風が冷たかった。
朝霧がまだ尾根に残る五行山の山道を孫空女は裸足で歩いていた。
毛布一枚。剣一本──。
──これで、なにを取り戻せる……。
足裏に刺さる小石も、泥の冷たさも、いまはどうでもよかった。
歩くたび、毛布の裾が揺れ、太腿が風にさらされる。肩口からぞくりと冷えが這い上がった。
けれど、羞恥よりもともにあるのは、血が沸騰するほどの怒りだった。
あの変態巫女……宝玄仙──。
喉奥が焼けつくようだ。首に残る鉄の輪が、ぴりりと皮膚を擦る。
……宝玄仙からは逃げられない?
淫紋の疼きが増す?
沙那の言葉が耳の奥にまだ残っている。
けれど、いまのところ、なにが起きる気配はない。
毛布の下に隠された下腹部の淫紋は、刺青のように赤く孫空女の肌の上で咲いていた。多少の熱は感じるが、耐えられないほどでもない。
もうかなり連中からは離れたはずだ。
それでこの程度ということは、あれは──ただの虚仮威しだったのだろう。
孫空女は、ひとりそれで納得した。
「……ちくしょう……。ふざけんなよ……」
孫空女の口からぽつりと声が洩れた。
逃げられた。それが事実だ。
もう深く考えるのはやめだ。
ならば、それでいい。もう一度すべてを取り返すだけだ。
だが、それでも……。
毛布の下、腹の奥に刻まれた紋様の疼きがまったくないわけではない……、
思い出すたび、内腿に熱がにじむような感覚が湧く。
──くそう……。
……あんなものに堕とされるものか。
まずは砦だ。部下たちを再掌握する。
宝玄仙の口車に乗って、調子に乗って孫空女を輪姦した連中は、ひとり残らずぶちのめしてやる。
怒りでも、恐怖でもいい。支配する。従わせる。
それが、孫空女のやり方だったはずだ。
そのうえで、宝玄仙への報復は考える。
沙那の言葉によれば、しばらくは五行山を西に越えた宿屋に滞在するのだろう。あの法術は厄介だが、策はこれから考える。
とにかく、五行山の盗賊団の連中だ。
孫空女は歩きながら、剣を強く握った。毛布がずれないよう、肩口を引き寄せる。
そのときだった──
ざわり、と草の音。
顔を上げた。
前方の木立が揺れ、霧の中から十数人の男たちが現れた。
その先頭──見覚えのある面が、にやけた顔を向けてくる。
「……
孫空女の喉の奥から、にじむような声が洩れた。
「頭領……いや、元頭領か? ……孫空女よ、五行山の縄張りは、今日から俺が仕切ることにしたぜ。お前については、盗賊団共有の厠として連れて行くことにした.呆気なく、あの巫女にしてやられたお前を飼ってやろうというんだ。ありがたく思いな」
その眼看喜が剣を抜いたままにやにやと笑っている。その周りには、合わせて十人ほどの手下たちがいた。全員が武器を抜いており、同じように孫空女に武器を向けている。
ただ、眼看喜以外は、全員に怯えがあった。
眼看喜についていた部下は五人ほどだったが、孫空女の輪姦に参加した者のうち、五名が合流したというところだろうか。ならば、ほかの者は砦に戻ったと考えていいのだろう。
まあ、いまはどうでもいいが……。
「眼看喜、あたしは気が立ってんだよ。お前のくだらない冗談を相手にする気にはならないよ……。お前らもだ。すぐに武器をおろしな。そうすれば、片手片足くらいで勘弁してやるよ。さもないと、全殺しだ」
孫空女は沙那から奪ってきた剣を掴んで鞘を抜く、
細剣か……。
遣ったことはない。
軽すぎて扱いづらいが、こいつら全員の首を刎ねるには問題ない。途中で剣が折れれば、連中の武器を奪えばいい。時間はかからない。
だが、剣を構えようとした瞬間、毛布が落ちかけ、慌てて片手で押さえる。
「そんな格好で戦えるのかい、孫空女? 大人しく降参しな」
「はあ? あの魔女の結界に怯えて逃げたお前が偉そうに喋るじゃないかい。わかったよ。じゃあ、死にな──」
剣を構え直す
毛布がずれそうになるのを、左手で押さえる。
右手には、軽い細剣。扱いは苦手だが、殺すには足りる。
孫空女は、踏み出した。
だが、いきなりは飛び込まなかった。
──妙だった。
眼看喜が前に出てきた瞬間から、その顔には余裕があった。
にやにやと笑いながら、武器を構え十人以上を引き連れている。いや、むしろ、十人しいかいない。たったそれだけの人数で、孫空女を抑えられないことなど、眼看喜も手下たちもわかっているはずだ。
眼看喜は、好色で卑怯者だが、馬鹿ではない。
孫空女の強さを知っている。だからこそ、女頭領に頭を下げて腰巾着のように振る舞っていたのだ。輪姦で孫空女の支配力が低下した程度で、下剋上を狙って叛乱を企てるような器じゃない。
その眼看喜がいきり立って、孫空女に剣を向けるなど違和感がある。
なにかある……。
孫空女は、地を舐めるように、じわじわと距離を詰めていく。
一歩……。
また一歩……。
向ける意識は、眼看喜たちではなく、その周囲にあった。
足元。後方。男たちの動き。誰が震え、誰が隠れているか。
剣は肩の高さに構えられ、喉を狙うようにゆっくりと上がっていた。
あと、五歩──
三歩……。
──来た。
前──。
殺気が走る。
地の影が揺れた。
黒いものが土から抜けるように現れた。上半身だけ。人の腕。剣。地を払う──。脚だ。
考えるより早く、孫空女は跳んでいた。
毛布が翻る。左手で掴み直しながら、右手の剣を振り下ろす。
手応え──。
しかし、布を裂くような音。
いない──。
黒いそれは、影に沈むようにして消えた。
「なんだい、これ?」
言いかけたその瞬間、背中がざわついた。
跳ぶよりも、先に剣が振られていた。
右へ払う。
血が飛んだ。
黒い。
全身を包んだ黒装束。面まで覆った人影が、一体、がくりと倒れる。
「
眼看喜の声だった。焦っていた。
その声で、ようやく答えが浮かんだ。
「
孫空女の声は低かった。
得体の知れない、なにかがいる。
でも、動きが──見えない。
多分、また、法術使い──。
横方向に誰かが視界に入った。
「まるで、動物ね……」
木の枝の高い場所。フードを被った黒い影。男の声だけの女のような口調──。
「すごい反射神経──。まるで、神獣のよう……」
孫空女は動いた。
その言葉が終わる前に、剣を振り上げて飛び込む。
木の枝ごと空間を断ち切った。
刃が空を裂いた──が、そこに影はいなかった。
気配──。
「そっちかい──」
振り返って剣を払う──。
眼看喜の足元の影から黒いフードの人影がにじみ出るように立ち上がった。
脚のない姿。樹の影がそのまま形を持ったように──。
「うわあああっ」
自分が斬られるとでも思ったのか、眼看喜が派手な悲鳴をあげて、後ろに転びながら逃げた。
だが、孫空女は目もくれない。
見えない敵に向かって、用心深く肌を研ぎらせる。
影から影へ移る術か……。
剣を構え直す。
そのとき、首の皮膚が、ぴりっと鳴った。
鉄の輪──首輪が、熱を帯びる。
なにかが、ずれていた。
身体の奥、関節の裏、筋の流れが、妙な重さを感じさせる。
孫空女は、微かに眉をひそめた。
──なんだ……?
毛布の下、淫紋がじくりと疼いた。
背中に汗が浮いた。
息が浅くなる。
視界が少しだけ揺れる──。
「ほらほら、お得意の怪力の術はどうしたの? さっきと仕留めないと、淫紋が効いてくるわよ。あの狂い巫女の淫紋は、多分えげつないわよ。じきに身体が疼いて動けなくなるわよ」
ずっと離れた後ろに、御影が再び出現した。
血が腕から垂れているが、それを押さえる様子はない。
「ほざけ──」
孫空女は突進した。
全身に霊力を漲らせて、金剛身の術を込める。これは力だけではない。異常なほどの速度の発揮するのだ。
一瞬にして御影のまでの距離を消滅させる。
「うわっ」
御影が焦ったように声をあげて立っていた樹木の影に沈む。
今度も孫空女の剣は宙を切ってしまった。
「危ないわねえ。それはお仕置きよ」
なにかに背後から毛布を掴まれた、
「わっ」
体勢が崩れて転びそうになり、なんとか踏ん張る。
だが、そのときには地面から出ていた腕が孫空女は身にまとっていた毛布を剥ぎ取り、地面の中に毛布ごと消えてしまっていた。
「わっ、わっ、な、なにするんだよ──」
慌て手で乳房と股を隠す。
離れている眼看喜たちから囃したてるような声がした。
「お、お前ら──」
御影よりも、あいつらが先だ──。
怒りに包まれた孫空女は、今度は眼看喜たちに向かって駆け出した。
そのとき、ふと、大きな影が地面を覆い尽くしていることに気がついた。
「えっ──?」
それは、影ではなかった。
地面いっぱいに広がっていたのは、巨大な──黒い布だ。
毛のような繊維が絡まり合って、闇よりもなお黒い光を反射している。布というには重く、染み込んだ術の気配が生き物のようにうねっている。
孫空女は気づいたときには、その上に飛び込んでいた。
「なっ──」
瞬間、身体の奥が抜けたような感覚に襲われた。
両脚の筋が、ふにゃりと緩む。
剣を構えた右腕に力が入らない。
そして──股間が、焼けつくように熱く疼いた。
「あっ、くっ……」
喉が鳴った。
腰が抜ける。
孫空女はその場にしゃがみ込んでいた。
思わず、手で股間を押さえていた。烈しい性の疼きが全身を包んでいた。
「ふふっ……やっぱりね」
御影の声が、布の外から響く。
気づけば、あの黒いフードが布の端に現れていた。血に濡れた腕を下げたまま、勝ち誇ったような口ぶりだった。
「これはね……《
「あん……ふう……ふ……」
布の名が、そのまま術の本質を語るように響いた。
「その首輪──緊箍児はね、あの女があんたの身体の中に流した霊力を感じているの。だから、その霊力が《暗封布》に吸われると、あんた自身の力も一緒に抜けるってわけ……。ねえ……気づいてた?」
「……あ、がっ……」
孫空女は歯を食いしばる。
股間の疼きが強くなっていた。淫紋が、勝手に反応している。
「ふふ、文句なら、あたしじゃなくて、宝玄仙に言うのね。あの狂い巫女が淫紋と首輪で、あいつの霊力があんたから抜けると、身体が動かなくなって、疼きがとまらなくなるように細工してるんだから、あたしは霊力を抜いただけよ」
御影が笑う。
「ふざけ……る、な……っ」
唇を噛んだ。
もう……力はない。だが──。
「舐なめるんじゃ、ないよ……っ」
呻きとともに、脚に力を込める。
最後の気力を振り絞り、孫空女は立ち上がった。
脱力した筋肉の上に、霊力を無理やりまとわせる。
金剛身の術──。
自分を支える最後の鎧。
剣を引き寄せる。ぐらつきながら、布の端を越えて──御影の方へ、進む。
御影は、動かない。
薄く笑いながら、手を後ろに組んで孫空女を見ていた。
「そう。それでいいの。怒って、突っ込んできなさい。あなたはそれでいいのよ」
「黙れえええ──」
叫びとともに、孫空女は跳んだ。
御影まで、あと──数歩。
その瞬間、天地がひっくり返った。
「──うわあっ?」
両脚のそれぞれに縄がかかっていた。
ざらりと締まったかと思えば、次の瞬間、縄が跳ね上がる。
「うわああ──」
樹上へ向けて、両脚が引き上げられていた。
左右に割られた両脚が上空の枝へぶら下がる形で吊り上げられる。
脚が開いた。
しまった。
こんな、単純な罠に……。
次の瞬間、後方から声が上がった。
「いまだ──」
眼看喜だった。
次の瞬間、孫空女の両側から、手下たちが群がってきた。
宙づりのままではどうすることもできない。
「くそっ……や、やめ──」
手から剣を引き剝がされる。
そして、御影が影から伸ばした黒い縄を手下たちに渡す。
「この《
「は、離せ──。お、お前ら……。ぐっ……ぐうっ……」
孫空女は、必死に身体を捩った。
だが、縄が絡むたび、霊力も、筋力も抜け落ちるように四肢が痺れていく。
ぐるぐると巻かれていく。
胸を縛られ、脚を固められ、股間の疼きだけが火のように残っていた。
頭の中に、宝玄仙の笑い声が甦る──。
孫空女の喉が、熱く震えた。
眼看喜が、背後から静かに近づいてきた。
「あっ、な……なに……」
ちくりとした痛み。
すると、孫空女の意識が急速に消失していった。