孫空女は、列から離れた屋台の陰に宝玄仙と並び、視線を水関の施設へ向けている。
この水関の向こう側は、
対岸が見通せないほど長大な峡谷が横たわり、ここを渡るには、城郭の管理する法術具による跳躍施設を使うほかないという話だった。
峡谷の底には、遙か下を大河が流れているそうだ。
だが、その河面も向こう岸も、ここからは見えない。
もっとも、水関の施設と高い塀が視界を遮り、孫空女の目に映るのは、兵に固められた入口と、その手前で足を止める人の列だけだった。
正面の水関は、岩壁に挟まれた入口に石造りの建物が据えられている。
武装した兵が正面を固め、並んだ列をひとりずつ中へ通していた。
孫空女の位置から見えるのは、その入口までだ。
内部の様子も、奥にあるという跳躍門ももちろん見えない。
施設のなかで検査と関賃の支払いを終えた者だけが、さらに先へ進み、跳躍門へ向かうことを許される。
一方で、反対側から来る者の動きは見えた。
施設脇の垣根に囲まれた平地で、何もない空間が歪み、人影が現れる。
向こう岸から跳躍してきた者たちだ。
兵がすぐに寄り、人数と荷を改め、問題がなければ城門の内側へ通している。
その一連は、孫空女の位置からすべて確認できたが、検査そのものは形式的なものに見えた。
おそらく、向こう側の水関施設で、すでに検査が済んでいるのだろう。
「沙那も無事に、通過したんだろうねえ」
宝玄仙が、湯気の立つ茶を口に運びながら、何気ない口調で言った。
「う、うん……。そうだね……」
孫空女は、落ち着かない心地に耐えながら頷いた。
ここで観察している限り、水関の施設のなかで、なにかが発生した形跡はない。
まあ、沙那のことだから、不覚をとるということはないだろう。多分、無事に対岸に渡ったに違いない。
あとは、夜になるのを待って、宝玄仙とともに、沙那が向こうに置いた石に刻んでいる法術紋に向かって、移動術で跳躍して合流するだけだ。
それはともかく、宝玄仙と並んで、旅人目当ての屋台のそばに据えられた木製のベンチに腰を下ろしている孫空女だが、ずっと悩まされているのは、股間の異物だった。
水関へ向かう人の流れを眺めているふりをしていても、どうしても落ち着かない。視線を正面に据えていても、身体の感覚がそれを許さなかった。
今日の孫空女は完全な男装だった。
髪は頭巾に包んで隠し、胸元は布で硬く締め上げ、ゆったりとした上衣を重ねている。
顎には短い付け髭を整え、肌の露出もない。
若い旅人の男にしか見えないはずだ。
もちろん、その男装そのものが気になっているわけではない。
孫空女の意識を離さないのは、股間に仕込まれた異物の存在だ。
双頭の張形の片側が、宿屋を出る前から打ち込まれたままになっているのである。
男装をするなら必要だと、宝玄仙に押し切られた結果だ。
外側に突き出たもう一方が下袴の前を膨らませ、男の体裁を作っているのだ。
先に水関へ向かった沙那は、その話が出る前に、さっさと宿屋を出て行ってしまったが、孫空女は宝玄仙を振り切れず、半ば強引にこの仕込みを受け入れさせられた。
最初のうちは、異物があるという感覚そのものが気になっていたが、さすがにそれは、時間とともに薄れてきた。
だが、代わりに別の感覚が、静かに広がり始めている。
つまりは、ごく自然に、孫空女は女としての反応を見せ始めていたのだ。
人の列は途切れず、兵の動きも変わらない。
何事もないように時間は流れている。
そのなかで、孫空女だけが、じっと座っていることに神経を使っていた。
隣では、宝玄仙が変わらぬ様子で茶を口に運んでいる。その落ち着きが、かえって孫空女の落ち着かなさを際立たせていた。
「じゃあ、そろそろ、わたしたちも、水関に向かおうか」
宝玄仙が当たり前のように、孫空女に声をかけてきた。
「……えっ、いま、なんて言ったの?」
孫空女は思わず、聞き返してしまった。
「だから、いまから行くんだよ。準備しな」
宝玄仙が、そう言って茶器を卓に戻し、腰を上げた。
代金はすでに払ってあるので、器はこのまま置いておけば、屋台の者が片づけるだろう。
孫空女も慌てて、残っていた茶を飲み干し、後を追うように立ち上がった。
その拍子に、双頭の張形の外側が下袴の内側を擦り、鈍い刺激が走る。思わず息を詰めたが、表情には出さずにやり過ごした。
「待ってよ、ご主人様。水関じゃなくて、夜までどこかで時間を潰さなきゃ。沙那に、そう言われてたじゃないか」
歩き出した宝玄仙に追いつき、背負われている荷に手を伸ばして引き止めた。
普段なら、荷は収容術で宝玄仙が異空間に納めている。
だが、今日は怪しまれないため、宝玄仙も孫空女も、普通の旅人のように荷を背負っていた。
宝玄仙が足をとめ、面倒そうに振り返る。
「それは変更だよ。わたしたちは、水関で行くことにする」
あまりにあっさりした口調だった。
「えっ? なんで?」
孫空女は、思わず声を漏らしていた。
さすがに、関抜けをするはずだとは言えないので、理由だけを訊ねた。宝玄仙の顔には、冗談めいた色はない。それだけは、はっきりとわかる。
「向こうで、沙那を探さないとならないからね。夜まで待つより、早く目の前を越えてしまおうじゃないか」
宝玄仙は、にやりと笑った。
孫空女は、いやな感じがした。まだ、十日余りだが、宝玄仙がたちの悪いことを思いついたときの表情は、もう覚えてしまった。
いましている笑顔が、その表情だ。
「いや、探すって、なんでなの? 沙那が向こうに設置した石に向かって、跳ぶんでしょう? 沙那はそこで待ってるよ」
孫空女は宝玄仙に小声でささやいた。
「そんな普通なことしても、面白くもなんともないだろう。計画を変えて、わたしたちは水関を普通に越えて、沙那を脅かそうじゃないか。どう考えても、そっちが愉しそうだ」
「いや、ご主人様……。愉しいとか、面白くないとか、さっぱりと意味がわからないんだけど……」
孫空女は困ってしまった。
「ばかだねえ。お前、なんのために、そんな男のなりをしてるんだい。これを生かさない手はないだろう」
宝玄仙は歩みを止めず、振り返りもしないまま、からからと笑った。
「生かすって……。ご主人様が絶対に男の格好をしろって言うから念のために……。沙那は、変装は自分だけでいいって言ってたけど……」
孫空女は言った。
そもそも、沙那の策では、鷹愁澗の水関を普通に越えるのは、沙那だけの予定だった。しかし、沙那が出立したあと、宝玄仙があまりにしつこく命令するので、いまのような男の格好をしているのである。股間におかしな異物まで入れて……。
「だからじゃないか。つまりは、沙那はお前がどんな変装をしたのか知らないんだ。つまりは、そういうことだよ」
「ええっと……。ごめん、なにがそういうことなの……?」
孫空女には、宝玄仙の言っていることが、さっぱりとわからなかった。
「だいたい、このところ沙那も生意気だろう。ちゃんとお仕置きをしてやらないと思ってね」
宝玄仙は愉しそうに喋るが、孫空女には理解が追いつかない。
「……あたし、なんかばかなのかな……。ほんとにわからなくて……」
「わかってるよ、赤毛猿。お前がばかのは、いつものことだ。だから、とにかく、お前は、わたしの言う通りにしてればいいんだ」
宝玄仙が、面倒そうに肩をすくめた。
その言葉が終わった瞬間、宝玄仙の姿が揺らいだ。黒髪が短くなり、顔立ちが硬く変わる。肩幅がわずかに増し、旅の男の体躯へとすり替わった。
「うわっ、こんなところで──」
孫空女は目を丸くした。反射的に周囲を見回す。屋台の客も店員も誰もこちらに目を留めていない。変化が一瞬すぎて、気づく暇がなかったのだろう。
喉まで出かかった悲鳴を噛み殺した。息だけが荒くなる。
「心配ないよ、そもそも、沙那もお前も、心配のしすぎなんだよ。堂々としてれば、どんなことでもばれやしないよ」
宝玄仙の男の口元が、愉しげに歪んだ。
「いや、そういう問題じゃないと思うけど……」
「とにかく、わたしたちはこのまま水関を越えるよ。沙那が仕掛けてる法術紋は使わない。その代わり、向こうで沙那を見つけて、旅の暴漢のふりをして脅かしてやるんだ。これは決定事項だからね」
孫空女は、言葉の意味を拾い上げるのに時間がかかった。拾い終えたときには、唖然としていた。
「……えっ。そんな、くだらないことやめようよ」
「くだらないからいいんだよ。あいつは慌てふためく。愉快じゃないか」
宝玄仙が喉の奥で笑いを鳴らした。
孫空女の背中に嫌な汗が滲んでいく。
しかし、鷹愁澗の水関には水鏡があるのだ。沙那が危険だと断じた場所である。法術を帯びたまま通ろうとすると、見破られる可能性があると言っていた。
「……冗談だよね。ご主人様、冗談……?」
「はあ? 冗談なものかい──。心配いらないよ。わたしの法術だよ」
宝玄仙が孫空女を馬鹿にしたように、鼻を鳴らす。
「でも……」
「でもじゃない。見破られるわけないだろう。沙那はお前の男姿も、わたしの男姿も知らないんだ。そして、わたしの法術と、お前の力があれば、あいつが抵抗できるわけないよ」
「あっ、いや、そっちじゃなくて、沙那が言ってた水鏡が……」
「沙那、沙那って、お前、煩いよ──。お前の女主人はわたしだよ──。わかってるのかい──?」
「……だけど、そのまま鷹愁澗を越えるって……。沙那の策で渡るって、ご主人様も納得したんじゃないの……? 水鏡が危ないって、沙那が……」
「馬鹿たれ。その勝負は昨日はついただろう」
宝玄仙の声が、急に冷えた。
「だけど、ご主人様は、最終的には納得して……」
「納得なんてしやしないよ。沙那は負けたじゃないか。だから、あいつの話は終わりだよ。でも、いいことを思いついたからね。妥協した振りをしただけさ。それだけだよ」
「待ってって。ご主人様。そんなことしたら、沙那が怒るよ……。いや、それよりも危険だし……」
「沙那が怒る? 怒らせればいいじゃないか。面白いだろう。怒るに決まっているよ、騙して陵辱するんだ」
「そうじゃなくて、水関は……」
「うるさいねえ。話は終わりだよ」
宝玄仙が前を向き、列へ歩み出した。人々の背に紛れるように、自然な足取りで入口へ近づいていく。
「待って、駄目だったら──」
孫空女は咄嗟に手を伸ばした。宝玄仙の荷紐に指がかかる。
しかし、その瞬間だった。
突然、股間を貫いている部分の双頭の張形が振動を始めたのだ。
「うんっ」
なにが起きたのかわからないまま、孫空女が膝を折って、下袴の前を押さえていた。
想像もしていなかった喜悦が身体の内側を遡って襲ってきたのだ。
しかも、宝玄仙の法術具である淫具は、どこまでも男性器に酷似して作られていた。もともと膨らみがあった股間部分が、孫空女が刺激に反応したことで、外側の張形の部分が勃起して下袴の前側を破らんばかりの大きくなったのである。
「くっ、ああ……」
慌てて上衣で前を隠す。
とにかく、今日はゆったりとしている服を着ていてよかった。
いずれにしても、これが動くなんて、想像もしてなかった。
一方で、膝を折ったままの孫空女を置いて、宝玄仙は関門を待つ列に紛れてしまう。
「ま、待って、ご主人様……」
とにかく、追いかけようと、孫空女は足を前に出す。
いまだに、張形は振動を続けているが、そんなことを気にしている場合じゃない。
「んんっ」
だが、またしても、孫空女は腰から太腿を震わせて、その場に止まってしまった。
今度は、張形の内側部分に加えて、ちょうど陰核に当たっている数個のいぼもまた、小刻みに振動を開始したのである。
身体を反り返すような、甘い感覚が波となって、孫空女に襲いかかる。
孫空女は、ついに膝を振るわせて、その場に跪いてしまった。
「あっ、どうした、兄ちゃん──?」
「あんた、大丈夫かい?」
気がついた近くの屋台の店員が数名やって来た。
「うわっ、だ、大丈夫だよ……」
孫空女はしゃがみ込んで股間を押さえながら、やっとのことそう言った。
そして、やっと振動が止まり、孫空女が顔をあげたときには、いつの間にか、宝玄仙は水門の施設のなかに姿を消してしまっていた。
白い光に包まれたと思った瞬間、足の裏に固い感触が戻った。
孫空女は、反射的に膝を緩め、身体の均衡を取り直す。
気がつくと、そこは鷹愁澗の向こう側だった。
峡谷の風はなく、視界も開けている。蛇盤の城郭側で感じていた緊張とは、どこか違う雰囲気だ。
跳躍先は、木柵で囲われた平地である。
同時に転移してきた旅人たちも前後に数名いる。兵が数人、慣れた様子で手を振り、柵の外へ出るよう促していた。
こちら側では点検はないようだ。
荷を改められることも、呼び止められることもなく、流れ作業のように外へと追い出されていく。
柵の外には、旅人目当ての屋台が並んでいた。簡素な造りの建物もいくつか見えるが、蛇盤の城郭側に比べれば、どれも仮設めいている。
通過点に過ぎない場所──そんな印象だった。
孫空女は周囲を見回していた。
探しているのは、ひとりの姿──宝玄仙である。
しかし、宝玄仙らしい人物は、どこにもいなかった。
そっと意識を澄ませる……。
実は、孫空女には、生まれつき霊力の流れに鈍く触れることができるという力があった。あまり他人には教えたことはないが、その感覚を頼りに、近くを探っていく。
しかし、いない。
少なくとも、この周囲には、宝玄仙の気配は感じられなかった。
胸の奥が、じわりと冷える。
とにかく、人目のある場所へ行こうと思い、屋台と建物が並ぶ方へ歩き出しかけたときだった。
柵の向こうの広場の端にある水関の施設が、目に入った。
蛇盤の城郭側と同じ造りの関門だが、様子が違う。
兵たちが、慌ただしく動き始めていることに気がついた。
建物の奥から、数名の兵が駆け出してくる。
しかも、関門の前に列を作っていた旅人たちを、乱暴に押しのけ、外へ追い出し始めた。
「おい、なんだよ、急に」
「どういうことだ、説明しろよ」
不満の声が上がる。
兵の一人が振り返り、怒鳴り返した。
「俺たちも詳しいことは知らん。だが、不正をして水関を通過しようとした者が、水鏡にひっかかったらしい」
兵はそう叫ぶと、門を内側から閉じた。
閂が落とされる、鈍い音が響く。
「すぐ再開するだろう。しばらく待て」
別の兵がそう言って、兵が門を見張るように、最初からそこにいた兵たちとともに内側に立つ。
追い出された旅人たちは、なおも文句を言い合っている。
だが、孫空女の耳には、もうほとんど入ってこなかった。
水鏡──不正──。
宝玄仙がいない。
そして、水関が閉じられた。
偶然で済ませていいはずがなかった。
孫空女は、嫌な予感がした。