家庭教師のさよ子先生 誘惑のノースリーブ 作:馬門戒明/輪島ライ
2月上旬の寒風が吹き抜ける朝、私は同志社大学商学部の全学部日程の試験に臨むチアキくんを京都府内に設けられた試験場まで見送りに行っていました。
「それじゃ全力を尽くしてきます。共通テスト利用のチャンスもありますけど、せっかくなら一般入試で合格を勝ち取りたいので」
「うん、今のチアキくんなら絶対に大丈夫だよ。受験票とか筆記用具とかちゃんと用意してきたよね?」
去年の5月の時点ではそもそも大学受験ができるのか怪しかったチアキくんは私の指導を受ける中で驚くべき急成長を遂げて、今では進学校で3年間必死に勉強をしてきた生徒にも引けを取らないほど凛々しい受験生に成長していました。
今のチアキくんならきっと今日の入試で正規合格を勝ち取ってくれるはずと考えて、私は自分より頭一つ背が高い高身長のチアキくんを上目遣いに見つめました。
そして……
「チアキくん、私から最後に言いたいことがあるからちょっと耳を近づけてくれないかな?」
「さよ子先生からメッセージですか? 何だろう……ってええ!?」
私は右の耳を近づけてきたチアキくんの頬に優しくキスをして、驚くチアキくんにいたずらな笑顔を向けました。
「これが私からの最後の応援です。……合格できたら、続きをしようね」
「先生……。分かりました、今日一日にすべてを賭けて頑張ってきます」
チアキくんはそう言うと決意を込めた表情で試験会場に入っていき、今日はこれから中学校がちょうど休校日の万二郎くんの授業に向かう私は会場の最寄駅まで歩いて戻ることにしました。
2月の寒い空気の中で手袋をこすり合わせながら歩き始めようとしたその時、バッグに入れていたスマホが鳴り響きました。
私は大学を休学中の身であり両親も平日で仕事中のはずなのでこんな時間にかけてくるのは生徒の保護者だろうと思って画面を見ると、そこには堺市に住んでいる母方の伯母さんの名前が表示されていました。
「もしもし、小夜子です」
「あらさよちゃん、出てくれてよかった! 実はおじいちゃんの体調が急に悪くなって、もうそろそろ危ないから親戚中に声をかけてるの。もし今日予定がなかったら申し訳ないけどおじいちゃんの家まで来てくれないかしら?」
「そうなんですか……。分かりました、バイトありますけどそういう事情なら休めないか聞いてみます。また連絡します」
肝臓に転移した大腸癌のため半年前に余命宣告を受けていた私の母方のおじいちゃんは在宅での緩和ケアに移ってからは長女であるところの伯母さんに介護を受けていましたが、おじいちゃんはいよいよ危篤に瀕しているとのことでした。
私はおじいちゃんとは幼い頃から交流が深く、すぐに万二郎くんのお母さんに電話をして事情を伝えるとしばらく授業はいいのでどうかおじい様のお見舞いに行ってあげてくださいと温かい言葉をかけて貰えました。
同志社大学の試験会場からそのまま電車を乗り継ぎ、私は京都府内から大阪府堺市への約1時間半の移動を考え事をしながら過ごしました。
おじいちゃんは元々大阪市内の公立高校の先生で、一介の英語教師から最終的には校長にまで上り詰めた人でした。
英語と教育を愛するおじいちゃんは教員を定年退職してからは地元の子供たちを対象にした英語塾を経営し、幼い頃の私は母の実家を訪れる度に英語塾の生徒に紛れておじいちゃんから英語を教わっていました。
私が家庭教師になるための学歴を得ることだけを目当てに京都大学の医学部医学科を目指すと言った時、何とバカなことを考えるのかと私を非難した両親に対しておじいちゃんだけは小夜子が自分の学力をどう活かそうがそれは小夜子の自由だと私を肯定してくれました。
おじいちゃんは小夜子の英語だけは自分が面倒を見たいと言って高校生の私に平日は毎晩1時間もの講義を電話で行ってくれて、そのおかげで私は大学受験で英語で苦労することは全くありませんでした。
そんなおじいちゃんは私が大学生になってすぐに体調を崩し、病院での検査で進行大腸癌と診断されてから1年以上も闘病を続けてきたのです。
京都大学での最初の1年間で医学生生活に見切りをつけた私は2回生になってすぐに休学し、その後は家庭教師の個人アルバイトを続ける傍らおじいちゃんのお見舞いにもたまに行っていましたがおじいちゃんはその度に家庭教師になるための訓練は順調かと聞いてくれました。
落ちこぼれ高校生だったチアキくんを見事同志社大学に合格させられたらその成果を報告しに行きたいとずっと考えていましたが、おじいちゃんの生命はもはやそれまで持たないのかも知れません。
頭の中でこれまでの自分の人生についてぐるぐると考えていると電車は堺市内に到着し、私はおじいちゃんの自宅への道を急ぎました。
「さよちゃん! よかった、間に合ったのね。今ならおじいちゃんとお話できるから、どうか……」
「小夜子、来てくれたんだね。ここまで長かったろう、そこに美味しいおせんべいがあるから食べていきなさい」
「おじいちゃん! どうしたの、目を開けてよ……」
寝室の布団に横たわっているおじいちゃんの枕元には伯母さんとその旦那さんと小学生の従弟、そして在宅医療の主治医の先生と看護師さんが集まっていました。
おじいちゃんは笑顔を浮かべて私におせんべいを食べるよう勧めますがもはや目を開けるのも苦しい様子で、私はここ数か月間多忙を理由にお見舞いに行けていなかった自分を強く恥じました。
それに、お見舞いに行かなかったのは多忙だけが理由ではなかったことも。
「おじいちゃん、私家庭教師として頑張ってるんだよ。今日だって同志社大学を受けに行く男の子を見送ってきたの。おじいちゃんみたいに沢山の教え子を育てて、教育という形で社会に貢献したいって……」
「うん、うん。小夜子は私の思いを受け継いで立派な家庭教師さんになるだろう。学校の先生だって塾講師だって家庭教師だって、この世界に一人でも立派な人たちを増やしていこうとする試みに変わりはないんだ。だけどね……」
もはや呼吸をするのも苦しいはずなのに、おじいちゃんは病床で必死で言葉をつなぎます。
「私は、小夜子が立派なお医者さんとして患者さんを救う姿を見てみたかったな。小夜子も医学部に入ったらそんな気持ちになるかも知れないと思っていたけど、これは私のエゴに過ぎなかったね。……小夜子、君が将来どんな大人になったって、私は小夜子の未来を応援するよ。だから……」
「おじいちゃん、死なないでっ! 私、私……」
「お孫さん、手を触れてはいけません! どうか静かに見守ってあげてください」
最後の言葉を言い終えると同時に口から大量の血を吐いたおじいちゃんに私は駆け寄りましたが、主治医の先生は右手をかざして私を制止しました。
それから数分もしないうちにおじいちゃんは息を引き取り、私は人生で初めて一人の人間が死を宣告される姿を目にしました。
寝室の床にくずおれて泣き続ける私に、伯母さんは優しく寄り添って静かに背中をさすってくれました。
そしてお葬式が執り行われ、おじいちゃんの亡骸が
おじいちゃんの死をきっかけとして、私の人生はターニングポイントを迎えたのです。
それは、あきとくんとの関係も、万二郎くんとの関係も、チアキくんとの関係も同じことでした。