奉仕しないと帰れない部屋に囚われた男の業務記録 作:dolph
アウラを部屋に残して男が帰還する時は、アウラの主観だと数分と待たずに男が帰って来る。
その反対はそうでもなかった。時計の短針がクルクルと何度回ってもアウラは戻らない。アウラはどうでも良いとして、ソリテールもやって来ない。
元より時間が狂っている異界の部屋。あちらでどれ程の時間が流れているのか全く分からない。何かあったにせよなかったにせよ、部屋に囚われている男は干渉どころか何があったか知る術もない。出来るのは待つことだけである。
幸いなことに、先のダクネスを皮切りにして他の訪問者が現れるようになった。
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久々に来訪した海夢はどこか怯えた様子で探るような目をしていた。何が気になっているのかさっぱりわからない男であるが、対海夢用のとっておきのカードを用意してあった。
ジャケットの左ポケットから文字通りカードを取り出せば、海夢は目を見開いた。
「あーーーーーーーーーーーーーーっっ!! それって出来たんですか!?」
「出来たのですよ。海夢のために用意したものです」
「それってもしかしてあたしが貰っちゃっても?」
「勿論です。他にもありますよ。全て持って行ってくださって構いません。事後になりましたが、海夢のものに断りなく触れた事をお詫びします」
「そんなの全然いいです! うわーーーーーーーーーっ! ヤバッ、アウラ様超きれい! いつもこーいうの着てるんですか? あはははははっ! エロッ! エロ過ぎ! でも無表情! おっぱい出ておへそも出てるのに! 超似合ってます!」
大喜びで海夢が手にしたカードはアウラの写真である。前回訪れた海夢が忘れていったのは、撮影直後に写真が現像されるインスタントカメラだったのだ。
海夢のスマートフォンやデジタルカメラで男やアウラの写真を撮っても画像データを残せない。しかし、二人とも鏡には映る。ならば電子データに変換しないカメラであれば写真を残せるのではと推測した。
そうと聞いた海夢はバイトをちょっと増やして早速インスタントカメラを購入して意気込んで異界の部屋を訪れたものの利用者ノートにちょっとショックな事が書いてあるのを読んでしまって少しだけ足が遠のいた。
海夢の主観時間では一週間飛ばしただけだったが、異界の部屋ではその十四倍の時間が流れていた。利用者の気分で時間の流れが狂う部屋である。
「伯爵様の写真はないんですか?」
「ありますよ。セルフタイマー機能があったので一枚だけ撮影しました。アウラに触らせると壊しそうだったものですから」
「あ、そう言えばアウラ様は? いないんですか?」
アウラの写真でひとしきりはしゃいだ海夢は、ようやくアウラの不在に気が付いた。
「自分の世界に戻っています。私が戻るとこの部屋では数分しか経たないようですが、アウラはそうでもないようですね」
「え………………。また会えますよね?」
「断言は致しかねます。ですが、危険を避ける術を色々教えて来ましたから、向こうで不慮の事態に陥ることはないでしょう」
「そう、ですか……」
「海夢のメモに応えてくださったターニャ様は長期の出張だそうです。大変な出張であるらしく、いつ終わるのか、いつここを訪れてくださるのかはわかりません。私には待つことしか出来ませんので」
「うぅ~~~~~~~~~~~っ!」
「海夢?」
自分が一回だけ来なかっただけで、色々あったらしい。二度と会えないわけではないと思いたいが、再会が保証されてるわけではない。自分は安穏として昨日と同じ今日を繰り返していたのに、そうではない人がある事を海夢は知らなかった。
抱き着いてきた海夢を、男は優しく抱き締めた。感情の機微がわからない男でも、泣いていれば流石にわかった。泣いてる理由はわからないのだけれども。
「海夢が気に病むことは何もありませんよ。海夢がこれからもここを訪れてくれれば、いつか会える日が来ます」
「うぅ…………。わ゛か゛り゛ま゛し゛た゛ぁ゛…………」
男の胸に顔を埋めてる海夢には、男が会心の笑みを浮かべたのが見えなかった。
その後は美味しいスイーツを食べて気を取り直し、撮影会である。
今回のカメラマンは海夢である。折角彼の伯爵様を写真に残せるようになったのだから、撮らないわけがない。
幸いなことに印画紙は複製出来たようで、デジタルカメラばりにパシャパシャ撮っても問題なかった。撮影してから写真が現像されるまで二分ほど掛かるため、写真は確認せず兎も角シャッターを切る。
被写体はどんなポーズでもどんな格好でも不満を言わないため、海夢はどんどんエスカレートしていった。
(ヤバい。やり過ぎちゃった。エロい! どうしよう!!)
はだけるを越えて脱いだ写真も撮ってしまった。海夢の勇気は上半身までだったが、へそは映った。その下を生で見てしまって、顔から火が出るようだった。
写真を撮れるのが楽しくて仕方なくても、ベッドにまでカメラを持ち込むのは行き過ぎであったと反省したが時遅し。
「今日は海夢の写真を撮ってませんでしたね。次は私が撮りましょう」
「あっ!? ダメ絶対ダメマジでダメ! とっちゃダメですってばぁぁああああぁああぁぁぁああっーーーっ♡」
全裸の男に対し、海夢はベッドの上でもコスプレ中。但し、少々のメイクとエッチな下着だけ。オープンブラとオープンショーツにガーターベルトとガーターストッキング。
繋がってるところを撮られた。気持ち良くなってる顔を撮られた。最後は中に出されたのが溢れているところ。
器用な男なので、ファインダーを覗かなくても撮影範囲や焦点距離が完璧である。
翌日、一緒に写真を確認した海夢は赤面しきりであった。勿論、全部回収した。しかし、こんな写真を持って帰って万が一にも父の目に触れたら大変だ。一刻も早く焼却処分したいが、折角撮ってもらった写真を焼き捨てるのは躊躇われるし、一体どこで焼けばいいのか。台所で燃やしていいのか。火災何たらが鳴ったりしないか。どれもすごくよく撮れてるのが悔しいのか恥ずかしいのか訳が分からない。
「置いていきますけど絶対に誰にも見せないでください!! あたし、マジですから!」
「私が見るのなら構いませんか?」
「い、いいです、けど…………。うぅ~~~~~~~~!! あたしだって、恥ずかしいんですからぁ……!」
「海夢の写真は何千枚も撮ってきましたが、私の手元には一枚もありませんでしたから」
「そーいうこと言うのってマジで超ずるいって思います! それ反則ですからね!!」
「勿論誰にも見せませんよ。鍵付きの引き出しに仕舞っておきます。見るのは私と海夢だけです」
「う~~~~~~~~~~っっ!!」
威嚇しても柔らかい笑みが返ってくるだけ。恥ずかしいのか嬉しいのか、本当に訳が分からない。
そのようにする事をたっぷりした海夢は、先週訪れなかった理由を話しそびれた。
話すどころではなかった。自分でたっぷりしてしまった後なのだから。
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何をしている途中なのか、バラライカは全身血塗れで訪れた。
真っ赤なスーツは所々に穴がある。返り血ではないようだった。顔色は非常に悪く、呼吸は浅く荒い。
余命が一時間を切りそうだったが、こんな事もあろうかと男は赤い回復薬を常時携帯している。飲むのは無理そうだったので、頭からパシャっと掛ければ完全回復。
「う…………」
「ご気分は如何でしょうか? 外傷も内傷も全て完治したはずです。おっと」
男は白いドアの真ん前で、バラライカに押し倒された。男に馬乗りになったバラライカは短いスカートを捲り上げると、パンティストッキング諸共ショーツを下ろす。
これはぼうっとしてられないぞと男は気を引き締め、スラックスのジッパーを下げた。バラライカは準備万端でその気らしいのだから、応えなければならない。
「あぁ……! いい、わ……。奥まで来てる……。そのまま私を楽しませなさい!」
「仰せの通りに」
「あんっ! あっ、あんっ、あんっ♡ あっあっあぁああーーーっっ♡」
男の上で、バラライカは腰を振り始めた。
キスも愛撫もない挿入だったが、バラライカの中は熟れて潤って男を受け入れた。
相当に高ぶっているらしく、数度突き上げられただけで浅く達した。
その程度では満足からは程遠く、男としても物足りない。
ベッドに移動するどころか服を脱ぐ手間すら惜しみ、床の上で獣のように交じり合った。
バラライカの体は男の好みのかなりいいところにあり、マフィアなのに公爵令嬢よりも品がある。魔法がない世界であるため、ラムやレムのような無茶をしてこない事も好ましい。
失神しなくても満足してくれるのがとてもありがたい。そもそもあの公爵令嬢は失神させなければいつまでも求めてくる。サキュバスゾンビなのだ。
「ひと眠りしたら戻るわ。私を最高の状態にしなさい。あなたなら出来るわね?」
「たまわりました」
風呂でバラライカの体をほぐしながら言葉を交わす。
異界の部屋を訪問していなかったのは、使うタイミングを計っていたかららしい。訪問出来るのは週に一度。一週間置けば、任意の時間にいつでも訪問出来る。バラライカはわざと致命傷を負い、死ぬ前に訪問して赤い回復薬で治癒する事を期待していた。訪問者を減らしてはなるまいと、男はバラライカの期待に応えた。
風呂の後はベッドでじっくりと。寝て起きてからはハグとキスまで。
男は自身の経験を省みて、やる気が高まるのはお楽しみが待っている時と判断した。愛読してる長編小説の続刊を借りるために図書館へ行く時はもうルンルンである。あらゆる雑事を積極的に片付ける。異界の部屋にて来訪者を持て成すのは帰るべき場所へ帰るためだ。それがなければここまでしてない。
とどのつまりは餌で釣る。
「バラライカ様がお戻りになりましたら続きを致しましょう。お会い出来るのを心より楽しみにしております」
「ええ、私も楽しみにしているわ」
バラライカが戻るのは悪徳の街。あちらでは時間が止まっている。戻った先は銃撃戦の真っ最中。
間違いなく何発も鉛球を喰らったバラライカが全くの無傷で反撃してきたのだから、相手は堪ったものではない。
これまでも最終兵器的な扱いを受けてきたアンタッチャブルなバラライカであるが、そこに比喩ではない本物の不死身が加わった。
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ラムとレムは来ないが、海夢とバラライカは訪れるようになった。
海夢は順調にコレクションを増やす。増えたコレクションはSNSにアップどころかスキャンして電子データに変換すらしていない。アルバムに貼り付けてうひひと鑑賞する専用になっている。電子データに変換して写真が消えたら困るのだ。
スキャンしても多分大丈夫と思われたが、誰かに見せるつもりはなかった。見せてもCGとしか思われないだろう。
バラライカは死を装って姿を眩ますつもりが少しだけあった。
金は十分すぎるほどにある。部下全員に100万ドルずつ配っても築いた資産は一割も減らない。そうしてそれぞれに第二の人生を与えて、と思いはしたがバラライカを含めてどいつもこいつも根っからの軍人気質。平穏な生活はまず出来ない。
だったら随分と退屈になってしまったが、悪徳の街に巣くっていた方がまだしもマシである。
生きる場所は掠りもしない二人だが、地続きらしき二人でもある。海夢がいたからバラライカに有効な提案をする事が出来た。バラライカが再訪したのはアウラが余計な事をしたからだ。アウラが鍵を手放したからソリテールが訪れるようになった。
そう考えると、アウラの存在に感謝しなくもない。しかし、いないならいないで構わない。入念に開発したのを一度も試せなかったのは惜しくもあるが。
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その日の男は、応接間で珈琲を淹れていた。パントリーで注文すれば瞬時に出てくるが、飲むよりも香りを楽しむのが目的である。
一晩掛けて水出しした珈琲をアルコールランプでじっくりと温める。芳醇な香りを楽しみながらいつもの如く分厚い本のページを捲り、そろそろ珈琲をカップに注ごうかと云うところで鐘が鳴った。珈琲はお預けである。訪問者に振る舞うべきだろう。
アルコールランプの火を弱め、ジャケットを羽織り直して身嗜みを整え、白いドアの前に立つ。
開いたドアは、赤茶けたまだら模様を覗かせた。まるで赤い砂漠のようだ。
「あれ?」
しかし、ドアからは誰も現れず、独りでに閉まってしまった。
右を見ても左を見ても、後ろを向いても誰もいない。
男は首を捻りつつ珈琲を淹れていたテーブルに戻り、ジャケットの裾を払ってから椅子に座ることなく珈琲をカップに注ぐ。
さて、どうしたものかと思いながらティースプーンをシュガーポットに突っ込んだ。
可能性は二つある。
まず絶対の大前提として、白いドアが独りでに開くことも閉まることもない。開くときは誰かが鍵を使った時で、閉まるときは誰かがドアを潜った時だ。例外はない。白いドアが開いて閉まったのだから、必ずや誰かが入室した。
一つ目の可能性は、来訪者が目に見えない事。
男の身近には完全不可知化なる魔法を使える者が多数いる。しかし、魔法の可能性はない。ドアの彼方と此方では完全に断絶されており、魔法の効果を保ったまま移動出来ない。ターニャが何度か試して結論付けた。
ならば始めから目に見えない存在であるかも知れない。透明人間である。その場合、声も出せないのだろうか。せめてペンは持てると良いのだが。
二つ目の可能性が本命である。タイミング的にこちらではないかと男は思っている。
すなわち、目にも見えない速度で背後に回り込んだのだ。ドアが閉まったのは丁度瞬きしたタイミングだった。瞬きの間に死角に移動したのだと思われる。
もしもこちらであるとすると、全く手に負えない。
訪問者を迎えるのだからパチパチ瞬きをしてられず、意識して素早く済ませた。視界が遮断された時間は0.1秒。ドアの目の前に立つと訪問者を驚かせてしまうため、3メートルは空けて立つ。
すなわち、0.1秒で3メートルの距離を移動した事になる。加減速を考えれば、最高速度は秒速60メートル。上述した理由により、魔法による転移の可能性は除外出来る。
ここから頭が痛くなる。
推測が当たっていると、0.05秒で最高速度に達し、その後の0.05秒で完全静止した事になる。その際の加速度は、自由落下時の100倍以上。尋常な肉体ではまず耐えられない。またも自由落下を例に使えば、約90メートルの高さから硬い地面に衝突したのと同じ衝撃を加減速時に受ける羽目になる。
ここまでなら男の身近にも出来る者がいなくもない。
そしてここから頭痛が痛い。
そんな加減速をすれば風が巻き起こるどころか衝撃波が発生する。にもかかわらず、微風も起きなかった。足音もない。
純粋な体術でこれを出来る者を、男は一人も知らない。
どちらであるか確認するために、いつもはブラックで飲む珈琲に砂糖を入れる。ティースプーンを持つためだ。
ティースプーンには曇りも微細な傷もない。鏡面そのものである。ティースプーンに映る鏡像からシャンデリアといくつも並んでいる飾り皿を確認した。
とても困った事に、真後ろにいた。
頭部は金色。体は真っ黒。背丈は自分より頭一つ低い。体格から、黒いボディスーツを着た金髪の女性ではと思われた。
次はお顔を拝見と、カップの中身をかき混ぜたティースプーンを舐めようとして、
「げ」
ティースプーンの首から上が吹っ飛んだ。
同時に頭上のシャンデリアが木っ端微塵に砕けてガラスの雨を降らせ、22枚の飾り皿が粉々に砕け散った。
雨がコーヒーカップに入らないよう、手のひらを被せた。
「好奇心は猫を殺すよ、みゃーお」
「大変失礼いたしました」
真後ろから囁かれた。若い女の声である。
どちらの声も緊張の欠片もない。緊張すべきは背後を取られた男の方であるが、この程度で緊張する神経を持っていなかった。
「珈琲を淹れたばかりでございます。ご不明な事がございましたら何なりとお尋ねください。私に出来る限りの事をお話いたします」
「生身なのに随分と図太いね? 私を攫ったのはお前?
「恐れながら、仰っている言葉の意味がわかりかねます」
「それならお前を殺してから漁ってみるよ」
構える時間も逃げる隙もない。
こんな事になるだろうと思ってジャケットのボタンを開けていた。しかし、懐から飛び出たショートカタナブレイドを鞘から抜くことも柄を握る事も出来なかった。
出来たのは、目の前に迫る何かを防ぐべくショートカタナブレイドを差し込む事だけ。
キラリと輝く光の糸は、男の喉から指数本の距離で止まった。差し込んだショートカタナブレイドは、鞘ごと切断されかかっている。差し込まなければ首が飛んでいた。
「
「すげー……」
訪問者の問いかけを前に、男は答えられなかった。
ショートカタナブレイドを切断しかけた光の糸は、何の変哲もない普通の細い紐だったのだ。
どうしたらこんなものでショートカタナブレイドを切断できるのか。おそらく魔法ではない。男が知らない術理、と云うよりも、技の冴えが極まっているからと思われた。
「失礼いたしました。凄まじい技に見とれてしまいました。不躾ではございますが、後ほどご教示して頂けないでしょうか?」
「するわけないでしょ」
ベシッ、グワー!
男は背後の女に腰を蹴飛ばされ、宙を舞った。幾つものテーブルをなぎ倒しながら壁に激突する。
ピンボールの如くテーブルを弾いた事が何度あっただろうと儚く振り返った。
蹴り飛ばした女は、落っこちたコーヒーカップを左手で受け止めながら首を捻った。
今の蹴りは胴体を真っ二つにするつもりで放ったもの。直前に男が跳んでいたが、その程度でどうにかなる蹴りではない。意外なほど硬い感触があった。どうやら着てる服の防御性能が高いらしい。自分が着ているボディスーツよりも遥かに。こんなものを作る暇な技術は天蓋協会くらいしか考えられない。
殺すよりも攫った方が良いかも知れないと考えた。
「うげ」
壁に激突してからうつ伏せに床へ落ちた男は、トントンと両肩を踏まれた。それだけでジャケットの防御力を突破し、肩が砕けた。肘と手は動かせても、肩が全く動かせない。起きるのも一苦労である。その一苦労すらさせてもらえなかった。
少しだけ男と話してみようと思った女が、今度はいつでも殺せるようにと足を上げて銀色の後頭部を踏み付けようとした瞬間である。
「頭上にご注意を」
「あはっ」
頭の上から降ってきたショートカタナブレイドを、彼女は見ずに受け止めた。
男が放り投げたショートカタナブレイドは天井に刺さり、時間差で彼女の頭目掛けて落ちてきたわけだが、炸薬で加速するわけでもない自由落下物に当たる彼女ではなかった。
「あ」
難なくナイフを掴み取った彼女は、右手が軽くなるのを感じた。
見上げればナイフが落ちてくる。彼女が靴紐で切断した部分からパキリと割れて、刃先が顔に落ちてきた。
右手はナイフの柄を掴んでいる。左手はコーヒーカップをソーサーごと持っている。顔面にナイフが落ちてこようと大した事ではない。掠り傷くらいは負うかも知れないが、小石が飛んできたようなものだ。
しかしそれでは矜持が傷つく。
右手も左手も使えず、さりとて避ける暇もなく、彼女は更に仰け反ってカチリと歯で受け止めた。
ペッと刃先を吐き捨てる間に、男はごろんと転がって跳ね起きた。プルプルと頭を振れば、微細なガラス片が髪から落ちてくる。
「
「流れておりますよ。正真正銘の生身の人間です」
男は顔を上げ、女を見た。
思った通りの小柄な女性。眩い金髪を真っ直ぐに切り揃え、首から下を真っ黒なボディスーツで覆っている。ハイネックなので肌の露出がほとんどない。
目を引いたのは、青い目の下に引かれた銀色のライン。整った顔立ちの中に金属の光沢があるのが聊か異様である。
男が女を見たのだから、女も男を見た。
瞬時に間合いを詰め、ひたひたと男の頬を平手で叩き、頬の肉を摘まむ。
「……生身だね。その顔はどこかで加工した?」
「左目の事でしょうか? 長く塞がっておりましたので、回復した際に血の色が浮かんだようなのです。元は右と同じ青い目でありました」
「義眼じゃないね。移植?」
「移植ではない私の目ですよ。とても効力が高い回復薬を使用していただきました。目が潰れようと手足が取れようと元通りに回復出来るのです」
「ナノマシンでも飼ってるの?」
「言葉の意味は存じております。ですが、そのようなものは使用しておりません」
「もしかして
「それら全てと全く関係はございません。ここへは私があなたを招いたのではなく、あなたがいらしたのです。ここに来る前に鍵を使用なさったのではありませんか?」
「これの事? デッキに落ちてたの拾ったんだけど、スキャンしても何もなかったわ」
彼女がポケットから取り出したのは小さな鍵。小さくて軽くて玩具のようだ。
男の目は彼女が取り出した鍵に釘付けられた。正確には、鍵よりも彼女の指先。
女は全身を覆うボディスーツを着て、手にはグローブを嵌めている。但し、指ぬきグローブである。指先は見えた。
先ほど頬を触られた感触は硬かった。指先は鈍色。
「なに? あんた、サイボーグ見るの初めてなの?」
「重ねて失礼を。名前だけは本で読んだことがあります。ですが、実際に体を機械に置換した方にお会いするのは初めてです」
サイボーグとは、サイバネティックなオーガニズム。機械の有機体。肉体の一部を機械で代替した存在である。
「本当に無関係みたいね。それじゃ、あんた何なの?」
男はようやく自己紹介できた。
生憎、彼女が知ってる地名でも国名でもない。
彼女は訳が分からなくても、この男が自分の敵対組織とは本当に無関係であると確信できた。いずれかと関係あるならサイボーグを見た事がないわけがない。そんな嘘を吐く意味もない。自分を攫ったのだとしたら、こんな呑気をするわけがなくあらゆる罠に嵌めているはず。最悪は気付かない内に脳みそをハッキングされてる事だが、センサーの全てが目の前の男は生身の男であると結論を出した。それすら欺かれたらお手上げである。
「私が何であれ、あなたの世界に赴くことは不可能です。あなたが通ったドアを私は通れませんから。正しく言えば、私が通ってもあなたがいる世界へは行けないのです」
「なにそれ。エヴェレットのつもり?」
「コペンハーゲンと対する多世界解釈ですか? 波動関数の収束は地動説と天動説のように視点の違いだと判断しております」
波動関数は電子・光子などを記述する関数である。しかしながら電子の位置を特定する事が出来ず、電子の存在分布は確率で示される。
これを観測すると波動関数が収束して状態が特定されるとするのがコペンハーゲン解釈。
波動関数は収束せず、可能性は全て存在しているが観測者は一つの状態しか認識出来ないとするのがエヴェレットの多世界解釈。
男はどちらも正しいと認識している。天気予報をするには天動説で十分だ。地動説によるコリオリ力*1は風向きの違いだけ覚えれば済む。
オカルトチックでファンタジックな話を聞かされた彼女は胡乱な目で男を見た。
荒唐無稽と断じて良い。これだったら脳みそをハッキングされてた方がまだしも納得出来る。
「お名前を窺ってもよろしいでしょうか? この部屋からお帰りになるにはノートに名前を記帳していただく必要がございますので」
彼女は、ふぅと重い息を吐いた。
今までずっと正体不明のフラウ・
男の言葉を信じるなら、敵対組織のいずれでもない。
第一、こんな呑気な男をスパイに使う間抜けはいない。そもそも、使ったら目立って仕方ない。こんな男がいたら知られていないはずがない。目立つから陽動にはなるかも知れない。では自分を引き付けてその隙に何をするつもりなのか。と思いたくなったが、敵ではないと判断したばかり。
いつもなら有無を言わさず殺していただろうが、不思議とそんな気分にならなかった。顔がいいのは彼女も認めるところなのだ。
「はあ……。まあ、いいか。エーリカよ。エーリカ・ヴァルト。それが私の名前。知ってるのはほとんど死んじゃったけどね」
「エーリカ様でいらっしゃいますね。賜りました」
男は恭しく頭を下げたが、両肩が壊れているため両腕がぶらりと垂れる。少々間抜けなお辞儀であった。
「銃夢 LastOrder」あるいは「銃夢火星戦記」からエーリカ・ヴァルト
銃夢の二次創作はほとんどないですね
pixivにちょちょっとあるくらいで
エーリカはイラスト投稿もない
世に出て十年以上経ってるというのに
なのに教授は割と顔を出してる
03/22記
花粉がやばい('、3_ヽ)_