奉仕しないと帰れない部屋に囚われた男の業務記録 作:dolph
ノートを開いた海夢は目を見張った。見られている事を思い出し、すぐに背を向ける。声の震えは抑えられなかった。
「あ……、あたしバイト行かないとでした……。帰ります」
「はい?」
予想だにしない不意打ちであった。男は虚をつかれ一瞬言葉を忘れた。
ここでは外界の時間が止まっている、ターニャと会うための打ち合わせをする予定、持ってきた荷物を忘れてる、等々言うべきことは幾らでもあったが、海夢は素早くノートにサインをして白いドアの向こうに消えてしまった。
男が伸ばした手は宙を掻いた。アウラは冷めた顔で何も言わなかった。
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ノートを開いた姉妹は額に光り輝く角を顕現させた。
「ウルフーラ!」
「エルヒューマ!」
ビュオオオー! グワー!
姉妹の繰り出す魔法は姉妹の絆パワーで合体し殺傷力抜群の範囲極小威力極大の吹雪となって男を襲う!
螺旋槍の如き氷雪とるねーどの直撃を受けた男は床と水平に吹き飛ばされ、テーブルやら椅子やら諸々を巻き込みながら白いドアから一番遠い壁に叩きつけられた。
壁から床にずり落ちた男は、ピクピクと痙攣した。手足が変な方に曲がってはいるものの、首はちゃんとついている。体に穴も開いてない。無事かどうかは兎も角、生きてはいるようだった。
躊躇なく魔法を行使した姉妹は、男が着るジャケットが凄い防御力を持ってるのを知っている。初訪問時に実地で試した。凄い怪我をして手足が取れても赤い飲み薬で元通りになるのも知っている。こちらは姉がその身で確かめた。
「レム、帰るわよ」
「姉様、帰りましょう」
姉妹は何かしらをノートに書き殴って白いドアの向こうに戻る。
一部始終を見ていたアウラは壁際でぷるぷる震えていた。
男はこんな事もあろうかとポケットに入れておいた赤い飲み薬を呷った。
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ダクネスは露骨に顔をしかめる。不信と疑念を隠さず男を見た。
「お前、実はインキュバスだったりしないだろうな?」
「しませんよ。正真正銘の人間です」
「本当か?」
「本当です。ノートに何かありましたか?」
「ある。私の経験もそうじゃないかと言っている」
「経験と仰いますと?」
「お前にだっ……!」
言いさして、ダクネスの顔は一瞬で真っ赤に染まった。火がついたようだった。
「インキュバスって何? 初めて聞くわ」
アウラの世界にはインキュバスが存在しない。魔族のアウラに揶揄の意図はなく、純粋な疑問である。それがダクネスへの追い討ちとなった。
「いっ……たぁ……! ……インキュバスはサキュバスの男版だ」
「サキュバスって何よ?」
ダクネスは思い切り舌を噛んだ。目に涙を浮かべ痛みを堪えて答えたと言うのにすぐさま問い返される。アウラの世界にはサキュバスも存在しない。
「サキュバスは、その……あれだ! 悪魔の一種だ! サキュバスの男版であるインキュバスも悪魔なんだ。悪魔が相手なら私は容赦しないぞ!」
「ですから人間ですって」
「でもあんたは悪魔を知ってたじゃない。人間より遥かに優れた種族って言ってたわよね」
魔族のアウラはおつむがあれでも記憶力は確かであった。男に言われた事を一言一句違えず繰り返す。余計な口を挟むのが魔族の能力であるようだ。
「私が言う悪魔はダクネス様がご存知の悪魔とは違います。種族名がたまたま一緒なだけですよ」
「悪魔と関りがある事を認めるんだな!?」
「説明いたしますから落ち着いてください。まずダクネス様が仰る悪魔は、ダクネス様が信仰する神々の敵が自称する種族名です。私が口にした悪魔は、『悪』の『魔』です。『魔』とは不思議な力を持つ者、『悪』は力強さや突出する事を意味します。そもそも私の世界とダクネス様の世界は違うのですから、同じ言葉でも違うものを指すのですよ」
「そう言われればそうだが……。でもサキュバスは知ってたな? いるんだろう! 同じような事をしてるんだろう! じゃあインキュバスだっているんじゃないか!」
人の事をインキュバス呼ばわりするがそういうお前はサキュバスゾンビ、とは口が裂けても言ってはいけない。信仰する宗教の教条で悪魔とアンデッドの存在を看過できないダクネスだ。それをサキュバスでゾンビと言ってしまえば大変な事になる。
空気は読まなくても、話の展開を読むことは出来る男なのだ。
「そう仰られましても、違うとしか言いようがありません。ダクネス様はご自身でお確かめになったはずです。私に角も翼もないでしょう?」
「たったたたしかめっ!? いやらしい事を言うな!」
「……恐れながら、ダクネス様がいやらしい事を想像なさってるだけかと」
フンッグハッ!
男は言い切れなかった。
剣を持たせれば目標が静止していても空振るダクネスだが、腕力は凄いパワーだ。固く握った鉄拳が男のみぞおちに突き刺さった。防御力が高いジャケットを着ているのでダメージはなくとも息が詰まり、その場に崩れ落ちる。
「疑いが晴れるまで来ないからな!」
ダクネスはそう言い捨てて帰ってしまった。
「来なければ晴らすどころじゃないだろうが……」
男の呟きは届かなかった。
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「恐らくこの一文の影響だろう。お嬢様が読んだのは桃色姉妹のメモだな。淫魔淫獣とある。ヴィルトには心当たりがあるんじゃないか?」
ターニャは口中に微笑を含んで教えてやった。
部屋の訪問客がすぐに帰ってしまう。男には心当たりがない。自身の行動を省みても不味い事はなかった。何かする前に帰ってしまうのだから、関係あるわけがない。
彼女らの行動が変わるのはノートを読んだ直後であるため、何かしら不利益をもたらす事が書かれたのだと推測できる。しかし、部屋に囚われた男とアウラはノートのメモを読むことが出来ない。
利用者たちの中で特に理性的であるターニャに相談を持ち掛けたところ、先の言葉が返ってきた。
「桃色姉妹はいつも似たようなことを書いてるのだから今更誰も気にしないだろう。他の客が気にしてるのはその前だ。――、――とある。」
「申し訳ございません。私には聞き取ることが出来ませんでした。メモを為さった方が私に読まれまいと思いながら綴ったのだと思われます」
「そうか。貶してるわけじゃない。むしろ最高の賛辞と思えるよ。そうでもない一文もあるが、これは価値観の相違だ。話せばわかる。わからないバカは放っておけばいい」
ターニャが目を落とす部分には『極悪人。但しセックスは最高』とあった。
前者は議論の余地がある。
ターニャから見ても、この男は非常に合理的で理性的だ。情に流されず、数字に一喜一憂する事無く的確な判断を下せる。数字が意味するものが人の生き死にでも変わらない。それをもって悪人と呼ぶものもいるだろう。
後者はその通りだ。
前世は男であり今世は女となったが未だ幼くもあるこの体にあれほどの快楽を叩き込み、あるいは引きずり出し、忘我の縁へ誘うのだ。思い出して手が伸びる夜が何度あった事か。
毎回卑猥なメモを残す桃色姉妹は間違いなく体験している。仮称雫たんとお嬢様も件のメモを読んで態度を変えたのならそうと思われる。
散々匂わして来たのだから実に今更、と思ったところで思い付いた。
「もしかして帰った連中はまだ子供なんじゃないか?」
「若年としても良い方々かと。何かお分かりになりましたか?」
幼くもあるターニャが他者を子供呼ばわりしても笑う者はここにはいない。男はターニャの精神が成熟しているのを知っているし、アウラは壁際で彫像のようになっている。
男の言葉にターニャは苦笑を浮かべた。
「やっぱりか。子供の独占欲が爆発して癇癪を起しただけだよ。時間が経てば落ち着いてここの価値を思い出すだろう」
「そう願うばかりでございます。相談に乗ってくださり、ありがとう存じます」
「ヴィルトにはいつも世話になっているからね。これくらいは大したことではないさ」
「重ね重ね感謝いたします。貴重なお時間をお借りしてしまいました。本日もターニャ様にお寛ぎ頂こうと存じます」
「その事だがね」
ターニャの苦笑が深くなった。男は何度か見た表情だ。次の言葉に察しがついた。
「残念ながら長期の出張だ。出張先からもここに来れなくはないが、出張先の環境があれなものでね。来てしまうと調子が狂う。しばしのお別れだ」
出張先は血吹き肉落ちる戦場だ。一度出かけてしまったら、幾ら何でも一週間で帰れることはない。
「生きて帰ってくださることを祈っております」
「そこはご無事で、と言うべきだろう?」
「ここにいらっしゃって頂ければ、手足を生やすことも可能でございますから」
「……何度も見てきたがああはなりたくないものだよ。それに取れた手足が生えても言い訳に困る。ま、武運だとか健闘だとか言われるよりマシだな」
ターニャはブラックコーヒーを飲み終わると立ち上がった。
今日は出張前日らしい。長居をするつもりは始めからなく、報告のためだけに立ち寄ってくれたようだ。
男は屈んでターニャと軽く唇を合わせ、ドアの向こうに消える小さな姿を見送った。
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そして誰も来なくなった。
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おそらくは元凶と強く推測されるバラライカも来ない。バラライカも他の利用者たちと同じように異界の部屋から心が遠ざかってしまった、と言うわけでもないだろう。
アウラが利用者であった頃、部屋での一日がアウラの一週間だった事がある。利用者ではなく囚われた管理者なので不適な例かも知れないが、男の一週間が部屋での数分だったこともある。
それが逆になるとどうなるか。
部屋での168時間が他の世界での一日になると言う事だ。つまりは七日が一日。利用者が過ごす一週間が、部屋での168時間の更に七倍。事に寄ったら更に数倍。
異界の部屋で数えられる時は24時間までだ。24時間経つと全てがリセット、などと不思議な事が起こるわけではなく、男が作った時計が24時間しか数えない。日数を数える機能は付けなかった。
その気になれば万年を数え誤差を自動で修正する時計を設計出来るし作る設備も能力もあるが、作る意味がない。異界の部屋でどれほど時を過ごそうと元の世界の時間は止まっている。帰れない日数を数えても気が滅入るだけだ。
時を数えず読書に没頭し、時には記憶の宮殿に籠る。それ以外に出来る事がない。
営業活動を出来れば利用者に困る事は無かったろうが、外に出られない。出られたとしても、部屋に通じる鍵は世界に一つしかない。必然的に利用者も一人となる。姉妹で訪れるラムとレムは例外だ。
但し、利用者が変わる事はあった。
利用者が何らかの理由で鍵を失うと、同じ世界の別の誰かの元に鍵が届くことがある。アウラがそうだ。アウラの世界の鍵は八年間彷徨っていた。
そのアウラとの訓練は続いている。自分一人で試すこともあるようだ。
アウラはそれ以外の訓練も自主的に行っている。ターニャが行使する魔術の訓練だ。ターニャが魔術を行使するには術式の演算が必要となる。魔術が引き起こす現象の法則を紐解き法則を見つけ出して術式とする。そこへ魔力を流して具現させるのである。しかし術式は非常に複雑であり、制御には多大な労力を要する。それを代替するのが演算宝珠である。無論、アウラは持ってない。
書斎を漁れば設計図の十や二十は出てくるだろうから、男が作ろうと思えば作れるだろう。
しかし、アウラは自助努力によって術式の再現に成功。男が術式に必要となる数学及び物理学的知識を叩き込んだのが芽を出したようだ。魔族は魔法の才能だけはあるらしい。
以降、精度と出力を高めるための訓練に余念がない。
なお、訓練場所は、以前ターニャから要望があった大規模な魔法を行使できる部屋だ。とても広い上に、標的を自在に作り出せる。結局、ターニャは一度も利用せず出張に出てしまった。雫こと海夢が再び訪れるようになっても、引き合わせる事が出来るのは大分先になるだろう。各々の主観時間ではどの程度かは不明だが。
アウラと男は基本的に没交渉であり、顔を合わせるのは書斎でそれぞれが勝手に本を読むか、アウラがわからない事を男に尋ねるか、アウラの訓練に男が付き合わされるかのどれかである。
互いに言葉がなくとも一向に気にならない。同じ場所にいても互いの存在をないように振る舞う。そのくせアウラは訓練の時間が近付くと男にベタベタと触れてくる。される男はアウラの考えがさっぱりわからず、アウラはスキンシップの成果が出ない事に首を捻る。
訓練内容は未だに指まで。性感帯の開発が目的なのだから指までで十分だ。
訓練は成果を見せているので頻度は落としても良い。しかしアウラの方が希望する。以前はあれこれと言い募ったが面倒になったらしく、素直にしたいと言うようになった。
始めたのは男からのくせして、男の方が面倒に感じるようになっていた。
幸か不幸か、この部屋にいれば溜まりに溜まって溢れる事も暴発する事もない。アウラの体を隅々までまさぐっても意識しなければ欲情しない。しようと思えばする。
「今日はしてよ。昨日はしなかったんだから今日はする日よね?」
男は書斎で本を読むか、体力維持のために体を動かすかのどちらかだ。圧倒的に前者が多い。この日も書斎で本を読んでいた。
男の姿はジャケットにベストを脱いで、ワイシャツとスラックス。首を絞めるタイも外している。
アウラは利用者がさっぱり来なくなったことで、メイド服から遠ざかった。時々クローゼットルームを物色し、色々試している。海夢の影響を受けたようだ。
男が向かう机に手を突いたアウラは、以前の服装と似ていた。しかし、スカート部はレースで黒いショーツを隠せていないし、トップスは肩紐がない黒のビスチェでへそが見えている。上下とも下着に分類される服装だ。股の下から見上げれば、透けはしない代わりに訓練への期待で潤い張り付いているのがわかるだろう。
始めれば見るし触るので、男が床に寝転ぶことはない。
「そうだな……」
男は部屋で過ごす事に飽きない。読むべき本が無限にある。記憶の宮殿に籠れば真の主に拝謁できる。
アウラといる事も不快ではない。ただ、訓練はもう要らないと思っていた。ねだるくらいに好むのだから、開発の程度は十分と思われる。最中の反応も上々だ。
魔族の常で今は表情を落としていても、頬にうすく朱が入る。この無表情が乱れるのだから普段とのギャップがとても大きく、中々と思う事も多い。
必要に駆られているわけではないが、アウラだけを悦ばせるのは癪である。アウラが利用者であった頃に雑な扱いをした報いとしても、十分すぎるほど返したはずだ。
試用あるいは訓練の段階を進めても良いかと思った。
「今日は別の場所で」
と男が言ったその時である。
「チッ」
男は顔を輝かせたのに、アウラは露骨に舌を打った。珍しく不機嫌な顔だ。
二人の頭の中で、空気中を伝播しない音なき鐘の音が鳴り響いた。
「アウラ、着替えろ」
「あれはどこ行ったかわからないわ。最近は全然着てないもの」
悪びれずにのたまう。魔族はとてもだらしなかった。
「今から探すのは」
「うるさいからイヤ」
「それじゃ前着てたのでいい。それならどこにあるかわかるよな?」
「チッ、折角だったのに……。仕方ないわね」
仕方ないのはお前の頭だ、とは言わなかった。言い合うより訪問者を迎えるのが先である。
アウラを着替えさせ、男はタイを結んでベストとジャケットを身に着ける。
男は応接間の白いドアから三歩の距離に立ち、アウラはさらに二歩後ろ。
白いドアが開かれ奇妙な模様を覗かせて、訪問者が姿を現した。小柄な少女に見えた。
彼女は目を丸くして、男の後ろへ目を向ける。柔らかな微笑を浮かべた。
「死んでしまったと聞いていたけど生きていたのね。また会えて嬉しいわ」
男は涼しい笑みで表情を繕い、一歩脇に退いた。
内心を隠さなければくそばかでかいため息を吐いていただろう。
アウラが引き寄せたのか偶然か。
訪問者の額には、髪の生え際に一対の小さな角が生えていた。
フェルンを出すにはシュタルクの供養が必要と思い一般で書こうと思って少しは考えたのだけど暑くて断念
全部夏が悪い