですがお帰りに為られる前にお聞きしたい事がございます」
「なによ? お前に話すことなんてないわ」
アウラに出来ることは、一秒でも早くこの場を立ち去って男を視界から消すことだけ。そのつもりでいたのに、応接間の豪奢な椅子に座らされた。
アウラがこの部屋に通うようになってから、五歩以上踏み入ったのは今日が初めてだった。
「なに? 今住んでるところ? 人間の気配は全くないわ。あんな山奥だもの。わざわざ入ってくることはまずないでしょうね。これで満足――」
言い終えられなかった。
乾いた音が響き、アウラの視界が右にブレる。一拍遅れて左の頬が熱を持ち、痛みだした。
「……なんのつもり?」
「ふむ……。やっぱり痛くないのか」
「痛いわよ。でも痛がっても無駄でしょ?」
男がアウラの頬を張った。防御極振りのクルセイダーなら悦んだろうが、アウラにそのような趣味はないし、防御力だってそこまで高くない。打たれた箇所は当たり前のように痛む。それでも痛がらないのは、魔族の生理が痛がっても無駄だと教えるからだ。
社会性があり、周りを人に囲まれていれば、痛がることで救助を得られるかも知れない。しかし生まれてから死ぬまで個として生きていく魔族は、助け、助けられる事がない。野生の獣が傷を負っても、痛がる様子を見せずじっと蹲るのと同じである。
「確かに頬は赤くなってるな。痛そうではある」
「だから痛いわよ。ついに私を殺す気になった?」
挑発でもなんでもない戯れの言葉だ。
目の前の男が自分を脅威としてないのはわかっている。そうさせてしまったのは他ならぬアウラ自身。
自分を殺そうとしてないのもわかる。そのつもりならとっくにやっていたはずだ。それどころか自分の生存に気を掛けているつもりらしい。断頭台のアウラが人間共に討ち取られるはずがないのに、病的なまでに危険から遠ざけようとする。
だから、アウラの言葉は全く本心ではなかった。
「え?」
その瞬間、アウラの心臓は確かに止まった。
何が起こったか認識した瞬間、心臓は遅れを取り戻すように力強く再稼働する。
「な…………」
声が出なかった。胸が苦しいを通り越して痛みだす。全身から冷たい汗が噴き出し、体が勝手に震えだす。意思の力で震えを抑えた。
「まさか怖いのですか?」
「…………」
アウラは、視界の左半分を塞がれた。見えないわけではない。見たくないものが見えている、触れている。
鋭い刃の先端が左の眼球に突き付けられ、しかし眼球には触れていない。涙の薄い層には触れている。右目で見れば、男の手に僅かな弧を描く短剣が握られていた。
「う……あ…………」
男が自分を見ている。似た顔を見たことがあった。アウラ自身もしたことがある。魔族が有象無象の人間を見る時の顔だ。その顔をした魔族は、ただの一度の例外なく見た人間を殺していた。
「口が利けないわけじゃないでしょう? 怖いのですか?」
「こわい、です……」
体の震えは抑えられても、声の震えは抑えられなかった。
「ごめん、なさい……。ゆるしてください……」
「ご免? 許せ? どんな罪を許せと仰せですか?」
「それは……」
反射的に出てきた命乞いの言葉だ。魔族が言葉を覚えたのは、窮地に命乞いをするためだったとも言われている。アウラから出てきた言葉はまさにそれだった。
アウラは口中に湧いた唾を飲み込もうとして、出来ない。おかしな動きをすれば刃が進んでくるかも知れない。体も呼吸を求めている。喉が勝手に細くなり、ヒューヒューと奇怪な音を立てた。
混乱する思考の中で、アウラは自分の罪を探し当てた。
「あなたを、ころしたいと、おもったこと」
アウラは嘘を吐けなかった。嘘を思いつけなかった。出来るのは本当の事を言うだけだ。
「思っただけなら構いませんよ。口にされたら不快に思うかも知れませんし、実行に移されたら困ります。ですが思っただけでしょう? 許すも何もありませんね」
「じゃあ、やめて……。ころさないで……。なんでもするから……」
魔族にも矜持はある。人間とは大いに異なるが自尊心も持っている。魔法への誇りが顕著だ。上下関係を魔力量だけで判断する魔族なのだ。魔族が魔法へ掛ける思いは、人間から見れば偏執的ですらある。しかし、生死の前には吹き飛ぶ。
自尊心も誇りも矜持も、何もかもより生存への欲求が優先される。
「ほんとうよ。うそじゃないわ。あなたの言葉には全部従う。わ……私の魔法があるでしょ? ずっとそのままでいい。あなたには絶対逆らわない。だから……」
アウラは瞬きが出来ない。すれば瞼が切れてしまう。ずっと目を開けたままでいた。
眼球が乾いた故の生理反応か、目に見える死が余りに恐ろしいのか、涙が溢れてきた。頬を流れて顎へ伝い、ぽたりぽたりと落ちていく。
「どうしてそこまで仰るのですか? あなたは死んだことないでしょう? それに、死ぬのは一度きりです。体が残ればどうにかなるかも知れませんが、魔族は魔力の塵になるらしいですからね」
「いやぁ……死にたくない……! おねがい……、こわい……、やめてぇ…………」
ポロポロと涙を零し始めた。顔は青褪め、怯えきっている。
魔族は人を欺く存在で、男に演技を見破る目はない。ここまでしておきながら、男には自信がなかった。
「本当に死ぬのが怖いのですか? 何でもすると仰ったのは本当ですね?」
「こわいの……。なんでもするしあなたはなんでも命じられる。わたしはわたしの魔法にあらがえない」
「それだけは確かですね」
アウラがアウラ自身の魔法に抗えず、男に言われるがままにこの部屋を訪れ続けるのは事実だった。
それを持ち出されては、信じないわけにいかない。男はショートカタナブレイドを引き、鞘に収めてジャケットの内側に仕舞った。
「うっ……うぅ!! うあ…………!」
開放されたアウラは、自分の体を抱きしめ丸め、声を上げて泣き始めた。
刃が離れた以上、演技をする必要はない。本当に泣いているらしかった。
男は決まり悪そうに顎をさすった。
▼
「お話したいことがあります。そのままで構いませんからお聞きください。私の言葉が間違っていた時は指摘してくださると幸いです」
「…………」
アウラは体を丸めて顔を伏せたままだ。聞いているのかどうかわからないが、男は構わず話し始めた。
「まず、あなたがた魔族とは親も子もなく、自然に発生する種族です」
不思議な力に満ちた神聖な場所で発生するなら、男にも覚えがある。しかし、アウラら魔族はそうではない。発生しにくい場所はあるだろうが、どこにでも現れる。
「死ねば魔力の塵になりますね。自然界の魔力が凝集して生まれるのでしょう」
アウラからは返事がない。男の知識は書物から得たものだが、大きく間違ってはいないらしい。
「そんな魔族ですから、泥が詰まった風船人形だと思っていました」
「…………………………は?」
「溝に埃が溜まる事があるでしょう? それと同じです」
「………………」
アウラは少しだけ顔を上げ、覗くように男の顔を見た。
こちらをからかったり侮辱するために言っているわけではないらしい。悪意を持たない魔族だからこそ、男の言葉に悪意がないのがわかってしまった。
「泥人形と違って最低限の飲食は必要なようですね。そのために活動するのは理解できます。ですがそれも、外部の環境によって行動を変化させる虫のようなものだと判断しておりました。学習能力が低いのもそう思わせた要因の一つです」
「…………必要なことはちゃんと覚えるわ」
「その割に人間の脅威を正しく判断出来ていなかったでしょう?」
「出来てたわよ。だから危険な人間には近付かないようにしてたわ」
「近付かない? それだけですか?」
「当たり前じゃない。危険だとわかってるのにどうして近付くのよ」
アウラは魔族の中でも特に注意深い性格で、危険判定した勇者ヒンメルの存命時は全く活動をしてこなかった。
男はアウラとの齟齬に気が付いた。
「それも正しい対処法ですが……。火を怖がる猿と一緒ですね。どのように危険なのか観察出来れば良かったのですが、そうか。だから学ばないのか……」
生存本能が強い余りに危険から遠ざかり、正しい対処法を学べない。稀に学んだ魔族がいたとしても、社会性がないので情報が伝達しない。個の経験が全てとなる。魔族に学習能力がないわけではないのだが、学べる環境に身を置けないのだ。
死の脅威を脱したと判断したアウラは男を睨みつけた。視界が滲み、腕で目元を拭う。見かねた男がハンカチを差し出した。アウラは黙って受け取り顔を拭う。白いハンカチはそれだけで黒くなった。
「そのように虫と同じと判断していました。虫なのですから、生存に必要な情報だけ伝えれば十分と思っていたのです」
「埃……泥人形……虫……猿……」
段々進化している。最終段階は猿であるが。
「ですが、疑念を抱かせる情報を得たのです。そこで虫とは違って意思や情動があるか。反射によって行動しているのか、そうではないのか。試させていただいたのが先程の件です」
利用者ノートの表紙の裏に現れた警告文である。そこには、アウラが自分の意思で部屋を訪れていない、とあった。ならばアウラの意思で訪問させるにはどうすればよいのか。そもそも魔族であるアウラに欲求はあるのか。それを確かめるために極限状態を突き付けたのだ。アウラにはとても迷惑な試しだった。
「生きていれば十分ではありませんか? 腹が減ったら木の根を齧ってミミズを捕まえればいいでしょう。風呂も使わず水浴びすらしてないのですから、野生の獣と一緒でしょう?」
「違うわよ!」
アウラは叫んだ。拭った目元からはまたも涙がこぼれ始めた。
学習能力がないないと散々言われたアウラだが、きちんと持ってる。生殺与奪を握られ刃を突き付けた男を怒鳴るのは、自分の立場とさっき起こった事を忘れたのかと言われそうだが、そうではない。今は男が自分を害すつもりはないとわかっている。
危機を脱した時に学んだ事を、無意識に実行していた。
「私だって美味しいものを食べたいし綺麗でいたいわ! あなたが山に行けって言うから出来なかっただけじゃない!」
「……さようですか」
「……なによ?」
座っていた男が立ち上がり、アウラに近付いてきた。
男は左手を上げ中指を突き出しアウラに向けようとして、止まった。
「少々お待ちください」
奥に引っ込んだ男は、右手はトレイにグラスを乗せ。左手は洗面器を持って帰ってきた。
「これでうがいをしてください。うがい薬はこちらへ吐き出してください。うがいはわかりますか?」
「わかるわよ。あなたは私を何だと思ってるの?」
「魔族だと思っていますよ」
「……そう」
重ねて聞いても不快なだけと判断し、アウラはグラスをとってうがいをした。お口でくちゅくちゅしてから、んべぇと吐き出す。濡れた唇は裏返したハンカチで拭った。
男は目を細めて洗面器の中身を見る。元は透明度の高いグリーンのうがい薬だったが、帰ってきたのは濁っているし得体の知れないカスも浮いたり沈んだり。洗面器は遠くのテーブルに置いた。
「それではこちらをどうぞ。思い切り噛んでくださって構いませんよ」
「え?」
アウラは男の顔と、突き出された指を交互に見た。
「自分が何を言ってるかわかってる? 千切れるわよ?」
「その程度でしたら元に戻せます。部位欠損にも効果がある回復薬がございますから」
「そんなものが……」
アウラはこの部屋について全く知らないことを改めて強く感じた。知る機会を与えられず、追い返されてきたのだから無理もない。
「それじゃあ……」
突き出された手に両手を添える。
右手も左手も薄汚れて、爪の間が黒くなっている。男が眉を顰めたのを、アウラは気付かなかった。
アウラは指を口中にまで進ませ、勢いよく口を閉じた。うがいをしたので白くなった歯が肉を押しつぶし、骨に食い込む。しかしそこまでだった。上下の歯は噛み合わない。
男が常人よりも丈夫なのは多少関係ある。荒事を禁止されたアウラがそれ以上出来なかった可能性もある。そして一番の理由は、
「……おいひい……」
破れた肌から滲む血が、とても美味だったからだ。血を啜るのに夢中になって、それ以上を忘れてしまった。
吸血鬼泣かせと言われた男の血は、人肉を好む魔族にも好評であったようだ。
ちゅうちゅうと血をすするアウラを見て、男は考えた。
もしも容易く指を噛み千切れるなら、腕の一本や二本進呈するつもりでいた。そのくらいなら簡単に回復できるし、直に齧らせたことも一度や二度ではない。が、アウラの顎はそこまで強くなかったようだ。
直に食べられた時は、可愛い顔の下に強靭な顎が隠れていたり、歯で噛み千切るのではなく溶かされたりした。アウラはどちらも不可能であるらしい。
「あっ」
「少々お待ちください」
口から指が抜けたのを惜しんでアウラは思わず声を上げ、それを聞いたろうに男はまたも隣室へ。戻ってきた時には、香ばしい匂いを撒き散らす分厚いステーキを持っていた。
キッチンとパントリーを兼ねた部屋では、注文すれば何でも出てくる。魔族が好きなステーキと注文して出てきた。何の肉か男は知らない。料理が出てくる仕組みも知らない。どこかで作ったものが送られてくるのか、それともその場で合成するのか。結果があれば過程は気にしない男である。
美味しそうなステーキを見て喉を鳴らしたアウラだったが、何故か手を出さない。
「如何しましたか? どうぞご賞味ください」
「…………ナイフとフォークが怖い」
「は?」
「だから、ナイフとフォークが怖い。尖ってるのが嫌なの」
先程のショックな試験で、先端恐怖症になってしまったらしい。尖ったものが自分に向かってくるようで怖く感じる症状を指す。
ナイフは切るものだし、フォークは3つの先端が尖っている。アウラは怖くて持てないらしい。しかしステーキにはそそられるようだ。
「仕方ありませんね」
男がナイフとフォークを持ち、手早く切り分ける。一口大に分けたステーキ肉をフォークに突き刺しアウラへ差し出すが、顔を背ける。フォークが嫌であるらしい。
クラッカーでもあればそれに乗せれば良かったが、何もない。ステーキ皿には分厚いステーキと、付け合せのポテトフライだけである。
男は仕方なしに指で摘まみ、アウラの口へ運んでやった。熱々のステーキは割と熱かった。
指に食らいついたばかりのアウラは、躊躇なく男の指ごと受け入れる。
「……おいしい」
アウラはほろりと涙をこぼした。
男に命じられ、ずっと文明から遠ざかった生活をしていた。それが久々の、文明の味である。涙も出ようと云うものだった。
ぱくぱくとステーキを食べ、時々付け合わせのポテトフライ。
「もうちょっとソース絡めて。そう。あーん」
アウラはあーんを覚えた。口を開けただけでは運んでくれず、合図が要ると言われて選んだのがあーんである。口を開けるのだから、自然とあーんになってしまう。
食後には爽やかなハーブティー。
貧食が続いた後に重いものを食べると調子を崩すものだが、アウラは大丈夫であるらしい。魔族だからか、それとも生肉ばかり食べていたからか。
▼
「それではこちらへどうぞ」
「今度はなに?」
アウラは美味しいものを食べて大分気分が良くなってきた。命じられたわけでもないのに、男に促されるまま立ち上がる。
案内された隣室は、衝立や編み籠に天井には大きなファンがゆったりと回っている。そして湿度と温度が高い。気配から脱衣場のようだった。
「こちらでお召し物を…………」
「なによ?」
男はアウラをじっと見つめた。足元から頭の天辺まで舐めるように見る。唸るように呟いた。
「何で服を着てるんだ?」
「あんたバカ?」
心の底から出てきた「バカ」であった。男にはとても心外な言葉だった。
「魔族には社会性がない。社会的感情である羞恥心も薄いはずだ。なのにどうして服で体を隠す? 体を守るためとしても……」
薄汚れた今になっても、アウラの服は夜のお店スタイルである。防御力はとても低そうだし、露出してる部分も多い。
「服くらい着るに決まってるでしょ。あんたは私を何だと思ってるのよ」
「ですから、魔族だと思っています」
「その魔族を何だと思ってるの? 私にもわかるように例えて」
「…………悪魔の亜種でしょうか」
「なにそれ? 私知らないわ」
「人間より遥かに優れた種族でございますよ」
「そう」
アウラは素っ気なく応えたが、泥人形と言われるのに比べたらずっと気分が良い。
なお、「亜」とは「亜流」などと使うように「劣る」と云った意味がある。男なりに最大限に気を遣った答えである。
「お召し物をこちらでお脱ぎください。隣が浴場となっております」
「あんたも一緒に入るつもり?」
「入浴のお手伝いをするつもりです。設備の説明もいたしますが、入浴剤や浴用品は特に説明が必要です」
「そっ」
アウラは男の前で、躊躇なく服を脱いだ。男が察した通り、羞恥心が薄いらしい。
程よい大きさで形も良い乳房がこぼれ出た事よりも、男の目は肌の色に向かった。服に隠れていた部分と、隠れていない部分とで明らかに色が違う。日焼けの色ではない。泥や砂ぼこりの色だ。綺麗でいたいと言ったくせして水浴びすらしなかったのはどういう事か。
アウラが服を脱ぐ間に男も用意を整える。ジャケットとベストを脱ぎ、ワイシャツは腕まくりでタイピンで留めるホワイトタイはそのままだ。スラックスも脱がない。
「こちらへどうぞ」
「うわ…………」
衝立の向こうにある曇りガラスの戸を開け、アウラは感嘆の声を上げた。
ともかく広い。大小に形状の異なるバスタブが幾つもあり、それぞれが湯を溢れさせている。
「わっ!」
一歩踏み出し、思わず足元を見た。足裏が伝える感触がとても柔らかく温かい。
何かと思ったら温色の絨毯が敷かれ、床にも湯が張ってある。
「あははっ、なにこれ? なんで床までお湯があるわけ? バッカじゃないの?」
アウラは数歩進んで床に尻をつけ、パシャパシャと湯を掻いた。魔王直下であった時も、雌伏を止め活動を始めてからも、このような風呂を見た事も聞いた事もない。
「お喜び頂けたようで何よりです。まずは体を洗いましょう」
「……一人で出来るわよ」
声を掛けられ喜色が消える。余計なのが付いてきたのを忘れていた。
「そう仰いますが……」
「なにこれ?」
先と同じ言葉だが、込められた感情は大分違う。
男に案内された壁の一画は、手のひらサイズの小瓶が無数に並んでいた。間違いなく百や二百では利かない。どれも色鮮やかなので、じっと見てると眩暈がしてくる。用途がわからないのが不気味ですらあった。
「体や髪を洗うものです。説明いたしましょうか? それともお任せ頂けますか?」
「任せるわ」
ターニャや海夢は説明を聞いて、途中で諦めお勧めを使うようにした。ラムやレムは最初からお任せだ。風呂を使うようなことをしてから風呂を使うのだ。アウラは聞く前から諦めたらしい。
男は数種の小瓶を手に取り、アウラへ壁際の椅子に座るよう促した。背もたれはない。正面の壁は全面鏡張りだ。風呂なのに全く曇りがなく、アウラと男の鏡像を映している。
「髪から洗っていきます。シャワーを掛けますので目を瞑っていてください」
「後であんたが編んでよ? 面倒なんだから」
「たまわりました」
アウラは背の中ほどまで届く豊かな髪を、左右三つずつ、合わせて六つに分けて三つ編みにしている。お洒落ではあるが、社会性皆無の魔族が一体誰に見せるつもりなのか謎である。もしも自分に見せるためだけとしたら、魔族はかなりお洒落な種族なのかも知れない。その割には水浴びも。
男はアウラの髪を解き、シャワーを掛けた。
実のところ、髪も体もわざわざ洗う必要はない。老廃物や汚れを分解する最強のローション風呂に叩き込んで流せば済む話である。
その過程であちこちが汚れるかも知れないが、応接間同様に勝手に綺麗になる。無臭と清潔の魔法が常時発動しているらしいのだ。
しかし、気分の問題である。綺麗になるからといって、うがい薬を床に吐き出させることなく洗面器に出させた。ダクネスに放尿してやったのも、応接間では最初の一回だけだ。
気分以外にも、一線を越えるとどこまでも堕落していく確信があった。ここではよくても、戻った時にこちらでの習慣が抜けきらなかったら大惨事である。
男は濡らしたアウラの髪にシャンプーを掛け軽く撫でつけ、顔をしかめた。
全く泡立たない。髪が汚れすぎている。皮脂や埃でゴワゴワと固まり、野生動物の毛皮のようだ。二足歩行する虎やライオンの毛皮をなめした時を思い出した。
あの時のような強い薬は使えない。シャンプーを馴染ませ丁寧にブラシを掛けシャワーで流し、またシャンプーを掛けと繰り返し、何とか泡立つようになってきた。
洗われてるアウラは黙っている。時折薄目を開けて鏡越しに男を見るが、背後から襲われる危険はなさそうだ。真面目に髪を洗うつもりらしい。頻繁に顔をしかめるのは気に入らないが。指の噛み傷が消えているのにようやく気付いた。
「あっ!?」
「何か?」
「わからない。なに?」
「それを聞いてるのは私ですよ?」
「そう、ね。何でもない。続けて」
一時間と少し前までは顎で使われるアウラだったが、今度は使う立場である。あっという間に馴染み、続きを促した。
男はアウラの髪に手を入れ、頭皮を撫でる。感じた瞬間、アウラは総毛だった。体中の肌が粟立つ。しかし寒気はない。温かい浴場だ。何故か全身の力が抜ける。だらりと下げた手を動かそうとしても、指先がピクピクと震えるだけである。
「あ……あぁ…………あぇ…………」
腕からも脚からも力が萎え、後ろに倒れて背中が男の体にぶつかった。首から下がそうなのだから、首から上も似たようなもの。口がだらりと開き、脅された時でも零れなかった涎が唇の端からたらりと垂れる。弛緩しきった間抜け面が鏡に映っているが、目に入らない。眼球がくるりと寄って、どこを見ているかわからない。
「ひゃっ!?」
頭からジャーっとシャワーを掛けられ我に返った。
いつの間にか洗髪が終わったらしい。恐ろしい事に時間の経過がわからなかった。ターニャがお勧めする洗髪を、アウラはメモを読むことなく味わうことが出来た。
洗い終わった髪は二本の角に巻き付けられた。
「これから体を洗います。肌が弱いという事はありませんね? 野で生きて来たんですから問題ないでしょう?」
「ら、らいじょう……。大丈夫よ」
「ではスポンジを使います。強く擦っても大丈夫ですね?」
「限度は考えて」
「それは勿論」
男はスポンジでボディソープを泡立て、アウラの背中を擦る。強めに擦ってもアウラから不満は出てこない。実のところ、肌を洗うスポンジではなく壁や浴槽を磨く硬いスポンジなのだが、野生の魔族は肌が強靭であるらしい。と云うか、そのくらいしないと垢が落ちない。純白だった泡がたちまち茶黒く濁っていくのは悍ましかった。
背中を洗い、うなじや肩など露出していた部分は念入りに。脇は嫌がったが我慢させる。腋毛はなくツルツルだった。臭いがこもらず何よりである。
立たせてから尻も洗った。尻を触られようと、アウラは何とも思わないようだ。
後ろが終われば前に回る。男は片膝を突いて上にアウラの脚を乗せた。足の裏も足指の股も。ここはさすがにくすぐったそうな声を出した。
脚を付け根まで洗い、そこからは柔らかいスポンジに替える。手足より肌が柔らかいし、服に隠れていたので汚れもそれほどではないと云う希望的予測があった。
「んっ」
脚を開かせ股を洗う。股間には髪と同色の陰毛が僅かに茂る。ボディソープではなく、シャンプーを使う。
「ちょっと強いわ」
「我慢してください」
「我慢させるなら聞かないで」
問題はへそ周りだ。何故かへそ出しドレスである。脱がせるとそこだけ菱形に黒ずんでおり、何なのだこれは、と男は魔族の美意識に疑問を持った。
腹部が終われば突き出た乳房へ。見た目通りに柔らかく、スポンジで擦れば形が変わる。
「んぅっ……」
擦る内に乳首が尖ってきたのは洗うのにちょうど良い。逃げないよう指で摘まんでからスポンジで根元まで丁寧に擦る。
「ふぅ……」
乳房が終われば首筋へ。そこから上は手を使う。
「目を瞑ってください」
手で洗顔用ソープを泡立て、両の頬で円を描く。唇の上も下も顎の下も。
「はひすうおっ!!」
「痛くはないでしょう?」
鼻筋を擦れば鼻の穴も見逃さない。捩ったタオルを突っ込んでぐりぐりと回す。アウラが怒ろうと綺麗にするのが最優先だ。
額は手早く、瞼は優しく。耳は裏も穴も丁寧に。
最後にシャワーを掛けて、体の表面は綺麗になった。
アウラは男を睨みつけるが、鏡に映った自分を見て頬を撫で手を直に確認する。過程はどうあれ、結果は満足したらしい。
「それでは最後に」
「まだ何かあるわけ?」
男はアウラの前に屈む。
アウラは脚を開かされると、鼻で笑った。
「なに? 私の体に欲情でもした? 何よその顔!」
股間の真ん前に来られたのだ。男が女の体に欲情するのを、アウラは知識として知っている。魔族の容姿が優れているのは広く知られた事だ。アウラは自分の顔も体も美しいと、当然のように思っている。
なのに男の顔はとても嫌そうだった。
「予想出来るのでしたくはないのですが、そういうわけにも行きませんので……。もっと浅く座ってください」
股間が男に近付くが、さっき洗わせたところである。アウラは言われた通りに、椅子の縁に座って後ろに手を突いた。
男の手が股に伸びる。さすがにアウラの声も上擦った。
「な、なに? そんなところをどうするつもり?」
指が触れたのは、陰毛の下の割れ目である。
張りがあるようでいて頼りなく柔らかい肉に触れ、左右に広げた。
「うっ……」
予想通りだったが、男は呻かずにはいられなかった。紫だったり変に腫れていたりするわけではない。見える部分はとても健康的できれいなものだ。が!
無知な処女だとこうなる。生殖活動をせず自然に発生する魔族が経験豊富な事は稀だろう。その上アウラは、水浴びをしていたかどうかすら怪しい。当然の帰結だった。
アウラの割れ目の内側は、ヨーグルト状の白いものがベッタリと付着していた。
病気ではない。外からは見えない部分なので、気が届かなかったのだろう。山野に暮らしていたのだから臭いにも気付かなかったのだろう。
「なによ…………」
アウラは不貞腐れたように顔を背ける。
男は無言で白いものを指で掻き出し、最後は軽くシャワーで流してやった。
▼
全身を隈なく綺麗にしてからは自由にさせた。
アウラは脚を伸ばせるバスタブで体を温め、ジャグジーであちこちの凝りを解し、温水プールで泳いだら、浅い寝湯でしばし微睡んだ。久し振りに文明的な設備を満喫した。
体の水気を拭いたら髪をやらせる。大きなタオルで水気を取り、ブラシを使いながら温風で乾かし、髪を編む前に何度もブラシを入れて、元通りの六つの三つ編みにさせた。アウラが自分でするより早く綺麗だった。
「美味しいものを食べて、体も綺麗になりました。ご満足いただけたでしょう」
「……そうね。毎回これだけさせてくれるなら来てもいいわ」
男は内心でガッツポーズ。これでペナルティを貰うことなく、これからもアウラのサインを重ね続けられる事だろう。
二人は服を整え、応接間に戻った。
あとはノートに退室のサインをもらって帰ってもらうだけである。
「ではノートに記帳してください。鍵が使用可能になったらまたお出で下さい」
「……あんたが丁寧に喋ってると気味が悪いわ」
「敬語は円滑な関係を築くために、社会を作る者たちには必須なのですよ。が、嫌いならいいか。ほら、さっさと書いて帰れ」
「変わりすぎでしょ」
「言ってる事は同じだろうが。それより早くしろ」
「わかってるわよ」
アウラはノートを開き、乱暴にペンを走らせる。
「…………あら?」
「どうした?」
「ペンのインクが切れてる。書けないわ」
「そんなはずは……」
男は別のペンを差し出す。しかし結果は同じ。アウラはノートに何も書けない。もう一度別のペンを試しても同じである。書けなかったペンを他の紙で試すと問題なく書ける。
男は凄まじく嫌な予感がした。
「アウラ……。ノートの他のページを読んでみろ」
「今まで読ませたことなかったじゃない。……読めないんだけど?」
利用者ノートは、利用者のサインと利用日時に自動で記される滞在時間。その下に利用者が好き勝手に綴るメモがある。
「……どこが読めないんだ?」
「ここ。何か書いてあるのはわかるけど字が滲んで読めないわ。何か零した?」
アウラが指差したのは男も読めない部分である。男はほとんど確信したが、まだ決定的なものは突き付けられていない。足掻き続けた。
「……これは読めるか?」
「ターニャ・フォン・デグレチャフ? 人の名前かしら? 長いわね」
「oh……」
「なによ、どうしたのよ?」
男はよろめき額を押さえた。
アウラが読み上げた部分は、利用者には読めない部分のはずだった。
「ちょっとドアを開けてみろ」
「まだサインしてないけどいいの? …………開かないんだけど?」
「oh…………」
男は両手で顔を覆った。
その場に屈んで現実逃避したが、アウラはいなくならない。そこにいる。
最後の望みを掛け、ノートの最初のページ。表紙の裏を見た。部屋の管理者たる男へ様々な命令や警告が記される部分だ。
男が部屋に囚われ、利用者のサインを集めないと帰れないと云う事も記されている。
そこに何故かどういうわけか何が悪かったのか全く分からないが、アウラの名前も記されていた。
「なに? どうなったの? なんでドアが開かないの? だから何よその顔。はっきり言いなさいよ」
「マジか……」
「何がマジなの? わかってるのよね? 答えなさいよ」
「俺が聞きたい……」
「聞いてるのは私なんだけど? ねえ? なに? 怒ったの? 私は何もしてないわよね? ……ねえったら。……ねえ!」
アレッタも魔族で角生えてると思ったらこうなりました
どうなるかは知りません