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「走れ、走れ、もっと速う、走れ──」
馬車の中で狂ったように叫び続けているのは、沙那が護衛を務める
嬰麗は、近くにある
そのため、嬰麗を乗せているこの馬車は安全な城郭に向けて逃げ狂っているというわけだ。
前にいる馭者はが狂ったように鞭をあげて、二頭の馬を打ち続けている。
馬車には壁がなく、上に大きな傘状の屋根があるだけの簡易なものであり、すでにその屋根も全力で走り続ける馬車の勢いによって、吹き飛んでしまっている。
「いやあああっ」
「ひいいいっ」
また、嬰麗もそうだが、ふたりの嬰麗の侍女も顔を真っ蒼にしてしゃがみ込み、必死に馬車の横木にしがみついている。
その馬車の中で、
追ってくる魔獣は、森林狼を思わせる外見であるが、沙那が見知っている狼とはまるで大きさが違う。
一頭がこの馬車ほども巨大であり、瘴気をたらふく吸収して変異していることを示すように、眼が真っ赤に血走っている。
それが五頭──。
この馬車にいまにも追いつかんばかりに迫ってきていた。
「はっ」
沙那は気勢を充実させて矢を射る。
狙い通りに、魔獣の前肢を貫き、体勢を崩してひっくり返った。
残り四頭──。
いや、まだ五頭だ──。
倒れただけで、大した影響もないかのように、すぐに起きあがって追いかけてくる。
貫いたはずの矢も、すでに抜けてしまったみたいだ。
「ちっ」
沙那は舌打ちした。
こんな軽弓の威力程度では、この距離だと時間稼ぎにもならないのか──。
だったら、もっと引きつけるか……?
いや、いっそのこと、沙那だけが馬車からおりて迎え討つか?
だが、もしも、沙那には目もくれずに、さっきのように魔獣が嬰麗のいる馬車を追いかけてしまったら、そのときこそ、沙那が嬰麗を守る手段がなくなる。
最初に、この馬車と魔獣たちが遭遇したとき、五人いた騎乗の護衛たちは、逃亡の時間を作るために、その場に残って、魔獣の前に盾になったのである。
だが、森から現れた魔獣は、巨大な前肢と牙の一撃で彼らを屠ったが、とどめを刺すことも、護衛たちを喰らうこともしないまま、そのままこの馬車を追いかけてきたのである。
それと同じことになりはしないか……。
沙那は迷った。
「ひあああっ、追いつかれる──。追いつかれるぞ──。もっと、速く──、速くじゃ──」
嬰麗が泣き叫び続ける。
「心配入りません──。必ず、お守りしますから──」
沙那は嬰麗を安心させるために叫ぶ。
矢はあと十本──。
取るものも取らずに、ほとんど準備のないまま、馬車に飛び乗ったのは失敗だったか……。
だが、時間がなかったのだ。
もしも、しっかりと準備していたりすれば、この我が儘姫は、直属の護衛の沙那までおいていってしまったに違いない。
だが、おそらく、
馬が全速力で駆けられるのも、そろそろ限界だろ思う。
必ず追いつかれる。
それまでに県令の兵が気がついて出動してくれれば……。
しかし、すでに救援信号となる狼煙は打ちはしたものの、それに気がついてくれたとしても、それなりの時間的距離はある……。
「はいっ」
沙那は、距離が縮まって先頭の魔獣めがけて、再び矢を放った。
この嬰麗は、沙那の本来の主である県令の第三女であるが、すでに十四だというのに、まだまだ少女の気儘さのままであり、分別のつかない童女のようなところがある。
父親である県令はそれが可愛いらしく、嬰麗の我が儘を許すのであるが、それに味をしめている彼女は、時折、思いつくままの衝動を繰り返すのだ。
今日もそうだった。
陽気もいいので、突然に城外の
流砂川のほとりに、景色の美しい野草の花畑があり、そこに向かうというのである。
ただ、最近、その花畑に隣接する森に魔獣が出現したという噂も入っていて、態勢がとれ次第に調査に入ろうかという状況だった。
当然に周りの全員で諫めたが、嬰麗は怒りだし、ならばひとりでも向かうと叫んで強引に飛び出してしまったのである。
もしも、父親の県令がいれば、城外に出る前に嬰麗をとめてくれたかもしれないと思うが、不幸にして城外の農村の視察のため不在であり、我が儘姫こと、嬰麗の馬車を阻める者はなかった。
それで、結局、慌てて馬車に乗り込めた沙那とふたりの侍女だけが同行することになったのだ。
もしも、城門のところで、沙那が騎兵に同行を頼まなかったら、沙那のほかに護衛すらいない状況だったろう。
まあ、すでにその騎兵も魔獣の前にあっという間に倒れてしまったが……。
そして、流砂川のほとりの野花の群生地に到着してまもなく、この魔獣たちが現れたのである。
魔獣とは、自然界の中にまれに出現する毒素である「瘴気」を吸い込み、その影響で巨大化に変異するとともに凶暴化した生き物のことである。
瘴気というものがどうして発生するのかは、いまだわかってない。
ただ、突然に発生し、周囲の動植物を狂わせて変異させると知られるだけだ。
もっとも、大抵の場合は、瘴気が発生しても、しばらくすればそれも止み、また、魔獣化した動物もいずれいなくなる。巨大化し凶暴化した魔獣は、瘴気の消滅とともに、すぐに死んでしまうのである。
まあ、遠い西の果てには、瘴気が消えることなく発生を続けて、動物どころか、人間まで凶暴化して魔獣となる魔域と称する場所もあると聞くが、この皇国内については瘴気といえば、いずれは消えるものだ。
まあ、瘴気がなかなか消えず、たちの悪いものになれば、法術師に頼んで浄化の術をかけてもらうしかなく、遠い帝都から高名な法術師を派遣してもらうか、多くの術士が修行をする天教の僧院に願い出るしかない。
いずれにしても、瘴気の発生も、魔獣の出現にしても、県としてよく調査しなければならなかったが、この弱水に属する県域はおろか、皇国の西の辺境域となる
「お、追いつかれる──。追いつかれるぞ──」
馬が疲れてきたのか、車輪の回転がゆるやかになって、魔獣との距離が縮まってきた。
それは沙那にもわかった。
追いつかれてしまえば、嬰麗たちを背にして、剣で戦うしかない。
魔獣程度であれば、沙那ひとりであれば、おくれを取るとは思わないが、ほかに馭者を含めて自分の身を守れない者たちが四人いる。彼女たちを守りながら戦うことができるだろうか……?
しかも、この嬰麗が恐怖でどんな行動をするかわからない……。
とにかく、やるしかないか……。
沙那は弓を捨てて、腰の剣を抜く。
「お、お前ら、飛び降りよ──」
そのときだった。
突然に嬰麗が馬車の中で叫んだ。
沙那に対してではない。
嬰麗の横で馬車の横木にしがみついているふたりの侍女に叫んだのだ。
沙那も驚いたが、侍女たちも呆気にとられている。
「なにをしておる──。さっさと降りんか──。少しでも馬車を軽くするのだ──。忠義を示せ──」
嬰麗が絶叫した。
言われた侍女たちの顔が真っ蒼になる。
「わかりました。降ります──」
ところが、さらに唖然としたことに、侍女のひとりがいきなり立ちあがって、馬車の外に飛び降りた。
「うわっ、やめなさい──」
沙那は叫んだが、そのときには、飛び降りた侍女がずっと後方で土煙の中に消えてしまっていた。
さらに、もうひとりも、泣きながら馬車から飛び降りた。
「馭者、とめよ──。馬車を停めなさい──」
沙那は絶叫する。
「ならん──。そのまま進め──。命令じゃ──」
嬰麗が怒鳴った。
「ならば、そうしてください──」
沙那は馬車から飛んだ。
地面に転がりながら受け身をとる。
立ちあがったときには、魔獣が目の前だった。
剣を一閃して、突進してきた魔獣の首を切断する。
二頭同時──。
続いてやって来た三頭に囲まれる。
束の間、沙那は目前の魔獣たちとにらみ合うかたちになった。
視線の先を一瞥する。
馬車から飛び降りた侍女ふたりの姿は小さくなっているが、もぞもぞと動いているのがわかった。
死んではいない……。
やはり、魔獣は興味を抱かなかったみたいだ。
ところが、沙那を一瞥して匂いを嗅ぐような様子を示したかと思うと、すぐにその三頭が進み消えていった嬰麗の乗る馬車を追いかけていく。
「いかん──」
沙那は懸命に走って追いかける。
だが、さすがにどんどんと距離が開く。
そのときだった。
大きな衝撃音がして、まさに馬車に追いつかんばかりだった魔獣たちが突然に横にひっくり返った。
「えっ?」
沙那は走りながら、思わず声をあげた。
なにが起きたのかわからなかった。
だが、魔獣が倒れている場所の近くに、人影らしきものがあることに気がついた。
その人物がさらに魔獣に手をかざすのが辛うじてわかった。
魔獣たちの体から四方八方に血が噴き出る。
そのときには、沙那はかなり、近くまで追いついていた。
魔獣を蹴散らしたのは、法衣をまとったひとりの男だ。
髪を布で包み、顔の下半分も布を垂らして隠しているが、面倒くさそうな表情をしているのはわかる。
嬰麗を乗せた馬車は、そのまま過ぎ去っていていない。
また、三頭の魔獣は全身から血を流しながら、起きあがることなくひくひくと体を痙攣させて横倒しになったままだ。
法衣姿の男がさらに手をかざす。
法術──?
沙那は法術使いではないが、武人として気脈の動きは感じることができて、その気脈に近いものが男を中心に動いたのはわかった。
魔獣たちが絶息して完全に動かなくなる。
巨大な魔獣が小さくなり、人の大きさほどの大狼になる。
「森狼が瘴気を腹いっぱい吸って凶暴化したんだろうね。放っておいてもいいけど、ついでに浄化もしといてやったよ。魔獣化した獣の肉を喰らうと、その動物や虫がまた魔獣化するからね。まあ、そのうち、全部消えちまうけど……」
長く旅をしてきたのか、男の身につけている法衣は随分と汚れている。
ただ、それにしては、荷のひとつも持ってない。
手ぶらだ。
沙那はちょっと怪訝に思った。
「あ、あの……。た、助かりました……。ところで、あなたは……?」
沙那は訊ねた。
男が沙那を一瞥する。
だが、男──?
沙那はちょっと首を傾げた。
男物の法衣をまとっているし、顔の下半分が隠れているのでわからなかったが、声は女のようであるし、隠れていない顔の上半分だけだが、なんとなく女性のような気がした。
しかも、かなりの美人ではないだろうか。
何者なのだろう?
また、おそらく、さっきのは法術だとは思うが、一瞬にして、あの大きな魔獣を倒してしまうとなれば、かなりの高位術師ではあるはずだ。
だが、そうだとすれば、どうして、こんな皇国の西の外れにたったひとりでいるのだろう?
「ああ? わたしかい? そうだね……。
玄奘と名乗った相手が、沙那を訝しそうに見る。
しかし、沙那は確信した。
この人は女だ──。
玄奘というのは男の名前だが、間違いなく、彼女は女性だと思う。
間違いない──。
「これは失礼しました。わたしは沙那といいます。この先の弱水の城郭にある県令府の将校です」
沙那は居住まいを正して言った。
すると、玄奘と名乗った女の顔が破顔した。
「県令府の将校? 軍人かい? そんな可愛い顔と色っぽい身体をしてるのにかい? まあ、遠目だったけど、魔獣を一度に二頭も屠る腕はすごかったけどね。ふうん……」
なにがおかしいのか玄奘がけらけらと笑い出す。
それはともかく、なぜか、玄奘が沙那を眺める視線に、淫靡なものがある気がした。全力で走ったせいで、沙那は結構汗をかいていて、薄着だったこともあり、服が身体に貼り付く感じになっている。
それを玄奘がじろじろと遠慮のない視線で見るのだ。
なんとなく、両手で服の上から胸を隠してしまった。
やっぱり、男?
「そこの人──。旅の人──」
そのとき、前から馬車が戻ってきた。
叫んでいるのは嬰麗だ。
大きく手を振っている。
魔獣が退治されたのを確認して、馬車をどこかで引き返させたのだろう。
それで、沙那ははっとなって思い出した。
「そうだ──。旅の法師様──。ちょっとお待ちください。後方に怪我をしている女がふたりいます。見てこなければならないのです」
侍女ふたりがどうなったのか?
魔獣そのものは、彼女たちを襲わなかったようだけど、全力で走る馬車から飛び降りたのだ。骨くらいは折っているかもしれない。
「怪我人がいるのかい? だったら、ついでだ。一緒に行ってやるよ」
玄奘が気軽な雰囲気で沙那のいる方向に歩き出す。
「おおい、待つんじゃ──。待て──。わたしはこの先の弱水の県令の三女で嬰麗と申す者じゃ。助かった。是非、礼をさせて欲しい」
そばで停まった馬車の上から嬰麗が嬉しそうな顔で叫んだ。
「礼? ほう、それはなんでもいいのかい?」
すると、玄奘が馬車に向かって振り返った。