前回からひと月後の時間軸です。
「だ・か・ら、マールボロだっつってんだろ!」
「申し訳ありませんお客様、番号でお願い致します」
「〜〜〜〜ッ、14番!」
「ありがとうございます、少々お待ちください」
「チッ!!」
露骨に聞こえた舌打ちを耳から耳へ受け流し、コンビニバイトの男は貼り付けた仕事スマイルを浮かべながらレジ業務をこなす。
都内某所のコンビニエンスストア。夜間の利用者がポツポツと入店してくるのを、バイトの男は凪いだ水面のような心持ちで応対していた。
「ではこちらの年齢確認の画面に回答をお願いします」
「俺が未成年に見えるってのかよ!」
「すみません、規則ですので」
「融通の聞かねえヤローだな! そんなんじゃ社会でやってけねーっつのまったく……!」
これみよがしに悪態をつくような、あまり態度のよろしくない客にも、男はにこやかに応対する。その姿勢を主に買われ、ここ一月でのお上の評価はなかなか上々なものだった。
だが、男はもともとここまで寛容な性質ではない。利用者がセルフレジを使わないだけで内心フラストレーションを募らせていた男が、たった一月でどうしてここまで心が広くなったのか。
その答えは至極明快に―――迷惑客に心の中でマウントを取れているからである。
(このオッサンも、コンビニで美女がゴム買うトコ目の当たりにしたこたぁねーだろ。クク、俺はあるんだよなぁ……!)
しかも割と最低なマウントの取り方だった。
従業員間での通称『カップ麺ジャージの人』が、それまで買ったことのないコンドーム三箱と栄養ドリンク二本を――多分彼氏によるプレイ的なやつで――買うのを応対したのが、およそ一月前のこと。
あの時の目前に迫った台風みたいなプレッシャーに比べて、そんじょそこらのクソ客が囀りのなんと可愛らしいことか。
バイト中にアレを思い出せば多少の理不尽には心乱されなくなったし、家でアレを思い出せば夜の『ネタ』には困らなかった。
なんなら彼女にお礼の一つもしたいくらいには感謝しているのだが必然というべきか、あれから『カップ麺ジャージの人』は見ていない。別シフトの従業員にそれとなく聞いても無駄だった。
(まあ、あんな真似したコンビニには近寄れないわな)
もしかしたら別のコンビニに行けばまた同じプレイに及んでいるのではないかと、近場のコンビニのイートインスペースで粘ってみたりもしたが、五日で飽きてやめた。
流石にそんなことのためにバイトを増やしたり辞めたりする気にはならず、宝くじを当てたようなもんだと考え後ろ髪を引かれる思いを忘れつつあった、一月が経っての今日この時。
自動扉が、新たな来客を知らせる。
「いらっしゃいま……セッ!?」
男は己が目を疑った。そして若干声が裏返った。
その美貌もその野暮ったいジャージも、そしてそのジャージからでも分かる抜群のプロポーションも忘れられるはずもない。
(『カップ麺ジャージの人』……!!)
男は降って湧いたチャンスにレジカウンターの下で拳を握りしめた。
『もしかしたら、また?』淡い期待を胸に男は横目で彼女を観察しようとする。だが視線に感づかれたのか元よりその予定だったのか、彼女は陳列棚の向こうにサッと消えてしまった。
惜しむ間もなく新たにレジに客が来る。男はそちらに応対せざるを得ない。
(クソが! 人の楽しみを邪魔してんじゃねーよ!)
「はい、こちらですね~」
貼り付けた笑顔の裏で、男は培った寛容さをかなぐり捨てていた。
……
…………
「ありがとうございました~」
(手間取らせやがって二度とくんな)
荒んだ感情から辛うじて化けの皮を守り抜いた男が客を見送った後、次にレジに来たのは『カップ麺ジャージの人』だった。男は二度目の宝くじ当選級の幸運に心の中で神輿を担ぎ上げつつ顔を上げた。
「すま、ない……。会計を、頼みたいのだ、が……!」
「? はい」
カウンターの上に乗せられたコンドーム一箱と、栄養ドリンク二本のバーコードを読み取る。その手つきは慣れによって淀みなかったが、頭の中にあったのは疑念だった。
既に一度経験済みなのだ、今更ゴムとドリンク買うくらいは気にしないのだが。
(なんか顔、あと声も……変じゃなかった?)
さっきちらっと見た眼の前の美女の顔は、妙に赤く染まっていたように思える。加えて声も記憶より掠れ気味の上、わずかに震えていた気がする。商品に視線を落としたままカウンターの向こう側に目を向けると、なんかトイレでも我慢してるみたいに腿をこすり合わせていた。
(ははーん、さては『まだ余韻冷めやらぬ』ってヤツ?)
前回より数の少ない手元のコンドームを見て、男は下世話な勘ぐりを始めた。
今は前回よりも時間が進み深夜と呼ぶべき頃合で、そんな時間から一回戦をおっぱじめるとも考えにくい。即ち彼女はつい先程まで彼氏に声が枯れるまで喘がされて、しかしそれでも二人の夜は終わらず、使い切ったゴムの補充をさせられている。そのついでとばかりに再びこのプレイに及んだのだろう。
(はは、すげえ。現実に居るんだなそういう絶倫鬼畜系的なカレシ)
男は、未だはっきりと見たことのない眼前の女性のパートナーへと勝手に畏怖を抱きつつも、読み取りを終える。今ここで顔を上げると、絶対にジロジロと卑しい視線を向けてしまうだろうという自覚が男にはあった。
万が一のクレームを避けたい、そしてあわよくば三度目の宝くじにあやかりたい、そのためにも彼女の心象を損ねないように、男は欲望を押し殺して目を伏せる。
「……1560円になります」
「カード、で」
「ではこちらの機械にカードを―――」
男がマニュアルの通りにカードリーダーを案内しようとしたその時。
ごく小さな、しかし確かに聞こえた―――
「ッ!!?」
「あ、すみませ――」
男は反射的に謝りつつ、普段端末を突っ込んでいる左の前ポケットに手を突っ込む。だが表に出るにあたって端末をバックヤードに置いてきた男の懐に、震えるようなものはない。
(あれ? じゃあ何が……………、え?)
不意に走る閃き。脳裏で駆ける電流。
男は、弾かれたように顔を上げる。
「っ……!」
『カップ麺ジャージの人』は気の強い顔を羞恥に歪め。目を合わせず左前方を睨むように視線を逸らし。何かをとどめているかのように口を強く引き結んで。
その態度が、何よりも雄弁に―――振動音の正体とその出所を物語る。
「……ッ、く……! はやく、して、くれないか……ッ!」
「あ、ッス」
敬語も忘れるほどの衝撃。男は気持ちだけ亜音速で視線を手元に動かし、身体に染み付かせた手つきで電子決済を進める。その思考は顔を上げた時点のものでほぼ止まっていた。
別に何をされてもいないのに、妙に心拍数が上がっている。さっきまでは下を見ていて気付かなかったし――例えもう少し上を見ていても分からなかったかもしれないが――彼女がジャージを引き伸ばしていたせいで見えてしまった……否、浮き上がってしまっていた、胸部の先端の膨らみ。
つまり、この伸縮性に富んだ野暮ったい運動着の下は………。
「あ、えと。すみません。レジぶく――」
「んぁ――不要、だッ!」
彼女は微かに上擦った声を上げたかと思う間もなく品物をひったくるようにジャージのポケットに押し込み、多分今の彼女に出せる最高速の速歩きでコンビニを去っていく。
「………」
(………マジ、かぁ)
閉じた自動扉の向こうで何事かを言い合う声が聞こえていたが、内容はまるで頭に入ってこない。
男は用を失ったレシートを握ったまま、次の客に指摘されるまで自動扉の方を向いたままになっていた。