【完結】ヒロイン全員子持ち人妻の小説が完成した! 作:hige2902
契約はつつがなく終わった。とは言い難い。
なんせ初の入居者だし、経験の無い彼からしてみればただの書面であれこれするのも一苦労だった。
しかし一段落付くと、契約者名の犬衣 日毬の名前を見るだけで、じーんと熱いものが込み上げてくる。不良債権のようだったアパートに、ようやく家賃という収入が発生したのだ。
インフラ手配のあれこれが終わり、住める環境になったので鍵を渡す。
「にしても、こんな辺鄙な場所のアパートよく見つけられましたね」
「この辺を散策してたらたまたま看板を見かけてね。あれ、きみが作ったの?」
「ええ。ちょっと微妙な出来かと思ってたんですけど、こうして人が来てくれたって事は案外上手く作れたんですね」
「それは……ふふっ」
犬衣はあまりのヘタクソさに目を引かれた入居者募集の看板を思い出して苦笑した。
「んーそうね、味があるって感じかな」
「なんでも試してみるもんですね。それとこちら、管理人のシレリアさんです」
犬衣は、実は内心でめちゃくちゃ気になっていてた彼の隣に立つ女性に改めて目をやる。どこかこわばった表情は張り切っているのか緊張しているのか、あるいはその両方かもしれない。
なにより、まあ~デカいバストに視線が泳ぐが、あまり気にしすぎるのは失礼なのでなんとか自制する。
「し、シレリアです。よろしくお願いいたします」
「犬衣です。よろしくね~」
パッと見て年が近そうなので、いい話相手になるかもしれない。犬衣は密やかな期待を覚えた。
その後は業者と共にガスのチェックに立ち合い、これで当面の住処が確保された。
ようやく人心地ついて、ソファに腰を預ける。日当たりの良い窓からは明るい陽ざしが差し、風に揺れる木々のざわめきが心地よい。
「けっこう長居しちゃうかもなー」
しばらく瞼を閉じていると、ふと気づく。そういえば大家である彼もこのアパートに住んでいるのだから、引っ越しの挨拶というか、俗に言うつまらないものですが、をやっておいた方がいいかもしれない。ついでに山に入ってみてもいいか聞いてみよう。
そう思い立って部屋を出ると、ちょうどシレリアが彼の部屋から出てくるのと同じタイミングだった。
あ、どーも。といった感じでぺこりとする。
(ん? いや考え過ぎ? 入居者が来たから打ち合わせしてただけ、よね……一緒に住んでる?)
その疑念は引っ越しの挨拶を終えて数日経ってから解明される。
ある夜、犬衣は月明かりの照らすベッドの上で、なんとなく彼の事を考えた。
あまりにも若い年齢の大家に驚きはしたが、素直そうだし部屋自体はちゃんとしている。なにより年齢であれこれと判断はしたくなかった。
それは彼女自身が、そういった目で見られていた経験から来るものでもあった。
失礼ながら、最初は彼がシレリアのヒモなのかと勘繰りもしたがどうもその様子は無く、どちらかと言えば彼女は内縁の妻のような立ち位置に見える。
彼が日中に働きに行っている間はアパート周辺の清掃や草抜き、山に入って山菜などを採っているようだ。
そして夜になれば、と犬衣はそっとドアを開いて外に出る。悪いと思いつつ。忍び足で大家である彼の部屋の前まで行って耳をそばだてた。
『おっ♡ これっ! おっおっおっほおぉ、これイク、おちんちん気持ちい♡ あっぁあっ気持ちッ良すぎっイクイクイクッっ!! おああぁぁあいくっ♡ いくぅぅっ! っくぅうん! んはあぁっっ♡♡♡』
薄っすらと喘ぎ声が聞こえてくる。こっちまで顔が赤くなりそうなほど激しく、長時間に及ぶ行為の証が。
リフォームの時に内装に金をかけたというのは事実らしく、アパートにしては珍しく防音もしっかりしている。それでも尚漏れ出る女のよがり狂う声。
ドアを閉めてベッドに寝転がる。
(ま、ここは一部屋空けたとこだし、聞こえないからいいけど……)
それにしても、と寝返りを打った。
シレリアとは何度か立ち話をしたが、おっとりとした人柄の彼女があれほど淫らに喘がされているとは。人は見かけによらないものだ。
嬌声に当てられてむらむらしたので自慰に耽る。慣れた手つきで秘部を刺激し、ほどよく濡れたところで指を入れる。
「んっ……はっ、あ」
ぬるい快楽に夫の事を思い出す。最後にセックスをシたのは確か……数年ぶりの再会の夜だった。
雑に性欲を消化して、溜息をつく。
「しっかしあの二人、どういう関係なんだろ」
いったんすっきりすると、やはり気になる。
一人旅を続けていたのもあり、会話を求めて年の近そうなシレリアとお喋りしたくなったのもあるが、歳の離れてそうな二人がどういう経緯で出会い、今の関係に至ったのかという興味もある。
とはいえ会って間もないのにプライベートな話をするわけにもいかないので、当たり障りのない立ち話から始まった。
ボロを出したくないシレリアからすればリスクだったが、やはり年齢的に近しい女性との会話はしたい。彼の事は頼りにしているが、女にしか言えないような話もある。
犬衣は接客業をしていたこともあり対人関係は得意で、シレリアにしても各国を旅するなら必須のイザコザや揉め事を避ける為の術は体得しており、なんとなくお互いが踏み込んでほしくなさそうな話題を感じ取れたし、仲良くなるのはあっという間だった。
犬衣が暇だったという理由で作ったケーキをおすそ分けするとそれはそれは大変喜ばれ、それからはたびたび作り過ぎた料理を持っていくようになる。
そうしてちょくちょく犬衣がシレリアを部屋に招くようになる頃、ふいに、どうしても吐き出したくなった。
いや、女同士だから出来る愚痴というもの。
「ごめん、まだちょっと早いけど飲んでいい? シレリアさんもどう?」
「いえ、わたしは……」
一瞬断ろうとしたが、なんとなく雰囲気を察する。
「そうね、もらおうかしら」
「んじゃ大家さんには悪いけど」
あまり重く捉えられたくなかったので、酒の力でふざけ半分に語る。
「うちはさあ、けっこう……なんて言うかなぁ、んー、うまくいってたというか、別にわたしは気にしてなかったんだけど」
くぴりと缶に口を付けて続けて言った。
「実は旦那が数年くらい帰ってこなくてさー」
「えっ!? 犬衣さんも!」
「んえッ! も、ってなに!?」
あるとは思わなかった共通点に、あやうく口の中の発泡酒を吹きかける。
シレリアとしては黙っていたかった事柄だが、つい反射的に口走ってしまった。
頬を掻き、誤魔化すように笑って言った。
「わたしはその……なんというか、いきなりいなくなっちゃったままで」
「えーっ! そうなの、それは大変ねぇ……んじゃまあうちは帰って来ただけマシかあ、一応は仕事だったし」
「でも犬衣さんの不安だったり寂しいって気持ちは、マシとかで片付けられるようなものじゃないわ。辛いわよね」
その慰めで、犬衣はほんの少し心が軽くなった気がした。やっぱり勇気を出して吐き出してよかった。
「そー言ってもらえると助かるわー。まあー、夫に関しては仕事だからしょうがないってわかってるし、帰ってきてしばらくは家族三人で暮らしていけるし、いっかーって思ってたんだけど」
「どういったお仕事だったの?」
「んーうちは小料理をやってて、まあ料理人かな」
過去を思い返しながら、犬衣が語った。
ある日突然、夫の一徹は料理人としての修行の為、旅に出た。
もともと料理一筋の一徹の性格を知る犬衣からすれば、それを止める事もなく笑って送り出し、子育てと店の切り盛りをこなしていく事となる。
店としては一代目で、当時まだ若かった犬衣は軽んじられることが多かったが、持ち前の明るさでそういった不快な視線を跳ねのけてきた。
一人息子は夫の才能を継いだのか、店の手伝いを嫌がらないばかりか自分から厨房に立ち、ネットやゲームより料理に熱中しだし手はまったくかからなかった。
不満のようなものはあまり感じなかった。
よく犬衣から連絡を取り合っていたし、夫の料理に対する熱意は婚約前から知っていた事だ。
そして一徹は、旅に出たのと同じくらい突然に帰ってきた。もちろん犬衣は喜んだし、何の問題も無かった。息子は共通の趣味である料理を通して、数年間会っていなかった父親とは大した軋轢も無くすぐに仲良くなっていった。
あっという間に意気投合し朝から晩まで世界各国の旅で得た土産話や調理法、その再現や応用した創作に明け暮れる。
そこに犬衣が入る余地は無かった。もちろん彼女じしん料理は好きだが二人ほどの熱量は無い。
そもそも、その二人は類を見ない程の生粋の料理人であるので、生半可な好き程度では付いて行けないのだ。
定休日には二人して店の台所にこもり、ご飯が出来たと呼んでもすぐにはやって来ない。食卓で湯気を立てるハンバーグが虚しい。そして団らんと言えば高度な調理の話ばかり。
ようやく家族全員で暮らせる日々が続くと思っていた。犬衣はそう思っていたが、長年思い描いていた理想とは少し違った。
もちろん、犬衣も家族として大切にされているのを感じてはいた。ただ、それが夫と息子の間にある料理人という核より外側にあるのでは、という疑念を払拭する何かが欲しい。確かめたい。
だから一人旅を切り出したのだ。
試験紙に夫の情感の一滴を落とすように。
「そうだな」
一徹が神妙な顔で頷く。
「息子の世話も、店の事も全部日毬ちゃん一人でやってきたもんな。そりゃあ羽を伸ばしたいよな。気付けなくてスマン!」
ぱん、と両手を合わせて謝罪された。
それは間違いなく善意で、優しい夫の思いやりだった。
息子にも伝えるが、まだ子供ながらによくできたもので、母に対して慰労の念を覚えているらしく父親に賛同した。
「……そう」
ほんの少しだけ冷ややかになるのを覚えて、適当な旅支度で自宅を発った。
(いじわるな言い方だったかな)
ぼんやりと電車の車窓に反射する自分に問いかける。
夫からすれば、あそこで引き留めるというのも気が引けるだろう。けど、でも、これはわがままだろうか?
ダメになった包丁を延々と研ぎ続けるような思考に、犬衣は少し疲れた。
答えなど。
切り替えようとして適当な駅で降りてみる。いつもとは違う少しさびれた構内にきょろきょろと視線を彷徨わせた。もともとあてもなく乗った電車なのでここがどこなのかもわからない。
そういえばそろそろお昼の時間だったので小さな売店へ足を運ぶと、様々な駅弁が並んでいる。オーソドックスなものから陶器に入ったものや奇をてらったものまで。
全体的に茶色い印象を受けるが、どれも美味しそうだ。
(そういえばテレビで駅弁の特集をやってるのを見た事あるけど、やっぱり昔とはずいぶん違うのねえ)
一人で子育てをしながら店を回しているのでなかなか遠出しづらく、あまり縁が無かった食べ物だけにどれも物珍しい。
悩んだ末に、形が面白かったので三角形の駅弁を手に取り会計を──というところで、冷蔵ショーケースの中でキラリと照明に輝く銀色の缶に目が留まった。ごくりと固唾を飲む。
(いや、まだお昼だし……さすがにそれは……)
躊躇を覚えるが、せっかく美味しそうな駅弁なのだから合わせて飲みたい気持ちもある。
(ま、こういう時くらい、いつもの発泡酒じゃなくて奮発したっていいわよね)
真っ昼間からアルコールを飲むという背徳を犯す事へ、僅かな興奮を覚えて冷えたビールを手に取った。
しかしそうなってくると話が変わってくる。
お菓子コーナーのジャガリコが、ただならぬ誘惑を放ちだす。それに、貝ひもも!
ここまで来たのなら行ってしまえと小さなカゴを手に取って商品を入れる。だが何という事だ、これらに対して350mlのビール一本ではいささか頼りない。
(でも二本は飲みすぎだし……)
そう思って飲料コーナーに目をやる。が、よくよく見るとそれらはまたもやアルコール類だった。
(へえ~ジュースかと思ったけどこれもビールなんだ。変わったデザイン。IPA……なんかテレビで聞いた事あるけど)
近所のスーパーでは取り扱いが少ないクラフトビールのカラフルで遊び心のあるラベルに目を引かれる。どんな味なのだろう、という好奇心も。
決断しなければ。時間が無い事はわかっている。
なぜなら迷えば迷うほどに、最初に手に取ったビールはぬるくなってしまうのだから。
気付けば犬衣は至福に重たいビニール袋を提げて、また適当な電車に乗っていた。
あまり経験の無い駅弁に舌鼓を打ち、ビールの缶を開ける音が少し気恥ずかしかったが一口やるとなんとも言えない充足感を覚えた。
ふと窓の外を見やれば、そこそこに人が住んでいる感じの住宅街が流れて、奥には青々とした山の連なり。
ほろ酔いの中でジャガリコを齧って、クラフトビールの個性的な味わいに新鮮味を感じる。貝ひもが沁みた。
がたんごとんと規則的に揺れる車内に、次の停車駅を知らせるアナウンスが響く。
(いい、わよね? 別に。うん。おっけおっけ。旅行したかったのはホントなわけだし)
もともと竹を割ったような性格の彼女は、そう結論付ける事にした。クヨクヨと悩みながら旅をするより、どうせなら楽しんだ方が得なのだ。
見知らぬ土地に見知らぬ食べ物、見知らぬ名所。
いったん気持ちを切り替えるとなんだか楽しくなってきた。
犬衣が切り盛りしていた店は小さいなりにも繁盛しており(多少は彼女目当ての客もいたが)、贅沢をしなければかなり長いあいだ放浪できる程度の蓄えはあった。もちろん旅費については夫の了承を得ている。
(そのうち家事やら店の事で泣きついてくるだろーし、そうなったら戻ればいいか)
こうして一人旅は始まった。
気ままに行き先を決め、安いビジネスホテルや民宿に泊まり、場所が気に入れば短期で働いてしばらく暮らす。
後学の為に各地の名産を見て回りもした。その土地にちなんだ食文化も多く見られ、それだけでちょっとした観光気分な気もする。
そんな生活で全国を回っている最中に、ふと看板が目に入った。
『入居者募集』
それは店をやっていたから気になるというもあった。なんせ適当過ぎる塗り方で、とにかく出来るだけ頑張りました、という印象しかない。
味があると言えばあるが、看板とは店の顔だ。これではその役割を果たせているとは言い難い。
(ま、面白そうだし、いっか。安いし)
どうも仲介業者を挟んでいないようなので、入居期間については融通が利くかもしれない。通常は年単位の賃貸契約が前提なので、犬衣のような転々とする客はあまり歓迎されない。
ふと通話履歴の画面で指が止まる。夫との通話回数は、多いとは言えなかった。
「って感じかでさあーうちは……んっとに、ぜーんぜん帰ってきて欲しいとか、寂しいとか言ってこないんだもん」
アルコールの混じった溜息で、飲み干した発泡酒の缶をテーブルにカツンと置く。
「旦那さんも気を使ってるんじゃないかしら」
「ある程度はね、思いやりみたいなのは欲しいけど、妻に対してあーんま気を使いすぎるのもどーかって感じじゃない? 家族なんだし……シレリアさんだったらどう?」
「それは……」
眉間にしわを寄せ目を閉じて思い描いてみる。冒険者としての人生を諦めきれなかった夫を見つけたが、じぶんは蚊帳の外で娘と戦い方や見つけた魔法、奇妙な魔物の生態に傾倒していくとしたら……
「……嫌、かも。ええ、嫌」
「んねっ。ま、わたしのわがままが入ってるってのは自覚してるけどさっ」
自嘲気味に笑う犬衣を、どうしたら元気付けられるだろうか。あまり他人事とは思えない境遇にシレリアは考えを巡らし、自分が彼にしてもらった事を思い出す。
「少し、距離を置いてみるのはどうかしら? その、仕事としての料理から」
「あー全然やってないわよ、自宅で食べる分は別だけど、飲食関係の仕事は避けてるし」
「けどやっぱり旅先で目を向けてしまうんでしょう? お仕事で関わっていた事だからなかなか切り離せないかもしれないけど、休暇と割り切ってみたら?」
「ん~……」
「少なくとも私は、そう提案されて、受け入れてみたら案外救われたというか……ごめんなさい、踏み込みすぎかしら」
「いや全然」
申し訳なさそうにするシレリアに、犬衣は慌てて言った。
「確かに自分の為の旅行なのに、結局は料理の事を考えてる生活だったな~って思い返してただけ。休暇、か。それ、提案してくれたのは大家さん?」
「え、ええ」
「ふう~ん」
にまにまと笑みを浮かべる犬衣に、シレリアは少し頬を赤らめて目を泳がせた。一緒に住んでいる事はすでにバレているが、やはり年下の男とひとつ屋根の下というのは自分の年齢を考えると気恥ずかしかった。
xxxxx
(なんで惚れたんだっけ)
そろそろ彼が帰宅するそうなのでシレリアが帰り、犬衣は部屋で一人、ぼんやりとコーヒーを飲みながら窓辺に座って夜空を見上げ、昔を思い出していた。
(料理に夢中になってるのがカッコ良かった)
何かを本気で好きになるというのは一種の才能だ。ましてやその道を究めんとするなら尚の事。犬衣にはそれが眩しく見えた。じぶんは持っていないから。
だから一徹が唐突に料理の修行に行ってくると言っても笑顔で送り出した。それは今でも変わらない。けど、夫から見たわたしはどうなのだろう?
それがわからなかった故の一人旅だったが、満足のいく回答はまだ得られていない。
(拗ねてるだけ、息子と夫の輪の中に入れないから。周りからはそう思われてるんだろうなー)
否定はしないが、それだけで片付けられるこころでは無い。
コップをくぴりと一口やって、ぼんやりと欠けた月を眺める
結局、シレリアの指摘どおり一人旅の間でも外食した際に厨房や出てきた料理、特産品、地酒を見て回る事が多かった。それはたぶん、戻った時に店の役に立つだろうという考えに他ならない。
(ちょっとお店に捕らわれ過ぎなのかも。嫌いになったわけじゃないけど……)
けど、やはり助言どおりに、しばらく離れてみるのもいいかもしれない。そうする事でまた違った知見を得られるかも。
少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
その後、久しぶりに一徹からの電話があった。
『そっちはどうだ、今どのあたりにいる? 一人旅、楽しんでるか?』
「ええ、いろんな所に行ったけど、少し県を跨いだだけでお米の味が違ったり、お魚が……」
気付けばまた、無意識に料理の話題を切り出してしまった事に気付き気落ちする。ここにいる間は忘れようと試み始めたばかりなのに。
『そりゃよかった、おもしろいよなー。食べ物にも人間と同じく地域性があるんだからさ。寒い地方なんかは──』
「それより、そっちはどう? ご飯とかちゃんと食べてる?」
『ん? ああ、問題無いよ。旅してた時は研究目的で偏った食事ばっか作ってたけど、育ち盛りの子供にそれはマズいからちゃんと栄養バランスも考えてるよ。おかげで俺なんか、修行してた時よりも健康なんじゃないかってくらい』
はっはっはっ、とおおらかな笑い声に、犬衣は一瞬だけ硬く口を結んだ。
「……そう。なら、良かった」
『で、さっきの話の続きなんだが、食の多様性は本当に凄くてな、俺が初めて外国に行った時なんかはもうビックリで──』
言いさして、一拍置いて名案を思い付いたように続ける。
『そうだ! ちょうどいい機会だし、興味が出てきたなら日毬ちゃんも海外の料理を見に行ってみたらどうだ? いい経験になるぞーアレは』
いい機会、とはこの一人旅の延長線でという事だろう。もともと期限は決めてなかったが、海外まで足を伸ばすとなればより留守の間は空く。
犬衣のこころが、落下するように熱を失う。
ひょっとすると夫は、自分が数年間も家に帰らなかったのと同じだけ、私が不在であっても構わないのだろうか? 料理という要素が絡むならそれは仕方がないか、自他共にプラスになるならその方がいいと思っているのだろうか?
自分の好きな事に、相手も興味を持ってもらえるのは確かに嬉しいものである。
犬衣の料理人としての知識や関心がより深い物になるのならば、一徹にとってそれは間違いなく喜ばしい事だった。
「……いま泊ってるとこね、ひとけの無い静かな山のところにある小さなアパートで、若い男性の大家さんしか住んでないの」
『ははは、それはちょっと寂しいな、女性一人ってのは……そういえばこっちは女性客を増やそうと思って色々やってみたんだが、これがうまくいってな』
いくつかの写真が送られてきた。通話を維持したまま見てみる。
ヘルシーなイメージの和食にこってり風味な味付けランチで、少なかった女性層の開拓に成功しているようだ。
いわゆる罪悪感なくパンチの効いたものを食べられる系。
雨上がりに生えてきたコンサルが掲げるような手垢の付いたコンセプトだが、一徹の卓越した才能と緻密な技術、そして各国で磨かれた知見が織りなすことで、その料理は新たな高みへと昇華される。
華やかな見た目、味と値段が気に入られ、仕事終わりにストレス発散としても多く来店するようになったらしい。
息子も小さなお手伝いさんとして、名物半分に可愛がられているそうだ。
『店も繁盛してるから、こっちの事は心配せず楽しんできてな』
良くも悪くも、一徹は仕事に真剣で、妻に対して優しく、また信頼していた。だから一人旅も笑顔で送り出したのだ。
犬衣はそれを理解していながらも、自分ですら知りたくない煮詰まった気持ちが腹底から込み上げてくるのを感じた。
口を開けばそれが漏れ出てしまいそうで、意識を逸らすようにスマホをスクロールする。
送られてきた写真には、若い女性客と記念撮影する夫の姿もあった。
持ち前の前向きさとおおらかさで、苦も無く単身で外国を転々とする夫のコミュニケーション能力は秀でたものがある。意識せずとも相手の懐に入るのが上手く、気のいい店長として客から親しまれている証拠だろう。
悪気が無いのはわかっている。すべてが善意だという事も。
ふっ、と犬衣は小さく笑った。そういう人だ。料理の事になると夢中になる。そういう所を好きになったのだった、と。
「そっか。よかった、そっちは何も問題なくって」
通話を切り、少し湿った目じりを拭う。
いちど諦観を覚えると、なぜだかすっきりした。