時刻はそろそろ午後6時、逢魔が刻にかかる時間だ。学内にはほとんど人気もなくなった。俺と小梨利先生の二人だけの教室、先生の補習授業を受けて一緒に時間を過すのは最近の楽しみの一つだ。先生の国語の補習授業は、先のスタンピードの影響と入院で延び延びになっていた。だけど朗読なので今回はレポートだけでは済まされない。補習授業を行うにはちょっと遅いが、今日の時間を指定してきた。俺のために無理して調整したのだろう、気合が入ろうというもの。
スタンピードではいい思いもした。小梨利先生に口移しで水を飲ませた。身持ちの固い先生だから、ファーストキスを奪ったかもしれない。意識朦朧の彼女からは、望まぬ事後が連想された。俺に助けを求める喘ぎ声は、男にやられた法悦のそれだ。恋人との逢瀬を楽しむ気分に浸っている俺に、大丈夫? と心配してくれる。想い人を労わる優しい声にも聞こえる。先生に予習の成果を示してやるか。
俺は「生田川」の出だしからすらすらと朗読する。本は一切見ない。乙女とその母親の掛け合いを、華やいだ声と落ち着いた声、今風の解釈で気持ちを込めての朗読だ。俺の声はソプラノなので女性パートを受け持っても問題がない。
「御上君、凄いわ。まさか台詞を全部暗記しているの。ここまで取り組んでくれるなんて」
俺の『記憶』が大活躍だ。これ位の寸劇なら、集中すれば簡単に暗記できる。おそらく棒読みするだけでも点数は貰えたはずだ。それを承知で教え子が自分のために頑張ってくれる、俺の真面目な授業態度に小梨利先生は感激している。
「先生が配慮してくれるからね。その気持ちに少しでも応えたかった。寝る前や朝起きてから、何回も声に出して読み上げた。今日も応援してくれる。とっても嬉しいよ」
俺は「生田川」の初演の資料に目を通していた。小梨利先生の装いは、ヒロインの衣装を現在風にコーデしたものだ。アップした髪には銀色のヘアピン、薄紫のブラウスと臙脂色の巻きスカート、腰を絞ったベルトには鳥の意匠、胸元の濃い紫と白のネッカチーフが映える。流行とは無縁の古風な色とデザインは、小梨先生によく似合った。俺はその姿をこの目に焼き付ける。ついでに『透視』も使う。今日の先生の下着の色はベージュだ。透けるレースと、教師としては精いっぱいの大胆なカット、嗜みのある装いとの対比がそそる。
「そんなに見ないで。恥ずかしくて立って居られないわ。どうかしたの」
小梨利先生は胸と股間を庇うようにして、もじもじしている。
「平安の乙女が目の前にいる。あんまり綺麗で、興奮して見惚れてしまった。今、目に焼き付けているところ。ありがとう、先生」
『透視』をしたまま、下着姿の先生と話している。今は先生の衣装を鑑賞するという大義名分がある。俺の強烈な魔力が魔眼から漏れて、見透かされるような錯覚に陥るのだろうか。彼女は真っ赤になって尋ねてきた。
「まあ、分かるのね」
先生は俺の理解を深めるために、作品のイメージに沿った服装を選んだと思う。ただ普通の生徒は絶対に気づかない。だけど一番気になる生徒だけは心遣いに気付いてくれた。そしてお世辞ではなく本心から褒めてくれる。報われた小梨利先生は、胸に迫るものがあったのだろう、感極まって泣き出してしまう。ここで泣くのは俺に心を許している証拠でもある。
「二人の心が通じ合っている気がする」
先日から俺と先生の距離は縮まっている。モンスター災害では身を寄せる身体的接触もあった。その時俺は、小梨利先生が心の底から俺を信頼しているのを知った。
「うんっ」
泣き顔の先生は一転して嬉しそうに、少女のように華やいだ。
「朗読は壮士の登場する場面から始めるよ。先生を乙女と思って一生懸命口説くから」
「もう、御上君たらぁ。いいわ、先生が乙女の役を受け持ってあげる」
俺たちは軽口を叩きながら本番に臨む。
「生田川」は鴎内が説話を基に書き上げた短い戯曲だ。壮士が求婚に訪れる。乙女はいつも一羽だけでいる鵠を射抜いたら返答をすると告げる。壮士は見事白鳥を仕留めるが、乙女は突然舞台から消えてしまう。どうしていなくなったのかは示されていない。その解釈は読み手、観客に委ねらせている。俺なりの解釈を壮士の立場になって演じてみよう。
壮士が乙女に求婚する。
「濡れ羽色の御髪、夜の褥に相応しい」
美しい髪に感動して夫婦になりたいと言う。先生の髪も濡れ羽色だ。艶のある黒に紫の、平安貴族の理想の髪。
「花のかんばせ、月の眉」
明るい笑顔に三日月の眉が浮かぶ、太陽と月を合わせた美人だと讃えている。先生も和風美人で、泣いたり笑ったり、陰陽がある。
「婀娜の肩に手折りたい腰」
乙女の華奢な肩が艶っぽく、抱きしめると折れそうな腰。先生もなで肩で、柳腰だ。俺も思い切り抱きしめてみたい。
現代語訳すると、お前は美人でスタイルがいいから俺の女になれだ。
壮士は武闘派だ。優男のように言葉を飾るタイプではない。言葉には乙女への欲望を隠すどころか、恥じる事無く堂々と言い放つ。彼は自分が拒まれるとは思っていない。乙女が自分のものになって当然と思っている。一方乙女は壮士が苦手だ。粗野なふるまい、厭らしい目つき、断ったら何をされるか分からない、恐ろしいので理由をつけて返答を伸ばしている。彼女は風流を好んだ。
俺は壮士になり切って乙女を口説く。朗々とした大きな声、猛々しい響き、敢えて傲慢なイントネーションで小梨利先生の乙女に迫る。
乙女の台詞は抑揚のない棒読みで答える。小梨先生はわざとそうすることで、その気はないのでお引き取りを、伝えている。だが脳筋の壮士には婉曲表現など通用しない。俺は先生の台詞に被せるように続けて、人の話を聞かない男を表現する。乙女の美貌を讃える場面では下品な口調で、先生の躰を舐め回すように視て熱演する。
小梨利先生はたじたじになった。
「ちょっと休ませて。乙女になって口説かれているよう。御上君に本当に襲われそうで怖かった。御上君は壮士とは正反対で、優しくて可愛いのに。あなたはここまで読み込んでいるのね」
「先生は、僕のイメージする乙女にぴったりだったんだ。だから気持ちが入りすぎた、先生ごめん」
俺たちは朗読を再開した。乙女が壮士に出した課題、どんな猟師にも狩られなかった孤高の白鳥を、壮士が黙って差し出す場面だ。驚く乙女だが、一転して壮士の口数が少なくなる。この場面では乙女の方の台詞が多い。乙女は壮士に経過を問うと、三日三晩川原に潜んだと返答される。驚く乙女が更に尋ねるが、壮士は淡々と答えるだけ。誇る事も、謙遜する事もない。乙女は壮士が粗野なだけの人間でないのを知る。この後、突然乙女は消える。
この解釈を巡っては古来より議論されている。説話通りに生田川に身を投げたが大半だが、その理由が不明だ。想像力のない連中は、鴎内は続きを書けずにエタらせたと主張している。嘆かわしい。
ここからの読み合いで、朗読の出来不出来が決まると言っていい。当然読み手、演じ手の感性が試される。先生演じる乙女の問いに俺はすぐには答えない。時間を置いてぼそぼそと読み上げる。驚愕する乙女にも、不思議そうに返答するだけ。ここで小梨利先生は俺の意図を察してくれる。壮士は玉を手中にするのを苦労とは思っていない。それほどまでに乙女を愛し、欲しているのだ。一転して先生は温かみのある物言いで、壮士に語りかける。二人の心は通じ合っていく。
俺の朴訥な返答で、小梨利先生の乙女は、壮士の中の純朴な性格を推し量り、可愛いと思い、こんな男性に想われている自分を誇らしくさえ思ってしまう。壮士の生きる世界は修羅だ。乙女はそれに涙して、自分が彼の光であったと理解する。この後舞台では乙女が消える。これで幕だ。俺が最後に意識したのは壮士の心情を伝えないだ。伝えないで相手の乙女から壮士の心をくみ取らせる、それが真実かどうかは関係ない。乙女から見た壮士は、主観的にどうであったのか、これが俺の回答だった。先生はその意を汲み、自分の想う壮士像を応えてくれた。
朗読に付き合ってくれた小梨利先生の息が荒い。やり切った顔が紅潮している。
「こんなに楽しく授業をやったのは初めてよ」
「それは僕もだよ、ものすごく気持ちが乗った。今日の授業と先生の事、一生忘れないよ」
「みかみくん、みかみくぅ~ん」
先生が感動してまた泣き出した。この先生は涙腺が緩い。俺は少し躊躇してから、先生の頭を優しく撫でる。小さな子供が大きなお姉さんを背伸びしてナデナデする。お姉さんは泣いているが、子供はその理由をもちろん知らない。ただ心配してるよ、という思いだけを伝えてくる。俺は小梨利先生をそういう風に撫でた。先生は大人しく俺にあやされている。伝わる涙を拭おうとする先生を俺は制した。
「僕は前から思っていた。先生の清らかな涙、一度でいいから舐めてみたい。それも僕のために流してくれた涙がいい。今の先生の涙が欲しい」
「あぁ、そんな」
返事を待たずに唇を近づける。真っ赤になって拒もうとする先生だが、俺の一言で受け入れた。
「梅の花の匂いがする」
梅は乙女のイメージフラワーだ。鴎内が指定している。先生はここまで配慮していたのだ。清楚な香りは先生に似合う。俺は先生の肩に軽く手を添えると、頬に流れる涙とその軌跡を、唇で、舌先で拭っていく。未練を残す様にゆっくり舐める。目を閉じた先生の顔は、口が僅かに開いて、綺麗な歯が見えていた。幸せそうで良かった。拭き終わるにつれ、幸せな顔が悲しそうに変わってくる。もう終わりなの、もっと続けて、閉じた瞼でそう訴えてくる。切なくなった俺の中で何かが弾けた。俺に戦場の欲望が蘇る。
先生の半開きの唇を見て思う。壮士ならこんな機会を見逃さない、ライトキスとか軟な事はしないであろう。そう思った瞬間、隙だらけの唇を思い切り奪った。いきなり舌を差し込み、口吻を舐め、唾液を絡ます。思うがまま熱い接吻を先生にそそぐ。先生はキスのやり方も拒み方も知らないように棒立ちになっていた。
「うそ!!!」
我に返った先生が駆けだした。