※この作品はR-18です。

グレーゾーン   作:ヤン・デ・レェ

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プロローグ

 

 

 

レベッカ・リーはアメリカのストリートで育った。

 

ストリートというのはあまり行儀のよろしくないところだ。違法薬物を使った後の注射器がそこら辺に捨ててあったり、娼婦があちこちで客を引いていたり、昼間から奇声をあげる人がいたり…とにかく、そういう理解であっている。

 

専ら、彼女の場合は父親がよろしくなかった。彼女が物心着くまでに一体何があったかは知らないが、彼女の記憶の中にある父親の姿は、常に酒に酔って赤ら顔で、常に何かに憤っていて何事にも愉しまず、実の娘である彼女のことを値踏みする様に、粘つくような目で視る人だった。

 

親子の会話などなく、家に居場所はなかった。彼女が家に寄り付かなくなるのにそうそう時間はかからなかった。

 

中華系アメリカ人の彼女は、整った容姿を持ち、肩にかかる長さの黒髪で、身体能力に恵まれていた。粗暴な言葉遣いも、鋭い目つきや、犬歯を剥き出しにする凶暴な笑みも、どれもこれも生まれたときは持っていなかったものだ。全て後から、必要に応じて身につけたものだった。

 

彼女が生まれ持ったこれらの要素は、普通の社会の中で生きていく分には十分有利に働くものだったが、普通ではない…普通の種類が違う社会で生きていく上では、常に他よりも多くの危険に晒される要素でもあった。

 

身体能力が高いことは彼女が逞しく生き抜く上で大いに助けとなったが、同時に、その運動量を生み出す引き締まって均整のとれた肉体には、ありありと女の魅力が宿ってしまった。望むと望むまいとに関わらず、彼女は何もかもが魅力的だった。

 

日本で言うところの小学校が終わる頃には、彼女はすでに性的な対象として、その無防備な身体を社会に晒さなくてはならなかった。保護する存在はいなかった。自力で護るには、圧倒的に何もかもが足りなかった。

 

彼女には金も、人脈も、経験も、そして暴力もなかった。力がなかった彼女は、語るも悍ましい搾取の対象として、筆舌に尽くし難い苦痛を味わった。

 

帰る場所がない彼女にとって、家とは、ほとんど雨風を凌げる屋根と同義であった。特別な意味を持たず、温度とも明度とも無縁の、素っ気ない記号に過ぎなかった。

 

喰われる側、奪われる側に立ち続けたある日、彼女はついに初めて力を手に入れた。久しぶりに帰った家で、偶然にも父親の銃を見つけたのだ。父親は大きな鼾をかいて寝ていた。すえた臭いのするベッドの側には、空っぽの酒瓶が何本も転がっていた。テレビの明かりだけが、部屋の中を照らしていた。何かの腐ったにおいがしていた。

 

彼女は迷った。迷って…撃たなかった。

 

撃たずに、腹の底が冷える様な、冷たい鉄の塊を汚れたスウェットの中に隠して持ち出した。父親がこの銃だけでも取り戻すには、自分を探さなければならないことを、彼女は漠然と意識していた。

 

そして駆け出した。また、ストリートへ。

 

 

 

 

 

 

あれから何週間経っても、家の前まで行ってみても、銃は彼女の手の中にあった。弾が6発装填されていた。手入れなどされていない、ところどころ錆びたリボルバーが、彼女の手の中で冷たく燻っていた。

 

彼女は白い息を吐きながら歩き始めた。今日はいままでよりも、もっと、ずっと遠い場所へ行こう。そう思った。そう決めたのだ。そして歩き始めてすぐに、切れかかったスプレー缶を吹き付ける様な掠れた音が二度、三度、突き当たりの路地から聞こえてきた。

 

風が運んだ奇妙な音に吸い寄せられて、彼女はなんの気負いもせずに暗い路地を覗き込んだ。常ならばあり得ないほどの無防備さで。無邪気な好奇心に釣られて。

 

プシュ!プシュ!プシュ!

 

また音がした。路地裏には男が二人いた。一人は立っていて、もう一人は倒れていた。灰色のコートを着た男と、ストリートではまず見ない高そうな青のスーツを着た男だった。灰色の男は、長い棒をくっつけた…銃だ。銃を持っていた。自販機で飲み物を買うみたいに、青い男に向けて、躊躇なく引き金が引かれたのを、彼女は見た。青い男が三度身体を揺らした。動かなくなった。灰色の男の靴の音が響いて、帽子の奥の瞳が彼女を見た。

 

あ、と男と彼女の目が合った。

 

「…ヒッ!!」

 

飲み込み損なった息が漏れるや、彼女は咄嗟に駆け出した。少しでも遠くへ行かなくては。ここから離れなくては。彼女はそう考えて、両腕を目一杯に振りながら駆けた。

 

だが、駆け出してすぐに彼女の足は止まる。

 

背後から灰色の腕がヌッと現れて、彼女のことを捕まえてしまったからだ。

 

父親からもされたことがないほどに、ギュッと強く抱きしめられた。捕まってしまった。万事休すか。

 

「…!?」

 

彼女は息を呑んだ。そして、死を覚悟した。

 

相手は十中八九ヒットマンだ。しかもプロの。失敗するだなんてことは万に一つもないだろう。この手から逃れるなんて論外だ。銃に手を伸ばす勇気はなかった。

 

血を流して倒れ伏す人。まだらに壁に飛び散った赤いもの。銃に取り付けたサプレッサーの先から立ち上る煙。

 

それらがありありと思い出された。殺人現場を目撃してしまったのだ、まず間違いなく口封じに殺されるだろう。それだけの理由があった。逆に、男が彼女を殺さないでいてくれる理由なんてどこにもなかった。

 

歯をガチガチと鳴らしながら、彼女は目をギュッと瞑り、その瞬間を待った。

 

どうか一思いにやってくれ。そう祈った。

 

でも、心のどこかで喜んでいる自分がいたことを、この時の彼女は気が付かなかった。

 

あぁ、もういいんだ。ここまでなんだ。死にたくない。死にたくないけれど、生きていくのは大変だ。苦しいんだ。痛いんだ。辛いんだ。何も楽しいことなんかなかった。だから、もうここいらで、楽になれるのかな。

 

頭の片隅では、そんな寂しいことを考えていた。それは余りにも寂しいことだった。

 

片隅に押し込められた寂しいことが、表情には浮かんでいたようで、彼女は笑った時みたいに体を震わせた。口角も不恰好に上がってしまって、泣き笑いの様になった。顔が歪んで、あちこちに皺が寄った。

 

しわくちゃの顔の中に浮かんだ、安堵と怯えの混じった、僅かな笑みが、頬でうずくまる靨に現れていた。

 

男は何もせずにじっと彼女を見つめていた。

 

 

 

終わりに備えてじっとしていた彼女の元に、いつまで経っても死は訪れなかった。

 

叫びもせず、喉を鳴らして、恐る恐る振り返ると、そこには思いの外、優しげで穏やかな瞳をした男の顔があった。

 

男は眉尻を垂らすと、彼女に申し訳なさそうな表情を見せて小さく頭を下げた。

 

どうか内緒にしてくれないか。

 

それが男の言い分だった。はっきり聞こえた。間違いない。

 

「ははは…」

 

彼女の喉から掠れた笑い声が漏れた。選択肢など初めからないのに、それでも頼み込んでくる男が滑稽に見えたからだ。馬鹿にしているのかと思った。でも、どうにも現実に男は真剣そうな面持ちだ。自分が頷くまで梃子でも動かないぞと言う、どっしりとした存在感があった。彼女は笑った。自分の無力さも、滑稽だった。全部全部馬鹿馬鹿しくて、怖がっていることも可笑しく思えた。あまりにも滑稽で、場違いに神妙な男の様子に、彼女は笑うしかなかった。

 

「いいぜ、ただし条件がある」

 

彼女はもう何も怖くないとでも言うように、男の腕の中で身を捩り、膨らみかけの胸を張った。少しタバコ臭い息を脇に吐き捨ててから、男の鼻先に触れるほど近く、顔を近づけて言った。

 

「あたし、腹ぁ減ってんだ、あと、さ、泊まるとこ」

 

ぶつ切りで言葉が飛び出した。自分でも、どんな言葉が飛び出すかなんて思いもよらなかった。そして、思った通りに、素直すぎる言葉が出た。泣き出しそうだった。恥ずかしくて。情けなくて。なんだか、すっきりして。それで。

 

男の返答を待つ間、緊張で腹がグラグラ煮えた。喉が渇いていた。手汗もじっとりかいていた。

 

君がそれでいいのなら、と男は頷いた。

 

安堵。脱力。思わず男に寄りかかる。男は力を抜かずに、しっかりと彼女のことを受け止めてくれた。ふと、男の背中に腕を回しているのに気がついて、急いで離す。手持ち無沙汰になって、男の腕の中から這い出ようとして、そんな気力がどこにもないことに気づいた。汗でびっしょりの体に、冷たい風が吹きつけた。腕を元に戻した。首を、薄いフードの中に埋めるものの、寒さは強まるばかりだった。芯まで凍える寸前に、彼女の首にマフラーが巻かれた。

 

気づかなくって悪かった、とでも言う様に男は口を引きしばって、眉根を寄せていた。その表情を可愛いと思ったのは勘違いか。変なの、彼女は素直にそう思えた。

 

マフラーは暖かかった。上質な分厚い生地の奥で、男の体温と匂いが篭っていたから。彼女は鼻先を埋めた。鼻がおかしくなったのかと思うほど、優しい匂いがした。こう言う匂いを、お日様の匂いと呼ぶのだろうか。彼女は照れ隠しに、男に背を向けた。首から上が温まって、熱を帯びた体。頬には朱が差していただろう。

 

さあ、と男が黙って手を差し出した。

 

カーキ色に染められた革手袋は、いつの間にかコートのポケットに仕舞われていた。握る。指先が冷たかった。少し汗ばんでもいた。彼女の手の方が暖かいくらいだった。握る。力を込めてみると、男の方からも握り返してきた。負けじと握る。彼女の手にも汗が滲んだ。

 

風邪を引く前に行こう、と男が歩み始めた。

 

連れられて、彼女もついていく。辿々しい歩みに男が寄り添ってくれたことを、この日の彼女は気づかなかった。

 

これはもしかしなくても誘拐というやつだろう。彼女は薄っすらとした知識から、日頃は使わない様なむつかしい言葉を持ち出した。これは犯罪だ。悪いことだ。悪い奴に、あたしは拐かされてしまったんだ、と。

 

さらわれていく自分を、どこか俯瞰的に見ながらも彼女は家のことを考えていた。雨風を凌ぐための屋根を除けば、彼女にとっての家とは、自分が生まれ育った家以外になかった。彼女は男に手を引かれながら、その家で今も暮らしているだろう、憎たらしい男のことを思い浮かべていた。

 

…もしかしたら、いなくなった自分のことを父親が警察に届け出るかもしれない。けれど、警官なんか当てにはならないことを、彼女は身をもって知っていた。

 

だから、もしも彼女を探すには、父親自身が駆けずり回る必要があるだろう。なんてことを、この時の彼女は胸の何処かに留めていた。

 

そして、件の男が彼女を探すことはなく、彼女が彼女の生まれ育った場所に戻ることは、この日以来二度と訪れることはなかったのである。

 

 

 

 

 

 

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