奉仕しないと帰れない部屋に囚われた男の業務記録 作:dolph
自室に戻ったアウラは寝心地がよいソファーに身を投げ、読みかけの魔導書を開いた。
異界の部屋の書斎には様々な書物がある。
利用者であれば自身の世界の書物だけと制限がある。部屋に囚われたアウラにはない。どの本でも読むことが出来る。見知らぬ文字でも読めるというおまけ付きで。
自分の世界の魔導書。ラムとレムの世界の魔導書。ダクネスの世界の魔導書。一番に重視しているターニャの世界の魔導書。
ターニャの世界の魔法はとても理論的だ。正しく術式を構築して起動すれば誰であっても発動できる。
起動は問題ない。大魔族であるアウラの魔力は潤沢だ。
問題なのが術式の構築である。
複雑なものはとても複雑であり、魔法を使うために生まれた魔族であっても実に手強い。あの男が式を解いて再構築してくれなければ、身に着けるまでに何年かかるかわからない。
こうして魔導書を読むときも、傍らには男に作ってもらったメモが並ぶ。
メモと魔導書を見比べて、足りないものを補っていき、術式を仮構築して、としていたところでドアが叩かれた。
無視をした。
もう一度叩かれた。
読書に集中しているのだ。聞こえない。
もう一度叩かれ、今度は名を呼ばれた。
仕方なしに体を起こす。
ドアを開いたアウラの視界に飛び込んできた光景は、荒れ果てた応接間だった。
神域の宮殿も斯くやと言った豪華絢爛たる応接間だったが、砕け散ったテーブルと椅子がそこかしこに散らばり、床でキラキラ光っているのは皿か何かの破片らしく、絨毯はところどころ破れて、壁や柱にも傷がある。
「やっぱりこうなったのね」
アウラは、倒れている者をつま先で小突いた。
▼
これから惨く殺すと宣言したのに、男の態度は涼しいもの。ソリテールは意外に思ったが、こんな人間もいるのかと気を取り直した。
ソリテールの態度こそ殺戮者には見えない。可愛らしい顔にはずっと微笑を浮かべたままで、見る者によっては優しさすら感じるかも知れない。
「魔族にはそれぞれ固有の魔法が備わっていると聞いております。ソリテール様も、ソリテール様にしか使えない独自の魔法をお持ちなのですか?」
「……色々使えるけど、君は魔法を使えないんでしょ? それにこれから死ぬわけだし、聞いても無駄だと思わない?」
「多数の人間と言葉を交わされたソリテール様なら、人には好奇心が備わっているとご存知なのではありませんか?」
「好奇心は私もいっぱい持ってるよ。今知りたいのは、君がどんなふうに苦しみを叫ぶか、かな? 死に顔も見たいな。君の顔はとっても綺麗だから食べずにとっておこうと思うわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「あははっ。君って凄くおかしい。これから死ぬのにそんな事で喜ぶなんて」
「高い評価を頂ければ嬉しく思うものなのですよ」
「ふふっ、そうなのね」
ソリテールはお腹を抱え、声を上げて笑った。
半分は演技で半分は本当だ。男の言葉が余りにも哀れで的外れで馬鹿馬鹿しい。これから死ぬのに、死に方を教えているのに、おまけの言葉で喜んでいる。おかしくて堪らない。きっと頭がおかしいのだ。すぐそこに迫る死を認識出来ないのが哀れで可哀そう。きっとこの男は、自分に何が起こってるかわからないまま苦しみ叫んで楽しませてくれる。面白くておかしくて笑ってしまう。
「君みたいな人間は初めて。人間には君みたいなおかしな人間もいるのね。長く生きてるけど知らなかったわ」
「新しい知見を提供出来たようで幸いです」
「うふふっ、まだそんな事言うんだ。でも自分の血を見たら変わるかも知れないね」
「実は怪我をしても血を流さずにいられるのが特技なのです。必要に駆られて血流の操作を覚えまして」
「すごいすごい! 人間はそんな事も出来るのね」
ソリテールは手を叩いて笑った。笑い続けた。幾ら何でもおかしいと自覚した。
頭部を動かせばそれにつれて視界も動くものだが、動き過ぎる。顔を振れば、想定した以上に視界がぶれる。二重に見える。
顔を動かさなければ視界はしっかりと定まるが、僅かでも視線を動かせば見えるものが二重三重にぶれて散らばってしまい、安定するまで時間が掛かる。
明らかな異常なのに、何がそんなにおかしくて笑っているのか。
瞬時に演技を止めて微笑みを消し、魔法を発動した。
「剣を出現させる魔法」
何もない中空に大剣を出現させる。
両刃の直刀であり、剣の腹にはソリテール好みの装飾が彫られる。切れ味は非常に鋭く、数多の人間をこの大剣で貫いてきた。魔法であっても現象ではなく物質なので、魔法を防御するための魔法では防げない。
それを無尽蔵に出現させて対象に射出するのだから、防げる者も逃げられる者も一人もいなかった。
遊びを止めたソリテールが放った大剣は、男の胸を貫くはずだった。
「これは魔法で作り出したのですか? 私にも触れる事が出来るようですね」
「……ええ、私の魔法。私だけの魔法」
聞きたいのは違う事。しかし、自分の魔法について聞かれたら、変わり者と知られるソリテールであっても答えたくなってしまう。
男が興味深そうに床に刺さった大剣を抜くのを見て、ソリテールの顔は常のアウラのように表情が落ちた。
「何をしたの?」
「ご覧の通りです。ソリテール様が作り出した大剣を抜きました。私が得意とするのは弧を描くカタナブレイドです。真っすぐな剣は使った事がありませんね」
「違う!」
「はて? 何が違うのですか?」
ソリテールは、声を荒げて否定した。
魔族なのに声を荒げた。その事実に、ソリテール自身が驚かされた。千年以上生きたこれまでの生で、果たして自分は声を荒げた事がたった一度でもあっただろうか。
ぶれ続ける視界は眩暈をもたらし、平衡感覚が失われる。真っすぐに立っている事も難しくなってきた。
そこを男が一歩踏み出す。
元々遠い距離にはいなかった。一歩詰めれば目の前に。
ソリテールは再度魔法を発動した。大剣はテーブルを真っ二つに叩き割った。向こうのテーブルは飾り皿を無数の破片に変えた。ソファーが中身の綿を散らす。壁に飛んだ大剣は深く刺さらず床へ落ちた。
標的は目の前なのに、得意の魔法が一つも当たらない。
散々な結果に呆然としている隙に男の手が大剣を振りかぶり、ソリテールは全力で飛び退いた。
「っ!」
床に手をつき、無様に転ぶ事は避けられた。しかし、魔力による防御が甘くなってる。皿の破片で手を切った。
「手から血が出ていますよ。手当てを致しましょうか?」
「要らないよ。おかげで距離を取れた」
手の傷は大したものではない。むしろ気付けになった。目眩は収まらなくても、冷静を取り戻せた。
体に異常が起きてる。何かされた記憶はない。ならば毒でも使われたか。
魔族に効く毒があるのは驚きだが、いつ使ったのかわからない。ここで飲食したものはお茶を二杯。当然警戒していた。だからアウラに先に飲ませ、男にも勧めた。
なのにふらついているのは自分だけ。それともアウラも今頃ふらついてるのか。
毒だろうと何だろうと、所詮は目眩がするだけ。魔法の精度が著しく落ちても使えないわけではない。質は数で補える。
ソリテールは三度中空に大剣を出現させた。
一本、二本、三本、十一まで増えたところで男は数えるのを止めた。大剣は際限なく増え続け、剣の槍衾でソリテールの背後が見えなくなった。
どの剣先も概ね男の方を向いているが、上下左右に揺れて定まらない。しかし、これだけの量を一度に打ち出すなら当たる可能性が出てくる。男は構えた大剣を放り投げ、踵を返した。
大剣が床に落ちる音を聞き、ソリテールは男が持っていた剣を消す。自分が作りだした剣なのだから消すことだって出来る。斬られそうになっても思いつかなかった。
その間も、男はソリテールから離れ続けた。
「どこに行くの? 逃げられると思ってる?」
「勿論思っております。ソリテール様にはご説明をしておりませんでしたね。この応接間にはいくつものドアがあるでしょう?」
「アウラの所に逃げるのかな? アウラは好きにしていいって言ったんだよ?」
「違いますよ」
「ドアに飛び込むより串刺しになる方が先だよ。逃げられても追いかけるから」
やはり魔族はお馬鹿である。説明すると言っているのに、どうして勝手な思い込みで判断するのか。
「ですから、ご説明します。ドアの向こうには様々な部屋があります。中には限りなく広い部屋もあるのですよ。比喩ではなく本当に限りがありません。そこに入れば、ソリテール様が私を見つける事は不可能となるでしょう。加えて、ソリテール様がこの部屋に滞在できる時間には制限があります。その時間まで隠れていれば済む話です」
「悪いけど信じられないかな? 果てがない場所なんてあり得ない」
「お試しになればよろしいかと」
「……こーさん」
クローゼットルームに向かって歩いていた男は、明るい声に振り向いた。
応接間の天井まで埋め尽くしていた大剣は何処にもなく、ソリテールが微笑みを浮かべて両手を上げていた。
「あなたが魔法を使えない人間だから軽く考えちゃったの。少し考えればわかる事だったのに、ここは私の知ってる事が通用しない場所なのね。もう暴れないし、あなたを殺そうなんてしないわ。ねえ、仲直りの握手をしましょ?」
「そう仰っていただけるなら幸いです」
眩暈が去らないソリテールは動かない。
男がソリテールに歩み寄り、手が届く距離になったら右手を伸ばした。
ソリテールも右手を差し出し、男の手を握ろうとしたところで視界が激しく左に振れた。
男の手を握り潰してやろうと思って、男の右手ばかりを見ていたから気付かなかった。視界の外で男の左手が上がり、ソリテールの側頭部を強かに打ったのだ。
「くっ!」
ソリテールは振れた視界を正面に戻し、正面に男を捉えた。男は歩み寄っていた時と同じ、涼しい笑みを浮かべていた。
笑いながら美少女の顔面を殴れる男である。
但し、胸中では笑ってない。魔族はどうしてこんなに馬鹿なのだろうと激しく疑問に思っている。自分は騙すつもりでいたのに、騙される事はないと思っていたのか。剣を向けて上手く行かなかったから仲直り、と言って相手が真に受けると思ったのか。それ以前に、どうしてアウラが自分の事を話していないと思うのか。
男はアウラから、アウラが知る全ての魔族について聞き出していた。積極的に聞き出したわけではなく、アウラが積極的に話すわけでもない。単に時間が有り余っている。
アウラはターニャの世界の魔法を己のものとすべく、男に助言を求めた。それに関連して、アウラが知る魔法を男に伝えた。似た魔法があるなら、そこからの応用を考えた方が早いと思われたからだ。その延長で魔族について話した。
当然、アウラと直接の知己であるソリテールの事を、男は聞いている。使う魔法も性格も行動も。
明らかに危険な存在が来訪したのだから、先手を打たないわけがない。
ソリテールは、防戦すら出来なかった。
魔族の膂力も速さも反応速度も人間より優れている。格闘戦になれば、あっという間に縊り殺せるはずだった。眩暈があろうと捕まえてしまえばお仕舞だ。素手に寄る攻撃でも男の体を貫けるはず。なのに全く当たらない。距離が近すぎるのも不味い。
二人の距離は、ソリテールの歩幅で半歩も離れてない。近過ぎるために肩を回すことが出来ず、攻撃は全て手打ちになってしまう。距離を取ろうにも足に力を入れた隙に頭を打たれて上手く動けない。
所詮は人間が繰り出す攻撃なのだから、見てから避けられるはずなのに避けられない。そもそも見えない。攻撃の全てが死角から飛んでくる。
頭を打たれ、顎を打たれ、足を踏まれて重心が崩れ、下を向けば正面からの掌打で上を向かされる。たまに攻撃が見えたと思っても、避けた先で打たれる。
相手も同じ距離で肩も腕も回せないはずなのに、打たれると体の芯に響いた。
超近接距離での格闘戦では、ソリテールが痛感しているように肩を回せないため拳を繰り出しても威力を出せない。故に、肩ではなく肘を起点にした攻撃が有効となる。
拳での打撃を押し出す動きとすれば、肘を起点にした掌打は円運動である。剣先が円を描くカタナテックを否定してスクエアな軌道を提唱した男だからこそ、円運動による有効を良く知っていた。
肩だろうと肘だろうと、角速度は大差ない。肘から手のひらまでの距離を有効活用して角速度に速度を乗せ、ソリテールの頭部を中心に掌打を送り続ける。指先で打ってしまうと痛くなるので、手のひらの厚い部分を当てるように気を付ける余裕すらある。
魔族のソリテールは動きが速く、動きを先読みしないと当てられないが大して苦ではなかった。
が、ソリテールは一向に倒れない。何度打たれても反撃してくる。持久力も人間より魔族の方が上らしかった。
男の息が切れ、せめて一呼吸と後ろに下がったところでソリテールが腕を引く。
半歩の距離では近過ぎる。一歩の距離があれば肩を回せる。急所は狙わない。狙うのは一番当てやすい体の真ん中。稚拙な打撃でも、魔族の膂力なら男の体を貫ける。
「あっ?」
当たるはずだった。標的は小さな自分よりずっと大きかった。それが、拳が前に出た瞬間に半分になった。ソリテールの拳は空を切った。
男は体を反らして半身になっただけである。来るとわかっている攻撃をどうして受けるのか。
胸の前を空ぶるソリテールの腕が伸び切ったところで、細い手首を掴んだ。
「ぐっ!」
ソリテールの体は前に流れ、さらに男が腕を引き、ソリテールが一撃を入れたかった部分に男の膝が突き刺さった。
横隔膜が上がり、息が詰まる。体がくの字に折れてそのまま倒れるところへ、男は拳を振り下ろした。
無防備な頸椎へ、拳を固めた鉄槌。
振り抜く速度を乗せて小さな体は床に叩きつけられ、しかしソリテールを迎えたのは柔らかい絨毯ではない。大剣で叩き割られたテーブルの天板である。
固い音が響いてソリテールの体が弾み、尚も倒れる事はなかった。男の手は細い手首を掴んだまま。
エメラルドグリーンの頭を天板から少しだけ浮かせ、踵で踏みつけた。
踏みつけと云うよりも、正しくは下段蹴り。ローキックとは違う。踵での蹴り下ろし。撃ったのは耳の後ろである。耳周辺の側頭骨は、頭蓋骨で最も薄い部分である。男の倍は丈夫でも、欠けて中身が損傷する威力。
男は二度蹴り下ろし、三度目は肩を後ろから。
そこでようやく手を離した。と同時に、細い手が床を叩く。
二歩下がった男の前で、甲高い笑い声が鳴った。
「あははははっ! すごいすごい! 魔法も使えない人間にこんなにされるなんて!」
テーブルの残骸から立ち上がるソリテールは、多少のふらつきがあるものの、外傷らしい外傷は何処にもなかった。皿の破片で手のひらを切っただけで、血反吐を吐くことも、肩が砕ける事も、側頭部が欠ける事もない。破片やら何やらが髪や服に付いているだけである。
「でもそこまでかな? 君が何をしても私には傷一つ与えられない」
ソリテールは細腕でテーブルの残骸を持ち上げると、ドアに向かって放り投げた。
「いっぱいしてくれたけど、おかげで気付けになったよ。ちゃんと狙ったところに投げられた」
「それは重畳でございます」
「うふふっ」
ソリテールの微笑みは崩れない。それどころか、一層楽しそうに笑みを深くする。
「今度は私の番だね」
「ここでは時間がありますから、色々なゲームを試した事がございます。中には交代制で攻守を入れ替えるものもございました」
「体を開くのは止めて端っこから少しずつ食べていくわ。まずは手癖の悪い右手から。次に右脚。死なないように注意するから」
「私の声が聞こえていらっしゃらないようで。最後の打撃はおまけだったのですよ。試しにやってみましたが、魔族の体とは丈夫なものですね」
「私も注意するけど、君も手伝ってね。血止めが出来るんでしょ? 期待してるわ」
「その前に必要な事を完了させていただきました。ソリテール様は動きが速いものですからいささか疲れてしまいました」
目を爛々と輝かせたソリテールは、男へ向けて足を踏み出した。
頭を打たれ過ぎたおかげか、眩暈が消えた。脚がふらつく事もなく、真っすぐ歩ける。代わりに耳鳴りが酷い。頭の中で甲高い音が鳴り続ける。しかし、うるさいだけだ。歩みを止めるには至らない。
魔族は復讐や仕返しを望むことはないが、良い餌にありつけたのなら嬉しく感じる。目の前の男は見た目が良いだけでなく、思ったより食べ応えがありそうだった。
「手足を食べきったら次はどこにしよう? 死ににくいところはわかってるけど、胴体に傷付けると……あ?」
二歩踏み出したところで、歩みが止まった。
ソリテールは呆然として、手の甲で唇を拭った。血が付いている。吐血したわけではない。鼻から垂れてきた。
「あ……」
その瞬間、ソリテールの脳がほんの僅かだけ膨張した。
視界が暗転して床が消え、自分が立っているのか座っているのか、どこにいるのかわからなくなり、全てが闇に沈んでしまった。
「うーむ……。俺がやったんじゃ鼻血が精々か」
床に倒れ今度こそ起き上がらなくなったソリテールを見て、男は自分の至らなさを反省した。
ソリテールの腕を取ってからの痛撃は、ソリテールに話した通りおまけである。折角だから物の試しでやってみただけなのだが、魔族の体の頑強さは男の手に負えなかった。カタナブレイドがあれば少しは違ったかも知れないが、応接間に持ち込んで良いものではない。
ショートカタナブレイドならジャケットの内側に収めている。しかし、取り出したら警戒を強くされると判断した。
ソリテールを沈めたのは、愛読書の主人公が得意とする技である。掌打によって対象の内部に複数の衝撃波を置き、衝撃波同士をぶつけて爆発させるのだ。
本来の威力なら頭部に開いた五つの穴から液状となった中身が噴き出る。しかし己の技では鼻血が精いっぱい。割と疲れたのに鼻血なのだから、新技の実験などせずさっさと気絶させれば良かった。
遅効性の薬を飲ませたので、それに合わせてしまったのが良くなかった。
「あ」
男が反省していると、ソリテールの体を中心として斬撃にも似た衝撃が走った。
衝撃は男の腕を掠め、けども防御力が凄い特製ジャケットは破れる事も着用者を傷つける事もなく、何もない空間を突き進み、壁に少々の傷痕を残して消えた。
ソリテールが得意とする魔力の放出を攻撃に転じたものである。
先の格闘戦の時に使っていれば違う状況になったかも知れないが、薬で朦朧としていた頭では思いつかなかったようだ。
「げ……」
ソリテールが意識を失いながらも繰り出した最後の一撃は、男へ少々のダメージを与えた。
男は顔を苦く歪めて膝を突く。伸ばした手は、真っ二つになったティーポットを拾い上げた。
「折角作ったのに……」
ティーポットは、二層になっていた。持ち手に小さな穴が開いており、そこを押さえることで注ぎ口から出るものが上層か下層かを切り替えられる。男が暇に飽かせて作った工作品の一つである。
上層には普通のお茶が、下層には摂取すると酩酊の効果がある薬液が入っていた。ソリテールが暴れるのを見越して飲ませたのだ。
暴れなかったら効果が出るには時間が掛かったはずで、そのまま帰ってくれるなら効果を打ち消す薬を与えるつもりでいた。
「また作ればいいか。とりあえずはアウラだな」
▼
そうして冒頭の続きとなる。
アウラが目にしたのは、床に倒れ伏すソリテールだった。
「やっぱりこうなったのね」
ソリテールを爪先で小突くアウラは、ソリテールがこの男をどうにか出来るとは全く思わなかった。
姿を見せて戦闘する事を「決闘病にでも掛かってるのか?」と宣う男である。戦闘が発生しそうとなれば、その前にあらゆる準備をしておくに決まってる。アウラはこの男から、人間の悪辣さをこれでもかと教え込まれてきた。
真っ当な戦闘になったとしても、男が着る服は凄まじい防御力があるのを知っている。先だっては、ラムとレムの合体魔法を至近の距離で受けたにも関わらず、穴が開くどころか解れもしなかった。ソリテールの攻撃手段では、服の防御力を抜けないと思っていた。露出した頭部を狙えば別だろうが、急所に攻撃を喰らうほど間抜けな男ではないだろう。
それに、ソリテールの隙をついてクローゼットルームにでも逃げ込めば、ソリテールに追う手段はない。
クローゼットルームは目指す衣服に辿り着ける機能はあっても、中にいる誰かの元へ辿り着く機能はないのだ。
ちなみにであるが、ラムがその気になれば男がジャケットとベストを着ていようとも、単独で血煙に変えられる。男が今日も生きているのは、ラムの心のおかげなのだ。
「で、こいつどうするの? 殺す?」
同族であっても仲間意識は皆無なのが魔族である。
ソリテールが死のうと生きようと、自分に迷惑が掛からないならどうでも良いと思ってる。
「殺さないよ。ここでそんな事をしたらどんなペナルティがあるかわかったもんじゃない」
「あっそ。で?」
「……」
これが魔族の会話である。ソリテールが如何に稀有な魔族であるかわかろうと云うものだ。
「アウラの魔法、服従させる魔法をソリテールに掛けてくれ」
「いやよ」
「……」
これが魔族の会話である。三音以上の言葉を発言できない呪いに掛かっているかのようだ。
「掛けない理由を聞こう」
「だってこいつの魔力、私より大きいんだもの」
アウラは憎々し気にソリテールの体を再度小突いた。
アウラの目には、ソリテールの体から迸る膨大な魔力が見えていた。
テーブルを囲んでいた時より遥かに多い。魔力命の魔族として忸怩たる思いであるが、自分より上なのは認めざるを得ない。
意識を失った事で、制限していた魔力の枷が外れたらしかった。
「このままアゼリューゼを掛けたら私の方が支配されるわ」
アウラの「服従させる魔法」は、魔力量が多い者から少ない者への絶対の命令を強制する。
意識の有無は関係ない。意識を失えば魔力量が減るというなら、寝てる者へは魔法が掛け放題だ。無論、そんな都合の良い事はない。
「多少は魔法を使ってもらったが、俺がしたのは気絶させただけだからな。魔法を使う以外に魔力が減る条件はあるか?」
「……体力を失えば減るわね。後は酷い怪我を負うとか。腕の二三本ももいでやれば消耗すると思うわよ?」
「腕は二本しかないだろ」
「肘までで一本。肩までで二本。両方で四本よ」
「ああそう……」
魔族の腕の数え方はとても独特だった。
やはり魔族との対話は得るものが少ない。魔力を消耗させる条件を聞き出せただけで満点である。
男はジャケットのボタンを一つ外し、内ポケットに手を入れた。取り出したのは親指大の小さなガラス瓶。
アウラはとても嫌な予感がした。
「聞きたくないけど聞いてあげる。それ何?」
「薬だよ。使い方によっては気付け薬になる」
男が着るジャケットは、ポケットの場所によって入れるものが異なる。
左のポケットはハンカチを始めとする身嗜み用品。右のポケットは回復薬などの重要なアイテム。そして内ポケットは最重要アイテムである。
内ポケットから取り出した小瓶は、とても貴重で、とても危険な薬品であった。
男は床に散らばる破片から、細く鋭いガラス片を拾い上げる。
小瓶の蓋を開け、中の液面にガラス片の先端をほんの少しだけ沈めた。液体が透明な事も手伝って、尖った先端には何も付いてないように見える。
男はソリテールの傍に屈み、投げ出された左手の手の平を、ガラス片でちょっぴり突いた。
その瞬間、ソリテールの意識は覚醒した。
実はこの男、ペットを飼っている。
二足歩行するライオンみたいな生き物で、人語を理解するくらい賢い。とても可愛がってる。外に出る時はちゃんと散歩に連れていく。
しかし、ペットになる前の事。人語を解すその生き物は、とても失礼な事を言った。男はそんな事を言ってはいけないと、とても厳しく教え込んだ。以降、とてもお利口になったのでペットにしたと云う経緯がある。
その話を、男と極親しい邪悪なスライムが耳にした。
邪悪なスライムはスライムらしく、体内で様々な毒を合成できる。麻痺や弛緩、眠りに至るものから死に至るものまで。けども、痛みだけを目指した毒は考えた事がなかった。
スライムなのに目から鱗のようなものを落としたスライムは、男と協力して痛みを与える毒を作り上げた。
シュミット指数幻のレベル5を目指した毒である。
シュミット指数とは、脅威の超人シュミットさんが毒虫に刺された時の痛さを数値化した指標である。
死者を出すこともあるスズメバチはレベル3。最大値はレベル4であり、「マグマの中に落とされたようだ」とか「錆びた釘を踵に打ち込まれ焼けた炭の上を歩くようだ」と表現される。
それを越えるレベル5を目指した毒である。
ソリテールの左手が燃え上がった。
皮膚が気化し、肉が煮え溶けるのは血管を流れるのがマグマになって、骨髄に詰められた爆薬に引火した。
左腕が爆発した。細胞の一片一片が破裂して、肉が灼ける熱さと砕ける痛みと分解される恐怖をソリテールに伝えた。
しかし、爆発した左腕は依然変わらずそこにある。もう一度爆発して、もう一度爆発して、際限なく燃え続けた。
「……なによこいつ」
覚醒したソリテールは、動けなかった。
痛みが自分になった。自分は痛みを感じるためだけに存在している。他の全てを知覚できない。痛みだけがある。
痛い。
涙が出るほど痛い。
可愛らしい顔を苦渋に歪め、目からはぽろぽろと涙が零れる。
頬だけでなく、全身から汗が湧く。汗を掻いている自覚はない。ただただ痛い。体中を寸断されてもこんなに痛くなるわけがない。切れた部分を感じるわけがないのだ。
なのに今は、爆発した手が痛い。爆発してなくなってしまったはずなのに痛み続ける。
痛みを防ごうと、完全に無意識で魔力による防御を張り巡らせた。
「動けなそうだけど魔力がまだあるじゃない」
常ならば濃密に編み込んだ魔力で、薄くとも絶大な防御を張り巡らせる。今は密度も厚さもわからない。痛みを抑え込もうと、全力で魔力を振り絞る。
迸る魔力は大きく揺らぎ、揺れ幅が大きい時はアウラの魔力に匹敵した。
「それならこっちの手もしておくか。ちょうどいい事に切り傷がある」
ソリテールは飛び退いた時に、皿の破片で切ってしまった。些細な切り傷ではあるが、血が流れた。今も塞がってない。
男は少しだけ考え、もう一度小瓶の蓋を開けた。
耳かきのような小さな匙があれば良かったが、応接間にそんなものは置いてない。ソリテールの右手の上で、慎重に小瓶を傾けた。
粘性が水より低い液体なので、雫の大きさは水より小さい。けれども、左手に打ち込んだ量の百倍はある。
微量の雫は、ソリテールの小さな切り傷に吸い込まれた。
「――」
ソリテールは激しく痙攣すると、完全に動かなくなった。
顔面は土器色で目は静かに閉じられている。両手を伸ばした姿勢で微動だにしない。
「今度は大丈夫かしら? あら?」
三度ソリテールを小突くアウラは、意外な感触に首を傾げた。
小突いたのはソリテールの太ももである。さっきは柔らかかったのが、今度は固い。死後硬直にしては早過ぎるし、そもそも魔族は死んだら体が残らない。
痛みのせいで全身が強張っているのだ。
「こいつ死ぬんじゃない?」
「大丈夫だろう。多分」
痛いだけで、死んだり溶けたり固まったりする効果はない。
但し、結果として死んでしまうことは割とよくあった。
魔族は丈夫なので、きっと大丈夫、多分大丈夫、と男は期待している。
「じゃ、今度こそ頼む」
「わかったわ」
アウラの服従させる魔法によって、アウラとソリテールの胸から黒い炎が抜き出され、天秤に掛けられる。アウラの炎が重かった。
「この後どうするの? 私みたいに通わせるつもり?」
「しないよ。アウラみたいになったら困る」
「……私がいるとあんたが困るわけ?」
「今は俺が優先させてもらってるが、アウラも帰りたくなる時が来るだろ。そこにもう一つ増えたら俺の番が遠のくじゃないか」
「あっそ」
これが魔族の会話である。魔族はこれだからと思う男は、そっぽを向いたアウラがどんな顔をしたのか見えなかった。
「ソリテールへの命令は、ここで荒事をしないだけで十分だ。……相手が寝てても命令は伝わるのか?」
「死んでる相手にも有効よ」
アウラは男の言葉通りの命令をソリテールに伝え、両者の炎はそれぞれの胸に戻っていった。
「で、こいつは? ここで寝かせておくの?」
「そうすると応接間が片付かない。移動させるよ」
崩壊しても無人になれば元通りになる応接間である。
ソリテールが暴れて備品が壊れ、壁や床に傷が付いたりもしたが、もっと酷い時があった。前後左右上下それぞれの方向へ数百メートル以上掘られた事がある。あれを直に受けていたら、ジャケットを着ていようがいまいが間違いなく塵も残らなかった。にもかかわらず、ドアは全て無傷だった。
「それじゃベッドルームに寝かせる?」
「俺が使う時に邪魔だろ」
「……うわぁ……」
男の行動に、アウラはとても嫌そうな声を上げた。
男はソリテールの長い髪を掴むと、そのまま床の上を引き摺った。ソリテールの顔が瓦礫や破片で傷つこうともお構いなし。
男がソリテールを引き摺ってきたのは、豪奢な応接間には相応しくない無骨なドア。飾り気が全くない鉄製である。頭の位置に四角い格子窓がついてるのが不気味である。このドアの向こうこそ、ダクネスお気に入りの部屋なのだ。
ドアの向こうは冷たい石床の廊下が伸びて、その向こうは見えない。暗いのもそうだが、下り階段になっている。
「地下牢だ」
下り階段の真ん前まで来ると、男はソリテールの髪を勢いよく引っ張った。
少女の魔族が階段を転げ落ちていく。
段差の度に体が弾んで長い髪が舞った。
男は体が一番下に落ちるのを見届けることなく踵を返し、地下牢へのドアを閉じた。
「ずっと意識を失ってるだろうから、寝て起きればいなくなってるだろ」
「…………あっそう……」
アウラは、この男は高度に人間に擬態した魔族、と再認識した。
▼
寝て起きたアウラは、地下牢を覗いてみた。男が言っていた通り、ソリテールの姿は何処にもなかった。部屋に滞在できる制限時間を越えたため、強制帰還させられたようだ。
それから何度か寝て起きても、白いドアが開かれる事はなかった。
アウラが意外に思ったのは、利用者が来訪しなくとも男の態度が変わらない事だった。
あれだけ自分の世界に帰ることを望んでいるのだから、戻れない事を嘆くと思ったがそんな事は一度もない。男を魔法に寄らない手段で支配するために人間についての書物を読んでいるのだが、この男は書物に描かれる人間像とかけ離れている。
人間に見えて、人間に擬態した魔族であるのだから当然かも知れない。しかし、そこで当然と思ってしまうと支配する鍵がなくなる。しかし、書物の有効性には疑問符が付く。実践しても全く手応えがない。
訓練時は接触するので効果が上がっていると思いたいが、効果よりも快感に溺れてしまうのが毎度の事だ。
それでもしないよりマシであるし、されたいと思っている。
けれども毎日だったのが一日置き、二日置きとなり、この日は前回から二日経った訓練日である。
頻度が減ったのだから時間を増やせと言ってよいのではないか。
今日はそう提案しようと思った矢先である。頭の中で鬱陶しい鐘の音が鳴り響いた。
男にとっては福音らしいが、帰還を目指してないアウラにはうるさいだけである。
半裸でいたアウラは、前回と同じように以前着ていた服を身に着け、応接間に入った。
「いらしてくださった方がお帰りになったらアウラのメイド服を探す。俺も手伝う」
「しなくていいわ」
「命令だ」
「……わかったわよ」
男の命令には逆らえない。
今の言葉には強制力がなかったが、拒否したら強制される。体が意思に反して勝手に動くくらいなら、嫌でも従った方がマシだった。
いつも通り男が白いドアの前に立ち、アウラは後ろに控える。
二人の前でドアが開き割れた鏡のような光景を映し出して、現れた者に男もアウラも目を丸くした。
「またいらしていただけるとは思いませんでした」
「あんな目にあって懲りなかったの?」
小柄な影は、前回白いドアから現れたのと同じ人物。いや、魔族。
但し前回とは少し違って、ワンピースドレスの肩から先がなびいている。袖から手指が覗く事もない。
「ええ、また来たわ」
にっこりと微笑むのは、両肩から先が消えた魔族の少女。ソリテールだった。
今年は色んな虫に刺されました
気候変動を肌で感じます
連日の投稿偉い早いと我ながら思います