沙那は用心深く、剣を構える。
周りには、五人の法術遣い……。
しかも、そのうちの正面の黒風斎は、明らかに上級者だろう。宝玄仙の能力を封じる秘密を握っているとは言え、八仙の実力を持つ宝玄仙をこうも簡単に無力化できるというのは、黒風斎自身が高い術遣いであることは間違いない。
「とにかく、宝玄仙から早く離れよ、沙那。いかに、お前が剣技に長けようとも、この逆結界の中ではどうしようもない。そこをどけ。さっきも言ったが、お前には用事はない。用があるのは、その淫乱八仙だけよ」
黒風斎が頭に被っている頭巾の中で余裕綽々そうに微笑むのがわかった。
だが、沙那はそれがはったりであることを見抜いている。こうやって面すれば、ある程度の相手の感情はわかる。気で悟るのだ。
いまの黒風斎には、少しの余裕もない。
おそらく、ぎりぎりの駆け引きをしているのだろう。
沙那は、持っていた剣の刃をうずくまって股間を押さえている宝玄仙の首筋に当てた。
「ひあっ、な、なにすんだよ、お前──」
宝玄仙がびっくりしたように声をあげた。
だが、沙那は剣を持っていない手でむんずと宝玄仙の髪の毛を掴むと、顔を地面にぶつけるように引きずり倒す。
「ふぎゃっ」
宝玄仙が間抜けな声を出して、地面に腹這いをするような体勢になった。
「黙りなさい、宝玄仙──。わたしは気が立ってんのよ。よりにもよって助けてあげた恩を忘れて、奴隷になれですって──。挙げ句の果てに、なによ、この革帯は──。絶対に許さないわ」
沙那は剣を宝玄仙から離して、片脚で宝玄仙の首を踏んづけた。こうしていれば、宝玄仙は起きあがることはできない。
それだけでなく、法術を使おうとしても。宝玄仙がそのために気を練った瞬間にわかる。
「わ、わかった。わかったよ。誓う。革帯は外す。約束する。調教のときには手加減だってしてやる。ちゃんと、旅のあいだは、お前の言うことをきくよ。逆らわないから──。理不尽な調教もしない。約束するから、その足をどけるんだよ──」
宝玄仙が足の下で呻く。だが、苦悶に陥った様子で全身を震わせているのは、沙那が足蹴にして押さえつけているだけではないだろう。黒風斎が四人の法術遣いを使って、逆結界とやらで、宝玄仙の下腹部も刻まれている淫紋を活性化させているために違いない。
この弱水の城郭の県令屋敷における十日間の宝玄仙との逢瀬の中で、陽気になると宝玄仙は淫紋の苦しさを何度かあっけらかんと語ったものだ。無理矢理に欲情させられ、淫情により身体の自由を奪われて従わさせられるのは、魂が凍るほどに惨めで辛いらしい。
それをあっけらかんと笑いながら、思い出話のように、淫紋を見せながら沙那に話すのだから、この宝玄仙という女はわからない。
いずれにしても、沙那は呆れたものだ。
「話にならないわね。わかったわ、黒風斎。あなたに乗るわ。いま、聞いたとおりに、宝玄仙との交渉は決裂したわ。次はあんたと条件を話し合いましょう。この宝玄仙の身柄は渡す。ただし、城郭の外でよ。それまではわたしが宝玄仙の身柄を預かる。それを飲めば、この淫乱女は渡してあげるわ」
沙那は黒風斎を睨みつけながら言った。
だが、黒風斎は小馬鹿にするように肩を竦めただけだ。
「調子の乗るなよ、小娘。条件なんて話し合えると思っているのか? お前に許されるのは、ただここから逃げ去ることだけだ。すぐに県令の兵は来る。お前に選択できるのは、宝玄仙と一緒に捕らわれるか、それとも、宝玄仙を置いて逃げるかのどっちかだけだ。嫌なら好きなようにしろ」
「言うわね。だったら、宝玄仙を自由にするわよ。逆結界で彼女の淫紋を活性化させて、力を封じているようだけど、周りにいる四人が同時に術を発揮することで、その逆結界を維持していることは知っているのよ。たったひとり斬るだけで、あんたらは宝玄仙の法術に反撃されるということね」
沙那は怒鳴った。
すると、足の下の宝玄仙がびくりと動く。
「そ、そうだよ──。すぐに誰でもいいから殺すんだ。殺さなくても術を止めるだけでいい。それで、こいつらなんか一瞬で殺してやる──。一瞬なんだ」
「黙れ、宝玄仙」
すると、黒風斎が口の中でなにかを呟くような仕草をした。
咄嗟に斬りかかろうとしたが、攻撃的な殺気は感じなかったので、反撃するのは思いとどまった。
「うぐううっ、いぎいいいっ」
だが、次の瞬間、突如として宝玄仙の身体が激しく痙攣して、奇声を発した。
沙那は踏んでいた足をどける。
「勝手なことをするんじゃないわよ──。こいつはわたしの人質よ──。あんたとも交渉決裂でいいわ──。全員皆殺しにして、逃亡することもできるのよ──」
沙那は身構えた。
四人の法術遣いのうち、一番近い者の位置まで数瞬で辿り着く自信はある。法術には縁はない沙那だが、知識だけはあるのだ。逆結界は高位法術遣いを低位の使い手が封じることができる技術だが、必ず四方に四人が必要なのだ。ひとりでも欠ければ逆結界は崩れる。
宝玄仙がずっと叫んでいたことは事実なのだ。
「はったりはやめろ。法術を使えないお前では、どこに俺の部下が隠れているかもわかるまい。いいから、そこをどけ」
黒風斎が馬鹿にしたように言った。
沙那はその物言いにびっくりした。
「もしかして、あんたたち、それで隠れているつもりだったの?」
沙那は呆れて、隠れているつもりだったらしい四人の法術遣いの位置を次々に言い当ててやった。
彼らの大きな動揺が気で伝わってくる。
「……それとも、交渉決裂でいい? もう一度、宝玄仙と話し合おうかしら。今度はさっきとはましな条件を提示してくれるかもしれないし」
沙那はわざとにっこりと微笑む。
だが、これで黒風斎が思う反応をしないようなら攻撃に移行する覚悟はした。
沙那としては、どっちでもいい。
「待て──。待て、沙那──。条件を言え──」
沙那の殺気を感じたのだろう。
黒風斎が叫んだ。
同時に、宝玄仙の身体が脱力する。
黒風斎が淫紋を使った宝玄仙への攻撃を中断したのだろう。
「わたしと宝玄仙を城門の外に術で転送させなさい。それが条件よ。城門の外なら好きにしていいわ。わたしは逃げる。でも、こんな城郭の中で解放されてもごめんよ。結局のところ、城門に阻まれて捕まるのが落ちだわ。わたしが欲しいのは逃亡の保証よ」
沙那は言った。
宝玄仙の法術で一瞬して跳躍してきたが、城郭の中心部から離れたとはいえ、まだここは城郭内だ。しかし、安全に城郭その外に出れるのであれば、追っ手を巻くことはできると思う。
ただし、強引に突破しようと思えば、追いかけ回されて捕まるだろう。
沙那は、黒風斎を利用して、県令の兵から知られないように外に出たい。
望みはそれだけだ。
ただ、いまこうしている間にも、県軍の兵は城郭内を駆け回って、沙那たちを探しているのは間違いない。なにしろ、沙那は宝玄仙と脱出する直前に、大勢の県令の兵を斬ってきたのだ。そもそも、取調中の牢から
県令で嬰麗の父親の
次に捕まれば、今度こそ地下牢で刑死させられるのは間違いない。
あるいは、黒風斎が宝玄仙の法術の波を追って、ここに跳躍する前に、この位置を特定して県令に伝えているかもしれない。
そうであれば、余裕はもうほとんどない。
「……無理だ。いかに俺とはいえ、城門に刻んでいる法術封じを越して、外に移動術で跳躍させることはできん」
黒風斎が応じる。
どの城郭であっても、大抵は法術遣いの技を封じる法術紋を城壁や城門に刻んでいるのは当たり前だ。宝玄仙も同じことを口にしていた。
しかし、瞬時に嘘だと悟った。
直感に過ぎないが、黒風斎が帯びている気から沙那にはわかる。
おそらく、この黒風斎には、城壁に刻まれている法術封じを無効にするなんらかの手段を持っているのだろう。
間違いない……。
「じゃあ、交渉決裂ね。それが最終解答でいいのね」
沙那は静かに言った。
だが、身体はすぐに動ける体勢をとっている。もはや、帯びている殺気も消してない。
「……わかった……。いいだろう。この枷を宝玄仙の両手首に掛けろ。そして、これで目隠しをさせるんだ。それをすれば、このまま城郭の外に跳躍してやる」
黒風斎からなにかが放り投げられた。
法術の風にも乗って、沙那たちの足もとにそれが落ちた。
ひとつは、さっき県令の庭で叩き切った「法術封じの枷」だ。同じものと思う。もうひとつは黒い布だ。ただの布切れだと思ったが、拾いあげると、びっしりと薄く法術紋が布に刻まれている。
これもなにかの法術具のようだ。
「ひっ、な、なんでそれが──。み、
しかし、沙那が拾った黒い布を認めて、宝玄仙が尋常ではない恐怖を示した。
法術封じの枷よりも、黒い布の方を怖れている気配だ。
だが、御影──?
誰だろう、それ。
……というか、この人はどれだけ敵を持っているのだろう……。
まあ、どうでもいいけど……。
沙那は首を傾げながらも、とりあえず、暴れようとする宝玄仙を簡単に抑えると、宝玄仙の両目を隠すように黒布を巻きつけて後頭部で縛る。
「うわっ、ああっ」
すると、途端に宝玄仙がまるで糸の切れた糸人形のように、ばったりと脱力してしまった。
沙那はびっくりした。
「はあっ」
次の瞬間だった。
沙那の股間を包んでいた革帯から金属音がしたと思ったら、いきなり外れたのだ。
宝玄仙から装着された感覚封じの革帯の法術具であり、それが外れた途端に、痒みが発生すると脅されていたので、瞬時にそれを思い出したが、革帯が外れても痒みは襲っては来なかった。
それはともかく、もしかして、宝玄仙はこんな簡単な布だけで、沙那に仕掛けていた股間の封印を維持できないくらいに術が使えなくなったのか?
まあ、とりあえず、足もとに落ちた革帯を沙那は蹴り飛ばした。
次いで、宝玄仙の両手首を背中に回させて、受け取った枷を嵌める仕草をする。
「さ、沙那、これだけはだめだ──。外して──。後生だよ。頼む──、これだけは外して──。お願いだよ──」
宝玄仙が泣き声をあげる。
だが、完全に脱力して、抵抗らしい抵抗もできないようだ。
「さっさと枷を嵌めよ、沙那」
黒風斎が怒鳴った。
沙那は宝玄仙の身体の横に屈んだまま首を横に振る。
「外に移動術で跳躍するのが先よ。そうすれば、枷を嵌めるわ。後は好きにしなさい」
沙那は宝玄仙に装着している黒布の目隠しの結び目を握った。すぐにでも解けるという脅しだ。
黒風斎が舌打ちしたのが聞こえた。
「まあいい……。宝玄仙さえ捕らえればいい……。闘勝仙様に言われているのはそれだけだしな」
次の瞬間、腹がねじれるような感覚が襲い、一瞬にして周りの景色が消滅した。
はっとした。
だが、城郭の外に跳躍してきたのだと悟る。
沙那の視界に、遠目だが弱水の城門が入った。両側は街道に接する林だ。
本当に城郭の外に出たようだ。だめで元々だと思ったが、賭けに勝った──。
「宝玄仙様──。後はお願いしますよ──」
沙那は宝玄仙から目隠しを一瞬にして取り去ると、黒風斎に向かって跳躍した。
「結界を維持せよ──。この馬鹿女は俺が始末する──」
黒風斎が叫んだ。
だが、その顔が呆気にとられるのが見えた。
おそらく、黒風斎の予想よりもずっと速く沙那が距離を詰めたのだろう。もともと、向こうかが仕掛けるよりも先に沙那が距離を詰める自信はあった。だが、もしかしたら、簡単に城郭の外に脱出できるかもしれないと思ったから、交渉に乗っただけのことだ。
黒風斎の首が沙那の剣によって、胴体から離れる、
血の噴水とともに黒風斎の胴体が地面に倒れたときには、沙那は四人の結界師のひとりを切り殺していた。
「よ、よくもやったよ」
さっきまで沙那がいた位置で宝玄仙が荒い息をしながら立ちあがる気配がした。
次いで、巨大な気の動きが一帯で湧き、濁った悲鳴が三箇所で発生する。
確認すると、大きな力で押し潰されたみたいに、宝玄仙を囲んでいた法術遣いたちが血だらけの潰れた肉塊に変わっていた。
宝玄仙の法術だろう。
「終わりましたね」
黒風斎たちは完全に絶命している。
ここにいるのは、沙那と宝玄仙だけだ。
沙那は剣の血を、黒風斎に次いで斬り殺した法術遣いの服で拭くと、左手に持っていた鞘にしまう。
「……お前、よくもやってくれたね……、覚悟はできてるんだろうねえ、沙那……」
宝玄仙が沙那を睨んでいる。
沙那は首を竦めた。
「我慢してください。わかったと思いますけど、城郭の外に逃げるための方便ですよ。おかげで楽に逃亡できたじゃないですか」
沙那は敵意がないのを示すように、片手で剣を握ったまま手の平を示す。
そして、宝玄仙にゆっくりと歩み寄っていく。
「まあ、間抜けな黒風斎を殺してくれたのは感謝するよ。でも、この宝玄仙を足蹴にしたのは許すわけにはいかないんだ。覚悟しな」
宝玄仙がなにかを宙から取り出すかのような仕草をする。
だが、そのときには沙那は、一気に宝玄仙に距離を詰めていていた。
隠し持っていたさっきの黒い布を宝玄仙の顔に向かって投げつけている。
「うわっ、な、なんだい──」
その黒い布が宝玄仙の顔に当たった瞬間、まるでぶん殴られたかのように、宝玄仙の身体が布ごと倒れていく。
これがどういう役割なのかは知らないが、やっぱり、宝玄仙にとって、この黒い布は得体の知れない力を持つものであるみたいだ。
顔に沙那が投げた黒布を載せたまま、宝玄仙が仰向けにひっくり返っている。
沙那はその横にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、さよならです、宝玄仙様。なんとか、この布は自力で解いてくださいね。せめて、お身体は林の中に隠して差し上げますので」
さっきのとおりに沙那は宝玄仙の両眼を黒い布で包んで目隠しをしてしまう。
「うわっ、やめておくれ──。む、無理だよ。わたしは、これには触れないんだ。わたしの力を吸い取るんだよ。放って置かれたら、そのまま死ぬしかなくなる。布は外すんだ。さ、さもないと、折檻だよ──」
宝玄仙は懸命に怒鳴っているが、一方で身体は完全に脱力してしまっている。
ただし、かすかに両手がぴくぴくと動いてはいる。
どういう仕掛けになっていて、法術とは縁のない沙那が使ってもなぜ効果を及ぼすのかまったく不明だが、いいものを手に入れたと思った。
「折檻ですね。承知しましたよ。でも、もう二度とお会いすることはないと思いますけど……。とにかく、いい思い出になりました。言っておきますけど、宝玄仙様と愛し合ったのは愉しかったですよ。気持ちよかったですし。本当に奴隷になってもいいと思っちゃうくらいにね」
沙那はうそぶくと、宝玄仙の身体を林の中に放り込むために、その身体を抱えあげて肩に担いだ。