【完結】ヒロイン全員子持ち人妻の小説が完成した! 作:hige2902
あしからず。
「お疲れさまでーす」
一人の青年が、そう言ってバイト先のスーパーを後にした。
疲れた体で春の夕暮れの路地を歩く。仕事の後に徒歩での帰路は辛い距離なのだが、今日ばかりはその足取りは軽い。
なぜなら、ようやく自転車を買う分の金が溜まったからだ。
ちかぢか大金が手に入る予定だったがどうも皮算用な気がして、それを当てにせずコツコツと貯金していただけに嬉しさもひとしおだ。
彼は人生で初めて乗る自転車を想像して胸をときめかせた。自宅前のあの長い坂を一気に下ったらどんな気分なのだろう。駆け下りるよりも速い感覚を味わってみたかった。
祝福するように、気持ちの良い柔らかな薫風がそよぐ。
「あの、すみません」
その風に乗って、声がした。
控えめで、妙齢の女性の、どこか恐る恐るといった雰囲気の声がした。
ちょうど脇の小道からそんな声が投げかけられたのだ。彼は視線を向けるも、思わず一歩後ずさる。声が出ない。
そこには窮屈そうに身を縮こまらせる美女がいたのだ。なんとなく年上に見える雰囲気で、艶やかな稲穂色の髪を左右の肩から下げている。
それだけではない。威圧的とも言える肉置きの良い体躯は、ただでさえ狭い日本の裏路地をさらに狭く感じさせるほどだった。
その手の性癖の人が盛りに盛ったと言わんばかりの胸はヘタをすればスイカよりも大きく、支える下半身もまた凄まじい。
とりわけてすげ~~~暴力的バストサイズとは裏腹に、どこか幼さの残る瞳のギャップが奇妙な魅力を醸し出している。
しかもその肢体と肉付きを隠す気などさらさらないといった具合のメイド服。のようなもの。なんだこの服……服? かどうかも怪しい。
胸元はサスペンダーのようなもので乳輪をギリギリ覆っており、下半身に至ってはミニの前掛けで申し訳程度に下着を隠していた。
そっち系のお店のコスプレだってここまで露出させる衣装を用意しないだろう。なんだこのコスプレイヤー、こんなところでヤバすぎる。彼は引いてた。
妙齢の女性は申し訳なさと恥ずかしさを滲ませ、硬直したままの彼へ言葉を続けた。それは自らの装いに対してではなく、これから口にする質問がどれほど間抜けかを理解しているからだ。
「その……ここはどこでしょうか」
彼はなんとか絞り出すように答える。
「え、いや、どこって、書木市。ですけど……迷子です、か?」
明らかに成人の年齢でそりゃねーだろと思いつつ聞いてみる。とはいえ、交番に案内すればたぶんこの人は捕まりそう。
「かきし、書木市……」
妙齢の女性は真剣な面持ちで記憶を探る。少なくとも彼には、それがコスプレの演技の一環には感じなかった。
「もう少し詳しく教えていただけませんか?」
「あ、はい。書木県 書木市 ……羽目区……ここは……十八町目くらいかな」
真剣な瞳が彼を見据える。
「……王都ゾイルからはどれくらい離れているのでしょう?」
「おっ、王、え?」
戸惑う彼を見て、肩を落とす。
「どうしましょう、ずいぶん遠くに来てしまったみたい」
どうしよう、はこっちのセリフだ。やっぱり逃げようかと考えて彼は腕を組む。
不意に視線感じて振り向くと、主婦っぽい人がこちらを遠くから見ていた。視線はもちろん不審のヤツ。
頬に手を当てて困り顔の妙齢の女性を見やる。料理で例えるなら脂の滴る特大の骨付き肉といった肉体と、関わる事で背負うかもしれないリスクを天秤にかける。一瞬で傾いた。
短く溜め息をつく。腹を決めて事実、超重量級の妙齢の女性へ提案する事にした。
「あのー、ひょっとしてなんですけど、いろいろ困ってるならとりあえずウチ来ます? 家具付きの部屋が余ってるんでしばらく貸せますけど」
きょとんとした後に、パッと顔を輝かせて深い感謝を述べる彼女の言葉を適当に切り上げさせ、とりあえず主婦のいる背後の道には戻れないので脇道を抜けてから彼の自宅へと向かうことになった。
「わっ」
「どうかしましたか?」
振り向いた妙齢の女性が心配そうな顔を向ける。
「いえ、なにも……」
彼女の背中が丸出しで、臀部に食い込むTバックが丸見えというヤバい服装にビビって思わず声が出たのは、今のところ心にしまっておくことにした。やっぱりアレな人と関わったのかも、という不安と一緒に。
こそこそと人目を避けて、なぜか辺りを物珍しそうにきょろきょろする彼女を急かして長い坂道を上る。
彼お手製の入居者募集と描かれた看板を過ぎると、ちょっとした丘というか、もはや山の一部に年季の入ったこじんまりとしたボロいアパートにたどり着く。
二階建ての全六部屋は、もう暗いというのに一部屋も明かりが灯っていない。
「どうぞ、ちらかってますけど」
その内の一室の鍵を開ける。
靴を脱いで部屋に招いてくれた彼に倣い、妙齢の女性もローファーを脱ぐ。用意された来客用のスリッパに、ほかほかの足を入れた。
部屋はリフォームされており、外観とは裏腹にかなり綺麗だった。
「適当に掛けてください。飲み物、紅茶でいいですか?」
余裕ぶって尋ねるが、彼の心臓はとんでもない速度で脈打っていた。正直、のこのこと男の部屋に上がり込んでくるとは思わなかったし、初めて見るくらいすげー見た目の人でビビったけど、これはヤれるかも! というインスタントな嘘偽りない欲望と、ホントにヤバい人だったらどうしようという恐怖により。
「……紅茶でいいですか?」
返事が無いので狭い台所から狭い六畳一間に視線を向けると、くだんの妙齢の女性はまるで初めて見るものばかりといった様子で部屋に視線を巡らせていた。
「あの」
「えっ!? あ、はい」
「紅茶でも大丈夫ですか?」
「あらごめんなさいわたしったら、そうね、せっかくだからいただこうかしら」
顔を赤くして、うふふと笑う。
なんだか可愛らしいな、と彼は思った。なんとなく、先ほどまで性欲に正直だったのが悪い気もしてきた。それはそれとして下半身はふっくらしかけている。バレないようにしなければ。
少し悩んで秘蔵の缶を開ける。ウィスキーやコーヒー豆、もちろん紅茶葉にしても、一番おいしいのは開封したばかりの最初の一杯だ。後は空気が触れて味が落ちる。その微妙な変化がわかるほど舌は肥えていないが。
とにかくここは彼女に少しでもいい印象を持ってもらうため、何か良い事があった日ようのを淹れる。良い事は、この後起こせばよいのだ。
お茶請けのクッキーは残念ながら安物で心もとないが、あるもので戦うしかない。
ポットの中で茶葉が適切な温度の湯にゆっくりと舞う間、スマホで検索する。たしか王都ゾイルとか言っていたが、それに関する地名や国名は無い。
まあいいかと茶器などを盆に乗せて運んだ。
所在なさげにソファに腰掛けた妙齢の女性の太ももは、それはそれはだった。名は体を表すとはまさにこの事で、彼女の太ももはまさしく太く、桃のようにかぶり付きたくなるほど魅力的なのだ。
「どどどうぞ」
あまりの肉感に動揺しつつ、ローテーブルに紅茶類を並べて対面の床に座る。下から見上げるとボリュームが凄かった。ソファがいつもより沈み込んでいるのは気のせいではない。
妙齢の女性は彼だけ床の上なのが気になったが、ここが自分の常識の通じない遠い遠い国である事は薄々勘づいている。作法についてあれこれと口を出すのはかえって礼を欠くかもと、厚意に甘える事にした。
それにしても、と別の疑問がふと湧き出た。こんなに早く湯が沸くとは思わなかった。
薪から火を起こしている様子も無く、魔力も感じなかったのでその類を使ったように思えない。
ただ、不思議ではあったが今はただ温かい紅茶を冷めないうちに頂くのが礼儀であり、それが感謝の表し方である事はわかっている。
「おいしい」
味については、思わずそう口に出てしまうほどだった。ほんの少しの酸味と渋みのバランスが良く、芳醇な香りにホッとさせられる。
一息つくとティーカップの造形も素晴らしい事に今更気付く。口当たりの良い薄さで、全体的に貝殻を模しており、小さな巻貝の足が可愛い。貴族ですら持っているかどうかの一品に思えた。
よし! なんかいい感じだ!! 反応を窺っていた彼は心の中で初戦を制した気分になる。モテるかもと思って始めた紅茶が功を奏した。
とりあえずは自己紹介をし、一切を肯定するどしたん話聞こかメソッドで距離を縮める──という彼の浅はかな考えはすぐさま打ち砕かれることになる。
こほんと、小さな咳払いで事情が語られだした。
「実はほんの少し前の出来事なのですが──」
「うんうん」と彼は頷く。
「──エルフの森にある遺跡で妙な鉱石が見つかったとの事で、仲間の一人が興味を持ち──」
「うん? うんうん」
「──台座に置いてあった、小さな輪のような物。それに触れようとした時、おそらく何かの魔法トラップだと思います──」
「うーん、うんうん」
「──邪な力は感じなかったので冥界の仕業ではなそうですが──」
「……う、うんうん挫けそう」
「何がですか?」
きょとんとした表情を向けられた。
「うんうん、いや俺なら挫けそうな状況だなって。続けてください。うんうん」
女性の話にはとりあえず否定しない方がよいと聞いたことのある彼は、ただただセックスがしたい一心で首を縦に振り続け全てを受け入れた。
どしたん話聞こか、から後悔する事ってある?
「うんうんうんうん。その、つまりは、えーと、シレリアさんは、なんか遺跡っぽいところで重要っぽい輪のような物に触れようとしたらここにいた……って事ですか」
「ええ、その通りです」
真剣に言い切るシレリアと名乗った妙齢の女性の言葉に、彼は眩暈がしそうだった。いやした。してる。震える手で紅茶を一口やる。せっかくの茶葉の味もよくわからなくて、信じがたい身の上話と二重にがっくりきた。
その後、天使だの魔法だの、カクチス領だの過去討ちだの、そこに向かうための船が出る港は知っているかだのの話になったが、そんな事よりも彼女の言葉を信じれば、信じればの話が彼の喉元まで込み上がってきた。
シレリアは昔馴染みの冒険者仲間の旅に付いて行きながら、離れ離れになった夫を探している途中な上に子供も同行していたとかいろいろ重大な情報も飛び出たが、とりあえずこれだけは言わなければならない。陽気な春のせいにしなければ彼女の言動が指し示す事実はだいぶ絞られる。
「一つ、たぶんなんですけど、シレリアさんの境遇に思い当たる事があって、ですね」
「なにか知っているの!?」
「いや知っているっていうか、なまじ言葉が通じるぶん、たぶん勘違いしてるんじゃないかなって思ってて」
どんな些細な言葉も聞き逃さないといった熱量の瞳を向けられ、少し躊躇ってから口を開く。
「シレリアさん、それたぶん異世界転生してますよ。あ、転生じゃなくて転移か」
「……い、異世界?」
「まったく別の世界って言った方がいいのかな。正直、グラギアナム会戦とか聞いた事無いし。さっきからちょくちょくスマホで調べてたんですけどシレリアさんの言う固有名詞は全然ヒットしないし、そうとしか……あスマホっていうのは」
「う、嘘でしょ……あなたあの戦いを知らないの!?」
よほど衝撃だったのか、思わず勢いよく立ち上がる。乳房が一瞬持ち上げられ、重力によりシレリアの身体に打ちつけられて、バチンと音が鳴った。
「うわあ! いや俺だけじゃなくて、この地球に住んでる人たち全員が、はい。たぶんシレリアさんもドラえもんとか知らないでしょ、日本とか、アメリカとか」
「それは……けどなんとなくあの文字には見覚えがあるわ。たしかヒノモトという国の」
向けられた視線の先には本棚の小説の背表紙だった。
「あー、そっちの世界にも日本と似た国があるんですね」
「ちょっと待ってちょうだい。だいたい、なんであなたにそんな……異世界転移だなんて突拍子も無い事がわかるの!? ここではしょっちょうそういった事が??」
「無いです。無いですけど」
アニメとかで流行ってたからなんとなくわかる。とは言えないので、状況的にそうとしか、と誤魔化す。いや事実そうだ。可能性が最も高い選択肢の一つ。
ドスリと力なくシレリアは腰を落として、ソファが悲鳴を上げる。俯いたまま、陰鬱に呟いた。
「この世界には、そういう、転移する魔法って」
「シレリアさんの世界とはだいぶ違ってて、魔法そのものが存在しないですし、天界? とかも……なんかすみません」
自分が謝る事でもないのに、どうしてそう言ってしまうのだろう。たぶん、それはきっと、無力さとか力になれない不甲斐なさとかそういう感情が申し訳なさに変換される人間のバグなのなだろう。
「……じゃあ、もう、夫と子供には」
潤んだ声色に、彼は席を立った。
「しばらく外の風浴びてきますから」
部屋を出ると、気付けばすっかり日も落ちてちょうどいい夜風が吹いている。
さすがに今日はエッチなこと出来ないよな、雰囲気的に。
何かの鳥が不気味に鳴く中で、彼は壁に背を預けてぼんやりと考えていた。
確かに彼女の境遇には同情する余地がある。ありまくる。
詳しく聞ける雰囲気ではなかったのでおおよその事しかわからないが、家庭を持っても冒険心を抑えらず出て行った旦那さんを追いかける旅の途中で、同行していた子供と生き別れたのだ。
一応信頼おける仲間が同行していたそうなので子供は無事だろうが。
不運に見舞われた彼女はかわいそうだ。しかしそれはそれとして性欲は別にある。彼はそういうヤツだった。
スマホをポケットから取り出して、もう一度グラギアナム決戦と入力するがヒットしない。シレリアが言うには、冥界と天界も巻き込んだ戦いで彼女自身もそれに関わっていたらしい。すげえ。
しかしそんなものはこの世界には無い。もしかしたら彼女の世界とも違う別の世界にはあるのかもしれない。それはたぶん全く同じであったり、ちょっと違ったり、まるっきり別物だったり、あるいはエンタメ作品として存在したりするのだろう。
彼はそこそこ詳しいのだ。図書館で借りた何かの小説で、別世界の概念の雰囲気はだいたい掴んでいる。
しばらくぼーっとしているとドアが開かれた。目を赤くしたシレリアが、それでも健気に笑顔を作る。
「ごめんなさい、気を使わせてしまって。もう大丈夫ですから」
「あー、はい」
どうも気の利いたセリフが思い浮かばなくて適当な返事で部屋に戻る。
シレリアを再びソファに座らせて、なにか夕食でも用意しようと思って小さな冷蔵庫を漁るが当然たいしたものは無い。かろうじて寄せ集めて、ケチなサンドイッチが出来上がった。
「お腹空いてません? よかったらどうぞ」
「……ええ、ありがとうございます」
彼女は悲哀に暮れながらも、半ば自らに強制して彼の用意した食事に手を付けた。それは一定の安全が保障された現代日本に比べれば過酷な世界に生きた者の身に染みた生存術であった。
食べられる時に食べ、寝られる時には寝る。シレリアが直前まで送っていた生活が常に死と隣り合わせという訳ではないものの、いざという時にはやはりこの鉄則を怠る者から厄運に呑まれるのだ。彼女の冒険者としてのサガがそうさせた。
だからひたすらに感情を押し殺した。明らかに年下の、寝床や食事を提供してくれた彼の前で取り乱すわけにもいかない。
説明されるがままにトイレや水の出る場所を脳に入れ、一つしかないベッドを使わせてもらうという労わりも丁寧に受け入れた。
ただ頭の中にあるのは、不安と、子供の事と、夫の事。結婚を機に二人で冒険者を引退したが、その生活に馴染めなかったのだろうか。再び冒険に出るにしても、
そうして、眠りに落ちる事無く朝を迎える。異世界とて、一人の人間にどれほどの悲劇が訪れようと、どうしようもなく陽はまた昇るのだ。
彼がバタバタと出掛ける準備をして、ドアに手をかけながら力なくソファに座るシレリアに言った。
「じゃあ俺はバイト……仕事に行ってくるんで。あーあと、またサンドイッチで悪いんですけど作っといたんで食べてください。あとクッキーがあるんで。じゃあ」
朝はいろいろと忙しいのもあってシレリアの反応を窺う事無くアパートを後にした。急ぎ足で山を下る。それで、そういえば自転車を買うんだったと思い出す。異世界人(おそらく)と出会うという信じがたい出来事に、すっかり塗りつぶされていた。
すでに車種も決めている。どこにでもあるようなママチャリだが、彼にはそれで十分だった。
彼を軽やかに追い越して過ぎ去ってゆく自転車に乗った学生の背を羨ましそうに見つめる。どんな感覚なのだろうかと想像すると、バイトに行きたくないという気持ちも吹き飛ぶ。それに何と言っても通勤時間が大幅に短縮されるのが助かる。
しかしそんな何百回と繰り返した空想よりも、シレリアの事が脳裏にちらついた。あの豊満な肉体が自転車を追いやる。
どうすればセックス出来るだろうか。正直なところ、あの調子が続くのであれば十年経っても至れない気がする。
仮にだがなんとか言いくるめて、一回ヤれたとしよう。精神的な不安や不快感を残したままでは、仕事に行ってる間に蒸発されるかもしれない。衣食住を盾に関係を持ったとしても相手は失うモノが何も無い。自暴自棄になって寝てる間に殺されるかも。
なんとか決戦に参加していたらしいし、仲間と冒険の旅に出ていたのだから腕っぷしはあちらの方が上だろう。
そもそも、相手が乗り気でないのにヤる気にはなれないので上記の方法を取るつもりは無いが。
つまりはシレリアを元気付ける事が最優先だ。
バイト中はずっとその事だけを考えていた。すると昼休憩時間に店長が声をかけてくる。人のよさそうな、どこにでもいる中年男性といった風貌。
「なんか変だぞ、今日。体調悪い?」
ちらりと彼の弁当箱に視線を落とす。
「なに? その、それ、パンの耳と野菜の切れ端」
「これはまあ、サンドイッチのあまりです」
「本体はどこいったんだよ。朝ちゃんと食べた? なんか悩み事ある?」
「ちょっと女性関係で」
ああ、それで上の空だったのかと店長は勝手に納得する。露骨にニコニコして隣の席に座った。
「へえ~いいねえ。青春、いやーいいよ。聞くよ。おじさん力になるよ~ひょっとして職場の人? わかった!
「違いますよ。どうやったら、夫が数年前から行方不明で子供と生き別れたばかりの人を元気付けられますかね」
「なにそれこわい、無理だろ……そんなん」
すっ、と店長は真顔になった。
「出来れば今日中に」
「だから無理だって。てか未亡人……ではないか、行方不明なら。え……でも人妻って、こわ、きみがこわい」
店長は静かに彼から離れていく。そっと休憩室を後にした。
「え~相談に乗ってくれるって言ったのに」
残された彼は一人で頭を悩ませた。どうすれば何もかもから断絶された彼女を前向きにさせる事が出来るだろうか。
「やっぱ無理か」
三分後にその結論に達すると彼は考えるのをやめた。そもそもそんな複雑すぎる境遇の女心を推し量ろうとするのが間違いだ。
仕事終わりに、彼は店のATMの前に立った。相手の事をどうしていいかわからないのなら、自分だったら喜ぶ事をしてあげればいいのだ。
迷うことなく、金を下ろした。
昨日よりも少し遅れて帰宅し、ドアを開ける。
「ただいまー、です」
初めて言ったような言葉がなんだか気恥ずかしかった。
「……あ、おかえりなさい」
ソファに座ったままのシレリアが薄い笑みで返してくる。すぐ下の悲しみが透けていた。
台所に置いていた皿とピッチャーの水は空になっていたので、飲食はしてくれたようだ。彼はどさりとスーパーの袋を置く。
「すみません、ちょっといろいろ買い物してたら遅くなっちゃって」
「いえ、そんな……」
徐々に言葉が小さくなっていく事も会話を続けるべきなのもシレリアは自覚していたが、自分でもどうにもならないのだ。
しかしそんな重い空気は聞いたことのない音で途切れる。
『チーン』と電子レンジが鳴った。
「あっつ」
彼が取り出して皿に盛りつけてローテーブルに置いた。
なんともいえない香りが漂ってくる。シレリアにとってまったく未知の、ただ一つだけわかるのは嗅いだだけで、いま自分が空腹だったと気づけた事だけ。
「これ、は?」
おずおずと尋ねると、今度はマグカップとグラスを持ってきた彼が答える。
「唐揚げです。シレリアさんのところには無い料理ですか?」
「え、ええ」
ゴクリと固唾を飲んだ。揚げ物という事はわかる。しかしこの黄金色に揚げられた衣はどれほど上質な油で揚げたのか、香りにしても高価なはずの香辛料を惜しげもなく使っているはずだ。
「冷めちゃうんで先に食べといてください」
「いえそんな」
「そーですか。じゃあ残りもすぐ用意しちゃうんで」
またもや聞いたことのない不思議な音が鳴ると、彼が台所から見た事のない料理を持って来る。この世界に魔法の類いは無いと説明されたが、シレリアには今起きている現象はまさしく魔法のように思えた。
天ぷら、エビチリ、ピザ、枝豆、その他テーブルの上に所せましと並べられた冷食や惣菜は、さながら大学生が考えた最強の飲みのアテのフルコースが一気に全部出てきた状態だった。
「シレリアさん、お酒飲めます?」
「え、ええ」
圧倒されて生返事しか出てこない。
しかしご馳走であるが故に、逆に躊躇いが生まれる。
果たして私がこんな贅沢をしていいのだろうか?
逡巡するが、どうしても踏ん切りがつかない。
とはいえ、これだけの料理を無下にする事は非礼どころの話ではない。
最上級のもてなしを喜ぶ振りをして受ける心苦しさのまま。誰が悪いわけでもなく。誰も幸せになれない選択肢を選ばざるを得なかった。
シレリアはこころが悲しみで溺れそうなまま、唐揚げなる物にフォークを突き立てた。
じゅわりと脂が溢れる。
その瞬間、狭い部屋に重い音が鳴った。
ぐうぅ~~ぅ。
彼の目が悪意無くその出所であるシレリアの腹に向かう。そのまま視線を上に向けると、信じられないくらい顔を赤くしていた。
「これは、その。違うんです」
「ああ、はい」
「普段はこんな」
「すみませんちょっとサンドイッチの量が足りなかったですかね」
「そ、そうじゃなくって!」
「まあー食べましょうよ、あったかいうちに。俺もお腹鳴りそうなんで」
そう言われると返す言葉がない。せっかくの厚意を台無しには出来ない。
シレリアはこころが恥ずかしさで溺れそうなまま、唐揚げなる物を口に運んだ。
「!?」
文字通り味わった事のない情報が口内から脳に浸透した。最初の口当たりは軽やかな衣で、肉は信じられない程柔らかく、重層的な旨味が舌の上に溢れ出る。
「お……」
いしい。が続かない。
「口に合わなかったですか?」
少し心配そうな彼にぶんぶんと顔を横に振る。
「ならよかった」
彼はほっとして、そう言えばビールを開けていなかったのを今さら思い出して注いであげた。
もぐもぐと唐揚げを食べるシレリアの持つグラスに黄金色の液体が満ちていく。まず彼女が驚いたのは、手から伝わる温度だった。
「こっちのエールは冷たいのね」
「そう言えばエールは常温で飲むらしいですね。これはビールって言って、違いは……よく知らないですけど似たようなもんだから飲めると思いますよ」
「へえ」
試しに一口やってみる。香りや風味は抑えめだが、すっきりとした味わいは味の濃い脂物を食べた後によく合う。
「……あとこれ、俺が好きなやつなんですけど食べてみてくださいよ」
彼は次々に勧めてみる。ローテーブルにあるものをソファに座ったシレリアが取ろうとすると、自然と前傾姿勢になり胸が大変な事になるのをもっと見たかったからだ。
シレリアにしても、未知の美食にフォークが止まらない。元の世界ではなかなか手に入らない新鮮な材料と科学の英知の一つである人工調味料、それに末端の消費者が知る事の無い試行錯誤の末の冷食は、王族の食事すら凌駕しているように思えた。
そして二人はほんのちょっぴりの幸運に恵まれていた。
もしもあの時シレリアの腹の虫が鳴らず悲哀を抱えたまま食事をしていれば、心境の変化は無かったのだから。
あれだけあった料理がキレイに平らげられ、ビールの空き缶がいくつか脇に置かれて一息付くころ、シレリアが真剣な口調で言った。
「ありがとうございます」
「え?」
「見ず知らずのわたしの為にこんなご馳走を用意してもらって」
あー、まあー。と彼は下心の他にもう一つある気持ちを口にした。
「喜んで食べてもらってよかったです」
結局、シレリアの特異すぎる境遇なんて理解しようもないし、勝手に想像して拭おうなんておこがましいような気がした彼は、だから考え方を変えた。
他人の事はわからないが自分の事ならよくわかる。だから自分が一番元気が出る方法を相手にしてあげるしかない。
「あとこれ」
と紙袋を手繰り寄せる。
「シレリアさんの着替えです。サイズとかのアレもあって適当に選んだんで気に入らないかもですけど」
「ええっ! そんな、そこまでしてもらう訳には……わたしはこの服で十分なので」
「いや不十分です、布面積が」
「そう、かしら?」
シレリアは不思議そうに自身の身体を見下ろす。と言っても下半身は胸で見えない。
ていうかそれで出歩いてオッケーな世界ってどんなだよ、一回行ってみてーよ。というツッコミを彼は飲み込む。代わりに別の言葉を口にした。
「それでそのー、話変わるんですけど」
少し言いにくそうにする彼に、シレリアは脚を並べて崩し、視線を合わせて続きを促す。
「気に障るようだったらすみません。シレリアさんが異世界転移した理由なんですけど、こう考えるのってどうですか?」
グビリとマグカップに残った酒の力を借りて続けた。
「シレリアさんは休暇を押し付けられたんです。詳しくは知らないですけどグラギアナム決戦っていう物騒で大変で、命のやり取りをする生活を頑張って送って来たから、なんかこうエライ存在が異世界転移って形でここに送ってきた」
「私は、別にそんなこと望んでません……」
「ええ、だから押し付けられた。それはもうどうしようもない。少なくともこの世界には魔法も天使もモンスターもいない。遺跡のような物は、そりゃこっちにも探せば狛犬とかシーサーとか似たようなのはあるかもだけど不思議な力は無い。つまりどうする事も出来ない訳で、だから──」
なんらかの癒し、許し、あるいは正当性を求めるように、シレリアがぽつりと零す。
「だから?」
「だから忘れるなんて事は出来ないでしょうけど、少しばかりの休みって事にしませんか? この世界は、話を聞くにたぶんシレリアさんのとこよりも平和で、息抜きというか、命のやり取りを忘れて身体を労わるのも大事だと思います。お子さんも、信頼できる人と一緒だったんですよね?」
言われて胸中を振り返る。あの遺跡探索では仲間たちが同行していた。結婚を機に冒険者を引退した後でも繋がりがあり、夫を探す旅に出る際、快く再び迎え入れてくれた。まだ小さい娘の面倒は見てくれるだろうし信頼はおける。
それに、夫の捜索はもう長い間……長い間……
疲れや諦めが全く無いと言えば嘘になる。
「それに今頃は元の世界で仲間の人たちがその小さな輪のような物の事を色々調べてくれるでしょうから、いつ何が切っ掛けで戻るかわかんないですし、休める時に休んどくっていうか、望まない休暇ってのはそうなんでしょうけど、その、勝手に言っといて俺なんかがどうこう」
「いいえ」
彼の言葉を遮って、シレリアは過去を振り返る。こうしてまったくの他人に親身になってもらったのはいつぶりだろうか。
そっと目じりを拭って言った。
「ありがとうございます」
その柔らかな微笑みは、この世界に来て初めての事だった。