※この作品はR-18です。

奉仕しないと帰れない部屋に囚われた男の業務記録   作:dolph

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まだだいぶだめ
カレーの匂いがわかんないです


一見予定

「どうして人間は泣いたり笑ったりするわけ?」

「魔族も泣いたり笑ったりするだろうが」

 

 利用者がまだない日の昼過ぎ。アウラは書斎で本を開く男に尋ねた。返ってきた言葉はとてもつれないものだった。

 この男の読書中に声を掛けると高確率でこうなる。無視される事も多い。ちゃんと聞かせるには聞くための準備をさせる必要がある。

 

「知ってるなら教えなさいよ。ねえ、ねえったらねえ!」

「揺するな!」

 

 アウラは男の肩に手を置き、ぐわんぐわんと揺すった。読書を続けられなくさせるのが話を聞かせるコツだ。しかし本を取り上げるだけだとそのまま考え事に移行する。荒事にならない範疇で一番有効なのが揺する事である。

 男は仕方無しに本を閉じた。アウラがこうなると相手をするまで諦めない。まるで大きな子供である。社会性がないからこうなったのだろう。

 

「何が聞きたいんだ? お前だって泣いたり笑ったりするだろう」

「するけど人間ほどじゃないわ」

「それが答えだ」

 

 答えるべきを答えた男は閉じた本を開き、それを見たアウラはカチンときた。全く答えになってない。

 

「私にわかるように教えなさいよ」

「だから揺するな!」

 

 言葉足らずで怒られる悪癖がアウラ相手でも遺憾なく発揮された。しかし、言葉が少なくとも十分以上に理解する者がいる。逆に言葉を重ね過ぎて誰も聞いてくれない事もある。愛読書を布教する時がそれだ。

 とりあえずアウラが満足するまで説明する事にした。

 

「共有するためだ。社会性がない魔族にはわからないだろうが、人間は群れて社会を作る生き物だ。自分の状態を知らせるために泣いたり笑ったりするんだよ」

 

 周囲に誰もいない一人きりの状態で泣いたり笑ったりしていれば、人間であっても変な人である。

 

「じゃあどうして泣いたり笑ったりするわけ?」

「お前……」

 

 男は言葉に詰まった。アウラの状態が深刻だ!

 たった今答えたばかりの事をもう一度訊いてきたのだ。理解出来なかったのか聞こえなかったのか聞いたばかりの事を忘れてしまったのか、どれであっても脳みそに深刻な異常が疑われる。

 

「違うわよ!? 私が聞いてるのは泣いたり笑ったりする原因の事よ。あなたの話がわからなかったわけじゃないわ」

「そうか……」

 

 アウラの状態が深刻だったわけではなく、問題を掘り下げただけらしかった。

 どうして急にこんな事を聞いてくるのか、男は気にしない。アウラの内面に興味はない。ただ、知識が深まるのは良い事だと思っている。出来るならば聞かずに自分で調べて欲しいところだ。

 

「つまり感情は何のためにあるのか、だな?」

「そういう事ね」

 

 魔族であるアウラが、まさか人間への理解を深めようと思ったわけではない。理由はもっと即物的だ。『恋の魔法少女♡ 彼をメロメロにする100の秘技』を読み始めて早速詰まったからである。

 書曰く「笑顔が基本」であるらしい。何もないのに笑えない。意味不明である。

 書曰く「挨拶が基本」であるらしい。思えば、彼は朝と就寝前には必ず挨拶をする。アウラが応えるかどうかはその時の気分次第だ。アウラの返事があろうとなかろうと、彼は挨拶を欠かさない。本を読み始めて、アウラも「おはよう」と「おやすみ」は言うようになった。

 書曰く「誉めるのが効果的」であるらしい。さっぱりわからなかった。「生きてて凄いわね」とでも言ってやればいいのか。書には例が幾つか載っていたが、どのような状況で使えばいいのかわからない。服装を褒めようにも彼はいつもスリーピースだ。

 書曰く「ボディタッチが有効」であるらしい。これだけは理解できた。今も早速やっている。揺するために彼の肩に置いた手はそのままだ。しかし、効果があるのかどうか疑わしい。

 

 『恋の魔法少女♡ 彼をメロメロにする100の秘技』だけを盲信することなく類似の本も読んでみたが、どれも似たようなことしか書いてない。どうしてわからないのか。人間の感情がわからないからだと気付いた。

 

「人間に限らず魔族も犬や猫もそうだが、生きてる個体が一番重要視するのは生きる事だ。それはわかるな?」

 

 種ではなく個体である。似たように思えて全く違う。

 

「そんなの当然じゃない。それじゃ犬や猫にも感情があるってこと?」

「先走るな。これから説明するから。生きるには有利な事や不利な事がある。怪我や病気をしたら不利だし、社会を作る生き物だと群れから逸れるのも不利だ。逆に栄養がある物を食べたり、群れや巣を手に入れて安全になるのは有利だ」

「群れはわからないけどそう云うものなのね」

「そう云うものなの。で、有利を得て不利を遠ざけるのが生きるには重要だ。そこで生き物は有利を快、不利を不快と感じるようになった。つまり、生きるには快を求めて不快を遠ざければいいわけだ」

「それで?」

「ちゃんとわかってるんだろうな? その快不快によって生じるのが感情。有利な事ならプラスの感情が、不利な事ならマイナスの感情が出てくる。簡単に言えば生きるための優先順位を付けるのが感情。単純化したが大体こんなところだな」

「いい事があったら笑って、嫌な事があったら泣くってこと?」

「そうなる。が、30は快で50は不快だとどんな感情になると思う?」

「泣きながら笑う?」

「その他に100不快で快はたったの1だが、それがないと不利になる場合はどうなる?」

「……ダメ。さっぱりわからない」

「俺だってわからない。仕組みは単純でも結果は複雑になるみたいだな。だからそーいうのは経験で判断するしかないわけだ」

 

 つまり、社会性がない魔族には頑張ってもわからないという事である。経験が致命的に足りていないのだ。

 

「じゃあどうすればいいのよ?」

「どうしたいんだ?」

「…………」

 

 お前をメロメロにさせるため、とは口に出来ない。

 

「もういいわ。今日も訓練するんでしょ? さっさとしてよ」

 

 結局、今のアウラが出来るのは力押しだけである。互いの体が触れ合う訓練は本にあったボディタッチ以上だ。受けるアウラも気持ち良い。

 

「もう毎日しなくても大丈夫だ。成果が出てるようだからな」

「何よそれ。するって言ったのあんたじゃない」

「始めた時とは状況が変わったんだよ。それともアウラがしたいのか?」

「それは……」

 

 今度はアウラが言葉に詰まった。

 率直に言えばその通りだ。しかししたいとは言い難い。この男の上に立つと決めたのに、して欲しいと言うのは癪である。

 魔族であっても返報性の原理は身についている。してもらうばかりだと、立場が下になってしまうのだ。してもらったら相応のものを返す必要があるのだが、アウラには返せるものがない。それともこれは別に数えるべきか。

 

「私がしたいかどうかは関係ないわ。あんたがすると言ったのよ」

「確かに言ったが……」

 

 男は面倒になった。

 生理が全く異なる魔族と云い合っても得るものはない。時間を浪費するだけである。そして、アウラがしつこいのは何度も思い知らされてきた。こちらが折れた方が楽で、早かった。

 

「わかったよ。それじゃ……」

 

 始めるかと言いかけ椅子から立ち上がろうとした時である。二人の頭の中で、喧しい鐘の音が鳴り響いた。

 

「後だな」

「……仕方ないわね」

 

 アウラも鐘の音を無視できない。応接間の白いドアが開くまで、鐘の音はずっと鳴り続けるのだ。

 アウラは男の肩からようやっと手をどけた。立ち上がった男はアウラに向くなり眉を顰めた。

 

「着替えろ」

「どうしてよ。これでいいって言ったじゃない」

 

 アウラが着ているのは海夢が選んだ露出過剰なメイド服。利用者の訪問に備えて、今日は付け袖とフリルたっぷりのヘッドドレスを付けている。

 ラムとレムの例がある事だし、これくらいなら良いかと男も許可を出していたが、その時とは状況が違った。

 

「鏡を見ろ。それでいらっしゃる方を迎えるつもりか? 痴女だと思われるぞ」

「なによ!」

 

 アウラは初めて異界の部屋を訪れた時から、夜のお店スタイルな衣装を着ていた。今の露出はその時と大差ないのだが、大きく違う点がある。

 

「目立つ」

「きゃんっ!」

 

 男はアウラの胸の先端を、軽く指で弾いた。

 メイド服のベアトップは生地がとても薄く、透けはしないものの着用者の変化を如実に反映する。具体的には、乳首を立たせるととても目立った。

 

「着替えなくてもいいから下に何か着けろ。そのままじゃ頭が足りないと思われる」

「このデザインじゃ着けられないわよ」

「わかった。一緒に応接間に行くとドアが開くかも知れない。俺が先に行くから、10数えたらクローゼットルームに来い」

 

 男はアウラに下着の種類を教えるべきかと考え、先に書斎を後にした。

 

 

 

 

 

 

 ややあって、二人は応接間に入った。

 アウラのメイド服はエロメイド服のままである。けれどもベアトップには妙な突起は浮いてない。そしていつもより谷間が深い。ブラジャーの効果である。

 肩も谷間も出してるベアトップなので、肩紐で吊るすブラジャーは着けられない。使用しているのはヌーブラだ。ヌーブラはバストにペタリと貼り付け、フロントをホックで留める。そのため肩紐にストラップが不要で、ブラジャーのラインが出ない。きちんと着ければバストのラインが綺麗になる。谷間も深くなる。乳首が浮くこともない。

 姿見の前で様々な角度から自分の姿を鑑賞するアウラは、どうやら気に入ったらしかった。野生の魔族も文明の利器の有効は認めざるを得ないようだ。

 

 男が白いドアの前に立ち、アウラは三歩後ろに立つ。ドアが開き赤と黒のマーブル模様を覗かせて、鐘の音が止まった。

 ドアから現れた女性は目を丸くする。初めて異界の部屋を訪れた者は大抵がこうなる。今まで自分がいた所とは違うところに出るのだから当然だ。仮に応接間と同等の豪奢な部屋にいたとしても、見知らぬ二人が立っていれば驚くだろう。

 

「ようこそお出で下さいました」

 

 男が穏やかに微笑んだ。アウラは両手を後ろに組んだまま軽く会釈する。魔族がお辞儀を覚えただけで上出来だろう。

 

「驚かれるのも無理はない事と存じます。私から説明させていただきます。どうぞ楽に為さってください」

「私をここに連れてきたのはあなたと言うこと?」

 

 女性にしてはやや低い声である。若くは見えても二十歳と云う事はないだろうが、成人すれば声質は年齢と関係しない。大柄なのも直接の原因ではない。大声を張り続けてそうなったと思われた。

 

「そこから説明いたします。始めに申し上げたいのは、私どもが貴女を招いたわけではございません。ここには貴女を害するものは何もありません。こちらにお掛けになってください」

 

 女性が目を丸くしたのは数秒。すぐに鋭く細め、警戒を露わに周囲を素早く見まわし、アウラの頭上で数瞬留まって、男を見返した。

 

「あなたと会った事があったかしら?」

「いいえ、初めてお会い致します」

「その割には馴れ馴れしい目をするのね?」

「失礼致しました。懐かしさに不躾な目を向けてしまった事をお詫び申し上げます」

 

 男は深く頭を下げた。その間、アウラはずっと仏頂面で突っ立っているだけだ。男とは違って、アウラは利用者が来てくれなくても構わない。加えて魔族のアウラが追従笑いなんて出来るわけがない。尤も、男も出来ない。

 

「……煙草を吸ってもいいかしら?」

「構いません。ご希望の銘柄がございましたら用意いたします」

「持ってるからいいわ」

「かしこまりました。火のご用意はございますか?」

「ええ」

 

 彼女はポケットからシガレットケースを取り出し、紙巻の煙草を手に持った。

 男はテーブルへ着くよう促し、灰皿にはクリスタルの大きな飾り皿を差し出す。

 その様子を見ていたアウラは小首を傾げてこう言った。

 

「どうして顔にそんなもの付けてるの?」

 

 空気が凍り付いた、と思ったのは男だけだった。

 空気を読まないと散々馬鹿にされてきた男でも魔族ほどではない。まして女性の顔をあれこれ言うのはタブーであると知っている。顔だけでなく体もそうだ。

 そのタブーを、アウラはあっさり破った。何が悪いのか全くわからず、そもそも悪いとも思っていない。純粋な疑問を口に乗せただけである。

 

「ふ……ふふ…………」

 

 煙草を咥えた女性は、低い声で笑った。顔について言われる事は今でも間々ある。今更の事なので気にはしていないが、言われたままでは沽券に関わった。

 

 彼女は豊かな金髪を高い位置で一つにまとめて流している。厳しい雰囲気ながらも臙脂色のレディーススーツが似合う美人である。左目の下に小さな黒子があるのが魅力的だ。が、右目の周囲から頬にかけて肌が醜く爛れていた。火傷の痕だ。痕の様子から長い付き合いがあるのだと察せられた。

 

「私を知らなくてもそんな事を言われたままにしておけないわね」

「え? きゃっ!」

 

 彼女は言葉の途中で飾り皿を手に取り、アウラの顔目掛けて投げつけた。

 数歩の距離から飛んできた皿をアウラは避けることが出来ず、目を見開いたまま受けることしか出来なかった。アウラの顔で甲高い音が響き、皿は幾つもの破片となってほんの一瞬だけキラキラと輝いた。

 男は額を押さえた。訪問者を迎える前にアウラの着替えに気を取られたため、余計な事を言わないようにと命令するのを忘れていたのだ。

 

「大変失礼な事を申しました。お詫びのしようがございません。あの者には適切な教育を施すことをお約束いたします」

「約束どころかまだ生きてるかしら? 自分の女があんなになっても気にしないなんて、随分と悪い坊やね」

 

 重厚な飾り皿だった。彼女が感じた重量はキロに届こうとしていた。それが木っ端微塵になる威力で顔面に投げつけたのだから、まず無事では済まない。顔面が陥没するか、当たり所が悪ければ脳挫傷で即死だ。

 なのに男の態度は軽いものである。

 

「あれは魔族ですのであの程度なら痛くも痒くもないでしょう」

「痛いわよ! 血が出たじゃない!」

 

 女が立ち上がるのを見て、彼女は大きく目を見開いた。

 卑猥なメイド服を着た女は、目と目の間に傷が出来ている。出血も多少ある。しかしそれだけだ。出血箇所に飾り皿が当たったのだとしたら、余程鍛えて訓練が行き届いていないと立ち上がれないはず。

 女はプンプンしながら頭からガラスの欠片を落としている。振る舞いや体付きから、鍛えている様には思えない。

 彼女はようやっと男の話を聞く気になった。

 

「よろしければお掛けになってください。ここがどのような場所で私どもが何であるか、説明させていただきたく存じます」

「……お願いするわ」

 

 

 

 男の話は彼女の理解出来る範疇を越えた。

 異界だとか魔法だとか魔族だとかは彼女の知識にない。そんなものは子供向けのお伽話だ。しかし、ピンク髪の女の体は彼女の知識では説明できない。頭の角はとち狂ったアクセサリではなく、本当に頭から生えてるのも確認した。

 

「つまりあなたたちは、自分の家に帰るために私に何度も来て欲しい。そう言うことかしら?」

「その通りでございます」

「興味ないわね」

 

 豪奢な椅子に座り、大きな飾り皿に煙草の灰を落とす彼女は、煙を吐き出すのと同じ調子でそう言った。

 彼女は本当に心底興味がなかった。

 見知らぬ誰かが家に帰れなかろうと彼女には全く関係ない。ここで贅沢が出来ようとも、そんなものは向こうでも出来る。何かを持って帰れるなら話は別だが、基本的にこの部屋のものは持ち出し出来ないそうだ。

 すると、得られるものが何もない。二人のためにわざわざこんなところを訪れる思い遣りは、彼女の中には全くなかった。

 

「……そう仰る方もおられます。残念な限りではございますが」

「残念だったわね。これは返すわ。いつの間にかポケットに入ってたのよ」

 

 そう言って、小さな黒い鍵をテーブルに置いた。

 

「名前を書かないと帰れないなら一度だけサインしてあげる」

「ありがとう存じます。偽名や通称ではなく、本名をお願い致します。書いたご本人を除けば私どもにしか読めませんのでご安心ください」

 

 彼女は皮張りのノートをペラペラと捲る。

 確かに、男の言葉通り他の利用者のサインが読めない。追記のメモは読める。美味い酒があるらしいのは少しだけ興味をそそられた。他には色事を楽しむ女がいるようだ。立場が立場なので遠ざかってるのを思い出す。

 

 彼女がさらさらとサインするのを見て、男は目を見張った。知った名前に近いと言うか、語源が一緒だ。アウラと違ってそのままでないから間違える事はないだろう。

 

「この名前で呼ばせることはない。もう会う事はないでしょうけどバラライカと呼びなさい」

「かしこまりました」

「最後に一つだけ。私を見て懐かしいと言ったわね。何が懐かしいのかしら?」

「火傷です。私も顔に大きな火傷を負っておりました。バラライカ様とは反対の部分ですが」

 

 バラライカはまじまじと男の顔を見つめた。非常に整った顔だ。男であることははっきりとわかるが整い過ぎている。その上銀髪の異色光彩は現実感がなく、見過ぎると見入ってしまってここがどこか忘れそうになる。

 そんな事よりも火傷の事だ。火傷を負ったと言う割には痕がない。最先端の再生医療や皮膚移植で爛れたところは治せそうだが、継ぎ目や違和感まではなくせない。男の顔からそんなものは一切感じない。

 

「十年は付き合いました。今はこのように回復しております。バラライカ様の火傷も癒すことが可能です」

「要らないわ」

 

 バラライカは言下に拒否した。

 火傷痕による美醜云々よりも勲章だと思っている。同志たちと地獄を駆け抜けた証そのものだ。それ以前に、突然火傷の痕が消えたら説明に困る。遠い世界の魔法で治ったと口にしたら狂ったと思われる。

 治すつもりは全くなかった。

 それなのに、である。話に全く加わらない角の生えた女から、突然冷たい水を掛けられた。

 

「アウラ!」

 

 男が何か言いつのるのは関係ない。

 バラライカは自身の立場や身分を明らかにしていないが、舐められたらやり返すと言ったばかりだ。今度こそきっかり顔面を陥没させてやろうと決意した。椅子を蹴って立ち上がり、違和感に気が付いた。

 頭の天辺から何かを掛けられたのに濡れてない。冷たい液体が頬を伝うのを感じたのだが、今はもう何もない。乾いたにしては早過ぎる。それとも揮発性が高い何かで本当に乾いたのかも知れない。思わず濡れた部分に触れて、頬をひくつかせた。

 触れた部分が滑らかだ。微細な凹凸や乱れた部分がなく、顎から右目の真下まで指が滑る。

 それだけでなく、視界が明瞭になっている。

 火傷を負ったのは捕虜となった時に拷問を受けたからだ。その影響で視力が著しく低下した。眼球は焼けなかったが、瞼は焼けたのだ。目が煮えてしまった。それなのによく見える。

 

 呆然と自分の顔を撫でるバラライカを見て、男はまたも額を押さえた。アウラに言って鏡を持ってこさせた。

 

「……こちらをどうぞ」

 

 鏡に映るバラライカには、顔を汚す火傷の痕はどこにもなかった。顔だけではない。首筋や鎖骨や胸の谷間にあった火傷痕も消えている。長く付き合っていた勲章は、跡形もなく消えてしまった。

 

「そんな……困るわ……」

「どうして? 治ったんだからいいじゃない」

「バラライカ様は治さなくてもいいと仰せだったんだ」

「私は聞いてないわ」

 

 悪びれずに言い切るアウラに、男は頭痛が痛くなった。どうして魔族はこうなのだろう。

 

 クリスタルの飾り皿の破片を頭から被ったアウラは、一旦応接間から離れて髪を梳かしてガラス片を落としてきた。そしてアウラなりにバラライカが怒った理由を考えた。おそらく、顔の火傷痕を指摘した事だと察しがついた。バラライカは火傷痕を消せることを知らないのだ。だから治してやった。アウラも何度かお世話になった赤い飲み薬を掛けてやったのだ。効果は抜群で火傷痕は一瞬で消えた。めでたしめでたし、で終わるはずだった。

 なのに男は頭を抱えて、バラライカは呆然としている。なんだかとても納得がいかない。

 

「わかったわ。これが快が50で不快が50ってことね。治ったのに困るのはわからないけど」

「……私がいるところに魔法なんてないわ。治った理由を説明出来ないのよ」

 

 利用者が異界の部屋の事を話すには様々な制限がある。起こった事を全て話せるわけではない。一番ペナルティが重いのは鍵の存在を明かす事だ。バラライカは異界の部屋を再訪問するつもりがないので、そのあたりはどうでも良い。しかし、ペナルティがあろうとなかろうと魔法がどうのと話せるわけがない。頭が湧いたと思われる。バラライカが魔法がどうのと真剣に聞かされたら間違いなくそう思う。それが立場ある者だったら長い休暇を取らせる。このままだとバラライカ自身がそうなりかねない。

 

「バラライカ様がお困りなのは火傷の痕が消えた事なのですね?」

「そうよ。治そうともしてこなかったわ」

「わかりました」

「何がわかった? もう一度火傷をしろと言うならお前の顔を焼いてやるわ」

「違いますよ」

 

 バラライカは、火傷が治った事に困ったのではなく、火傷の痕が消えた事に困っているのだ。

 ならば答えは簡単である。

 

「マスクを作りましょう。ご安心ください。私から見える範囲でしたらどのような痕が付いていたか覚えております。マスク程度でしたらここから持ち出すことも可能なはずです」

 

 手先は器用な男である。

 海夢との付き合いで、様々なメイクがある事を覚え学んだ。火傷痕を特殊メイクで再現するくらい問題なく可能である。そしてマスクのメンテナンスと称してバラライカに再訪問を促すことも可能である。

 アウラはろくでもない事ばかりすると思ったが、意外な活躍であった。




「BLACKLAGOON」よりバラライカ

薄々そんな気はしてましたがフェルンになりませんでした
多分いつか出ます、多分
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