奉仕しないと帰れない部屋に囚われた男の業務記録 作:dolph
「行け、アウラ! 全力でぶん殴れ!」
「はあ?」
「む!」
利用者たちを卒なく持て成す男は、実のところ高度に人間に擬態した魔族である。
と、アウラは疑っている。自分が一利用者であった時に受けた仕打ちを忘れてない。それがついに擬態を止めたのだろうか。
異界の部屋に囚われた自分たちは訪問者のサインを集めないと帰れない。帰ったところで無人の蛮地なアウラは帰還に執着しない。が、あの男は違うようだ。帰った先に何があるか知らないが、子供にへつらい使用人に跪く。
そこまでして利用者の再訪問を促しサインを集めていたのに、部屋に来た女を殴れと言う。
「ただの全力じゃ駄目だ。ありったけの魔力とオーラと気とパワーと霊力とエナジーをシナジーさせた100パーセント中の100パーセントのフルパワーだ!」
「魔力しかわからないわよ。こいつ死ぬけど、殴らせたのあんただから」
「よし、来い!」
女の方も頭が湧いてるらしい。これから死ぬのに口角を上げた。
小柄に見えてもアウラは魔族。人間より力がある。生憎戦士ではなく魔法使いだが、お綺麗な服を着たご令嬢を撲殺することは容易い。
お望み通り右手で拳を作り、お嬢様の柔らかそうな頬に叩き込んだ。
ガッチーンと、およそ人体を叩いたとは思えない音が響いた。
殴られた女は平気そうで、逆に殴ったアウラの方が拳を痺れさせた。
「……ったーーっ。あんた何で出来てるの?」
「細腕に見えて中々だな。しかし、その程度で私をどうにか出来るとは思わないことだ。さあ、幾らでも来い!」
「はあ?」
「行け、アウラ! フルパワーだ!」
「はあ!?」
男から命令として言葉を発されると、アウラに拒否は出来ない。痛む右手で再度拳を作り、女に殴りかかった。
ドカドカバキッ、マダマダア!
ドカドカバキッ、モットモットダ!
ドカドカバキッ、モウムリィ!
アウラに泣きが入ったところで終了した。
殴っていたアウラの手はグローブを嵌めたように真っ赤に腫れているが、殴られた女は頬が少し赤くなっただけ。それも殴られていない側も赤くなっていることから、叩かれて赤くなったわけではないと察せられる。
「なんなのこいつぅ……」
「うっ……その蔑んだ目…………。いいぞ! もっと私を見るんだ!」
「ほんとになんなのこいつ!?」
アウラははっきりと恐怖した。魔族の膂力で殴られても意に介さない耐久力が恐ろしければ、もっと殴れと要求する精神性は理解できず、蔑んだ目で見ろとは何の冗談か。
綺麗な服を着た人間の女にしか見えないのに、中身が違う。悍しい何かであると確信した。
「あっ……、それより彼女の手は大丈夫なのか? 随分腫れているが」
「大丈夫です。アウラは人間とは違う魔族ですので、放っておけば治ります」
「治らないわよ! ちゃんと治療してよ!」
肉体が魔力で構成されていても、痛いものは痛いし、怪我をすれば適切な治療が必要なのは人間と同じである。アウラの目に涙が溜まっているのは痛くて出てきてしまったものだ。本当に泣いてばかりである。
男が仕方ないなと赤い飲み薬を掛けてやりアウラの損傷は元通りになったが、殴られていた女の目が厳しい。
「魔族? それは悪魔と関係ある存在なのか?」
「違います。ダクネス様にアウラのことを紹介いたしましょう」
そこでようやくアウラの紹介となった。
信仰する宗教の教条で悪魔の存在を看過できないダクネスへは、人食い種族であることは伏せて説明した。
アウラへもダクネスを紹介する。本名は違うが、ここではダクネスと呼ぶようにと注意する。
男がアウラに求めることは多くない。利用者の名前を間違えなければそれでいいと思っている。尤も、他の利用者の名を口にしても来訪者には聞き取れない。アウラの価値はほとんど置物である。
しかし、ダクネスへはそこそこ有用だ。自分の代わりに殴らせれば労力が減るし、アウラも役に立ってる実感を得られて嬉しいと思われた。それに置物でも使い道はある。
「基本的に下がらせておくのでダクネス様がアウラを気に掛ける必要はございません。ですが」
「ですがって何よ、また何かやらせるつもり? 殴るのはもう嫌よ。何であんなに硬いのよ」
かつてアウラを退けた勇者一行のドワーフの戦士より硬いダクネスである。攻撃能力を完全に捨て、生まれ持った才能と努力の全てを防御にだけ振り続けたのは伊達ではないのだ。
「そこに立たせておくだけならいいだろう? なんだったら座っていてもいい」
「……何させるつもり?」
「アウラにさせるんじゃない。こっちでするんだ」
「はあ?」
アウラは利用者であった頃を含めると、男とはそれなりの付き合いになる。しかし、ダクネスとは初対面だ。何の符丁だか全くわからない。
「如何です、ララティーナ様? アウラが見ていればいつもとは違った刺激を得られると思いますよ?」
「なっなっなっ…………、ダメだ! そんなの絶対ダメだからな!? 私はそんなのは好きじゃない!」
「意外な事を仰る。ララティーナ様ならお気に召すと確信しておりますよ?」
「だっ……だめ! 本当にダメなんだ! 他のことなら何でもするからどうかそれだけは……!」
「ふむ……」
二人の寸劇に、アウラは呆気にとられた。
ここでは利用者側の立場が上のはずなのに、何故か逆転している。自分の時もそうだったが、あれは魔法の効果が逆流してしまったせいだ。ダクネスとか言う女もそうなのだろうか。
「ララティーナ様はアウラが同席するのはお嫌なのですね?」
「そう、です。アウラがどうこうじゃなくて。ああいうのは見せるものじゃないと思う……」
ダクネスは長身を縮こまらせて男にすがりつく。青い目には涙が浮き、興奮で上気していた肌は青褪めた。
男の提案が本当に嫌であるらしい。
「そこまで仰るのなら仕方ありませんね。アウラ、奥に下がってろ」
「わかったわ。何かあっても呼ばなくていいから」
アウラはそう言い捨て、男に作らせた自分の部屋に向かった。
自室のドアを開ける前に二人の様子を見ると、男がダクネスにリードが付いた首輪を渡しているところだった。そんなものを赤い顔で受け取るダクネスが不思議だったが、余計な興味は持たずにドアを開けた。
そして翌日になるとダクネスが上機嫌になっている。昨日は僅かながらにあったアウラへの警戒心もなくなっているようだ。
朝の挨拶をしたらアウラはまたも下がらせられた。数時間後に見送りに呼ばれると、ダクネスのお肌は艶々で、先日のラムのようにとろんとした様子を見せる。
「またのお出でをお待ちしております」
「ああ、また来る」
アウラは無言で見送り、ダクネスは白いドアの向こうへ立ち去った。
「あんたはあいつらに何してるの?」
「こら、あいつらなんて言うな。彼女たちの望むように持て成してるだけだよ」
「ふーん。で、今日もこれから訓練するわけ?」
「疲れたから休む」
「だったら赤いの飲めばいいじゃない。…………なによ?」
「訓練したいのか?」
「毎日するって言ったのあんたじゃない」
「言ったがすぐにしなくても……。まあ、いいか」
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「ピンクだーーーーーーーーーっ♡ めっちゃ綺麗に染まってますね♡ あれ? 染まって? 染めてない? もしかして地毛!? うわやっばめちゃクソ綺麗ーーーーーーっ!! 髪型もくっそ可愛い〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ♡♡ 髪ほっそいのにどうやってキープしてるんですか!? あたしがやったら絶対ペタンコになって、え? もしかして魔法? マジ!? じゃあじゃあこの角も付けてるんじゃなくて本物!? うっわ〜〜〜〜〜〜〜っ♡ 肌ハンパない綺麗って思ったら人間じゃなくね? みたいな♡♡」
「海夢の思った通り、アウラは人間ではなく魔族ですよ」
「魔族!? それって魔王に生み出されて人類を滅ぼす手先みたいなあれなんですか!?」
「そのあたりの説明もいたしましょう。始めに申しておきたいのは、アウラが海夢を傷つけることは絶対にありません。そこだけはご安心ください」
「はいっ! ってアウラ様? え? なんでここにいるんですか?」
「だからこれからそいつが説明するって言ったでしょう」
アウラは海夢に気圧された。
よくもまあそこまで言葉が飛び出てくると感心するやら呆れるやらで、長きを生きたアウラでも今までに見たことがないタイプの人間だ。自分とは違う世界から来ているのだと痛感する。
「そいつ? そいつって伯爵様のことですよね?」
白いドアから現れ、アウラの姿を目にするなり怒涛の勢いで喋っていた海夢である。それがピタリと止まった。笑顔ではいるのだが、貼り付けたように表情が動かない。
「伯爵? 誰それ?」
「伯爵とは海夢が私を呼ぶ時の愛称ですよ」
「ふーん。ここには三人しかいないんだから、そいつって言ったらこいつしかいないでしょ?」
「そいつ、こいつ……。二人とも仲良さそうですね?」
「「まさか」」
二人は異口同音に答えた。
息が合いすぎている。海夢の疑念が深まった。
「ちょっとアウラ様と二人で話したいんですけど?」
海夢に押されて男が隣室に向かう。アウラは顔には出さないもののとても緊張していた。凄く既視感がある場面だ。まさか海夢からも凄い魔力が迸ったりするのだろうか。そんな事は滅多にないと思いたいのに二度もあった。油断できない。
そのアウラより海夢の方が緊張している。もしかしたりすると自分にとってすっごく嫌な展開になるかも知れない。そうなったらもうここには来れない。そうなって欲しくないがアウラはここにいる。思い切って切り出した。
「アウラ様って伯爵様が好きなんですか?」
「はあ?」
身構えていたアウラには、予想外というか意味不明の質問である。
「いきなりこんな事聞いてあれなんですけど、誤魔化さないで欲しいんですけど?」
海夢の顔は真剣だ。アウラにはいよいよわからない。
「私があいつを好きって何? そもそも好きってどういう事?」
「えっ?」
「好きの意味はわかるわよ? 私は私の魔法が好きだもの。でもあいつを好きになるってどういう事なの?」
「えっ…………と? え、魔法!? じゃなくって、ええ!?」
今度は海夢がわからない。好きが何かと聞かれても、いつの間にか心に生まれていた気持ちで言葉にしようにも出来ない。
「しゅき〜〜〜〜〜〜〜っ! って気持ち?」
「だからそれが何なのよ?」
「えーっとえーっと…………、う~~~~ん……。くっつきたくなる、みたいな?」
「なるわけないでしょ」
アウラは大きな溜息を吐いた。海夢が根本的なところを誤解していることに気が付いた。
「あいつの話を先に聞けばよかったのよ。私は魔族。魔族に親も子もないわ。当然、番も作らない。勝手に生まれて一人で生きてくから、人間みたいに誰かを好きになるなんてありえないの」
「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?!? 誰も好きになんないんですか!?」
「ならないわよ」
「……………………ホントに?」
「私は500年生きてるけど人間や同族を好きになったことは一度もないわ。番を持った魔族も見たことない。そもそも基本的に群れない種族よ。だからあんたの言ってることは的外れもいいところね」
「あ、海夢って呼んでください。でもそれって寂しくないんですか?」
友達に囲まれて充実した日々を送る海夢には、誰も好きにならないのも、ずっと一人で生きていくのも想像出来ない。ちょっとでも想像したら寂しくて堪らない。なのに聞かれたアウラは、寂しいの意味すらわからない。
「寂しいって感じたことは一度もないわ。自分以外に何も必要ないもの」
「それじゃあたしと仲良くしてください! ずっと一緒じゃなくてここに来る時だけですからそれくらいいいですよね?」
「はあ……。あいつから言われてるし、それなりにするわよ」
「それじゃ早速着替えに行きましょう! 今日は決めてなかったけどメイドに決定!」
「はあ?」
男を召喚して改めてアウラの紹介。海夢はとても平和な世界で生きているので、ダクネスの時よりも詳細を省く。部屋に囚われた理由は魔法の失敗とした。
そしてアウラへも海夢の紹介。コスプレ写真撮影だ。今回は一眼レフを用意した。男が仕様書を確認して、海夢がスマホにダウンロードした説明書も熟読する。
その間に海夢とアウラはクローゼットルームに踏み入った。一応、男もスマホを見ながらついていく。
「あー、やっぱアウラ様も映んないかー。超残念! 伯爵様〜、どーにかなりませんか?」
「鏡には映るので、光を電気信号に変換するところで除外されてるのかも知れませんね」
「そーするとふぃるむ? のカメラ? 確か使い捨てのがあった気が……」
「海夢の気が済むようにしてください。ですが、無理は為さらないように」
「あたしがしたいから大丈夫です! あ、これキープで! そーだ、アウラ様ってメイドじゃない時はどんな服着てるんですか?」
「このあたりのだと……これが近いかしら?」
「ゴス系だーーーーっ! しかもエロ〜〜〜〜ッ♡ えーっと、じゃあスカートは今のあたしくらい?」
「そのくらいね」
情動が人間とは大きく違う魔族でも生まれついてのお洒落種族だからか、アウラは海夢と言葉を交わしながら衣装を見繕っていく。
今日の海夢のコンセプトはメイドになったらしく、エプロンがついたドレスを選んでいく。アウラが付けてるホワイトエプロンとは違って、フリルがあったり刺繍がはいったりと華やかだ。そしてどれもこれもサイズが小さい。腰から下を申し訳程度に飾る。
エプロンがミニサイズなのだからスカートもミニサイズだ。海夢の制服と同じくらいである。
で、アウラが着ていた服に合わせるのだから肩も谷間も出す。但し、へそは出さない。腹部はコルセットベルトで腰の括れを強調し、アンダーバストも締めるという事は胸を主張する。
「それじゃ着替えるわね」
「わーーーーーーーーーっ!? 何で全部脱ぐんですか伯爵様はあっち向いて……ますね」
「このデザインだとブラジャーを着けられないじゃない」
「そーですけどーーーー」
「魔族には社会性がないから羞恥心もないんですよ。海夢から教えてやってください」
「わかりました! ガッツリ教えます!」
「……いいわよ、そんなの」
女二人が騒ぎながら衣装を選び終え、海夢の撮影会が始まった。
カメラは男が構え、アウラはレフ板持ちだ。白いレフ板を持って言われた通りの場所で突っ立ってるだけであるが、野暮ったいメイド服からエロ系のメイド服になったアウラは機嫌が良さそうである。
海夢のメイド服も同系統だ。こちらは雫たんを意識してか、黒が基調でフリルも多い。但し、雫たんよりスカートが短く、谷間を隠すブラックタイもなく、背中は大きく開く。
男が海夢を可愛い綺麗と褒めながらカメラのシャッターを切り、時には床に這いつくばる姿勢になるのを見て、アウラはやはりよくわからなかった。わかったところで意味はないと理解を投げ捨てた。
「やっぱ一眼レフ綺麗ーーーっ!」
海夢はカメラのディスプレイを覗き、撮影した写真を確認する。男は海夢に同席して写真の品評を聞く。次回以降の撮影に役立てるためだ。
「じゃ、私はこれを片付けてくるわ」
「それと食事の準備を頼む。注文の仕方は覚えているな?」
「いいけど、何にするのよ? 私と同じものは食べないでしょ?」
「曖昧な注文でも出てくるよ。海夢が好きで、手で掴めるものにしてくれ」
「はいはい」
「お願いしまーす!」
アウラは気怠そうでも足取りが軽い。物理的に軽くなったのが大きい。
「あっ!?」
アウラが背を向けた瞬間、海夢が驚きに声を上げた。
「なに? 食後のデザートもいるの?」
「あ、欲しいです! えとえと、それだけです!」
「わかったわ」
怪訝に振り返ったアウラへ追加注文をして、ディスプレイを覗く振りをした。
アウラの姿がドアの向こうに消えたところで、海夢は責めるように隣を見た。
「……アウラ様がいるじゃないですか!」
海夢と男は、ソファーに隣り合って座っている。海夢がカメラを持って操作しているので、男は横から覗く形だ。体を近付けるため、海夢の背中へ腕を回していた。その腕が肘で曲がって手のひらを海夢に向け、上乳を見せる乳房に触れてきた。
アウラが振り向いた瞬間に海夢は腕で触られているところを隠したので、見られてはいられないはず。しかしかなり危ういタイミングだった。
触られるのは良くても、人前でするのは話が別だ。見られてるとこでしていいのはチューまでである。
「アウラが邪魔ですか?」
「え?」
「二人きりになりたいと思ったのは海夢もと思いましたが違いましたか?」
「え、えと、違わないですけど! でもアウラ様が邪魔なんて、あっ♡」
触れてきた手指がいやらしく蠢いた。
立体縫製が素晴らしい乳袋は、魔法の効果で海夢のサイズにピッタリ合ってる。加えてエロ系を意識して選んだせいか、生地が薄い。透けては見えないが、乳首の位置が丸わかりだ。立たせてしまって初めて気付いた。
「あんっ♡ ダメですってばぁ……♡ アウラ様がもどってきちゃ、うぅ~~っ♡」
見てわかるようになった突起を摘まみながら、男は選択が正しかったことを確認した。
女性は求めるより求められる事を好む者が多いと、身をもって教え込まれてきた。向こうが何も言わないからいいだろうと放置していたら血を吐いたことが何度もある。
海夢もそちらであると推測し実行に移したのだ。
それでなくとも、海夢は他の癖があり過ぎる利用者たちに比べると、とても可愛らしい少女である。少々贔屓もしたくなる。
「食事を終えたらしましょうか?」
「…………」
海夢は無言で頷いた。
「こことベッドとどちらがいいですか?」
「……ベッドがいいです。~~~~っ!」
しかし言葉で返さなければならない質問をされて、伯爵様はやっぱりSだと再確認した。
しばらくして、アウラが食事を持ってきた。
手で掴めるものという注文だったのでサンドイッチが出てくると思ったら、肉巻きライスボールだったのを意外に思った。食べるのは自分ではなく二人なのでどうでも良い。あとで自分も同じものを出すことにした。
「あら?」
「なっ、なんですか?」
「…………なんでもないわ。私は部屋に戻るから後はあんたが片付けて」
「そのつもりだよ」
アウラが何かを口にする前に、海夢からは見えないよう男が口の前で人差し指を立て、追い払うように手を振った。
自室に戻ったアウラはターニャの世界の魔術を使えるようになるべく技術書を開く。しかし、何が何だかさっぱりわからない。文字は読める。この部屋の効果らしく、他世界の文字や言語は理解できる。しかし、読めるのと書かれている事を理解するのでは天地の差がある。
どこから手を付けていいかすらわからない。やはりあの男に解読させなければ駄目だろうと判断して、いつものように魔法の研鑽に移った。
翌日、やはり海夢のお肌は艶々で機嫌が良さそうだ。
元気の良さは鬱陶しいくらいだが、凄く怖いターニャや物凄く怖いラムとレムや理解不能なダクネスだかララティーナだかと比べると、とても気安く相手が出来る。海夢自身も気安い言葉を許した。固い言葉よりそちらの方が嬉しいらしい。
「海夢、帰る前にノートを読んでください。――様が返事を書いているはずですから」
「あ、そーだった! えへへ、忘れてました♪ ええっと、いつでもいいってあるんだけどこの後どーしたらいーのかな? 会えなかったらアウラ様に見せてもらえってあるんですけど。でもせっかくお願いしていいって言ってくれたんだから、えーーーと、でぐれちゃふさん? 様? がいいなー」
男とアウラは顔を見合わせた。海夢が読んだ部分は、利用者たちには読めない部分のはずなのだ。慌てて他の名前を読めるか確かめるが、読めたのはターニャの名前だけであるらしい。
「デグレチャフはファミリーネームで、ターニャがファーストネームです。互いに許可したから読めるようになったのかも知れませんね。これは本当にお会い出来る可能性が出てきました」
「マ!? ちょーーー楽しみなんですけど♡♡ それでそれでターニャ様ってどんな人なんですか?」
「非常に理性的なお方ですよ」
「中身は化け物よ」
「お前は本当によくわかってないな。アウラがそう言ったと海夢からターニャ様に伝わったらどう思われると思う?」
「………………とても素晴らしい方よ」
「めっちゃたのしみーーーーーーっ♡ お土産用意した方がいいかな~~~?」
海夢は他の利用者と違って、衣装選びや撮影に掛ける時間が多い。寝て起きてお喋りをするとあっと言う間に時間が来た。
そして海夢が元の世界に帰ると、部屋に囚われた者たちに帰還の許しが出た。
▼
豪奢な応接間が灰色に沈むのを、アウラは珍しそうに見回した。
「アウラは当分戻らなくていいんだな?」
「話した通りよ」
自分の世界に帰れるようになったらどちらが先に帰るかを、前もって話し合っていた。
男は是非にも帰りたい。ここで有用な知見や貴重な体験を得るのは帰ってから役立てるためだ。
対するアウラはどうでもいい。長い年月を掛けて育てた不死の軍勢は解散させられた。帰ったところで人跡未踏の山奥に出るだけである。それにターニャと男から人間が破壊と殺戮のためだけに凄まじい熱量を注ぐと聞かされ、人間が怖くなったのもある。少なくとも角を隠して人間に擬態する魔法を編み出すまでは帰らないと決めていた。
男が白いドアの前に立つと独りでに開く。ドアの向こうは、山奥ではなく男の自室だった。ドアの向こうがどちらになるか心配していた男であったが、一先ず無事に帰れるらしい。
「あんたには向こうが見えてるの? 私からは見えない。真っ白になってる」
「するとアウラを連れてく事は不可能みたいだな。連れてくつもりもないが」
「私もその気はないわ」
「それなら良かった。じゃ、言っておいたことだけ頼む」
「はいはい、さっさと帰りなさいよ」
男からアウラへの注文は、元の世界に帰還した男が再度戻ってくるまでに異界の部屋でどれだけ時間が経過するかだ。
利用者の訪問は、あちらでの時間経過とは関係なく不定である。囚われた者もそうなのか、あるいは一瞬で戻ってくるのか。
他には訓練やら男が不在の間に利用者が訪問してきた場合やらを話してあった。
アウラは訓練を一蹴し、誰かが来た時は男の不在を告げ好きなようにさせると決めた。誰かの相手をするのは面倒なので誰も来ないで欲しいと願っている。
男は振り返りもせずドアの向こうに消え、利用者たちが行き来する時と同じようにドアが閉まった。
広く豪奢な応接間で、アウラだけが残された。
元より孤独に生きるのが魔族の生態である。一人きりになったところで寂しいと感じる感性はない。今までしてきたことを繰り返すだけだ。
ターニャの魔法を再現するのは自分一人では難しい。自分の世界の魔導書を読んで角を隠す魔法を探し、なければ作る。
そう思って書斎に向かおうとして、広い応接間の半分の半分ほどを過ぎたところでドアが開く音がした。
男がドアの向こうに消えてから一分も経ってない。帰ってきたのか、それとも他の誰かがやって来たのか。
後者はとても面倒だ。大体魔族に接客させる方が間違っている。
それでも仕方なしに踵を返す。
開ききったドアは、真っ暗だった。
それが仄かに光り出す。青白い光だ。ドアの向こうの光景はその都度違うが、暗いのが光り出すのは初めて見る。こんな場合もあるのかと軽く考えた。
「…………え?」
しかし、今までと大きく違う変化があった。足元がひんやりしてきた。
ミニスカメイド服だがストッキングを穿いている。もしも穿いていなかったら寒く感じたかも知れない冷気。
何かと思って下を見れば、うっすらと白い靄がある。自分の立つ場所以外にも、白い靄は応接間の隅々にまで広がっていく。靄の正体は、ドアの向こうから流れてくる霧だと気付いた。
一体何が出てくるのかと身構え、夜になった。
異界の部屋には夜も昼もない。
時間は時計が示すものが全てだ。あれは部屋に備えられていたものではなく、男が作ったものらしい。本当に時間を測るだけで昼夜とは無関係だ。
それが夜になった。
窓がないため昼夜の判別は不可能なのに、アウラの知覚全てが夜であると訴えた。
見ればドアから金の燭台が現れ、白い蝋燭が炎を揺らがせている。
金の燭台は白い手が持ち、それ以上はわからなかった。
アウラの目線はドアから外れ、自分の足元を向いた。床は見えない。白い霧に埋まっている。アウラの顔も霧に包まれた。
いつの間にか両膝を床についていた。見てはならないものを見ないように、顔が勝手に俯いた。
カチカチとどこかで鳴っている。
アウラの歯が鳴らす音だと、アウラ自身は気付かなかった。
「いないの」
冷たい声は、耳元で囁かれたようにアウラを圧した。しかしアウラは答えない。あれは問いかけではなく、ただの独り言だ。アウラの返答を求めていない。
「もうひと眠りしてから来ようかしら」
アウラは、自分は死んだのだと思った。霧の冷たさを感じない。両手両膝を床に突いているのに、触れた感触がない。
自分の肉体は消え去って、意識だけが滞留しているのだ。
「そうだわ。帰るにはノートを……」
澄み切った声が響いた。
アウラが自分の意思で体を動かせるようになった時には、全てが元通りになっていた。
白い霧はどこにもない。白いドアは閉まっている。夜だと感じたのは何だったのか、ドアが開く前と同じ時間が流れている。
そこで初めて、アウラは自身の目元が濡れているのに気付いた。涙を流したらしい。
「………………」
軽口を叩いて今起こった事を消化しようと思ったのに、声が出ない。あ、う、と発声練習を繰り返してから喋れるようになった。
喋れるようになっても、先ほど起こった事を振り返る気には到底なれなかった。
アウラは生まれて初めて、一人きりが心細いと感じた。
最後の訪問者はリナの姉的ポジションで出てくるかどうかわかりません
もしも出たら色々盛って贔屓すると思います
次回アウラの訓練回