五行山の西麓、両界町の外れにある古びた宿屋の一室は、昼近い刻になってもなお薄暗かった。
歪んだ板壁の隙間から差し込むのは、白く濁った光ばかりで、部屋の奥まで届くことはない。
室内には、昨夜の名残を思わせる湿った匂いがこもっていた。
縄の擦れた気配、香の残り香、そして女の肌に残る熱の名残だ──。
それらが入り混じり、どこか退廃した静けさを作り出している。
宝玄仙は、寝台の上で衣も纏わぬまま、無造作に横たわっていた。仰向けになり、裸の腕を頭の下に組んで天井の染みを眺めている。
昨夜、沙那を縛り上げ、淫紋と淫具で散々に弄び、欲を満たし切った。その気怠い満足がまだ身体の奥に残っていたが、宝玄仙にとっては、心地よい疲労感だ。
一方で、その隣では、やはり、同じように全裸のまま、沙那が眠り込んでいる。
脚はわずかに開き、喉元を無防備に晒し、長い栗毛の髪が寝台に乱れて散っていた。
肌には、昨夜の名残を思わせる縄痕の赤みがうっすらと残っている。
宝玄仙は横目で沙那を見やり、鼻で笑った。
「……まったく、こいつ、いつになったら起きるんだろうねえ」
つま先を伸ばし、沙那の脇腹をぐいと蹴る。
鈍い音が寝台に響いた。
「そろそろ起きな、沙那。いつまで夢の中にいるつもりだい」
沙那の身体がびくりと跳ねた。
「んん……っ」
掠れた声を漏らし、身をよじるが、まだ沙那の目は開かない。
宝玄仙は眉をひそめ、もう一度、今度は少し強めに蹴りを入れた。
「ほら、起きろって言ってるんだよ」
「うっ……」
沙那は苦しげに息を吐き、ようやく瞼を持ち上げた。
ぼんやりと天井を見つめ、次いで、すぐ横にいる宝玄仙の姿を認識する。
「……ご、主人様……。ああ、おはようございます……」
喉を擦るような声だった。
宝玄仙は寝台の上で上体を起こし、裸のまま胡座を組む。
「なにがおはようだよ。もう昼前だ。随分と気持ちよさそうに眠ってたじゃないか」
沙那は慌てて身体を起こそうとし、なにも身につけていないことに気づいて身を縮めた。
「す、すみません……」
「謝る前に、さっさと目を覚ましな。もうすぐ、昼だ。朝飯どころか、昼飯まで逃がしちまうじゃないかい。さっさと身支度して、宿屋の厨房でなんかもらってきな」
「すぐに……」
沙那はまだ気怠そうだ。
寝台からおりて、慌てて身支度を始める沙那の裸身には、まだ縄の跡もあるし、下腹部に刻んだ淫紋と、陰核に嵌めさせている女淫輪の淫具のために、すでに股間は赤くなり、じわじわと愛液が滲みだしている。
いつも思うのだが、よくも、これだけの発情状態にされておいて、普段は平然と動くことができるものだ。
よくわからないが、沙那が扱える武術の気を練っているらしく、それである程度の肉体の制御をできるらしい。
ただ、その影響もあり、ひとたび、箍が外れると、たちまちに際限のない愛欲に陥ってしまう。まあ、女戦士の沙那が、寝台で暴れよがるのは、それだけで愉しいのだが……。
沙那の無防備な姿を見下ろしながら、宝玄仙は小さく笑った。
「……それにしても、わたしよりも、起きるのが遅いだなんて、とんだ奴隷もいたもんだよ。奴隷はご主人様の世話をするためには、睡眠を削ってでも奉仕するものだけどね」
宝玄仙は、沙那に皮肉を言った。
身支度を整え終わろうとしている沙那が、不満そうに顔を向ける。
「よくも言いますよ……。人の身体だと思って、好き勝手して……。それに、わたしは奴隷のつもりはありませんよ、契約したので、旅の面倒と護衛は務めますが、それだけは間違えないでください」
「首に、服従の首輪を嵌められながらもかい? わたしが一言、命令すれば、どんなことで逆らえない人形になるにもかかわらずかい」
沙那の首には、服従の首輪という支配具が嵌まっている。
法術具の才女の評判のあった宝玄仙の最高傑作と自負しており、世間にあるような隷属の首輪とは、ものの違う支配具だ。
通常の隷属の首輪は、奴隷の精神を支配して、命令に従わせる。だが、服従の首輪は心は操らない。その代わりに、身体に命令を与える信号を支配して、支配者の言葉に身体を従わせるのだ。
被虐遊びには、隷属の首輪よりもずっと向いている。
「おかしな首輪を嵌められているにも、かかわらずにですよ。わたしがいないと、西に向かう道もわからない世間知らずの、ご主人様なんですから、旅については、わたしに従ってくださいよ」
「わかってるよ。さっさと飯の調達に行っておいで」
「わかりました。行ってきます。そのあいだに、ご主人様も服を着ておいてくださいね」
「それこそ、余計だよ、そろそろ、あの赤毛猿が淫紋に狂って、情けなくも、わたしを訪ねて来る頃なんだ。やって来たら、遊んでやらないとならないんだ。どうせ、脱ぐのに、服を着てても仕方ないだろう」
「呆れましたね。孫空女を裸で待つもりですか」
「そうだよ。お前も手伝うんだよ。あの赤毛がやってきたら、ふたり掛かりで、徹底的に色責めにしていたぶり抜く。そして、忠誠を誓わせるんだ。あれくらい強さがあれば、この宝玄仙の旅の護衛に丁度いい」
宝玄仙は声をあげて笑った。
五行山で出逢った女盗賊の孫空女だが、あれは間違いなく拾い物だ。
若い女でありながら、女頭領として荒くれどもを束ねる程の抜きん出た腕っ節もあるし、どうやら、自己流ながら、自分の身体の力を増幅させる法術を扱う気配を感じた。
うまい具体に返り打ちにして、沙那同様に、下腹部に淫紋を刻んでやったので、淫紋に刻んだ霊力が切れる時期のいま頃は、法術切れの発情により、七転八倒しているだろう。
発情すれば、淫紋が光るので、宝玄仙が刻んだ淫紋のせいだとわかるだろうし、その宝玄仙の居場所は、五行山の麓のこの宿場町だと教えた。
いずれは、ここに来る。
宝玄仙はそれを待っているのだ。
あの赤毛も、もう宝玄仙の手の中から逃れることはできないと思い知るはずだ。
「じゃあ、下に行ってきます。結界をかけ直してくださいね」
沙那が部屋を出ていく。
宝玄仙は、全裸のまま再び寝台にごろりと仰向けになった。
沙那が戻ってきたのは、呆れることに、二刻後だった。
「お前、ふざけるんじゃないよ。どこで油売ってたんだい」
宝玄仙は、戸口に立つ沙那の姿を見るなり声を荒らげた。
「まあ、呆れました。まだ裸なんですか。身支度しろって、言ったじゃないですか」
「お前、誰に向かって喋ってると思ってんだい。それより、飯はどうしたんだい。見たところ、なにも持ってないけど」
「それどころじゃありませんよ。服を着て下さい。逃げますよ」
「逃げる?」
宝玄仙は眉を寄せた。
沙那の口調が、いつもより切羽詰まっているのが耳につく。
「まず、最初に言っておきます。あの孫空女は、ここには来ません」
「はあ。なに言ってんだい。あいつの身体には淫紋を刻んでやったんだよ。ここに来るしかないんだ。ばかかい。あいつが来るまで、わたしはここにいるよ」
「そのことなんですけど、まさか、孫空女が弱くなるような術は、かけてないですよね」
「弱くって何だい? あいつ強かったろう」
宝玄仙は鼻で笑った。
「強かったのは知ってます。質問に答えてください」
「でも、お前も一対一じゃ負けるって言ってたじゃないかい。腕の使えないあいつに首の骨を折られそうになって辟易してたのは、誰だい」
「そんなことはどうでもいいんですよ。あの淫紋を刻まれた孫空女は、弱くなるんですか?」
沙那の声音が、はっきりと強まる。
宝玄仙は、なぜそこまで詰め寄られるのかわからないまま、苛立ちを覚えた。
「淫紋の注いだ霊力が切れれば、あいつは発情するんだよ。教えただろう。そりゃあ、その影響で力も抜けるけどさ……」
「つまり、弱くなるんですね?」
「お前、さっきからなんなんだよ。それがどうしたんだい。あいつに淫紋を刻んだのが、不満なのかい」
「それについては不満はありませんよ。わたしだって刻まれたんですから。それはともかく、首に装着した、あの赤い首環……
「まあ、そうだけど……」
「すぐに探ってください。孫空女がどこにいるのか」
「お前、さっきから奴隷のくせに、ぽんぽんと偉そうに命令ばかりして」
「さっさとやってください」
沙那の声が室内に響いた。宝玄仙は舌打ちし、面倒そうに目を閉じた。
「……わかったよ」
宝玄仙は念を拡げ、赤い首輪に結びついた術の感触を辿って、五行山の方角へ意識を伸ばした。しばらくして返ってきた感覚に、思わず眉をひそめる。
「まだ、五行山だね。まったく、いまごろ霊力切れになってるはずなのに。さっさと、ここに来ないかい」
「だから来ませんよ。来たくても来れないんです」
「なんで?」
「捕まったみたいです。孫空女がまだ五行山にいるなら、あいつらの話が正しいってことですね」
「あいつらって?」
「五行山の盗賊団です。いま、いっぱいこの宿場町に紛れ込んでます。隠れているつもりかもしれませんが、ちっとも隠れてないんです。わたしも幾人かこの眼で確認しました。間違いないと思います。人相の悪いのが狭い宿場町に溢れてます」
「五行山の盗賊って……。はあ? まさか、あの赤毛猿、自分で探しに来ずに、部下にわたしたちを探させてるのかよ」
「わたしの話を聞いてましたか? 孫空女は捕まったって、言ってるじゃないですか」
「赤毛猿が捕まったって? どういうことなんだい?」
「知りませんよ。孫空女が捕まったんなら、ご主人様が不覚を取らせるくらいに弱めたんだと思いましたが、どうやら、その通りだったみたいですね」
「捕まったって……。じゃあ、どうやって、あいつは、わたしのところに来て泣きベをかくんだい?」
「……ご主人様……。よく、聞いてください……。この宿場町で、五行山の盗賊の手下たちが探し回ってます。わたしたち……というよりは、ご主人様をです。あいつら、隠れて聞き込みしているつもりでしょうけど、盗賊団が夜に襲ってくるって、町中の者が噂してます」
「はあ? さっぱり意味がわかんないよ。わかるように説明しな」
「なんでわかんないんですか──。だから、孫空女は捕らえられました。いまの頭領は
沙那がまくし立てた。
ぼんやりとだが、現在がどういう状況か、やっと頭の中が繋がり始めてきた。
真夜中──。
両界町の外れにある古びた宿屋は、灯を落とされ、息を潜めたように沈黙していた。
一階には二十人。
階段下、柱の影、卓の裏、戸口の左右に散って陣取り、誰ひとりとして無駄な動きをしない。
五人ほどいた宿屋の者は全員、縄で縛られ、猿轡を噛まされ、厨房に一箇所に集められている。
見張りも立ててある。声は上がらない。
外には三十人だ。
納屋、井戸脇、路地の影、向かいの崩れかけた家。
宿屋を囲むように潜み、合図ひとつで踏み込める位置を取っている。
数日前の五行山での襲撃のことはよく覚えている。
数十人の盗賊団が、あの孫空女ごと、手も足もでなかったのだ。
これから捕らえようとしている巫女は、あの結界を操る、とんでもない法術遣いなのだ。
正面から当たれば、何人死ぬかわからない。
だが、
身体を覆えるほどの黒い布──。
あれを被せれば、法術は断たれ、力は抜ける。
事実、それで――あの五行山の女頭領だった孫空女は捕らえられた。
いまでは、手脚を切断され、尻尾を尻穴に挿入された姿で、猿姫と名前を変えられて、聴怒たち、新たな五行山の盗賊団の慰み者になっている。
あれほど強かった女までもそうなったのだ。
だったら、宝玄仙にも通じるはずだ。
そもそも、暗封布は、あの巫女こそ、絶対に通じるものだと、御影が保証している。
足音が戻ってきた。
斥候として二階に行かせていた手下が、闇の中から顔を出す。
「どうだった?」
「へへ、上は油断してますぜ。女同士でしっぽりやり合ってるみたいで、廊下中に女の声が響いてました」
低い笑いが漏れる。
「御影様の言ったとおりだな。どうしようもねえ淫乱巫女だって話でしたが、これなら大丈夫ですね」
見欲もまた、新たな頭領の眼歓喜が命じた、巫女襲撃組のうちの、幹部格のひとりだ。聴怒と見欲のふたりが一応は、新体制の幹部であり、残りは三下格である。
聴怒は周囲を一瞥した。
浮ついた欲情が全員から滲んでいる。
だが、それも織り込み済みだ。
「なら、いくぞ……。例の黒い布は全員持ったな」
二十人が無言で頷き、それぞれが暗封布を確かめる。御影から与えられているものを、持ち運びが容易なように、人の大きさ分に分割して、襲撃組の全員が保持している。
狙いはひとつだ。
宝玄仙という、法術遣いの巫女の捕獲である。
「部屋に押し入ったら誰でもいい。とにかく最初に巫女に布を被せろ。あいつの術さえ封じてしまえば、あとは女護衛ひとりだ。よってたかって、かかっていけばいい」
「女護衛も捕らえましょうよ。五行山で見ましたが、なかなかの美形でしたぜ。うちの頭領……いや、猿姫も美人でしたが、あれにまさるとも劣らねえ」
見欲が小さく肩を揺する。
「そういえば、あれもいい女だったな」
「うまくいけば性欲解消だるまが三つになりますしね」
下卑た期待が周囲に滲む。
聴怒は一瞬だけ考えた。
「……わかった。余裕があればそいつにも布を被せて捕らえろ。三つ並べて使えるならそれもいいが……、しかし、捕らえられねえようなら殺せ。絶対に生きて連れ帰らねえとならねえのは巫女だけだ」
「わかってます」
低い声が揃う。
聴怒は手を上げ、指を二本立てた。
「いくぞ」
二十の影が、足音を殺して階段を昇り始める。全員が片手に武器、反対の手で暗封布を持っている。
黒い布が、闇の中で静かに揺れた。
斥候に出していた手下の誘導で、聴怒たちは宝玄仙がいるはずの部屋へと近づいた。
だが、案内されるまでもなかった。
廊下に足を踏み入れた瞬間、どの部屋かはすぐにわかった。
女同士で愛し合う声が、本当に廊下まで漏れ出していたのだ。
『……無様だねえ。お前、何回気をやったんだい。十回かい。いや二十回かい。あんまりお前が淫乱すぎて、こっちが白けちまうじゃないかい』
『うう……ご主人様が……やり過ぎなんです……。だ、だいたい、ずるいですよ……。淫紋で責めて……女陰輪まで……』
『これが調教ってやつだよ。だけど、鬼娘とも呼ばれたお前が、こんな有様だなんて、情けないじゃないかい』
『ああ、もう……好きにしてください……』
『ほら、だったら、口づけしな。そしたら、また可愛がってやるよ』
続いて、かすかだが、舌と唾液を絡ませ合う、ぴちゃぴちゃという音が聞こえ始めた。
安宿だけに、壁が薄いのだ。
とんとん、と肩を叩かれる。
見欲だった。
それで、はっと我に返る。
聴怒は唇を引き結び、片手に握っていた短剣の柄を強く握り直した。
もう片方の手では、暗封布を掴みしめている。
斥候役に、目配せで合図を送る。
宿屋の主人から取りあげていた鍵が、音もなく鍵穴に差し込まれ、静かに回された。
聴怒は指だけで、背後の手下たちに合図を送る。
次の瞬間、扉が大きく開かれた。
声もなく、最初の三人が部屋に飛び込む。
続いて、聴怒も見欲とともに踏み込んだ。
寝台の上には、布団が大きく盛り上がっている。
女ふたりが絡み合っているのだろう、その形は無防備そのものだった。
すでに、最初に突入した三人が、暗封布をその膨らみに被せている。
抵抗はない。
暴れる様子もない。
布の下から、声も上がらなかった。
――やった。
聴怒の脳裏を、その思いがよぎる。
「灯りをつけろ」
聴怒は怒鳴った。
すぐに、一階から持ち上げてきていた簡易行灯が運び込まれる。
闇が、ぼんやりとした明るさに押し流されていく。
次の瞬間だった。
耳を裂くような大音響とともに、真っ白い光が部屋いっぱいに炸裂した。
「うわああっ」
「なんだああ──」
「ひいいっ」
視界が、完全に塗り潰される。
聴怒は、とっさに腕で顔を覆ったが、光は容赦なく網膜を焼き、音は内臓まで揺さぶった。
床が揺れ、壁が鳴り、暴風で周囲が弾け飛ぶ。
暗封布を押さえつけていたはずの手下たちもまた、白い光の向こうで吹っ飛んでいくのが見えた。
――なにが起きた?
そう思った瞬間、聴怒の身体は、自分の足が床から離れる感覚をはっきりと感じていた。
そして、背中を思い切り壁に叩きつけられた。
頬を強く叩かれた。
「しっかりしてください。お頭。大丈夫ですか」
続けて肩を揺すられる感触があり、聴怒は呻き声を漏らして眼を開けた。頭の奥がじんじんと痺れ、耳鳴りが引かない。視界が定まるまで、数呼吸を要した。
どうやら、壁に頭を打ちつけ、ほんの短いあいだ気を失っていたらしい。
自分を起こしていたのは、若い三下のひとりだった。名はわからなかった。
部屋の中は、異様な光景になっていた。白い埃のような粉塵が、まだ空中に漂い、鼻を突く。
爆ぜた何かの名残だろう。行灯の淡い光が、その粉を照らし、もやのように浮かび上がらせている。
人はいる。
十数人は、この部屋に集まっていた。
突入時に中にいた者たちだ。だが、実際に部屋に入ったのは、そのうち六人ほどであり、その六人は、聴怒と同じように床に倒れ、頭を押さえながら起こされている最中のようだ。
死体はない。血溜まりもない。大怪我をして動けない者もいない。打撲や切り傷程度で、全員が呻きながらも立ち上がれている。
「……なにがあった?」
聴怒は、喉の奥の違和感をこらえながら声を出した。
「……ああ、痛てて……。なんか、突然、寝台が爆発したみてえで……」
見欲が、額を押さえたまま上体を起こす。顔はしかめているが、意識ははっきりしているようだ。
「突入組で、まだ外にいた者で、わかるやつはいるか?」
「……多分、その……。寝台に、仕掛けがあったみたいです。布を被せた直後に、いきなり……」
聴怒の問いに、さきほど自分を起こした三下が答える。
「寝台だと?」
聴怒は、ゆっくりと寝台のあった方向へ視線を向けた。
確かに、爆ぜた痕跡はある。毛布は完全に吹き飛び、裂けた布切れが壁や床に散らばっている。
だが、寝台そのものは壊れていない。
脚も折れていない。周囲の調度品も、倒れてはいるが粉砕された様子はなかった。
――殺すための爆発じゃなかったか……。
虚仮威しか……。
その違和感が、はっきりと形を取る。
「あれっ。なんだ、これ?」
見欲が床に転がっていた小さな水晶玉のようなものを拾い上げた。
次の瞬間、水晶が淡く光り、女の声が部屋に流れ出した。
『……無様だねえ。お前、何回気をやったんだい。十回かい。いや二十回かい。あんまりお前が淫乱すぎて、こっちが白けちまうじゃないかい』
『うう……ご主人様が……やり過ぎなんです……。だ、だいたい、ずるいですよ……。淫紋で責めて……女陰輪まで……』
『これが調教ってやつだよ。だけど、鬼娘とも呼ばれたお前が、こんな有様だなんて、情けないじゃないかい』
聴怒の奥歯が、ぎりと鳴った。
「畜生──。最初から、あいつら、ここにいなかったのかよ──」
あの声。あの膨らみ。あの無防備さ。全部が、最初から用意された餌だったのだ。
襲撃に気づき、寝台に声を流す法術具と、目くらましの爆風装置だけを残し、宝玄仙は女護衛とともに逃げていたのだ。
「糞ったれがあ……」
聴怒は拳を床に叩きつけた。鈍い痛みが走るが、構わなかった。
「お頭、落ち着きましょう」
若い三下が、慌てて声をかける。
「ああっ?」
床に尻をつけたまま、顔をあげる。
「まだ、近くに隠れてるかもしれません。宿屋の周りは昼間から見張ってました。外にいた連中と合流して、手分けして探せば……」
三下が冷静な口調で言った。
聴怒は一瞬、目を閉じ、深く息を吐いた。頭の奥の痺れが、ようやく薄れてくる。
確かに、そうだという理解が頭に拡がる。
「……そうだな」
聴怒は、壁に手をつきながら立ち上がった。足元が一瞬よろめくが、倒れはしない。
「あっ、お支えします」
あの三下が聴怒に手を伸ばす。
「……見欲、組を作れ。宿屋と周辺を、手分けして洗え。外の三十人も動かせ。五人ほどは俺と残る。なにか見つけたら、すぐ一階に報告しろ」
「わかりました」
見欲は即座に応じ、集まっていた部下たちに指示を飛ばし始める。
「大丈夫ですか、お頭?」
三下はしっかりと、聴怒の背を抱えている。聴怒はその腕を借りて体勢を整える。
「平気だ……。だが、階段は支えてくれ」
まだ、足下は危うい。
そう言い切り、聴怒は音の肩を借りながら、五人ほどを連れて階段へ向かった。
すでに、二階では見欲たちによる家捜しが始まっている。
厨房に着くと、肩を貸していた男が、聴怒を椅子に座らせてくれた。
「お頭、しっかりしてください」
厨房には、縛られて隅に集められた宿屋の男女が五人。猿轡を噛まされ、怯えた眼でこちらを見ている。
その脇に、見張らせていた者が二人立っていた。
聴怒は、荒い息を整えながら、一緒に二階からおりてきた者のひとりを呼び止めた。
「外を見張っている組に伝えろ。半分は周囲の捜索に回せ。残りは宿屋の見張りを続けさせろ」
指示を受けた手下が、すぐに外へ駆けていった。
「ここにいる者も使って、一階も探させましょうよ、お頭」
すぐ横に立っている、さきほどから支え続けている若い三下が言った。
その瞬間、聴怒は、はっとした。
その男の顔を、じっと見る。
五行山の盗賊団は大所帯だ。三下の顔まで、すべて覚えているわけじゃない。入れ替わりも激しい。顔を知らないこと自体は、おかしくない。
だが――。
こいつは、さっきから発言が的確すぎる。
姿勢がいい。視線が揺れない。態度も、妙に堂々としている。
こんな三下がいたか?
いや、いたとしたら、すぐに目をかけられて幹部候補になっているはずだ。
そして、なにより……。
「……お前、なんで、俺をずっと、お頭と呼んでいる?」
聴怒は、目の前の若い男を見た。
「……なんでって……。別に意味は……。なんとなくとしか……」
三下は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに返事をした。
「なんとなくだと? おい。ちょっと頭巾を取ってみろ」
聴怒は、ゆっくりと手を伸ばした。
その布を掴もうとした瞬間、天地がひっくり返った。
なにが起きたのかわからなかった。
次の瞬間には、床に叩き伏せられていた。
喉に喰い込む指。息が詰まる。さらに、首の横を正確に突かれ、手脚が一気に痺れて力が抜けた。
周囲を見る。
部下たちは、すでにその場に崩れ落ちていた。
いや、ふたりだけ、見張り役のふたりが立っている。
だが、そのうちのひとりは、意識を失ったまま、棒立ちになっているだけだった。
まともに動いているのは、いま聴怒を押さえつけているこの男と、見張りに残していたもうひとりだけだ。
「すみません、ご主人様……。もう少し散らしたかったのですが……」
聴怒の喉に指を喰い込ませたまま、若い三下の姿をした者が、見張り役の男へ顔だけを向けた。指先に力が籠もり、聴怒の喉から掠れた息が漏れる。
「十分だよ。すでにこの部屋は制圧した」
見張り役だった男の姿がぶるりと震えた。
人の形が歪み、影が先にほどける。布衣が落ち、輪郭が女のものへと変じた。
そこに立っていたのは、黒衣をまとった女──宝玄仙だった。
聴怒は、声も出せずにそれを見つめた。
「……それで、どうするんだい、沙那?」
宝玄仙が、喉を押さえつけている若い三下へ声を投げた。
「こいつだけ連れていきます。情報を吐かせるだけ吐かせたら、殺しましょう」
若い三下が頭巾を外した。
長い栗毛がこぼれ落ち、男だと思い込んでいた顔が、女のそれへと変わる。
聴怒は、その瞬間になって、ようやく理解した。
こいつは、宝玄仙の女護衛──沙那だ。
「物騒だねえ、お前は」
宝玄仙が愉しげに笑った。
「こんなの、命を助けても、また盗賊を繰り返すだけです。殺した方が、世の中のためです」
沙那は、感情の欠片もない声で言い切った。
聴怒の背中を、冷たいものがどっと流れ落ちた。
情も取引もない。ただ処分されるだけだと、はっきりわかった。
「じゃあ、いいかい? あっ、この宿屋の者はどうするんだい? このままかい?」
宝玄仙が縛られて隅に転がされている宿屋の者たちへ視線を投げた。
「……そうですね……。縄だけは解きましょうか……。あとは、逃げるなり、盗賊たちに、わたしたちのことを告げ口するなり、好きにすればいいでしょうし」
沙那の声は、最後まで平坦だった。
「じゃあ、そうするよ」
宝玄仙が指を鳴らす。
次の瞬間、五人の宿屋の者を縛っていた縄が、するりと緩み、床へ落ちた。
だが、五人はまだ怯えきり、身を縮めたまま動こうとしない。
「じゃあ、とりあえず、飛ぶよ。宿場町の外くらいしか跳べないけどね」
宝玄仙が、楽しげに言った。
「十分です」
沙那が短く答えた。
宝玄仙が一歩踏み出す。
床が沈み、影が裏返る。
聴怒の視界が、ぐにゃりと歪み、景色が引き剥がされるように消えた。
腹の奥が持ち上げられ、上下の感覚が反転する。
次の瞬間、すべてが途切れた。