「ち、近づくんじゃないわよ──。顔面、蹴り壊すわよ──」
沙那は蹴り飛ばした張須賀たち三人との距離を保ちながら、距離が縮まれば今度こそ蹴りで張須賀たちを蹴り殺すつもりで身構えた。
両腕はまだ背中で縄で括られており、いまだに自由にはならないが、脚さえ動けば確実に仕留められるはずだ。
絶対にだ──。
だが、一方で焦ってもいる。
思ったよりも力が入らないのだ。
啖呵は切ったものの、掻痒感に耐えられずに張須賀と交わした性愛が沙那の身体に影響を及ぼし過ぎていた。
張須賀にけしかけられたものだったが、掻痒感で焦らしに焦らされたあとに、許されて自ら快美感をむさぼった気持ちよさは、とてもじゃないが制御をかけることはできなかった。
その結果、立て続けに絶頂し、それでも耐えられずに夢中になって腰を揺り動かした。
張須賀が精を放ったときに無理やり突き飛ばされなければ、もしかしたら、いまだに我を忘れて、いまでも腰を振っていたかもしれない。
だが、沙那は自分があんなにも、自制心がないとは思わなかった。
しかも、感じすぎるのだ。
もしかしたら、宝玄仙と繰り返した毎夜の逢瀬が沙那の身体を快楽に弱いものに変えてしまったのだろうか。
そんな疑念を覚えるほど、たったいまの自分の自制心の喪失が信じられない思いだ。
とにかく、もしも逃亡の機会があるとすれば、これが最後だろう。
もはや、次はない。
なんとしても、このまま切り抜けなければ……。
沙那は焦っていた。
だが、ここは県令の屋敷のまっただ中だ。
県令の護衛兵がいる。
それを切り抜けても、城郭兵がいる。
奇跡が起きて、城郭の守備兵を出し抜いて城壁を抜けたとしても、追っ手はかかるに違いない。
いまこの瞬間にも、外から屋敷の守備兵が殺到するかもしれない。いまだ後手の拘束が解けない状況では、捕獲され直すまでに一瞬だろう。
どうするか……。
どうすればいいのか……。
そして、ふと思いついたのは、宝玄仙の存在だ。
彼女の途方もない力さえあれば……。
逃げ仰せるとすれば、彼女を利用するしかないかも……。
いや、どう考えても宝玄仙を利用する方法以外の逃亡手段があるとは思えない。
いずれにしても、拷問のあいだ、ずっと反撃の機会を狙っていた。
鎖付きの革枷で拘束されているときにはどうしようもなかったが、縄掛けに変えられてからは、指に届く縄を毟り続けて必死に縄抜けを試みていた。
また、ものは試しと駄目で元々の気持ちで、首に装着されている「奴隷の首輪」の呪術が効果を発揮した素振りをしたら、張須賀の馬鹿はすっかりと安心しきって、天井から繋がる鎖を外してくれただけでなく、両脚の拘束まで外してくれたのだ。
内心でほくそ笑んだのは言うまでもない。
だが、これからだ。
なんとしてでも、この牢から抜けて宝玄仙と合流する。
逢瀬のあいだ、ずっと供になって旅に同行することを口説かれていたのだから、沙那が合意すれば、断られることはないとは思う。
沙那が逃亡犯になりそうなことには申し訳ないとは思うが、そもそも、宝玄仙自身が帝都から追われる身なのは明白だ。
それに沙那が加わること程度で、気にするとも思えない。
こうなったら、利用させてもらおう。
同行の条件は、宝玄仙の奴隷になることだと繰り返されたが、あの性格だ。適当に誤魔化して、うまく出し抜くことも可能だとは思う。
最悪、宝玄仙の性奴隷になったとしても、ここで張須賀たちに隷属されてしまうよりは、はるかにましだ。
沙那は、このまま掻痒剤を使った拷問を続けられれば、遅かれ早かれ、ついには心が折れて、自分が隷属を承諾してしまうだろうということは予感している。
一瞬にして、そこまで思念した沙那だったが、状況を一変する事態が発生した。
この拷問室の出入口が開き、突然に三人ほどの侍女を連れた
沙那は驚愕した。
「なんじゃ。欲に目がくらんでお父上の燭台を盗んだという不忠者の顔を見に来たが、これはどういう状況なのだ?」
嬰麗が眉をしかめた。
なんでこんなところにやってきたのかわからない。
だが、考えるよりも先に、沙那は嬰麗に飛び掛かっていた。
不忠者だろうがなんだろうが、助かる方法がこれしかなければ、それに縋る。
躊躇いもなかった。
しかも、やっと毟り続けていた後手の縄を解くことに成功したのだ。
沙那はそれを強引に引き千切るとともに、縄を掴んで嬰麗の身体を掴んだ。
一瞬にして、嬰麗の細い首に縄を巻きつけ、背中側から羽交い締めにする。
「近づくな──。嬰麗お嬢様を絞め殺すわ──。わたしにかかれば、一瞬よ──」
沙那は嬰麗を人質にして怒鳴りあげる。
さすがに、張須賀は唖然としている。
侍女たちも、突然のことに完全に狼狽えた感じだ。
「……嬰麗様、申しわけありません……。助けてください。沙那の一生のお願いです……」
一方で沙那は嬰麗の身体を掴んでじりじりと、まだ開いている訊問室の扉に近づきながら、嬰麗の耳元でささやく。
すると、嬰麗がかすかにくすりと笑ったのがわかった。
「……助けてか……。わたしの首を絞め殺してか?」
嬰麗が低い声で言った。
侍女も張須賀たちも、沙那が嬰麗を盾にしているので、一歩も動けないでいる。そのあいだに、ささやき声くらいでは声は届かないくらいには、彼らと距離を開けることに成功してもいた。
「……これしかないんです……。申しわけありません……」
沙那は嬰麗を掴んだまま、ほぼ部屋の出口まで後退している。
ここからだ。
沙那はじりじりと出口まで近づく。
「沙那──。お嬢様を離しなさい──。なんということを──」
やっと我に返った感じの嬰麗の侍女のひとりが悲鳴のような声をあげる。
沙那は嬰麗を後ろからさらに引き寄せ、その侍女を睨んで殺気を向ける。
「近づくな──。騒ぐな──。お嬢様を助けたければ動くな──」
侍女たち、そして、呆然としている張須賀たちを恫喝する。
すると、嬰麗が再び小さく笑った。
「……わかった。だが、わたしにできるのは大してないぞ……。廊下の隅にそなたの剣を置いてきた。できるのはそれまでだ。なんとかして生き延びてくれ」
嬰麗がささやく。
はっとした。
嬰麗がなんのために、ここにやってきたのかわからなかったが、どうやら沙那を助けようと考えてのことのようだ。
ありがたい。
沙那は小さく頷く。
「……申しわけありませんでした……。お詫びのしようもありません」
「……なんの。欲にくらんだお父上がお前を冤罪で捕らえさせたのは知っておる。すまんかった」
嬰麗がそっと沙那の手に自分の手を重ねた。
一瞬だけ沙那はその手を握り返す。
もしも、機会があれば、この恩はどんなことをしても返す。
心の中で誓う。
「お嬢様、ごめんなさい──」
沙那は嬰麗を離すと、脱兎のごとく部屋から飛び出した。
廊下に出る。
背後で張須賀や嬰麗たちの騒ぎが聞こえるが、すぐに遠くなった。侍女たちの悲鳴のような声も響くが、沙那を阻む者は現れなかった。
やがて、廊下の隅に無造作に置いてある一本の剣を発見した。
嬰麗の準備してくれたものだろう。
沙那はそれを掴むと、そのまま外に向かって駆けた。
全裸だが、気にしてもいない。
「うわっ」
「なんだ?」
建物から庭に出る出入口に着く。
全裸で駆けてきた沙那の姿に、そこにいたふたりの守備兵が目を丸くしていたが、沙那は飛び掛かって一撃でふたりから意識を刈り取る。
外は完全に夜だった。
だが篝火があちこちにあり、昼間のように明るい。
「おいっ、なんだ、なんだ──」
「ちょっと待て──」
「おわっ」
すれ違う衛兵たちが次々に声をあげる。
だが、沙那は彼らに見向きすることなく、そのまま通り抜けた。
向かうのは、宝玄仙がいるはずの離れの建物──。
沙那はまっしぐらに走った。
だが、煙の匂い──。
夜闇にもわかる大きな土誇り──。
なにかあった──。
沙那は確信した。
そして、目の前に急に向こうからやって来た衛兵の集団を見つけた。
「宝玄仙様──」
沙那は走りながら叫んだ。
衛生の集団の中心で連行される宝玄仙の姿を捉えたのだ。
あちこちに殴られたような痣があり、全裸だ。しかも、後ろ手で拘束されている。その宝玄仙を二重三重に兵たちが取り巻いている。
宝玄仙がそっちに走ってくる沙那に気がついたのがわかった。
「さ、沙那──。命令だよ──。この腕輪を壊しておくれ──。なんとかするんだ──」
宝玄仙が必死に暴れながら、沙那に向かって怒鳴る。
そのときには、沙那はすでに集団の中に突進していた。
剣を振り回して阻む者をなぎ倒す。
宝玄仙のところにあっという間に辿り着いた。
「なんとかって、なんですか──。背中向けて──」
宝玄仙の周りの衛兵を斬り倒して倒す。
沙那と宝玄仙の周りに一瞬にして間隙ができた。
「なにをしておる──。やらせるな──」
外側から叫び声──。
もしかして、黒風斎──?
だが、沙那を牢で相手にしたときのような冷静さはない。完全に狼狽している感じだ。
沙那は剣で宝玄仙を後手に拘束していた金属環を叩き壊した。
宝玄仙から腕輪が砕けて地面に落ちる。
「あぎいっ。い、痛いじゃないかい──。もっと穏やかに壊しな──」
両手の自由を取り戻した宝玄仙が顔をしかめる。
「そんなこと、言っている場合ですか──」
沙那は我に返って飛び掛かってきた衛兵の一部を剣で捌きながら叫ぶ。
そのあいだも、どんどんと衛兵が飛び掛かってくる。
全部をことごとく、斬り倒す。
「そうだね。離れるんじゃないよ──」
宝玄仙が沙那の左手を突然に掴んだ。
次の瞬間、はらわたがよじれるような感覚が襲い、次いで景色がぐにゃりと曲がる。
絶叫が轟いたが、それが瞬時に静寂に成り代わった。