女だらけの教会において、高い処が大好きな俺はとても重宝された。礼拝堂の吹き抜けには、明り取りのステンド硝子の天窓もある。煤払いや拭き掃除も大変だ。脚立を使っての作業は体重の軽い小学生が適任なのだが、流石にこれは危険だろう。幸いにして梁は丈夫だった。俺は猿猴のように伝っては頑固な汚れを落としていく。『洗浄』スキルまであるのだ。洗剤でふき取ってから使用すると、隅々まで綺麗になった。
「お兄ちゃん、パス」
新しい交換の雑巾を投げてくれるのは、運動神経のいい涼風と日果留の役目だった。他の子たちも掃いたり、椅子を拭いたりしているが、どうやらこちらが気になるようだ。童女達から憧れの眼差しで見上げられるのは気分がいい。教祖様も同じように天井を伝って掃除をして、孤児たちの尊敬を集めたという。俺と同じタイプの探索者だったかもしれない。
この後は皆で聖歌の練習をする。今日はシスターも参加しての女性三部唱だ。愛らしいソプラノと快活なメゾソプラノ、精一杯大人びたアルトと、微笑ましくも、心を打つものがある。遍く広がるダンジョンの女神さまの慈愛を、みんなで滔々と歌い上げた。
背中に手を添えたり、腰に回したりしてあげたら、全員声がよく通って、感情が籠るようになった。もっとも姿勢を良くして発声を促したばかりではない。密着すると親密度が増す。息もぴったり合ってきて、みんなの心が重なるのだ。要は楽しく歌えば、聴衆だって気持ちよくなる。
「想夜君に参加してもらってよかったわ。みんな蔭で競って練習しているのよ。上手になってお兄ちゃんをびっくりさせるって。でもこれ内緒だよ」
シスターの顔が輝く。俺は見惚れた。女神さまの微笑がそこにあった。
「みんなどこに出しても恥ずかしくない位に歌えると思う。それにミシアに喜んでもらえると僕も嬉しい。もっと、もっと、頑張れるよ」
幼いうちに親の庇護を失うのは、子供とって最大の不幸と思う。彼女達は一番多感な時期に親を亡くしている。理不尽への怒り、悲しみ、虚無、そして世間から向けられる偏見と他者への妬み、負の感情に負ける事なく、懸命に生きている。でもあまりにも脆い。切っ掛けがあれば、涼風のように極端な行動をとってしまう。みんな不安で一杯だから、俺に縋ってくる。彼女達の辛い心が、俺の心を締め付ける。
苦しい胸の内を告白した。ミシアなら俺を救ってくれると思ったからだ。俺は偽善者なのか。
「あの子たちを救済したいと切に願う。こんな思いを抱く僕は不遜なのだろうか」
「望みのままになさいなさい。あなたの意思がダンジョンの御心。妹達もきっとあなたを待っています。喜んで受け入れるでしょう」
厳かな言葉は俺に啓示を与えるようであった。そして華奢な躰で抱きしめてくれた。清楚な香りに乙女の匂いが僅かに混じる。
「わたしの大事な弟君。大好きよ」
照子司祭と二人切りになったタイミングで、一通の招待状を取り出した。差出人は岩魂寺コーポレーション、菫先輩の父親の経営する会社からの、チャリティコンサートへの招待と聖歌隊の出演依頼だった。
「経営者の御息女が高校の先輩で目をかけてもらっています。その縁で預かりました。ダンジョン協会も後援するようなので、僕も別の形で協力するかも知れません」
「教祖様と志を同じくする方々がおられる事は存じております。良い機会です、女神さまの娘達のお披露目といきましょう」
前向きに検討してくれるようだ。そして口振りから、コーポレーションの事も厚意的に捉えているようだった。教義からも、司祭の性格からしても、子供達を見世物にして寄付を得ようとは絶対にしない。
そして二人だけの時間をもったのは、他にも理由があった。
俺は掃除で梁に掴まって、天窓のステンド硝子を磨いていた。教祖様自らが下絵を描いた女神像が嵌め込まれている。その玉体に思いを馳せて拭いていたが、女神さまの指さす先に僅かに魔力反応があった。目を凝らして確認すれば、ダンジョンのトラップに似ている。これ探索者の魔力を感知して開閉するミミックを模している。そしてその箇所だけ、天上板が異なっていた。
『透視』で確認すれば、果たして向こう側には小部屋があった。だけど継ぎ目は埃だらけで開閉された形跡はない。真下で掃除している涼風達に尋ねようとしたが思い留まる。周知ならば、事前に話があるはずだ。この子達は何も知らないのだろう。うっかり教えるとまた危ない事をするかもしれない。それに宗教的に神聖な場所であったり、何らかの理由で封印されていたりと、迂闊に開ける事も憚られた。
「天井裏にお部屋があるなんて伝わっておりませんの。わたしも初耳ですわ…… そんな、まさか、心当たりがあります」
照子司祭が聖母から無邪気な子供の顔になった。こんなに表情が豊かな人だったのか。
「聞いてください、教祖様は、いえ、お婆様は、壁登りや天井を這うのが大好きで、その力でダンジョンでも活躍されたと聞いています。あなたも体験したでしょう。ここの教会も、ご自身で這い登って、壁や天井を掃除や修繕できるよう設計されています」
なんと教祖様は照子司祭の祖母だった。俺と同じ斥侯タイプだったのだろう。『登攀』のスキルは確実に持っていたと思われる。『登攀』スキルは俺の最も欲しいスキルの一つだった。これがあれば、壁を走り抜けて、トラップを躱せる。奇襲にも遁走にも有効だ。異空間では木登りして遠方を偵察できる。私生活では女子の部屋に無断で侵入できる万能スキルだ。高い所から飛び降りられる『風衣』と組み合わせれば、相乗効果も見込める。
照子司祭は懐かしむ様に語り出した。
「小さい頃のお話です。孤児たちの前で私を可愛がるのが憚られたのでしょう、偶に抱きしめられて私室に連れて行ってくれました。ふわっとした感じがしたのは覚えています。ここだけはお婆様を独占できる、私だけにダンジョンのお話をしてもらえる、嬉しい私も目一杯甘えていました。お恥ずかしい稚気です。ですがこの時ほど幸福だった事はないのです。その後、両親の転勤でこの地を離れました。祖母の死後教会を引き継ぎましたが、思い出の部屋はもうありませんでした。お願いです、想夜さん、調べてください」
俺は一も二もなく引き受けた。腕をかざすと、件の場所に魔力を当てる。ギシギシと油の切れた音がして、天井が開いていく。そして10秒もしないうちに閉じ始めた。俺は3mを『風衣』で跳び上がって、そのまま中に飛び込んだ。風圧で埃が舞って視界が悪い。天窓を開けて換気を図ってクリアにする。
室内は保存のためか、家具を始め床や壁もシートで覆われていた。電気や水道も引かれているが、ブレーカーも落ち、元栓も閉められている。恐らくは死期を悟った教祖様が自ら封印したのだと思う。シートの下を覗いてたが、ソファーやベッドはさほど痛んでいない。ダンジョン産の耐久性ある素材が使われている。棚には書籍や資料の他にダンジョンアイテムが陳列されていた。開閉装置だけは魔石燃料由来だろう、魔力を当てて床を開く。照子司祭が心配そうに見上げていた。
屋根部屋から俺が持ち出したのは一点だけ、セピア色の古い写真が収められているフォトフレームだった。白髪の老婦人に就学前の女子が抱かれている。教祖様と可愛らしい司祭様だ。
「お婆様、お会いしたかったです」
照子司祭は膝をついて、さめざめと泣いた。この人が感情を露にするのを初めてみた。彼女は孤児たちのためにいつも穏やかだったので新鮮だった。何か出来る事はないのか。
「僕が支える。だから今は想い出に泣いて」
膝立ちした彼女の顔は、俺と同じ位置に来る。普通の女の子の高さと変わらない。俺は一切の中途なく、照子司祭を抱きしめた。邪な気持ちなどない。嘆く母親を励まそうと、息子が行う抱擁だ。司祭の身体が一瞬だけ硬直する。そして俺の肩で号泣した。思いやる俺の気持ちが伝わった。悲しい時や、苦しい時に親子の間で遠慮はしない。
俺はいつ迄も彼女の頭を撫でる。嗚咽が収まり、穏やかな吐息となるまで。親父を亡くした時、取り乱した義母をこうしてあげると落ち着いた。母だって時には息子に甘えたい。
水道と電気を復活させると、大掃除に取り掛かった。屋根裏の煤払いを済ませてから、シートを丁寧に畳んでいく。幸いにして俺には『風衣』と『洗浄』がある。窓を全開にして埃を追い出す。長年の染みついた汚れを拭き取って、スキルを使って浄化した。こうやって次の日には綺麗になった。屋根裏部屋の事はまだみんなには内緒だ。童女達は一緒に遊びたがったが、天井裏の掃除をしていると言って誤魔化した。嘘は言っていない。
「想夜さん、ありがとうね。教祖様、いいえお婆様もきっと喜んでおられるわ。お婆様に抱かれて甘えた、懐かしい日々が蘇ります」
天井を見上げながら、照子司祭は感慨深げだった。懐かしき日々を想い出しているのであろう。そしてもどかしげでもあった。教祖様の屋根部屋は、特定のスキルを持つ探索者しか中に入れない。梯子を掛けても、登り切る前に入り口は締まってしまう。この部屋に入るには3mの垂直跳びか、天井をヤモリのように這うしかない。
想い出の部屋を目前にしながら立ち入る事が出来ない。こんな事で彼女を悲しませる俺ではない。サプライズを計画していた。きゃっと、可愛らしい悲鳴が上がる。照子司祭を姫抱きにしたのだ。
「まさか?」
俺は黙って頷いた。小柄な俺と大女の司祭では、子供と大人程の体格差がある。誰もが危なっかしく思うだろう。だけど俺の体幹は微動だにしない。彼女にも負担は一切かけていない。保護者に抱かれる幼子のように、司祭は黙って身を委ねた。魔力を当てて扉を開けば、軽々『風衣』で跳び上がる。二十年来の時を経て、忘れられた祖母の部屋へと照子司祭は立ち入った。
「このふわっとした感じ、思い出しました。幼い私はお婆様に抱かれて跳んでいたのですね」
教祖様は『風衣』も持っていた。親近感がわいてきた。家具も寝具も古びているが、取り変える必要はなかった。手を入れたのは、絡繰り扉に油を差し、魔石燃料を交換しただけだ。
「お婆様は驚く程、歌がお上手でしたのよ。子守歌を聴いただけで、直ぐに寝むくなるのです」
教祖様は『歌唱』のスキルを持っていたのだろう。それ故の聖歌隊か。照子司祭は童心に還って、古びたベッドに伸び伸びと横たわる。大女の彼女にあつらえたようにキングサイズのベッドであった。俺をソファーへ誘導する。
「ここでダンジョンのお話をしてくださいました。あそこの錆びたナイフは初めてダンジョンに潜った時の戦利品だそうです。ゴブリンに震えあがったそうです。そちらの卵の殻はダンジョンアイテム、皆で食べた料理の記念。冒険のお話が大好きな私は、しがみついてねだりました。誰よりも強くて優しかったお婆様、この部屋では素顔を見せて、私だけを可愛がってくださる。いつもよじ登って甘えていました」
客観的に見て、保管されているダンジョンアイテムに値の張るものはない。だけどダンジョンで泣いて笑って、死にかけた記念、すべて教祖様のかけがえのない宝物だった。
いつしか俺に躰を預けてきた。想い出に浸っているのだろう、天へ召される宗教画のヒロインの貌をしている。俺は手を回して、力強く照子司祭を引き寄せた。
「いやだ、私何をやっていたのかしら」
巨躯だけあって、照子司祭の力は強い。成人男性を凌ぐほどだ。慌てて振りほどこうとする。だけど俺には幼子のじゃれつきにすぎない。彼女は改めて探索者の力を思い知る。それは大好きだった祖母の記憶へと繋がる。
「ここは教祖様が素に帰った秘密の部屋です。私心を捨てて、みなしご達に尽くした教祖様も、ここでだけは孫が大好きなお婆ちゃんでした。きっと心の安寧を得ていたのでしょう。司祭様も同じです。誰より子供達を思っている照子司祭も、休息の時間が必要ですよ。今みたいに感情を剥き出しにした、人間味あふれるあなたも大好きですよ」
澄み切って、それでいて温かい声の響きが司祭様の頬を撫でる。食い入るように俺を見詰める。期待して次の言葉を待っていた。
「僕はダンジョンから力を授かりました。誰よりも尊敬する司祭様、何より強いこの力、あなたのために使いたい。だから頼って。疲れた心の止まり木にして。僕だけがあなたの事を支えられる」
一片の曇りなき言葉が照子司祭の心を穿つ。再び彼女の目尻が緩んだ。
「ああ、想夜さん。本当に息子と思うわよ」
「僕は本当の母さんの事は写真でしか知らない。朧げに覚えているのは大きな影と、寝むくなるような甘い匂い。司祭様とそっくりだよ」
「あなたが私の息子ならもう何も望まない。お願いよ、ここでだけは私だけの子供でいて」
さっきまで抵抗したのが嘘のように抱きしめられた。迫力ある女体で小柄な俺を包み込む。司祭の母性本能が俺を求めた。高鳴る鼓動が頬に伝わる。いつしか胎内に回帰した錯覚に陥って、俺は丸くなっていた。
その後も教祖様の遺品を整理する名目で、俺と司祭は屋根部屋に籠った。彼女は想い出を語りながら、俺に甘えて童心に還る。もちろん俺もしっかり甘える。
彼女の膝枕は最高だった。むっちりした太もも、発達した骨盤、寝心地のいい特大のクッションがそこにあった。修道服の彼女に耳かきをしてもらえば、天にも昇る心地良さ。
粗方整理が終わった頃、油紙に包まれた紙の資料が見つかった。ダンジョンでは電子機材は使えない。アイテムボックスは持っていない人の方が多い。そこで貴重な地図や標本を油紙に包んで保存するのは今でも行われている。照子司祭が真顔になった。
「引越しをする前、これを見せられました。もし私が一流の探索者になれたのなら開けなさいと。恋人がそうなら彼に託しなさいと。中にはダンジョンの秘密があるそうです。私は選ばれませんでした。神に仕えるこの身では、恋人も夫も許されません。私にとって特別な男性はあなただけです。お婆様に似て、優しく強い想夜さん。同じような力を授かったあなたがここへ来たのも、この部屋を見つけたのも、女神さまと教祖様のお導きです。願い、これを受け取って」
照子司祭の告白を受けた。祖母の思いを受け取って欲しいという。俺は司祭の想いを受け取った。
二人で中を検める。そこにはあるパーティが遺した探索の手記が、血に塗れ変色した古紙に綴られていた。彼らが発見した花と蟲の楽園、確認した限りの植生と魔物の分布と習性、戦闘の記録、簡単な手書きの地図などが、極力主観を排して書かれてある。
黒い羽蟲にたかられて跡形もなく消滅した盾役のリーダー、アルラウネに魅入られ、恋人の前で交尾しながら精を吸い尽くされた剣士の若者、食人植物に捕まり、たちまちに老いさらばえた美貌の魔法使い、仲間たちの惨状が淡々と記されてあった。これは後に続く者達への遺書であろう。女神教の教祖は「カエル池」側から亜空間に踏み入れて、ほぼ壊滅しながらも生還したパーティ唯一の生き残りであった。